人の話を聞いて別の世界を知れば、それだけ自分の世界が広がる。
しかし、誰でもが話してくれるわけではない。言葉を交わさずすれ違うのが世の中の人のほとんどすべてだ。
自分も属している世の中というものは、つかみ所が無い。
世の中という、つかみ所のない世界の正体は歴史が語ってくれる。
秀でた人の様々な著述や講演を聞くことも、確かに多くの世界を見ることになるのかも知れない。しかし、それは整った世界であり、教説を賜ることで、感化される場合が多い。つまりアイマスクの世界だ。
「論語読みの論語知らず」は、教説と現実とを対比しながら読まないで、その世界に埋没して読むから、自分の思考が広がらない。
著述や講演も、すっかり真に受けて聞くのではなく、かと言って、何でも批判的に聞くのでも無く、その人のものの見方と、自分が知る現実世界とを比較しながら聞いていく。それが、教説との対話だ。
日本の教育は、こうした思考力を抑圧し、「論語知らず」ばかり育てている。
知識の詰め込みは、東洋全般に言えることで、欧米で東洋人の学生が好成績を上げるのも、ペーパーテストは知識の証明だからだ。
教育や学習の真の成果とは、テストの点数ではなく、世の中で現実対応能力となって現れる「人間力の養成」でなければならない。
アジアでは、日本もかつてそうだったように、荒唐無稽な歴史が社会に信じ込まれ、それによって国に、あるいは世界に、とんでもない暴走を仕掛ける。
これは、知識の詰め込みの「成果」であり、既存の秩序に従おうとする東洋の自然観から生まれたものだ。伝統や権威の継承を第一と考える東洋的価値観にもとづく問答無用の「記憶教育」の影でもある。
個々の人間が自分で考えることを、東洋の自然観はむしろ否定する。
人間が、大自然の秩序や超人に従うことを、美しい姿だと考える。
それが、個人を押さえ込み、それでいて逆に、それを突き破って、結果を出した人間を「超人」として崇め従う。
仏教はアーリア人バラモンの末裔?
ところが、仏教はこれとは反対のことを説いている。
人は神ではなく仏になり、先ずは菩薩として仏を志す。そのために最も大切なことは、自分で考えることだと言う。
瞑想をし、人の話を聞き、自分自身を頼りに考えよと説いている。
インドで生まれた仏教だが、中村元さんが釈迦はモンゴル系ではないかと吐露していた反面、今日われわれが知る仏教は、インドから西域を経て生まれた、非モンゴロイド系の哲学と思われる。
中国を経た過程で、超人伝説のようになっているが、説いている内容は、個人主義的で、人間主義的だ。
すべての人が悟りの可能性を持ち、人を救うためにも先ず自分が悟らなければならないと言う。
そして、そのために最も重要なことは英知の習得であり、それを磨くために、とにかく話を聞けと言う。
人に問い、自分に問い、自然に問う。あらゆる世界の観点を知り、しかもそれが、絶対のものではない事を知らなければならない。
様々な世界を知れば知るほど、「真理は相対的である」つまりは、「空」であることが見えてくる。
絶対を信じれば不条理に怒るが、物事の相対性を知れば、寛容と共存の道が見えてくる。
救いの道は、先ず聞くことに始まる。