魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ミャンマー

2007年09月30日 | 占いばなし

Wikipediaによると、ミャンマーとビルマはニッポンとニホンのように、同じ名前の読み方の違いらしい。
しかし、日本人にとっては全く違う印象になる。

濁音が入ると重厚に聞こえ、豪華で高級な印象がある。
ビデオ、ディーブイディー、デラックス、ラグジュアル、ベッド、ジュエリー、ドスキン・・・
これは「どですかでん」の世界で、物量感があるからだ。
麻雀計算に付け加える2飜に、関東でバンバン、関西でデンデンと言うのも物量感で、増額の印象をそう言いだしたのだろう。

コンピューター、ノート、カシミヤ、テフロン・・・
などは、軽やかでハイカラな質感がある。

日本人には「ビルマの竪琴」が焼き付いていて、タイよりビルマの方が仏教国のような気さえする。
これは、ビルマがブッダと、ビとブで音が近い上、母音の並びも「iua」と重なり、さらに濁音の重厚感で、より高貴な響きがあるからではないかと思う。
だから、心情的にビルマの好きな日本人は多かったと思う。

ところが、現在の軍事政権以来、何の断りもなく?ミャンマーに変えてしまった。

ミャンマーと聞くと、日本人には、「猫でも鳴いているんかい?」という感じで、何の親しみもわかないどころか、むしろ、下品で野蛮な印象を受ける。
そこに持ってきて、今回の事件だ。
もう、ミャンマーという名前には悪印象しか残らないだろう。

一方で、アウン・サン・スー・チーさんと聞くと、
スー・チーさんが、スッチーとか、スーちゃんのような響きがあって、これもまた無条件で味方したくなる。

そういう問題ではないのだが、どうも・・・


タレ目

2007年09月29日 | 占いばなし

タレ目の顔は、穏やかで愛らしい。
しかし、本当は怖い顔なのだ。
人間誰でも、年を取ると筋肉がたるんで目が垂れ下がってくる。
普通はこれを、「角が取れて丸くなった」と見る。実際、物言いも穏やかになり、人と争うようなこともない。

東洋人の場合、若い時は、白目が青く目尻が上がりめの方が、「涼しい」と言われる。こういう人は性格が若くストレートで、曲がったことが我慢できず、直情的な言動になる。これが凛々しさとなり、爽やかさとなる。同時に、繊細で傷つきやすくもろい。

ところが、タレ目の人は年寄りの顔であり、老獪だ。いきなり意見をのべたり反論したりはしない。目的と魂胆のためには、最終的な利益をもくろんで、状況を見極め、粘り強くかつ大胆な行動を取る。

日本的美人は、涼しい目が多く、アメリカ映画の美男美女にはタレ目が多い。特に美男に多いのは大胆さを匂わせるからだろうか。

タレ目は笑った顔に見える。これは目尻が下がっているのではなく、大抵は眉とマブタが下がっている。パンダも黒い図柄が下がっているだけだ。

素人は笑顔と泣き顔にだまされる。
よーく見て欲しい。タレ目は決して笑っているわけではない。
サンマが、鶴瓶のことを「目が笑ってない」と言うのは正解だ。
また事実、鶴瓶の方がサンマより数段、世渡り上手だ。
大竹しのぶもタレ目で、サンマより圧倒的に大人だ。

昔、アメリカ人の女子大生たちが、日本人観光客の一人の老人をさして「何という穏やかな優しい顔でしょう」というから見ると、抜け目ない横町の町内会長か、不祥事を起こした老舗の社長のような、ただの偽善顔だった。
「あれは、好印象だけの偽善顔で東洋の仙人顔じゃないよ」と言ったら大いに非難された。

そのオヤジそっくりなのが、北朝鮮の金桂冠だ。
喜び組の北朝鮮はこういうことも計算している


流石

2007年09月28日 | 占いばなし

観戦、やっぱりねえで予測した、自民党の奥の手は第二段階まで順調に進んでいる。

国会直前にハシゴを外して、民主党の大勝の勢いをそぎ、派手に総裁選ショーを繰り広げて国民に「猫だまし」をかませ、「背水の陣」だと自分の状況を全体の危機のように語り、みごと支持率をハネ上げた。
予想通りとはいえ、脱帽だ。
自民党が、為政より政権確保のプロであることを証明してみせた。
少なくとも、大敗ムードから互角に持ち込んだのだからマジックだ。

福田はカニ座。ブッシュもカニ座。
カニ座は、生い立ちを嫌がるような顔をしながら、極めて親の光を意識している。
またカニ座は「保護」を表し、警察権力や裏権力のヤクザを意味する。
同じ水の星座のサソリ座は、権力の「力」の方だが、カニ座は治安の法権力「ルールや立て前」の分野だ。

911以後、ブッシュは「テロリストの恐怖」をあおった。福田も「背水の陣」と、危機状況を錦の御旗にしている。
カニ座は集団的結束、つまりナショナリズムだが、ナショナリズムをあおる基本は「外敵」による危機だ。


名月

2007年09月27日 | 星の流れに

中秋の名月25日も26日も見事な月だった。
でも、喜んでもいられない。ミャンマーではついに軍が発砲。死者が出た。ベトナムでは橋が落ちるし、時津風部屋のリンチも明らかになった。イラクではまたも大量の死者。

ミャンマーは何座なのか解らない。東南アジア全体を魚座と見ることもできる・・・多民族、海洋、被植民地、大陸の繋ぎの地域

しかし、隣り合っていても、アメリカとカナダは、180゜の双子座と射手座だし、天秤座の日本の隣は、サソリ座の朝鮮半島だが、その隣の中国は離れたカニ座となるから、変則的で、距離や地域では割り振れない。
やはり、国や地域の星座は、特徴や出来事で割り振るべきだろう。

実は、国の星座は人間と同じ誕生日で考える方が主流だ。建国の日を誕生日とし、甚だしいのは、建国宣言された時間を誕生時と見る。
しかし、本当のところ、国は何時生まれたのか分からないし、増えたり減ったりすることもある。第一、国って何だということになる。
だから、その名前が星に連動して現れることで、その名前や地域を判定すべきではないかと考えている。つまり、決めつけではなく科学的に?検証していきたいと。

去年から今現在も、木星は射手座で、やはり、スポーツ問題が色々起こっている。朝青龍問題もさることながら、リンチ事件はスポーツとしての相撲が問われるような大事件で、それも時津「風」部屋ときた。射手座は風と説明したが、千の風、新風社、こんどは時津風だ。
風力発電の買電を値上げしろという要求も出てきた。(NPOではこの程度の発想しかできない。人間は欲で動くんですよ~ぅ)

柔道の判定など、格闘技の問題が次々起こっている。スポーツの中でも、格闘技は魚座やサソリ座だろう。ことにレスリングや相撲は裸だから魚座とみると、現在が変革期であることになり、つじつまが合う。

スポーツという「精神と肉体の統合」は、上半身が人間で下半身が馬の射手座だが、ゲームのあり方としては、裸の二人が組み合うレスリング類は魚座になる。管理野球は乙女座であり、短距離は双子と考えると陸上王国アメリカもつじつまが合う。
そして、これら「魚、双子、乙女、射手」の変容宮は、互いに90゜の凶角になる。
しかも今年、魚座には天王星、射手座の木星、乙女座の土星とにらみ合った状態になれば、こうしたスポーツ問題が起こる。

当然の事ながら、スポーツだけではない。変容宮の国や事柄にも色々と影響を及ぼしている。

南米には宇宙からの不可解な落下物の事件。(南米、宇宙とも射手座)
ペルーのフジモリ元大統領など、南米の事件はあまり目立たないが、実は色々起こっている。

このところ橋が落ちる事件が続いているが、前にも話したように橋は魚座だ。社会保険庁や農水省については何度も話している。


情報の海 2

2007年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

どんなに多くの情報も、アンテナ感度が悪ければ、見え無いどころか、逆の解釈さえしてしまう。
感度を上げて情報の実体を「見抜く」のは、運命を知ろうとすることに似ている。そしてそれは、あらゆる道の達人が、異口同音に言うことだ。「これで良いと言うことはない」

どんなに、ネット上を駆けめぐって情報収集しても、ほぼ、絶対に得られないものが「現実感」だ。むしろ反比例的に失っていく。
医療に臨床、科学に実験、人文にフィールド、ビジネスに実践、恋愛に体験、軍に実戦・・・占いに実践鑑定
軍事国家が定期的に戦争をするのは、兵器の在庫入替と、兵の鍛え直しだ。どんなに訓練をしていても、実戦経験なくしては使い物にならない。鬼軍曹が現役のうちに次の戦争を始めるのだ。

情報の発生
情報の実態を見抜く力は、情報を収集する体験からうまれる。
情報の成り立ちの過程を体験してみる。
運良く自分が居合わせた事件があれば、どう報道されているか比較する。
人のうわさやネット上の資料が、実際はどこにどんな状態であるのか、自分の足で調べに行く。(情報の質が解る)
もっと身近では、同じ事に居合わせた人が、第三者にどう話すのか聞いて、自分の認識と表現のズレを体感する。自分も点検し直す。

「これで良いと言うことはない」とは、ものの広がりや奥深さが解れば、自分の認識の不完全さが解ると言うことだ。情報の実態の奥深さが解れば、短絡的な判断を下せなくなる。
では、何も解らなくなって行動がとれなくなるではないか。と言うことになるが、そうではない。

行動の指針は、目に映る根拠や理由ではなく、木を見ず森を見る「大局観」だ。
「色即是空」の認識をもってみる「いいかげんさ」「横目で見る」「鈍感力」「論理より勘」の心得であり、フォースの力だ!?


情報の海

2007年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

情報化と言われる時代に生まれた人が、もう大人になっている。

瓦版→新聞→ラジオ→テレビ→ネット→
新メディアが現れるたびに、時代は変わってきた。
古代の会話が、伝説や神話となり、小説になっていった。

遊びは、ほ乳類の知能形成に欠かせないものだという。
言葉を持つ人間にとって、「語る」ということは社会形成には欠かせないものだ。小説や話芸のように、伝達を越えた「知の遊び」こそが、発展の手段であり、人間の目的でもある。

だから、人間は、情報を与えられると、ボールを投げられた犬のように遊びたがる。
職人が「遊びをつくる」と言えば、ゆとりの許容度のことを言う。
物語や小説は遊びであり事実ではないが、むしろ本当のことを表現していたり、単なる情報を越えた啓示となることもある。
源氏物語があるから、当時の価値観や心情がくっきりと見える。

現代の情報の海は、情報に溺れる土左衛門と、情報を泳ぎ回る海洋生物の世界になった。
「世の中は捏造のニセ情報ばかりだ」という「情報」を信じ込み、事実にさえ目を向けない土左衛門がいるかと思えば、アニメ、サイバー、アキバなど、陸を離れた海洋生物も棲息している。
これは情報化のもたらした徒花の世界だ。それを非難したりあきれたりする人もいるが、むしろ、これこそが、人間に必要な「遊び」であって、徒花にも実りはある。

時代の過渡期には、さまざまな「ええじゃないか」が現れる。人間に必要な「遊び」とは言え、それは歴史現象としてだ。かつきえかつむすぶウタカタだ。
歴史は常に波打っている。縦に横に大きく揺れる。波の渦中にあって自分を見失わないためには、「見抜く」力を必要とする。
世相史観はそういう目的で、歴史と時代を占いで俯瞰できればと思っている。


もう、いいか~い

2007年09月25日 | 兄弟関係

アベちゃんが出てきた。お兄ちゃんらが後始末してくれたら、「もう、いいか~い」と出てきたわけだ。
普通は、恥の上塗りだが、本人にはそういう感覚がないから、少しも恥ずかしくない。真面目に説明責任を果たしお詫びをしたい一心だ。
こういうところが、下の子の「可愛げ」だ。しかし、一国の首相がこれでは困るのだ。

しかし、それにしても今回の総裁選ショー。
自民党は、あきれる鈍感さだ。自民党はと言うより、現代日本では政治家というものがそうなのかも知れない。

昔、競馬場で、
「マンシュじゃ~、マンシュじゃ~」と、うわごとのように言いながら歩いているオジサンがいた。万馬券が当たったのか、当たらなかったのか、その後どうなったのか知らない。

自民党の鈍感は、小泉マジックでワケのわからない大勝をして、何をして良いかわからなくなったことにある。
これは、社会保険庁の金の乱脈と同じ、議席の乱行で、付託されたもののあまりの大きさに感覚がマヒした。脳停止はこの時からだ。
「マンシュじゃ~」のオジサン状態が2年続くうちに、すっかり使い果たしてしまった。
支持を使い果たしてしまった今も、まだ財布にお金があるような振る舞いをしている。

60干支では、今年は昭和22年1947年に当たる。
土星が乙女座に入るのは昭和23年だが、すでに、今年の9月から入っている。
この後、政治は紆余曲折の後、いわゆる、55年体制ができるまで約7年かかった。
税制、農業、経済、教育・・・政治。何もかも大きく変わったが、何よりも外部情勢の変化が大きかった。激動は始まったばかりだ。

「ま~だだよう」


鏡に

2007年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

深夜、歯を磨きながらふと鏡を見ると、後ろに知らない人が立っている。
そんな、経験をした人はいるだろうか。
あるいは、立っていたらどうしようと、怖くなったことはあるだろうか。

大なり小なり誰でも、そういう経験をしているから、シックスセンスは説得力があった。
これは、たいてい子供の時に経験する。しかし、大人になっても続く場合もあれば、ある日、突然そうなることもある。

ある人など、「夜中に、部屋の隅に一つ目小僧がいた」と言うので、思わず笑ってしまった。

臨死体験では、あの世で出会う人は、地域や民族によってまちまちであることが知られている。
だから、一つ目小僧も文化的刷り込みと言える。
しかし、「なにか」に出会ったことまでは否定しない。
ただし、それは目の前に実在したのではなく頭の中で見た、つまり幻覚だ。

この恐怖感は、経験的に、あるいは人から聞いた話を総合すると、体調不良だ。
具体的にはよく知らないが、おそらく脳科学でも解明されていると思う。子供の時に多いのは、(心理学的には色々説明もあろうが)身体が完成していないアンバランスが原因だろう。

だから大人なら、体調の問題と考えて何らかの対策を打った方がいい。
怪談話で涼しくなると言うが、何でもない時に怖くなったら、先ず身体を温めてみたらどうだろう。布団にもぐるのはそのためかもしれない。


美しい政府

2007年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

暦の十干十二支には、陰陽五行が割り振られている。
陰と陽は、太陽と月、男と女、表と裏・・・など色々当てはめられるが、要は、プラスとマイナス、0と1のように、単に相対的な関係だ。この話は、話せばややっこしく、陽と陰は違うものでもあり同じものでもある。

ともあれ、陽は剛だがモロく。陰は柔だがシブとい。
この概念は、東洋人なら自然に理解している。
政治なら、投票の一票は陰だが、結果は陽になる。表に現れた代議士は陽で、偉そうだが、一票の積み重ねに過ぎない。

日本人の社会感覚は、意外と公平だ。長い年月の間に曲折はあったが、根底にはアメリカ先住民のように、輪になってたばこを吹かしながら合議する、平等意識のようなものが流れている。
近くは幕藩体制も、朝廷との二層権力と、諸国の連合政権で秩序が出来上がっていた。

現代日本では、政治は本当にマツリゴトだ。「政」ではなく「祭」であり、「官」と「経」が、実際には日本を動かしている。
つまり、日本は「陰性」の国だ。実力を持つ王や大統領が国を率いる「陽性」の国ではない。
明治以降、表向き陽性の手法を用いてきたが、本当のところ政治は単に「祭」だったのではなかろうか。

リーダーは国民の身の丈に合ったものになると言う。アメリカでは映画俳優が大統領になり、ちゃんとこなした。フィリピンでは人気俳優の大統領が愚政を行った。つまり、初めからデモクラシーによって成り立つ国では、選ぶ側も選ばれる側も、見極めと自覚をもっている。元が何者であったかより、できるかどうかで選ばれていく。その仕組みができているから、たとえブッシュでも、水準のことはこなせるのだ。しかし、借り物の仕組みではこなせないのがフィリピンの例だ。

日本はどうだろう。今のところ人気俳優が首相になってはいない。それを見識と見るか、権威的と見るかはわからない。
しかし、首相が寝込んで国会が停止していても日本は困らない。
極論すれば、日本に政治家は要らない。
・・・と言うわけにも行かないだろうから、外交下手の日本は、いっそのこと政治家を、見てくれの良い俳優にしたらどうだろう。

さしずめ、首相は渡辺謙というところか。あとも色々想像すると楽しい。とにかく、俳優が良いのは、言葉が乱れなくて表情で説得する。
どうせ無能な政治家なら、見てくれの良い俳優の方がよほどいい。
ある程度の台本と、アドリブパターンを憶えたら充分こなせる。
外国で外国人にアピールするのは見てくれだ。
サッチャーもゴルビーがお気に入りだった。政治家同士のコミュニケーションにも結構ものを言うだろう


総裁選ショー

2007年09月22日 | 兄弟関係

今日21日は、総裁選の討論会をやっていた。
リーダに必要なものはと聞かれて、
麻生は「孤独に耐える力」と答え、福田は「決断力」と答えた。

「孤独」とは、長子につきまとうものであり、日頃は慣れていても、辛い時には、改めて孤独と向き合わなければならないのが長子だ。
下の子は、そこまで行くと、必ず相談相手や愚痴る相手を求める。
「決断」とは、選択のことだ。いくつかある道の一つを選ぶ時は、決断しなければならない。下の子は既成のチョイスによって生きてきたから、重要なことは「選択の決断」だと思っている。

長子は既成のものに目をやらない。自分の原理で生きようとする。だから、前例のない事態には強い。
自民党大敗の時、切り抜け策を編み出したが、既存の概念で考えようとする世間の目は、麻生悪人説で見る。
結局、この悪役を買うのも長子だ。安倍がだまされたと言っているとかいないとかの話も、方針を失っている安倍に、長子的責任の取り方を押しつけ、自分も何とかしようと動いたとすれば、安倍が後で愚痴り、麻生が「孤独」と吐露するのも納得がいく。

世間の麻生悪人説は、総裁がうまみのある時の話だ。どう考えてもうまみのある時ではない。長子には下の子の後始末をするクセがある。(オウム事件で妹を脱会させようとして殺されたお兄さんなど)

チョイスで生きる下の子は、ファッションセンスや人使いがうまい。
また、状況次第の人間関係で生きるから、愛らしく人好きがする。
原理主義の長子に対し、是々非々の勘の良さがある。
今日も、麻生が、「女性に人気ありませんね」と言われて苦笑いしていた。長子の独演はもてない。逆に、長女と末っ子の相性が良いように、下の子の愛らしさは人気する。
小泉、福田とも姉がいる長男独特の、わがまま坊主的愛らしさがある。

大敗の非常時に、長子の役を果たした麻生だが、自民党はこれで災難が去ったわけではない。平時なら調整型の中間児、福田の方が良いが、勝負をかける自民党としてはどうだろう。


リーダー 2

2007年09月21日 | 兄弟関係

団塊は子供の時から、あれこれ言われて、打たれ強い。
自分のことをとやかく言われても、「何のこと?」で、せいぜい「うるせえ!」ぐらいだ。
自分のことを言われても気にしないから、他人に対しても配慮がない。言いたい放題批判する。
特に昭和24年生まれはアクがきつい。昔から、丑年はガンコと言われるが、確かに、丑を表す山羊座と水瓶座は反骨精神が強い。さらに、木星と天王星が180゜の爆発状態にあって、しかも、インパクト大将の六白となれば、かなり暑苦しい。
解りやすい例が、武田鉄矢、たかじん、永ちゃんだ。

近年、団塊後の世代の、団塊叩きがよく話題になっている。
発起人は、だいたい昭和30年代生まれで、本来は団塊好きがアンチ団塊になったような言い分だ。
こんなことを言えば必ず、そうではないと言いそうなタイプばかりだが、おそらくどこかで、団塊にバカにされたのではなかろうか。とすれば、おそらく犯人は昭和24年だろう。
(ただ、学生運動自慢などする団塊は、元は野次馬だ)

この構図は、昭和20年代を戦後の長子とすれば、30年代は次子となる。勝手放題に生きる長子にあこがれた次子が、真似しようとしてバカにされ、恨んでいる図だ。
長子は単純に、「お前はお前の道を行け、付いてくるな」の気持ちだが、下の子は独自の価値観を見いだせず、「何で兄貴ばかり!」と長子叩きをする。同じ例は、民主党若手の「世代交代」論にも見られる。

相手を叩くより、自分のビジョンを打ち出せば良さそうなものだが、足を引っ張るだけの野党になる。足の引っ張り合いにビジョンは生まれない。

中韓の反日に、意地になって怒っているのもこの世代だ。
近代アジアでは、日本が長子であり、中韓は次子だった。元来は長子である中国と違い、朝鮮半島は本気で足を引っ張ろうとする。
長子タイプの団塊がこれに鈍感なのに対し、次子タイプの昭和30年代は、「アホ言うモンがアホ」で、対等になって腹が立つ。

戦前派がアジアの長子として「はいはい」と相手の気を済まそうとしたら、戦後の次子世代が「何でやねん」とくってかかって、却って火に油となった。
戦前派小泉の靖国参拝にしても、マイペースの行動であり、相手との関係行動ではない。その長子的態度に次子世代は惹かれた。(小泉本人は長子ではない)
ところが逆に、次子タイプの安倍は、賛否とも関係ばかりを意識した。そのことが、同じ次子世代の反発をかう結果になった。

昭和30年代は、戦後派としては次子だが、ネット世代としては長子になる。ネット上のオピニオンリーダーの価値観が、いわゆる若者の意見を形成している。


リーダー

2007年09月20日 | 占いばなし

クリントンとブッシュは1946年生まれ。昭和21年だ。
昭和21年を、団塊と見るかどうか。非常に難しい。

団塊の境界でも話したが、土星・獅子座の前団塊と、乙女座の後団塊がある。そう見れば昭和21年も団塊の一員となるが、昭和22年は21年の1.5倍多い。21年は、むしろ戦後の出生率減少に当たる。戦争のピークで男欠乏の余波であり、世の中も混乱していた。中国残留孤児も21年生まれまでだ。

したがって、戦後生まれの大統領と言えども、どちらかと言えばやはり、戦前の感性と価値観を残している。しかし、ヒラリー・クリントンは22年で、完全な戦後世代であり、団塊世代だ。
これが良いか悪いか分からないが、とにかく、戦後生まれの政治家といえば英国のブレアであり、日本では前原や安倍となる。
しかも、何れも団塊ではない。

団塊が政治に縁がないのは運命だが、実体としては「リーダー」を嫌うからではないかと思う。
悪く言えば衆愚政治を好み、よく言えばデモクラシーと個人の尊重だ。
では、個人を尊重するのに、なぜ団塊は皆同じように見えるのか。
もし、リーダを求める社会(世代)であれば、頭角を現す人を皆でもり立てるが、個人を尊重し合う社会では、頭角を現す人をもり立てず、個々が自己主張する。その結果、色や形が違っても、皆同じ大きさで、遠目には一色に見えることになる。

団塊は個人尊重の脅迫観念を持っている。日本だけならアメリカ式教育の影響ということになろうが、おそらく、世界的にも、戦争の抑圧から解放された中で育ったからだろう。
戦後の自由爆発の団塊を過ぎると、また秩序思考になり、個人より社会が潜在化するようになる。
団塊は、社会抑圧を拒否するアナーキーゆえに、政治秩序を思考できず。その後の世代は、秩序指向ゆえに政治的であり、同時に、枠の中の自由人となる。そして、それが閉塞感となる。

何れの世代も、自分たちのことは見えないが、団塊は数が多いからよく認識され、色々に言われている。
関心の薄い団塊後の世代のことは、あまり定義されることもないが、秩序指向の現れとして、政経塾とか三代目政治とか、およそ政治家の天性とは関係のないところで政治に関わろうとする。天才的棋士は居ても、将棋盤をひっくり返したら、どうして良いか分からない。

政治家の天性とはリーダーシップであり、知識や論理とは全く関係ない嗅覚や勘のことだ。
自然の中で育った戦前生まれには備わっていても、人工培養で育った戦後生まれには難しい。団塊は自然環境を知ってはいるが、政治に関心がない。政治家には、「好きこそものの上手なれ」ではなく「下手の横好き」の方が多い。
団塊は意見を持っていても政治家を避ける。舛添さえ、政治家を初めから指向していない。恥ずかしそうに政界入りした。


ゾンビ・トンビ

2007年09月19日 | 兄弟関係

やっぱりねえ・どうだろねえ」で、
特攻隊は射手座か山羊座と思ったら、カニ座の福田が出てきた。
いつも言うように、対角線上にある星座は表裏一体だから、カニ座と山羊座は同じことだが、この時期、山羊座が主体的なのに対し、カニ座は他動的だ。
本来なら、今のアメリカや農水省のように、関係者に振り回される時期だが、カニ座にとってはこれが幸いする。
デパート合併のように、カニ座は行き詰まって他動的に変身する時期だ。あるいは合併による変身もある。

麻生の場合はどっちに転んでも栗拾いで、長子らしい役を果たしたが、福田はこれもまた中間児らしいステルス・トンビの動きをしている。
昨年は風向きが悪いので姿を隠し、今年は油揚げに飛びついた。
しかし、トンビは風任せ。ちゃんと油揚げをくわえて舞い上がり、持ち帰って食べられるかどうか、毒入りかどうかは分からない。

早い話、自民党背水の陣が日本にとって吉か凶か、3年経たなければ分からない。2009年末、土星が天秤に来る。


ありがたや

2007年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム

天才的な人というのは、人格的には「ちょっと?」という人が多い。
「天は二物を与えず」だろうか。逆に、いわゆる人格者は、人並み外れた部分=「カド」を落としているか、初めから無い。

世の中は「天才と賢人」を混同している。天才に人類の生き方とかを聞いても、とんでもない答えが出るだけだ。
しかし、天才の言葉には原石のような示唆を含んでいる。あくまで、原石としてのだが。

天才は子供の能力がそのまま伸びた人で、子供のままの感性だ。大人(凡人)としての自制心や、客観性はあまりない。
賢人は逆に超大人だ。大人としての知識、人格を限界まで広げ、人間の至らなさを知り尽くしている人だ。
賢人は天才にはなれないが、天才は賢人になれる。天才が能力を失い、そこから人間としての学習を始めた場合だ。

そういう意味で、賢人と化した元天才に、ご意見をお伺いするのは正しい場合もあるが、目からウロコを落とすために聞くのなら、子供でも良いわけだ。曇りのない直感を聞けば、大人の認識でハタと気づく場合がある。
人類を導いてもらうために、ご意見をお伺いするような賢人は、具体的にどんな人なのだろう。

ノーベル賞受賞者は天才なのか賢人なのか、と考えると、そのどちらでもない。しかし、どちらの可能性もある。
認定されない天才はいくらでもいるだろうが、ノーベル賞認定に至る人間関係や手続きをこなせるという点では、賢人の可能性の方が高いだろう。しかし、実際にノーベル賞をもらった人が、後に、ミス提言をしているようなケースも多々ある。

平和賞などを見ても、ノーベル賞は学術認定賞であって人物認定証ではないのだが、開発途上国や、終戦直後の日本のようなリーダー喪失の社会には、ノーベル賞というお墨付きが、叡智の認定のように映り、みな、叡智のお言葉を欲しがった。

自信のある人間や集団は、他から与えられた価値を欲しがらないし、けなしもしない。ノーベル賞にしても、通信簿程度だ。
同じようなことが言えるのは、オリンピックやワールドカップなど、他人の創った価値やシステムにひたすら媚びることだ。
確かに、経済や国威発揚の効果を上げるには手っ取り早いが、フランチャイズビジネスみたいなものだ。
元来、全体の総意で始められたものでもないし、実際、権益や運営が偏っている。

なぜ、新しい理念で、世界の人々が賛同して集まってくるような催しを提案できないのだろう。
オリンピック誘致が話題になるたびに、恥ずかしいような情けないような思いになる。


二輪サイズの四輪車

2007年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

「欲」は地球を救う で少し触れた、バイク並みの三、四輪車、なぜ出ないのか不思議だ。

40年前、スモッグで、真昼の太陽が夕日のように見えた時、「これで良いのか」と思った。今、日本どころか地球の環境は破滅まで秒読みに入っている。

幸い、近頃は環境問題が時の趨勢となり、ゴミの出し方で「非国民!」とまで言われそうな、極端な流れが来ている。
お祭り騒ぎで車に乗っていたかと思うと、今度は環境ラッシュだ。
小さなことからコツコツと・・・なのか、小さなことには鬼のようになるのに、抜本的問題にはあまり関心がない。

車を止められなくても、規模を落とすことはできないのだろうか。
街を走る車の大半が一人乗りだ。さらに、2人以下なら、ほとんど全てだ。
いまさら、全て公共交通機関というわけにも行かないので、自家用車だけでも小さくしてはどうだろう。

最近はスマートやツインのように、小型2席のマイクロ車は出ているが、法的問題が難しいのか、前後2席の車はない。
大型バイクサイズの250cc四輪車なら、ガソリン使用量は1/3になるし、ハイブリッドや電池も可能だ。道路車線も倍に使えるし、席幅も広くなる。

「前後2席の車」が、軽ともバイクとも違うのは、天候に関係なく楽にコンパクトに使え、荷物も載せられる点だ。
軽は横幅が1.5mあるが、バイクなら大きくても1m以下になる。
通常は一人乗りを基本とし、もう一人を後ろに乗せられるバイク発想の四輪車。

以前、スズキが発売段階にあると聞いたので、期待して待っていたのについに出なかった。今でも、残念で、残念でたまらない。
発売が断念されたのは、ミゼットの動向などと関係するのかも知れないが、今こそ時は来た。何とか出して欲しい。

これとは別に、ホンダが屋根付きバイクを出したので、完全ボディー付のバイクを出してくれと葉書を書いたが当然、無視された。それから数年後にヨーロッパで、全くそのようなものが出たと聞いた。

日本の軽自動車は世界に誇る高度な技術だ。マイクロ車も相当な期待ができる。しかし、大手が出さないのなら、光岡でも、タケオカでも、どこかの町工場でも、気概のある所は出して欲しい。
ただ、大手が出せばファッションとして乗り手は出るが、マイナーな会社では、乗っているだけで衆目を浴びる。マニアしか乗らなければ社会効果としては何の意味もない。

車社会からの離脱
1.車産業に支えられている日本経済を環境産業に転換する。
    新エネルギー機器の創造と製造販売
  
2.脱車社会への政策
  公共交通機関利用控除。バスタクシー専用道路の拡大。
    駐禁より道幅縮小の方が効果的。
  自家用車並みの利便性のため、細かな規制の現実的な見直し。
  普通車一人乗りの禁止(シートベルトやヘルメットより重要)。    
  公営貸し自転車。自転車・荷物の鉄道バス同乗を容易にする。
    鉄道とバスの徹底連携(料金と乗降)←ホームにバス停

3.前後2席の四輪車。
  その他色々、サイドカーのような発想もできる