魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

家元本山

2024年05月22日 | 新鎖国論

再びの焼け野原
未来は無から生まれるわけではない。失われた30年で凝り固まった日本でも、未来への小さな萌芽は無数に芽生えていたが、既存技術だけに目が向けられてきた。
トラック輸送や宅配、季節無視の温室栽培のように、化石燃料や原発など高度成長期の遺産に拘泥し、コストカットの派遣労働や海外生産など、過去の売り食いばかりで、未来への投資、人、技術、産業の育成を怠ってきた。
既存技術をゴテゴテと満載し、何も訴えるモノのない家電やハイテク機器の陰で、技術者の試みはことごとく押さえ込まれた。太陽光パネル、有機EL、曲がる液晶など、開発した新技術も、他国が売って見せて初めて手を出す臆病経営が日本を腐らせた。

もはや、未来への扉は閉ざされ、庭の芽は枯れ果て、外国の技術や人を移植する有様だ。それも当座はやむを得ないとしても、重要なことは、そこにどんな気概があるかだ。明治の初め、立ち後れた日本は外国の人と技術を取り入れたが、あくまで自主独立の魂胆を秘めていた。その日本方式から「学んだ」中国は大成功を収め、海外侵略まで踏襲しているが当然、同様の失敗に終わる。

日本が再び維新を考えるなら柳の下にドジョウはいない。明治維新や、戦後成長には、「追いつき追い越せ」の気概、0からのハングリー精神があったが、日本はこの期に及んでも一等国の誇りにしがみついている。
今さら、時代錯誤な国家競争を激するのではない。むしろ、そういう古い一等国感覚が足かせになっている。未来の道は国家競争を捨てるか、誇りを捨てるかだ。
国家競争で勝とうと思うなら、日本は金や技術など、海外援助などしている場合ではない。誇りを捨て、落ちぶれた貧乏人として福祉政策などかなぐり捨てて、這い上がるしかない。

未来の超国家ビジネス
しかし、未来は明らかに近代国家の枠の向こうにある。日本が勝ち上がろうと思うなら、むしろ逆説的に、勝ち負けの原点である、国家意識を捨てることだ。
世界の未来を提案する商品は、超国家のグローバリズム商品だ。GAFAなどと言われたアメリカ発のビジネスが世界を席巻し、日本にそれができなかったのは、民族国家的閉鎖性のためだ。バイデンの言葉は失言ではない。日本は閉鎖的だ。
日本が成功するには、国家を超える産業に着目すべきだし、実は、日本には他国にはない逆説的な絶対パワーがある。

日本ほど孤独な歴史を歩んできた文明国は、世界にはない。日本は一人っ子であり、兄弟姉妹で競り合って来た世界には絶対にマネできない個性がある。汲んでも尽きない独創文化がある。
狭くなる地球に求められるものは、狭い国土で育んできた孤独で自由な日本の価値観であり、譲り合いや自粛の精神だ。出る杭を打つ日本の欠点は、国家競争では短所だが、競走相手のない孤独な人類には貴重なルールになる。また、神仏習合の経験は宗教戦争解消へのヒントになるし、幕藩体制の参勤交代も国家間競争や大国主義を無効にするヒントになる。

現在の国連は、室町幕府のような大名依存であり戦乱の芽を摘めないが、江戸幕府のように、各国の自主権を認めながら、強力な世界貢献に導けば、国家の特色を残しながら世界は均質化し統一する。
新しい日本のヒット商品は、この世界秩序イメージから生まれるはずだ。
産業革命パラダイムは物の競争であり、GAFAの成功はその仕上げとなる情報インフラの拡張だったが、情報化の未来は価値の競争になる。

本山家元
この点で日本が他にないモノを持っているとすれば、「家元」のような、宗教方式のブランド流布だろう。ブランド商品のようにイメージだけではなく、一神教のように排他的な囲い込みでもない。
美意識や道徳意識に基づいた生活様式の提案であり、既にゲームやアニメで一定の条件は整っている。しかし、中国や韓国のようにソフト産業で現金に儲けようとすれば、元も子も失う。あくまで、日本文化の伝達を目的とし、島国の日本人自身が必要とする教養と娯楽に徹することだ。これにより、日本という不動のワンダーランドへの憧れが生まれる。
そして、そこへは簡単には入れないようにする。つまり、日本に入国するには一定の条件や審査をし、日本文化を学ぼうとする一定のリスペクトを持った人しか受け入れない。観光客ではなく、日本学校の学生や修行者なら受け入れる。ビザの厳格化で、相互主義により日本人も気楽に出にくくなるが、その分、自国への認識と愛情が深まるだろう。 

日本は観光地ではなく、「本山」になるのだ。そのためには、日本にあるすべての世界遺産(=与えられた価値観)の返上をして、日本そのものが唯一無二の価値になる。しかし、一神教のように価値の押しつけはしない。むしろ、世界のあらゆる価値観を日本に誘致する。宗教であれば、各宗教の大学を誘致し、純粋に学問的な宗教の交流環境をつくる。
学術芸術に関しても同様に交流環境をつくるが知的財産権などには関わらない。自由でオープンな場であることが重要で、特にサブカルチャーなどに参加したい人は理解者、学徒と見なして受け入れる。

とにかく、野次馬的観光客を閉め出し、はっきり価値観と目的を持った人だけを受け入れる。
オーバーツーリズムは、単なる好奇心や慰安、刺激を求めて来る人々によって起こる。
物見遊山の観光を拒否し、知的発信の家元、本山になることによって、世界平和と未来の生き方を発信する。大事なことは、決して世界に押しつけたり売り込んだりしない。柔道は広めようと出て行った結果、日本のものではなくなった。空手はテコンドウにパクられた。
外でどんなにモノマネをされようと、動かない。徹底して内向きでいることにより、向こうから寄ってくる。世界遺産など他人の価値観に一切媚びず、日本方式を貫く。
日本食が広がり、多様な亜流が生まれたが、気にせずにいることで、結局、関心は日本に回帰してくる。マンガやアニメなども、技術はマネできても日本の生活文化環境や発想はマネできない。

わびさびや、まこと、譲り合いやもったいないなどの、孤独な島国の日本史から生まれた「縮みに広がる大きな世界」の精神を世界に広めることが日本ビジネスになり、そして小さな地球の人類に貢献することになる。
今は、コンテンツビジネスと言えば知的財産権のことだが、これから日本が売るべきは権利ではなく精神であり、骨董品ではなく美の価値観だ。そしてそれは日本宗家、日本本山にしかない深淵の世界から生まれるものであり続けなければならない。
くどいが、あえて解らない人のために言えば、大本山があってこそ門前町の商売が成り立つ。

 


伝統文化

2022年07月11日 | 新鎖国論

今年の七夕は近畿地方は珍しく晴れていた。良い天気が前提のような、七夕の風習だが、雨の特異日ぐらい降る。これは、新暦の7月7日に固定したからで、旧暦の七夕では、天の川を見ながら祝うことが多かっただろう。

日本が新暦にしたのは合理的で良かった。しかしそうなら、公用表記も西暦にして欲しい。元号表記は印鑑に並ぶ、古式の弊害だ。
キリスト教を信じているわけでもないし、天皇を否定するわけでもない。ただ、現代の世界ルールを無視する元号表記は、大げさなようだが、印鑑同様の経済ロスを生んでいる。(数字でしか理解できない日本人のために、誰か試算して欲しい)
元号を公式表記に使うなら、スポーツの世界大会も袴と襷で出場すれば良い。それぐらい陳腐で不合理なことなのだ。

一方で、星空の実感の無い七夕は、やがて消えていくだろう。これは逆に、新暦で祝うことの弊害だ。
旧暦を前提に生まれた風習は、基本的に旧暦に戻し、旧暦を意識するイベントとして楽しむ方が、伝統と文化の温存につながる。
正月やお彼岸、お盆など、社会生活の軸になっている行事は新暦で良いが、七夕や各地の祭りなど、太陽暦と馴染まない風習は、旧暦に合わせた方が文化を豊かにする。

元号表記も、本当に大切にしたいなら、世界基準の表記と切り離し、「日干支」と共に、もう一つの日本として意識すれば、日本人の感性がさらに豊かになる。天皇の継承問題も権威と権力が完全分離していれば起こらなかったことだ。
法律で定めてまで世界と乖離した特殊文化を強要すれば、煩雑さの末に結局、全面排除につながる。公式行事を和服と定めなくても卒業式に袴をはき、浴衣で花火を見に行く。文化は人によって守られるもので、法律によって強制されるものではない。

 


調整縮小

2022年06月25日 | 新鎖国論

今や世界は戦時下だ。食料やエネルギーを始め、物価が高騰している。
大変なことだが、これは潜在危機の露呈に過ぎない。コロナ、ウクライナは、砂上の楼閣グローバル経済を暴き出した。
贅沢三昧の甘美な世界から、突然、停電で現実に引き戻された映画館だ。
虚構が消え、現実が残った。今こそ本来の営みに戻る時が来た。

明治以来の、いわゆる加工貿易は日本の強迫観念になって久しいが、産業革命パラダイムが終わる今、加工貿易は時代遅れになった。
周回遅れの中国のような膨張主義国が、最後の産パラ環境を食い潰した時が、大転換が完了する時だ。

膨張から調整へ
大航海時代から500年のグローバル化は、来るところまで来た。これから、やがて縮小調整に転じる。
人、物、文化の拡散は、大戦争や交雑、さらにパンデミックや温暖化と、地球を撹拌したが、今後は、野放図な拡大から、また数百年かけて、質的に調整していく時代に入る。
人口膨張や食糧難、温暖化が大問題だと言いながら、未だに、少子化対策を議論しているのは、ナンセンスの極みだ。
人口信仰は、産パラの強迫観念であり、これからは、人口はもとより、少ない資源でいかに健全な世界を築いていくかが問われる。それでも人口増加を求めるなら、人類の身体サイズを1/10ぐらいに縮小する必要がある。(これも可能だろうが)

大転換の中で、産パラを担った近代国家は変貌し、消えていく。一定の歳月は、国家が残務処理にあたるが、江戸の幕藩から明治の統一国家になったように、国家は郷土に変わり、世界は無秩序なグローバル化から、権力に拠らない統制で管理されていく。

産パラ幻想の人口パワーで膨らんだ日本の金権福祉は、自転車操業だ。
もはや日本は、明治維新や敗戦時のような大改革しか、解決策の無いところに来ている。
これだけ膨大な借金国になりながら、「特攻を出せば、日本はまだ戦える!」と抵抗する軍部のように、人口消耗の惰性に取り憑かれた人々が大勢を支配している。

日本の道
辛いが、一刻も早く降伏して、新しい国家戦略で出直すのが国民のため未来のためだ。
かと言って、明治維新や敗戦時のようなロールモデルは無い。今度は日本自ら新世界を探るしかない。
先ずやるべきことは、自給自足の国作りで足下を固めることだが、日本は元来、どこも侵略する必要もなく、自給自足だったのだから、現代技術を温故知新に活かせば良いだけだ。温暖化とは言え、山海の自然環境に恵まれた日本は、初めからSDGSだったのだ。
産パラの化石燃料時代が終われば、再生可能エネルギーはむしろ日本に有利になる。また、加工輸出に頼らないなら原材料輸入も必要ない。

福祉で瀕死の日本だが、福祉は金ではない。共助社会であれば大幅に費用を減らせる。
産パラで日本が陥った罠は、人を労働力(特攻)としかみなさないモダンタイムス、無機質なシステム社会であり、産パラのグローバル化から離脱すれば、「天国に近い島」に還ることができる。
日本企業は既に世界で活躍しているし、投資マネーも健在だ。ゆとりのある立場で、日本が世界経済と切り離された人文交流のみの別世界、自給自足の江戸の太平を試みれば、小さな地球のロールモデルにもなるだろう。


ワンダー

2022年06月01日 | 新鎖国論

2022年、世界経済フォーラムの「観光魅力度ランキング」で、日本が1位になった。
大変に結構なことだが、これを機に、もうワンランク上げて、大関から横綱になろう。
どこかに決めて貰ったランクを競うより、「押しも押されもしない」別格の「観光地」として、世界と一線を画すのだ。

今こそ、「世界遺産離脱」を高らかに宣言し、日本独自の文化理念を掲げ、「不思議の国日本」として生きる。
申請、登録の中傷や管理を受けながら、卑しい競争をするより、独自の感性と生き方を貫く、そのままの日本で充分だ。
良くも悪くも、島国の日本文化は独特だ。世界遺産そのものの国ニッポンに、世界遺産の「お墨付き」は要らない。世界遺産など、モンドコレクションよりいかがわしい。

だが、千年以上も「お上」のもとで生きてきたせいか、日本人は「お墨付き」を欲しがる。従僕精神が骨の髄まで染みこんでいる。自分の価値を自分で決める、誇りや自負、流行語で言えば矜持やprincipleのようなものが欠けている。
常に、人の目を気にし、褒められると喜び、他人の価値観に媚びる。表彰や勲章、ブランドを欲しがり、牧畜文化の欧米のいいカモになり、家畜のように搾り取られている。
いい加減、目覚めても良い頃だ。

精神の鎖国
今更、鎖国はできないが、精神の鎖国はできる。それは、日本人としてのアイデンティティを自覚することであって、ナショナリズムでも劣等感でもない。世界との共通性と違いを認識することだ。
民族の特性は、違いをあげつらう勝手な思い込みではなく、世界の人との共通性を知ることで浮かび上がってくる。

野蛮人とは、他者を自分たちとは異なる劣等者と考える人であり、アメリカ原住民は白人を病人と笑い、幕末日本人はアメリカ人を鬼と見たが、
「バーバー」とわけの解らない言葉を話す人をBarbarian(野蛮人)と呼び、アフリカ人を家畜にしようと考えた、植民地時代の欧米人こそが野蛮人だった。
今は減ったと思いたいが、日本語を上手に話し箸を使い、日本の伝統世界を極めようとする外国人に驚き、それを認めないか過剰に感嘆する日本人も、残念ながら偏狭な世界に生きる野蛮人だ。
人間が根本的に同じであることを理解できない人は、他者を差別し、同時に自己が差別されたと考え、偏狭世界から抜け出せない人になる。そしてナショナリズムに陥る。

同一性を知った上での「違いの認識」には上下が無く、単なる特性と理解することができる。
精神の鎖国とは、この特性を認識し保つことであって、他者を否定したり拒否することではない。むしろ、この「精神の鎖国」がしっかりしているほど、他者を積極的に受け入れることができる。
自分に自信の無い人は、異論を抑え込もうとするが、自信のある人は話を良く聞こうとする。同様に、自国文化の特性を冷静に理解していれば、異文化をいくらでも受け入れることができる。文化に優劣はないことを知っているからだ。

多文化を寛容に受け入れながら、自らの文化を失わない「精神の鎖国」が、「不思議の国ニッポン」の存在価値となる。
不思議はstrangeではなく、mysteriousやwonderでなければならない。
まさに「Wonderful JAPAN!」だ

※「日本遺産」20150708


敷居高く

2022年02月20日 | 新鎖国論

ようやく入国制限を緩和するらしい。オミクロンの水際対策は始めから無意味だと思っていたが、無節操な「ええじゃないか!観光」を断つには良い機会だと思った。
相変わらず、空気を読めない日本は、とっくにステージが変わっている時に、ドロ縄を綯っている。全面緩和の根拠にしたくてワクチン接種を進めるが、肝心の年寄りは、大人の勘で大局を見極め、打とうとしない。

留学生が困っているので、何とかしてくれの声が大きくなると、天岩戸を少しだけ開けた。すると、経済界のタジカラオの尊は、もっと引き開けようとする。
オミクロンに入国制限は無意味だが、侵略観光や侵略ビジネスの防御フィルターにはなる。
これを機に、入国者の「選別」をしっかりできる仕組みを作り、逆に、善意で有益な滞在者への積極的「おもてなし」は、大いに進める、賢い「新型鎖国」を考えるチャンスだ。

日本は鎖国していると、非難されているそうだが、鎖国と悟られる、入国数で制限するようなマイナス鎖国はしてはいけない。
何でも受け入れるが、害になるものはそっと排除する、京都の「しぶとい」精神を学び、モンドセレクションやミシュラン同様に、野蛮人をバカにしたような世界遺産は、オリンピックと一緒に丁寧にお断りし、近寄りがたく憧れられる、敷居の高い「世界遺産国」になろう。
先ずは、ミシュランを断った老舗に、学びに行ってはどうか。

入国制限」、「日本遺産


入国制限

2021年12月01日 | 新鎖国論

オミクロン株、今回、日本は直ちにシャットアウトした。
「羮に懲りて膾を吹く」だが、もう日本に入ったそうだ。
ものの道理から考えて、コロナウイルスは代替わりするほど感染力は強くなるが、重症化率は下がる。オミクロン株は、普通の風邪とまで行かなくても、関西うどん並みの薄味になっているはずだ。変な例えだが、関西人には薄味の濃淡が判るが、塩味に馴染んだ関東人には味が無いようなものだ。
十分に塩辛コロナに馴染んだ世界には、ウイルスは有っても無いようなものになるだろう。

ワクチンで感染が治まっているとか、重症化が減らせるとか、ワクチンは無駄ではないと熱心に告げられるが、ワクチンが1割ほどしか間に合わなかったインドで、ワクチン漬けの地域より圧倒的に患者が少ないのは、「ド、ド、どうゆうこと!?」
戦争で儲かるのは軍需産業だが、コロナで儲けるのは誰だっけ?

新型鎖国
わけの解らないことだらけだが、
それでも、入国禁止はやらないよりやった方がいい。コロナ禍を避けるためではなく、日本が本来の能力を取り戻すためだ。日本は鎖国状態の方が、世界に優る文化力を育む。もちろん現代は、平安や江戸のようにはいかないが、情報化がむしろ日本の特性を増幅させるハズだ。これを機会に、何でもかんでも「人流」を呼び込むのは考え直した方がいい。

国際会議を始め、大抵のことはオンラインで可能になったし、人手不足は、外国人を当てにせずコロナで仕事を失った日本人を雇い、機械化を進める。長期滞在する外国人を呼び込む学術研究環境を整え、戦略兵器の中国観光客などは呼び込まず、別荘地のように上質な客を招ける日本にすべきだ。
旅客輸送は貨物輸送にシフトし、古いエネルギー利権は捨てて、再生可能新エネルギーに注力すれば、エネルギー供給国に気を遣わなくても良いし新しい産業になる。

入国禁止期間は、新型鎖国の道を探るまたとない検証ケースだ。
また、防疫の意味でも、空港またはその周辺に隔離を兼ねた、宇宙船のエアロックのような現代の出島を作ることだ。仕事も遊びも全て国内と同じように過ごせる都市レベルの一大地域にし、入国者は必ずそこで一ヶ月過ごさなければならないことにする。直接会えないだけで、日本国内の人とは普通に連絡できる。当然、長期滞在目的以外では入国できなくなるから、ここが観光目的になるぐらいの規模であれば、空港は業態変更で別の収益が見込める、無論、こうした入国制限は物流には影響しない。

バカげた妄想と思われるだろうが、この方が日本の付加価値が上がる。そして、もう一つ重要なことは、日本の全ての世界遺産を返上し、日本そのものを世界遺産に高めることだ。


温泉好き

2016年04月27日 | 新鎖国論

三菱自動車の不正は情けない。不正の内容を聞くと、単なるせこい誤魔化しだ。
ワーゲンの不正と比べると全く次元が違う、大人の犯罪と子供のイタズラ程度の差がある。バレないようにプログラムを組み込んだワーゲンに比べれば、申請の誤魔化しなど、覗き見のカンニング程度だ。欧米人の「本気度」は、悪事にも徹底している。

日本人はやはり、蓬莱の島の極楽とんぼだ。欧米は、奴隷制度や帝国主義の植民地政策であれだけのことをやりながら、歴史に封じ込めて、人ごとのように、一切、知らん顔をしている。
その逆に、日本人は欧米のまねをしながらも、中途半端に「ゴメンネ、ゴメンネ」などと言いながら情がらみでやったことで、逆に、最大の悪者に仕立てられてしまった。

今回の三菱自動車の「せこさ」も、「何か勘違いしていたみたいです」と、変な言い訳をすることで、ますます疑いの目が広がっている。本気で不正をするなら、完全に証拠を突きつけられるまで認めないし、「悪気は無かったけど、隣の答えが見えちゃったんだもん」みたいな、中途半端な言い訳はしない。

しかし逆に、この中途半端さこそが日本文化の良いところで、平和な島の中では、互いに察し合い、許し合う、美徳と奥深さの源泉なのだが、外の世界には通用しない。
開国以来、日本は、大戦争をし、海外貿易をして、外の世界と付き合ってきたが、いまだに、湯に入ったような感性だ。
ちゃんと服を着て、テーブルでビジネス交渉をしながら、実は、足湯をしている。

もうそろそろ、ちゃんと靴を履くか、浴場に入って戸を閉めるか、徹底した方が良さそうだ。
温泉が気持ちが良いと知れば、猥褻だ原始的だと言っていた外の人間も、裸になって入ってくるだろう。日本温泉のルールに、向こうから従って裸になってもらえば、来る者拒まずだ。


独立投票

2014年09月21日 | 新鎖国論

スコットランド独立投票。分裂しなくて、とりあえず良かった。
世界は何れ細分化して行かざるを得ない。しかし、今ではない。

地球が統一するために、現在の国家概念は大きな障害だ。
情報、流通、移動の規模が小さかった時代には、他の地域との競争のために国家が必要だった。

ところが、交流規模が膨らむ中で、相互依存が拡大して行くにもかかわらず、地域間利害、この場合、実際には経済利害ではなく権力利害、つまり、政治的な利害を争うことで戦争をし、荒野を生んではやり直してきた。

荒野を生んでは経済隆盛を築く、賽の河原の石積みのような産業革命パラダイムの体質は、経済恐慌と戦争の二本柱で繰り返されてきた。
だが、そうした愚行も、繰り返しているうちに、いつの間にか景色が変わってくる。
山から扇状地、扇状地から平野へと環境は変わってきた。

産パラ(産業革命パラダイム)は、人類と自然環境を攪拌し、全く新しい風景を生み出した。世界が共通の物と情報を持つ状況はどんどん進んでいる。
イスラムの野蛮が、ニューヨーク、パリ、東京にも情報として実在し、それを行うのが文明社会で育った人間だ。

外来種と言われる(既に)在来種が世界中に生息し、デング熱も日本の風土病化し始めている。
タイで洪水が起きれば世界で自動車生産が止まる。

今や、誰が何の利害のために争うのか解らない状況が生まれ、利害を争うための国家は、既に、政治家の道具としてしか意味を持たない。
実体がグローバル化しているのに、いまだに国家がある大いなる矛盾。

世界が統一していくためには、自治集団はどこまでも細分化し、現在の国家を解体し、情報、流通による一体化した世界認識を持たなければならない。
今、人類はそれができる環境を生み出している。

しかし、直ちにそれを行うことは出来ない。国家をわずかに二分するだけでも、今回のように現状破壊の大騒ぎになる。
スコットランド独立投票は、世界への提案であり、これを契機に、世界中の人が改めて、「国家って何だっけ?」と、考え始める大きなインパクトになった。

これぞまさに、牡羊座の天王星現象だ。物事の始めを生み出す牡羊座の国、英国で起こった国家解体議論は、今後世界に大きな波紋を生んでいく。既に機は満ちていることを、改めて世界に気づかせるだろう。

現在の国家概念が無ければ、国家単位の戦争は出来なくなるし、中国のような言論統制権力も無くなるし、国のために命を捧げた人のために祈ることも無くなるだろう。

そう言っても、ほとんどすべての人が、理解できないのが現状だ、独立運動はまだまだ先のことであり、それよりも先に、都市や町内会の方が交流自治主体として実体を持ち始めるかも知れない。個人でも町内会でも世界の一員になれる時代なのだから。

関連
大琉球」、「一即多・多即一」、「愚老張る(2)」
自らを島とせよ・看脚下」、「族からチ-ムへ(2)」


やまぬ雨

2014年08月26日 | 新鎖国論

今年の夏は、何なんだ!
確かに、一時、暑い時はあったが、台風でも無いのに、断続豪雨で日本中メチャクチャだ、晴れ間が無い。
梅雨明けも曖昧だったが、その後も、ほとんど前線のような状態だ。

地球温暖化の影響で、日本も亜熱帯化しているそうだが、この雨はもう、雨期やスコールだ。
昨年の水害(特別警報)は、まだ、台風の姿で現れたが、今年は、日本列島が台風発生現場になっている。

南の海で発生した台風が、発達して日本に来る、二百十日や二百二十日といった「風物詩」の時代は無くなり、もはや日本は、「南の島」になったのかも知れない。ここから台風に発達しないだけで、周辺が南の海になりつつある。

抜本問題が露出
牡羊座2010~」で言ったように、昭和初期の混乱の最大要因は、気候変動による農業の破綻だった。

もし今、本当に気候変動しているのであれば、日本の山河は姿を変える。日本人は既成概念を捨て、悔い改めなければ、座して死を待つことになる。
広島の水害の惨状は、日本の縮図であり、警告だ。
危険地帯で押し流された宅地には、行政、利権、産業、社会、文化が凝縮した、戦後70年の日本がある。

工業貿易立国として歩んだ70年の間に、核家族化が進み、戸建て住宅の需要が膨らみ、乱開発が進み昔の大家族では手をつけなかったような土地まで、家が建った。
一方では、農地が取り残され、食糧自給率がレッドゾーンに落ち込んでいる。

このまま雨期やスコールが日本列島に降り注げば、もろく急峻な地域は、至る所で土砂崩れが起こり、かつて無いほど削られ、列島の姿を変えるだろう。問題は、それが短期に起こることだ。難しい話しではない。海岸の砂遊びを思い出せばいい。

新しい大家族
日本に盤石な立地条件は、そう多くない。今のように野放図に宅地を広げることは、止めなければならない。
すると、建設不動産業が困る。銀行が困る。人手を調達する工場が困る・・・つまり、日本が成り立たなくなる。

しかし、気候変動は日本だけではない。
世界的不作が起これば、食料を輸入に頼る日本は、金を握って餓死をする。終戦直後の食糧難では、都会の金持ちが、日頃、百姓と馬鹿にする農家に泣きついた。
預金通帳より、庭の畑の芋に価値があることを、改めて思い起こすべきだろう。

どの先進国も、食糧自給率は極めて高い。自給自足力こそが先進国の条件であり、日本は未だ後進国の成金だ。
食料こそが国の礎、最大の安全保障なのだ。
先ず食うことを保証するのが健全な国家だ。そのためには食料生産をベースとする経済文化を営み、家造りを人生の目的とするような文化は改めなければならない。

今さら大家族には戻れないとしても、福祉医療が一体になった共同体を軸とする町造りで、住まいもそれに合わせた形に集合化する。共同住宅も共通の利害認識を持った人の方が良い。分譲を買うのではなく、敷地建物に出資する形の方が、グループの責任意識が持てる。

年々増加する空き家は、立地の良いところに建っている場合が多いから、これを何らかの方法で、買上げ借上げて、集約型の町造りや共同住宅に再開発し、多世代に提供する。

もう一度、島国根性
農業をベースとする、知術産業の国に生まれ変わり、一生を住宅に追われるような人生観を捨てなければならない。
一国一城の主を夢見るマイホームは、土建国家故の価値観であり、産業革命パラダイムの幻覚だ。

99回引っ越したという葛飾北斎は、生涯技を追求し、世界にそれを残した。災害列島に住む日本人は、儚い家や財産より、生活を楽しんだ。
日本の風土が変わるほどの気候変動を迎える中で、欧米式の物欲に染まったままでは、日本人は生き残れない。

幕末の欧米人が驚いた日本人の生活。
決して「美しく」はなかったが、現代人が驚くブータンのような楽土があった。
われわれはもう一度、江戸に学び直し、世界がマネできない楽土、蓬莱の島を築いていかなければならない。

雨の日続き。薄暗い窓の外を見ながら、
「何とかならないものか」と思った。


一抜けた

2014年05月26日 | 新鎖国論

やはり時代は、昭和初期に巡ってきている。ただし、歴史は繰り返すが、同じ事を繰り返すわけではない。今度のアジアの主役は、日本ではなく中国だ。

CICA(アジア信頼醸成措置会議)で、習近平は「アジアの安全はアジアで守る」と、集まった周辺国の前で、中華皇帝のように振る舞って見せた。
「力によらない」と言う習近平の言葉を、集まった周辺国の首脳はどう思いながら聞いていたのだろう。

天王星84年周期では、現在は昭和4、5年頃にあたり、5年が午年だが、漠然と「この頃」と考えた方が良いだろう。
切羽詰まった大日本帝国が、米英と対抗するため、日独伊三国同盟や、日ソ中立条約を画策するのは、まだ先のことだが、最終的に大東亜共栄圏構想へと続く、鼻息の荒い大日本帝国を彷彿させる。
日本も、この頃はまだ、欧米とも表面的には良好な関係だった。

今もまた、政治的に対立する中で、中国企業がアメリカに上場し、アメリカは大歓迎している。自由主義経済のグローバル化はアメリカの理想だが、中国共産党の理想はそうではない。
領土、覇権、経済、ナショナリズム・・・世界は綾なす糸のように絡み合って、先が全く見えなくなってきた。

84年前と比べれば、世界の人口はすでに4倍に近づいている、それでも人口が足りないと思い込み、誰も抑制的な未来社会を考えない。

極まれば転ずる
世界秩序の動揺に、誰もが感じる大混乱の予兆は、人間の「サガ」を知る人間自身だからこそ、感じるものだ。
誰も止まろうとしない、止まろうとしても押し流される。もう人間自らでは止められないエネルギーで走り続けていく欲望列車だ。
このままでは、必ず、脱線転覆し激突する。

この弾丸特急を止めるには、エネルーギーを断つことだが、誰もがガス欠だけを恐れている。そして、運転の権利を得るためにエネルギー争奪戦を始めた。
「一抜けた」と、飛び降りたくても、このスピードでは降りられない。
しかし、「われわれは降りる、下ろしてくれ」と叫ぶことはできる。

先頭車両に乗っていた日本が、「降りるー」と叫びながら、後ろに走って行けば、「しめた!」と思う人もいるだろうが、「そうか!」と気づく人も出るだろう。そういう人が最後尾車両に集まって、連結を切り離すこともできるかも知れない。

時代は再び、ブロック経済時代の様相を帯びてきた。
不況、不作、恐慌、生産消費圏の確保、戦争・・・は、産業革命パラダイムの「構造」そのものだ。ここにいる限り、避けることはできない。

新鎖国主義
狭い地球で、地産地消の鎖国は今や不可能だ。
何かを売って物を買わなければ、生きていけないのなら、日本は食糧自給率100%の独立採算の上で、資源に関わらないもの、学術、芸術、娯楽を売って、物を買えばいい。
さらに言えば、付加価値製品を排除する思想も必要だ。
今、世界中が欲しがる、「豪華な刺激物」をよく見れば、バカらしさの象徴そのものだ。

人口と資源に依存した、暴走列車から、どこに降りるのか考える時だが、誰かが、実際に降りて見せなければ、誰も降りようとしない。
元来、資源もなく、人口減少も進む日本こそが、それを実現させなければならない。

今もし、「日本列島以外全部沈没」したとしても、日本は生きて行かれるはずだ。その時どんな暮らしをするのか、原点に帰るべきだろう。
外界と全てを共有しなければ生きられないと思うのは、大航海が生んだ国、アメリカの黒船によってもたらされた強迫観念だ。
「資源の無い日本は加工貿易でなければ生きていけない」という言葉は、日本人の胸を打つが、それは黒船後のことだ。

日本が、限られた資源で、知性にあふれる豊かな蓬莱の島を実現すれば、それは狭い地球で暮らす人類の、手本になる。
日本人は、日本文化は、小さな地球に手本を示す責任を負っている。
そして、それを示す宣言と行為は、日本は軍国主義だと自己投影する国への、大きな反証となるだろう。

産業革命パラダイムからの脱却。永世中立、国民皆兵、食料自給、学芸文化、観光立国・・・
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守るべき

2013年05月26日 | 新鎖国論

レスリングがオリンピックの除外候補になったのは、ルールが解りにくくて、観て退屈だからと言う理由らしいが、それなら代わりに入り込んだテコンドーが、それほど面白いだろうか。野球に優るだろうか。
防具を着けてやるのが面白いなら、アメフトの方がよほど面白い。

観て解りやすくて面白い格闘技と言えば、何と言っても相撲だ。
あれほど単純なルールはないし、総合的な娯楽として、実によくできた見世物だ。

フンドシ姿という、寒い国の欧米人には抵抗のあるスタイルであることを除けば、欧米でも魅了される人が少なくない。初めて見てもルールがすぐ解り、勝負の決着が早い上、ショーとしての儀式が勝負を盛り上げる。

しかも、ルールが単純なために、かえって想定外のハプニングが多く、それが面白い。また、小兵が巨漢に勝つチャンスもあり、大きい者が強いという欧米の常識が通用しない、ハンディ無しの意外性も、実際に見た欧米人が魅了される理由だろう。

しかし、八百長だろうが外人力士だろうが、そんなことより重要なことは、絶対に国際競技にすり寄ってはならないということだ。
もはや柔道は言うまでもないことだが、国際化すれば日本は無くなる。日本のオリジナリティーは日本で守るのが本筋だ。

井の中の蛙になるべきだと言っているのではない。無節操に迎合して、日本のアイデンティティ、独自性を失っては、元も子も無くなるということだ。

地球の宝物殿
日本食が海外で現地化するのは当たり前だが、日本で日本人が食べる和食が全面的に国籍不明になっては困る。もちろん、少しずつ変化していくのは当然のことだが、会席料理にハンバーガーが付いているようなことは、やりたくてもやってはいけない。

何であれ、ますますグローバル化が進む時代こそ、2000年培ってきた、コアな日本を大切にしたい。日本文化にはそれだけの価値がある、人類文明に貢献しうる文化だと思う。これは、ナショナリズムではなく、文明史的な観点からそう思う。

島国という隔絶された環境で、数千年にわたり培ってきた社会は、他に類例がなく、これからの人類が小さな地球で生きる上で、何らかのヒントになるだろう。

もちろん、これから日本も、地球のアメリカ化の中に呑み込まれていくだろうが、だからこそ、混ざって良いものと、守るべき貴重なものは意識して別けておくべきだ。

柔道が、日本の精神を世界に伝えた功績は大きいが、失ったものも小さくない。しかし、柔道はまだ歴史が浅い。ある意味で、始めから、スポーツ精神を日本の武術に持ち込んだものでもあるから、世界化して行っても、日本柔道を失うことにはならないだろう。

だが、相撲は歌舞伎と同様、純粋に日本のものだ。他にも山ほど日本独自のものがあるのだが、これらの存在を誇示しても、進んで世界に広めようとすれば「キズ」が付く。外でマネされようが、世界に招待されようが、「日本でなければ出来ない」ことにしておく方がいい。

日本食の現地化のように、仮の提供は大いに結構だが、コアはやはり日本にある。そういう心がけでいけばいい。
そして、外人力士を拒んでもいけない。修行僧も板前も日本に寄ってくるものは喜んで受け入れ、日本方式を輸出する、これこそが新鎖国主義というものだ。


天真爛漫

2013年04月19日 | 新鎖国論

日本人が劣化していると言われて久しい。
劣化とはどういうことを言うのだろう。精神やモラル、あるいは能力のことだろうが、これは人間が人間として生きていく上で欠かせない要素であり、集団としての日本人を考える場合も、おそらく同じことが言えるのだろう。

人間として生きると言うことは、鶏小屋のブロイラーのように、ただ生きていても人間とは言えない。
社会性をもち、生産活動をし、何らかの価値を生み出していなければ、人間とは言えないだろう。

日本人が劣化したとは、以前の日本人が人間として行っていた、価値の創造が希薄になったと言うことだろうし、ハッキリこれが、この行為がと、指摘することができなくても、なにをしようとしているのかよく見えなくなったと言うことだろう。

日本人という場合、おそらく、他とは違う特異性に対する誇りを含んでいる言葉だろうし、もし、そういうものがあるとすれば、島国の環境と鎖国政策の中で生まれた、自立採算への気概だろう。
世界と比べて明らかに違う環境で生まれた文化と意識は、自覚無自覚にかかわらず他とは異なるものだ。

その日本人は、150年にわたる異文化との交わりの中で、他流試合の不利と有利を経験したが、オリジナルの有利性は、世界的にも驚くべき成功を生み出した。

その反面、世界との交わりにより、無菌状態で過剰な吸収をしたことで病魔に冒され、それが日本人本来の姿を失い「近代病」の重症患者になったのかも知れない。。

企業国家日本
「近代病」とは産業革命パラダイムの病だ。大量生産大量消費を追求し、効率だけを求めるあまり、「遊び」を失い、金にならないことには無気力になった。
これを生んだのは、国家と学校と企業であり、その総合システムが成功と行き詰まりを生んだ。

企業が冒険をしないのは、企業は人間では無いからだ。人間は感情や情熱でワケの解らない行動を取るが、企業はムダや危険なことはしない。
日本人の生真面目さ、信仰心に篤い「ひたむき」さゆえに、産革パラダイムに一丸となって冒されているのが、現代日本人であり、これが劣化の正体だ。

本来の日本人、劣化していない日本人は、現代日本の落ちこぼれの中に生きており、オタクやサブカルチャーが、行き詰まった企業国家日本を救う芽となって大きく育ってきた。

遊び心、冒険心を持っているものこそ人間だ。そして、その天真爛漫を1500年の長きにわたり大きく育ててきたのが日本列島だ。


国論二分

2013年03月16日 | 新鎖国論

ついにTPP参加が表明された。賛否両論があって当然だ。
時代の大転換。一つの歴史的な動きであることは、間違いない。

星の動きや周期律の観点で見れば、今はまさに幕末の再来であり、世界との関係が大きく変わる、「攘夷か開国か」の大論争の時だ。

幕末とTPPは、全然違うと思う人もあるだろうが、世の中に全く同じものは無い。様相が同じと言うことだ。
こんなことをくどくど言うのも、時代という漠然とした実体の意味や様相を理解できない人が少なくないからだ。

もう少しくどく言えば、逆に、全く同じように見えるものこそ、全く違うこともある。
同じ制服を着ている高校生も、それぞれの人格人生は、全く違うものを秘めている。

違う問題、違う形の、同質性が理解できなければ、占いや歴史は、始めから理解できない。

TPP参加に対する反応は、個々の気質、人格、価値観、立場など、まさに百人百様だ。
しかし、どう言い争おうと、時代は動いていく。

世界国日本県
現代の目で、幕末の攘夷論を考えれば、どうにもナンセンスとしか映らないが、当時は殺し合いをするほど真剣に考えていた。
開国、明治維新は時代の趨勢であり、早めに開国をした日本は、他のアジアの国に先んじることができた。そして一方で、混乱による遅れが不平等条約の苦難を招いた。

ガン治療は、ガン細胞分裂の不安定を突いて全滅させる。
世界の流れの中で、旧態にこだわり、一致協力して当たらなければ、全滅の憂き目に遭う。

春から夏に向かっているのに、オーバーを脱いだら風邪を引くと言っていたのでは、夏が来た時、全裸になるしかない。

今は、世界の趨勢を受け入れ、恐れているより、飛び込んでいく勇気と知恵を持たなければならない時だ。

今問題視されていることは、国益だが、国益の観点で、事に当たれば、むしろ本当に国益を失うことになる。
国益を守る意味でも、国家概念を超越した、「グローバリズムという錦の御旗」で戦わなければ、キズをかばって命を失うことになる。

TPP交渉の場では、常に「グローバリズムのために」と、大義名分を言う者が発言権を持つだろう。
日本国内の各産業も、TPP如何に関わらず、時代の趨勢を直視して、改革前進していかなければならない時が来ている。

狭くなる地球。グローバリズムの日本地域の中で、日本人は国にどう守られるのかではなく、日本人自身が、日本というものをどう守っていくのかの自覚を持つことが先決だ。

新鎖国主義とは、物理的鎖国とはむしろ逆に、鎖国精神のことだ。積極的交流の中で、日本のアイデンティティ、日本的方式を、際立たせていくことだと、ますます確信する。


変な外人

2013年03月05日 | 新鎖国論

欧米人の仏教僧やお茶の師匠に驚く人や、違和感を持つ人は多い。
民族国家の人は、自国の文化が外国人に解るはずがないと思う。
異国の人間が、自国の言語や仕来りを巧みにこなすのを、こころよく思わない.。
(この場合の民族国家とは同一言語で、千年以上も過ごしたような国)

日本も典型的な国の一つだが、中国や韓国の記事には、「外国人が下手な言葉で喋った」と、わざわざ書く。
日本では近年、教養として、「青い目の」とか言わなくなったが、欧米人から見ると、相変わらず、強烈に疎外されている感じがするそうだ。

BBSで、アメリカ人が、日本では、「納豆が好きと言わない方がいい」と言っていた。期待外れで。あまりこころよくは思われないそうだ。
都会では、かなり減ったが、欧米人を「外人」、よそ者、異種として扱う傾向は未だに根強い。

昭和30年代の「社長シリーズ」では、日本に詳しい外国人を奇異な目で描き、日本の仕来りを知らない外国人を笑いの対象としていた。
「変な外人」という言葉が流行ったのもこの頃だ。
今でも、祭のニュースなどでは、参加した欧米人を好んで映す。

昔、カナダの英語の先生が、生徒のルーマニア人の医師に、ルーマニアの詩人「ミハイ・エミネスクの詩は素晴らしいですね」と言うと、
「英語で読みましたか。あれはルーマニア語でなければ良さは解りません」と答えたので、先生は二の句が継げずに、沈黙してしまった。

自分の文化は、自分達だけのものであり、他者が逆立ちしても解るはずがない・・・と思うのは、他者蔑視の自尊心で、偏狭な驕りであり、自分こそが、井の中の蛙であることに気づかない「田舎者」なのだ。

田舎者とは、「てやんでぃ江戸っ子でぃ」と、ただ江戸に生まれただけで、相手より勝っていると思いたいような、他に何も自慢するものの無い心の貧しい人のことで、田舎に生まれた人のことではない。

インドで生まれた仏教を、極東の日本人は、それなりに理解し、心のよりどころとして暮らしている。
敬虔なキリスト教徒の欧米人が、仏教を日本人以上に理解するのは、少しも不思議なことではない。

先頃、帰化したドナルド・キーンは、日本人以上に日本文学を理解し愛しているし、今日につながる、欧米のジャポネスクは、欧米人がその価値を発見したからだ。
ゴミとして捨てられた包み紙の浮世絵や、廃仏毀釈で見捨てられていた仏像や寺院の価値を見いだしたのは欧米人であって、日本人が宣伝したからではない。

にもかかわらず、「どうだ、日本って凄いだろう」みたいな、クールジャパン宣伝は、イヤミでこそあれ、ジャパン・フェロモンにはなり得ない。魅力とは惹きつけるもので、押しつけるものではない。

金儲け目的ではなく、心から惚れ込んで、日本の文化に近づく外国人は大いに歓迎し、どんどん受け入れたい。自分は修行も勉強もしないで、「変な外人に解るわけがねえ」などと拒絶する、偏狭な田舎者にはなりたくねえ。


偽の栄光

2013年02月13日 | 新鎖国論

何度も言うことだが、オリンピック精神とか、フェアプレイとか、何故、日本人はこうも、「綺麗事のキャッチフレーズ」に弱いのだろう。

日本のスポーツ選手はオリンピックを信じ、そこを目標に、日夜、涙ぐましい鍛錬をしている。スポーツの精神は、人間の生み出した、あらゆる創造行為と同様、尊いものだ。
しかし、どの分野であれ、それが、何らかの組織によって「見世物」になると、創造行為は本来の創造の意義を失う。

もっとも、あらゆる創造行為と言うなら、「見世物」商売もまた、一つの創造行為には違いないが、これは芸術やスポーツと比べ、あくまで、金を稼ぐのが目的であり、食うための狩猟と同じことだ。

創造とは人類が成長するために必要な、試行錯誤であり、目的を持たない行為は、一見ムダに見える。そのムダを、見世物小屋の商品にすれば、有意義に見えるが、創造は商品価値だけに限定される。

美術であれ、文学であれ、美術展や文学賞となると、組織と審査員が決定する価値で選別され、逆に、そこからはみ出した価値や可能性は、無価値なものと決めつけられることになる。

これは、スポーツイベントも同じだ。勝ち負けのあるスポーツでは価値観など関係ないと思われるかも知れないが、ルールーを決めるのは、やはり見世物小屋の興行師だ。

純粋なものは、いずれ汚れる
古代オリンピック精神の復活をうたった近代オリンピックは、当初は確かに、高邁な精神で始まったかも知れないが、今や、完全に「見世物小屋」の商売だ。今や、オリンピックを経済抜きで語る人はいない。

商売は、農と武の徳川幕府が最も嫌ったように、物を作り自らの命を懸ける、士・農・工を食いものにする生き方だ。
他人のフンドシで金を稼ぐ、右のものを左にやって利ざやを稼ぐ、ハイエナか泥棒のような根性だ。(少なくとも徳川幕府はそう思った)

日本の文化が、「金儲け」を嫌うのは、徳川300年の武士文化によるものだが、これは、島国という、外敵に邪魔されない恵まれた環境で育まれたものであり、自己研鑽と相互信頼で成り立つ社会に、「銭」は不要だった。

しかし、他人を信じられない大陸では、金だけが頼りだ。金さえあれば、地位も力も手に入れることができる。
技など磨いている暇の無い大陸だが、金さえあれば技も手に入る。
その信念が、日本人から見れば、賄賂とパクリの「汚いやり方」、つまり、「商」の、泥棒ハイエナ根性としか映らない。

日本の中でも西の文化は大陸の影響が強く、この「商」の原理が浸透している。その商人のモットーは「汚く稼いで綺麗に使う」だが、綺麗かどうかは別にして、効果的な使い方に徹している。

ヨーロッパの貴族の道楽で始まったオリンピックは、結局は、世界の大原則である「儲け主義」に収まっている。
何から何まで金が物を言う世界の原理で動いていることは、今や論を待たない。

東京にオリンピックを再び招致しようというのも、結局は経済問題であり、カジノ建設と何も変わらない。
にもかかわらず、スポーツ団体あるいは日本人は、相変わらず精神的にとらえている。オリンピックは既に、日本人の思うような精神主義で動いてはいない。

昨日まで、韓国はテコンドーが競技種目から外れる心配をしていたが、フタを開けてみると、テコンドーが残り、代わりに日本が得意なレスリングが除外対象となっていた。
レスリング協会は、オリンピック精神の伝統レスリングは、切り離されないと信じていたが、まったく違う原理を突きつけられた。

一方、韓国サッカーの明らかなオリンピック憲章毀損に対し、IOCは「注意」だけで、事実上のお咎め無しだった。また、先の冬季オリンピックでも、不可解な採点が相次いだ。

日本や中国のように、自分の原理に拘る国は実に扱いやすい。
朝鮮半島のように、強国の狭間で鍛えられた国は、「生き残り」の技を徹底的に体得して世知辛い。北朝鮮と韓国は全く同一の民族であることを忘れてはいけない。国際組織において、韓国の進出は目覚ましい。

媚びずに惹きつける
日本人の夢見るような、オリンピック精神はとっくに死んでいる。
それでもまだ、日本人はIOCを信じ、東京にオリンピックを呼びたいのだろうか。

鎖国精神に基づく文化立国を目指す観点から、個人的には・・・
IOCの不条理を徹底的に糾弾して脱退し、日本にあらゆる競技施設を整え、各競技のワールドカップを毎年開催して欲しい。
ちょっとズレるが、相撲は日本だけの競技で成り立って、しかも内容的には国際化している。

柔道だって、外国に迎合するから、今回のような焦りに繋がる。日本本来のルールを貫き続ければいい。
外に押しつけない文化として、徹底的に護るべきだ。

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