魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

にくざら

2019年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

桜名所の牛丼家の前を通りかかって、久しぶりに牛丼の肉が食べたくなった。牛丼屋も色々あるが、結局、ここの牛丼が一番うまい。
中に入ると、食事時ではないので空いていた。
さしてお腹は空いていなかった。とにかく肉を食べたかったので、
「並で、ご飯を少なくして、頭の特盛り下さい」 と言いながら、『肉をもっと食べたいな』と思い
「肉皿の特盛りも下さい」と頼むと、
「ありません」と言うので、
「じゅあ、大盛りはありますか?」
「いや、肉皿そのものがありません」と言う。
滑舌が悪いから、「肉ジャガ」とでも聞こえたんだろうかと思い
口を大きく開け、大声で
!」と言うと
・・・ 「牛皿ですか?」
!!!・・・「あ、そうそう、牛皿!、牛皿!ゴメン、ゴメン」
と、自分でもおかしく、笑いながら言い直した。
店員も笑いをこらえている。

食べながら、思った。
この牛丼屋には「ブタ皿」があるのだろうか?ブタ丼もあったから。
仮にあったとすれば、「肉皿」と注文を受ければ、「ブタですか?牛ですか?」と聞き直すだろう。その時は、「牛」も「ブタ」も肉だと解っているはずだ。
「牛」皿だけしかないから、額面しか浮かばず、「肉皿」と「牛皿」が同じだとは思えなかった。そういうことだろうか。
しかし、それにしても、人によっては
「牛は肉じゃあ、ないんかい!」と、ブチぎれ、カスハラに及ぶかもしれないが、
とにかく、自分としてはおかしくて、ニヤつきながら食べた。

近頃、この種の「融通」も「機転」も効かない日本人が増えた。おそらくマニュアル社会のせいだろう。社会が整い過ぎて、些細なことまで、自分で考えることができなくなっていることに、当事者である日本人は気づいていない。この点、発展途上国の人間は臨機応変だ。「現実理解
「極まれば転ずる」。一度、上り詰めた先進国が、力を失うのはやむを得ないのかもしれない


丸山酔拳

2019年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

丸山穂高事件。詳しく読んでないので、全くの野次馬的感想だが、酔っ払ってくだ巻くと、たいてい本音が出る。
日本の政界は一斉に抹殺に動き出した。当然だ。平和憲法の下、あってはならないこと、言ってはならないことだ。
ロシアの報道官も議員辞職が当然だと、参加した。これも、世界正義の立て前上、当然だ。

臭い物に蓋をするのは簡単だ。だが待てよ!?
政治家の端くれである者が、酔ったとは言え、何故そんなことを言ったのか? 一体、この酔っ払いは何を言いたかったのか。
言葉の深層に隠れた思いが、色々に想像できる。
重要なことは、聞く限りでは、「戦争しよう、戦争すべきだ」とは言ってない。
「戦争でなければ取り返せない」と言っているようだ。

これは、「戦争による結果であることが事実だ」と、認めていることになる。
このことを理解したとすれば、四島はソ連の不正義の侵略により占拠されているものであり、未だに日本の領土であるとする、「北方領土」論の見地からは、絶対認められない。
また、それが解ったとしても、政争上の敵失と見る側も、格好の目標にできる。
したがって、政界一致で抹殺に向かう。

おかしいのはロシアだ。「日本は戦争の結果であることを認めよ」と主張しているのだから、むしろ酔っ払いの本音を肯定すべきところだろう。
「(戦争で決まった領地は)戦争でなければ取り返せませんよ~(やるならやってみな)」と構えていれば、日本から戦争を仕掛けることはあり得ないのだから、「戦争の結果」が確定する。
このあたりは、日本人でも解らないような、酔っ払いの日本語の機微など解るハズもないから、立て前の反戦の見地から「そうだ、そうだ」と叫んでいるのだろう。

何としても、北方領土出身者を故郷に帰したいとの思いが有ったとすれば、現実の前に、「北方領土論」では、帰れないと痛感したのではないか。
穂高酔拳の繰り出す技の 「戦争でなければ取り返せない」の続きには、「領土より、実際に故郷に帰ることが大事だろう」、さらに、「別のアプローチ、別の世界観から、故郷に帰ることを考えてはどうか」があったのかも知れない。

「女はいないのか」とも言う酔っ払いは、完全に本音モードになっている。
酔拳が強いのは、正統では出せない力が出てくるからだろう。酔拳の「あり得ない姿」より、
秘めたる思いに目をやることも必要かも知れない。

 


行先不明

2019年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

中国の大躍進政策失敗の再来は2018~2019と見ていたが、まさに今、中国は試練にさらされている。米国の抵抗、西側との葛藤で、停滞している。しかし、この程度ではまだ、再来とは言えない
大躍進政策は内部からの崩壊であり、政策そのものの失敗だった。おそらく今、中国が掲げる「中国製造2025」が「大躍進政策」に当たるものなのだろう。
では、大躍進政策失敗のカギとなった「雑さ」とは、「中国製造2025」の何に当たるのだろう。

白髪三千丈のお国柄か、目標を立てる時に、夢や希望が壮大過ぎて、足下に目が行かない。何事も「既に成っている」ことにしたがる中華文化は、今の位置から次のステップを踏めると考える。右足の次に左足を出せば一歩進むハズだと。しかし、走り過ぎて崖から飛び出すと、足をグルグル回しても、ストンと落ちる。
中国共産党の描く未来は、人のフンドシで横綱になる「草船借箭の計」による未来だ。
何に足を踏まえて立っているのかを忘れ、手に入れた力で、他人のもの全てを自分のものにしようとする。しかも、口では他人がそうしていると罵りながらだ。
確かに、これまでは草船借箭は計画以上にうまくいった。しかし、習近平は相手がそれを容認してきたことを計算していなかった。やはり、親の世代の苦労を知らない二世政治家だ。
一方、トランプは今年から裏目(空亡)に入る。愛国おじさんにとって、再選されない方が幸せだろう。

大転換は進む
習近平の、「雑な」夢は失敗するとしても、300年、700年単位の大転換では、やはり、西欧からアジアへの転換は揺るがない。ただし、アジアが欧米を逆支配するような「中国の夢」のことではない。グローバル化する世界では、国家や民族は無意味になる。
幕藩体制から統一日本になったように、国際連合から地球連邦に変われば、価値観も変わり権力構造のあり方も大きく変わる。

アジアの時代とは、中華古代帝国が西欧民主主義に取って代わるのではなく、モンゴリアンの冒険心のような、アジア的創造力が西欧文明をリードすることだ。
中国の「雑さ」は、裏を返せば、コペルニクス的転換を容易にする。
信仰心に囚われる西欧では、月に行くにも反対が起こり、遺伝子操作にも反対が起こる。だからこそ、コペルニクスも苦心した。
欧米化された日本も同様だが、新しい技術に、古い価値観の抵抗が起こり、新しいことの実現が容易ではない。
しかし、信仰心を持たず、西欧的近代文明の価値観・モラルを持たない中国は、何の躊躇もなく最新技術に飛びつく。高層ビル、高速鉄道、ネット、キャッシュレス、ドーピング・・・はてはクローンまで、何の抵抗もなく飛びつき、先進国が問題視すると、禁止のポーズだけは見せるが、単なる状況判断で、全く本気ではない。

今後、SFで恐れられるような出来事が、中国から爆発的に起こるだろう。
中国人の、人間的「タガ」の無さは、纏足や宦官の文化、手足を切ってしまう刑罰を見ても、人間性を立て前とする、西欧文明とはかけ離れている。
どうも、アメリカ大陸までも進出した、モンゴリアンというのは、やることが恐ろしい。生きたまま心臓をくりぬいたり、首を切って並べたり、人間に対する尊厳がない。
裏を返せば、万物平等と言うことなのだろうが、それを昇華させた仏教文化が広まらなかった中国なら、デザイナーベビーどころか、次元を超える、とてつもない遺伝子操作が起こるのも時間の問題だろう。

もし、「中国の夢」が実現すれば、中国発の「タガのはずれた」革新は、善し悪し関係なく、人類を、一気に次のステージに導くかもしれない。
ただ、アジアの時代が、中国の時代になるとは限らない。インドも日本もいる。
インドの知能と、日本の緻密なバランス感覚は、アジアの影響力拡大に欠かせない柱だ。
中国の力に安易に迎合したり、無意味な敵対をするより、多くの国が一体になって、イニシアチブを形成し、中国をうまく活かして利用する「意志」こそが必要だ。


事故事相

2019年05月18日 | 星の流れに

5月16日、火星がカニ座に入ったが、5日には双子座の23°、8日に25°と、既にカニ座の影響圏に入っていた。カニ座は先祖や幼児期を表し、国では中国を表す。
交通事故に影響する双子座から、カニ座の影響に移るに従い、交通事故の問題が、保育園保育士や老人の問題に変化してきた。8日には大津の園児と保育士、15日には千葉で保育士が重傷を負った。(やっぱり、免許は上限60歳までだ)

一方、双子座火星で双子座のアメリカとトランプが興奮していたが、今度はカニ座の中国が怒っている。短期間で通過する惑星はニュースのネタになるが、長期滞在する惑星は歴史のネタになる。

小スパン大スパン
火星が一つの星座に滞在する期間は、基本は一月半ぐらいだが、木星で約一年、土星で約二年半になり、影響による変化が目に見える。殊に火星となると短期なので、インパクトが大きい。
短期の影響は、歴史とは関係ないように思えるが、むしろ、引き金としての影響は大きく、その意味では、わずか二日ほどの影響しかない月こそ、衝撃的で、ニュースになりやすく、リーダーの判断を狂わせたりする。当然、選挙当日が何座かも重要だ。
しかし、そうした日々の事件も、結局は、大周期惑星による歴史の枠に呑み込まれる。


割り切り

2019年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

このところの、中国の日本への異常接近は、多くの日本人にとっては、「気持ち悪い」ものだろう。
米中経済摩擦で、日本を利用しようとしていることは、誰の目にも明らかだが、かと言って、喧嘩するよりは良いことだから、受け入れないわけにも行かない。
中国の極端な現実主義は、同じ現実主義でも、アメリカのような「人間臭さ」が無い。
アメリカの場合、態度を変えることに照れや迷いが伴い、何となく「間」も感じられる。人間として行動しているからだ。

ところが、中国の場合、「イケしゃあしゃあ」とか、「ヌケヌケと」と、言いたくなるほど何の躊躇もてらいもない。
これぞ、中華の「形」文化だ。二者択一の陰陽や、漢字文化のように、何事も、はっきり目に見える「形」を求め、極端から極端に振れる。人間としての曖昧さや迷いを徹底的に排除する。と言うより、迷い方を知らないのではないかとさえ思える。
これだけ極端に態度を変えれば、空々しくて誰も信じないと思うのだが、中国人は違和感を感じないようだ。
単純思考

これに引き換え、日本人の場合、話を最後まで聞いても、「YES、NO」が判らない。外国人には、態度を変えたことさえ、気づけない。
同質文化の日本で当たり前に通じる「あうんの呼吸」は、異文化がせめぎあう「世界の常識」からは、むしろ、全く理解されない。
世界では言葉よりも、「目に物を見せる」ことが重要であり、言葉は潤滑剤に過ぎない。だからこそ逆に、角を立てないためのリップサービスが重要になる。
しかし日本人は、この「心にもない」言葉に慣れないから、うまく対応できない。
言葉は現実に花を添えるものと考える世界の常識と、言葉は現実と一致するものと信じる日本人との相互理解には、注意と調整が必要だ。

ところが中国の場合、注意や調整の次元を超えている。
欧米と付き合う場合は、本音を考えなければならないが、中国には必要ない。本音を考えるだけ無駄なのだ。目の前の言動は嘘ではない。それはそれで、今の本気だ。
ただ、重要なことは、今の本気と、大局の認識とは全く関係なく存在する。
進む過程で現れる、木も森も各々存在する真実だ。

木も見て森も見る
中国のように、絶対権力に支配され続けた社会では、一瞬にして目に見える態度を示さなければ命に関わる。事実や本音がどうであろうと、今、この場に必要なことを言う。
タテマエや説得より、泣く笑う怒鳴るを駆使して、「本気」を実現する。
今の態度は「作法」として本気であり、同時に、大局的な意思も現実なのだ。タテマエと本音のような優先順位ではなく、コインの表裏のように「二層的な事実」が存在する。これが陰陽五行の世界であり、陰陽の両極端は、五行の生々流転のバランスと共に存在している。
こうした中国文化は、中国共産党の政治姿勢にも露骨に見られる。

本音に生きたい日本人にとって、異文化の荒波に磨かれた欧米人の二面性には、常に「気遣い」が必要だが、中国人の厚顔のメンツには、そこに存在する「木と森」を見る、「割り切り」と、大きな目で受け止める「度量」が必要なのだろう。
東西の日本1


日本の礎

2019年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

令和が始まり、日本中が喜んでいる。
テレビでも「なんだか正月が二度あるみたいだ」というツイートを取り上げていた。
崩御で始まる新元号と違い、みな、心から祝うことができる。
日本に天皇があり、元号があることは、日本の伝統文化の要として重要だと思う。男系天皇固守も良いだろう。
しかし、問題は、日本の政治家が文化と文明を混同していることだ。

伝統を守ることは大切だ。しかし、衣食足りて礼節を知ると言われるように、人は伝統で生きるのではなく生産で生きる。
礼節は文化であり、生産は文明によってもたらされる。人に例えれば、文明は肉体であり、文化は心だ。
心と肉体は相互関係にあるが、肉体が無ければ心は存在しない。

現在の日本が成り立っているのは、西欧文明のおかげであり、西欧文明を活用するために旧暦を捨て西暦を取り入れ、欧米に歩調を合わせることで、同じ感覚を味わい、同じ価値観を共有している。
どちらが良いというわけではないが、中韓のように旧暦を捨てずに、古代の時間を生き、表面上だけ西欧文明を借用している人たちとは、何かにつけて、基本となる概念が共有できない。それが歴史問題の根深い部分でもある。時間に対するスタンスが異なるのだ。もっと言えば、イスラム暦に生きるイスラム教徒とは、違いにすら気づかない。

古来、時間は支配者が定めるものであり、同時にそれが、一つの宗教観として文明を司る。元号はこの最たるものであり生きた化石だ。
そこまでではないにしても、太陽暦とされる西洋歴も、Ⅰ月Ⅰ日は冬至でも春分でもない。やはり権力の都合で定められたものには変わりない。天体の動きに忠実というなら、旧暦の方が忠実だ。
しかし、現在の日本は西欧文明によって生きている。この基本を忘れ、日本の文化に文明を従わせようとするのが、「元号表記」だ。これは西洋医療で治療中の患者の枕元で、「気合いだ!気合いだ!気合いだ!」と、叫ぶようなもので、治療の妨害そのものでしかない。治りかけた患者も死んでしまう。

「美しい日本」を夢見て、最も不合理な暦である元号を文明社会に強いるのは、方向性は違っても、「中国の夢」を掲げて、世界制覇を目指すことと、基本は全く同じ、現実を顧みない時代錯誤による、破壊行為だ。

日本に天皇があり元号があることは、美しい伝統文化だが、それを文明社会に持ち込んで、文明の日常を停滞させるべきではない。元号表記は国旗や国歌とは次元が違う。使いたい人が使うことを保証するだけで充分だ。元号表記の強制は、自覚のあるなしにかかわらず、文明の叡智を捨て、戦前の「畏れ多くも畏くも」の時代の復活を目指すものに他ならない。