魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

年寄りは踊れない

2007年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和33年頃。東海村の話しを聞いた小学生は感動した。

昭和35年頃。NHKで、アナウンサーが街を歩きながらたばこに火を付け、ライターをゴミ箱に捨て、「これからは使い捨ての時代なんですよ」と言って啓蒙していた。それを見て、少年は何か変だと思った。

昭和40年頃。建築学の先生が「これからは暖房、冷房があるので、昔の家のような窓や扉は考えなくても良い」と新理論を語っていた。青年は変だと思った。同じ頃、自動車を走らすために路面電車が無くなった。腹が立った。

昭和が終わる頃。貨物列車は減ったが、物流が拡大するので、在庫を持たない販売が可能になると騒いでいた。産直も増えた。どの会社も右肩上がりの売り上げ予測をしていた。おじさんは独り、「諸行無常」とつぶやいた。

21世紀になると、ハイブリッドカーがバカ売れして、ガソリンの代わりに「食べ物」で走ろうという。それでも車の売り上げは伸びる。
どうすれば車のない世界で快適に暮らせるかと言う話しは誰もしない。
ジジイは独り、天を仰いで「バカヤロー」と叫んだ


なんでやねんはどうやねん

2007年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

関西で「なんでやねん!」と言えば、怒りの感情が素直に伝わる。
関東で「なんで!」「どうして!」と言っても、怒っているのか、本当に理解できないのかわからない。
今時の共通語で「なんでやねん!」にあたるのは、「ありえな~い!」だろうが、「ねん!」の迫力はない。
想定外を、他人の責任にして受けつけない姿勢は同じでも、「なんでやねん」は逆ギレだ。
相手を攻撃して、あわよくば、自分の主張を押しつけ、自分の間違いは認めないという言葉だ。攻撃は最大の防御と言うところだろうか。

戦争で最も重要なことは大儀、正当性だが、どちらも自分たちが正しいと信じているから戦争になる。喧嘩トラブルも同じだ。
「泥棒にも三分の理」と言うが、立場を替えてみればそれなりの論理がある。理屈や主義主張がぶつかれば、落としどころはない。
ディベートで知られるように、理屈というものは、どの様にも成り立つからだ。
実際、ネット上の各国の論調が、いずれの国もひどいナショナリズムに陥るのは、他の言語(立場)の言葉を聞かない「独りよがり」が大きい。
もともと、ネット・コミュニケーションには、表情や語感が伴わず、「体感」という人間の最も重要な情報源が欠けている。それが、独りよがり、思い込みを増幅し、主義主張にコリ固まった「なんでやねん!」の争いになる。

本当に平和、無難、共存を究極の目的とする対話なら、必ず妥協点があり、双方が引き合えばよいのだが、これにも「相手が引かない」という理屈が成り立つ。そこで、「かかる火の粉は払わねばならぬ」ことになる。
相手がこちらの言うことを聞かないのは、自分の努力が足りないからだ、とは思わないものだ。街で泣く子の親の対応を見ていると、半分以上は親が悪い。その気になれば、子供を納得させる方法はいくらでもある。もっとも、こういう「苦境」を体験して子供は人生を学んでいくのかも知れない。


影におびえる

2007年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカの乱射事件の犯人が韓国人だったことで、韓国社会では「国家ダメージ」とか、「反韓感情」を心配している。
これこそが、「アホ言うモンがアホ」現象だ。
極端な民族主義で、他の国家や民族を片っ端から加害者として誹謗中傷、足蹴にする思考は、「被害者が加害者」となる諸刃の刃だ。

アメリカは移民国家だ。民族のるつぼとして一つの国になろうとしている。出自が何であろうと、その個人が良いか悪いかが問題だ。
そういうミックスの中に、国や民族を抱えて「塊」で入り込んで来る者に対する拒否感は始めからある。
逆に言えば、アメリカの成り立ち自体が、集団移民者間の葛藤の中から生まれた。だから、同化しない者を受け入れないし、同化しない集団による不利益には敏感に反応する。
911でアラブ系が差別されたのは、日系の強制収容所と同じ感情で、外敵勢力の片割れが目の前にいるからであって、国内犯罪者の親戚だからではない。
確かに、いまだに人種差別は存在するが、一個人の犯罪は基本的に、多様な価値や人種が混在するアメリカの、国内犯罪だ。
にもかかわらず、アジア流の一族郎党意識で「反韓」「反アジア」と騒ぎ立てれば「やぶ蛇」だ。騒ぎ立てること自体への反韓感情が起こるだろう。なぜなら、目の前の被害者に対する哀悼より、自分たちの身の上だけを心配しているからだ。
それは勝手にやっていれば良いとしても、アジア系全体になすりつけられても困るのだ。

P.S.
これを書いた後、韓国が米国に弔問使節団を送ろうとして断られたらしい。
当たり前だ。
これは、民族や地域から生まれた国と、移民で始まった国の認識の違いだ。
ことに、血縁や家族を国家の基本とするアジアの国が、なかなか理解できない感覚だ。血統主義の日本も例外ではない。
アメリカに永住権のある人間が何系であろうと、アメリカの構成員であり、アメリカの問題だ。
養子で育てた子供が何かしたからと言って、生みの親がいちいち謝ったり自慢をしたのでは、養父母の家庭を踏みつけることになる。(主権の侵害)

ついでに付け加えると
20世紀が、アメリカの世紀だったのは、世界的大量移民によって、民族や国家の概念が変わり、アメリカ的「るつぼ」が世界に求められたからだろう。
今起こっている民族紛争は、その揺りもどしであり、一段落すればまた、地球はるつぼに進むしかない。


狼男は新月も

2007年04月18日 | 占いばなし

アメリカで乱射事件。日本では長崎市長銃撃、直後に和歌山でも銃撃事件。
牡羊座の新月。ろくなことがない。
牡羊座は粗野。銃や刀など古典的な武器を表す。
「キチガイに刃物」を、言葉狩りをしている人たちはどう言い換えるのだろう。

今年は二黒の年。258(二黒五黄八白)は要注意の年だ。要注意とは災難に遭うわけだが、ほとんど自分が引き起こす。自分を戒めるべき年ということだ。
アメリカの乱射も、長崎市長襲撃も、犯人は八白だろう。(容疑者と言うのかな?)
九星と犯罪で話したように八白は確信犯だ。やると決めたら、ためらいがない。最後は自殺したり、自首して「やりました」と言う。(その場で捕まる)
アメリカ乱射の残虐性は八白が原因ではない。個人か民族性か知らないが、確信犯であることは確かだ。
豊田商事事件で、報道の面前で殺人をして出てくるなり「わしや、わしや」と言った男も八白だった。(おそらく実行犯は子分の一白)


魚座真っ盛り

2007年04月16日 | 星の流れに

海老もいろいろにぎやかだが、申告漏れ?の林家正蔵、本名は海老名。
「格差」や「女性男性」の言葉も完全に定着したようだ。
ゴルフもの次は。丹波で発見の恐竜の発掘リーダーは三枝春生さん(射手座の3と魚座の季節春)。こんな何でもないニュースの至る所に魚座名(夢とか)が出てくる。

おしゃれな靴下や地下タビが売れてるそうだ。レッドソックスで話したように、まさに魚座時代
NHKTVで、大展開をしている靴下専門店の話しをしていた。社長が智さんで、番組のコメンテーターが精神科医の名さん。靴下は足先で、魚座であることは何度も言ってきたが、どうも「」も魚座のようだ。

15日、「亀山」で地震があったが、亀山が魚座の名前であることはシャープ亀山工場の例で話した。
魚座時代になって、大きな地震が越後、能登など、「越の国」で起こった。魚沼、尾などそのまま魚座だが、小谷、古志も魚座と思われる。(山古志は錦鯉が名産)
古志は越(コシ)で、古代、越の国は出雲にならび、大和朝廷に対抗した勢力だが、コシやコマは高句麗と関係あるとも言われる。狛江や巨摩などは7世紀の高句麗滅亡時の半島難民らしいが、北陸の越の国は何故そう呼ぶのかよくわからない。
高句麗と言えば、韓国ではドラマ「朱蒙」が大ヒットだそうだが、高句麗建国のドラマであり、同時にこの高句麗史について中韓の間でもめている。これも一つの「コシ」問題だろう。

魚座時代は「捏造」が話題になる。魚座は「あってないもの、なくてあるもの」を表す。
映像、マジック、神話、前世、そして捏造だ。


一里塚

2007年04月13日 | 星の流れに

ついに、100本目!
13日の金曜日とはおめでたい。

原稿のつもりで書き始めた。
ブログらしく日記風にと思ったが、こういうのも良いかと、「うぴょーっ」とか、書きたい誘惑には耐えてきた。
世相史観」天王星12星座も一通り書いたので、これからはもう少し気楽に書きたい。と言っても、若者調ではヒンシュクものだから、そう変わりようもない。

書いてみて、ブログと本は、テレビと映画の違いだなと思った。
映画はお金を払って観るから多少面白くなくても結末がわかるまで我慢する。解りにくくても何とか理解しようとする。
テレビは気ままにチャンネルを変えて、チョット観て面白くなければパッと他に移る。制作側も、何とか逃すまいと刺激を連続させ、ネタがなければ捏造する。
ブログも、何とか観てもらおうと、刺激的タイトルや記事、写真を上げる。それが無ければ、プライバシー暴露や守秘義務違反、しまいには放火や殺人までやらかす。
テレビは将来、声だけ大きい雑音番組は消え、ニュースや教材だけになるような気がするが、何事もコンテンツの時代だから、どのメディアも内容のあるものに淘汰され、ネット社会のにぎわいも、始めはヤミ市でもやがて専門店化していくのだろう。
にぎわうブログ縁日の片隅で、祭りとは場違いな豆腐屋のように書いていこうと思う。


男の足女の足

2007年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、「男の足で一時間だが、女の足なら・・・」といった言葉を聞かなくなった。女の足が速くなったというわけでもなさそうだ。歩く時間で距離をイメージする環境が無くなったからだ。今では「駅まで3分」の不動産広告ぐらいだ。(1分80m)

こうして、人間の身体感覚は確実に消えているが、何を失ったのか、今ここに無いものはわからない。シッポを持って生活するとどんな感じなのか人間にはわからない。

冬の寒さも、平安時代の寒さを体感していなければ「冬はつとめて」と言われても、緩急の妙は想像もできない。
エアコンで軟弱なミノ虫になった現代人は、石油や電気が切れたとたん、半数以上は消滅するだろう。

だからといって「根性」を呼び覚まして褌で水垢離しても仕方がない。文明はそれ自体が進化だから、毛のないサルが毛皮をまとったように、さらなる文明進化しか道はない。進化は究極のサバイバルだ。

文明進化と人間の肉体退化は比例しているような気がする。
文明の利器が肉体を補えば、肉体は脆弱になり、矮小化し、やがて消滅する。その間、どんどん人工臓器に入れ替わり、やがて、残った頭脳も代替物の方が優秀になる。人間の定義も変わっていく。

SFアニメの観過ぎと、笑えない状況が進行している。サイボーグ技術は始まったばかりだが、技術の相乗効果は倍々ゲームになる。まず実現するものと考えていていた方がいいだろう。

しかし、それは明日起きるわけではない。今生きている人間は、あちこち病気にさいなまれ、温暖化を心配し、悪い頭で殺し合い・・・しながら、この面白くもない現実を生きていくしかない。なぜなら、苦難が進化のゆりかごだからだ。


レッドソックス

2007年04月08日 | 世相史観

「赤い靴下」は魚座だ。12星座の最後、魚座は人体の最後=つま先を表す。
現在、魚座にいる天王星は異変や革命。革命と言えば左派と思われるが、そういう意味ではない。ある状態に異変が起きることだ。84年前にロシア帝国が倒れてソビエトになったが、天王星が同じ位置に来たら今度はソビエトが倒れてロシアになった。

さて、天王星84年周期は、もちろん野球も例外ではない。
イチローがジョージ・シスラーの安打記録を84年ぶりに破ったのは絵のようにできすぎた話しだが、同時期にはベーブ・ルースの出現で、その後のメジャーはパワー野球にシフトし、シスラーの影は薄かった。ところが80年後にホームラン記録が次々生まれたにもかかわらず、イチローの出現でシスラーも見直され、今度は技とスピードが見直されている。

レッドソックスは、1920年、金を得るためにベーブ・ルースをヤンキースに放出した。1918年以後、2004年まで「バンビーノ(ルース)の呪い」と言われ一度もワールドチャンピオンになれなかったが、天王星が魚座に来ると86年ぶりに優勝した。
そして、2006年、大金をはたいて松坂を獲得。84年前の一件が、よほど懲りていたらしい。つまり、今度は逆のことをしたわけだ。(投手と打者も)
そう言えば、ベーブ・ルースと松坂。丸ポチャで愛嬌のある面影は再来かもしれない。


なお、昨年レッドソックスが無理をしたのは、木星がサソリ座でレッド=赤=サソリの影響もある。レッドソックスはサソリ座と魚座の球団で、どちらも影響する


CMは変容宮

2007年04月06日 | 占いばなし

ニュースから
天王星の魚座現象では、離婚後300日規定問題は「胎児」の魚座。アトラス・プロモーションが子供タレント登録商売で脱税は、映像子供タレントで魚座。
木星の射手座現象では、英会話NOVAの商法が裁判で否定され、昨秋から経営改善を試みたラド・インターナショナルも倒産。(NOVAの名前は水瓶座だが、外国分野の業界として)
放送法改正はもちろん射手座。

NOVAのように、何の分野でも、大宣伝はまず「アブナイ」と思ってまちがいない。中身があれば小さな宣伝で充分だし、宣伝による消費者の誤解も生じ、トラブルになる。だいいち、宣伝代を出せるほど荒稼ぎをしているということで、ボッタクリだ。経営的にも大宣伝は国税局に目をつけられる。
テレビで宣伝した上で、営業マンや電話で「テレビでご存じの・・・」ときたら「断る!」

宣伝はいずれにしても変容宮の分野だ。情報伝達は射手座、双子座で、幻想を抱かせるのは魚座。買わなきゃ損と思わせるのは乙女座だ。もともとテレビや新聞雑誌は宣伝で成り立っている。

CMの中身をタイプ分けすると、
○社会情報型の射手座、双子座
  「奥様、ご存じですか・・・」
  「欧米では・・・」(欧米かッ!)
○欲をそそる乙女座型
  「今なら・・・」「大感謝祭!」
○酔わせてごまかす魚座型
  「この快感・・・」外人動物子供の登用

映画でも昔から、子供と動物は当たると言われるが、CMに動物や子供を出してくるのは反則だ。特に魚座時代の近年「犬」が多いが、チワワの会社はどうだったか述べるまでもない。
また近頃は、うるさいマナーに思わず「お前が言うな」と言いたくなるウソっぽいCMもあるが、これも錯覚を起こさせる魚座だ。昔のドラマ仕事人?で、『アッ、なりませぬ・・・』と言いながら布団を敷く尼さんを連想する。


宇宙風

2007年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

(千の風になって 3)

オーロラの原因にもなっている太陽からのプラズマを太陽風と呼ぶそうだ。地球大気のバリアのように、太陽系を銀河宇宙線から守っているらしい。死の宇宙も大きな息吹で満たされている。
われわれ生物にとっての死は、次元を替えて見れば大きな生、大きな命だ。
今では、ビッグバンで宇宙は限りなく拡大しているのも常識だ。難しい学理はさっぱりわからない。わからないから勝手な妄想ができる。
今、無限に拡大していく宇宙は、どこかで縮小に転ずるのかも知れない。もし宇宙が生命のような存在なら不思議ではない。
あるいは、拡大するだけしてしまうと消滅して、次のビッグバンが始まる・・・とか、ゴム風船のようにクルリと内外が反転して、拡大が縮小を意味するとか・・・妄想は尽きない。

おそらく、宇宙の姿はどこまで行っても人間にはわからないだろう。無論、わかったと思う時は何度も来るだろうが。
同じように、命のわけはどこまで行ってもわからないだろう。だから、わかろうとする必要もない。それでも、生命の歴史を概観すれば、何となく答えが見えるような気もする。

命は宇宙の営み
始めはじわりと動き始めた生命が、さまざまな形態に変化し、影響し、地球とせめぎ合いながら束になり、漠然とした方向性を持って進み始める。生きているだけで地球環境を変え、地をはうものから天翔るものとなり影響を加速させ、知能を持ち地球を激変させ、さらに宇宙へ影響を及ぼそうとしている。
この一連の動きは、単に、人間が自然環境を破壊していると言うより、もはや一つの意志に導かれた営みだ。環境破壊も人間にとっては不都合だが、これも意志に仕組まれたステップかも知れない。
人類がこれを乗り越えるか滅ぶかは人類自身が選ぶことだ。どういう結果になろうと、地球生命ガイアは営まれていく。

われわれの命は滅びることなく、命を重ねガイアとして共に生きる。
この営みを、魂は往来すると喩えたのが輪廻だろうが、現代人にはもう「魂」の方便は必要ない。人体や地球の姿を知った今、死は消滅ではなく再生の始まりであることを理解できる。

生きている今の「わたし」が魂になって生き続けるのではない。今の「わたし」もガイアの一部であり、「わたし」がいなくてもガイアは生き続ける。ガイアに生まれた「わたし」はガイアにとけ込み消滅するが、何も失われてはいない、ガイアと共に生きている。

ガイアとして生きる命は、宇宙として生きる命でもある。宇宙風の息吹の中で、生となり死となり、生々流転する大きな命が失われることはない。そして、解脱することもなければ、その必要もないのだ


エイプリルフール

2007年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

「ウソをついても良い日」が必要なほど、人間は正直だろうか。
「私は一度もウソをついたことはありません」は、誰もが笑う最大のウソだ。
じゃあ、なぜ、ウソをついても良い日があるかと言えば、「この日しかウソをつきませんというウソ」を隠すための、免罪の日としてあるのだろう。あたかも、私たちは正直者ばかり、のような気休めと偽善のために。

ウソがいけないのは、それがウソだからだ???
人間は快適に過ごすために、現実を直視しない虚構のバリアを張って生きている。もっと言えば、人間の五感自体、すべてを感知するのではなく、大抵は無視したり、不都合な感覚を快感にすり替えたりして過ごしている。
人間社会も、現実をすべて直視し対応すればバラバラになって成り立たない。集団を維持するバランスのために、ウソや無視で固めて、形作られている。だからどこまで行っても不条理は無くならない。
そんなウソ社会を心地よく維持していくために必要なものがもう一つのウソ。物語、ドラマ、小説だ。これはウソですよとすることによって、社会の大ウソを真実らしく見せ、一方で大ウソに馴染む教訓とする。

勘違いされそうだが、ウソ社会がいけないと言っているのではない。社会はウソでしか成り立たないことを知り、ウソや矛盾におおらかな気持ちで暮らしていかなければ、かえって「実態」を見失うということだ。
目先の正直や真実、正義だけを追求していると、家の外は毒ガスが撒かれていると言われれば、自分で確かめもせず家に閉じこもる様なことになる。
ネット情報もそうした危険に満ちている。