昭和30年代、教会でもらった英語教材の、一コマ漫画シリーズ「チョット困ること」で、カメラを首から提げた人に道を聞かれ、耳を押さえている人が描れ、「外人観光客の声が大きいこと」と、あった。
英語圏以外の人が英語で話す時、通じるようにと、思わず大きい声になるのだろう。それが、英語圏の人にはおかしい。
これは、英語圏の人の無自覚な優越感がベースになっている笑いなのだが、当時の一般アメリカ人には、何が問題なのか・・・だろう。
この頃アメリカは、戦災も無く、世界一が大好きな、自信に満ちた国で、世界の憧れだった。
元々、移民大国で、常に押し寄せる新参の人々に加え、空路も拡大し観光客も増えていたのだろう。
観光立国日本
先日、デパ地下の食品売り場で、買い物をしている人に、後から来た人が、
「チョット、ここチャイナ違うよ、ジャパンよ。食べ物乗せる所よ」
と、カタコト風に大きな声で注意した。
見ると、先に買い物をしている人が、手荷物を食品陳列台の開いたところに乗せている。
言われた人は支払いを済ますと、慌ててその場を離れようと、その荷物を置き去りにしたので、店の人が大きな声で呼び止め、よけい恥ずかしいことになってしまった。
大声で、「ここチャイナ違うよ」と言った人は、洋服姿だが気っぷの良い、立ち居振る舞いが、見るからに花柳界の人だ。
おそらく、サービス業の世界では、観光中国人に相当ウンザリしているのだろう。実際、各方面からの中国観光客に関する仰天話が後を絶たない。
サービス業は、表向きお愛想をしなければならないから、裏での客への蔑視は、相当激しいものがある。
普通の客に対しても、無粋者をバカにするが、田舎者や外国人も婉曲にバカにする。
もちろん、お金を落としてくれる人だから、拒絶はしない。ありがたく大切にしているし、決して悪口は言わないが、笑い話としてバカにする。
戦時中は軍人の田舎者ぶりを、戦後は米軍の異文化や闇成金の不作法をバカにしたし、近年では、接待慣習のないIT産業の話しも多かった。
(余談だが、業界で人気が無いのは警察と銀行。なぜかサソリ座だ)
観光立国日本に、中国から観光客が急激に増えたことで、サービス業界は、新たなパニックに陥ったようだ。悲鳴に近いような話を聞く。
しかし、よく聞いてみると、ほとんどが、文化の違いであり、驚きあきれてバカにする前に、寛容と、相手の文化を知ることで解決する。
もちろん、花柳界は、伝統あるプロ中のプロ。文化の違いと心得ているからこそ、「ここチャイナ違うよ」の軽口が出るのだろう。
観光旅行は、ただ行って、観て食べるだけに意味があるのではない。文化、慣習の違いを知り、異国への理解を深め、寛容性を養い、平和共存への道を開くものだ。
もちろん、受け入れる側にもその心得は大切だが、郷に入れば郷に従い。観光客だからと言って、恥のかき捨てが許されるものではない。
落書きのような幼稚な行為は言うまでもないが、生活環境による決定的な問題だけは、旅行会社の責任において啓発しておくべきだろう。
異文化交流
世界の何処に行こうとも、何処の人であろうとも、真っ先に心得ておかなければならないのは、食事のマナーではない、トイレの使用法だ。
トイレの概念すら曖昧な環境に暮らす人にとって、世界でも最先端の日本のトイレは使用法すら想像つかない。
大陸から来る人は、トイレポットに、「上手に」撃ち込むことさえ念頭に無い。日本に何代も暮らしている人でさえ、そういう人がいる。
その「結果」に驚いたり、軽蔑したりするのは、むしろ、こちらの視野が狭いのだ。
日本でも、ごく最近まで、あるいは現在でも、家の外に便所があるような農家では、何となくその辺に垂れ流せば用が足りるから、街中の民家でバチャバチャに汚してしまう人がいる。
都会に住んでいる人でも、大陸的で細かいことを気にしない人がいるようだ。公衆トイレの便器には、「一歩前へ!」とか、書いてある。
しかし、こうして汚してしまった人に、使用法を解説すると、プライドを傷つける。何とか、さりげなく前もって、解りやすく図解しておくべきだ。近頃、お風呂屋さんには英語で面白い図解が張ってある。
トイレを上手に利用できない人は、人格が劣るわけはない。ただ、知らないだけなのだ。
トイレのように、使う側にも提供する側にも、切実な問題には、周到な予防策を講じ、その他の行動パターンには寛容でありたい。
大声で話したり、鈍感に立っていたりするぐらいのことは、こちらも異文化観察として楽しめばいい。これも一つの文化交流だ。
日本式の堅苦しい日常を、大声や気の利かない人が「風紀を乱す」ことで、異国の風が入ってくる。それはそれで、日本社会を活性化させる。
外国からのお客さんには、日本人の生活を乱さない程度に慣習を知ってもらい、後は気楽に異国の空気を振りまいて欲しい。
エレベーターに乗ると、3~4人の学生風の韓国人が、他の客の迷惑にならないよう、ドアが開く度に互いに小声を掛け、賢明に気を遣っていた。これはこれでカルチャー体験をしているのだろうが、
思わず、そんなに気を遣わなくてもいいですよと、声を掛けたくなった。