魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

段々捨離 

2023年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

ブルーレイ・ドライブが壊れた。見ると9年使っていた。メーカーの電話相談では、「もう部品が無いので直せません」と断られた。それより古い東芝製は、サービス窓口で修理して貰い、いまだに動いている。案外、直接持ち込めば直るのかも知れないが、メーカーによっては、必ず壊れる時限装置が付いているといったウワサもある。

本体が壊れると、外付けのハードディスクも「殉死」し、録り貯めた膨大な番組が全て失われた。
「外付けハードディスク」は本体ごとに認識し、他の機械では使えないようになっている。本体が生きている内なら、同メーカーの他の機械を介して番組を移動させておくことも出来るが、機械は「私、もうすぐ死にます」とは言ってくれない。ある朝、突然死んでいた。
どのメーカーも、こうした事態での、録画を救済する手段を用意していない。修理して貰った東芝さえも、それまでの番組は全て消えた。

番組消滅に対し、「大切な番組はBDやDVDに残しておくべき」と各方面で言われているが、メディアディスクは膨大になる上、操作に時間が掛かり、パッパと間単にチェックできない。コピワンなど、本当にバカげたセコイ考えだと思う。
録り貯めておくのは、ドラマシリーズを見るためではなく、ライブラリーとして情報チェックするためだから、日頃は観ないが、何かを調べる時には感動的に役立つことがある。
また、情報番組をそのまま放置し、2~3年後にチェックしながら消しているのだが、コロナ期の数年は、残すべきものがほぼ無かった。いかに社会が無意味な時を過ごしていたかが俯瞰でき、これはこれで勉強になった。

昔、放浪の旅に出た。イザと言う時のために新品のNikonを持っていたが、その初っぱなで盗まれる洗礼に遭った。以来、全て記憶に留め、写真は撮り残さないことにした。この時以来、証明写真などを除けば、ほとんど写真というものが残ってない。
今回も、残り少ない人生の新しい門出になりそうだ。


皆お好き

2023年12月22日 | 占いばなし

田中、中曽根、安倍と、一白政権については何度か書いたが、今回も例外は無かった。
必ず不可解な「裏取引」が問題になる。安倍政権中にも情実がらみの疑惑が多発したが、死してなお、キックバックが残った。

一白政権は、戦前の近衛内閣を始め、非常に人気するが、必ずとんでもない置き土産が残る。太平洋戦争、日本列島改造、リゾート開発、アベノミクス・・・当初は日本中が沸き立つが、祭りの後始末は国民が負う。
これは、一白の特性である「お為ごかし」のせいだ。と、言うと語弊があるかも知れない。本人は、決して悪意があってのことではなく、皆を喜ばせて、自分も気持ちよくなりたいサービス精神で動いているからだ。

一白は、職業で言えば、サービス業、それも風俗だ。あまり表だって動くような世界ではなく、日陰に日陰に集まっていく。堂々とやれば良いことでも「内緒、内緒」と、あえて秘密にする。「ここだけの話しやけど」とか、「実はね」と言えば、何でもない話でも特別な気がするが、そういう世界を好む。
人体で言えば、九紫が頭なら一白は股間だ。日常的に見せて歩いていれば特に関心を持たれないが、最後の砦のように隠しているため、覗きたくなる。盗撮という犯罪まで生まれる。

つまり、一白は性の世界だ。性行為は文化であり、機械的な生殖ではない。その社会の価値観に基づいて選択の興奮が起こる。選ぶべき相手と納得して許容し、逆に、あってはならない掟破りに、新しい遺伝交配の期待が高まり興奮する。
いずれにしても、人は文化基準があるからこそ好悪を感じ、性の扉も開く。
一白の政治家は、この文化基準を満たす、究極のポピュリストだ。

心地よい庶民的な弁舌で本音トークを醸しだし安心させ、意表を突く政策で興奮を起こす。会った途端、タッチトーク攻めで膝から股間に手を伸ばすようなやり方だ。
昔、「オレなんか、出合って五分だよ」と豪語していたナンパ師がいたが、確かにそういう天才はいる。
しかし、この手の速攻は後先を全く考えていない。つまり、その場で落とすことしか考えていない。逆に、やられた方も「やられた」ことに気づかない。「お前は既に死んでいる」とは、こういうことだ。

一白政権による大厄災が起こっても、国民は誰も「やられた」とは思わず、「近衛さんは良い人だったのに、お気の毒に」とか、「やっぱり、田中角栄は天才だ」と慕い、罪を暴く人を憎む。欺されている人は、振込を止める銀行員に逆ギレする。
ただ、一白には、欺そうとして電話を掛けてくるような悪意はない。ひたすら喜んで貰うために、借金をしてまで接待し、その付け払いがいつの間にか国民になっているだけだ。
無い袖を振る好印象は、曖昧な秘密主義でまかなう。誤魔化すことが天性だから、正々堂々とやれば良いことまで隠し、これが結局、安易なルール無視になる。

安倍政治の置き土産、キックバック騒動は、元々は、その場しのぎの法律を作ったことにあるのだから、不都合なら堂々とルールを変えれば良かったのだが、面倒を避ける一白体質が安直な裏工作を生んだ。アベノミクスも本丸の規制緩和や新政策のない金融祭りに終わった。
正に、飲んで誤魔化す風俗政治だった。
♪ ただ 秘密の匂いたちこめるだけ(二重唱)


穴蔵泰平

2023年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

抜本維新」でも書いたが、日本社会は腐っている。デジタル化が遅れているのは象徴的だ。デジタルを扱えないチョンマゲ頭の高齢層に支配されているから、社会が高齢仕様になっている。10年ほど前に、退職した同年の教員がスマホもPCも使えないと言うから、「学校の仕事に差し支えなかったんですか」と聞くと、「何とか使わずに通せた」と照れ笑いをした。

ようやく印鑑が不要になったものの、未だに、ファクシミリで注文を受けたり、DMが送られてくる。これはアナログ層が社会を支配し、タテ型社会の中堅層もそれに従ってきたことで、社会構造自体がアナログのままだからだ。
高齢化は日本だけではないが、アメリカや中国を始め、世界的にデジタル化が進んでいる。では何故、日本だけアナログなのか。
これには、日本語の長所が禍している。

アメリカで始まったIT技術は、それを取り入れる層が、新しい概念や知識を英語のまま学び、英語のまま取り入れた。そしてそれをカタカナという便利な表音文字でそのまま日本で偽外国語として使用した。
外国語と特定できる表音文字を持たない国では、外国の専門語は原語ののままか、中国のように同音の同意文字を使う国もある。もちろん、英語圏は何も問題なく日常語として理解する。ヨーロッパの多くの国は自国原語に類似しているか、借用になれている。日本語でも、初めて聞く方言にそれほど抵抗なく、一度意味が分かればそのまま憶えてしまうようなものだ。

ところが、外国語であり意味が全く通じないカタカナ語は慣れるしかない。ボトムアップやシェアぐらいは慣れても、カタカナ語をカタカナ語で説明されたのでは、拒否反応で聞く気が起こらない。
「カレントフォルダのファイルをポイントしクリックして下さい」
・・・何のこっちゃ!?
日本の中高年は一斉に拒否反応を起こした。セクハラという新しい日本語には馴染んでもセクシャル・ハラスメントは門前払いだ。

若者なら、日本語だろうがカタカナ語だろうが、新しい言葉を覚えることが大好きだ。しかし、単語で事柄を憶えることを卒業した、「あれ、それ」人間には飛んでもない異界だ。
法律用語をわかりやすい現代表記にしたそうだが、IT用語こそ日本語化が急がれる。物理的なバットやブレーキを日本語化する必要はないが、抽象概念のITは、せめて漢字表記でなければ通じない。

かくして日本の中高年は、目で解り触って解るアナログの穴蔵に閉じこもり、タテ型に飼い慣らされた中堅層もそれを踏襲し、日本はデジタル鎖国の泰平をむさぼり続けている。


戦後郷愁

2023年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム

山崎ゴジラを観に行った。これまでのゴジラの中で最も理想的な姿のゴジラだろう。
ゴジラについては何の違和感も無く楽しめた。
ただ、山崎貴監督の映画は、『ALWAYS 三丁目の夕日』などもそうだが、何かくすぐったいもどかしさがある。山崎監督の過去への思いは、今で言う「リスペクト」があることは良く解るのだが、少し、思い込みが先行しているところがあって、歴史的観察が避けられているような気がする。

現場にいた当事者には夢でもロマンでも無いが、現場にいなかった人は過去に夢を見る。
80年代。元、江田島出身の海軍士官だった自衛隊の幹部が、東宝の戦争大作を観てポツリと軍服の違いをつぶやいていた。何らかの違和感があったのだろう。
「♪ボギー アンタの時代は良かった」の歌詞に、「とんでもない」と戦中派が怒った。
戦国時代の様々な物語も、泰平の江戸時代になって語られた。
ドンキホーテは、失われた騎士道の夢を見る。

体験しなかった人は、過去の現場にいないことを残念がり、もし自分がその時代に生きていたらと、様々な思いを燃やすものだ。
多くの人が、親の時代に強い郷愁を抱く。それは前世への喪失感、つまり、受け継いだアイデンティティへの執着だろう。
(→「カバー曲」、「哀の賛歌」)
近頃流行の「レジェンド」という言葉も、現実よりも過去に価値をおいて考えようとする世相の反映ではなかろうか。「この日のことを孫に話してやるんだ」といった台詞が説得力を持つほど、過去を重く見る傾向は、現代人の生命欲の喪失を表している。

これは決して悪いことでは無い。それだけ、知的理解の次元が高いということだ。
汲々とその日の糧に追われていると、過去や未来や心の問題など考えるゆとりもない。終戦直後は精神科の患者が皆無に近かったが、経済の回復とともに増えたそうだ。今や、ともすれば精神科通いがステータスにまでなっている。
戦国時代や大戦前後の人は、生きることで精一杯だったから、自分の行為に意味など考えられないし、ロマンどころではなかった。そんな極端な時代でなくとも、真剣に今を生きる人には自分自身を客観視する余裕はない。
スポーツ選手を上げたり下げたりするのは観ている人で、必死の本人は何も考えていない。奮闘直後の選手が、「さすがですね」と言われ、返答に困っていた。

「思い」の昇華
山崎監督の過去へのリスペクトは、この種の客観的なロマンチシズムであって、現場の人がどう感じていたかではなく、自分にとってどうだったかの追求のようだ。
過去の物へのこだわりとは裏腹に、過去の人の心は自分の思いが代弁する。
そのあたりが、現場の人間には心外で、山崎映画に、「何だかなあ」の違和感を感じるのだろう。

『三丁目の夕日』もそうだったが、『ゴジラ-1.0』にも、舞台演劇を観るような不自然さがあった。
では、リアリズムの実写映画と、舞台演劇やアニメではどちらがメッセージが伝わるかと言えば、必ずしもリアルな映像が真実を語るとは限らない。スポーツでも名選手より、脇役だった選手が名監督になることが多い。最も活躍している当事者が情況の意味を把握しているとは限らない。見たこと感じたことが真実とは限らない。たいていの詐欺は理路整然と説得力があるし、口下手がバカや嘘つきとは言えない。

今回の『ゴジラ-1.0』によって、山崎映画のこだわりのビジュアルは舞台装置であって、実は、ドラマの実体ではなかったことに気がついた。
『ゴジラ-1.0』は、『三丁目の夕日』のように純粋に日本人向けの映画ではなく、海外の人に観られることによって、「現場の日本人」を超えたメッセージが伝わることになった。
実は、山崎ゴジラの第一印象には、「やっぱり」という違和感があったが、全体にはよくできているし、ゴジラのビジュアルも良く75点ぐらいの印象で帰った。
しかし、アメリカで大ウケしているという話を聞いて、後半トイレをガマンしながら観ていた心残りもあったので、もう一度、アメリカ人のつもりになって観に行った。そこで、「なるほど、そうか」と、アメリカでウケる理由が解った。

東京オリンピック1964年生まれの山崎監督の「前世探し」は、自ずと戦後日本のあらゆる情緒を体現しており、朴訥な語り口が却って言葉の分からない外国人に通じた。
安寧の島国暮らしの日本人は細部にこだわり、言葉をもてあそぶ余裕がある。しかし、殺伐とした環境にいる外国人は、言い方よりも物と動きから考える。言葉よりもそこにある実態を見る。
山崎監督の言葉を超えた混乱期への不器用な「思い」が、外国人にはストレートに伝わり、むしろ、日本人より「わかって」もらえたのではなかろうか。
山崎監督にとっても、日本人にとっても、実に喜ばしいことだと言うべきだろう。


抜本維新

2023年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム

サッカーの本田圭佑が、日本の腐敗した制度や老人支配を批判し、賛同が集まっているそうだ。読んではいないが、たぶん賛成できるだろう。
近年、「厄介者の高齢者」のイメージが現役世代に広がっているから、本田でなくとも、多くの若者がそう感じているようだ。
その「厄介者の高齢者」の目から見ても、現状の日本は腐っている。一言で言えば、高度成長期に描いたバラ色の空想図をそのまま維持しているからだ。

盛者必衰。日本は成長ピークの経済環境が失われて久しい。にもかかわらず、誰もそれを修正せず、出直すことなく借金で取り繕ってきた。このまま行けば、日清日露の成功体験の夢を見ながら突っ込んだ太平洋戦争同様に、止める者がいないまま地獄に突入する。と言うか、既に一丁目の入り口に立っている。
少子化問題や外国人労働者云々は、抜本修正をせずにいかに取り繕うかという話であって、ゼロから考えるような生産的な話ではない。
何事も、最悪の時を基準に考えるべきだが、その意味で、今は将来計画を考える最高の時でもある。バラ色の未来ではなく、堅実な未来を描くために、仕切り直す時だ。

黒船待ち
人口減少で日本が滅亡すると考えるのも、成功体験の夢の続きであって、見習った先進国に再び見習おうと、中途半端な外国人受入政策を考えたりする。
先進国が成功した時代とは、環境が大きく変わっている。現に、労働力不足を叫びながら、将来はAIに仕事が奪われると心配している。この矛盾に気づかないのが、老人支配のチョンマゲ脳だ。
今の問題は、半世紀前の思考にある。公害を垂れ流しながら驀進していた高度成長期に夢見た福祉は、明治維新が敗戦で改まったように、一度、白紙に戻すべきだ。

年金も医療保険も、一切無いとして考えれば、将来はどうあるべきか無条件で考えられる。無茶な話に聞こえるかも知れないが、敗戦によって、預金は消滅し、財閥解体、農地改革と特権層の権利が消滅し、戦後が始まった。貨幣価値が改まり、労働と所得の新しい流れが始まった。それでも、様々な恩給は維持されたが、事実上の社会構造再設定ができた。
明治維新、敗戦級の大混乱を覚悟すれば、可能なことであり、自らやらなければ、向こうから何れその日がやって来る。
日本の政治家は日本は、ただ黒船を待っている。
そして、日本の不平分子たる若者も、渚で呪文を唱えているだけだ。いっそ、若者だけで独立国を起こしてはどうだろう。そうすれば、年寄りも目が覚め、若返るかも知れない。


魚と小鳥

2023年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

キッシンジャーが死去。100歳だった。歴史的評価は別として、偉大な政治家であることは間違いない。現実主義外交とは裏腹に理想主義者だったと言われる。理想が大きいからこそ、現実判断を果敢に実行できたのだろう。凡庸な政治家は理念(思い込み)や現状に囚われる。解ってはいても、キッシンジャーのような行動はとれない。

ウクライナといい、パレスチナといい、過去の行きがかりや思い込みに囚われ、しなくてもいい戦争を始めてしまった。バイデンがもう少し現実感のある政治家ならプーチンを追い込まなかった。もちろんバイデン一人ではない。アメリカはもとより、世界の政治家に胆力と大局的な歴史観があれば、こんなことにはならなかっただろう。世界の政治家がポピュリストや独裁者ばかりになって、一人の賢者もいなかった。今や、真に志のある政治家のいない時代になっている。

単純に考えれば、ソ連の力を削ぐために米中接近を図ったのなら、今度は米露接近が道理だ。ところが、米国人の固定概念は、欧州史のモンゴル・トラウマによるロシア恐怖があり、逆に、全く知らない中華文明には恋心がある。しかし東洋人は、その中国こそが恐怖モンゴルの末裔であることを良く知っている。
遊牧モンゴルには、形のある悪意の政治はないが、中華やロシアという政治が成す国家には、モンゴルの侵略体質が国家戦略として内在するようになった。
それが、中露の厄介なところだが、ロシアは中国ほど固定的な官僚制でもなく、一神教文化圏の一部でもあり、欧米の身内なのだが・・・

米ソの宗教戦争に、異教徒の中国と手を結ぶのは、本来は禁じ手だが、米国は取りあえずベターだと考えたのだろう。痴話ゲンカで見ず知らずの男を選んだというわけだ。
一神教のような観念的教理がない中華文明と欧米とは、魚と小鳥だ。(日本は日本教の両生類?)
そして、半世紀も経って、鷲の米国は相手が龍になる魚であったことに気がついた。このことはキッシンジャーも、暗に認めている。
もしキッシンジャーが現役の最前線にいれば、もっと早い段階で、今度は困窮のロシアに接近し、更生させていただろう。それがリアリズム政治だ。
死の直前、訪中したキッシンジャーの胸中、如何ばかりであったか。