魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ゆく春に

2024年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

薄雲に君忘れじの花一つ

ひさかたの薄雲かおる葉桜に春をとどめん一輪の花

街に出ると、桜はもう葉桜になって初夏の陽が差し始めていた。

・・・・・・
『港が見える丘』
あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色褪せた桜唯一つ
寂しく咲いていた
船の汽笛咽 (むせ)び泣けば
チラリホラリと花片 (はなびら)
あなたと私に降りかかる
春の午後でした

あなたと別れたあの夜は
港が暗い夜
青白い灯り唯一つ
桜を照らしてた
船の汽笛消えてゆけば
チラリチラリと花片
泪の雫できらめいた
霧の夜でした

あなたを想うて来る丘は
港が見える丘
葉桜をそよろ訪れる
潮風浜の風
船の汽笛遠く聞いて
ウツラトロリと見る夢
あなたの口許あの笑顔
淡い夢でした
・・・・・・

近年、桜歌が洪水のように生まれたが、戦後育ちにはなんと言ってもこの『港が見える丘』が一番だ。それまで「貴様と俺とは同期の桜・・・見事散りましょ国のため」と歌っていたのだから、このスイング歌謡で、世の中は変わった。『東京ブギウギ』の3ヶ月後、桜に合わせて出したのだろう。4月発売だから、始めから葉桜を狙っていたものと思われる。
同じくこの1947年、坂口安吾の『桜の森の満開の下』も発表され、全きものへの拒否感が語られているから、葉桜に見る郷愁や安心感が、日本人のわびさびに沁みたのだろう。
美しき皇国史観の夢破れた思いを断ち切る『東京ブギウギ』の一方で、心のやり場を与えてくれた歌『港が見える丘』の最後は、「淡い夢でした」と嘆息する。

これから4年後の『上海帰りのリル』は、まだ、一日中「尋ね人」が放送される中で、断ち切りがたい過ぎ去りし日への思いを歌い、
翌1952年のNHK連続ドラマ『君の名は』の冒頭では、「忘却とは忘れ去ることなり。 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」と語りかける。
敗戦、占領下の日本人の心の葛藤を最も慰めてくれた歌は、『港が見える丘』ではなかろうか。


無為無策

2024年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

語弊を承知で言えば、ぶっちゃけ、多少の政治モラルなどどうでも良い、国民を元気にする政治に命を賭けて欲しい。
与党も野党も愚にも付かない不毛なカラ騒ぎを繰り返すだけで、国民を考えているとは到底、思えない。彼らにビジョンや情熱は無く、政治を飯の種にしている。政治は私財も命をも投げうつ戦いだ。きれい事の伝説だけが残る戦国武将や維新の志士の日常は、品や美しさとはほど遠い、極論すれば盗賊集団やヤクザのような凄まじい熱気で動いていた。当然、金や色や言動はデタラメだ。

災害、エネルギー、外圧、農業、過疎、人材・・・解決しなければならない問題の山の前で、手違いレベルの不正で大騒ぎし、政争を戦いだと思い込んでいる。野党がだらしないから自民党政権が続くと言われるが、無能与党の野党なら、それ以上に無能なわけで、ミスを荒立てて騒ぐほかにすることもなく、しかも、それがまかり通る泰平の日本なのだから、どこにも希望がない。
政治を政争儀式と考える平安朝の王権が、選挙の得票率になっただけの「政(まつりごと)」を目的化した連中が、お祭り騒ぎをしているだけの茶番に、国民は慣らされ、怒り、喜び、失望し、それでも納税している。
ドラマや舞台を観ているだけが政治だと思わされているから、選挙という拍手やブーイングで参加している気になっている。面白くなければ棄権して出て行くが、会場から出ても、自分たちでもっと面白い見世物を始めようとも思わない。

結局、アメリカの冊封国に埋没し、役者も観客も、独立国とは何かを忘れてしまっているから、誰も芝居小屋をたたき壊さない。いや、たたき壊す必要はない。芝居小屋の前で、新しい芝居を始めて客を集め、最終的に芝居小屋を乗っ取れば良いのだ。

新しいビジョン、新しい政策、新しい公約を掲げ、ネット上で選挙をし、サイバーシャドー政権を起て、常に代替案を打ち出す。
未だに「ネット投票」もせずに、国民の税金を湯水のように使いながら、政治には金が掛かるなどと本気で妄言を繰り返し、どちらが正しく使っているかを論う政治寄生虫に対し、若い世代が中心になって、金とは一切関係ないサイバー政治を提示して、政治家の無能を白日の下にさらせば良い。これはおもしろ半分でも充分意味がある。

批判し甲斐のない今の政治には、もううんざりだ。ネットの世界に生きている若者が中心になって、サイバーから始め、リアル民主独立国を建国する日は来ないものだろうか。


別の次元

2024年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム

4月3日、台湾でM7.7の大きな地震があった。2時間後、正月のM7.6から余震が続く能登でもM3.4があった。
プレートの交差する日本や台湾は、同じ環境に置かれている。一方で、中国共産党は、放っておけば、ユーラシアプレートは自国領とまで言い出しかねない勢いだ。恐らく、彼らの適当な感覚では、日本も中国領だろう。
中国の言う台湾は歴史時代の話だとしても、せいぜい大航海時代以降だ。それまでは環太平洋の黒潮文化圏として、台湾は中国よりはるかに日本と縁が深い。

沖縄の言葉は日本語の古語であり、その沖縄と台湾は至近距離で自由に行き来していた。近代、清によって支配されてから中国語が主言語になっているが、それ以前は違う言語を話していたはずだ。中国は日清戦争で台湾を日本に奪われたと思っているが、そもそも台湾は彼らが奪ったもので、それまで中国は周辺の島国には関心がなく、邪馬台国論争もその無関心が一因だ。
日本や台湾を含め、近代国家以前の環太平洋は、大陸とは別の大きな海洋文化圏を成しており、言語、食べ物、衣服、漁、航海術、交易・・・と、日本文化の隠れたバックボーンには、海洋がある。

アメリカに併合される前、日本を頼ったハワイの王に、日本は何もできなかった。今、台湾を自国と主張する中国共産党の札束攻勢によって、太平洋の島国は浸食されつつある。日本もそうであるように、環太平洋の島々は渡来者に寛容だ。海を越えてきた希人を歓迎し、新しい文化やDNAを取り入れた。ただ、それは少人数の場合で、大量に押し寄せられると、間単に亡んでしまう。環太平洋アメリカ大陸のピュアーな先住文化は一瞬で亡んだ。弥生時代の渡来人は恐らく、時間を掛けて五月雨的に来たことで、日本はどうにか融合できたのだろう。

ローカル連合
大量に押し寄せる大陸族の前に、太平洋上の海洋民はもろいが、海洋には海洋の暮らし向きがある。環太平洋の結束を高めなければ、海洋文化は亡んでしまう。「大航海時代」とは大陸側の視点であり、現代の国家や国連はその結果だ。
環太平洋の民族文化を守る為には、国家の枠組みを超えて、ハワイや台湾、欧米領の島々などが連携し、島単位の環太平洋広域文化連合が必要だ。もちろん日本列島もそれに属する。

単なるフォーラムやカンファレンスではなく、ASEANのような国家連合でもない地域連携だ。野心に穢れた国連の承認争いから離れた、海洋文化圏の超国家組織によって、海洋の強固な経済共同体を形成し、ゆくゆくは海洋治安協力から、EUのようなPIU(The Pacific Islanders Union)にまで進化させてはどうか。
始まりが島嶼ローカル連合であれば、ハワイや台湾も、アメリカや中国に遠慮することはない。日本も知事会などの立場で参加し、国連に対する地方分権を推し進める。
ネットワーク化する世界に、近現代国家は無用の長物であり、戦争以外にすることがない。グローバル企業の存在の中で、個人や地域の連携が新しい時代を画していく。
近代以後、欧米も日本も中世的な地元である「お国」が無くなったが、暴力組織の近代国家が崩れつつある今、個を基本とするネットワーク組織、新時代のローカルが生まれてくれば、やがて、国家による愚かな戦争が消えていく。

ベトナム戦争時の徴兵拒否から、ウクライナ戦争の国外逃亡、そしてイスラエルに対するアメリカからの批判・・・若者の目は、暴力国家の論理から人類、ガイアの視点に移りつつある。現在のロシアや中国共産党の極端な時代錯誤は、必然的に自滅する。
その過程の大きな座屈衝撃を緩和する為にも、個人や地域、テーマ別の連携が迫られている。
→「小さな舟」20111007


若者万歳

2024年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

PCが不調なので大型家電に見に行った。パソコン売り場で見ていると、後ろから若い店員が声を掛けてきたので、AMDとIntelの性能比較を訊いたら、適当なことを言いながら「一度もパソコンは使ったことはないですけどね」と言う。言葉を失い、「スマホ世代ですか」と、訊くともなくつぶやいた。
声を掛けてきてそれは無いだろう!?

店舗で声を掛けられるのが嫌いで、普通は店員の近づく気配を感じたらサッと逃げる。訊きたい時は自分から声を掛けるのだから放っておいて欲しい。
後ろから来られたので不覚を取ったが、声を掛けた上に、自分では言い訳のつもりなのだろうが、「今時パソコンなんか使っているの?」と言わんばかりの、客を愚弄する態度。
空気や立場を知らない。これがZ世代だ!と感動し、店を出ながら思わず笑い声を漏らしそうになった。日本の未来は明るい、ガラスの床も抜けるかも知れない。
Z世代。大好きです


川勝人足

2024年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川
江戸時代の「大井の渡し」は「川越人足」とも呼ばれる独占ビジネスで、川越人足が法外な料金を要求したりするので、幕府が制度を改めたと言われる。
政府が見て見ぬふりをしている川勝知事の法外な要求のため、リニアモーターカーは遂に予定を断念した。
やはり、「越すに越されぬ大井川」か、川に勝つ人には負けるのか
→「24問題 3」20230502


猿蟹合戦

2024年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム

物心ついた時から「植民地」という言葉を聞いているので、改めて植民地とは何かと考えることはなかった。
単純に、他の地域を力で支配し収奪するもののようなイメージがあり、植民地化された人々は一方的に苦しむように思っていた。もちろんこれは非常に単純な図式で、収奪搾取される側が苦しむどころか、快感と喜びを感じている場合もあることが、段々分かってきた。

しかし、当人が苦しみを感じていなければ、搾取ではないのかと言えば、そうでもない。取引は双方が納得するから成り立つ。取引は痛み分けなので、本当は双方とも不満だ。できるなら何も渡さずに相手の持っている物が欲しいはずだが、人間は共存のための交換を知っている。
だから、ある程度の損は当前と知っているので、その度合いが公平だと思えば納得する。したがって、考え方一つで、損な取引とも良い取引とも感じる。初めは喜んだ取引でも、慣れや飽きで、段々不公平だと思い出すのが人情だ。だから、新発売の商品は高く売り、徐々に値下げする。契約を盾に、最初のままの値段を続けると必ずトラブルになる。

サルカニ合戦
サルカニ合戦の、おにぎりと柿の種の交換は、その時点では公平だ。夢と現実を交換したので、双方に価値があった。問題は、成った柿をサルが一方的に奪ったことにあるが、このようなあからさまな強奪は侵略戦争であり、実際の殖民地では起きない。
サルはカニを納得させ8割の柿と交換するために、今度は桃の種を持ってくる。恩着せがましいサルに、カニは感謝しながら果物を提供し続ける。このような取引は自然界にも多く見られるが、次元を替えて観ると必ず何らかのバランスがとれている。

やがて、カニの庭は豊かな果樹園になり、サルがいつまでも新しい種を持ってくることができなくなると、種の要らなくなったカニはサルが不要になり、8割も取られていたのは欺されていたのだと怒り出す。つまり、今と比べ、発売時の高い値段はケシカランと思う。
サルがどういう魂胆であっても、カニが欺されていたとしても、カニが豊かになったことは事実なのだが、「欺された」と思い込んだカニは悔しい。自分がバカだったとは思いたくないから、サルを悪者にしたい。今度はサルを欺して仇を取れば、自分がバカではないことが証明される。

カニの仇討ち
中国は欧米や日本の手口や優越感を逆手にとって、どうぞ、うちの空き地に種を蒔いて下さいとニコニコもみ手で招待し、果樹が育つと突然、これはうちの土地のものだ。泥棒は出て行けと柵を張った。まさに、カニの仇討ちだ。
中国がこの知恵を学んだのは、韓国からだろう。中国は元々、柿の種の「取引」を拒否したから、国土を蹂躙され荒廃し、カニのように柿の木を育てることができなかった。その間に周辺アジアは欧米殖民地として文明化し、ことに、日米と直接関わった韓国は柿の種で豊かになった。

これを見て、取りあえず「拒否」を止め、「魂胆」で対抗して大成功した。中国と韓国の違うところは、「された」と「した」の違いだ。韓国は無自覚不本意に文明化「された」が、中国は自分の意志で土俵を造り相撲興行を「した」。
だから、不本意な韓国はどんな結果であっても他者を恨むが、意志的な中国は恨まない。むしろ「してやったり」と、得意になって他者をナメてかかる。そして、周辺の「される」国々に対し、自分が「して」やるサルになろうと動き出した。問題は、下請けの果樹園で大きくなった中国には、目新しい「種」がないことだ。
一方、恨みながらも葛のように日米に深く関わっている韓国は、種がなくても自由に往来できる。

中国の逆襲に、アメリカは直ちに物流の出入りに壁を作り、国内に浸透する情報の血流「TikTok」の活動を駆除するために企業売却を迫っている。これはいかにもサル帝国のボスザルらしい君臨法なのだが、見習いザルの日本は、ありがたくボスザルのIT企業を受け入れただけではなく、実害の出ている「LINE」でさえ何の手立ても施さず公共の柱にしている。
現代の殖民地は物の売買ではなく情報の売買であることを知らないまま、復讐心を秘めた若ザルの、オモチャのカニになっている。消耗品の情報では果樹園は生まれない。


サケサケ

2024年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム

まだ春分ではないのだが、16日は京都の「日の出、日の入り」が午前午後とも、揃って6:06時になった。太陽の大きさと角度のせいで、少し早めに春気分にしてくれるらしい。
三寒四温の頃は、何を着て良いのやらとみな口々に言い交わす。
関西に春を告げる東大寺の「お水取り」ではあるが、26日の「比良八講荒れじまい」までは気を抜けない。

一年は一日に例えられる。現代人は24時間に慣れてしまったが、本来は一日12分割で、2時間を一時としていた。
実際、何をするにも2時間は丁度いい時間だ。観光名所や美術館など、2時間を目安にすると、充実感があり、しかも疲れない。講座や講義も90分と前後15分の切り替え時間で調う。同様に映画や、サッカーなどの競技も大体2時間を目安にしている。
マラソンの記録も約2時間だが、一般人はその倍ぐらいだから、補水などは必須条件だ。
24時間社会ではあるが、人の体内時計はやはり2時間単位で動いている。一日は12分割がやっぱり丁度いい。

暦は、一年12ヶ月を12支で表し、それに干を加えた60月干支が5年で一循環する。この5年を12回繰り返すと還暦60年になる。
この年月の関係と同様に、一日を12時12支で分割すると、60干支時が5日で循環し、その12倍が60日となり約2ヶ月になる。一年はこれが6回あるから四季の狭間に半分=1ヶ月ずつ加え、季節の緩衝期として土用を入れた。

このように、一年を一日とみなすと今頃はちょうど、目は覚めたけれど、布団から出るか出ないかウダウダと迷っているような時間に当たる。こうしていれば気持ちいいけど、外は明るいし、早く支度しなければどんどん遅れてしまう。
エイッと飛び出したら、寒いッ!
でも、出たら出たで気持ちがいい。解っているけど、めんどくさい、ああ、何だかなあ・・・サケ、サケ、桜


鼻の漫豪

2024年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

鳥山明がなくなった。氏のデビュー頃から、日本のマンガ文化の絶頂期が始まったと言えるだろう。マンガで育った世代ながら、この頃からマンガもアニメもあまり熱心に読まなくなった。

よく解らないが、70年代以前が万葉集時代だとすれば、80年代以後は古今集の時代のような気がする。マンガ万葉集時代は成長期で、あらゆる方法が試され、決して、美しくはなかったが、何でもありの高揚感があった。次々と現れる手法そのものに驚き、興奮し魅了された。
ところが、少女マンガの隆盛とともに、画風も手法も完成し様式化し、語法よりもストーリーや語り口が注目されるようになってきた。平安の国風文化のように、世界に比類無き日本文化が完成し、鳥山明もまさにその象徴のような存在だった。

今では素晴らしいと思うが、初めてアラレちゃんを見た時は、強烈な拒否感があった。つまりはそれが個性なのだが、それ以前のマンガが何とか生命描写を試みているのに対し、完全に居直った無機質のピクトグラムのような人物画だった。
しかし、それが訴求力であることもまた理解できた。要するに、ある種の革命に対する衝撃だった。鳥山明は牡羊座で人生の目的は天秤座の”美”だが、結局は牡羊座の”戦い”『ドラゴンボール』で名を残すことになった。

世代交代がおこると、アニメ界でも初めは生命感で描いていた宮崎駿のような人も、様式化していった。そして、少女マンガの美しい様式美が、真逆ではあるが、引目鉤鼻のように何十年か続いてきた。この流れで言えば、進撃の巨人やキングダムは、いよいよ鎌倉美術のような変質が始まっているのかも知れない。

作家の体力
マンガ万葉集時代の聖である手塚治虫も、古今集時代の六歌仙の鳥山明も、鼻に特徴がある。丸くズッシリと存在感があり、アニメの新海誠もこれに類する。作家では松本清張も同類だ。鼻の大きさは自我の強さに比例するが、尖った鼻はアイデアをすぐ口に出すので小賢しさが目立つ。丸い鼻は口ではなく手で語る。作家向きだ。
鼻の大きさは体力も表すので、本来なら長生きだが、人気漫画家、漫豪は追われて絵を描く分だけ、文豪より体力消耗が激しいのだろう。
手塚治虫60歳、鳥山明68歳。松本清張は82歳だったが何もしなければもっと長生きしただろうが、あの鼻ではジッとしてはいられなかったのだろう。


残り時間

2024年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカ大統領選は、再び老人対決だ。何故だろう?
オバマ大統領を除けば、アメリカ大統領は1946年以前の生まれであり、生い立ちから戦前の価値観、大戦の記憶をそのまま継承している世代だ。
唯一例外のオバマ大統領は、キャッチフレーズや人気とは裏腹に、中途半端な負の遺産ばかりを残した。

第二次世界大戦から80年近くなり、この中で人生を終えた人も多いが、政治や外交は古典的な論理のままなのではなかろうか。
戦後新世代のオバマ大統領の業績は言葉だけだった。平和や夢を語れるのは、安定平和があってこそで、砲弾の下で平和や夢に耳を貸す人はいない。結局、理想が平和を生んだことなどない。
第一次大戦後の戦間期にも、国際連盟など、様々な国際平和を願う動きが花開いたが、第二次大戦が始まると、音もなく霧散した。

戦後も、アメリカは常に戦争を続けてきた。戦争の現実を仕切れるのは、戦争の怖さを知る世代と言うことだろう。戦争を知らない世代こそが大戦争を生む。ヒトラーを支持したのは若者だった。
大戦後のアメリカの戦争は、大戦を知る世代が仕切ったガス抜き戦争だったのではないか。ベトナム戦争にしても拡大するつもりが無かったから、敗北で終わった。
産業革命パラダイムには恐慌と戦争が欠かせない。もしかすると、ガス抜き戦争で経済バランスを保ってきたのが1946年以前の世代なのではないか。

もしこのまま、産業革命パラダイムが続き、戦争の現実を知らない世代が世界を動かせば自動的に終焉戦争が起こる。既に、アメリカ以外の主要国は大戦を知らない世代が動かしている。戦争の記憶を留める世代は近日中にいなくなる。
世界大戦を知らない世代が生きていくためには、産業革命パラダイムそのものを終わらせなければならない。オバマ以後の志向する環境や平和は、第一次大戦の戦間期に花開いた運動と同じで、大戦争が無い平和の上で見る夢だ。
そうした夢は、結局の所、産業革命の宿命を断ち切らない限り実現しない。しかし、数世紀にわたり続けてきた成長思考から脱却できるほど、人類は賢くなっていない。

老人がいなくなる前に、産業革命パラダイムの成長思考を打ち破る、世界的なルネッサンスを起こさなければ人類は破滅する。アメリカの老人対決は、その最後の時間稼ぎだ。残された時間はわずかしかない。一瞬で情報が世界に届く時代であることに、わずかな望みを託したい。


本来の姿 3

2024年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

日本、またも最下位圏。「女性の働きやすさ」について、英国経済誌「エコノミスト」が採点してくれた。
企業管理職の女性の割合、衆議院の女性議員の割合等が低いことが大きな理由となっている。
これらの割合が100%女性でも良い、あるいはその方が良いとも思っているが、何故、日本は少ないのかについての分析もなく、自分たちに都合の良い数値だけを取り上げてランキング付けするのには吐き気がする。
家計の決定権を誰が持っているのかの世界ランキングなど見たこともない。

自分たちの価値観で数値を挙げて説教する、欧米式の優越主義。まさに異端を排斥する一神教の独善であり、こんな薄っぺらな認識で国際的な組織は動いている。そして、それに追随するからバカにされる。最も単純であからさまなのが、スポーツのルールだが、様々な国際動向も実は大差ない。
中東の混乱は一体、誰の責任なのか。ウクライナ戦争はプーチンだけが悪いのか。

中国共産党が、欧米の文化を軽薄と蔑むのは、欧米人自身の堅苦しさからの解放が、放埒に見えるからだ。元来、寒い国の欧米人は東洋人より偏狭で堅苦しい。
しかし、そう観る中国は、古代日本に来て男女が共に酒席で楽しんでいるのを野蛮と蔑んだ。そして、今日に到るまで男尊女卑の価値観は変わっていない。
とことん男社会の中国や、女が男の肋骨から作られて始まった一神教の欧米の「女性解放」と、海洋国日本の平等は意味もプロセスも同じではない。欧米が苦しんで求めるジェンダー平等は、日本人にとってはただの回帰であり、原点が違う。

中華風に洗脳され、日本人がすっかり忘れている蓬莱の島の楽園を思い起こすだけで道は開ける。千五百年続けた立前の男尊女卑の裏で、卑弥呼の時代の女性崇拝は生き続けている。海洋民族日本の片鱗を残しているのは、ノロやユタなどが残り「おばあ」が信頼される沖縄であり、離婚率がダントツの一位であることは、欧米式の婚姻に支配されていない海洋民族本来の母系が生きている証でもある。

ケンミンショーで沖縄の文化に驚いたり呆れたりする日本人は、本当の自分に気づいていない。家計を妻に任せ、人生の岐路に妻や母に相談したり、妻を怖がる男性こそが、心の古層に、武士道などではない本当の「日本男児」を秘めている。
近年流行の「君を守る」とは、牧畜民的な欧米感覚の言葉であり、飼い主が家畜を守るように、神が人間を管理する感覚に通じる。欧米では男が女子供を守るものだが、海洋民族の女は自立しているので、結婚して男に守ってもらうものではない。男は勝手に寄ってきたり離れていったりする蝶のようなものだ。環太平洋アジアでは、混乱期になると、女が商売を始める。近頃は結局、「君を守る」は女性の常套句になってきた。

→「本来の姿 1


現代史劇

2024年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム

これまで朝ドラをまともに観たことがない。マメに毎日観るような正しい生活をしていないこともあるが、面白そうだと思って観始めても、結局は丸く収まる流れになったり、反モラル的な視点は敵役でしかなく扁平だ・・・と、感じて止めてしまう。
今回の『ブギウギ』は途中から観始めたが、飽きない。世相と歌が濃厚に絡み、流行歌本来の姿を直接感じられるからかも知れない。

「歌は世につれ世は歌につれ」の「世は歌につれ」の部分に、多くのステージ場面で引き込まれる。
俳優が演じる歌手が、「本気」で上手い。しかも、彼らは役者であることに徹している。
歌手の演じる芝居や、役者が出すレコードなどいくらでもあったが、その何れでもなくドラマをやっている。単なる劇中歌ではなく歌手に成り切っている。
これはかつて無い種類の成功例ではないだろうか。
「歌は語れ、台詞は歌え」と言われるが、このドラマはミュージカルではなく「ドラマは歌え」の新境地だろう。

おそらく、映画『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』(2007仏)等をたたき台にしたのだろうが、よくぞ、朝ドラに落とし込んだものだと感心する。『エール』でこの方法に目覚めたのかも知れない。
これは総集編とは別に、ステージ中心の2時間ドラマを別に再構成して欲しい。
いや、それより、日本歌謡曲史を大河ドラマにして、戦前戦後の歌手、作曲家、レコード会社、興行会社の興亡を映し出せば、戦国や幕末物に匹敵するものになる。
現代劇の『いだてん』は不評だったが、スポーツは世界が狭く、まして戦前では感心の持ちようがない。それに比べ、歌謡曲は誰でもどこかで知っており、世界が広く、その逸話なら誰でも間単に入り込める。しかも、関係者の栄枯盛衰で現代史を語れる。

『ブギウギ』の成功は、土星が魚座に来たことにある。魚座の「流行歌」が土星の「過去」に彩られる現象で、魚座・土星は既に1年経過し、2025年春までなので大河には間に合わないが、天王星が双子座に入れば、テレビの革新が起き、紅白や大河などの存在やあり方が変わる。時代劇ドラマから、ドキュメント主体のドラマに変わる目もありそうだ。と言うか、戦中戦後も既に、維新に並ぶ歴史になったと言うことだろう。


おにぎり

2024年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

小学校のとき、教室の後ろには歴史年表が貼ってあった。その平安時代の中頃に「おにぎりの発明」と大きく書いてあり、不思議な気がした。大雑把な年表の中にわざわざ書き入れるほどのことなのだろうか。
ずっと不思議だったが、中学の古典で伊勢物語に「乾飯の上に涙落として、ほとびにけり」の一文があり、おにぎりが現れるまでの携帯食事情を知った。おにぎりが日本人の暮らしを大きく変えたであろう事が理解でき、確かに特筆すべき事件だとわかった。
同時に、おにぎりが出てくる物語は平安後期以後だとも知ることになった。

近年、日本人の食事情が変わり、米や日本酒の売り上げが激減している。一方ではおにぎりがブームで、外国でも日本酒に加え、おにぎりまでがブームなのだそうだ。おにぎりも様々なバリエエーションが生まれ、今や、スシのカリフォルニアロールなみに多彩化している。
しかし元々は、中に空気を入れるフンワリ型のコンビニおにぎりが牽引したものだった。その場でにぎるおにぎり専門店も、固くにぎらないことをウリにしている。
確かにそれはそれで、米のうま味を味わうことができ美味しいのだが、「おむすびころりん」のおむすびではない。

元来、おにぎりの目的は携帯食であり、崩れないことが身上だから、文字通り固めににぎる「お結び」だ。伝統的なお母さんのおにぎりは固いから、柔らかいコンビニおにぎりに慣れた子供は嫌がり、今や、柔らかいおにぎりが主流になった。
しかし、空腹の時、かじりついて食べる大きめの塩おにぎりの美味さを知らないとすれば可愛そうだ。
携帯食のおにぎりは冷えたままで食べる。機械成型のコンビニおにぎりは表面まで隙間を残し、中まで水分が飛ぶせいか、幾分パラパラ感があり、そこはかとなく味気ない。やはり電子レンジ時代の食べ物だろう。

これに比べ、塩で表面を固めたおにぎりにはパラパラ感がないから、かじりついた瞬間、口の中に米の味が広がる。ただし、これも程度問題で、表面の塩コーティングの中には米粒感が残っていなければならない。しっかり、ガッチリにぎれば良いというものではない。
アツアツのご飯を、なるべく手早に形を整えることで、熱くて握りきれないから、中はほどほどに米粒状になる。この力の落差を付けるためにも大きめの方が良いが、爆弾と称するボールおにぎりは大き過ぎて、具が無ければ米だけ食べることになる。
アツアツで食べられる文明環境ではフンワリおにぎりが美味しいが、サバイバル環境には堅塩お結びを持って行きたい。

おにぎりが美味しいのは「うるち米」だからで、世界の大半は「インディカ米」だから、栄養価は高いがフンワリもちもち食感がなく、うま味を噛みしめられない。
インディカ米をおにぎりにしても、コンビニおにぎりよりパラパラで、味気なく、かじり付いて涙が出ることはない。
日本のおにぎりで、うるち米の美味さがバレたら、世界の米事情が変わるかも知れない。魚を食べなくなった日本人を尻目に、爆食する中国のためサンマやマグロが食べられなくなったことを思えば、イヤな予感がするが、魚の養殖は難しいとしても、米はもともと栽培するものだから、トレンドが変わるだけで絶対量が無くなるわけではない。
心配しなければならないのは、温暖化による、日照りや、味の劣化だろう。


本来の姿 2

2024年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ハワイや南洋の島に布教に来たキリスト教宣教師は、裸の胸を隠すように命じた。明治政府は欧米に認められるため、「文明開化」と称して、混浴や公での和服など様々な風習を禁止した。さらに、琉球処分の後、明治政府に送り込まれた教育指導の教師は、古来の風習どころか言葉まで禁じた。
そして、敗戦後の日本人は欧米文化に洗脳され、人前での授乳や、庭先での行水を恥ずべきものと信じるようになった。

日本のこうした変化は、すべて明治以降に起こったことであり、婚姻・戸籍制度など、自民党議員殿の信じる国風や国柄とは、明治政府による欧米崇拝によって形成された試行錯誤、一時の「気の迷い」に過ぎない。
明治以降150年の試行「錯誤」を直視し、良いところだけを残して、また本来の日本人の生き方で歩み始めても良いのではないか。

90代の沖縄生まれの「おばあ」に昔話を聞いた。小学校を終えると若者は浜辺などで恋の出逢いに集ったという。星あかりが海に映えて美しく、月夜は真昼のようで明るすぎたと青春時代を偲んでいた。
この話を聞きながら、東南アジアから環太平洋全域に広がる歌垣や、日本の古典に垣間見える恋の出逢いを思い、胸が熱くなった。今も沖縄の出生率は高い。
明治の日本教育、殊に戦前は、こういうことを野蛮、はしたないとすべて禁じたのだ。キリスト教の神による承認を男女関係の条件とする一夫一婦の価値観に、武士の「家」を合わせた夫婦同姓は、まさに外来種であり、これを「国柄」だと信じ込んでいる人々は「ボーボー」と自己主張する外来種のウシガエルそのものだ。

→「本来の姿3
→「本来の姿1


本来の姿 1

2024年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

夫婦別姓を否定する自民党には、自分自身は使い分けている女性議員がいる。
これを指摘すれば、何とでも言い訳するのだろうが、笑えるほど「いやらしい」。
近頃、スカート内を盗撮する警官が頻繁に検挙されるが、聖人君子の立場で働く警官は、どうしても本音が溜まってしまう。昔から、わいせつを取り締まる人には、陳腐なわいせつ基準があって、美術館の裸体画に布を掛けて隠した話は有名だが、今でも似たような話は少なくない。
また、元泥棒の防犯アドバイザーには危険箇所がすぐ分かる。それは加害者の目で見るからだ。つまり、「わいせつ」を言い立てる人には、劣情で見るからそう見える。まっすぐなものが曲がって見える心根を「いやらしい」という。

「美しい日本文化」を守る為に、性教育を否定し、夫婦別姓を否定する人は、同姓でなければ別れてしまうのだろうか。性教育などしなくても、コウノトリが性病を防いでくれるのだろうか。
では一体、その「美しい日本文化」は何時から始まったのだろう。明治以前には名字帯刀を許された人口は10%も無く、夫婦同姓は明治に全国民が姓を持ってからの話しだ。
明治からわずか150年、縄文からの日本1万6千年が1年なら、12月28日からの数日が日本文化の全てだというのだ。たとえ卑弥呼まで遡っても11月末からだ。

明治の戸籍制度を日本古来の文化だと強弁する、聖人君子の国会議員殿は、結局、自分自身が別姓で仕事せざるを得ない。
明治生まれの靖国神社を戦死者を祭る唯一の場と信じ、夫婦同姓が日本文化だと信じる人たちの正体は、明治憲法のゾンビ、亡霊だ。別にゾンビが悪いわけではない。「いやらしい」のは、自分が外来ゾンビであることに気づいていないことだ。
憲法改正は良いが、一度、失敗したはずの明治憲法を復活させることを改「正」と信じるゾンビに、日本が占領されていることは、底知れず恐ろしい。

本来の日本文化
縄文&弥生の日本文化の在来種が絶滅しかかっている中での憲法論議は、在来種と外来種=明治ゾンビの戦いだ。日本文化は外来文化を常に上手に織り込んできた。明治ゾンビのように、失敗した外来文化に再び染め直すことは「日本古来の伝統」ではない。
明治まで、日本の人口は4000万を超えたことがなかったが、明治ゾンビはその3倍の人口の減少を心配している。
外来ゾンビには理解できないだろうが、本当に人口増加を望むなら、夫婦同姓や男系のこだわりを捨てて、あるがまま、生まれるがままを受け入れる、日本古来の柔軟なルールに帰るのが一番だ。

今、実際にできることは、手足を縛ったままの、結婚奨励や保育所の増設ではない。シングルマザーの保護と優遇のための、国立の「駆け込み寺と赤ちゃんポスト」。さらに、子供の保護を目的とする「子供の国」の設置だ。
保育園、幼稚園、学童保育、できれば老人センターとも一体化させて、親がどういう状態であろうと、ワンストップで子供を守る、子供養育施設だ。

子供を預けるのではなく、親が預かる逆転の発想だ。もちろん、全て自ら育てたい人はそうすれば良いが、様々な理由でそのゆとりのない人も安心して子供を産める環境を整える。これにより、親の負担がなくなり、児童虐待などのリスクも減る。施設制度そのものによる虐待の可能性もあるので、老人と同居あるいは交流する老保一体で、元気な者が互いに面倒を見あう場は、昔の大家族、もっと遡れば縄文集落を社会制度化し、全世代が関わり合う場をつくる。

莫大な費用に見えるが、参加者の相互協力を前提とすれば、個々に預けたり迎えに行ったりするより、社会支出は減るだろう。試算してみて欲しいものだ。
高校無償化が騒がしいが、これも外来種脳だ。ウソにウソを重ねるように、制度に制度を重ねても、政治資金問題同様、「賽の河原」の石積みで切りがない。今こそ、本来の日本に立ち返り、日本人の人間力を再生する好機だろう。

→「本来の姿2


活力再生

2024年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

服部メロディーが好きで、特に『蘇州夜曲』が好きなのだが、残念なことに国策映画に使われたので、中国で忌避封印され、日本でもやや日陰の歌になってしまった。それでも、名曲は多くの人にカバーされ、昨今、希には中国でも演奏する人がいる。服部良一自身も葬式に流してくれと言ったそうだから、『ブギウギ』を切っ掛けに、何とか見直されないものかと思ったが、話しはもう戦後に移った。

昔の中国の歌と言えば『夜來香』や『何日君再來』も名曲だが、『蘇州夜曲』のような情感が無い。『ブンガワンソロ』や『アリラン』、『茉莉花』、『さくら』のように、アジアの歌として『蘇州夜曲』は世界に知らしめる歌だ。
『東京ブギウギ』や『銀座カンカン娘』はよく知られたが、日陰者の『蘇州夜曲』こそ、政治を超えて、世界に残す歌だと思う。

活気の源泉
それはさておき、『ブギウギ』は楽しい。朝ドラにはお笑い芸人の出演がお約束だが、今回の東京支社長・黒田有は抜群だ。これまで、大阪人をやらせるならこの人という役者が何人かいたが、しばらく途絶えていた。そこに黒田だ。大阪のあくの強さや人情をそのまま体現している。

黒田有は大阪人だから違和感が無いが、趣里の大阪弁はよく頑張っているだけに、少々残念だ。聞いていると、今の若い女の子の大阪弁だ。言語指導している人が若いのではないかと思う。あるいは趣里の努力かも知れない。現在の最高齢の人でも笠置シズ子の大阪弁より新しいが、それでも、今のおばあちゃん言葉が恐らく当時の大阪弁に近いだろう。
百歳の滑舌をマネしても仕方ないが、当時の映画は残っている。せめて音声の残っている時代くらいは配慮して欲しい。サンマの言う「でんがな、まんがな」の時代だ。
通信が発達し全国が均質化している今に比べ、戦前戦後の大阪弁は、よりあくが強く、東京弁は上品だ。ただ、河内と船場では違う言語に聞こえるぐらい大阪弁も幅が広い。

戦後の経済発展は、日本人の活気で成し遂げられた。この時代の映画『社長太平記』や『大番』、『図々しい奴』など、観ている方が恥ずかしくなるような、なり振り構わぬ傍若無人の破壊精神だ。笠置シズ子の大阪弁も残っているはずだが、ドラマ関係者は見聞済みだろうか。記憶では、もっと人をおちょくったような、それでいて礼節をわきまえて用心深いざっくばらんな、本当に筆舌に尽くしがたい存在感があった。

戦後の高度成長を牽引したのは、苦難の戦中派とその中で育った焼け跡派など、戦前生まれだった。破壊者として現れた団塊世代だったが、実はその継承者に過ぎない。
いま、Z世代と言われる若者に、昭和がブームだそうだが、それを牽引しているのは、「懐かしい」高度成長期の生まれだろう。
流行は、大人世代の価値観に、若者が感化されて繰り返される。
団塊世代が焼け跡派を信奉したように、高度成長期の記憶をZ世代が肯定するなら、再び日本に活力が生まれ成長を始めるだろう。もちろん、新しいやり方、新しい方向へだが。