魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

現実直視

2011年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

しかし、それにしても、中国の腕力覇権には困ったものだ。
と、思うのも、日本の立場から情報を得るからであり、中国人にすれば当然のことを、世界が意地悪をして圧力を掛けて来ると受け止める。

戦争は常に、そういう風にして起こるものだ。
自分の立場だけで考えれば、自分をジャマする者は常に悪者だ。

だが、双方の報道や情報を比較しても、今の中国には何の大義もない。
力の論理だけしかないからだ。

150年堪えてきた中国にすれば、ようやく大国の立場を取り戻したのだから、大国として許される当然の振る舞いだ。という事だろうが、気の毒だが150年の冬眠の間に、世の中はすっかり変わってしまっている。

大きい者、力の強い者が、弱者を従わせる世界は、徐々にではあるが、過去のものになろうとしている。
中国の思考や態度は、世界の流れに露骨に逆らうものだ。
しかも、そのことに、当の中国は、まったく気づいていない。

最大の原因は、中国が軍事力で建国し、いまだに軍中心の政治体制のまま、金を持ってしまったことだ。
軍人にとって外交とは、力比べであり、政治の最大関心事は強兵であって、外交相手とは戦争相手に他ならない。

軍事力に自信を付ければ、次には相手を屈服させ、勢力圏を広げることしか関心がない。「ややこしい話」など好まない。それは、日本の軍部の歴史で、日本人は嫌と言うほど体験した。
今の中国の原理は、すべて軍国時代の日本と同じだ。

社会的に戦争ドラマが好まれ、外国のすることは全て敵対行為であり、国の方針に異を唱えるものは非国民として、庶民が誹謗する。
御用マスコミは、自国が如何に強大かばかり宣伝し、外国を非難する。国民もそれに酔って同調する。

しかし、少なくとも一つだけ、日本と違うことがある。
中国人は極めて現実的、良くも悪くも現金だ。
自分が間違っていたことを、現実を見て知れば、直ちに考えを変える。
変に、感情に引かれて、現実を見ても信じ続けると言うことがない。
信じ続けるだけでは、何の得も無いからだ。

この点、日本人は「こころ」を大切にする。つまり、思いや信念に従って生きる。日本人は、それを良いことだと思っているが、現実より観念に生きることの危うさは、戦前に体験したし、今また、韓国の日本に対する「恨み」という思い込みにも、戸惑わされている。

互いにどう思うかは別として、日本人は体質的*には、やはり、中国人より朝鮮人に近いようだ。それがよけい近親憎悪を生むのだろう。
本気に付き合おうと思えば、体質の違う中国人の方が、むしろ、付き合いやすい。他人であればこそ可能になる「君子の交わり」だ。
ただし、中国人が現実を見る日が来ればの話だが。


文化的に言えば、中国と朝鮮は兄弟であり、日本は隣家の一人っ子


子供騙し

2011年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム

近年、日本の企業が中韓にやられっぱなしなのは「雑さ」がないからだと言ったのだが、この件についてもう少し考えてみたい。

日本文化は、1500年の箱入りの個室で育ってきた一人っ子だ。
誰にも生活文化をジャマされることがないから、他人のニーズに「とりあえず素早く」間に合わせる必要は無かった。

物を作ることは、他人の要求に応じてではなく、自分の興味を満たすために行われた。
基礎から仕上げまで、徹底して手間と時間を惜しまず、自分の納得いくまで完成度を高める。
作者の精神と作品が一体化することが「ものづくり」というものであり、それが職人気質として、尊重された。

幕末に来日した西洋人は、日本の職人が、納得いくまでゆっくり眺めて考えながら、仕事をしていることに、驚いたという。

この精神は、縄文1万年で培われたものであり、流入してきた大陸の合理性に出会って1500年、さらに洗練された。
縄文の執拗なまでのこだわりに、弥生の「使い勝手の良さ」が加わり、それが、シンプルな様式美に磨き上げられた。

美しさと合理性が、日本製品のクオリティーとなり、「MAID IN  JAPAN」の信用を高めた。現時点で品質は世界一だろう。

世界は幼稚園
しかし、大量生産工程までクオリティーを高めたことで、その工作機械と行程を用いれば、誰でも、高品質な製品が作れるようになった。
つまり、日本製の高品質な「レゴ」があれば、子供でも素晴らしい作品を簡単に作れるようになったのだ。

日本は「レゴ」を作っても、それでできる造形を作品とは考えない。レゴで作る作品はあくまで玩具であり、改めて完成度の高い製品にしようと時間をかける。始めからレゴで製品を作ることなど考えない。
一から製品作りをしようとするから、組み直しの融通が利かない。

ところが、品質にこだわっているのは日本人だけで、世界の多くの人々は、使って便利、楽しい新体験を求めているから、美しい美術品でなくても、面白ければレゴ作品で充分なのだ。

「iPod」など、まさにこのレゴ作品の代表だ。しかも、この「アイデア」を、レゴで真似るだけなら、ほんとうに誰でもできる。
「産業革命パラダイム」大量生産の究極の時代に、勝って利益を上げるのは、完成度より、アイデアと素早さだ。

職人の目から見れば、子供の玩具であっても、「子供だまし」を買いに来るのは、子供なのだと言うことを知らなければ、売りさばけない。

産革パラダイムは、子供に等しくパンを配るシステムであり、王様に宝石を奉るものでは無い。雑さも商品価値なのだ。

日本の伝説となった工業製品も、決して、完成度の高い物ではなかった。実用アイデアが価値であったということが、忘れられている。
ゼロ戦、トランジスターラジオ、ウォークマン・・・
あり合わせの知識素材を駆使して、実用を追求するアイデアの塊だった。

無から有を生む時に、始めから完成度など求めるべきではない。
ただ、「子供だまし」ほど儲かる商売はないが、
人命を乗せる乗物や原子力に、決して雑は許されないことも事実だ。


大転換 6

2011年09月28日 | 大転換

土星や木星は、目先の短いサイクルで、インパクトはあるが、大局にはあまり影響しない。

時代の大きな流れは、約84年の天王星、約165年の海王星、そして、ざっと250年の大周期、冥王星などが織りなす関係で、生まれる。

現在、21世紀初頭の様相は、幕末~明治に最も近い。
(→大転換2
今起こっている世界の動きを、ただ、昭和初期の再来と思っていると、核心を見落とす。

江戸幕府の終わりを「幕末」と呼ぶなら、今は、維新以来の日本を西欧民主化の時代として「民末」と呼ぶべきなのか、それとも、帝国主義の時代と捉えて「帝末」と呼ぶべきなのか・・・よく分からない。

江戸幕府250年の中期にも、大きな変革があったから、維新からまだ150年であることを考えれば、維新後の日本の歴史時代は、帝国主義時代と同じで、まだ中期で、強いて言えば、「帝国主義中期」。

政治史の一方で、文明史的には世界的に、産業革命250年の「末」であり、化石燃料、大量生産・大量消費の終わりでもあるから、「産末」と呼ぶべきか、燃やして作る時代の終わりで、「燃末」と呼ぶべきか分からないが、「燃末」は「年末」みたいで、いいかも知れない。

産革パラダイムは、大転換期だが、帝国主義時代はまだ中期だ。
遅れてきた中国は、本当に「帝国」として、古代帝国方式で帝国主義を展開しようとしている。

帝国主義が結果的に専制を廃したにもかかわらず、一党独裁のソ連が破綻したにも関わらず、中国は民主主義を押さえ込んで、世界に覇を謳えようとしている。産業革命パラダイムを背景とする帝国主義は、民主化無くして成り立たない。
帝国主義は帝国ではないから主義と呼ばれるが、中国は新帝国だ。

帝国主義は産革パラダイムの産物だから、まだまだ続いているし、中国が参入しようとするのは、ごく自然の流れだ。

しかし、江戸も後半は様子が違ったように帝国主義も変質していく。
産革パラダイムの柱であるエネルギーが転換することで、帝国主義も影を潜め、次の経済体制に転換していくだろう。
当然、中国のような新帝国は破綻するしかないが、そのことで、中国も世界も生まれ変わる・・・はずだ。

将来はともあれ、現在は、間違いなく幕末だ
北の海にロシア、東に疲弊のアメリカ、西に危うい中国、朝鮮は日本を罵り、西欧諸国はアジアを利用しようとする。
国内は、政治腐敗しトップが替わり大老の暗殺、地震津波の大天災が相次ぐ・・・
欠けているものは「志士」だけだ。


ガマンだ

2011年09月27日 | 星の流れに

天秤座に土星が来た日本は、実際、このように散々な目に遭っているが、次に土星が移動するのはサソリ座だ。

サソリ座と言えば朝鮮半島だから、日本とはまた違った災いが起きる。
前回、土星がサソリにいた時には、ソ連による大韓航空機撃墜事件が起きている。その前の土星は、朝鮮戦争終了時で、何をあげていいのか分からないくらいの暗黒時代で、李承晩ラインもこの時からだ。

土星が来れば、その国の顔に不幸が起こる。前回の天秤土星では大平首相が死んでいるし、今回は首相がどれもボロボロになった。
朝鮮半島で何が起きるかは、誰でも想像してしまうだろう。

惑星が影響し始めるのは、前の星座の25度の辺りからだと言われている。土星が、現在の天秤座の25度になるのは、今年の11月末で、以後、2012年の夏場5~8月に22度まで戻るものの、ほとんどサソリ座への影響圏に入る。

今、ぼちぼち、日本の不幸が去り始め、替わって朝鮮半島に不幸が移りつつある。
なを、正式に土星がサソリ座に入るのは、2012年10月6日だ。

その前に、木星が6月に双子座に入るので、日本には小さな春が来る。


パタパタ

2011年09月26日 | 動物

寝る前にシャワーをして、裸のまま着替えを取りに行こうとすると、
パタ、パタ、パタ・・・という音に、取り囲まれた。

「えっ」と見ると、大きな蛾が一匹、飛び回っている。
「うわーっ!」毒蛾だったらマズイゾと、思った瞬間、全身鳥肌、
身の毛がよだった。(元来、蛾が大嫌い)

しかし、それにしても大きい
アワてて避難しながら、見ると、「コウモリだ
一瞬、頭がパニックになった。『何で、コウモリが?』

ついに、ドラキュラが来た、 とは思わなかったが、
「どこから来たんだろう?」「どうしよう?」
なにしろまだ、スッポンポンだ・・・

とりあえず、急いで服を着たことにして、覗くと、まだ飛び回っている。
コウモリなら、蛾より賢いし、毒の心配もない。
飛び回っている下を通り過ぎて、隣の部屋の窓を全開し、引き返した。
しばらくして覗くと、暗い隣の部屋で、パタパタと聞こえる。
急いでドアを閉めて閉じ込めた。もう、窓から出るだろう。

30分ほどすると、音がしなくなったので、恐る恐る覗いてみると、出て行ったらしい。静かなものだ。

しかし、それにしても、いったい、どこから来たんだろう???
家中、網戸だから、入る余地はない。仮にどこかが破れていても、そこからコウモリが、わざわざ入り込むとも思えない。

色々考えているうちに、夕方、薄暗くなってから、ほんの2~3分だが、外灯を付けず玄関を開けていたことを思い出した。
あの時、飛び込んだとしか思えない。

まあ、それにしても、ツバメもヘビも来る玄関だが、コウモリまで来るとは思わなかった。

ドラキュラ様は嫌だが、そのうち、いい女が「おじさん」などと言って現れるかも知れない。その時は、必ず尻尾を確認することにしよう。


モテル?

2011年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム

付き合い始めた男性についての相談で(もちろん女性から)、
「この人モテる人ですか?」と聞かれて、「例えばどんな風に」と聞き返した。

近頃「モテ期」と言う言葉は頻繁に聞くが、「モテキ」とか言うマンガは、どんな話か全く知らない。(突然モテ始めた話らしい)
ただ、「モテ期」の概念は、初めて聞いた瞬間、すぐ理解できた。
占い的に、確かに「モテ期」のようなものはあるからだ。

モテるモテないは、顔より精神の資質だ。
姿形が黄金比や美人画のように整っていても、モテるとは限らない。
写真で美人でも、動画で動き出すとガッカリすることがあれば、たいしたことないのに、動いて話せば魅了される場合もある。
美人の星

第一、「モテる」とはどういうことを言うのかが問題だ。
最初の話で、「モテる人か?」と聞きたい理由は、浮気されやすいかを心配してのことだった。

どうも、多くの女性は「モテる男は浮気する」と思っているようだが、極端に言えば、これは逆だ。
今でこそ、女の方から仕掛ける時代だが、生物の基本は、雄のアピール(仕掛け)であり、雌は待って選択する。

その雌の立場からすれば、仕掛けられることが多ければ浮気することになると思いがちだが、それは自分の本音で男を見ている。
雄は仕掛けるものであって、仕掛けられることを前提としない。

もちろん「据え膳食わぬは男の恥」という「教え」があるから、体当たりして落ちない男はいない。しかし、女の体当たりは男ほど直接的ではないから、よほど条件が良い(制約が無い)か、鼻息の荒い男でなければ動かない。

このことは、裏を返せば、どんなに堅い女でも、制約を乗り越えて、熱心強引に迫る男には、よほど嫌な相手でない限り、大抵の女はOKだと言うことになる。(理論的には)

で、男が「モテる」とは、
誰から見ても魅力的で、騒がれることなのか、浮気性で次々女に手を出すことなのか。これは、ほとんど反対の現象だ。

男が騒がれるときは、男としての積極性は減退する。それでも、世の中の女は想像以上に過激だから、体当たりで撃沈されることもあるだろうが、基本的に、騒がれる男は意外と堅い。

ところが、およそ目立たない、女眼にどうでも良いような男は、悶々として、男としての攻撃性が煮えたぎるから、常に積極的にアタックする。熱心強引にアタックしてみると、意外と女は簡単なものであることを発見する。すると、この積極性は癖になる。

つまり、騒がれる男と、女に不自由しない男。どちらがモテることになるのか、明らかな定義はないようだ。

ただ、以前見たアンケートによると、女に手の早い男は粗チンで、大物は一穴主義なのだそうだ。このことと何か関係があるのだろうか。


税葬送曲

2011年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

ようやく秋らしい空が広がった。
彼岸を過ぎた途端、雨が上がり、寒いくらい、突然、秋が来た。
熱気や雨から解放されて、やれやれと思えば、よけい被災地の人達の心情を思ってしまう。

この思いは、被災していない日本全国の人が共有している。
もしかすれば、日々に追われる被災地の人より強いかも知れない。
戦地で生き残った人が、何で自分だけと思い続けるように、死んだ肉親に悔いが残るように、生き残った後ろめたさと同じ、自責の念なのかも知れない。

そんな気持ちで沈んでいるところへ、電力不足、円高、世界的経済危機・・・と、先行きは暗い。街はすっかり節約ムードに覆われている。

こんな時に、金がないからと、ゾウゼイ、ゾウゼイ・・・と謳う。
まるで、悲劇ドラマのバックミュージックだ。悲壮感をさらに盛り上げる。弱り目に祟り目とはこのことだ。

金がないから金を出せ、の発想は、官僚の母ちゃん発想だ。
家計簿屋」で、3年間の税金免除と言ったが、いよいよ、本気で増税するらしい。日本にトドメを刺すのは円高ではない、官僚増税だ。

「増税は官僚の腕の見せどころ 帳尻合わせて国家絶命」

 チ~ン

税金免除は夢なのか
ズルズルと国債発行で世界一の借金国になった日本。絆創膏を貼り重ねているうちに、もう瀕死の重傷になった。
ここまで来れば、一か八かの勝負しか残っていない。

今さら、国債に頼らないなどと言わず、むしろ3年間、国債でまかない、徹底的に規制緩和し、あらゆる国庫収入を止めてみてはどうだろう。4年目から、3年間の負債を10~20年に別けて上乗せ徴収すれば、トータルで、むしろプラスになるのではなかろうか。

細かいことを言い出せば、すべて不可能になるが、死ぬか生きるかの時には、やむを得ない腕の切断もある。日本は生死の瀬戸際なのだ。

世界的な不況で、行き場を失ったマネーが一気に押し寄せるから、様々な弊害も出るだろう。それこそ、「優秀な」日本の官僚に考えてもらって、とにかく今は、一刻も早く、民を解放して欲しい。

選挙で変わらないなら、徴税停止の署名運動をしてはどうだろう。
執拗に総理の支持率ばかり調査するマスコミは、税金アンケートは何故やらないのだ。


これから(3)

2011年09月23日 | 大転換

次の250年
大量生産、大量消費の産業革命パラダイムで、加工貿易に徹して富を築いた日本は、資本主義の優等生故に、最も早くこの構造の限界にぶち当たってしまったのではなかろうか。

無能な政治は、状況の必然で、何も日本だけに起こることではない。無能政治に嫌気した世界は、中国のような、古典的なトップダウンの方が良いように思い始めているが、トンでもない。
上昇も早いが、下降も早い。

人類がグローバル化に進むには、中央制御ではなく、ネットワークが有効であることが、概念として、徐々に明らかになりつつある。
個々に独立した頭脳機器が、互いに融通し合って全体を維持する。
ITで実現している方法が、人類世界にも適用できる。

最も身近なところで、人体の成り立ちは大きな複合体であり、生命がそれを実現しているように、人類は個の独立、地産地消に基づいたグローバル社会を築いていくしか道はないだろう。

日本が世界の先頭で直面しているのは、「産革パラダイムの近代国家」の放棄と、グローバル化への拡散の課題で、世界初の未体験ゾーンに飛び込まざるを得ない。もし、自ら行わないなら、時の趨勢が日本国を解体するだろう。

今の超円高は、神が与えた「マナ」だ、世界に日本力を拡散し、列島にコアな日本を確立する最後のチャンスだ。
既存の技術を持って製造業を大々的に海外移転し、国内に技術開発の環境を再構築する。

世界に日本化を広げて融合し、一方で、知を醸成輸出する日本列島を確立する。そのことは日本のためでもあるが、必ず世界にも貢献することになる。
狭い環境を生きる日本のノウハウは、狭くなる地球に欠かせないものだからだ。

教育も大転換」 「し・2」 「上品国・1


これから(2)

2011年09月22日 | 大転換

世界はマネーの大洪水
無能の見本とされる今の日本は、不幸中の幸いなのかも知れない。
世界は今、経済も政治も操縦不能に陥りかけている。

結局、「産業革命250年の大転換」であることの認識が、世界的に欠けているからだ。今の事態を、過去に繰り返された経済循環の一環と捉えているから、定石通りの手直しや改革しかできず、ズルズルと破局の谷底に引きずり込まれている。

流動マネーと国家は、互いのシッポを飲み込もうとする二匹のヘビだ。もつれ合い、共倒れに向かって転がり続けている。
共産主義の破綻で、資本主義の勝利と思ったとすれば、大間違いだ。
どちらも産業革命が生んだ、カインとアベルだからだ。

世界を一つの国家にするか、国家間競争で生きていくかの二局は、
いずれも、大航海時代に始まるグローバル化の過程、産業革命パラダイムの構造である「国家」を前提としている。
今起こっている大転換は、この構造の消滅だ。
国家によらないグローバル化への模索が始まっている。

大転換の時には、沈む過去の船を捨てた者が生き残る
世代交代では、死に行く年寄りより、生まれ来る命に掛けてこそDNAが生き残る。産革パラダイム250年の命は終わろうとしている。

次の250年を見据えたヴィジョンを描き、そこに向けて、歩み始める者が、次の時代の勝者になれる。
今、先進国として、最も早く行き詰まり、定石の手法に成果を見いだせず、その上、大災害に見舞われた日本は、もう万策尽きている。
しかも、空前の円高だ。
何らかの、新しい道を歩み出す以外に、もう、道はない。

円高は一見、日本にトドメを刺すような事態だが、過去を捨てる気になれば、むしろ、沈む船にすがりついている世界を尻目に、未来に抜け出す千載一遇のチャンスなのだ。


これから(1)

2011年09月21日 | 大転換

泥水に呑まれた日本
台風15号は、沖縄沖でクルッと回って、フェイントを掛けてからいきなり襲ってきた。台風も色々だ。

年中行事の台風に加え、都会直下の大地震、海は津波、山は土石流、川は氾濫・・・
この狭い島国は、年がら年中、天災に揉まれて息つく時がない。

恨んでも仕方がない天災国で、日本人は「水に流す」文化を育んだ。
過去に囚われて無駄なエネルギーを費やすより、明日に向かって今を生きる「能力」を身につけ、対策と備えに工夫を重ねてきた。

その生き方から生まれた、尽きない創意で国力を培い、こんな小さな国が経済大国と言われるまでになった。

ところが、戦後60余年、順風満帆で成長したためか、成長の過程で、守りに入り、本来の前向きの活力や創意工夫の意欲を失った。
しかも、その失ったものすら気づかず、ワケがわからないまま衰退し、閉塞感に沈んでいた。

そこに、今回の東日本大震災が、頭から水を被せ、さらに、原発という、これも保守惰性の産物に、鉄槌を下した。

戦後最悪のこの半年。日本人は確実に覚醒した。最も象徴的なのは節電で、国民のやる気と団結意識がハッキリ数値に表れた。
さらに、目には見えないところにも、変化は確実に起こっている。
その変化は、5年後、10年後に現れてくるだろう。
ようやく、下り30年の流れから、上り30年に切り替わった。(日本の輪廻

原発と同じ、惰性の産物である日本の政治は、見ての通りすぐには変わらないが、「脱原発」「脱おざなり政治」の気運が充ち満ちている。
このまま元のサヤに収まるわけがない。

国民にたかり、政局に明け暮れ、惰眠をむさぼってきた政治屋を一掃しない限り、日本は前に進まない。今や、国民は確実に目覚めた。
火事場で喧嘩する消防士は、犯罪者だ。

しかし、目覚めて何をするかは、結局は国民次第だ。政治改革がどのように展開するかで、国民の資質がためされる正念場になるだろう。

泥水をさばくのは、ドジョウだろうか、ナマズだろうか。


原発反対

2011年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

原発事故以来、多くの有名人や知識人が、反対宣言をしている。
もちろん筋金入りの人もいるが、事故が起こってから、急に反対の声を上げ始めた人も少なくない。

「良識のある有名知識人」なら、自分の見識に基づいて、何故、これまで大きな声を上げてこなかったのだ。
その上、今度は逆に、日本のこの現状で、直ちにすべて止めろという、成り行き次第で、子供のような感情論をよく平気で言えるものだと、その無責任さには、腹立たしくも、滑稽でさえある。

とはいえ、何であれ、原発反対の声は有り難い。

有り難いが、感情論が盛り上がると、世間は反感情論で動き出す。
感情論で動く世間は、一部で過激な感情論が盛り上がると、逆に動き出すから面白い。この辺りがバランス感覚なのか、感情論に対する反感という感情論なのだから、やはり人間社会というものは、感情で動いている。

原発反対を叫ぶ人に言いたい。
原発反対より、新エネルギー政策を前面に叫ぶべきではないのか。
より良いものがあれば、自然に無くなる。代わりが先だ。

くどいが、何度でも言いたい ↓↓↓

思わず」、「うんざり」、「どこへ転換」、「掛違い」、「電気自動車
年寄りは踊れない」、「もういい加減にして欲しい」、「ヘリコプター


一期一回

2011年09月19日 | 占いばなし

どうも、三碧のオバマ大統領は、やはり一期になりそうだ。
三碧は上昇も早いが、下降も早い。三碧は何故、三日天下になりやすいのか。

九星では、三碧は雷であり、一瞬の驚きを演出するが実態はない。
一瞬、世間を驚かせ、それで消える。
季節で言えば春。人生で言えば少年期。成長期であり過渡期だから、直接成果を出すものではないが、大きな可能性を感じさせる。

成長期の少年は、大人より大人のようなことを言い、スポーツでも、時に、誰も想像しなかったような力を発揮する。
「今まで生きてきた中で一番しあわせです」のように。

この能力は、実は本人のものではない。
自分の体験や思考、工夫から生まれた結果ではなく、先人、周囲の大人の智恵を素直に実行して出て来た結果だ。

大人が「こうすればよかった」と思う時には、自分にはもうその肉体条件がないから、過去の自分と同じ年齢の子にやらせれば、成功することがある。年寄りの知恵のようなものだ。

三碧は、受容体であり、発信源でもある。少年であり、マスメディアであり、花は咲くが実りはない。誰でも希望を感じる「春の季節」だ。

花から実は想像できない
しかし、「子供の頃は神童で大人になったらただの人」と言うように、
美しい花が美味しい果実を実らすとは限らない。

政治に三碧が登場するのは、多くは、最悪から一息ついたような時、まさに、春が見え始めた時だ。
三碧のヒトラーが現れたのは、第一次大戦後のドイツがようやく少し落ち着いた時であり、同じくプーチンもロシアが何とか国の姿を取り戻した時だ。そして、オバマも、911から、アフガン、イラク後、フセインも死に、一応のピークが過ぎた後だった。

三碧は受容体だから、大衆の思いを感知して、ストレートに語り、実行する。
ヒトラーは経済を一時的に立て直し、プーチンは大国のプライドを取り戻し、オバマは平和を宣言した。

いずれも、自分に哲学が有ってのことではない。その時の大衆が切実に望み、考えていることを、派手なパフォーマンスでやって見せた、単なる放送局だ。

確かに、誰でもが「こうすべきだ」と思うことは、表面的には正解だから、その場で一時的には成功するが、将来を見据えた智恵ではないため、たちまち、次の手に行き詰まる。

ヒトラーは国民を戦争に巻き込み、プーチンは影を潜め、オバマは選挙に勝てないだろう。国柄による違いはあるが、美しい花はすぐ散ってしまう。そして、時にはとんでもない実を実らす。


事の善悪

2011年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム

「して良いことと悪いことがある」と言う。
今日も「サイバ-化」「無法地帯」の続きになるが、結局、モラルの問題以前の、「腕力と知力」の問題だろう。

人は、肉体の成長と、智の成長のバランスを計りながら成長する。
日々大きくなる腕力をそのまま使えば、他人も自分も傷つける。
それを、体験の痛みで知り、調整することを憶えていく。

自分を知り、他人を生かし自分も生きる。それができるのが大人であり、小さな子供でもこれを身につけている人もいれば、大きな大人が、全く自制できない人もいる。

自制というと、日本ではすぐ自粛になるが、日本の自粛は、「どんなお叱りを受けるか解らないから」止めておくだけで、自分で善悪を考えてのことではない。
自分で考えるのなら、自粛しない人がいても良いはずだが、そうはならないし、それをする人がいれば、寄ってたかってつぶそうとする。

自制は、社会と自分を調整する規範に基づくものであり、究極的には、自然と個人とを調和する規範に基づくものだろう。
この、漠然とした規範を持った人を文字通り、大人(たいじん)というのだろうが、世の中にはあまりにもそうでない大人が多い。

先日、夫の誕生日を祝おうと、落とし穴を掘って、夫婦とも死んでしまった事件があった。
どんな穴がどんな結果を招くかの、想像力の欠如ではあるが、
「して良いことと悪いこと」が解らない、自制心の未成熟でもある。
現実喪失の昨今、この「大子供」の例を笑うわけにはいかない。

デキル事とスル事の違い (実は隠し心得)
何事もそうだが、普通の人なら、できることを何でもするわけではない。オペラ歌手でも湖畔で釣りをしながら歌えば魚は釣れない。
知見のある大人なら、そういうバランスを考えているはずだ。

ところが、人間は使ったことのない力を手に入れると、使ってみたくなる。大きな大人も、この瞬間、子供になる。
携帯を持てば何時でも話したくなるし、カメラを持てば写したくなる。金を持てば高級品を買いたくなる。権力を持てば横暴になる・・・

文明の発達は人間に新しい力を与え、人間は子供になる。使い方が解らないのに使いたくなる。解らないから使ってしまう。
大戦争、核の乱用、過剰生産、自然破壊、マネーの暴走・・・
すべて、好奇心と欲望の結果であり、自制心のない「大子供」が作り出した、大童(おおわらわ)の大散らかしだ。

力を手に入れた子供は、何でもできるような気になるが、有効に使うのは大人の知恵だ。産業革命250年の成長期を経て、人類はそろそろ、スル事を知る、大人になっても良い頃だ。


無法地帯

2011年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

こんどは、NHK職員が靴にカメラを仕掛けてスカートの中を盗撮していた。
この手の事件も、近頃、珍しくない。
見てはダメを見てみたい。見る道具があれば、迷わず使う。

今のような「誰でもパパラッチ」時代の前は、カメラという武器を持つと、遠慮も怖さもなくなり、どこにでも、カメラと土足で入り込んでいった。

日頃、社会的規範に萎縮している人ほど、武器を持つと強気になる。
武器とは、日頃、自分にできないことを可能にする魔法のランプだ。
車に乗ると豹変する人。マイクを握ると離さない人。地位に就くと威張り出す人。取材と称して暴言を浴びせる人・・・

これは、自分が確立していない人だ。
自分を自覚して自己制御しながら生きるのではなく、刑罰を恐れ、権威、威力、腕力を恐れ、無自覚に従っているだけの人だから、抑えが無くなると、逃げ出した動物園の猛獣になる。(賢い動物は、餌のもらえる檻に帰るし、もう一つ賢いと自由を求めて山に帰る)

自分を制御できない人は、幼児期に虐げられ、自由にノビノビと育っていない人だ。気の毒ではあるが、いわゆる、育ちの悪い人であり、大なり小なり、庶民にはこうした要素がある。

兵隊が、略奪に走るのは、日頃、抑圧の中で暮らしている庶民だからだ。戦場という無法地帯で、軍の力をカサにきて、人間として自制心のない行動に走るのは、日頃は、従順なだけで、真に人間としての自覚がないからだ。

指揮官がよほど賢明で、厳しく罰しない限り、どこの軍隊でもどの戦場でも起こりうる。
遊牧略奪民でなくても、縦社会でありながら、庶民から士官学校に上がるような国では、ほとんど例外なくこういうことが起こる。

痴漢や盗撮をする人間だけではない、状況で豹変する人間は、日頃は「我慢」しているだけで、
無法地帯で、武器を持てば、何をする人間なのか・・・
そういうことだと思う


サイバ-化

2011年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ある伝統の内輪だけの会合で、ふと隣の40代の人を見るとスマホをいじっている。機種のことを聞こうと尋ねると、とても便利だと言いながら、「今写真を送ったんだけど」と得意そうに付け加えた。
要するにSNSにアップしたらしい。

主催者の許可を得たとは思えない。特に禁止されているわけでもないが、主催者がこういうことが起こることすら意識、想定していなかっただけで、知れば禁止していたのではなかろうか。

何時も言うように、「秘密」は保たれない時代になるから、秘密を前提にした社会や文化は無意味になる。
主催者がどう思うかは別に、時の必然だと思うから、特に問題にしたり、主催者にご注進しようとも思わなかった。それは主催者が考える問題だ。
ただ、そこに参加する者でありながら、許可も確認もなく逐次、公にするという、集団帰属意識の欠如に、改めて驚いた。

まさに今、これを書いている最中に
「国交省、ブログ掲載で、管制室カメラ禁止」のニュースが出た。
そういえば、あらゆる機密情報の場から「・・・ナウ」的な情報が湧き出している。漏れると言うより、自然に湧いているのだ。

カメラを禁止しても、これまた、様々なスパイ機器が、オモチャ程度の値段でどこでも売られている。
機器やルールの問題ではない、文化の違いだ。

情報化社会で育った人々と、「法と因習の秩序」との断絶だ。
古い世代は、自分の存在が、取り巻く集団に帰属していると考えるから、集団の利害が、直接自分の利害だと考える。(家や会社や国家)

しかし、情報化世代にとっては、自分の帰属先はサイバーであり、
「家や会社や国家」と自分とは、対等ではあるが、関係ない。
帰属集団は自分のアイデンティティではあるが、それに従うべきものではない。例えば、「ゲームのキャラは自分ではあるが、何時でも捨てられる」ものだ。

もちろん、だからと言って、帰属集団をニヒルに見ている訳ではない。
ネット右翼のように、情熱的に彼我を別けようとする。
要はゲーム感覚であり、「皮膚感的な現実感」がない。
だから、現実的に、「まあまあ」と、曖昧に考えることができない。他者を許せない。モンスターは倒さなければならない。

現実感がないから、帰属集団に徹底的に忠実になることや、それを捨てることが、直接、我が身の危険になるとは想像できない。

世界中がサイバーになれば、それはそれなりの秩序と現実が生まれるのかも知れないが、現在は、伝統方式が支配しており、戦争や大災害などの圧倒的な現実が、サイバー空間を破壊すれば、やはり、現実に戻らざるを得ないのだが、
その中で、新感覚と現実は、改めて融合していくのだろう。

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