よく、子供を育てることは、自分が成長することだと言う。
一番の理由は、我が子は、自分の鏡だから、自分に気づかされるからだ。
それだけではない。忘れていることや、自分がしなかった体験をする子供と、ともに悩み、考えることができるからだ。
カウンセリングや占いのように、他人の相談に乗っていると、それに似たような効果がある。
それどころか、相手が大人だけに、自分の体験しない世界を知り、ともに悩むことで、一人の人生では出来ない成長をする。
ところが、悩みばかり聞いていると、脳が常に苦境に置かれるために、楽天思考が出来なくなり、いわゆるPTSDや、心の傷だらけのようになってしまう。
これが、昔から言う、「占い師は業を背負い込む」という現象で、普通の人はやってはいけないという理由だ。
引業商売
「業を背負い込む」現象は、占い師だけではない。医師や芸能人など、いわゆる一般生活が出来ない職業すべてに当てはまる。
これを昔の人は、「者の末路憐れ」と、言った。
易者、芸者、役者、医者、学者、武者、忍者・・・これらは「家」と同じで、すべて、社会から独立した、スペシャリストであり、
人間関係に頼ることができず、知術だけに頼る孤独な仕事だ。
現代では、「士=さむらい」商売などといわれる資格商売と重なるが、資格商売と違うところは、誰もお墨付きをくれない、誰も守ってくれないから、毎日が実力と己との勝負になる。サラリーマンのストレスとは全く違う種類のストレスだ。
だから、人格的には何処かおかしい人間になる。
おかしくない人間とは、前後左右の人間関係に配慮できる、社会性を兼ね備えた人間だが、「者」は人間関係に幾ら気を遣っても、実力は向上しない。その結果、人間関係がおろそかになる。
人間関係が破綻しやすい「者」は、特に家族関係に問題が起こりやすいので、「末路が憐れ」になるのだろう。
「者」の救いの道は、「師」に成ることだが、これが案外難しい。
「者」は能力だけだが、「師」には支える人がいる。
「師」に変身しやすい「者」と、しにくい「者」がある。社会が認めた資格のある商売は、始めから人が支えている。
現代では、医療や教育は、始めから医師、教師など、資格商売になっているが、役者や芸者のような商売は、なかなか「師」には成りにくい。
だから、周囲で支える人が、あえて師匠とか先生とか呼ぶ。
易者と、占い師の違いは、易者が易卦を観る専門職であるのに対し、占い師は「FortuneTeller」幸運案内人という接待業であり、人気商売として成立する。つまり、占い師は人に支えられて成立する商売だ。
よりどころ
占いを通して、「自分も成長する」のは、易者でも占い師でもない。
人生相談、カウンセラー、コンサルタント、アドバイザーのように、問題解決を計ろうとする場合であり、これは相談を受ける人自身が成長すると同時に、不用意に当たれば、やはり、苦「脳」になって業を背負い込む危険がある。
ミイラ取りがミイラになっては、誰の役にも立たない。
占いを用いる問題解決法がカウンセリングと違うのは、解決すべき現実の問題に対し、運命観が離れて存在しているところだろうか。
人生の諸相が、常に運命との対比の中で考えられる。
この点、宗教的な相談と似ているが、占いは周期律など、より具体的基軸があるので、理解しやすい人もいる。
また、宗教の場合は、最終的に、神(=他者という自分)への信頼、自信の問題だが、占いの場合は、運命との対話という、自他の対峙を前提にしている。有り体に言えば、占いには縛られないが、神には縛られる。
もともと、カウンセリングは、根底にキリスト教文化を背景としているので、内面(神)の問題は、何処まで行っても内面の問題となるが、占いの場合はもう少し気楽な立場からの出発で、仏教の仏を目指す菩薩道の考え方と通ずるのかも知れない。
いずれにしても、登山口は違っても目指すところは同じだと思うのだが。こういうことを言えば、たちどころに叱責する人もいるだろう。
くわばら、くわばら