魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

デング熱

2014年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

世界中が「エボラ熱」パニックの折も折、日本では70年ぶりに「デング熱」が発生したと騒ぎになっている。
幸い、「デング熱」はそれほど怖い病気ではないらしいが、「デング熱」のインパクトは、相当なものだ。

何だか、天狗様の魔力まで秘めているようで、顔が真っ赤になり、鼻が腫れ上がるとか、とんでもない疫病のように聞こえる。
しかし、「デング」の由来は、天狗様とは縁もゆかりもない。スペイン語らしいが、定かではない。

実際の症状にかかわらず、世間をパニックに陥れる病気には、案外、音声の持つインパクトも影響する。

労咳、癌、エイズ、サーズ、エボラ熱・・・昔から、おどろおどろしい病には、いずれも濁音が入っている。
「デング熱」に至っては、二つも濁音がある。
(エボラの場合、欧米人にはEbola≒evilのような語感があるのかも知れない)

実際に相当怖い病気でも、名前に重みがないと、日本人の音感にはピンとこないのかも知れない。
ペストやチフスと言っても日本人にはそれほど恐怖感がないし、結核も労咳ほどは怖さがない。
幕末に流行ったコレラも、コロリと死ぬコロリと呼ばれたと言うが、どこかふざけた恐怖感だ。

病気にかかわらず、日本人を刺激するには、先ず濁音が重要だ。
「所得倍増」「デフレ脱却」「脱法ドラッグ」「貞子」「ゴジラ」・・・
黒澤明の「ドデスカデン」も、これを狙ったのだろうか。


知らぬは

2014年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

1865年、日本に一ヶ月しか滞在しなかったシュリーマンが日本の本質を見抜いていたことに対し、木村尚三郎がコメントしていた。
常日頃思っていることと全く同じだったので、そのまま記載したくなった。

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世の中が明治に変る三年前、一八六五年六月一日から七月四日までの一ヵ月間が、シュリーマンの日本滞在期間であった。短期間にもかかわらずというより、短期間だからこそ彼は天才的な理解力とともに、日本の社会と文化の本質、時代の特質を鋭く見据え、抉り出すことができたといえよう。
 アレクシス・ド・トクヴィルは、行刑制度の視察のためアメリカに渡り、わずか滞在十ヵ月の知見から不朽の名著『アメリカの民主政治』(四巻、一八三五ー四O年)を書いた(井伊玄太郎訳、講談社学術文庫〔三巻〕、一九八七年)。一五O年以上経った今日でも、これを抜くアメリカ論は出ていない。それもやはり、トクヴイルがアメリカに狎れず、アメリカに居つづげずに、よそ者としての普遍的、客観的な眼を保ちえたがための結果である。
 長く滞在すればその土地が分る、というものではない。いやむしろ、反って分らなくなっていく。長く住めば、地元民と同じ眼を持つようになるからである。そしてその地元民こそが、地元の本当の長所、短所をともにもっとも知らない人びとである。
それは、自分のことをもっとも知らないのが、自分自身であるのと同じである。本人はしばしば同意しないが、他人による評価のほうが、はるかに客観的で正しい。

『シュリーマン旅行記』(石井和子訳、講談社学術文庫)
解説:木村尚三郎  より
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一番、分かっていないのは本人であるという真理
灯台もと暗し、灯台他人を照らし己を照らさず、岡目八目、知らぬは亭主ばかりなり・・・

行き詰まった状況を打開できるのは、よそ者の眼だ。
日本の企業が外国人を採用するのは良いことだし、外国人が日本に来て、ビジネスに成功するのは当然と言えば当然だ。日本人でも、外国に行けばビジネス・ネタがいくらでも転がっていることに気づく。

地方再生に、最も役立つのは、他府県人やUターンの眼で、地元の人間が「こんなもの」と思っている物の価値を発見する。素直に耳を傾けるべきだろう。

そういう点で、占いにも価値がある。
大衆占いの原点、困ったことを行きずりの見知らぬ人にたずねる風習、「こと問い」は、古代の知恵だったのだろう。


やまぬ雨

2014年08月26日 | 新鎖国論

今年の夏は、何なんだ!
確かに、一時、暑い時はあったが、台風でも無いのに、断続豪雨で日本中メチャクチャだ、晴れ間が無い。
梅雨明けも曖昧だったが、その後も、ほとんど前線のような状態だ。

地球温暖化の影響で、日本も亜熱帯化しているそうだが、この雨はもう、雨期やスコールだ。
昨年の水害(特別警報)は、まだ、台風の姿で現れたが、今年は、日本列島が台風発生現場になっている。

南の海で発生した台風が、発達して日本に来る、二百十日や二百二十日といった「風物詩」の時代は無くなり、もはや日本は、「南の島」になったのかも知れない。ここから台風に発達しないだけで、周辺が南の海になりつつある。

抜本問題が露出
牡羊座2010~」で言ったように、昭和初期の混乱の最大要因は、気候変動による農業の破綻だった。

もし今、本当に気候変動しているのであれば、日本の山河は姿を変える。日本人は既成概念を捨て、悔い改めなければ、座して死を待つことになる。
広島の水害の惨状は、日本の縮図であり、警告だ。
危険地帯で押し流された宅地には、行政、利権、産業、社会、文化が凝縮した、戦後70年の日本がある。

工業貿易立国として歩んだ70年の間に、核家族化が進み、戸建て住宅の需要が膨らみ、乱開発が進み昔の大家族では手をつけなかったような土地まで、家が建った。
一方では、農地が取り残され、食糧自給率がレッドゾーンに落ち込んでいる。

このまま雨期やスコールが日本列島に降り注げば、もろく急峻な地域は、至る所で土砂崩れが起こり、かつて無いほど削られ、列島の姿を変えるだろう。問題は、それが短期に起こることだ。難しい話しではない。海岸の砂遊びを思い出せばいい。

新しい大家族
日本に盤石な立地条件は、そう多くない。今のように野放図に宅地を広げることは、止めなければならない。
すると、建設不動産業が困る。銀行が困る。人手を調達する工場が困る・・・つまり、日本が成り立たなくなる。

しかし、気候変動は日本だけではない。
世界的不作が起これば、食料を輸入に頼る日本は、金を握って餓死をする。終戦直後の食糧難では、都会の金持ちが、日頃、百姓と馬鹿にする農家に泣きついた。
預金通帳より、庭の畑の芋に価値があることを、改めて思い起こすべきだろう。

どの先進国も、食糧自給率は極めて高い。自給自足力こそが先進国の条件であり、日本は未だ後進国の成金だ。
食料こそが国の礎、最大の安全保障なのだ。
先ず食うことを保証するのが健全な国家だ。そのためには食料生産をベースとする経済文化を営み、家造りを人生の目的とするような文化は改めなければならない。

今さら大家族には戻れないとしても、福祉医療が一体になった共同体を軸とする町造りで、住まいもそれに合わせた形に集合化する。共同住宅も共通の利害認識を持った人の方が良い。分譲を買うのではなく、敷地建物に出資する形の方が、グループの責任意識が持てる。

年々増加する空き家は、立地の良いところに建っている場合が多いから、これを何らかの方法で、買上げ借上げて、集約型の町造りや共同住宅に再開発し、多世代に提供する。

もう一度、島国根性
農業をベースとする、知術産業の国に生まれ変わり、一生を住宅に追われるような人生観を捨てなければならない。
一国一城の主を夢見るマイホームは、土建国家故の価値観であり、産業革命パラダイムの幻覚だ。

99回引っ越したという葛飾北斎は、生涯技を追求し、世界にそれを残した。災害列島に住む日本人は、儚い家や財産より、生活を楽しんだ。
日本の風土が変わるほどの気候変動を迎える中で、欧米式の物欲に染まったままでは、日本人は生き残れない。

幕末の欧米人が驚いた日本人の生活。
決して「美しく」はなかったが、現代人が驚くブータンのような楽土があった。
われわれはもう一度、江戸に学び直し、世界がマネできない楽土、蓬莱の島を築いていかなければならない。

雨の日続き。薄暗い窓の外を見ながら、
「何とかならないものか」と思った。


一体何が

2014年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

目を覚ますと、広島で、朝から大災害が起こっていた。
最初は、どこかの土砂崩れかなと思っていたら、地域全体が何カ所も一度に崩れている。
テレビを見た瞬間、何でここに家があるんだろうと思った。
一目でわかる立地の悪さだ。

時間が経つほど被害者が増える。小さな子供や年寄りの死者が多い。何ともやりきれない。
極端な雨量にも驚いた。一時間130mm、2時間ほどで200mm以上も降ったそうだ。

車を運転中、50mmに遭って、水中にいるようで走れなくなったことがあるが、130mmがどんな雨か想像も付かない。確か、長崎の眼鏡橋が壊れた時でも100mmだったように思う。

事情を聞けば聞くほど、これは人災だ。
災害本部長が避難指示の遅れたことを認めていたが、それよりも大きな問題は、ここで過去にも被害があり、地域の谷川がほとんど、警戒対象になっていたことだ。

見るからに危ない地形だから、警戒対象になっていたと聞いて納得したが、それにもかかわらず、避難指示が遅れたのは解せないし、何よりも、納得できないのは、こんな地形に建築許可が出ていたことだ。

まともな行政でこんなことが起こるわけがない。
利権や賄賂など、始めから、何らかの不正があったとしか考えられない。

何も知らずに、ここに家を建てた人々が、気の毒で仕方がない。


世も末だ(後)

2014年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

ネットは、小説やゲームの仮想世界に似ているが、画面の向こうに人間がいる。
気楽に書き込んでいると、突然、攻撃され、想定していなかっただけにショックが大きい。

攻撃する側も、単に画面に「バカだなあ」と、突っ込んだだけのつもりだから、相手のショックなど想像していない。
だから、そこに反撃があると、こっちもショックを受ける。かくして泥仕合が始まる。

本来、ネットのトラブルなど、その場で遮断してしまえば良いはずなのだが、相手の姿が見えないだけに、自分自身のプライドの葛藤となり、なかなか抜け出せなくなる。

ネット右翼と呼ばれる存在も、画面世界と向かい合う中から生まれる。ネット左翼が生まれないのは、左翼の発想は基本的に空想(理想・創造)をもとにするから、否定しやすい。つまり、攻撃の対象になりやすいのに対し、右翼の発想は「実在するとされる情報」に基づくから、口論の論拠があり、守りやすい。

問題はその情報源なのだが、知識や論理はどのようにも構築できる。したがって、立場の違う右翼同士は、戦争まで決着することがない。

人間力の退化
子供の時から、自然に遊び友と喧嘩をし、時には怪我をしながら成長し、多くの古典を読み、歴史を学び、長じては異国異文化の中で多くの人と接してカルチャーショックを受けて、情報の信憑性を理解しなければ、的確な判断は出来ない。

ネットやゲームなどのデジタルデータで培養されると、
プラスマイナス、裏表、有無、長短・・・のように、明確な答えしか理解できなくなる。これは、笛吹き男には都合の良い子供達だ。

目に見える王様をちゃんと裸と見極め、立派なお召し物と告げるマスコミや資料館の記録を、何だかおかしいぞと疑ってみる。資料や解説が無くても、「本当はこんなもんじゃないの」と、実態の把握が出来る。
そういう人間力が、世界的に失われているような気がする。


世も末だ(前)

2014年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

福井病院の院長が、エボラ出血熱対策の交流サイトで
最後のオチに
「ちなみにエバラは焼き肉のタレです」「ズボラは私ですね」と、顔文字付きのダジャレを書いて批難されている。
世も末だ。

ダジャレは笑いのセンスとしては最低だが、こういうことをいちいち批難する、世の風潮の方が問題だ。
終戦の時期になると語られる「戦時の狂気」の例で、「敵性語」として、片っ端からカタカナが駆逐された話が出るが、カタカナ狩りをしていた軍人は、この滑稽を大まじめで行っていた。

近頃の言葉狩りや、冗談、失言への攻撃は、戦争中と同じ精神文化の枯渇、余裕の無さからくるものだ。
外からは、日本は20年の不況でナショナリズムが台頭していると言われているが、中韓と比べればあまりピンとこない。

しかし、些細なことを取り上げ、誰かを吊し上げる風潮は、魔女狩りに走る閉塞社会そのものであり、ネットという閉鎖世界が、その傾向を増幅させている。
ネット世界は広大で多角的だが、極めて一次元的であり、昨今の世界情勢もネットによる世論形成が影響している。

仮想化する現実
ネット攻撃は、攻撃する側がツバを吐いた程度の感覚なのに対し、された側は、読みふけっていた小説の中から突然、「そうだ、お前は生きている資格が無い」と、名指しされたようなショックを受ける。

面白い小説は、その世界に引き込まれ、自分がその世界に暮らしているような気になるが、現実世界と違い、「バカだなあ」と、自由に突っ込める。
しかし、まさか、その世界で傍観者のハズの自分が、実際に攻撃されるとは思わない。
だから、実際に攻撃されると、もう、ゲームの世界のモンスターと戦わなければならなくなってしまう。


雲は湧き

2014年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

外国人観光客にアンケートをとったら、大半が、東京オリンピックを屋外では観られないと答えた。
夏がますます暑い。日本は亜熱帯化しているそうだ。

甲子園も始まり、気づけば今日はもう15日。何故か今年は夏が来た気がしない、梅雨明けが遅かったせいだろうか。そう言えば、台風で甲子園も2日遅れた。

8月15日と言えば、必ずピーカンで、雨の日を思い出せないのだが、気象庁の記録でみると、結構、雨の日もあるし台風も来ている。
8月15日の日本の空は、昭和20年以来、ずっとピーカンだ。

69年間、日本人はそれほど戦争を後悔し、厭戦の中で育った戦後生まれも、アジアの人々への償いの気持ちを育み続けた。
しかし、敗者を叩くことが生存の証と考える人々は日本人を許さず、追いつめて、追いつめた。「青洞門」のような物語は、日本だけの話らしい。

思いやりの節度
癌が再発した人が、「治るって言うから手術したのに」と、病院への愚痴を漏らしていた。
病院関係者が、患者から襲われることは想像以上に多い。どんなに誠心誠意尽くしても、人には寿命がある。うまく行かないことの方が多いのは当然だが、親身になればなるほど、それを頼みにする患者から、逆恨みに遭う。

親切というものは、相手に良く思われたい邪心が混じれば、相手に過剰な期待を植え付け、何時か反動になってかえってくる。始めから出来ないことを出来ないとして接していれば、嫌われるかも知れないが、逆恨みが生ずることもない。

鳩山の「少なくとも県外」発言が、様々な立場に混乱を生じさせたのも、ナルシズムだ。
「良薬口に苦し」、良薬たらんとすれば、嫌われることを恐れてはいけない。

今日の中韓との関係を招いたのは、日本の政治家、あるいは日本人が、中途半端にナルシズムに浸ってきたことに原因がある。だから中韓に甘い顔をしてはいけない、というのではない。むしろ、逆だ。

自らに甘い顔をしてはいけないのだ。自分は良い人だ、全て善意でやっているのだ。そんな甘やかしや、ナルシズムが如何に危険か、自ら気づかなければならない。

日本人は信じないだろうが、現在の中国の行為は、彼ら自身「アジアの平和秩序のためだ」と信じている。日本や韓国フィリピンまで、アメリカから解放してやろうと思っている。人のためだと信じるエゴほど、手に負えないものは無い。
人を甘やかさないとは、先ず、自分を甘やかさないと言うことだ。


危険行為

2014年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、猫も杓子も、スカート内の盗撮をしている。
スピード違反をする人と、実際に捕まる人の比率から考えれば、盗撮をやっている数は膨大だ。
肉球に文明の利器を持てば、猫もやりたくなるのだろう。

それにしても、何が目的でそんなことをするのか、不思議と言えば不思議だ。
隠されている股間を見たい衝動までは理解できるが、そんなに苦労してみたところで、見えるのはせいぜいパンツで、水着やレオタードと同じものだ。

盗撮と比べれば、下着泥棒はかなり実用的だが、その分、罪も重い。盗撮は窃盗ではないから、気楽に実行できるのだろう。スピード違反と、飲酒運転ぐらいの差だろうか。

今回、「脱法ハーブ」は名前が悪いと、「危険ドラッグ」に改められた。「脱法ハーブ」のどこが悪いのかと言えば、カッコ良すぎることだろう。
「脱法」は、警察にとってはケシカランが、「悪いこと」をしたい若者や庶民の、心をくすぐる響きがある。

人は心のどこかで、「脱法」したがっている。警察官の深層心理にもそれがあるから、「脱法」を、マズイと感知する。
(正義を唱える人の動機は、自分の無自覚な欲望を抑えることから始まる)

スカート内盗撮も、見たい物より、脱法スリルの魅力に負けるのが動機だろう。
脱法行為を簡単に可能にするアイテムを手にすれば、どうしてもやってみたくなる。

些細なことのようだが、エスカレートすれば、キチガイに刃物、軍国主義に新兵器だ。
二世紀も抑圧されてきた中国が、新兵器を手にして「脱法」したくなるのは、あまりにも単純明白な動機だ。

盗撮ぐらいなら見過ごせても、「やらせろ」と腕を捕まれたのでは、どうすれば良いのだろう。
ここは、やはり、海千山千の女将になって、
「もう、シーさんったら、おちゃめなんだから~」
と、交わすしかないだろう。

こんな客に、向き直っては怪我をする。それでもやっぱり、密かに貞操帯をつけておく必要があるのだろうか。


商の神髄

2014年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム

ドイツ技術のリニアを走らせている中国が、我が国の独自技術リニアと吹聴していると、ドイツの新聞が取り上げていたそうだ。
どんな論調で書いていたかは分からないが、少なくとも賞賛ではないだろう。

また、オバマ大統領は、中国もオリジナル技術を売るようになれば、知的財産権を大事にするだろうと、希望的観測をしていた。

欧米は、中国の本質がまだ解っていないようだ。
これも、人が自分の尺度でしか、他人を理解できない例だろう。

四大発明って何 ?
物心ついた時から、「世界四大発明は中国」と、当然のように信じていたが、よく考えてみれば、何の根拠も無い。
現在の中国の行状、元寇当時の戦術を見ても、中国が如何に「無手勝流」を得意とするか良く解る。

中国式は、目的のために、特別なことを編み出すより、役に立つものを、その都度、借用して活用すれば良いのだ。
「必要は発明の母」ではなく、「必要は活用の父である」と言ったところだろうか。

役に立つものなら氏素性など関係ない。どこからでもパクって使う。それに所有権があるなら、「初めから自分のものだった」と、宣言すれば良いだけだ。
所有権など無意味だと思うから、オリジナルの技術は実際に、相手にパクられないように気を配る。絹や磁器の製法を懸命に隠していたことは有名だ。

「四大発明」なるものは、西欧が発達させた技術が、実は西欧のものではなかったという、西欧人の所有意識の観点で、むしろ、それを西欧が発展させたことを、より強調したい自負心から唱えられたものだろう。

もちろん、それが、西欧に最も恩恵をもたらしたからではあったが、絹や磁器のように、西欧で発展させられなかったものについては無視している。

そもそも、西欧文明に寄与した知術は、中東と中華を含む大アジアの交易圏の中から発展したもので、何処が起源と論ずること自体が無意味なものだ。
今日、中国人が自慢する「四大発明」というもの自体が、西欧定義のパクリであって、本音の所、中国人にはどうでも良いことだろう。

パクリンゴン帝国
相手が価値を感じるなら、取りあえず高く売りつけよう。この方が中国人には重要なのであって、状況を利用して如何に利益を得るかが、「商」の神髄なのだ。

例え、中国がオリジナル技術で商売をするような時代が来ても、知的所有権を大切にしようとは思わないだろう。
知的所有権が成り立つには、武力を背景にした権力があると考えるから、利益のためには、ややこしい法治より、威力を背景に勝手な判断を押し通そうとするだろう。
だから武力を頼りにする。

中国は古代アジア原理が改まらない限り、永遠のパクリンゴン帝国であり続ける。


死ぬより

2014年08月05日 | 占いばなし

理研の笹井副センター長が自殺した。
日本科学の信用を大きく失墜させた責任は大きいが、何とも気の毒な気がする。また同時に、経緯を明らかにしないで自殺したことは、無責任と言われても仕方がない。

笹井氏の生年月日が不明だったので、行動パターンと風貌から三碧と思っていたが、今回判ったところでは、3月5日の二黒だった。

年の干支や九星が替わるのは2月の立春からだが、これまでの経験では、少なくとも日本人の場合、3月の早生まれまでは、思考、価値観、行動様式などは、前年の同学年の影響を強く受けるようだ。

最も印象的だったのは、3月2日生まれの麻原彰晃で、生まれは九紫だが、行動様式と風貌は完全に一白と言える。
ちなみに、笹井氏も麻原も、自動車人間ではガソリンだ。

今回の事件の最大の責任者は笹井氏だろうが、錯覚や早とちりによる重大なミスではあっても、過去に多くある捏造のような、悪意で起こったものではないと思われる。
それだけに、耐えて忍んで、失敗の経緯を明らかにして欲しかった。優秀な人だけに残念だ。

冥福を祈りたい。

P.S.
笹井氏の運を詳しく見ると、ますます気の毒になる。
やはり、この人は天才だ。魚座ではあるが、水瓶座の要素が多く、水瓶座の影響の方が強い。
魚座でありながら、水瓶座として生き、二黒でありながら三碧として生きていた。51歳前後で運が切れ、天才のエネルギーが逆流した。これを知る親しい人がいれば、死をくい止めることはできたかも知れないが、いずれにしても、能力は発揮できなくなっただろう。
麻原彰晃と同じガソリンと言っても、中身が全く逆だ。
麻原のように混濁だらけのガソリンではなく、手塚治虫と同じ、全くピュアーで、研究だけに専念すべき人だった。
改めて残念だ。


お節介か

2014年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム

また、川の中州にキャンプをしていた人が亡くなった。
キャンプ場管理会社はプロなのだから、危険性に対する認識と責任は当然だが、キャンプをする人自身も自ら判断する力を持つべきだ。

キャンプは本来、自然の世界に「お邪魔」することであり、こちらの我が儘は通じない。自然の家の形と流儀に従い、失礼のないようにしなければ、トラブルとなり、場合によっては命を落とす。

自然の中で、どこに行って何をすれば良いか、してはいけないか、知らない土地に行けば、考えるのが普通だ。他人の家に行って台所で小便をする人はいないだろう。
自然も、多少の知識と遠慮(尊重)があれば、愛想良く迎えてくれるが、傍若無人に振る舞えば、良い結果にはならない。

近頃は、海外旅行から、山岳ツアーまで、何でも業者に任せていれば、何も考えなくても、知らない土地を訪問できるという「錯覚」が行き渡ってしまった。
中国人のツアー観光客に顔をしかめる人も、逆の立場で、同じ事をしているとは気づかない。

富士山に軽装で登ったり、トムラウシ事故のように、業者に頼り切って常識が働かない人や、今回のように、キャンプ場管理会社の言うままに中州にテントを張る人など。
業者に止められない限り、何をしても良いと思い込んでいる。紹介して連れて行った人も、いい大人が訪問先の台所に小便するとは想像できないだろう。

キャンプは、基本的には先達がいて、指導を受けて始めるものだ。テントを買ったからといって、説明書を読めば誰でもできるプラモデルではない。自然環境に対する認識が大前提だ。また、自然を学ぶのがキャンプの目的でもある。

先達がいても、不測の災害に巻き込まれることがある。
川の中州にテントを張ることが、どれほど危険なことか、自然に対するちょっとした認識があれば、逆に業者を疑うだろう。しかも、今回の現場は、すでに多くの犠牲者を出した歴史がある。

個人に対しお節介でうるさい日本には、パラグライダーなど、スカイスポーツには講習義務があるが、日本の場合、キャンプや登山にも、せめて、一時間程度の受講を義務化した方が良いのかも知れない。


星座地域

2014年08月02日 | 占いばなし

木星が去ったカニ座は、祭りの後始末に追われている。

中国の精肉業者の事件は、カニ座の業会=飲食、スーパーへのダメージが想像以上に大きい。また、この事件そのものが、中国の内部抗争の表出でもあるようだ。
この1年、中国の行状の裏にあったものが、修復されているのかも知れない。

大阪府警は、犯罪件数を減らすためにサバを読んでいたことがばれたら、やっぱりワーストワンだった。当時府知事だった橋下市長が謝罪。大阪、橋下市長ともにカニ座。警察はサソリ座。

様々な問題のあった『すき家』は、春から自主的に外部労働環境調査委員会を立ち上げ、報告を受けて社長が反省。
お手盛りで反省の姿を見せ、イメージ回復に反転攻勢をかけるつもりなのだろう。

大阪と中国
中国の留学生が、「大阪に来ると中国に帰ったような気がする」と言っていた。
大阪は古代から国際都市で、中国とは直接交流があったと考えられる。大阪弁のイントネーションや、商売とお笑い文化は、恐らく中国人の直接の影響だろう。

根拠は何も無いのだが、西日本から裏日本全域は紀元前からの朝鮮半島渡来人がベースで、比較的交易が盛んになってきてから(たぶん平安期以降)関西に中国文化が集中したのではなかろうか。比較的狭い関西弁の地域や、さらに、大阪限定の文化を見ているとそう思う。

また、カニ座の影響の出る時が、中国と大阪で一致することを見て、ますますそう確信するようになった。

京都、大阪、江戸
かねて、江戸っ子と中国人は似ていると思っているが、コアな江戸っ子は元来、江戸幕府により、大阪から移された人々で。今でも、浪速っ子と江戸っ子には気合いの似たところがある。

京都、大坂、江戸の関係は、気質は大阪=江戸で、気位は江戸=京都。同じ関西でありながら、京都と大阪は互いに全く違うと思っている。
大阪と京都で共通する関西弁も、京都の関西弁は貴族の先進文化かぶれから始まったものだろう。ベースとなる農村部とでは、かなり言葉も習慣も異なる。

最も京都らしいと思われている花街こそ、実は最も関西らしからぬ所と言えるかも知れない。今の東京で言えば新宿のような所だろうか。

京都を星座で天秤座と見るのは、日本と同じ、「吹きだまり」だからだ。日本は、世界の文化の最果てに当たり、あらゆる歴史文化が寄せて来て、消えることなく、溜まっている。
その日本の中にあって、京都もあらゆる文物の集約点だった。つまり、文物総合の開花地点だ。

天秤座は、牡羊座の対局、始まりからの到達点を表す。
180゜の天秤座で羽化し、別のものとして折り返す所だ。
東京が天秤になれないのは、まだ京都ほど「価値」を生んでいないと言うことだ。

東京は天秤の手前の乙女座で、「仕事場」を表す。
京都も様々な製造をしてきたが、製造の大阪など、周辺に様々な機能を分散していたために、京都での製造は付加価値製品に限定され、ますます美の天秤座が磨かれた。
東京も、付加価値製造だけに限定していけば、将来は天秤座に到達するかも知れない。