魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

忍者半島

2017年02月25日 | 占いばなし

朝鮮半島がサソリ座であることは、日本が天秤座であることより確定的のようだ。
韓国は土星通過による朴クネ政権誕生で今も立ち直れないでいるし、同じ時、北朝鮮では金正恩体制が始まった。
そんな中、今回も北朝鮮の現代忍者が大活躍だが、忍者はサソリ座だ。韓国だって負けてはいない、KCIAは有名だし、他国の主権などお構いなしは、金大中事件で実績がある。他人の家の屋根裏や床下は、忍者の主戦場だ。

軍人や剣豪は牡羊座で、表の火星だが、裏の火星は、サソリ座のスパイや忍者になる。
牡羊座が「正義」であるのに対し、サソリ座は「不義」。つまり、他人にとっての「正義」であって、論理を越えた本音を意味する。「死と再生」のサソリ座では、正義が逆転する、一元的な道理が通用しない、「何が何でも」の世界だ。

朝鮮半島で起こることは、何から何まで謎めいて、何一つ信用することができない。信用とは、一つの原理を共有することだから、原理を越えた世界に信用は存在しない。
朝鮮半島は、世界鳴動の地雷源だ。日本が未だに断ち切れないでいる明治維新後の東アジアの混乱は、朝鮮半島から始まった。東の冷戦も朝鮮戦争からだった。遡れば、隋の滅亡もここが絡んでいた。
サソリは小さくてもバカにできない。巨人を毒針の一撃で倒すことができるのだ。

朝鮮半島のような大陸の末端は、本体エネルギーが途絶えるところであり、同時に、次の本体が萌す卵巣のような存在にあたり、大国の興亡の時に動めき出す。巨人は、ここに関わることが、既に自身の命脈が尽き始めていると悟るべきだ。
サソリ座は「相続」も意味する。大家が滅びる時は遺産が発生する。死のサソリ座が近寄って来ることは、門前に死神が立っているということだ。

共にやること
サソリ座が「セックス」を表すことは有名だ。韓国の異常なまでの慰安婦へのこだわりは、やはり、サソリ座を証明している。この分野でのビジネスも今や世界的に有名だ。
また、今回も北朝鮮は、「共同」捜査しようとマレーシアに提案したが、韓国哨戒艇沈没事件の時といい、この種の事件を起こした時の決まり手だ。
「共同」と言えば、何か公平な印象があるが、始めから、泥棒が警察に言える言葉ではない。このパターンは、韓国も同様で、自分に無い技術を既に有してる国や企業に「共同開発」しようと持ちかける。

なぜ、「共同」を提案するのか、また、何故それにまんまと乗る相手がいるのか。これも相手がいてこそ成り立つ、「セックス」の世界と言えるだろう。
金も地位もある男が、下らない女に引っかかって全て巻き上げられたりするのは、欲望を簡単に処理できると錯覚させられるからだ。これを誘惑という。(男だけとは限らない)
世間ズレしていない男同様、ナイーブな企業や政治家は、取引や外交でも甘い口車に乗せられる。

ところが、男にも百戦錬磨がいて、騙してやろうと近づく女を利用して、十二分に元を取る強者がいる。韓国はロケット技術を手に入れようと、ロシアに共同開発を持ちかけたが、ロシアはしっかり、契約を果たして利益を上げ、韓国は結局、何も得ることができなかった。

ところで、語源は違うのだが、韓国の代名詞とも言える「サムスン」の名前は、旧約聖書の英雄、怪力サムソンと通ずる。マッチョな性的アピールのイメージや、力の秘密を隠したりバラしたりと、これもサソリ座を連想させる。韓国を大きくしたのがサムスンだったのも必然だったと言えるだろう。

天秤座は、こんなサソリ座から利益が出る。しかし、一方で、サソリ座に関わる者は死が約束される。クモのオスは、生殖のためメスに近づくと、交尾の直後にメスに食べられてしまう。
一体、この難しい関係を、どう保っていけば良いのだろう。


ニンニン

2017年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム

2月22日はニンニンの忍者の日として、甲賀市では、職員も忍者姿で仕事をしていた。
伊賀でも甲賀でも、忍者ブームに乗って、忍者観光が盛んだが、どのイベントも「ブチ壊し」の逆効果だ。
世界中で忍者ブームが起こり、素朴に忍者の「凄さ」に憧れて、日本に来た人をガッカリさせる、子供だましの観光グッズばかりだ。

日本に、忍者はもういない。また、忍者の実体は、映画やアニメのファンタジーではない。今、戦国時代のような忍者がいるとすれば、北朝鮮だろう。
敵地に根付いて人脈を作り、人心を攪乱し、情報を得、薬物や小道具で暗殺する。まさに戦国忍者だ。
日本の忍者も、服部の名が表すように、ルーツは渡来人だ。渡来人の持つ技術と独創性を戦国時代に活かした、言わば戦国のすき間産業だった。

しかし、ファンタジーで有名になった忍者は超人的存在であり、忍者に憧れている人は、日本に行けば、そのスーパーマンに会えるのではないか、その技を身につけられるのではないかと期待して来る。忍者の里の観光対応は、その「真面目な」忍者信奉者をガッカリさせる低レベルだ。
忍者教室や忍者ショーはどんなに立派なものであっても、忍者ファンのイメージより必ず劣る。妄想に勝る事実はないからだ。

忍者を観光資源とするには、忍者を尊敬し、且つ、忍者ファンに敬意を払うことだ。
忍者に興味の無い人なら、「忍者まんじゅう」でも買うかも知れないし、本当の忍者がスーパーマンではないことを知っている日本人なら、冷静に楽しめるかもしれない。
だが、わざわざ日本に来る外国人の中には、本当に忍者を信じて来る人もいるのだ。期待を裏切るチャチな観光商売には、失望どころか怒り出すだろう。

昔、忍者が実在したことには物的証拠がある。一方、忍者が既にいなければ、想像は無限に膨らむ。
忍者を観光資源として活かすには、ベタな忍者グッズより、真面目な「忍者博物館」だろう。忍者ファンの妄想こそが観光になる。
歴史上の忍者と、ファンの想像力を結びつけるのは、「事実」と「ヒント」だ。博物館の現物資料に、「かもしれない」ファンタジックな解説を加えれば、子供だましの忍者ショーや、わざわざ人間の限界を見せる地味な忍者教室より、よほど妄想し、よほど興奮する。

お祭りや遊びとして、市職員の忍者姿や、忍者グッズもあって良いと思う。
そのかわり必ず、考古学ファンが喜ぶ発掘現場や遺物のように、真性忍者ファンを満足させる、「事実資料」を充実させて欲しいものだ。


現実感覚(3)

2017年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

さて、トランプ大統領とオーストラリア首相の相性はどうだろう。
ターンブル、オーストラリア首相は、安倍首相、オランド仏大統領、メルケル独首相と同い年の一白だ。一白と言えば、トランプ大統領お気に入りの娘イヴァンカさんも一白で、相性が悪いようには思えない。
しかし、元来、トランプの九紫と一白は、火と水で相性が悪いはずだ。ところが、実際は、一白と九紫は、基本的に南北の対角線上にあって、互いに補い合う関係でもある。
上手くいけば、ものすごく上手くいくし、チョットくるったら大爆発する。
ただし、九星の相性は世代間格差のようなもので、直接感じる相性ではない。相性と言っても結果的な効果の問題だ。

相性は、むしろ、自動車人間の方が直接的に現れる。
トランプと安倍はボディーとシャーシ。ボディーから見ると、シャーシは背中しか見えない。バックシャン安倍に見えるわけだ。逆に、豪首相ターンブルはハンドルで、ボディーの背中しか見えない。ボディーのトランプには背後からの情報源にはなるが、ハンドルのターンブルにはボディーの反応が見えないから、どんどん語りかける。
で、「ウルサイ!」と言うことになった。

悪いことに、トランプがホットの子丑空亡なのに対し、ターンブルはクールの寅卯空亡だ。トランプが、先ずは話し合おうとすると、ターンブルは、とんでもない「決定事項」を宣言されたように思い込み、慌てて説得しようとする。
トランプにすれば、ターンブルが聴く耳を持たず、一方的な「押し付け」を、まくし立てているように感じる。
両者ともネイティブ英語の直接会話だから、互いの方言による語感の違いもあっただろう。東京人が親しみを込めて「バカね」と言うと、関西人は逆上し、関西人が「アホやなあ」と言うと、東京人がカッとするようなものだ。
イギリスのメイ首相とは、安倍同様、天秤座ホットのシャーシの上、トランプの女好きも幸いしたかもしれない。昔、サッチャーは、ゴルバチョフがお気に入りだった話もある。

トランプ大統領出現は、世界政治の「段取り」をひっくり返した。もう、自由や民主主義、法治主義のきれい事は通用しない。
しかし、このトランプを引っ張り出したのは、無法者、中国の親分であり、無法地帯の保安官なら西部劇のアメリカだって負けてはいない。
西部劇の名保安官は、たいてい、元々、無法者やガンマンだったと言うから、毒は毒を以て制す時代が、またやって来たようだ。


現実感覚(2)

2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

動物愛護団体の主張を聞くと、たいていの人は首をかしげるだろう。人が生きる現実から、かけ離れているからだ。あらゆる動物は他者の犠牲で成り立っており、犠牲のない動物世界はあり得ない。命を尊ぶことと、命を愛玩することとは、実は真逆なのだ。
命の尊重を言いながら、見えない犠牲には無頓着。まさに、戦後世界の美しい理想と立前の姿だ。「可愛そう」の快感に浸る麻薬患者は、自分が正常でないことに気づかない。

「法治主義」は、人道主義や哲人政治、共産主義に替わる、現代の夢だ。立前は素晴らしいが、人間がやることに完璧はない。衆愚は理想を泥船にしてしまう。
誰が見ても許されないようなことが、法治の名の下で、許されてしまう。
現代の「良識」は、料理が美味いか不味いかではなく、レシピ通り正しく料理されることに価値があると錯覚している。

ケミストリー
英語では相性の良いことを「have good chemistry」と言うらしい。トランプ大統領は安倍首相とは「good chemistry」だと連発していた。良好な化学変化を起こすと言うことだろうか。俗語の一種と思われる。
トランプ大統領とオーストラリア首相との電話会談中断は、レシピを守れというオーストラリア首相に対し、それでは美味しくないことを上手く説明できないトランプが、癇癪を起こしたのだろう。bad chemistry ということか。

トランプは子丑空亡*だ。子丑空亡はホットの知の星。自信家で意志が強い。自信家だから自己完結思考で、自分で全ての答えを出す。子丑空亡に、高所恐怖症や先端恐怖症が多いのは、それだけ推察力やイメージ力があることを表している。論理的な反面、対話が下手で、自分の意見が通らないと癇癪を起こしやすい。

子丑空亡の有名人はタモリ、さんま、孫正義、など多士済々だが、周囲に多くの人がいても、結局、何でも1人でやってしまう自己完結型で、この点、辰已空亡のタケシなどとは生き方が違う。個人的には目立つが、人との兼ね合いが必要な政治には、向かない体質だ。ちなみに、鈴木宗男も、舛添要一も子丑空亡だ。

トランプの行動原理も、自己完結のワンマンタイプで、世間の常識やルールに本音では従わず、我田引水の自己主張する。
癇癪持ちだが、他人をあてにしないから、自分で考えるために人の話をよく聞く。相当用心深く、うかつなことを言わないが、理解したと思ったら、かなり決めつける。
しかし、情報を与えられると、180゜考えを変えることもある。
さらに、自動車人間のボディーは「結果オーライ」だから、前言は気にしない。

トランプが口にする言葉は、答えを求める過程であり、結論ではない。ホットは理想主義であり、子丑の言葉は、仮説や提案であって、言葉は思考の道具だ。この点、現実主義のクールは、現実を前提で考えるから、言葉をプロセスとは考えない。決定事項の伝達か、ただの言葉遊びと考える。
言葉を重視するトランプは、話しが通じる相手には接近するが、話しても解らないと思ったら、話すこと自体を止めてしまう。

自動車や為替問題で、日本のことが出てきたので、日本メディアが騒ぎたて、日本ではそれを気にする人が多いが、むしろ、中国のことが、ほとんど出てこないことの方が重要だ。つまり、トランプは中国に対し、何らかの決意を持っていることの表れだ。
社交辞令的には普通に言葉を交わすが、見限った相手には、手の内を見せない。
実際、中国のやっていることは、今更どう説得しようとしても無駄に見える。言葉遊びは多弁だが、まったく言葉とかけ離れた行動を続けている。
おそらく、トランプは近年の行状から、中国のことを話し合える相手ではないと見限っているのだろう。つまり、本気で駆け引きをする相手だと見ている。ヤるかヤられるかだ。

干支の話(1)干支の話(2)


現実感覚(1)

2017年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

トランプ大統領出現後の世界の騒動は、映画や小説より、よほど面白い。
概念破壊に対する世界中の過剰反応で、それぞれの正体が丸見えになった。
トランプの行動に、直情的に反応した者。適当に合いの手を打つ者。沈黙して探る者。現場に様子を見に行く者・・・皆、閃光にさらされたように丸裸だ。金正男暗殺もその一つと言える。
最も面白かったのは、オーストラリア首相との電話中断で、演出しても見られない、小説よりも奇なりだ。

中国を相手にするために、アメリカはトランプを選んだとしか考えられない。
気に入らなければ、会見をドタキャンするメンタリティに対抗できるのは、トランプをおいて他に無いだろう。

アメリカの切り札=トランプ
その前に、特筆したいのは、オバマを除く戦後生まれの大統領が、全員、1946年生まれであることだ。クリントン、ブッシュの後、若いオバマが任されたが、再び古希のトランプ爺さんが登場したことは、冷戦下の平和時代、人間力の何かが失われたことを意味している。

1946年生まれは、戦前と戦後の両方を併せ持って育った年だ。戦前生まれの兄姉の末っ子として生まれた人と、戦後生まれの長子として生まれた人が混じり合っていた年であり、世代として、戦前秩序を理解している。同時に、戦後の新世界をリードしてきた世代でもある。
翌年の1947年になると、ほとんど長子の新世代になり、戦前秩序に対して破壊的な感情を持っている。

1946年生まれにある「戦前秩序」とは、皮膚感と機械文明の19世紀的人間観、物理的現実感のある社会だ。
ところが、1947年以降の生まれは、親兄姉の戦前的先達と断絶し、ラジオ、電話、テレビの中で育ち、情報の同時共有の世界に生きるようになる。
思考が観念化し、知識や情報をそのまま現実として考えるようになった。
イギリスで流行るロックを、自分たちの音楽として聴き、宇宙からの映像を、リアルタイムの現実と考るようになった。

観念化した世代によって動くようになり、豊かな先進国では、理想と立前で未来がやって来るユートピア運動のような雰囲気に浸っていたが、一方では、その犠牲になっている地域や国の人々は現実に向き合い続けていた。
中東のように石油利権に翻弄され苦難から抜け出せない地域や、逆に、先進国の下請けで、突然、大金を手にしたBRICSのような国。中でも、戦後の理想を知らない中国は、稼いだ金の使い方がわからず、古代覇権の復活しか思いつかない。

貧困の現実から、突然、現れた野生児達に、現実を忘れた先進国は対処の仕方を知らない。
先進国のリーダーが、戦後の観念世界で育ったおしとやか世代に入れ替わると、戦争や難民の現実に対処できなくなった。理想や立前では、荒療治ができない。事なかれを重ねて、結局は大きな破綻を招き、極右の台頭や膨張主義を許すことになる。

こうした現実に対処する覚悟をもった最後の世代が、1946年生まれと言うことなのだろう。
オバマは、トコトンきれい事で通そうとしたが、1946年生まれの3人は、本来、平和主義だが、良い悪いは別として、「戦争」現実に対する覚悟がある。ブッシュは実際、戦争をしたし、クリントンが北朝鮮への先制攻撃を考えたことはよく知られている。当然、トランプも同じ感覚を持っているはずだ。

トランプも平和主義だが、戦争を避けては戦争を回避することはできないことを知っている。猛獣に遭遇したとき、逃げたらやられる。一か八か、ニラんで動かないことが究極の選択だ。聴く耳を持たない「野獣の現実」で迫ってくるテロリストも、膨張主義者も、逃げたら襲ってくる。

トランプが遭遇しているトラブルは、戦後の立前政治のルールを無視して、現実感だけで動いた結果だ。
トランプの感覚で考えれば、今、目の前に起こっている障害こそが、まさに、取り除かなければならない「バカヤロウ」な、非現実主義なのだ。そういうことの積み重ねの結果、今どうなっているんだ、の思いだろう。

オーストラリア首相との電話中断は何で起こったか、容易に想像がつく。


情報の海(4)

2017年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

事実には多面性がある。事実は一つではないとは、事実を伝える情報は一つではないという意味だ。円錐は横から見れば三角であり、上から見れば円だ。
本当のことを知ろうと思えば、数多の情報が暗示する「見えてないもの」を推し量らなければならない。

情報の真偽を争うことには意味が無い。虚々実々の情報の背景に思いを至らせることにこそ意味がある。
「筆舌に尽くしがたい」、「絵にも描けない」、「行間を読む」、「曰く言い難し」・・・こうした言葉は、本当のことは情報で知ることはできないものであることを、語っている。
ところが、知識学習で成長した現代人は、知識情報に囚われて、本質が見えなくなっている。知識の整合性だけが正解だと信じ、ことの本質を見失う。

情報にこだわり、情報で本質に触れたと錯覚する現代人をとりこにしたのが、ネットだ。
情報の海のネットでは、整合性を補足する情報は、幾らでも手に入る。
明らかな嘘でなくても、辻褄の合う話も信用できない。いや、むしろ辻褄の合う話の方が信用ならない。

こんな情報の海を、いかに渡っていくのか。現代人なら、情報の出所や合理的数値で確かめようとするだろうが、これは、氷の船で水上を行くようなものだ。水で出来た氷は、やがて溶けて、船と水の区別は付かなくなる。つまり、夢の中で夢から目覚めて夢の話を語るようなものであり、机上の空論の「真実」にしかならない。
円錐の話のように、情報を確かめようとするより、情報から視点を引いて、その背景を考えることだ。正しいか正しくないかより、何故その話しが出てきたのかの方が重要だ。

非科学的占い思考
占い思考は、こんな現代にこそ意味がある。占いを信じることではない。占いの思考方法、占うときの考え方が役に立つのだ。
占いの考え方は、論理的整合性や情報の確かさを求めない、科学とは真反対の位置にある。一つ一つの情報を超越した、「傾向」や「印象」を重視する。目に見える雑多な事柄を成り立たせる、基礎となるものは何なのかを考える。
木を見ず森を見るというが、さらに、山を見ようとするのが占い的視点だ。

嘘や噂話の全体を眺め、「これは一体何なのか、何が起こっているのか?」を、考える。
悩む人の本質的な問題は、その人が悩んでいると思い込んでいる事柄とは、まったくかけ離れている場合がある。人は問題に直面すると、その本質が見えなくなるものだ。
それと同じように、空騒ぎの本質や背景を見抜き、肝心なことは何なのか、今考えなければならないことは何なのかに注目するのが、占いの思考方法だ。
これは、仏教の「色即是空、空即是色」と同じ考え方と言えるかもしれない。

こうした方法は、計測や検証とは相容れない。経験と勘で本質を見抜くことを重視し、嘘から真を抽出し、万言の中から価値ある一言を発見する。
ネット時代の情報の海を渡っていくには、心得て損のない、思考方法ではなかろうか。


情報の海(3)

2017年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

大衆を扇動するメディアの弊害は、メディアが出現した時から存在していた。近代戦争の主犯は、メディアであると言っても過言ではない。
20世紀初め、その新聞全盛の時代に現れた映像やラジオを、最大限に利用したのはヒトラーだった。思考の新聞時代に現れた、映像と音による感覚的伝達が、民衆を扇動した。新聞は大衆の頭を刺激したが、映像は身体を刺激した。

天王星84年周期の時代が巡ると、映像音声革命同様に、今度は「言葉」が革命を起こそうとしている。思想でも直接情報でもない。単なる「言葉」、噂話や作り話、まさに、「囀り」や「嘘ニュース」が、大衆を動かし始めている。
情報の拡散は、巡り巡って、井戸端会議や噂話が社会を動かすようになったのだ。
地球上のどこからでも声が上がり、世界は本当か嘘か解らない「情報の海」に漂いだした。「信頼のおける情報」と言うものが消えつつある。
この状況に飛び込んで、大統領の座まで手にしたトランプは、やはり、ヒトラーに替わる現代の天才なのかも知れない。

認識の革命
トランプによって起こった重大な社会現象は、差別の助長や社会の対立ではない。情報の信頼性の崩壊だ。「何が本当か解らない」ことだけが、確かなこととなった。
メディアが、紙媒体からネットに活路を開こうとした矢先、誰でも好きなように発信できるネットで、「嘘ニュース(fake news)」が流行りだした。あり得ないような記事であっても、嘘とする証拠もない。逆に、本当の情報であっても疑念が生じ、信頼性が低下する。

メディアが力を持ったマスコミ社会では、情報の真偽にかかわらず、とりあえず、正しいとされる情報は安定していた。この時代には、噂話は社会を不安定化させるものとして社会から排除された。
ところが、そのメディアの権威が揺らぐと、再び、噂話や嘘が社会を動かすようになったのだ。
嘘でも安定した情報を信じる社会と、何も隠されなくても、情報を信じられない社会とどちらが良いか、なかなか難しい。(中国は前者を良しとするが)

しかし何はともあれ、全てが見えていさえすれば、どう選び、どう解釈するかの自由がある。後は個々の能力の問題だ。
一方で、目の前の情報で考える前に、情報の秘匿ばかりを疑う人が現れる。こう考える人は、情報さえあれば正しい認識ができると信じ、自分の能力を疑わない人だ。自分の思う結果でないのは、情報が足りないからだと考える人だが、これは、お金さえあれば幸せになれると思う貧乏人と同じだ。

本当のことを正しい事実で知りたいと思えば、際限が無くなる。科学思考の現代人は、この罠にはまっている。


情報の海(2)

2017年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

メディアの没落
理想を謳うメディアと政治のハーモニーが、世界を動かしていた時代は終わった。
その最後の輝きがオバマ時代だが、「YES WE CAN」と言っても、何も変わらなかった。心地よい響と雰囲気だけが世界を覆った。
先進国が理想の未来に酔いしれている間に、中国のような軍国主義が成長し、中国の夢よ「YES WE CAN」と、時代を一世紀も引き戻したのだ。
(まさに、時代の周期律の現場を、目の当たりにすることになった)

野蛮からの解放は人類の夢ではあるが、立前と理想だけで、前進できると考える欧米先進国の「虫の良さ」が、クリミア事態を生み、軍事国家・中国を太らせた。
理想を謳えば人類は進歩すると信じる、欧米の「我田引水」は、中国を良質の取引相手と信じ込み、一方で、ロシアの立場を無視したEU拡大に浮かれ、その結果起こったクリミア事態で、ロシアには厳しく、中国の海洋進出には目をつぶった。そして、皮肉なことに、本当の脅威である中国の側へ、ロシアを押しやったのだ。

クリミアと、南シナ海の違いは、ウクライナは、コサックの大地であり、ロシアの心の故郷でもある。比べて南シナ海は、単なる中華大陸の境界の海だ。古来、大陸は台湾の存在すら正しく認識していなかった。

ウクライナが欧米に属することになれば、ロシアは庭の「屋敷神の祠」を奪われたようなものだ。欧米はウクライナを引き寄せる前に、ロシアに対する敬意を払い、先ずはロシアを仲間に引き寄せるべきだったが、ロシアは感情的に対立するほど、昔から欧米と縁が深かった。
逆に、名前こそシナ海だが、古来、興味さえ無かった中国が、ただ接しているだけで所有権を主張していることに、国際社会は、始めから異議を唱えておくべきだったが、そうしなかった。それだけ欧米にとって、極東は「関係の無い」地域なのだ。大西洋を中心に据えた欧米の地図では、時々、日本さえ見えないことがある。

こうした欧米の視点は、当然のことながら、欧米メディアの視点であるにもかかわらず、日本のメディアも、その価値観を追随する。
メディアによって世界が方向付けられてきた近代の栄光に酔い、メディアは行くところまで行ってしまった。権力批判という「権力」そのものに変わってしまったのだ。
あらゆるシステムは腐敗し、あらゆる権力は腐敗する。マスコミ権力としてのメディアは、現実論評ではなく、自らの思い込みや予断と比較して批判するようになった。自分たちの価値に合わないものを批判し、終いには、予断を実現させるため、ねつ造報道までするようになった。メディアそのものが批判の対象になった。

そこに、ネットがメディア批判のツールとして現れることで、メディアの腐敗が一気に表面化した。
トランプは、メディアが批判されるべき権力として存在していることを利用した、最初の天才なのかも知れない。


情報の海(1)

2017年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

メディアのアガキ
近頃、マスコミとは言わず、メディアと呼ぶのが主流になった。
メディアと言い換える理由を、正面から宣言した言説を聞いたことが無いから、全くの推測なのだが、おそらく情報環境の変化のせいだろう。

噂話、瓦版、新聞、ラジオ、テレビ・・・と、社会コンセンサスを支える情報が大規模になるに従い、マスコミュニケーションの概念が浸透した。
ところが、ネットの拡大により、社会コンセンサスの基礎がネットに移り始め、マスコミを支える新聞等の情報媒体=メディアと、マスコミニュケーションが、同じものではなくなってきた。そのため、ネットと区別し、メディアと呼び始めたのだろう。

ネット社会と、メディアのスタンスが乖離し始めると、メディアに対する不信が広がり、そこに無自覚な、メディアの不遜な態度が、益々、不信を大きくした。
トランプ大統領を生んだのは、メディアの不遜が大きい。自分たちの価値観と影響力を過信し、大衆が自分たちの誘導に従う事を前提にした予測が、ことごとく外れた。
オピニオンリーダーを自負するメディアの立場は世界的に共通であり、メディアと敵対して生まれたトランプ大統領には、一致して批判的な立場を取っている。当然、学者、学生、政治家など、メディアと共存する理念の知識人たちも歩調を合わせた。

射手座のトラップ
トランプが、矢継ぎ早に衝撃的な大統領令を出すと、最も直接的に被害者の声が上がる入国制限令で、世界のメディアは待ってましたとばかりに大声を上げた。国内で移民排斥圧力に悩む欧州首脳は、直ちに声を上げ、入国制限を非難した。
日本のメディアまで囃し立てると、案の定、野党は安倍政権も非難声明を出すべきだと便乗する。

メディアが騒げば、こういう動きは必ず出るだろうと思っていたが、これこそが、射手座土星の落とし穴だ。
トランプを無知蒙昧と決めつけたいのは、日本のメディアも同じだ。アメリカの内政問題を、世界規範で否定しようとするのは、メディアが今までリードしてきた「つもり」の理想と相容れないからだ。
思い込みを叫び、現実を見ようとしないメディアの期待とは裏腹に、大統領令支持が大きく上回った。(メディアは賛否拮抗と報じたが)
しかし一方で、メディアと共に言論エスタブリッシュメントの一角である司法は、大統領令を憲法違反と差し止めた。

渦巻く潮流
人類の地球的流動攪拌は、現代の大きな潮流であり、アメリカこそが、その震源地だ。しかし、ものごとには波もあれば渦もある。
アメリカによる経済と戦争の拡散が、外に難民を生み、内に流入民を呼び込む。テロも難民も越境労働者も、アメリカの生態と動向によるものであり、それが、時代を動かしてきたが、その反動を食らうのも、またアメリカだ。

そのアメリカが、かたつむりの目玉を引っ込めるような行動を取ったからと言って、「話が違うじゃないか」と怒ることはできない。
ことに、日本のように、大量の難民を受け入れていない国が、万単位の難民に直面する欧州のように、偉そうなことを言える立場ではない。安倍政権に声明を出せという野党は、無責任な「メディアの子」だ。もし本気で、難民受け入れを支持するなら、先ずは日本で、大量難民受け入れの提案をするのがスジだろう。話はそれからだ。