魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

便利社会

2014年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

インターネットバンキングからメールが2本来た。
先に来た方に
「システムセキュリティのアップグレードのため、貴様のアカウント・・・」云々が書かれてリンクが貼り付けてあった。

後に来た方には、
「当行が電子メールでインターネットバンキングのパスワード等の入力を依頼することはありませんので絶対に入力しないでください」
と、あった。

後者にはデジタルセキュリティーがついているものの、双方の本文にはリンクが貼り付けてある。

先に来た方の「貴様の・・・」の言葉づかいは、日本人の言語感覚ではあり得ないので、すぐ怪しいと思ったが、注意のメールの方が後から来るようでは、「意味ないジャーン」だ。

しかも、注意の説明をリンクで読ませるのだから、インチキ詐欺メールと同じパターンだ。リンクを開く「常識」を増長している。

メールによるウイルスやフィッシングが、通用するのは。一つには、IT社会全体の安易さと、そのシステム依存にある。
注意メールを送ってくるからには、詐欺メールのパターンも認識しているのだろうから、直接、リンクや添付を開かせるような、安易なメールを発信すべきではないだろう。

本文のテキストだけで理解できるよう、専門のライターを使うべきだ。

例えば、メールの冒頭に、
「このメールをご不審と思われる方は、0120-○○○-○○○に、お問い合わせ下さい」と、先ずアナログ対応の道を示し、
それから、注意喚起の内容、その次にやってはいけないこと、そしてその後に、「パスワード等の入力を依頼することはありません」のようなことを言うべきで、
それを、数行で簡潔に表示し、詳しくは下記をご覧下さいとして、別ければ良いだろう。

当然、電話でのアナログ対応も偽物でない事を証明するために、代表電話的なものを用意する。(バンキング加入時のサイトに表記とか)

メール利用の犯罪には、基本的にメールではない対応をすべきだが、たとえメールであっても、メールの便利さに甘えない心構えでメール作成すべきだろう。
電話で「電話詐欺に注意して下さい」と言って来ても、信用するわけにはいかない。それも手口かも知れないではないか。

結局、振り込め詐欺は銀行窓口での人間の対応が、一番効果があるように、IT犯罪にはアナログ対応が一番効果がある。
サイバー攻撃に一番効果があるのは、ネットを遮断することだ。
重要連絡を、全て紙にした国もある。


幸運の裏

2014年02月26日 | 占いばなし

世の中には、いわゆる「玉の輿」的に運の良い人がいる。それを羨ましがったり妬んだりする人がいる反面、その運にあやかろうと近づく人もいる。
これはどちらも間違いで、こんな人には関心を持たない方がいい。

玉の輿的な人とは、土砂降りの雨の中、その人が歩くところだけ、バリアを張ったように、雨が降らず陽が差している。そんな人だ。
つまり、訳が解らないがとにかく、不思議に運が良い状態でいる。
外から見ると、何ら、努力をしているようには見えない。

雨の中を一歩一歩、歩いている人から見ると、まるで仏さんのように、苦も無くフワリと雲に乗っているように見える。だから腹が立つ。また、あの横に行けば、自分も陽に当たるんじゃないかと近づく。

しかし、玉の輿は単なるラッキーではない。実はそれなりに努力をしているのだが、他人とは違う努力なので、それが見えない。
食べるために、蟻のようにあくせく働く人もいれば、蟻地獄のように、じっと待ち続ける人もいる。

蟻には蟻地獄の姿は見えないから、蟻地獄の存在も、蟻地獄の努力もまったく解らない。
しかも、蟻地獄は単に待っているだけではない。蟻の通りそうな所を探し、蟻が滑り落ちるように、常にメンテナンスをしている。
そんな努力は、始めから蟻に覚られてはマズイのだ。

何であの人がと思うような人が、スルリと玉の輿に乗ったり出世したりする。難関試験を突破したり、とりたてて業績があったわけでもなく、まばゆいような美人美男でもない。

自動車人間で言えば、ハンドルやボディーにこういう人がいる。
特に、乗用車タイプの人に多く、乗用車タイプであれば他の機能タイプにも現れる。
乗用車タイプは、世の常識に則って生きる人だから、その中の優秀なタイプは、世の「あるべき姿」と見なされ、理想の人と見なされる。

だから、仕事でも結婚でも、狙った相手に、優秀な人材、理想の結婚相手と思われる。
ただし、この場合、本人はターゲットを狙っていると自覚しているわけではない。ただ、自分は世の理想のタイプであり、そのポジションは当然だと信じているから、当たり前のように、スッと雲に乗る。何とか乗ってやろうと努力する人は、永遠に目標のままだ。

こういう、「私が運が良いって?失礼な。私なら当然でしょ」みたいな人に、決して、近寄ってはいけない。
人間なら誰でも抱えている負の部分が、この人には存在しない
あらゆる負を周囲の人に振りまいて、自分だけいいとこ取りをして生きている人だから、近寄る人間はいつの間にか、蟻地獄の餌食となり、その人の問題を全部背負わされる。(たとえ、家族でも)

また、妬んだり羨んだり勝とうとするのも禁物だ。その反射エネルギーが全部自分に返ってくる。とにかく外部エネルギーを全部自分に活かす人だから、関わって得することは無い。
とにかく、自分とは関係ない人と思っておくのが安全だ。


観光立国

2014年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和30年代、教会でもらった英語教材の、一コマ漫画シリーズ「チョット困ること」で、カメラを首から提げた人に道を聞かれ、耳を押さえている人が描れ、「外人観光客の声が大きいこと」と、あった。
英語圏以外の人が英語で話す時、通じるようにと、思わず大きい声になるのだろう。それが、英語圏の人にはおかしい。

これは、英語圏の人の無自覚な優越感がベースになっている笑いなのだが、当時の一般アメリカ人には、何が問題なのか・・・だろう。

この頃アメリカは、戦災も無く、世界一が大好きな、自信に満ちた国で、世界の憧れだった。
元々、移民大国で、常に押し寄せる新参の人々に加え、空路も拡大し観光客も増えていたのだろう。

観光立国日本
先日、デパ地下の食品売り場で、買い物をしている人に、後から来た人が、
「チョット、ここチャイナ違うよ、ジャパンよ。食べ物乗せる所よ」
と、カタコト風に大きな声で注意した。

見ると、先に買い物をしている人が、手荷物を食品陳列台の開いたところに乗せている。
言われた人は支払いを済ますと、慌ててその場を離れようと、その荷物を置き去りにしたので、店の人が大きな声で呼び止め、よけい恥ずかしいことになってしまった。

大声で、「ここチャイナ違うよ」と言った人は、洋服姿だが気っぷの良い、立ち居振る舞いが、見るからに花柳界の人だ。
おそらく、サービス業の世界では、観光中国人に相当ウンザリしているのだろう。実際、各方面からの中国観光客に関する仰天話が後を絶たない。

サービス業は、表向きお愛想をしなければならないから、裏での客への蔑視は、相当激しいものがある。
普通の客に対しても、無粋者をバカにするが、田舎者や外国人も婉曲にバカにする。

もちろん、お金を落としてくれる人だから、拒絶はしない。ありがたく大切にしているし、決して悪口は言わないが、笑い話としてバカにする。
戦時中は軍人の田舎者ぶりを、戦後は米軍の異文化や闇成金の不作法をバカにしたし、近年では、接待慣習のないIT産業の話しも多かった。
(余談だが、業界で人気が無いのは警察と銀行。なぜかサソリ座だ)

観光立国日本に、中国から観光客が急激に増えたことで、サービス業界は、新たなパニックに陥ったようだ。悲鳴に近いような話を聞く。

しかし、よく聞いてみると、ほとんどが、文化の違いであり、驚きあきれてバカにする前に、寛容と、相手の文化を知ることで解決する。
もちろん、花柳界は、伝統あるプロ中のプロ。文化の違いと心得ているからこそ、「ここチャイナ違うよ」の軽口が出るのだろう。

観光旅行は、ただ行って、観て食べるだけに意味があるのではない。文化、慣習の違いを知り、異国への理解を深め、寛容性を養い、平和共存への道を開くものだ。

もちろん、受け入れる側にもその心得は大切だが、郷に入れば郷に従い。観光客だからと言って、恥のかき捨てが許されるものではない。
落書きのような幼稚な行為は言うまでもないが、生活環境による決定的な問題だけは、旅行会社の責任において啓発しておくべきだろう。

異文化交流
世界の何処に行こうとも、何処の人であろうとも、真っ先に心得ておかなければならないのは、食事のマナーではない、トイレの使用法だ。
トイレの概念すら曖昧な環境に暮らす人にとって、世界でも最先端の日本のトイレは使用法すら想像つかない。

大陸から来る人は、トイレポットに、「上手に」撃ち込むことさえ念頭に無い。日本に何代も暮らしている人でさえ、そういう人がいる。
その「結果」に驚いたり、軽蔑したりするのは、むしろ、こちらの視野が狭いのだ。

日本でも、ごく最近まで、あるいは現在でも、家の外に便所があるような農家では、何となくその辺に垂れ流せば用が足りるから、街中の民家でバチャバチャに汚してしまう人がいる。
都会に住んでいる人でも、大陸的で細かいことを気にしない人がいるようだ。公衆トイレの便器には、「一歩前へ!」とか、書いてある。

しかし、こうして汚してしまった人に、使用法を解説すると、プライドを傷つける。何とか、さりげなく前もって、解りやすく図解しておくべきだ。近頃、お風呂屋さんには英語で面白い図解が張ってある。
トイレを上手に利用できない人は、人格が劣るわけはない。ただ、知らないだけなのだ。

トイレのように、使う側にも提供する側にも、切実な問題には、周到な予防策を講じ、その他の行動パターンには寛容でありたい。
大声で話したり、鈍感に立っていたりするぐらいのことは、こちらも異文化観察として楽しめばいい。これも一つの文化交流だ。

日本式の堅苦しい日常を、大声や気の利かない人が「風紀を乱す」ことで、異国の風が入ってくる。それはそれで、日本社会を活性化させる。

外国からのお客さんには、日本人の生活を乱さない程度に慣習を知ってもらい、後は気楽に異国の空気を振りまいて欲しい。

エレベーターに乗ると、3~4人の学生風の韓国人が、他の客の迷惑にならないよう、ドアが開く度に互いに小声を掛け、賢明に気を遣っていた。これはこれでカルチャー体験をしているのだろうが、
思わず、そんなに気を遣わなくてもいいですよと、声を掛けたくなった。


格言の泉

2014年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

・極まれば転ずる
・人は自分の目で他人を見る
・絶対はないことが絶対だ

プロフィールで、「いつも思うこと」として上げているのは、座右の銘と言うほどでもないが、世界を見る、自分なりの心得だ。
元々、格言は好きで、 つかみ所のない世の有り様を、格言に当てはめてみることで、その事態の持つ意味が理解しやすくなる。

もちろん、世の中に、何一つ同じものはないが、格言はラベルのように、一言で事象を理解する切り口にはなる。
昔、日本かアメリカか忘れたが、アニメで中国人のキャラが何かと言えば、「あーい、中国に古~いコトワザあるネ、」と、茶化す場面があった。

四文字熟語の本家、中国は、今でも物事を単純化するのが好きだ。
何かと言えば、「8つの原則」とか、「3つの本音」のように、区分けして語りたがる。複雑な様相を単純化することで、事態の把握は早くなるが、思慮の余地は無くなる。また、違いを際立たせることで、行動は早くなるが、強い差別意識が生まれる。

一方、中国人が理解できない、日本人の複雑思考はガマン強さを生むが、整理しきれなくなり、終いに堪忍袋の緒が「切れる」            

占いでも、西洋占星術が、星の直接的な影響に着眼し、「実相」を重視するのに対し、中国では陰陽五行のように、区分け「決めつけ」から考え始める。 それが、今日の日中トラブルの原因にもなっている。
   
だから、格言やことわざ、あるいは占いに、過剰に囚われると、今の中国のような、日本人から見ればどう見ても「おばか」な事になってしまうのだが、一つの視点として心得ておけば、「中国4000年の歴史」的な智恵は、無駄にはならない。

先人の智恵の宝庫である格言は、もちろん貴重だが、人それぞれ、自分の体験から生まれた教訓も、それなりに役に立つ。

このブログでも取り上げた「アホ言うもんがアホ」は、「人は自分の目で他人を見る」の話しだが、他にも自分なりの教訓は少なくない。
チョット思いつくままに上げてみると、

「ここだけの話」は、「どこでもの話」
「かわいそう」は、「自分でなくて良かった」
「俺にまかせろ」は、「後始末は頼む」
「気にしない」は、「忘れない」
「わかった」は、「聞きたくない」
「すぐ返す」は、「返せたら返す」(貸すは、上げると心得よ)
「正義、道徳、誠」は、無い人の夢語り(言葉は本音の裏返し)
「窮鼠猫を噛む」の別解釈=人は完璧ではないから追い詰めるな

・・・どんどん湧いてくる。


火星26度

2014年02月18日 | 星の流れに

サソリの猪瀬の後に、射手の舛添。星座の順番通りだが、射手の方がややついている。天王星と木星が土星に良い影響を与える。
金の羽生も射手座で、

フィギアに向いているのは、ブルース・リーもダンスコンテストでチャンピオンになったことがあるそうだから、射手座のスポーツとして、自転車やサッカー以上に向いているのかも知れない。考えてみればやはり足のスポーツだ。

何であれ、射手座の木星はスポーツそのものも表す。
何よりも名前が射手座っぽい。羽生で飛び、結弦がそのまま弓だ。
ただ、占い的には色々な面で、今後、少し不安要素がある。

射手座については「対処次第」でも書いたが、年末から土星が入る。新都知事にも、順番通り、また何らかのトラブルがありそうだ。
大阪は大阪で、何だかおかしな事が始まっているが、これはこれで、いかにもカニ座の木星だ。

現状打破の試みに賭けているわけだが、大阪もカニ座なら、橋下市長もカニ座だ。言うまでもなく、カニ座の大御所は中国で、日本はおろか、アメリカにも挑戦している。

いつも言うことだが、自分が動こうとすると、止まっている周囲がすべて邪魔者や敵に見える。
周囲に腹が立つ時は、先ず自分を省みる必要がある。
外部を変えることは難しいが、自分を変えることは、どうにでもなる。

一方、夏、カニ座から獅子座に移る木星で、獅子座のオバマ大統領も、新しい行動に出そうだ。世界の政治スケジュールはどうなっているか良く知らないが、内政、外交と、とにかく現状打破しなければならない事が山積みだ。
この大転換の時代、まさにオバマ大統領こそが、世界のパワーバランスを崩す張本人になりそうだ。

危なっかしいアメリカだから、日本は大局を見据えて外交しなければならない正念場だ。
風の星座同士として、日本が、アメリカとロシアを繋ぐ役目を引き受けるぐらいのことができれば良いのだが。

現在、天秤の火星は26度まで来て、3月2日27度で逆行する、日本にとっては苦難だが、米ロにとってはまんざらでもない。このところ水瓶座が目立ってきているし、米ロもそこそこ活気づいている。
(なお、この一ヶ月ほど、火星サソリ座の影響も垣間見られる)

夏からの木星、獅子座に加え、暮れから射手座の土星、牡羊座時代の天王星と、男性星座にとっては、かなり恵まれた時になる。
日本も、夏に火星が抜ければ、短期間ではあるが、暮れから好転しそうだ。外交チャンスを逃さなければ良いのだが。

日露関係
星座関係」、「あざとさ(→再来再見)」


夢か現か

2014年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

※ この記事を、「認識の幅」からリンクしようとしたら、以前から保留のままでした。今さらアップ
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「どうも夢見が悪い」など、昔は普通に話していたが、近頃あまり聞かなくなった。この半世紀ほどで、古代からの日本人の感性が大きく変わったような気がする。

古典では、恋人が自分の夢に出てこないと、相手に不満を言うが、現代人にこんなことを言ったら、病気だと怖がられるだろう。
生き霊を信じていた時代には、幻覚や幻聴も、現に聞こえるのだから存在している、夢の世界も実在していると考えられていた。

霊魂は、日本だけではなく、世界的に信じられてきた。
霊など存在しないと言えば簡単だが、それではこの世が味気ない。霊や妖精がいる世界は賑やかで楽しい。

心の迷いや体調不振の時、誰かの仕業と考えれば、自分のせいではないから、気が楽になる。自分の立つ瀬ができる。

人間は、考える自分が無くては困る。自分を全否定したのでは、考えることもできなくなる。
だから、少しでも、自分に原因があると考えることのできない人には、霊や妖精がいてくれなければ困るのだ。
ひたすら自然を恐れて暮らした古代人や、自覚の出来ない子供には、なくてはならない存在なのだ。

夢と現実を区別するようになた近代でも、死んだ人が夢枕に立つ話しは少なくない。戦争に行った息子や恋人が夢枕に立ち、ちょうどその頃、戦死していた。そんな話しは欧米にも日本にもある。
また、日本の昔話には約束を果たすために、自害して霊になって会いに来る話もあった。

夢見が悪い
霊の有無は別として、「夢見が悪い」のは、現代人でも考慮した方が良さそうだ。昔の人なら、悪霊が寄って来たから悪い夢を見たと思うだろうが、現代的に解釈してもつじつまが合う。
メカニズム以前に、現代の常識として、夢は体調や心の反映だ。

悪い夢には何らかの原因がある。何かに悩んでいたり、体調に変調を来している時、問題とは違う形の夢に苛まれる。
夢の解釈方は、実に様々あるが、そうした説を単純に当てはめるのではなく、もう一度、自分を考え直すヒントにすれば、夢が役に立つ。

若い時に多くの悪夢を見るのは、成長過程の心と体の葛藤があるからだが、成人の悪夢は、やはり要注意だ。
無自覚の内に、悩みやストレスを抱えていたり、身体の変調があったりする。
夢の内容や意味をあれこれ考えるより、現実生活の中で自分が悩んでいることの反映ではないか、あるいは、身体に変化が起こっていないか、チェックするには良い機会だ。

何も思い当たらなくても、単に無自覚なのかも知れない。だから、何かの折に「夢見が悪」ければ、思いとどまるとか、もう一度考え直してみるのは、決しておかしな話しでもない。

ただ、中には、不眠症の上、夢を見ないという人がいる。こういう人は残念ながら、バックミラーもクラクションも無い自動車だ。ぶつかるまで何も解らない。


認識の幅

2014年02月15日 | 占いばなし

NHKで、超常現象の特集をしていたが、使い古された話題ばかりで、特に変わった話しでもなかった。
問題は、こういうテーマに注目が集まる、時代背景に共通性があると言うことだろうか。

これまで、こういうことが真面目に研究され話題になったのは、大戦の間氷期とでも言える時代で、それも末期、戦争の直前だ。
世の中に漠然とした不安が漂い始めると、人心が不安定になり、子供のように、不可解なものや、目に見えぬものへの関心が増してくる。

超常現象は否定しないし、積極的に研究はすべきだと思う。
その研究結果がどう出るかは分からないが、その答えが出ないことを良いことに、勝手な仮説を吐露してみたい。

誰にもある超能力
様々なケースで見聞したことがあるし、先日の超常現象特集でも取り上げていたが、幽体離脱状態の人が、見えないはずの「離れた場所の状況が見えた」話をしていた。

こうした例からも思うのだが、人間は認識しているより、遥かに多くのものを感知しているのではないか。
色々なことを感知していても、脳が都合良く振り分けて、多くの不要情報として切り捨てているのではないか。

遥かに離れて、見えない場所で発せられる音や臭い、空気の動きを感知しているのだが、目前の現象に対処する方が重要だから、優先順位として切り捨てている。だから、目に見えないものは見えないと思い込んでいる。
しかし、実際には、五感は様々なものを感知しているのではないか。

墜落する飛行機に乗るのを止めたり、衝突する列車から、何となく降りて助かった人の話がよくある。
そういう人は、単に運が良いとか霊感があるとかではなく、ある意味で現実対応能力が弱く、不要情報に敏感な人なのではないか。

いわゆる霊感と言われるようなものがあるとすれば、そういう不要情報に敏感な人のことで、どちらかと言えば一般人より現実対応力が弱かったりする。
実際、そういう人は、決して饒舌ではなく、少しボーッとしていたり、無欲な人が多い。

これに対し、自分には霊感があるとか、その体験をしたと、まくし立てるような人は、自分がそう思い込んでいるだけで、実際には、話しに便乗しているだけの場合が多い。(まず、無い人と思って良い)

不要情報に敏感で、人とはテンポの違う生き方をする人は、決してエリートでも目立つ人でもなく、試験や人を苦手とし、何をやっても上手く行かない。上手く行くとしても芸術ぐらいで、大抵は平凡な人生を送っている。そういう人こそ、いわゆる「霊感」がある人だろう。

また、そういう特殊な人は別としても、基本的には誰でもそういう感受性があって、人が五感以外の認識を必要とする、言語や道具を使うようになったことで、切り捨てるようになった。 「1/400

臨死の脳の極限状態では、認識力が失われ感覚現象だけになる。
そして、蘇生することで、言語的認識でその記憶を再現する。
それが臨死体験であり、このことは、日頃われわれは、はっきりと自覚してはいないが、様々なデータによって、現実の判断をしているということであり、論理を越えた行動の原因ともなっている。
・・・と、いうことではなかろうか

そして、運の良い時期、悪い時期とは、この総合能力のバランスが取れてうまく発揮される時が運の良い時で、バランスが崩れる時が運の悪い時と言うことになる。


クマさん

2014年02月13日 | 星の流れに

やはり、天秤の火星が効いてきている。
日本は無自覚だが、無用な火種を巻いている。

NHK会長や経営委員の不用意な発言で、世界を刺激しただけではなく、
ニュージーランド政府のEEZ抗議に対し、国際法上何の問題もないと公言して、NZを怒らせ、謝罪要求までされた。
中国の行為を批難する立場の、日本がとるべき態度とは思えない。

「キレる」とは、まさにこういう状態だ。
日頃、正常な人は、様々な状況を考慮してものを言うのだが、キレると、溜まった思いを爆発させ、後先を忘れて叫き散らす。

比較的中立で、中韓に対しても批判的な欧米メディアまで、安倍政権に疑問を持ち始めた。「もしかしたら、中国の言うことも一理あるかもしれない」と。
そこに、ニュージーランドとの無益な摩擦だ。

アメリカでは慰安婦像や、東海表記に巻き込まれ、完全に日韓対決の構図に持ち込まれている。
たとえ、州レベルで東海表記が決まろうと、放置しておけば、韓国の世界標準に対するゴリ押しが際立つだけだった。
せいぜい、「日本は世界標準に従う」ぐらいの声明で充分だった。

日本海は欧米が付けた名前で、日本には全く関係ない。
それ以前は、日本でもやはり、北の海と呼んでいたようで、「北前船」の名前でみても、江戸の前の海を「江戸前」と呼ぶように、「北前」と呼んでいたようだ。
大航海時代の産物としての「日本海」は、世界基準に固定されており、日本は「北前」を捨てて、それに従ったまでだ。

韓国の自国「東海」のゴリ押しは、時間が経てばやがて立ち消える陳腐な主張だが、日本が相手にすることで、日韓対決の構図に持ち込まれ、改めて、日韓の外交力学問題となり、世界が、どちらの見方になるかで、呼称まで変わる様な話にされてしまった。(世界にも迷惑だ)
慰安婦問題も、日本海呼称も、同次元で相手になったことで、日本は抜き差しならない状態に追い込まれている。完全にしてやられているのだ。

♪ ある日森の中クマさんに出遭った・・・
何事もそうだが、相手が騒ぐ時は、決して取り合ってはいけない。
例えば、マスコミに取り上げられた時、決して反論してはいけない。反応したら思う壺だ。「次元を変えた対策」を打つべきだ。
猛獣に出遭ったら、じっと見据えて反応せず、徐々に後退する。何も攻撃しないと安心させ、見えない後ろ手で、武器を用意する。

何度か触れたと思うが、お父さんのスキャンダルに、一切弁明しなかった加山雄三は、流石だと思った。ただの芸能人とは家風が違う。
あの時も、日本海呼称と同じで、直接自分の問題ではないことで大火事になっていたが、成り行きに委せて放置し、話題が燃え尽きて鎮火したところで、何事も無かったように活動を始めた。

「沈黙は金」 マスコミが金だ金だと騒ぐから、金を逃してしまう。


制御不能 補足

2014年02月12日 | 自動車人間学

「制御不能」でハンドルには、見栄や名誉欲は無いと書いたが、誤解を受けそうなので少し補足する。

ボディーの名誉、ハンドルの誇り
名誉欲の強いのはボディーで、何でも良いから認められたいのがすべて。当初の旗印と、関係ないところからお声がかかっても、あっさり、初めからそれが目的だったような顔をしてそこに治まってしまう。

これに対しハンドルは、自分の思いや着想を人に認められたい一心で行動する。何でもかんでも「自分」が注目されたいわけではない。
したがって、自分の世界を曲げても認められたい訳ではないから、有名になるために作品を変更することを嫌う。

ゴーストライターは始めから曲げているではないかと思われるかも知れないが、そうではない。注文に応じて、それをやりこなす自分の能力に誇りを感じる。

この自分の構想を追求することで、結果的に有名になる人や、自分の能力の証明のためにコンテストなどに応募し、知られることになる人がいるが、自分を見てもらいたいのではなく、自分の能力を見てもらいたいのがハンドルだ。

名誉欲がないのに目立つエンジン
有名人が多いエンジンの場合は、何でも良いから自分の行動の結果を出したいのが動機だから、結果としてのお金に目が行くし、結果を出すためには筋道や精度にこだわらない。これが、その場しのぎの嘘になったので、これも決して有名になるのが目的だったわけではない。

ボディーの名誉欲は、何処に行っても自分が知られているような空気が欲しいので、なるべく姿を現さずに、それがバレて困ったな、の様な雰囲気でいたい。何処に行っても自分が大事にされる下地が欲しい、つまり、社会に守られたいマザコンのようなものだ。

名誉のボディー、自己顕示のシャーシ
これに対し、シャーシの名誉欲は自分と顔を合わせた人に、恐れ入らせたい。自分が現れることで、相手にそれを認めさせたい、直接的な自己顕示だ。

目の前の人の反応が欲しいのは、エンジンも同じだが、シャーシが相手をネジ伏せたいのに対し、エンジンはウケたい。
この比較で見ても、シャーシは自己顕示、エンジンは対人能力であって、見栄やハッタリ、名誉の欲望はボディーとシャーシの要素であることが解る。

能力の開花
また、知恵勝負はガソリンとハンドルだが、いずれも、少しこだわりを捨てることで、社会的なチャンスが広がるのだが、打ち込む能力とチャンスは反比例する。

ガソリンは思い込むより行動することで、ハンドルはバカの言うことに耳を傾けることで、大きく世界が開けるだろう。


制御不能

2014年02月11日 | 占いばなし

日本のベートーベンと、そのゴーストライター。
どちらが本体なのかよく解らないが、自動車人間で観ると面白い。
ベートーベンの佐村河内守氏はエンジンS
作曲の新垣隆氏はハンドルS

エンジンはエンタテナーであり、ハンドルは仕組み制御の裏方だ。
エンジンが発するパワーを、ハンドルの制御装置がコントロールして、自動車の機能を果たす。
エンジンが持ち込んでくる問題が難題であるほど、ハンドルは解決意欲が湧く。

佐村河内氏は、なぜとほうもない嘘を重ねたのか。
エンジンは闇雲に前進しようとするから、障害物が現れるごとに、とにかくその場しのぎをしようとする。それができなくなると爆発するか、エンストする。

おそらく芸能界に関わった時から、小さな障害に出会う度に、その場しのぎの小さな嘘を重ねてクリアしてきていたのだろうが、嘘は嘘でなければ説明できない。(嘘に嘘を重ねる)

そこに、新垣氏という高性能のハンドル制御機能を据え付けた。
ブンブン吹かせば吹かすほど、ハンドルが見事にこなしてくれるので、自分が一体、何のお陰で力を発揮できているのかが解らなくなって限度を超えた。

そして、ついにハンドルがたまりかねてブレーキを踏んだが、元々、エンジンには自己制御機能が無いから、また、その場しのぎの嘘を、今度はハンドルに向けて、「自殺する」と脅したが、エンジンの雑な嘘など、ハンドルに通用するはずもなく、むしろ、嘘パワーをハンドルに向けたことで、ハンドルがキレてしまった。筋道論者のハンドルは、ごまかしを最も嫌う。(逆に、ハンドルは正直に弱い)

ハンドルの新垣氏は、見栄や名誉欲は無いから、エンジン佐村河内氏が自分の責任の範囲で嘘をついていることに対しては、世の中、それも方便(引っかかる奴も悪い)と受け止めていただろう。
それを、言うことも聞かず、同じ調子で自分に向けてきたことで、『オレはそんなことに引っかかるバカじゃない』と、ブチギレた。
・・・大体そんな経緯がうかがえる。

占星術の観点から観ると、また別の面白さもある。
二人とも乙女座で、佐村河内氏はほとんど天秤だが、天王星や冥王星というネガティブ惑星が乙女座に同居して、そこで自分を売ることを表しているし、新垣氏は月も乙女座の新月生まれだ。

乙女座にとって、魚座が最大のパワーを発揮するところになる。
言うまでもなく、魚座は嘘(虚像)と音楽を表す。
魚座、乙女座の相互パワー発揮の例では、ピンクレディがいる。

また、天王星牡羊座時代には、世相的に「新」の字が目立つ。

さらに九星でも、佐村河内氏が一白で、新垣氏が三碧だから、「出任せ」の条件が整っていた。

なお、佐村河内氏は9月21日生まれの一白で、安倍首相も9月21日生まれの一白だ。
何の偶然だろう・・・


裸の王様

2014年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム

日本のベートーベンと言われた耳の聞こえない作曲家の曲は、ゴーストライターによるものだった・・・と、大騒ぎになっている。

「だからあ~」が、感想だ。これもある種の偽ブランド事件だ。
誰の作曲であろうと、その音楽自体が良いかどうかの問題のはずだが、それを演奏する人、聴く人にとって必要なものは、音楽だけではないと言うことだ。

料理でも絵画でも、みな同じだ。感覚で判断することは、ほとんどの人が価値を決めることができない。
感覚は一人一人、状況によって感じ方が違う。同じ刺激を受けても、苦痛にも快楽にも変わる。

あやふやな感覚にたよる芸術の価値など、基本的には存在しない。
さらに言えば、「価値」も本来、存在しないものだ。強いて言えば、正義や善と同じように、誰にとっての価値かということだろう。
しかし、そう言ってしまえば実もフタもないので、ここは、共通の利害を持つ集団にとっての価値の話しとなる。

つなぎ
そうした集団の中での価値とは、当然、集団社会にとって役に立つことでなければならない。物や金の誰でも目に見える物理的な価値と違い、文化的な価値は解りづらいし、説明するのも困難だ。
しかし、社会をまとめる目に見えない「つなぎ」は確かに存在するし、それが無ければ社会は成り立たない。

その「つなぎ」を強化し、発展させるものが「価値」だ。
例えば、商品価値の場合、被災地の食料のように、物理的に必要とされる物の価値は誰にも解る。しかし、必要のない人にも生じる価値は、「わたしは重要な物を持っていない」と思うことで生まれる。

ブランド品を求める心は、社会的上位者なら持てるはずの物を自分は持っていない、と感じる渇望感であり、それは、社会への積極的な帰属願望から出るものだから、社会に忠実な、役に立つ価値観だ。

本来、社会的上位者が持つ宝は、手工芸による一品生産だったが、産業革命パラダイムが、高度な商品の大量生産を可能にした。
ありふれた工業生産品ばかりになると、社会の上位者の持つものである、由緒ストーリーで、社会的価値がすり込まれる。それがブランドであり、どんな高品質であっても、由緒がなければ価値が付かない。

こうした社会帰属願望を刺激する付加価値は、芸術のように、物量で価値を計れないようなものには、さらに必要となる。

コンテストや評論によって、社会の指標となる専門家が良しとした、社会基準にあてはまる由緒が付加され、それが社会に必要な「つなぎ」の価値と認められて、多くの人に積極的に受け入れられる。
この絵は、この曲は素晴らしいのだと、安心して感動に浸る。

王様の衣装
日本のベートーベンの曲は聴いたことがないから、何とも評することはできない。(聴いても解らないのだが)
日本中の「教養人」が、絶賛していたことは事実だ。それを良しとして聞いていたのなら、誰の作品であろうと、全く問題にならないはずだ。

事実が分かったからと言って、「騙された」とか、「失望した」とか言うのなら、彼らは一体、何を絶賛していたのか。
明らかに、由緒ストーリーの価値を見ていたということだ。
被爆二世の盲目で聴覚を失った作曲家という由緒を歓迎していたので、そういう設定には抗うことができないから、積極的に価値を認めようとする。

これは、能力よりも設定に投票したアメリカの大統領選挙と同じ事であり、麻原彰晃を崇めた「優秀な」信者達とも同じことだ。
積極的に「善」であろうとする社会帰属意識が、実体よりも由緒の価値に反応することを表している。

王様の衣装は素晴らしいと思いたい、町の人の善意。それが商売になると知っていた仕立屋は、ブランド会社であり、麻原彰晃であり、日本のベートーベンだ。

ゴーストライターの作曲家が
「彼を通して、私の曲を聴いてもらえることが嬉しかった」
と、語ったことが、改めて無名の芸術家達への哀切を誘った。


奇貨探し

2014年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

バック・トゥ・ザ・フューチャーの中で、
大人になった不良ビフは、父のジョージから借りた車を壊して、
「オレが怪我したら、どうしてくれるんだ」と、逆に弁償を迫る。
誰がどう聞いても言いがかりだが、世界中の人が「こういう奴、いるいる」と、すぐわかる不良の論理だ。

先日、米国の学者が、中国の大気汚染で米国が被害を受けるのは中国に工場進出した結果でもある(から、皮肉だ)と述べたところ、中国は早速、中国の大気汚染の責任は先進国にあると言いだした。

この報道はラジオフランスの中国語だそうで、誰が主体かよく解らない話だが、中国が何かにつけて、「この責任は○○にある」と、すべて人のせいにするパターンを考えれば、やっぱり中国報道なのだろう。

朝鮮半島もこれを見習っているのだが、中国は言いながらも、それが方便であることを心得ているのに対し、朝鮮半島は、何も考えず、それが正しい論法だと信じている。お兄ちゃんがあれこれ考えながらしていることを、「そうか、そういう風に言うものか」と、そのまま過激に踏襲する弟だ。

言ったことが都合悪くなると、探り探りの中国は、つじつまが合うように適当に言い訳しながら別のことを主張し始めるが、弟の朝鮮半島は「マズイ」と、感じると、人ごとのように、コロリと言うことを変える。元々、自分の言葉ではないから平気で差し替える。

ただ、どちらにも共通していることは、誰かの言質を最大限利用しようとするところだ。言いがかりの種を見付けると、よく確かめず、チャンスと、直ちに食いつく。とりあえず食いつく。

大気汚染が欧米にとって皮肉な結果だと自虐的に言っているだけで、欧米が原因だと言っているわけでもないのに、「そっちのせいョ」と、すぐ言い出す。安倍首相の靖国参拝に欧米が、余計なもめ事を造る日本に、「失望した」と言ったことに、本気で「大チャンス」と食らいついて、欧米も靖国参拝に怒っていると、大キャンペーンを始めた。

もともと、今回の尖閣問題も、言いがかりの「大チャンス」と錯覚して飛びついたことから始まった。日本では、初めから中国の陰謀と思っている人が多いが、それも、うがち過ぎだ。
一連の中国の行動を見ていると、むしろ、そこまで計算ずくとは思えない。

中国特有の二者択一の文化は、とりあえず二者択一の行動を起こす。良く言えば、男らしく潔い。(漢=男)
駆け引きというものは、相手の弱みを見付けて可能になるが、
相手が困っていることを助けることで共存の道を探るやり方もあれば、相手の弱点をひたすら突く、喰うか喰われるかの死活選択しかできない力任せの道がある。

共存を考えない、力任せの不良の論理を、普通はヤクザと言う。
昔の中国人は、こんなにも下品な行動を取らなかったと思うのだが、
軍人の単細胞と、成金の慢心で、短所が丸出しになっている。
加えて、中国軍部は戦前の日本軍と同じく、実戦を知らない。


アジアン

2014年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃には、「♪ きけばんこくのろうどうしゃ~」という歌を、よく聞いた。メーデーの歌だったと思うが、近頃はあまり聞かなくなった。
小学校の頃、社会科で、タイの首都がバンコクだと習った時、
「それにしても、タイの労働者に何を聞かせるんだろう???」と、不思議に思った。

タイのバンコクでは、また、デモで首都機能が停止している。
選挙による民主主義の結果に不満を持つ、都会の少数派富裕層が政権と対立することで、常に、こうした騒動を繰り返している。
デモによる、意見の主張までは民主主義だが、物理的効果を目的にするのは独裁の裏返しに過ぎない。

都会の富裕層が、農民を金で動く無知な民衆と思うなら、あらゆる手段で教化すべきだろう。
民主主義ではないが、昔の宗教者は布教のため、井戸を掘り、橋を架け、ため池を造って回った。そうしたふれあいの中で、賛同者を得ていく。対話と納得によって賛同者を得て、政治を動かすことが、民主主義の基本のはずだ。

バンコクの都会派は、農村の人々と対話を交わしながら政治を動かす努力が必要だろう。そうすることで、また、自分達の修正と発展もできると思うのだが、「農民の一票と自分達の一票は価値が違う」とまで言う、古典的な階級差別意識で政権を否定している。

おねだり民主主義
民主主義には、個人の当事者としての自覚が必要であり、リーダーや制度に依存すれば、たちまち、自ら自由を失ってしまう。
デモと一揆の違いは、対等の人々に呼びかけ、多数派を形成し政治を動かすか、お上にお情けをお願いするかの違いだ。

単に為政者への不満をぶちまけ、場合によって政権転覆を試みるのは、為政者を自分達とは関係ない、力による支配者、あるいは運命的支配者であると考えているからであり、そういう風土の中では、為政者もまた、そう考えている場合が多い。

政治を君臣関係だと思っているのは、民主主義の途上国であり、どんなにデモが盛んでも、民主主義国家とは言えない。

今、タイもウクライナも揉めているが、ウクライナは事実上、大国ロシアとの闘争(戦争)だ。一方、タイには、王様の前での御前試合のような意識が見える。ウクライナが民主主義の枠の中にいるのに対し、タイの場合は、古き良き王国の物語り「王様と私」の世界にいる。

形式は現代風だが、王様の下に、市民があり、その下に農民がいると考える、古典的な階級意識が大前提になっている。農民は無知と考える、都会派自身の目覚めが無い限り、同じことが繰り返されるだろう。

経済的に豊になっても、アジアが世界をリードできないのは、猿社会同様の、原始的なタテ秩序が覆っているからであり、その最たるものが中国共産党だが、天皇に対する日本人の意識などを見ていると、日本もまた、確実にアジアの一員であることを、認めざるをえない。


恵方巻き

2014年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

3日は節分で、セブンイレブンの店頭に、テーブルを出して海苔巻きを売っていた。ちょうど通りがかった時、勤め帰りの中年男性が、
「一本でもいいですか」と、買って行った。独り暮らしの家に帰り、恵方に向かって食べる姿を想像した。何と律儀な。

いつの間にか、仕来りになってしまった恵方巻きだが、40年ぐらい前には、「丸かぶり」すら聞いたこともなかった。
これもまた、業者がでっち上げた行事だが、
(「ウナギ病」、「13日金曜日」、「大草原」)
この種の商魂が必ずしも成功するとは限らない。近年、色々出現した中で、実際に風習にまでなったものはバレンタインと、恵方巻きぐらいだろうか。

共通していることは、費用が手頃で、どこか楽しいところがある。
チョコレートなら、帯や宝石と違い、小学生でも買えるし、貰う方も覚悟するような物でもない。手作りもできれば、他の物と抱き合わせることもできるし、貰った貰わないと、ちょっとしたドキドキ感もある。

恵方巻きも、一本丸かぶりがミソで、誰でも、大口を開けて少しみっともない姿になる。食べながら、笑いが漏れる。
これも、お値段お手頃で食事代わりにもなり、ムダがない。手作りもできれば、配ることもできる。

こういう縁起ごとや、記念日など義理絡みのことは、一度始めると、なかなか止められなくなる。しなければ失礼になったり、止めると心変わりを疑われる。その最大のものが年賀状だ。
それ以前は、訪問可能な距離で、特定の人だけお年始回りをしていたものが、郵便システムの出現で、誰彼かまわず挨拶をしなければならなくなった。

このことで、当時の人は、人間関係が広まり深まったように思っただろうが、実は、特定の人間関係の絆が弱まり、広く薄くなっただけだった。良いか悪いかは別として、主従関係が薄まった。
今世紀になってからは、年賀状が「アケオメ」メールに替わり、人間関係はどんどん希薄になっている。やがて、年始の習慣そのものが消えるだろう。

節分は、暦の上の大晦日だから、まめを散いて巳年の厄払い。
今日は立春、これが本当の「初春」で、いよいよ甲午年が始まった。
加えて、今日は丙午の日、初午だ。

5歳の子が書いた馬の絵に、「うまどし」と書いてあったが、「ど」の濁点が大きくて、なぜか「うまどとし」と読んでしまった。
濁点だけで「ど」と読んでしまい、改めて下の「と」を読んだのだろう。
そんな錯覚の目で見ると、「午年」は「千年」にも見える。

どうか、良い千年でありますように


AB受難

2014年02月03日 | 占いばなし

中韓の大陸勢はB型で、日本はAB型、欧州はA型だ。
B型は直情的で物理的だ。事象に触発されて感情的になるが、すぐ冷める。ところが、事象に対してはレコーダーのように記憶し、再生する度に、その音に感情を再燃させる。
一方、A型はコンサートのように演奏によって感動し、感動の記憶だけが残るが、音そのものは残さない。

A型は、コンサートで感動し、その思い出がいつまでも残るが、その時の楽器の構成にはあまり意味がなく、楽器や会場の物理的設定は、感動とは別の問題として、方法論としての考慮対象だ。
B型は、感動そのものはその場限りで忘れるから、なぜ感動したのかにこだわり、この構成だったから感動したのだと、理由にこだわる。

情緒的A型は感情そのものに浸り、興奮性のB型は感情の理由にこだわる。

歴史に対する考え方も、A型は感情を記憶し、事柄を記憶しないから、むしろ、歴史記録に対しては感情を絡めず有りのままに、過ぎたこと、違う世界のこととして、客観的に考えることができる。

B型は感情を忘れ、事柄で感情を呼び覚ますため、意識して記録を残そうとする。B型にとって歴史は、感情や意識を呼び起こすための重要なツールであり、目的のために記録される。
中華文化圏で、「正史」と言われるものは、政権を取った者が自らの正当性を説明するツールとして編纂される「記録」のことだが、感情再生装置で意識を保つ、B型ならではの「歴史観」だ。

中華圏の歴史とは正史であり、事実とは関係ない。したがって、正史を否定する物は破壊し、正史を証明するために銅像や記念館を建てる。つまり、巨大な銅像や記念碑は、捏造の必需品だ。
そもそも、事実を歴史と考えるなら、記念碑や銅像は必要ない。歴史は新事実が出て来れば変化する。そうなると、記念碑は陳腐化する。

過去の政権や文化の遺産を破壊するのは、この正史観から来ているが、アジアには至る所、顔を削られた石像があるし、今世紀になってからも、バーミヤンの石窟が爆破されている。イスラム原理主義とは言うが、モンゴルの爪痕が残る東アジア文化圏だ。

このB型文化圏にあって、日本は独り、AB型文化だ。
日本の歴史観は、A型的な無作為な記録と、B型的な捏造が同居している。世界でも日本ほど歴史資料を残している国は無いそうだが、一方で、無数の神社が、由緒として、到底あり得ない話しを事実として記録している。

事実も捏造も残す日本人は、それで混乱しないために、事柄にこだわらない「水に流す」文化を培った。おそらく世界唯一だろう。
この珍しい文化は、世界の人には到底理解できない。
日本は何を考えているか解らない、八方美人のウソつきだと吹聴されると、世界中が、なるほどと納得しやすい。
ちょうど、少数派のAB型がそう思われやすいように。