魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

歳を取る

2015年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

PBブランドの百円菓子にも、そこそこイケるものがある。ピーナツとチョコレートを探していたら、ピーナッツチョコレートがあった。これは一石二鳥だ。食べてみたら、案外美味い。思わず一袋食べてしまった。

食べたのはStyleOneだったが、TOPVALUにも、セブンプレミアム(カタカナ表記)にも同じ物がある。見た目は同じなので、案外、パッケージ以外、製造元は同じ会社かも知れないと思い、試してみた。
しかし、お見それしました。それぞれ違うテーストで、やはり別物のようだ。
StyleOneはソフト、セブンプレミアムは少し大人っぽいが、どちらもイケる。TOPVALUはツブ形状も味も、残念な結果だった。

あくまで個人的な好みだが、並べて食べると食べ過ぎてしまうので、別々に試した。
残りが溜まったので、食べ過ぎが心配だったが、テレビを観ていると思わず手が出てしまう。
だが、心配すべきは、食べ過ぎではなかった。

口の中で噛み砕いた、ピーナツとチョコレートを飲み込もうとした瞬間。
お笑いに「ぷッ」と吹き出してしまった。正確には吹き出しかけた。
喉を通過中のピーナツチョコレートのペーストが、気管支に入ってしまったのだ。
悪いことに、水気の物が全く無い。むせて咳き込めば咳き込むほど事態は悪化する。咳でピーナッツのカケラが、喉を掻きむしり、しかもチョコレートがへばりついてピーナッツを逃さない。

咳を押しとどめるための我慢と、突き上げるピーナッツとのせめぎ合いの中で、窒息寸前、汗だくになって、どうにか小康状態になり、青息吐息で洗面所に行き、うがいをした。とりあえずは窮地を脱したものの、声が出なくなってしまった。

悪化したのは翌日だった。始めは風邪かなと思った。話そうとすると喉が痛く咳になる。電話もできないから、黙って大人しくしているが、人間、やはり声を出さなければ、落ち込んでいく。その上、じっとしているだけでも咳が出て、喉が痛い。
ピーナッツが原因だと思うのだが、症状は喉風邪のようだ。だんだん弱気になって、やっぱり風邪かなと思い、どっちにしても効くだろうと、ヨードの喉スプレーを使うと、これが気持ちいい。

喉スプレーを使っているうちに、血痰が出始めたが、やがて、痰が濃くなって来た。喉風邪が治るプロセスに似ているが、他にダルイとか熱とかの症状はなく、これはやっぱり、ピーナッツ炎に違いない。そう信じることにした。

正月になると、昔から、年寄りが、モチを詰まらせて死ぬ事故が増える。若い時と同じつもりで、モチを飲み込もうとするからだが、ピーナッツで、死にかけるようでは、この正月から、モチにも気をつけなければ。

こんな話で、今年を終わるとは情けない


本家本元

2015年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

また春場所が始まる。最近は、ほとんどモンゴル出身力士に席巻されていて、日本の力士が勝てないことを悔しがる人が多い。
しかし、数多の海外力士がいる中で、モンゴル力士ほど相撲が似合う人達はいない。
ものの考え方も体型も、さらに技も、力士の理想像のような気がする。

多少、日本人と文化が違うのはやむを得ない。細かいアラ探しで、攻撃する人がいるが、やっぱり、日本の相撲のルーツは、モンゴル相撲ではないかと思ってしまう。
野見宿禰が当麻蹴速を蹴り殺したのが角力のルーツとされているが、これはどうもキックボクシングに近い。蹴速という名前からして、蹴り技のチャンピオンだったようだ。

廻しを締めて相撲を取るようになったのは、これより後で、海洋民族の褌文化と相撲が出会って生まれたものと思われる。
褌の歴史も、キックボクシング、空手、拳法の歴史も定かではないが、モンゴル相撲の発祥と馬の渡来とが同じ頃のようだから、やはり、日本の相撲と、モンゴル相撲はつながりがありそうだ。

興行スポーツとしての大相撲は、どれよりも古く、完成されているし、経済力の点からも、モンゴル人が日本のしきたりに従って、日本で相撲を取ることになっているが、本当は、相撲レスリングとしてみれば、モンゴルの方が本家なのではないか。

現在、日本の力士がなかなか勝てないのは、日本の場合、スポーツ文化が多様で、もし力士になれば、相当強いかも知れないような人も、ラグビーやアメフト、柔道、レスリングなど、他の競技に分散しているから、人材不足という側面がある。
しかし、モンゴル人が、こうも強いのは、やはり、寒い土地で馬に乗ることで、腰が強くなる上、大相撲の鍵となる、バランス感覚が鍛えられてきたからではなかろうか。

海洋農耕民族の日本の相撲に従わないなどと、せこいことを言わず、むしろ日本の大相撲に、モンゴル相撲の技や心意気を取り入れ、国際的に通用する「国技」に発展させてはどうだろう。と、言っても、決して国際化を図るべきではない。あくまで、「国技」の幅を広げ、世界の人が日本に憧れるような装置の一つとしてだ。

このところ、白鵬の「ネコ騙し」が物議を醸しているが、あれもモンゴル人らしい磊落な「お茶目」さで、むしろ、日本人が学ぶべき、国際感覚ではなかろうか。
日本中でよってたかって、朝青龍のことを引きずり倒したが、末っ子の朝青龍に対し、中間児の白鵬の用心深さは、日本人に受け入れられている。それでも見せたおおらかさは、むしろ、喝采ものだ。

もう一つ付け加えると、何かの番組で、モンゴル人の留学生が、戦前の日本人を見たモンゴルのお婆ちゃんが、日本人のモラル観を褒め称えていて、それで留学してきたと話していた。こういう点でも、深いところで価値観がつながっているのではなかろうか。


蠍の一撃

2015年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

押しも迫ったドサクサの中で、慰安婦問題、日韓合意。
とりあえず、もめ事だけは止めて欲しいと思う人は、良かった良かったと思うかも知れない。当然、欧米などの第三者も、良かった良かったと報道している。

しかし、信じ込んでこれまで叫んできた韓国の一般国民は、納得いかないだろうし、戦前生まれの日本人と、戦後生まれのちょっと事の経緯に明るい日本人は、収まりが付かないだろう。
外交に、政治決着や妥協は付きものだが、日本人の立場からすれば、何でこちらが妥協しなければならないのだ、の思いが募るだろう。

「マッチポンプ」という言葉は、自分で火を付けて自分で消して恩に着せることだ。
日本人の立場からすれば、あらゆる問題が、「火消し料を払え」と言われているように聞こえる。
北朝鮮の、拉致しておいて、取引カードにするやり方と全く同じだ。

日本政府としても、韓国側の弱気をチャンスと見たのだろう。(これが既に根負け)
「問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と、言質を取ったと喜んでいるが、あくまで「慰安婦問題」だけだ。
現在進行形の問題を含めて、無尽蔵に切り札を切り出せるマジシャンを相手に、何の突っ張りになるのだろう。また一つ、日本の甘さを見せることで、今年も終わった。

韓国と北朝鮮は互いに同じ民族だと言っている。瀬戸際外交は民族固有の高等能力で、甘く見る者にサソリの一撃を食らわせる。


堅い役所

2015年12月26日 | 占いばなし

大分県が、六耀を記載したカレンダーは不適切として回収することにし、2500万円がパーになった。
占いの立場からも六耀記載に反対だ。ただ、このニュースには、「なんだかなー」だ。

占いの立場から見ても、六耀の効果は極めて薄く、こんなものを基準にして、世の中の営みに障害が発生していることに、正直なところ、怒りに近いものを感じている。
宝くじ売り場に、「今日は大安」と書いてあるが、それは、当たる人にも当たらない人にも「大安」だ。一体、何の意味があるのだろう。

結婚式場は大安の日に集中するし、葬式は友引が避けられる。こんな「言いがかり」を気にして、社会に滞りが起こり、何事に付けても自由が疎外される。

占いと迷信の違いは、方向性に於いて、極論すれば、科学と呪術ぐらいの差がある。
占いは、自分で良い結果を出すため、将来の道路状況を探ろうとするものだが、迷信は善し悪しを他に頼り、良くなるようにお願いし、機嫌を損ねることを自粛しようとする、依存的生き方だ。
占いの基本は自由を目的とするが、迷信は恐れと呪縛だ。

したがって、大分県の判断は間違いではないが、それでは、正月の初詣も、ひいては、盆正月の休みに端を発する、冬休みも夏休みも、止めなければならない。
つまり、文化を合理性だけで拒否すれば、別の障害が発生する。
角を矯めて牛を殺す。人間社会は木で鼻をくくるようには行かない。

そもそも、カレンダーの六耀が、社会に影響を与えると考えること自体が、暗に、六耀の存在を認めている。
占いの立場からは、六耀を削除することに大賛成だが、逆に、七曜を載せるのであれば、干支と旧暦は載せた方が良いと思う。

今日の太陽暦以前から、毎日の干支は何千年も続いている。七曜は7日単位の生活をつくり出しているが、干支は10日、12日単位の目安になる。
7日は月の満ち欠けの公転周期を4等分したものだが、10日は3等分して、初・中・下旬にしたもので。これを正確に表すのが旧暦だ。また、この3等分と4等分の公約数12が、様々な暦の元となる。

六耀の並びは不規則だが、干支は曜日と同様、規則的だ。現在でも、月初めとか中旬という言い方は一般的に使われ、生活の目安になっている。


時代の波

2015年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

極まれば転ずる
自然に恵まれた滋賀県は、関西のレジャーの中心として注目されてきた。
戦後70年の夏、高度成長期と現在との滋賀の観光史を振り返る映像があった。

1968年、万博の前に開かれた「びわこ大博覧会」には、2ヶ月で98万人が集まり、琵琶湖の周辺には様々なレジャー施設が生まれたが、バブル崩壊後の価値観の変化で、今ではすっかり撤去され、多くは静かな公園や住居になっている。
高度成長期には、何でもやってみようと、珍しさや刺激を追い求めていたが、成長が止り熱が冷めると、生活や人生を考えるようになり、自然や歴史に関心が移った。

日本は、欧米先進国の後追いをして、成長と挫折の通過儀礼を何度か体験し、それなりに先進国になり、ある程度の多様な視点を持てるようになったが、一方でそれは、現在の中国のような、ガムシャラなハングリー精神と、目的を見失ったということでもある。

世代の輪廻
今日の先進国の経済停滞は、産業革命パラダイムの、必然的なサイクル現象だ。
資本主義には恐慌のサイクルがあると言われるが、その周期には各説ある。難しいメカニズムは別として、天王星84年の世相の視点から、各世代の持つ影響力を考えて見よう。

日経平均が最高値をつけた1989年から、84年遡ると、日露戦争勝利のポーツマス条約。結局、日本のピークを見て成長した世代の誇大妄想が40年後1945年の敗戦を招くことになった。
1989年は、安倍ちゃん35歳。バブル世代のリーダーだ。
今は軍事力では無く、金力に頼る違いはあるが、栄光の誇大妄想は同じだ。

この逆に、どん底の1945年から84年遡ると1861年。
1861年頃の、明治維新前後に青春を過ごした世代が築き上げたのが、栄光の明治であり、戦中戦後に青春を過ごした世代が築き上げたのが、戦後の高度成長だ。
1945年から84年は2029年。つまり、今、青春を迎える世代が60年後の2070頃、日本を再び栄光に導くことになる。日本が生き残ってさえいれば。

戦争ではなく、経済戦争と「思いたい」が、これから15年ぐらいは、明治維新、第二次大戦に匹敵するような激動が考えられる。いずれの時代も、一喜一憂、明日のことが分からない、逆転逆転の時代だった。いずれも、この後に、社会形態が全く変わる。
こういう時代に生き残ろうと思えば、常に大局を見て、一歩引いたところに立っているのが懸命なのかも知れない。歴史に名は残せないだろうが。


聖この夜

2015年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

クリスマスだ。
よくお寺の子が、クリスマスが無いと嘆く話があるが、日本の仏教なら、クリスマスを祝うことに何の矛盾も無い。あるとすれば、キリスト教の側からの拒否だろう。
仏教は元来、神を敬う宗教ではないし、日本の宗教は仏教伝来の時から、いかに神々と同居するかを悩んできた。
神仏混淆、神仏習合と、結局は、「まあ、まあ、まあ」のような、解ったような解らないような形で同居し、何よりも、和を以て尊しとなすことになった。

別け隔てせず、八百万の神々が大同についた日本教が覆っているこの島は、一神教から見れば、神の無い異端の世界だが、古代の大和合衆国は、渡来して一定の時間が過ぎれば、誰でも平等の市民権を得られる新天地となった。

明治に一神教が入って以来、突然、神仏分離などとうるさいことを言い出したが、正月には神社に初詣、結婚式は教会で挙げて、死んだらお寺で線香を上げる。誰も難しく考えないのは、融通無碍の日本仏教、千年の伝統があるからだ。近頃はハロウィンも定着した。
お寺の子供が、ツリーを飾ってクリスマスケーキを食べても、何ら伝統にもとるものではないだろう。
メリークリスマス


犬魂猫魂

2015年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃は猫ブームで、特に今年に入ってからは、ペット人気で不動の犬を抜く勢いだという。

子供の時、最初に飼ってもらったのは猫だった。三毛猫を大切そうに抱えている姿を父が絵に描き残していた。次に飼ってもらったのは犬で、知り合いからもらってきた雑種の日本犬で、これも大切そうに抱いている写真がある。5歳ぐらいだった。
その後、リスやハツカネズミ、文鳥や十姉妹、金魚に亀。それにメダカやアリの飼育もした。飛び込んできた雀も、父が餌付けをして一緒に暮らしていたことがある。

父は動物好きだったが、母は苦手で、「動物は死ぬから嫌だ」と言っていた。動物が嫌いなわけではないが、いずれ死ぬことになるのを見たくないという気持ちも、わからないではなかった。
全てのペットは、何らかの形で死に、その度に悲しい思いをした。しかし、そのお陰で、命というものを知り、生の無常を受け入れることができるようになったような気がする。

どんなに可愛がっても、命あるものはやがて死に、嘆き悲しんでみたところで帰っては来ない。それは肉親もそうであり、自分自身もそうだ。
そうした儚い命だからこそ、愛しく思える。動物の可愛いしぐさを見ると、常にその死を考える。これは本当に、思わず考えてしまう。生き物は必ず死ぬ。

生き物の愛しい姿は常に死と一体化している。だから、その時が来ても、特に悲しくなることはない。何も感じないのではなく、泣き叫んでも仕方がないことだと解っているから、涙にはつながらない。飼い始めた時から覚悟しているから、ペットロスにもならない。この感覚は、もしかしたら、畜産業の飼育の心境に近いのかも知れない。

そう思って付き合うと、常にこちらを向いてくれる犬は、こちらから気を使うことはないから、かえって間を置くことができる。ただし、洋犬と違い、日本犬はどこか自立したところがあり、多少ご機嫌に気を使う。

猫となると、もう完全に向こうのペースになる。呼んでも気が向かなければ来ない。しかも、こちらの様子を窺って、自分の都合次第で甘えたり、激しく襲いかかってきたりする。
「犬は人につき、猫は家につく」という。結局、猫にとって人間は、自分の住まいの同居人に過ぎない。だから、猫と付き合うには、その場しだい、ご機嫌しだいだ。
結局、接する時には常にこちらが気を使うことになる。その結果、猫に魂を奪われ、支配されることになる。

真の動物好きには関係ないが、犬派、猫派があるとすれば、犬のような人が犬を好み、猫のような人が猫を好むのではなかろうか。
犬のような人とは、原理原則で生きる人であり、猫のような人とは、適応と対応で生きる人だ。信頼や忠誠は原理原則であり、喜怒哀楽には適応と対応だ。

犬好きには猫の傲慢さが憎たらしいし、猫好きには犬のひたむきさが鬱陶しい。
日本人は異常な猫好きだと言われるが、集団思考と言われる日本人は、案外、互いの自立心を尊重するのかも知れない。猫もマイペースだし、柴犬もマイペースだ。
ただ、いずれにしても、猫屋敷や犬屋敷にしてしまうような人は、魂を奪われた人であり、自分が犬や猫になってしまっている。もはや、人間を捨ててしまった人だ。


カンベン

2015年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は冬至、今から日が長くなる。何と、桜が咲くまで、あと3ヶ月だ。
小学生にとっての3ヶ月は、想像できないほど長いが、年寄りにとっての3ヶ月は、目が覚めたら過ぎている。玉手箱の紐さえほどけていない。

死ぬ前には思い出が走馬燈のように流れると言うが、
たった今、時間が走馬燈のように流れている。

もう、勘弁して下さい m(~_~)m


いよいよ

2015年12月21日 | 京都&ケンミン文化

毎日、温暖化の話題を聞く。世の中で、もっとも話される話題は、おそらく天気の話しだろう。話すことがない相手でも話せる重宝な話題だ。
昔から、京都人は天気の話しだけで半日でも話していられると言われるほど、角の立たない処世ツールだ。

ところが、近頃、うかつに天気の話題を出せば角が立つ。異常気象の心配から、責任論まで広がってしまう。街角で焚き火もできないし、クーラーだって大っぴらには使えない。ゴミ捨ても買い物袋も、温暖化問題を避けては通れない。

そうして、世界中の人が気をもむ話題になったが、対策会議をして宣言だけしてみたところで、とうてい効果のある対策は打たれないだろう。いまだに温暖化を疑う声や、責任転化論ばかりが続いている。

そうこうしているうちに、今年の気象状況は、もう引き返せないところまで来ていると報告された。学者の中には、気温上昇が一息入れる踊り場段階「ハイエイタス」の期間が終わってしまったと言う人が出てきた。
これからは、一気に温暖化に進んでいく公算が大きい。

いよいよ、懸念されてきた事態が始まる。ただ、それで人類が滅びるとは考えられない。人類は様々な環境に耐えてきた。問題は、環境変化に適応するまでの大混乱だ。
人類史の大転換の今、その最大要因になるであろう気候変動を、短いスパンで考えれば、天王星84年の異常気象と農業危機の再来であり、それは、政治経済の混乱をもたらす。今まさにそれが始まろうとしている。

長いスパンで考えれば、250年のエネルギー革命だ。地球環境が変わり、人類全体の生きる手段、エネルギー利用のあり方が大きく変わる。
一刻も早く、化石燃料を切り捨てた者が勝者になる。オリンピックのようなイベント誘致経済も、既に過去のものだ。

今年、アルペンスキーの本場オーストリアでも、全く雪が降らない映像が流れていた。
次期、平昌冬季オリンピックでは雪の心配がされている。工期の遅れもあって日本での代替開催なども取りざたされていたが、その日本も雪が降らない。
何より温暖化で、ドカ雪が降ることはあっても、パウダースノーが失われる。

その内、世界のどこでも冬季オリンピックができなくなり、どうしてもというなら、南極固定でやるしかないだろう。第一、そんな地球になったら、ウインター・スポーツそのものが廃れるかも知れない。
それどころではない。食料も、生活も、現代では全く考えられない姿になっている。為政者は、やはり、300年先を見通して今を考えなければならない。


伝説の人

2015年12月17日 | 星の流れに

澤穂希引退。日本のスポーツ界にも多くのレジェンドがいるが、単に優勝したとかの次元を超えた、日本スポーツ界の世界的なレジェンドであり、しかも、何の気負いもない。
ただひたすら、サッカーを追い求めた半生だった。

面白かったのは、対談で、中村俊輔が、息が止まるほど緊張していたことだ。全くの門外漢の素人でも、澤の「ひたすら」を見ていると、胸が熱くなる。俊輔の澤への思いは計り知れないが、英雄は英雄を知る。同じ道の人間なら、なおさらに、思いが込み上げるのではなかろうか。

木星が来て結婚したばかりだが、結婚、引退と続けば、誰でも考えることは一つだろう。

昨今結婚」、「火星かな


女姓男姓

2015年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

最高裁の判断は、夫婦同性は合憲。再婚禁止期間180日は違憲で100日だそうだ。
法律の射手座に土星で、古くさい判断になった。
いまだにこんな判断が出る日本が、少子化対策などと言う。笑止だ。

親子関係が科学的に判別できなかった時代の、婚姻を持って血縁関係とする考え方を変えられない。再婚禁止100日にしてみたところで、何ら考え方の基本が変わったわけではない。

学生の頃の女友達が、進歩的なことを口にしていたわりには、結婚して姓が変わったことを自慢そうにして、元の姓で呼ぶと、わざわざ言い直したりしていた。
また、世の中には、夫の姓に変えて、夫の家の墓に入りたくないという人がいる。こういうことを言う人は、入るものだと思っているからだ。どうでも良いことだと思うが、嫌なら遺言で入らなければ良い。

相手の姓に変えるのが嫌なら、結婚しなければ良い。自分が嫌なら当然、相手にも強制はできないから、事実婚で通せば良いし、子供は母の子で疑いない。
それができないのは、日本社会が父系社会で、男が財産を相続して、女が養われることになってきたからだ。

日本というのは、日本人が嫌う大陸から来た、父系が支配しているが、本来の日本は母系だ。父系社会など、これから先は廃れていく。産業革命パラダイムが、一神教や儒教の父系社会を破壊し始めている。今の世界の混乱の一つが、実は、父系と母系の戦いでもあるのだ。

社会を支えるのが腕力であった時代に成立した男社会は、全て、男に都合が良いようにできているが、産業革命によって、男女の能力が対等になると、男社会が悪あがきを始めた。それが大戦争や、宗教戦争(テロ)だ。
腕力によって成り立っている父系社会は、生存権を守るためには最終的に腕力に頼る。母系社会なら小競り合いはあっても、大戦争には至らないだろう。大義のための戦争などしないからだ。

男社会のために子供を産めという、根本的な発想にノーを突きつけているのが、少子化だ。もし女社会なら、今のような保育養育システムには成らないだろう。
夫婦同姓は、父系の家の時代の名残であり、事実上、とっくに破綻している。

この程度」、「母系復古」・・・(この他、下の検索で「婚姻」)


季節忘れ

2015年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は陽遁。次の陰遁は6月11日。九星はもう夏に向っている。
温暖化の影響で、冬になっても暖かい日があったり、台風クラスの低気圧が来たり、ドカ雪が降ったり、年の瀬もお正月もあったものではない。
陰遁陽遁」、「夏至陰遁

その上、門松など昔ながらの景色に替わって、クリスマスの電飾だらけになって、雅な「お正月」風景も、ほとんど無くなってしまった。
にもかかわらず、それに反比例するように、美しい日本や、和の心など、声高に吹聴されている。つまり、それだけ、昔ながらの日本が無くなってきている。

子供は大人ぶり、年寄りは若いと言う。酔っ払いは酔ってないと言い、貧乏人は見栄を張る・・・ニッポン、ニッポン、クール、クールと聞こえるは、いかなる人の声ならん


故障原因

2015年12月13日 | 自動車人間学

以前、テレビCMで、「♪わたし大好きお洗濯」と言っていた。
実際、洗濯好きは案外、多い。とくに、洗濯機ができてから、こういう人が出てきたと思う。
何が好きなのかというと、おそらく、自分のやった事の成果が、ハッキリでることが快感なのだろう。
同じように、掃除好きも結構いる。ただ、レレレのオジサンの場合は、コミュニケーションが目的みたいだから、ほうきは適当に動かしているだけのようだ。

洗濯好きは、ほとんどが自動車人間のエンジンだ。エンジンの人には、「リスの観覧車」が要る。常に動いてなければ、病気になってしまうだろう。
昔の男の中には、奥さんが外に出ることを嫌い、しかも、大切にするために小間使いを雇い、何もさせないことを男の甲斐性だと思っている人がいた。

こういう旦那で奥さんがエンジンだったとすれば、奥さんは鬱になってしまうだろう。
旦那でなくても、母親が子供を抱え込んでしまう場合も同じ事だ。

実際に、相談を受けたことがあるから、それほど大昔ではないし、ご主人が金持ちだったわけでもないが、とにかく奥さん思いの夫で、買い物も掃除洗濯も全て自分がやってしまう。しかも、奥さんが勝手に外出すると、不機嫌になるので、ほとんど外出できない。悪いことに、この愛想の良い奥さんがエンジンだった。

何もしないで、一日中家にいるので、手芸などをやっているが、とてもそんなものでは足りなくなる。子供もいないから用事も無い。そこで、毎週のように家の模様替えをしていた。小さな家だから、模様替えと言っても、タンスとベッドとソファーの配置を入れ替えるぐらいで、ご主人が帰ってくると、常に家具の位置が変わっている。ところが、不思議なことに、ご主人はこのことには一切、文句を言わなかった。

しかし、いくら家具を入れ替えても、いい加減、飽きてくる。とうとう、病気がちになり始めた。

病気の相談だったが、事情を聞いているうちに、「角を矯めてエンジンを殺す」だと解ってきた。ご主人が模様替えに文句を言わないのは、現実主義のクールで、成ってしまっていることには文句を言わないからだ。
結局、ご主人が、妻思いで、何もしなくていいのは事実だが、してはいけない、出ては不機嫌になると思い込んでいるのは、奥さんの独り相撲ではないか。
奥さんの、「優しい夫」幻想に、奥さん自身が捕まっている。自分で自分を縛っている。

その辺のところを解説して、小さな事から一つずつ、拘束破りを試してみてはどうかと勧めてみた。
その後、初めのうちは、ご主人の驚き反応は有ったものの、何一つ止められるわけではなく、子供もできて、結局は、逆に、何でも奥さん任せの家庭になったそうだ。


空似づら

2015年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

そっくりさんのことを、業界風に「くりそつ」と言うらしいが、時代や企業によって同じようなテーストの顔が好まれる。
昔の日活映画には次々と同じような顔の俳優が出ていたし、一つのドラマではプロデューサーや監督の好みが影響するのか、老若男女とも、同類の顔でキャスティングされていて、笑ってしまうことがある。

似ていると言えば、音楽や、絵画、小説に至るまで同じようなものが流行る。これはマネする人が出てくるからだが、世の中がまた、そうした亜流を求めることもある。
みたらし団子でも、たこ焼きでも、ちょっとした違いで客層が別れるから、必ずしもパクリが悪いわけではない。

テレビに現れる顔が似ているのは、時代の好み以前に、制作側の好みが働いているものと思われる。
昔、出てきた当時、化粧法もあったのだろう早見優と松本伊代は似ていたが、今では全く違う顔になっている。そういう意味では、同じ会社の化粧品を使うと同じ顔になるのも面白い。

最近では、NHKのアナウンサー鈴木奈穂子と、女優の中越典子が似ていて、初めて見た時は区別が付かず、フリーのアナウンサーが役者もしてるんだと思った。よく見たら違いは分かったが、NHK好みであることは間違いない。
 この同系統に、祥子とか言うのも出てきたが、中越も祥子も佐賀熊本と同地域の出身で、鈴木は横浜だが、どう見てもどこかに九州の血筋がありそうだ。もし無いとすれば、相模、房総まで来ている黒潮民族の系統ということになる。

先日、バラエティに五郎丸歩が出ていたので、とうとう、こんなのにも出始めたのかと、よく見たら、ココリコの遠藤だった。
何のことはない、似ているのは前屈みのスタイルと、髪型だけだった。

P.S.
これを書いた翌日、考えてみたら、五郎丸に似ていたのは、井戸田潤の方だったかも知れない。チラ見だったことと、境遇が似ていることで勘違いしたらしい。こちらはもう少し似ている。
これで逆説的に、遠藤と井戸田が似たところがあることに気がついた。


反骨の死

2015年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム

火星は天秤座にいる
戦後70年の年に焼跡派の旗を掲げた野坂昭如が死んだ。85歳。終戦時15歳。
大昔、野坂と同生年月日の人の奥さんから、ご主人の仕事の相談を受けたことがある。病弱で仕事が続かず、本人は落語家になりたいと言っていると聞いて、感慨深かった。
グランドクロスを抱えて生まれた人の苦悩とはどういうものか、解ったような気がした。

どう答えたか、よく憶えていないが、多角的好奇心と集中力を活かすために、定職にこだわらず、当時はまだ無かった、便利屋のようなことをしてはどうかと言ったと思う。
落語については、良い師匠がいれば是非やってみた方が良いが、創作落語のようなものでなければ、多分、ものにならないと思いますと答えたように思う。

野坂の作品を全部読んだわけではないが、感動したのは、「エロ事師たち」と「好色の魂」だろうか、お上が定める感性や価値に、不屈の反骨精神で立ち向かう人生に、野坂自身が乗りうつっているようで、ファンになった。ただ、半世紀近くにもなるので、定かな記憶は無い。
「火垂るの墓」は、受賞時に読んだが、何か視点が違うような気がするので、アニメ版は観ていない。深い悲しみに涙は出ない。

権力と戦争の愚かしさを知る、語り部がまた一人いなくなった。