山崎ゴジラを観に行った。これまでのゴジラの中で最も理想的な姿のゴジラだろう。
ゴジラについては何の違和感も無く楽しめた。
ただ、山崎貴監督の映画は、『ALWAYS 三丁目の夕日』などもそうだが、何かくすぐったいもどかしさがある。山崎監督の過去への思いは、今で言う「リスペクト」があることは良く解るのだが、少し、思い込みが先行しているところがあって、歴史的観察が避けられているような気がする。
現場にいた当事者には夢でもロマンでも無いが、現場にいなかった人は過去に夢を見る。
80年代。元、江田島出身の海軍士官だった自衛隊の幹部が、東宝の戦争大作を観てポツリと軍服の違いをつぶやいていた。何らかの違和感があったのだろう。
「♪ボギー アンタの時代は良かった」の歌詞に、「とんでもない」と戦中派が怒った。
戦国時代の様々な物語も、泰平の江戸時代になって語られた。
ドンキホーテは、失われた騎士道の夢を見る。
体験しなかった人は、過去の現場にいないことを残念がり、もし自分がその時代に生きていたらと、様々な思いを燃やすものだ。
多くの人が、親の時代に強い郷愁を抱く。それは前世への喪失感、つまり、受け継いだアイデンティティへの執着だろう。
(→「カバー曲」、「哀の賛歌」)
近頃流行の「レジェンド」という言葉も、現実よりも過去に価値をおいて考えようとする世相の反映ではなかろうか。「この日のことを孫に話してやるんだ」といった台詞が説得力を持つほど、過去を重く見る傾向は、現代人の生命欲の喪失を表している。
これは決して悪いことでは無い。それだけ、知的理解の次元が高いということだ。
汲々とその日の糧に追われていると、過去や未来や心の問題など考えるゆとりもない。終戦直後は精神科の患者が皆無に近かったが、経済の回復とともに増えたそうだ。今や、ともすれば精神科通いがステータスにまでなっている。
戦国時代や大戦前後の人は、生きることで精一杯だったから、自分の行為に意味など考えられないし、ロマンどころではなかった。そんな極端な時代でなくとも、真剣に今を生きる人には自分自身を客観視する余裕はない。
スポーツ選手を上げたり下げたりするのは観ている人で、必死の本人は何も考えていない。奮闘直後の選手が、「さすがですね」と言われ、返答に困っていた。
「思い」の昇華
山崎監督の過去へのリスペクトは、この種の客観的なロマンチシズムであって、現場の人がどう感じていたかではなく、自分にとってどうだったかの追求のようだ。
過去の物へのこだわりとは裏腹に、過去の人の心は自分の思いが代弁する。
そのあたりが、現場の人間には心外で、山崎映画に、「何だかなあ」の違和感を感じるのだろう。
『三丁目の夕日』もそうだったが、『ゴジラ-1.0』にも、舞台演劇を観るような不自然さがあった。
では、リアリズムの実写映画と、舞台演劇やアニメではどちらがメッセージが伝わるかと言えば、必ずしもリアルな映像が真実を語るとは限らない。スポーツでも名選手より、脇役だった選手が名監督になることが多い。最も活躍している当事者が情況の意味を把握しているとは限らない。見たこと感じたことが真実とは限らない。たいていの詐欺は理路整然と説得力があるし、口下手がバカや嘘つきとは言えない。
今回の『ゴジラ-1.0』によって、山崎映画のこだわりのビジュアルは舞台装置であって、実は、ドラマの実体ではなかったことに気がついた。
『ゴジラ-1.0』は、『三丁目の夕日』のように純粋に日本人向けの映画ではなく、海外の人に観られることによって、「現場の日本人」を超えたメッセージが伝わることになった。
実は、山崎ゴジラの第一印象には、「やっぱり」という違和感があったが、全体にはよくできているし、ゴジラのビジュアルも良く75点ぐらいの印象で帰った。
しかし、アメリカで大ウケしているという話を聞いて、後半トイレをガマンしながら観ていた心残りもあったので、もう一度、アメリカ人のつもりになって観に行った。そこで、「なるほど、そうか」と、アメリカでウケる理由が解った。
東京オリンピック1964年生まれの山崎監督の「前世探し」は、自ずと戦後日本のあらゆる情緒を体現しており、朴訥な語り口が却って言葉の分からない外国人に通じた。
安寧の島国暮らしの日本人は細部にこだわり、言葉をもてあそぶ余裕がある。しかし、殺伐とした環境にいる外国人は、言い方よりも物と動きから考える。言葉よりもそこにある実態を見る。
山崎監督の言葉を超えた混乱期への不器用な「思い」が、外国人にはストレートに伝わり、むしろ、日本人より「わかって」もらえたのではなかろうか。
山崎監督にとっても、日本人にとっても、実に喜ばしいことだと言うべきだろう。