魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

学芸の溝

2010年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

No.981

27日、途中から見た爆笑問題で、自動作曲システム「オルフェウス」君を紹介していた。

東大の計数工学の教授が生み出した、音楽の子だ。
音楽に関する、あらゆるデータを数値化し、どんな演奏にも伴奏し、どんな言葉も作曲する。
ただ、オルフェウス君はまだ生まれたばかりで、いかにも未熟だ。
多くは期待できないが、それでも、双葉の姿には、可能性と限界が見えたような気がした。

「数値化すれば可ならざるは無し」の教授から、熱い夢がジーンと伝わって、ウルウルではないが、心のどこかで「あ~」と慨嘆した。
昔、占いについてそんな風に思っていたからだ。

爆笑問題との対話は、教授が人格的に大人であるため、むしろかみ合わなかった。多くの学者は世慣れてないため信じるところを素直に語り、太田の餌食になるのだが、放送画面で教授は(自分の信念を曲げないために)一切、意見を主張しなかった。
結局、一致した結論としては、新芸術を切り開く新しいツールとしては可能性がある。と言うようなことだった。

学問と芸術の狭間
番組中で演奏されたオルフェウス君の作曲を聴いて、改めて思ったことがあった。
どの曲を聴いても、メリハリのない、感動のない曲で、大正、昭和初期の歌謡曲を連想させる。これは合成音の歌声で仕方ないとしても、曲調全体が、音楽の先生が作曲した「00っ子の歌」のような曲に聞こえた。

突っ込めない太田が、サザン桑田の文学作品作曲が心を揺さぶる例を出して、問題提起していたが、受け流された。(編集かも)

双方の思いはよく解る。太田はこのシステムのレベルではダメだ、将来もダメだろう。と思い、教授は、今の段階はまだまだだが、やがて人間を越えることも可能だ。そう考えているのだろう。

どちらかと言えば、教授に味方したい。コンピューターが天才や芸術家の発想原理を組み込めば、芸術作品も可能になるはずだ。
しかし、現在の段階は、「音楽とは何か」と言うことしか組み込まれていない。

芸術家が、感動を生み出すのは「常識を覆す」からだ。
ところが、学問は、集積、分析、組合せで、破壊とは対照的だ。
言葉の例で言えば、人間の営みで生まれ、生活の中で変化していく言葉を、解析したのが文法であり、文法通りに話そうとすれば、論文は書けても、お笑いも詩も小説も生まれない。

評論から、破壊をともなう創造=新しい生き方の提案は生まれない。
芸術の存在理由は、人類が前に進むための「新感覚の提案」だ。
新しい生き方、新しいチャレンジをするための動機付けであり、「正しいもの」の破壊だから、学問からの創造は矛盾する。

途中で、爆問の田中が、ネット上での名曲顕現化の可能性を話していたが、最もありそうな話しだと思った。