魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

無駄ダマ

2022年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

北朝鮮が韓国の首都上空に何機も無人機を飛ばし、悠々と数時間も飛び回ったが、肉眼で見えているにもかかわらず、韓国軍は撃墜することができなかった。
カラバフ戦争など、ウクライナ戦争以前から明らかになっているように、模型並みの無人機が、実戦の場で絶大な威力を発揮している。
1世紀前、太平洋戦争以前から、航空機がめざましい発展を遂げ、巨艦巨砲の時代は終わっていた。実際、真珠湾攻撃を始め、緒戦で帝国軍は航空機で時代を画する戦果を上げながら、ミッドウェーで航空機に敗れた。

今、1世紀前と同じように戦場のゲームチェンジが起こっている。戦闘機やミサイルより、圧倒的にドローンが機能している。
こんな中で、日本は防衛費を増加する。反撃か先制攻撃か呼び方などどうでも良い。
問題は、戦闘機や砲弾の数ではない。戦場のパラダイムをどう捉えているかだ。
巨艦巨砲から航空機に変わったように、重火器、大軍隊の戦争が、ゲリラ戦争とテロリズムの時代を経て、「機能戦」に変わった。

今はネットワークの時代であり、戦争もネットワークだ。何か巨大なものが一点でぶつかり合う時代ではない。あらゆる次元での機能が連動して力を奪い合う時代だ。
そんなことは当然、専門家は解っているだろう。しかし、何時でも何処でもそうであるように、現場と指導者は理解し合えない。
軍事費を増強しても、効率的に使われなければ、それ自体が国を滅ぼす。
最も少ない予算で、最も効果的な方法は何か、それはゲリラの発想だ。

無手勝流で勝つには相手の力を利用することであり、世界は産業において、中国のゲリラ戦に完全に敗北した。日本は先ず、戦争において貧乏国であると認識することから始めなければ何もできない。
戦闘機やミサイルに金を掛けるより、目に見えないもの、デジタアルや電磁等に重点を置き、敵の兵器を無力化し、逆に乗っ取り自爆させる。そうした技術に注力すべきで、これを笑い話としている限り、軍事費で国は滅びる。
ドローンが効果を発揮しているのは、防ぐ手段がないからだ。重火器で重火器を防ぐ、攻撃型の発想では小さなハエは叩けない。ミサイルでミサイルを堕とすのは攻撃だ。
ゲリラの発想は強い者に正面から立ち向かわない。相手の力を分散させ弱いところから叩き、弱体化させる。

力のある者は智恵をおろそかにする。先制攻撃など力任せの発想だから、日本にはそんな力はないと謙虚になり、智恵で戦うことに立ち返るべきだ。日本は柔道や合気道の国で、受けて相手の力で相手を倒す事に長けている。真の専守防衛戦力に金を使って欲しい。無駄ダマにならないことを祈る。

 


逆境の人

2022年12月26日 | 自動車人間学

ワールドカップで、森保一監督の評価は大きく変わった。結果次第でコロコロ変わるファンの評価はこれまで、「決断が遅い!」と散々だったが、金星二つで続投指示に変わった。
一方、岸田総理の就任時の支持率は、「何もしない」ことで期待値が膨らんだが、世界の荒波の中、「何もしない!」と一気に下がった。「検討する」と言うばかりで何もしないのに、突然、軍事費増強を言い出すと、アッと言う間に決めてしまった。

この二人は、自動車人間の「ハンドル」だ。それも、乗用車タイプなので、常識人で、非常手段や裏の裏をかくと言ったことはできない。同じ「ハンドル」でもスポーツ車タイプなら、裏から考え始める。
「ハンドル」は他の機能と違い、「何をどうするか」ばかり考える機能だから、行動が遅くなる。色々なことが解れば解るほど「決断」ができなくなる。ハンドルを切るのは一瞬だが、運転している時は行く先や標識、道路状況など、ありとあらゆる事を観察し思考しながらジッとハンドルを握っている。隣に座っている人には、ただジッとしているように見える。

よく、作家などは原稿の締め切りに追われるが、作家もハンドル的な人なので、仕上げを悩み続けているからだ。一般にハンドルの人は、遅刻かギリギリ間に合うことが多い。
遅刻の多いハンドルだが、意外にせっかちで、一気にやろうとする。ハンドルを切るのは一瞬だと思っているから、なかなか行動を起こさないが、動き出せば一気に決行する。名作が数時間でできるのは、それまでの慣らし運転があるからだ。

岸田総理の軍事費増強は単なる思いつきではなく、悩み続けていたことだから、やるとなったら一気呵成で、見ている人には理解できない。
ハンドルは軍人向きなのだが、実際の軍人はエンジンの人が多い。エンジンは快活で行動力があり、命令の実行は勢いよくやるが、行動に頼りすぎ、猪武者になる。また、訓練やドリルは良くやるので成績優秀で、兵学校のエリートなども多い。しかし、英雄となるような軍人は意外に劣等生が多く、見た目もパッとせず問題だらけの人が多いが逆境には強い。戦争は常に逆境だ。なお、プーチンはエンジンなので逆境に弱い。

森保一監督も決断が遅れることが多く、敗因と叩かれたが、逆境に強いハンドルなので、「負けて元々」のような逆境になると真価を発揮する。死地に活路を見いだせば英雄になる。「満を持して一気に反撃する」のがハンドルだ。森保監督の場合ハンドル乗用車タイプながら改造車になっており、スポーツ車のような動きをする。常にギリギリの1点差勝ちや、今回の金星のように、後半、異常な攻撃シフトをとったことなど、肉を切らせて骨を切る。まさに一か八かの桶狭間戦法だ。

なお、黒田東彦日銀総裁もハンドルだ。しかもスポーツタイプなので奇策から入る。
 


年の瀬に

2022年12月23日 | 星の流れに

月が来ると
月が19日にサソリ座に来ると、20日、日銀は長期金利の変動許容幅を引き上げた。
状況的には当然なので、世界中が「遂に来た」と、大きく反応した。
月が自分の星座に来ると、エネルギーオーバーで、やるつもりのなかった事をやったり、ガマンしていることや、ためらっていたことを決行したりする。
黒田総裁はサソリ座で、銀行業界もサソリ座だ。

天秤座の日本にとって、サソリ座は財源(経済)を意味する。
数年来、「天王星が牡牛座」にいて、180゜のサソリ座を刺激している。牡牛座は日本にとっての相続財産を表す。相続財産とは他人の経済活動が自分の資金に影響することなので、このところ、日本の経済は他動的に揺り動かされてきた。円安、エネルギー、食料事情がハプニングの天王星でビックリの連続だ。

木星の客で大わらわ
悪いことに日本にとっての子供や恋愛の「水瓶座には土星」が居る。日本の子供=「将来の楽しみ」はお先真っ暗だ。水瓶座のロシアが土星で偏固になったおかげで、90゜のサソリ座と牡牛座にストレスがかかり、日本経済もエネルギーや食料事情が苦しくなった。この環境はさらに、日本外交を表す獅子座にも悪影響を及ぼしていた。
ところが、2022年の夏以後、「牡羊座に木星」が来て獅子座に好影響を与え、突然、外交が忙しくなった。牡羊座は日本にとっては結婚やお客様だが、もとは軍事を表すので、軍事協力やブロック経済の客では、あまり喜べない。
一方で中国にとっては、牡羊座の木星は評判や名誉だから、注目されることを表している。習近平独裁の「名誉?」と軍事力が過大評価され、世界からさらに警戒されることになった。中国にとってはありがた迷惑で、その上、家庭事情にも影響するから、コロナ解放で混乱している。

その牡羊座の木星は、7月末に逆行を始め10月末には魚座に帰っていたが、改めて牡羊座入りした。それがまさに20日の日銀の金利引き上げの日だった。
木星は魚座に帰ったとは言え、2゜ほどしか入っておらず、三苫の1ミリ同様、ギリギリ牡羊座影響圏内だから、20日に入ったと言っても、ドンピシャの変化は珍しい。この日の利上げショックは結局、サソリ座の月の演出であって、黒田中の直接ゴールで決まった。
牡羊座の木星の影響は、ウクライナの優勢、中国の解放デモ、日本の円安と軍事強化、サッカーの活躍・・・そして利上げに繋がった。

2023年5月
では、この成り行きはどうなるのか。木星は来年2023年5月に牡牛座に入るが、その前に、土星は魚座に、冥王星は水瓶座に入る。とは言っても、とっくに影響は出ているから、今更の新事態ではない。世界に直接影響するのはやはり木星で、牡牛座にいる爆発の天王星と膨張の木星が遂に同居することになる。
前回の同居は2011年の牡羊座で、180゜の日本は津波を始めとする様々な来客で散々な目に遭った。今回、これと同じ情況になるのはサソリ座の朝鮮半島だが、2011年の日本が天秤座に土星が居て最悪だったのに対し、土星が魚座の吉角なので、地味だがむしろ結果的には良くなる。この影響は、日本にとっての経済事情だから、やはり長い目で見れば好転する。だが、いずれにしても、当面は、世界的な動揺があるだろう。


慈愛と神 2

2022年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

東洋人が食べる生き物に対して残酷になるのはなぜか。
命は全て等しいと考える東洋の生命観では、何一つ殺せず、人が生きていくことはできない。
そこで、食べる命に感謝するという宗教的儀礼で納得する方法と、逆に、自分と等しい命ではないと確認する方法があり、宗教観を持たない人は、食べる命への敬意を捨てる儀式を行うことで罪悪感を打ち消す。それが東洋人の、食べる命に対するあえて残虐な行為なのだろう。
一神教の欧米では全て神との関係で捉える。食べる命は神から与えられたものだから、神に感謝する。命を奪うことは神に許されているが、食べられる命は格下といえど命であると認識している。

一神教の神のもとでは、最高位にある人間は等しく人権がある。これが一神教の理想だが、敵対してくる者は、同じ神を戴かない異端であって、枠外の生き物だから、滅ぼしても良い。それが原爆投下やベトナムの枯れ葉作戦を可能にする。
欧米が言う、中国のチベットやウイグルの人権問題は神の前の人権であり、神のいない中国にとっては、人間界での秩序を正しているに過ぎない。
全ての命は等しく平等だが、人間界には神と人のように人間界の秩序があり、それを正すために強い者と弱い者を明らかにする。
東洋人が、食べる命に対して、わざわざ残虐になるように、自分の立場を証明するため、強い立場の者はあえて強圧的になる。素直に従う者には慈愛を示すが、従わない者は無慈悲に「しつけ」する。
ちなみに、「しつけ」とは、「躾」として礼儀作法のことだが、元をたどれば「仕付け」であって、手を加えて意図的な形にすることだから、相手の人権や気持ちなど関係なく強制的に強者の意図に従わせることだ。

人間界での秩序を正しているのに、横から自分の神に従えという欧米の人権非難は、中国にとっては、自分勝手な言いがかりに過ぎない。
しかし、同じ東洋の価値観でも仏教は、人間は未熟な者であると考え、人間界での秩序に拘らない。人の序列を正すより、全ての人が未熟であることを認識すれば自ずと平等になり平和になる。
一神教の神の前の平等に対し、仏教は誰でも理想像を目指す人として同輩であるという考え方で、互いに慈悲の心を持つ。日本にも中国式序列観は浸透しているが、大陸と比べれば、仏教的価値観が大きく占めている。歴史的に、中華の物理的干渉を受けなかったからだろう。

中華圏がどうしても抜け出すことのできない「力の序列」に対し、日本は先史時代からの平等と、仏教の平等観によって、欧米の一神教による平等と波長を合わせることが可能だ。しかし、これは「神の存在」の有無で微妙に、あるいは大きく異なっている。
欧米と行動を共にする時は、彼らの「神」という傲慢を、忘れてはならないだろう。


本気の時

2022年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

2022年の漢字は「戦」だが、多分、第三次大戦のようなことになれば、こんなノンキではいられなくなり、「惨」とか「終」とかだろうが、その時には一文字どころか一声も出ないだろう。
何かのコメントに「自衛隊員を危険にさらすのか」と言うのがあって、どうも、戦争というものが良く解っていないようで、ゾッとした。今、本当に戦争が起これば、日本全土が戦場になり、一瞬にして、国民全てが前の大戦の沖縄より悲惨なことになる。にもかかわらず、自衛隊員だけを戦争の当事者と考え、自分は関係ないと思っている。
国防も平和外交も、この厳然たる事実を噛みしめて向き合うべきで、テレビでサッカーの勝敗に何度でも手のひらを返すような、ファン心理で戦争を考えていれば、本当に戦禍で絶滅することになる。

ウクライナ戦争は、プーチンとしては内戦だから、これでもまだ殲滅戦争に走っているわけではない。だが、朝鮮戦争で同族相手に、感情のままにあれだけのことをした国が、核という「刃物」を持ち、日本中には裸の原子炉がある事実を前に、国民全てが死に晒されている瀬戸際からどう立ち向かうのか、冷徹な思考が必要だ。単に、軍事費を増やし、アメリカに頼っていれば良いという次元ではない。
様々な政治、軍事努力は言うに及ばないが、日本が増強軍事費で特に注力すべきは運搬手段の無力化だろう。アメリカが売り込むミサイルによる迎撃は、先制攻撃の発想と同じで、矛で矛を撃つ攻撃思考だ。
しかし、鉄壁の盾があれば戦にはならない。

ミサイルは電子機器だ。毒は毒をもって毒を制す。対抗できるのは電子技術そのものだ。バカ高い戦闘機や迎撃ミサイルより、徹底して電子無力化装置を開発すべきで、もし、これに成功すれば、専守防衛を実現し、核廃絶の裏付けになり、世界に貢献できる。
昔のSFマンガや映画には、都市や国を覆うバリアが出てくるが、想像は実現する。
バリアの場合は大抵、何度か防ぐと消失する。物理的盾ならそうだが、迎撃電子ミサイルと考えれば、何度攻撃を受けても消失しない。
「攻撃したら反撃するぞ」は、ケンカ腰だが、「お好きにどうぞ」の方が、本当の強さだ。


慈愛と神

2022年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

静岡で保育士が児童虐待をして逮捕され、親は元より、日本中の怒りをかっている。
これは実際、ケシカラン行為なのだが、逮捕された保育士には全く悪気はなかったと思う。では、何でこんなことをするのかと言えば、一言で言えば、無知と無自覚だ。
レベルは違うが、「しつけ」だと虐待殺人に至る親や親代わりの「犯罪者」と同質の人間であり、可愛がることと虐待の違いが理解できない人だ。

では、これが特殊な人かと言えば、世の中の人が、「人格」や「人権」の概念をどれほど理解していのか疑わしい。
あらゆる生き物は姿形とは関係なく、等しい「命」を持っている。人権思想はこれを人類に限って、人格と認め人権を尊重しようという。
しかし、日本のように、山川草木の全てに命(魂)が宿るアニミズムを、仏教の輪廻で理解している国では逆に、人権尊重が理解しにくい。人間だけが特別ではないからだ。

欧米の一神教世界では、人は神に似せて創られ、あらゆる命は人のために創られた。しかし、東洋では人も命の一つであり、様々な命の輪廻の中でたまたま人であるに過ぎない。
この大前提の違いを、互いに認識しないまま、「人権」という言葉だけが世界に広まり、人権尊重度で、国にランクを付けたりする。無知が無知を裁く愚が、まかり通っている。

等しければ無価値になる
日本が属する東洋世界では、人命が非常に軽い。自殺や死刑、人命軽視の戦争思想など、自殺を禁じるキリスト教からは理解できない、様々な文化行動がある。
一方、一神教世界では、命は神のものだからおろそかにしてはいけないが、神に捧げる命は尊いとされ、殉教であれば許され、神の世界に行くと信じられている。神風特攻と聖戦自爆は、根本的に違うものだ。
東洋の場合は、死ねば別の形に生まれ変わるだけで、魂は消えず、死が特別のことではないが、一神教では神のもとで神と一体になり完結する。

輪廻を前提とする人の死は、人間界での事であり、社会のために死に、社会から排除されて死ぬ。だから、社会から否定されて死を選び、不適合者に死を与え、社会の為に死ねば守り神になる。無論、この守り神は一神教の神とは次元が違う。一神教では神の定めで生きるのだから、個人や集団の守り神などいない。ただし、一神教で神と生きるのは神を信じる者だけだ。
この違いが、自殺や死刑に対する受け止め方の違いになる。一神教では死を定めるのは神だが、東洋では社会との関係の中で死ぬ。

神のいない東洋では、人間界で死んだとしても来世がある。運が良ければ再び人に生まれ変わるが、イワシになってクジラに食われるかも知れない。今日食べている牛肉はオジイチャンかも知れない。食う者も食われる者も平等だから、人と牛に区別は無い。
ただ、生き物に対する慈しみに拘れば、何も食べられなくなるので、身近な四つ足動物を同格とみて、草木や魚は食べても良い格下と考えクジラやイルカは大きな魚と考えた。

そして、いったん食べる対象と見れば、東洋人は残酷になる。一神教で家畜を苦しませて殺してはならないと考えるのは、家畜は神に与えられたものだが、家畜そのものの存在も認めるからだ。
東洋人は、食べる対象となれば残酷な方が美味いと考えるようだ。生きた猿の頭にストローを入れて脳みそを吸う中国、犬を叩いて苦しませて食べる朝鮮、躍り食いや活け作りで食べる日本、食べるとなれば存在を認めない。

神も仏もない
こうした東洋的感覚のベースが、一神教ルールで覆われた日本では、むしろ、仏教輪廻の慈愛を前提とする日常の、形だけが残った。
「しつけ」という言葉は、仏教の慈愛が浸透している社会では、それなりの歯止めがあり、実になるが、一神教ルールの中では、単なる虐待や暴力になる。

「人格」や「人権」は一神教のルールだから、人である限り、老若男女、子供であろうが一つの人格なのだが、これが理解できない。
子供に対し、「ちびっ子」や「がきんちょ」と呼べるのは仏教的慈愛があってこそで、その文化、価値観の中であれば、肝っ玉母さんの愛情として活きるが、神も知らず慈愛も失われた世界で、大人の優位性、立場の優位性を振り回せば、「心ない」ただの虐待になる。
児童虐待の保育士が神を知っていたか、慈愛の心があったかはわからない。ただ、この行為を聞いただけで誰もが怒る。東洋の慈愛は失われ一神教の神もいない。現代日本はそういう世界になっている。
怒る人も何に怒っているのか、人権無視に怒っているのか、無慈悲に怒っているのか、説明が付くだろうか。保育所の発想自体どこから来たかも含めて。


三ゾンビ

2022年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

財源の見通しも無いままに、急激な軍事費の増強。
北朝鮮は言うまでもないが、中国共産党には本当に腹が立つ。彼らの時代錯誤で身勝手な膨張主義が無ければ、日本がこんなことに金を使う必要はなかった。無論、直接日本を焚きつけているのはアメリカだが、中共がほんの少し賢ければ、ほんの少し我慢強ければ、アメリカがここまで急激に敵対的になることは無く、まんまと、世界は中国に乗っ取られるところだった。

中国には「慌てる乞食は貰いが少ない」ということわざは無いのだろうか。そんなことは無い。鄧小平は「韜光養晦」を戦略とし、能ある鷹は爪を隠していた。
ところが、苦労知らずの三代目、習近平は金を握って軍備拡張、悪徳金貸しで金をばらまき、お大尽気取りの放漫政治で世界を敵にまわした。
昔から、「三代目に出る」と言われる。親より孫が祖父母に似るという。実際、自分の子供が自分の親に似て来て驚いた話を良く聞く。また、親子は何かと愛憎が直接的で、いがみ合ったりするが、間接的な祖父母と孫は互いに思い込みが通じる相手だ。歌舞伎などでも、親より祖父のビデオを参考にする人がいる。

習近平は、鄧小平の前の毛沢東に憧れ、軍事独裁、孤立鎖国、共同貧困、人民飼育に走っている。ドンキホーテにも申し訳ないほどの時代錯誤だ。この狂気の道楽の直接の被害者、中国人民も気の毒だが、最も迷惑しているのは世界だ。
北朝鮮の花火大会は言うに及ばず、ロシアの暴挙も、習産党が無ければできなかったことだ。習近平、プーチン、金正恩の三馬鹿ゾンビの黄泉がえりで、世界中が蔵に仕舞いかけていた鎧兜を引っ張り出して手入れを始めた。
まさか日本まで、軍事費の捻出に苦労することになろうとは、自民党さえ考えていなかっただろう。もはや、革新派さえ軍事脅威そのものを否定できない。

やはり、世界は星に支配されているのだろうか。84年周期の牡牛座時代。来るものが来た
牡牛座時代」20070331


文化衝突

2022年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

世界中のサッカーファンが感嘆し憧れるブラジルが、韓国に圧勝して勝ち上がった。
ブラジルもファンも、延長戦後3日しか経っていない、高齢のクロアチアなら楽勝だろうと信じていた。解説者は、ブラジルの華麗なショーを語ろうとした。サッカーファンにとっては、ブラジルこそが主役であり、主役のいないワールドカップなど意味がない。
だがだが、何たる事だ!クロアチアは再び延長戦にもち込み、再びPKで勝ち抜けた。
ドラマに次ぐドラマ
これがワールドカップ!
これぞワールドカップ!

ブラジル楽勝の雰囲気ながら、日本が惜敗したクロアチアだから応援観戦した。
クロアチアは、日本とは全く違う戦い方をした。華麗な技とアグレッシブな精神でブラジルの毒気を抜き、日本がコスタリカの前に間抜けになったように、ブラジルらしさが消えていた。日本戦では延長で交代したモドリッチが最後まで大活躍をし、アナウンサーが「また、モドリッチ!モドリッチは何人いるんだ!」と言うほど、八面六臂の活躍をした。

サッカーは戦争だという。戦争が文化衝突であるという点では、確かにワールドカップは文化衝突だ。
同じ南米でも、アルゼンチンとブラジルは、キムチとタクアンほど違う。いや、南米だからタンゴとサンバだろうが、ブラジルはアッサリとパリパリ食べるタクアンのような気がして正体がわかりやすい。人間性では、ブラジルはペレの国だが、アルゼンチンはマラドーナの国だ。
文化というものは、これと言った形は無いが、並べると違いが出る。

クロアチアは、日本戦ではモドリッチがあまり機能せず、ブラジル戦では躍動した。日本がモドリッチを封じ、ブラジルは気にしなかったのかも知れないが、サッカー文化のレベルの差ではなかろうか。日本は何をするか解らない若造で、ブラジルには大人の流儀が通用した。
また、日本とクロアチアはチームとして戦う意識が強く、組織と組織の衝突では、要が外れると全面ストップする。一方、ブラジルは豪傑揃いで互いを信頼し過ぎていた。
サッカー文化、社会文化と、文化の観点で見ると、思いがけない色々なものが見えてくる。


言い難し

2022年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

中国は、アッサリ「ゼロコロナ」を転換した。反政府デモが広がると、一切を捨てて方針転換する。これは、ある意味で天安門事件が中国共産党のトラウマになっている証だろう。中国共産党は反政府の動きが何よりも怖い。だからこそ天安門では大虐殺で抑え込んだし、どんな小さな動きでも反政府の動きには反応する。
習近平のメンツより、コロナ蔓延の医療崩壊より、反政府が怖い。
方針転換は、習近平の慧眼ではなく、行き当たりばったりの対処に過ぎない。

コロナ自由化で、何が起こるかなど関係ない、とにかく、民心の怒りの芽を摘み、なだめさえすれば良い。「オミクロンは軽症だから、もう大丈夫だ」と、手のひら返しの広報にも務めている。
選挙に拠らない「中国流民主主義」とは何か。そんなものが本当にあるとすれば、とてつもなく理解が難しい。独裁、専制、権威主義と言ってしまえば簡単だが、おそらく彼らとしては哲人政治のつもりなのだろう。一貫して、中国人民に選挙はまだ早いと、さも自分たちが哲人であるかのような言い分を繰り返す。
しかし、今回の一貫性の無さを見てもわかるように、民衆の力を抑え込む力のバランスだけが彼らの政治であり、余裕ができればその力を外に向ける。
国民と共に学び歩む教育ではなく、国政を保育だと思っている。「よらしむべし、知らしむべからず」のようだ。

一夜にして態度を変える中国は、今に始まったことではない。ゼロコロナも解放も一長一短なら、躊躇なく情況に対応する。
日本は、これと真逆で、一度動き出すと情況にかかわらず、自分では止められない。
太平洋戦争で明らかに勝敗が付いてから後も、延々と戦い続けた。これを信義と考えるか愚かと考えるかは、中国の豹変をどう考えるかと逆説的に通じるところがある。
曰く言いがたしだ。


祭りの魂

2022年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、近所のおじさんに集められて毎日、野球をしていたら、「野球なんかするな!」と父に言われた。何かを止められたことは後にも先にもそれが初めてだったので、その後、健康要注意児童に指定されたこともあり、一切野球をしなかったが、後年、その話を父にすると、全く憶えていなかった。単に虫の居所が悪かったのかも知れない。
中学の時、放課後の校庭で頭数合わせで強制的にバッターボックスに立たされ、初球を振ったら、大きなヒットになったが、1塁走者を追い抜いてアウトになり、仲間にさんざん叱られた。30歳ぐらいまで、野球のルールも知らないし、プロ野球など一度も観たことが無かった。ところが突然、何かの拍子(多分、清原の涙)に野球に取り憑かれ、やたら観るようになって、妙に詳しくなったのだから、人生、我ながらおかしなものだと思う。

その父の49日が終わり、ボーッとしていた頃、「ドーハの悲劇」を観てしまった。
親が死ぬと、大なり小なり誰でも一時、無になる。その間隙にサッカーが飛び込んできたのだ。以来、一喜一憂しながら日本サッカーを観てきた。
ワールドカップの度に、成績に関係なく、日本は強くなってきた。というより、成長してきた。今にして思えば、ドーハの悲劇は悲劇ではなく、若者の通過儀礼だった。あの日から、日本サッカーは大人の道を歩み始めたのだ。
今回もまた、ベスト8は消えたが、パラグアイとのPK負けの時より、明らかに前進している。PKで何とかではなく、本戦で勝ちきれなかったことに既にショックを受けていた。

今回の負けは、コスタリカや、クロアチアという「サッカー命」の小国であり、小粒でもピリリと辛い老練、老獪な相手だ。サッカー大国のようなパワーは無いが、巧みさは超一流なのだから、こういう相手と戦うことの意味と難しさを改めて思い知らされた、貴重な教訓だ。コブラより、ヒアリやマダニの対処の方が難しい。
日本サッカーはまだまだ成長する。PK戦でも勝ち切るような「しぶとさ」もこれからだろう。

スポーツ興行
近頃、サッカー人気にかげりがあると言うが、空騒ぎが冷めただけで、むしろ日本のスポーツ文化全体が底上げされたことの表れだろう。
一方で、オリンピックの不祥事が明るみに出て、これまた騒ぎになっているが、スポーツを興行にする限り避けられない。
古来より、神前の祭りすら財が動いた。豊作を祝い、米や魚を神前に捧げるのは、「神への感謝」という財の還元であり、野生動物が無駄な狩りをしないように、採り過ぎることの危機の感覚だろう。あらゆる祭りは散財であり、余剰の還元だ。遊びが成長の礎になるように、祭りは生産に不可欠な無駄なのだ。スポーツイベントは歌舞音曲同様の奉納興行であり、始めから散財の場としてある。

宗教に財が集まるのは本来、この文化的作用なのだが、カッコウの托卵や癌細胞のように、生態につけ込んでむさぼるのが悪徳宗教だ。寄進は「貧者の一灯」の志が大切なので、家まで売り払えは宗教でも何でもない略奪だ。
スポーツイベントも祭りの宗教化であり、最低限の財は必要だが、そこを理財の場にするのも略奪だ。
オリンピックを始め、全てのイベントで巨額の財が動くのは、祭りを利用したハゲタカ詐欺で、本来の、「神を楽しませる」古代の神聖な儀式とは無縁なものだ。当然、こんなものを誘致すれば、悪魔に魂を売ることになる。
IOCやFIFA等の興行師に任せず。少なくとも、国連のような理財を目的としない組織によって運営するのが良いのかも知れない。


一衣帯水

2022年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム

ゼロコロナの中国で、ジワジワと感染が膨張し、世界市場が反応している。
折しもガマンの限界を超えた国民が、各地で暴動を起こし始め、習産党は緩和を模索しているが、そう簡単ではない。
とりあえず集団免疫ができている世界とは違い、中国は基本的に無菌状態なのだから、軽症化したコロナとは言え、一度蔓延すれば多数の重篤者が出るのは必至だ。
習産党としても、経済面よりも国情不安を前に、緩和したいだろうが、今さら無菌情況を解放できない。

一方、一衣帯水の日本では、コロナ第八波がやってきたが、もはや誰も「オオカミ」を恐れなくなった。むしろインフルエンザの方が懸念されている・・・
と、言いたいところだが、「もう、マスクを外そう」と言った人に、非難が殺到する情況だ。
変異コロナが軽症化し、世界はwithコロナでマスクが消え、政府も「なるべく」外すように示唆しても、日本ではマスクが民族衣装になってしまった。
明治維新で断髪令まで出しても、しばらくは白眼視された。今回のマスクは、官民を挙げて国民を恐怖に陥れてしまったから、「外しても良いですよ」ぐらいでは、信心深い日本国民は「コワくて」とても外せない。

福島の処理水にしても、賛成議員全員が処理水を飲んで見せ、処理水のお風呂に入ってみせても問題はないはずだ。同様にマスクも、他の疾病との比較、コロナの相対的な死亡率等をよくよく説明した上で、マスク不要宣言をし、議員自ら止めてみせるべきだ。
海外から観光客を呼びたいのなら、withコロナの国から来る観光客にマスクを強いるべきではないだろう。
世界遺産も観光客のお金も欲しいが、コロナはコワい日本。
コッコッコッコー、コケッコー


大大笑い

2022年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

コスタリカに負け、ドイツ、スペインに勝って、グループ1位!!
もう、笑いが止まらない。何なんだニッポン! また1点差
手のひら返しで選手を攻撃していた人は、また忙しいことだろう
優勝でもないのに休日論は恥ずかしい

2点目のVAR。中東の笛が日本に味方したか!?と思ったが、空中処理で有効らしい
VARで良かった。スペインからも抗議はない。
これがワールドカップ
♪祭りだ 祭りだ 祭りだ 大漁祭り
ドン ドン イケイケ ドン ドン

 

大笑いだ


冬が来た

2022年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム

奈良で鹿寄せが始まった。ホルンを吹くと鹿が走って駆けつけて来て、ドングリを撒くと、われ先に食べる映像が流れていた。
奈良公園が外国人観光客で埋め尽くされていた頃、「人力車どうですか」と声をかけられ、「要りません」と答えると、「わー、久しぶりに日本語を聞きました!」と言われた。
鹿が近寄ってきたので、ドングリを拾ってやると、鼻を近づけた後、「フン!」と横を向かれて、
『なんや、鹿せんべいやないんかい、アホ!』 と行ってしまった。

観光客もいなくなり、食べ物もなくなるとドングリを喜んで食べる。現金なものだ。
エネルギー不足、物価高の昨今、人間も鹿を見習って、初心に返るしかない。