「日本」や「日本人」と言う言葉は、実は極めて曖昧な言葉だ。
何をどこまで指してそう呼ぶのか、本当はそういうものは存在しないとも言える。
文化と言った概念も、定義次第でいかようにも姿を変える。
だが、それを言い出したらきりがない。
自分とは何ものなのか・・・、おまえの見ているものは本当に存在しているのか、と同じで、始めもなければ終わりもない。
だから、ごく低次元で素朴な、「だって、ここにあるじゃん」という、ふつーうのレベルの話のつもりだ。そして、もっと低次元な占い的、独断と偏見に居直って、そのうえで、占いの良心?で考えている。
日本人は勤勉だ。そう思われているようだが、自慢ではないが子供の頃から怠け者だ。だが、自分では「生粋の日本人」だと思っている。
逆に、黒人は皆リズム感の天才で、イタリア人は皆スケベだ、とも思わない。集団の概念は、おおざっぱで相対的なものだ。
「占い人類学2」「世界共通言語」
今の世界で、日本と言えば日本国国家のことを言う。しかし、日本は島国だからと言うような場合は、日本国の所在する太平洋に面する極東の日本列島を念頭に置く。必ずしも正確に定義された日本でもなければ、今だけの日本を指さない。歴史的に漠然と暮らしてきた、この辺りのことで、明治以降の最大領域のことでもない。
そして、日本人もやはり、この辺りで暮らしてきた人々のことをいい、国籍や顔立ちを指すものではない。
もちろん、他の国や他の地域の人々を呼ぶ場合も、同じような概念でそう呼んでいる。
これは世界の人々も同じで、「00人」などと言う場合、国籍を確かめてから言っているわけではない。お互いに漠然と、
「だって、そこにいるじゃん」ぐらいの認識でそう呼び合っている。
その程度で互いにそう認識して、互いを比較している。
つまり、少なくとも、そう判別できる差異があることは確かだが、違いにこだわって、好きや嫌いになるほどの根拠のものではないということでもある。
にもかかわらず、人は、他と異なることに敏感であり、異文化に敏感だ。これは、生命の原点である「個」の衝動からくるのだろう。
自分を守るために、異物を拒否しようとする衝動が、社会的動物である人間にとっての異物=他文化への拒否反応となるのだろう。
しかし、一方で、生命はDNAを進化させ適応しなければならない。
他者との融合衝動を常に持っている。
生命の葛藤の発露が、恋愛、婚姻、略奪など、様々な行動になって現れるように、人類の文化的人種的な出会いは、交易、模倣、侵略、略奪、破壊など、様々な行動、事件となって現れる。
そうした、重大な事件に到らないまでも、異文化との出会いは、利己的願望による過剰な迎合か、自己を受け入れてもらえないことへの拒否感から始まる。
遠くにあっては憧れや恐れを抱き、現地にあっては不慣れな環境に怒ったり蔑視する。また逆に、挫折感から迎合による自己否定に走る。
これがよく言う、外国に出ると極端な愛国者になったり、母国否定になったりする現象だ。
これらは、すべて、自他の葛藤であり、融合衝動があるからこその行動で、男女と同じ、出会いの形に他ならない。
好きな人ほど嫌いになる。
中韓のように、反日教育をしていた所は別として、
日本を嫌いだと言ってくれる人達は、それだけ日本に惹かれているのかも知れないし、むしろ、良く知らずに大好きと言ってくれる人の方が、危ないのかも知れない。
中韓の日本嫌いにしても、古来の蓬莱の島、日本への憬れの反動から起こったのではなかろうか。
同じ理屈で、韓流フアンが極端な嫌韓に変わることも少なくない。