魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

原点思考(3)

2010年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

No.968

世の中には、多くの疑惑の事件や、疑惑の歴史がある。
ある人は白だと言い、ある人は黒だと言う。

こんな論争が続くのは、誰かに利害がある場合だ。
あるいは、自分を正当化するために、確かめようのないデータを、自分の都合の良いように並べ替える場合だ。

こういう論争に関わる必要はない。関わっては危ない。
物事の条理より、「利害」という問答無用で力ずくの闘争が根底にあるからだ。結局は力が強い方が勝つので、条理を正すことは永久にない。「力が強い」とは、しつこさや、嘘のうまさも含む。

どんな話しでも、わざわざ複雑にし、訳のわからない話しにする人は、初めから自分の利益を企んでいる。条理を正すための細分化ではなく、ただ複雑にするために、様々な別次元のデータを並べたてる。
これは、対等に認め合う関係ではなく、何が何でも相手を押さえつけ、自分が上になろうとする、魂胆のある煙幕だ。

「我」の飛び交うネット上は、やむを得ないかも知れないが、マスコミという社会機能は、飯の種として意図的にそれを行う。
それに煽られ、自分が確かめたわけでもないのに、渦中の人を非難したり、ああだこうだと叫ぶ人は、まやかし教祖の奴隷になっている。

事実、真実、真相、真理・・・それぞれ別の意味を持ち、別の働きをするものだが、それを、すり替えた論理にごまかされ、納得して、軽挙妄動してしまう。

つじつまの合う、もっともらしい話が、最も危ない。
「本当のところ」を説明するには、膨大な資料と整理が必要であり、簡単に説明が付くはずがないからだ。

「本当のところ」とは、説明が付かなくても、漠然と存在する単純な真実だ。
だれでも、様々な経験を積んで、ある種の自然の原理を体得している。目を閉じて静かに考えれば、自分の中にある原理に気づく。
それに照らして考えれば単純に解ることなのに、目の前の現象に惑わされ、巧みな言葉に翻弄され、動揺し、興奮して、叫びを上げて走り出す。

人の言葉も、目の前で起こる現象も、それが真実を伝えるものではない。まずは自分に内在する原理に照らし合わせてみる。
それは漠然とした基準だから、当然、判断も漠然としたものだ。
言葉に出して、他人に伝えられるようなものではないかも知れない。
だが、それで良いのだ。まずは自分が、惑わされないことが大切だ。

「本当のところ」が、どの程度のものであったか。噂やマスコミはおろか、小説も映画も銅像もジオラマも、はては一次資料と称するものも、自分の原理で判断する、対象でしかない。
個人が体得した、素朴な自然の摂理で考える素朴な姿こそが、原点から考える原点思考だ。


原点思考(2)

2010年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

No.967

何事も、信じる信じないの前に、その実体を考えてみる。
人でも、社会のルールでもそうだ。

「偉い人」と恐れ入る前に、そもそもその人の何が偉いのか。何でその人はそういうことになったのか。その動機は何だったのか。そして、その人自身は、現在、その自分をどう考えているのか。

また、「偉い」とはどういうことか。偉いとか偉くないとかの指標となる、社会の価値観やルールはどこから出てきたものなのか。そしてそれは、本当に認めるべき価値あるルールと言えるのか。

そのルールと、価値観に対して、当の本人はどう考えているのか。

そうしたことを検討してみた上で、その人が本当に尊敬できる人かどうか、それとも、形だけ立てておく人なのか、自分で決める。

偉い人なのだからと、やたら恐れ入るような人は、時に、「裏切りの心」を抱えている人だ。
あくまで自分の生き残りだけが目的で、相手の人格など見ていない。本当に尊敬できる人とはどういう人か・・・など、考えない。

例えば、「お前、00さんになんていう態度を取るんだ」などと言う人は、00さんを理解し尊敬しているわけではない。社会的状況に従っているだけで、外面だけの人だ。(そういう社会や国もある)
内心は『何時か、オレもそうなってやる』ぐらいにしか思っていない。そして、自分がそういう立場になると威張り散らす。

何に追いつめられているのか
受験、就職、結婚、子供、病気・・・人生は苦労だらけだ。
しかし、元々、こういうことは何なのか。
今求めているものは、どうしても得なければならないものか。
また、今思い描いている姿でなければならないものなのか。

原始時代から、今日まで、人間はほとんど変わっていない。
人間の作り出してきた、社会文化が変わっているだけだ。社会文化や、その理想は常に変わっていく。

悩みの理由は、人間の本質のことか、社会文化からくるものか考えてみる必要がある。
文化に基づくものであれば、絶対に無ければならないものではない。
時代や考え方、自分の生き方が変われば何の問題もない。
生死など、人間の基本で、誰でも避けられないものであれば、悩んでみても仕方がない。生老病死は誰も逃れられない通過点だ。

受験や就職に必死になって、願いかなわず落ち込んでいる人は、人間が生きていくために、本当に、道はそれしかないのだろうか。他人に選ばれなくても、自分が切り開く道はないのだろうか。
結婚したいとか、しなければならないと思っている人は、何のためか、誰のためか、先ずハッキリさせる必要がある。
その上で、最重要項目から満たしていくべきだ。
もしかしたら、何の必要もないかも知れないのだ。


原点思考(1)

2010年07月17日 | 占いばなし

No.966

占いのように、学問的な体系が無いか、あるいは散逸してしまっている学術は、これといった方法論がない。
バラバラの文献や、信憑性の薄い書物の端々から、核心を捉えようとすれば、あらゆる先入観を捨てて、ゼロから考えなければならない。

すべての情報に対して、「いったい元の姿は何だったのか?」と考えてみる。

例えば、姓名判断の画数とは何かと考えると、漢字の源である甲骨文字や篆書まで遡れば、現在の漢字の画数とは関係ない。
それどころか、旧字体、新字体だけでも画数が異なる。
したがって、画数は、文字の意味や音の霊力?とは関係ない。
梵字の種子字のように、仏や菩薩を象徴するようなものでもない。

では、実際に画数が持つ神秘力とは、何の影響力のことか。
無理に考えれば、おそらく、漢字を書く「行為」の大小や調和などが自他に及ぼす心理的な影響・・・のようなことだろうか。

一方、漢字圏の東洋の占いとして生まれてきたことを考えれば、他の占いと同様に、陰陽五行説の「数理」が基なのかもしれない。
数そのものが陰陽五行に割り振られている「干支術」を考慮すれば、画数と六十干支との関係、ということも考えられる。

しかし元来、陰陽五行の成り立ち自体が、日月星辰から暦をつくり、自然に従って生活や社会の秩序を整えようとしたものだ。
つまり、自然観察から導き出した法則を、数理化し、その数理そのものが、森羅万象を動かす原理であると考えている。

したがって、あらゆるものが、数理に支配されていると考えるから、姓名を書く行為、画数を数理的に分類し、そこから逆に、実像ととらえ、名前の持つ資質と傾向と見なす・・・そういう理屈だろうか。

ところが、ここに二つの問題が起こる。
先ず、本当に、名前は実体と一体化した、同じものと言えるのか。
次に、そもそも、どういう流れ(運命)の中で命名されたのか。

つまり、名前そのものの分類ができたとしても、名前という衣服と本人は、どこまで一体化しているものなのか、また、名前そのものにしても、元々、星占いのような自然観察から始まっているものであれば、初めから星占いで、考える方が、有効ではないのか。

そんな風に考えれば、画数による姓名判断が無意味とは言えないが、星占いなどの、本人をとらえる占いの方が、より、優先的と言うことにはならないか・・・

様々なタイプの、占いの内容と成り立ちを、素朴な視点から考え、相互の関係を考慮して、有効性や影響力を考え、常に疑問符を残したままで用いる。それにより、迷信や思い込みを減らし、過ちを減らし可能性を高めることができる・・・かも知れない。

占いの本にそう書いてある、だけでは、信じるわけにはいかないのだ。