魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

放任主義

2010年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

No.962

子供を見るのは面白い。様々な経験の中で、自分なりに色々と考えながら成長している。

キックスケーターで横断歩道を渡った10歳ぐらいの男の子が、しょっていたナップサックを前に掛け直した。
キックする姿勢と動きの関係で、じゃまになったのだろう。
前に掛ければ、安定してぶら下がった状態になり、走りやすいと考えたようだ。

誰に教えられたわけでもなく、走りながら考えたのだろう。
その姿で、坂道を上っていった。

他愛のない風景だが、放っておけば、子供は必要に応じて工夫する。
日頃から、ああしなさいこうしなさいと言われていれば、例え思いついても、言われたことと違うことをするには、多少、勇気が要る。
また、大方の子供は、親や先生に言われたことを良く守る。

日本の教育は、左利きの矯正、漢字の書き順、箸の持ち方、鉛筆の持ち方・・・スポーツでは、フォームや姿勢の矯正・・・に拘る。
それはそれで、美しい日本、美しい日本人をつくっているのかも知れないが、自分で工夫する、創造的発想、独創的行動や決断が死んでしまう。言われたことしかできなくなる。

他人への評価も、少しでも変わった人間は、アウンの呼吸で集団排斥する。子供の時から、細かなことまで指示されて育った人間は、少しでも、規格外れな人間を見ると我慢できない。
そうして、互いに監視し合う社会が、閉塞感の悪循環を生んでいる。

終戦直後、敗戦による価値観の崩壊から流行ったのが「放任主義」教育だった。その教育を受けて育った団塊世代が、現在の若者の無秩序の元凶と信じられているが、果たしてそうだろうか。

今の若者に、問題があるとすれば、(単純にそうは思わないが)むしろ、偏差値教育や悪平等教育が問題ではないのだろうか。画一教育と自由個人主義の矛盾が、現在の若者を育んだのではなかろうか。

世代は3年でも変わるから、一括りにはできないが、
団塊世代が若者に、口をそろえて言うのは、
「なんで、やってみようとしないんだ」