魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

100点の危険

2010年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

トヨタはアメリカのご都合主義の標的になっているようだが、だからと言って無論、トヨタに責任がないわけではない。

極まれば転ずる
物事は絶好調の時が一番危ない。
ピークでの危険を避けるには、拡張中に撤退準備を始めることだ。拡張の勢いというものは多少無理をしても止めるわけにはいかない。加速時には多めにアクセルを踏み込まなければ失速する。

絶好調の時には必ず無理をしているはずだから、到達点の、1~2割は捨てるつもりで、アクセルをゆるめる。
もちろん加速中にその準備ができれば申し分ないが、そればかり考えると勢いがそがれ、浮かび上がれない。

100点を取ったら、自分の実力はせいぜい80点と考える方が良いが、失敗をする人は、自分は100点人間だと思い込んでしまう。
成功した大企業に就職したいと考える人は、初めから100点人間になりたい人で、そういう時代に就職をして来たような人は、いかに優秀でも、企業としては信用すべきではない。
企業が安定的に続いて、100点志向の人が経営トップになる時が来れば、それが企業の寿命尽きる時だ。

また、100点志向でなくても、想定外の成功をすれば、自分を失い慢心する。日本のバブルも、想定外の大成功に、日本人が何をして良いのかわからなくなったからだ。こういうことは何も日本だけではないと、アメリカも証明してくれた。

戦争も拡張すれば兵站が途切れる。「勝ち過ぎ」の危険は良く言われるが、何がどう危険なのか、その時、わかる人は少ない。
郵政で自民圧勝の後、縮小引き締めを考えず、維持だけ考えた結果、自民は壊滅的敗北をした。民主党もまた、同じ危険を冒そうとしている。おごれる平家久しからず

トヨタは水瓶座とみなしているが、やはりそうらしい
風雲
自分の星座に木星が来れば、過去が評価されて脚光を浴びるが、過去の問題が発覚して、治療することになったりする。

木星が水瓶に来た昨年、世界不況のあおりを受けて、拡大路線の収集に追われたトヨタは、反面、ハイブリッドでは評価された。
そして、木星が去ったとたん大問題に直面したが、これはむしろトヨタの大英断ではないかと思う。

アメリカ自動車産業不振のスケープゴートにされ、小さなことを、言いがかり同然に叩かれ続けてきたことに、「キレた」のではなかろうか。アメリカ製品を使えと言われて、それで問題が起きているのに(これがピークの盲点)、トヨタ叩きに狂奔するアメリカに、
「ああ、わかったよ、わかりましたよ!、そんじゃあ、一からやり直させてもらいます」と
暗に、『誰の責任かハッキリさせよう』と、居直ったように思える。

韓国と大差ないアメリカマインドは、「ずるいトヨタが当局の言い分を聞いて渋々動いた」と囃したり、GMは「しめた!」とばかりに、トヨタ車からの乗り換えサービスをやってみたり、公平性も志も無い。
貧すれば鈍するとはこのことだ。principleが聞いてあきれる。


国際対応

2010年01月30日 | 兄弟関係

トヨタはアメリカに狙われているようだ
30年ぐらい前だったと思う。誰か忘れたが「日本の国際対応などは、米国などと比べまったく無能だ。むしろ韓国などの方がよほど積極的で現実的な対応をしている。」と嘆いていた。

近頃、北朝鮮や韓国という国からの情報が豊富に入るようになって、その言葉の意味が解ってきた。

国や民族を兄弟関係で考えると、朝鮮半島は末っ子で、アメリカは出稼ぎに出て成功した次三男(弟妹)とみなすが、益々そうだと思う。

アメリカは周辺強大国の脅威がないから、正々堂々としているように見えるが、いざ、我が身に危険が及ぶと、態度を180度転換させる。
末っ子は、自分の手柄を大々的に吹聴し、自分のやり方を指導しようとするが、風向きが変わったり都合が悪くなると、無かったことにするか、誰かのせいにする。成功者か被害者の、どちらかに収まる。先ずは身の安全を守ろうとする。

「友人が何十年も同じ事を続けている」と評価している末っ子がいた。状況によって立場を変える末っ子から見れば、一貫して同じ事をしていることが、信じられないぐらい評価に値することなのだろうが、真実を追究する者は、むしろ必ずしも同じ事を続けない。君子豹変。

末っ子が状況によって変節するのに対し、長子は原理追求のために変節する。たとえば「善」を追求していたとして、新しい知識を得れば、自分の原理の修正のために、やり方や支持するものを変えたりするが、「善」に向かう志は、自分の問題として一貫している。

変節に対する、この両者の違いで、よく水掛け論が起こる。
立場や言動を変えたことを非難するのに対し、何も変えていない、そちらこそ変えたではないか・・・と。

国別性質
この違いは、中国と、韓米の、態度の違いを見ているとよく解る。
中国は時間が経っても昔の義理を通すし、当初始めた建前を簡単には崩さず改めない。一度決めて宣言したことを撤回しない。
中身は変えているにもかかわらず、いまだに共産党で押し通そうとしている。一党独裁を止める時は、おそらく七転八倒するだろう。

韓国(朝鮮)は、時代や状況によってコロリと立場を変えるにもかかわらず、他国の変化を徹底して非難する。
アメリカも自分の利益を守るとなったら、立て前など捨てて、なりふり構わず相手を叩こうとするし、先ず自分の利益を守ろうとする。

弟妹型が、身の安全を第一にするのに対し、長子は自分の方法や立場(面子)を守ろうとする。
弟妹型が他との関係で行動を決めるのに対し、長子は自分の原理や、思い入れで行動を決める、例え損をしても兄であろうとするし、弱い立場の弟妹に対しては横暴だ。

一人っ子の日本は、決して兄になりたくはないが、そうしなければ生きていけないと知ると、無理に兄らしくする。しかし、経験がないから、場違いな行動をして浮いてしまう。


まる見え(3)

2010年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

人類は文明の力によって、空を飛び、地球のウラ側の人と話しをし出来事を見る。そしてやがて、透視能力も身につけるだろう。

しかし、エスパーと言われる能力の多くは、元来、動物には備わっているもので、人間が言葉とひきかえに失ったものだ。
と、言うより使えなくなっている。だから、やむを得ず、文明の力でそれを行うようになったが、それには一長一短がある。

動物のように無手勝流にはできないが、空も飛べれば深海にも潜り、宇宙にまで進出する。だから、修行までして空中浮揚する必要は毛頭無い。

しかし、もし、動物の能力が残っている人がいればどうなのだろう。
近頃のSFアニメなどには、アンチ文明としてか、やたらそういう超能力人類が登場し、それに影響されたのか、修行すれば可能になると信じる人々がいたり、人類の進化として超能力が身に付くような幻想が信じられていたりする。

しかし、現在の環境から見れば、進化して、超能力が身に付くとはあまり考えられない。むしろ、シッポのある人がいるように、退行としてなら考えられる。

人の心を読める人がいたとしよう。
アニメなどではよく、その能力を知られると抹殺されるため、隠している人たちの話がある。
こういう話の二つの虚構は、
一つには必ず抹殺されるとしているところで
そんな素晴らしい能力は、見せ物にはなるかも知れないが、必ず抹殺されるという根拠が希薄で、むしろ作者の差別観や閉鎖性が感じられる。
もう一つは、
実際にそんな能力の子供がいたら、神童か、逆に何らかの精神障害として扱われてしまうだろう。つまり、物心が付くまで、能力を隠して成長することは不可能だ。
世の中の精神障害とされている人には、多分に、この可能性がないことはないと思う。

動物のように人の心を読めるとは、「事態を知る」ことであって、心を言葉にして読むわけではない。心は言葉ではないからだ。
相手が、『おまえはバカだ』と思ったとして、その言葉が聞こえるわけではない。そう判断している感情が伝わるということで、この段階の能力は、相当多くの人が持っているだろう。

心を読める人とは、
この感情を的確に言葉に置き換えられる人のことだ。しかも、感情的なことだけではなく、論理的なことまでも感情的に理解して、もう一度、論理的な言葉に直す能力のある人だ。

これだけの能力がありながら、一度もトラブルなく成長することは不可能だし、またそれだけの論理思考ができれば、他人とは違う結論を出す自分を、先ず疑い始める。

もし、自分の考えは正しいが、信じてもらえないから黙っておこう、と考えるなら、それは自己中の幼児性であり、他の面において大人として社会生活をしていくことができない。その考え自体も疑わしく、単なる独善の可能性が強い。

他人の心を読み、自分に対して客観性を重んじる人は、超能力者としては存在できない。もし、自分は超能力者だという人がいれば、もうそれだけで信じる必要がない。


まる見え(2)

2010年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

CTやMRI同様に、丸裸透視機も簡単にできると思っていたら、やっぱり存在していた。

2009年暮れのテロ未遂事件で、オランダ空港に全身スキャナーが登場した。以前から各国に配置されていたが、プライバシーを考慮して使用されていなかったそうだ。
技術とはこんなものだ。名分さえ通れば直ちに使われる。原爆がそうであったように。

目的からして、今のところ身体がマシュマロマンみたいにしか見えないが、必要とあらば直ちに、グラビア写真のように完璧なものができるだろう。(実は密かに出来ているかも知れない)

情報化社会は、プライバシーのない、究極の村社会を生み出す
この流れは、どんなことをしても止められないだろう。
国民総背番号など比べものにならない、それどころか、その背番号も要らなくなる。全部わかっているからだ。

世界の文明国と比べて、日本人にはごく最近まで、プライバシーがなかった。いまでも田舎に行けば、互いの家の押し入れの中までわかっている。昔から互いが監視しあう中だった。
それを利用した五人組や隣組の発想は、必ずしも嫌なものとは考えられておらず、むしろ、互いに甘えあえる「家族的」環境として喜ばれた。今でも「うちの職場は家族的だ」のように、良い意味で使う人もいるかも知れない。
ごく近年。プライバシーは当然になったが、果たして、日本人はそれで豊になったのだろうか。

欧米の個人主義は、互いに知り得ない環境があったから、それを尊重する文化が生まれたが、日本のように蒸し暑く狭い島国では、大きな囲い(国)の中にまで、囲いなどしていられなかった。

大陸の多くの地域において、家は個々に城であり、外から進入しにくく、見えないようになっており、内部に庭を設け独自の世界を作っている。そこに一族が暮らし一丸になって外敵から守っている。
日本の場合、この文化は、寺の伽藍や武家屋敷には存在するが、これは思想とともに入ってきたものであり、古来の庶民生活では、村の囲いの中に入れば、神社にも基本的には物理的な防護壁がない。

情報化社会は、欧米的な個人主義も含め、地球全体を、日本のような小さな島国=村社会にしてしまう。
互いの外的な状況がわかるだけではなく、内面まで全て「まる見え」の社会。島国の村社会以上に、「個人」の存在しない世界だ。

そういう社会は必ず来る。そうなった時、哲学も心理学もまったく変わる。肉体も思想も、自分のものであることの意味が無くなる。
人は神の前に正直となり(人が互いに正直となり)、
菩薩道に目覚める(エゴを捨てる)だろう。

文明の進化が、2500年の信仰を超えるかも知れないのだ


まる見え(1)

2010年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム

ついに、脳波が玩具にまで使われるようになった。
現物は見ていないが、ニュースによると、脳波の種類やレベルによって、電気レベルを調整し、風圧でピンポン球を動かしたり、集中力のトレーニングなどにも使う。

パソコンが出現した時、これを応用すれば簡単にできるなあ、と思ったら、CTやMRIはあっという間に実現した。

脳波の応用で、玩具ができたからと言って、そんなことはそう簡単にはできないと、普通は思うだろうが、マインドリーディングは、ちょっとしたきっかけで案外、簡単にできるだろう。

本当に必要になればすぐできるはずだが、クローンと同じで、人類のモラル進化の壁がじゃまをする。
技術的には可能であっても、モラルという、人類の概念が進化しなければ受け入れられない、がしかし、また、テクノロジーは概念を変えるものでもある。

CTやMRIは、技術的好奇心より、生存願望が可能にした。
その意味では、他人の心を読む「読心機」は、モラルハザードとみなされ、実現が難しい。

しかし、もしそれが出来てしまって、普及し改良され、心に秘密が持てなくなったら、どんなことになるだろう。

今、われわれは、他人の心などわからないものと思っているから、興味を持ち、悩み、誤解をし、悲喜こもごものドラマが生まれ、争いも起これば小説も生まれる。

見えないから見たくなり、妄想をするのは、下着の中身と同じだが、もし全員スッポンポンで、丸出しでいれば、ほとんど誰も興味を持たなくなる。せいぜい、顔の違い程度の識別対象ぐらいにしか思わない。
まあ、そうなると、髪型を気にしたり、化粧をするように、飾り立てるのかも知れないのだが・・・。

考えていることがまる見えになって、それが当たり前になれば、
「ヒ、ミ、ツ・・・」とか、内緒話とか、まったく無意味になる。
それは洞察力を失うデメリットなのか、むだな邪推エネルギーを超えて、合理性で思考する躍進につながるのか・・・どっちだろう?

少なくとも嘘はつけなくなり、妄想は恥ずかしいことではなくなる。
様々な欲望は誰にも知られてしまうから、誰もそれを「あってはならないこと」と責めなくなる。
むしろ、その解決策をともに考えることが当然になり、今、恥ずかしいと思っているようなことも、誰でもそうであることが解ってしまえば悩むこともない。
モラルも欲望も相対的に変わっていくから、今、そんなトンでもない事になっては困ると思っていることも、まったく困らない。

空中浮揚修行しなくても人類は空を飛んでいる。エスパーなどの特別な能力を持たなくても、そういう時代が可能になってきた。
人類は、今からその時代への心づもりを、積極的にしておく必要があるだろう。これもまた、人類の重大な進歩だ。

しかし、「読心機」より、モラルハザードのない「スーパー・バウリンガル」の方が先に生まれそうだ。


クーデター

2010年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

どの党でも、たいした変化は期待できないことがハッキリしてきた。
だから、民主党に味方するわけではない。
しかし、従来と比較しても、明らかに検察は意図的だ。

天王星は一周して、昭和初期と近いところに帰ってきた。
これは、正義感に燃える青年将校のクーデターだろう。
現代の軍閥と言われるこれまでの官僚の横暴は、その昔の、軍人の暴走と同じ仕組みだ。
銃声は聞こえないが、今回の権力の強行は、まさにクーデターだ。

おそらく『権力行使以外に方法がない、のっぴきならない事態だ』と思ったのだろう。
明治以後の国体思想と供に成長してきた官僚組織は、敗戦で死ぬことはなかった。
政治主導は良いとしても、国体の護持を揺るがす「暴挙」に、正義の鉄槌を下すべきだと「大儀」に火がついた。

国体思想派にとって、外国人参政権と天皇の政治利用は、超えてはならないルビコン川にちがいない。
その重大ボーダーを超えただけではなく、小沢の態度はあまりにも尊大だった。
『こんなヤツを生かしておいては国が滅ぶ』検察を動かしているのは、そんな、命がけの正義感ではなかろうか。

今回の事件。ロッキード事件などとは質が違う。
ロッキード事件が、酒気帯びスピード違反40キロオーバーの現行犯だとすれば、黄色信号で進入して赤になったような、信号無視疑惑だ。
自動車を運転していれば、万人がやりかねない軽薄違反だ。
こんな調子で政治家を全員洗い直せば、いったい何人の政治家が罪に問われることだろう。国会は学級閉鎖になる。

だから不問に付せというのではない。むしろ民主党は、鳩山や小沢のような、古風な政治家は切る方が身のため、国民のためだと思う。

しかし、検察を常に正義と考えて、容疑者を犯人と見てしまえば、
菅谷さんや、裁判前の自殺家族が何人も出るだろう。
検察は自らのパフォーマンスが、新政権の首を取ることになると、
十分に承知しているはずだ。
思わぬ展開に喜んで、検察の尻馬に乗って政権攻撃をする自民党は、自らの首を絞めていることに気づかないのだろうか。

誰の味方でもない歴史の傍観者として、昭和初期と重ねて見る今回の事件は、後の日本の重大な岐路になる恐怖を感じる。

歴史は繰り返すのか・・・
鍵は情報と報道であり、日本人の見識が問われている

「兵ニ告グ・・・国民ハ泣イテオルゾ」

そろそろだ


鼓缶而歌

2010年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

郊外の讃岐うどんのチェーン店が気に入って、よく食べに行く。
讃岐うどんチェーンは色々あるが、本格的にゆで上げている店は少ない。

今日もまた、車で行くと、隣の車から年寄りばかり3人出てきた。
70代の夫婦が、100歳前後のお爺さんをようやく車から連れ降ろすのを待って、こちらも車から降りて、後ろをついていった。

お爺さんはジャージに半オーバーを羽織って、帽子代わりだろうか、タオルで鉢巻きをしている。車を降りた時からおぼつかなく、あっちにヨロヨロ、こっちにグラリで、寒空のなかを懸命に女の人が支えている。

セルフで順番を待つ間、突然、お爺さんが口に手を当ててむせ始めた。
『あ、戻すのかな?』と思っていると、どうにか収まったらしく、待っていた店の人が「何になさいますか」とたずねる。

男の人は先に注文して進んでいるが、お爺さんを気遣っていた女の人は、慌てて「並み」と言う。「何ですか」と聞かれてまた、「並み」
2~3回「並み」と繰り返した後、店の人が勘で「かけですか?」
「ああ、かけ!かけ!」
その間、お爺さんは店の人の前の配膳カウンターで身体を支え、かじりつくようにして待っていた。

店の人が、ゆであげて並べたうどんを、ドンブリに入れ始めると、
突然、「一番、美味しいのにしてな」と、お爺さん。
店の人は、一瞬、驚いた後、「皆どれも美味しいのにしてますから」と笑いながら答えた。

あれだけ、ヨレヨレで、お荷物のように付いてきたお爺さんの、最初の一言が、お茶目な冗談だったのには、笑いをこらえ切れなかった。

<介護施設で働く介護士の人から聞いた話>
介護施設にいるお年寄りの、要介護レベルは様々で、おむつの必要な人や、必要ではないが念のため、着けてもらっている人もいる。

慢性的に人手のない施設では、自分でできることはなるべく自分でやってもらうようにしているが、どうしても介護士がおむつを替えなければならない人もいて、朝の一斉点検の時には大わらわになる。

ある朝、例のごとく汗だくで、順番におむつ替えをしていると、それを見ていた、おむつ替えの必要のないハズの木下さん(仮名)が、
「トシちゃん(仮名)僕のも替えて下さい」と言う。
「ええっ!木下さんは自分でできるやろ」と言うと、
「うん、ちょっと甘えてみた」と、ニコッと笑ったので、思わず、
「しょうがないなあ、今日だけやで」と、替えてあげたそうだ。

寿命が延びれば、あなたもわたしも、遠からず「高齢者」
年をとれば何事も思い通りに成らず、面白くないことばかりで、
思わず、グチや嫌みを言いたくなる。
でも、常にユーモアや冗談を言おうとする人は頭が活性化して、自分も楽しいし、周りを和ませ、結局、自分が得をする。

年寄りの処世術は「有り難う」より、ユーモアだ。
グチだらけの年寄りはもう治らないから、それを反面教師にして、若いうちから、ユーモアや冗談で、笑うことを心がけるのは、
もう一つの、老後保険ではあるまいか。

大歩危・小歩危


風まかせ

2010年01月24日 | 星の流れに

今の民主党は、「鳩山=水瓶座、小沢=双子座、菅=天秤座」と、
トップが三人とも見事に「風の星座」で固められている。
したがって、2009年、木星が風の水瓶に来て、政権交代爆発をした。

ところが、政権交代の直後から、土星が天秤座に入り、天秤座の菅が影を潜めたかと思ったら、今度は財務大臣(土星)を背負わされた。

それでもまだ、水瓶座と双子座には、土星は吉作用をしていた。
殊に、双子座の小沢にとっては木星、土星ともに吉角にあり、
中国に大使節団を送ったり、鳩山のふらつきで発言権が増したり、絶好調だったが、木星が水瓶座から、凶角の魚座に移った途端、一転、逆境に立たされた。

木星が去った水瓶座の鳩山も、離陸中の飛行機がガス欠になった。
木星エネルギーでどうにか浮かび上がったが、1万メートル上空より、離陸直後の150mの失速の方が危ない。
その上、アテにしていた小沢エンジンに検察カモメが飛び込んだのだ。
♪カ~モメ、カ~モメ・・・

警察や検察はサソリ座だから、木星が魚座に移れば、逆に絶好調。

がしかし、「木星魚座」で言ったように、今年はヤヤコシイ。先が読めない。虚実が解らない。
天王星、木星が牡羊座に入るとまた風向きが変わるが、それもまた逆転する。

ちなみに、木星が水瓶座に来ていた獅子座のオバマ大統領は、向こうから勝手に寄ってきていた人気が、木星とともに引き始めた。
その上、もちろん、アメリカは小沢と同じ、双子座だ


一即多・多即一

2010年01月23日 | 新鎖国論

近代国家は、産業革命パラダイムの基盤になってきた。
しかし、もはや、明らかに人類にとって弊害になりつつある。
国家間の調節をするはずの国連も、矛盾だらけで、国家連合、世界統一などの、役割を果たせないことが見えてきた。

もともと、権益のエゴのための国家が、和解し融合することなど大きな矛盾であり、初めから不可能なのだ。

先ず国家を解消しないかぎり、次の時代へは進めないが、現状を見れば、そんなことができるわけがない。
EUのように、近代国家を形成してきた国同士なら、利害を共にすることで統一が可能になるかも知れない。

しかし、アジアのように、いまだに「家」という血統主義のタテ型社会では、利害だけでは共存できない排他性がある。
大東亜共栄圏の発想も「世界は一家」であり、いずれかが、親であり、兄である、というタテ型の秩序意識が前提になっていた。

共産主義の看板を上げている中国でも、共産党が父であり兄であるという考え方は、帝政と何も変わらない。共産主義など、実はどうでも良くて、内に支配権、外に覇権の、タテ型構造さえ守られるなら、たちまち資本主義を取り入れる。

その単純で、露骨な雛形が北朝鮮だ。大国中国は自立するしかないが、北朝鮮は寄生とタカリで、氏族国家を維持している。大から小まで、アジアは頭が古代のままだ。

日本人は、日本は民主主義国家と信じているが、国の基本の戸籍も、完全な血統主義であり、やはりアジア頭であることはどうしようもない事実だ。何しろ戸籍そのものが、中国を見習った律令に根ざすものであり、千年以上も続けてきた。

こういう、アジアの氏族世界を統一するのは、強力な統治能力だと短絡するが、そんなことは不可能だし、互いに迷惑なことだ。

ここでまた持論だが、そんなにグループにこだわるなら、むしろ際限なく小さなグループに分けた方がいい。新鎖国論だ。

徹底したローカルは、グローバル化に直結する。(グローカル
情報化社会の発達により、地域は国家を必要としない。いきなり、世界に情報発信ができる時代だ。徹底した地域の充実こそが、世界レベルになれる。

治安と権力は地域で確立し、警察力も地域連合で考えればいい。これには例えば、西部開拓時代の保安官が参考になるかも知れない。
これまでの国家間の争いのようなものは、姉妹都市を強化した組織連携で複層的に繋がっておけば、利害や関係が複雑だから、いきなり集団がぶつかることはない。
近代国家連合の国連のような、国の寄り合いは、コツンと叩けばバラバラッと割れるが、小さな縒り合わせの塊は大崩がなく、どのような形にも収まる。

古代のポリス国家はそれぞれ軍隊を持っていたが、現在の近代国家が存在しているうちに、つまり、大きな治安に依存しながら、都市や地域、NGOなどの、人的経済的な関係を深め、警備会社を拡張した傭兵による軍隊を世界中に配備していく。
そして、いつの日か世界警察会社が、各国の軍隊を吸収する。

郵便局よりクロネコがアテになったように、警備会社が警察よりアテになる側面があることは、巨大警備会社が国軍解体を可能にすることが、まんざら不可能でもないことを暗示している。
これを強化させるためには、単なる会社ではなく、NGO軍の必要があるだろう。国境無き軍団のような。
国家戦争は反対でも世界警察は必要だ。


無礼者

2010年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

礼儀作法など、何も言われずに育ったことを親に感謝している。
箸には持ち方があると知って、親の持ち方を見たら二人ともちゃんときれいに持っていたが、一度も言われなかった。

人生に何が必要なのかは、自分が考えれば良いと、任された。
同時に、何が要らないのかも自分で考えてきた。
しかし、無駄は簡単に身に付くが、そぎ落とすことは容易ではない。

成長過程のつき合いの中で、酒やタバコは自然に身に付いた。
どちらも、とりたてて好きなものではなかったが、やらなければ「立場」がなかった。

酒など、美味いともここち良いとも思わないが、大酒を飲む方が大人の男らしい空気があって、酔わないで飲むために、トイレに行って戻して帰ってきてまた飲んだ。血まで吐いたこともある。
タバコも何も良いことがないのに習慣的なヘビースモーカーで、常時、二、三箱吸っていた。

しかし、ある時、ひどい二日酔いで、翌日、血反吐を吐きながら、考えた。「何のために酒を飲んでいるんだろう」

それで、酒を止めることにした。
少しでも飲んでしまうと、もう、自制が効かなくなることに気づいたので、始めから一切飲まないことにした。
友達に会ったら、「何をッ!、あんなに大酒飲んでいたくせに」と叱られたが、自分に妥協しないことにした。

タバコは嫌みを言われて、ばったり止めた。言った当人は今でも吸っている。
言いがかりであっても、おめおめ吸えば、それは弱みになる。
そちらも吸っているじゃないですかと言えば、喧嘩になる。
もともと、何の必要もないものだ。

二十代の頃は、腰まで届くほど長髪にして美容室専門だった。
ある日、前を歩く長髪の人の頭が、半分禿げているのを見て、『あそこまでして何のために長髪にするんだ』と思った。
そこで、ふと目覚めた。その足で理容室に行って切ってもらった。

40を過ぎた時。自分の頭は好きにさせてもらおう。誰にどう思われてもかまわない。そう思って、丸刈りにした。
この爽快感は、三日やったら止められない。

ズラ疑惑がどうのと言われながら、バーコードになりながら、懸命に頭髪にこだわるより、人間、考えることはハゲるほどある。
坊主頭にしたら、一切の気遣いが無くなり、心も爽快になった。

当時はまだ坊主が流行る前で、アブナイ人だと思われることが多かったが、一時は、流行の髪型にしていると思われたり、今はハゲ隠しだと思われている。
どう見られても、どう思われても結構だ。自分は自分だ。

しかし、それにしても、この爽快感を知らない人は気の毒だと思う。
洗髪も、クリクリ、シャーで、一発だ。服を着るまでに乾いてしまう。

女の人も、白髪染めをしたり薄毛に悩んだりするより、是非、そっくり丸刈りをお勧めしたい。気分に応じて好きなウイッグを使い分ける方が、オシャレの達人だと思うのだが・・・

悩むのもオシャレの楽しみというものかも知れない。


そろそろだ

2010年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

しかしまあ、何ですなあ・・・
政権を取り戻したい一念で、古典的な足払い攻撃をし掛けているのは政治家なのか、官僚の政権つぶしのクーデターか知りませんが、
世界が大嵐の時に、そんなことをしているヒマがあるんですかねえ。

もちろん、政権獲ったばかりのヨタヨタ与党も、やっぱり頭はコケだらけ、勝利原因は小沢の選挙手腕のおかげだと思っているようですが、国民をバカにするにもほどがあるんじゃないですか。
国民の選択なんですよ~う

自民の郵政大勝も、民主の政権交代も、政治テクだと思っているから、小泉や小沢を崇拝し、何でも大将に祭り上げ、小沢の首を取られたらやっていけないと、タヌキ寝入りの死んだふり。

国民に与えられたチャンスを大切にするなら、小沢仕分けでもサプライズ政策でも、国民が納得できることをスパーッとやらなきゃあ。次はござんせんよ~
自分らも予想外に政権を取って、どうして良いかわからなくなったら、とりあえず政権維持に欲が出た・・・
次はないと思ってやらなきゃあ。あ~あ、知らないよ~

これじゃあ、また、政権交代ですな・・・
と言っても、いまさら元の鞘にも収まれない。困ったもんです。

政権交代しても大して変わらんと解ったら、国民は路頭に迷うよなあ

ああ、心配だ、心配だ・・・
過激で解りやすいことを叫んで出てくる、無責任な笛吹男。
そろそろ、ぼちぼち出てくるぞ


追悼

2010年01月20日 | 占いばなし

急激な寒波の最中。阪神大震災追悼のこの17日に、往年の有名人が相次いで無くなった。
小林繁、浅川マキ、有名人ではないが火事で亡くなった桑田元投手の父は誕生日だった。

小林繁、浅川マキはどちらも急性の心臓疾患で、年寄りというにはまだ若い。
小林繁はサソリ座で、浅川マキは水瓶座。いずれも、木星が水瓶座に来ていたこの一年、がんばり過ぎていたのだろう。
水瓶座の木星が去る瞬間。月が水瓶座の日だった。

その上、急激の寒さも応えたのかも知れない。同じ日、60代の福井県の人が同級生の葬儀に帰ったら、別の同級生がさらに2人亡くなった。寒暖が応えるのは、絶対温度より落差だ。「虫人間

小林繁は鳥取県の出身だった。
鳥取県出身の戦後の野球選手と言えば、小林、角、川口、古くは野球留学の宮本などの他、目の出なかった選手も何人かいるが、戦前は別として、投手のみだ。

鳥取県は雪国で私学も少なく、甲子園参加校が最も少ない。滅多に甲子園からスカウトされることもないし、スカウトされた選手はほとんど芽が出ていない。
環境的に最低の県でありながら、結構、甲子園で勝ち進むことがあるから面白い。

鳥取県の高校が勝ち進む時は、相手がもの凄い強豪で、まったくナメてかかって自滅するケースか、たった一人の投手の力だ。

なお、鳥取県の名誉のために言っておくと、戦前の甲子園で初めての連続ホームランをたたき込んだのは、鳥取一中の横山保正であり、この時、ベスト4まで進んでいる。

甲子園での鳥取の野球を見ていると、申し訳ないが、頑張れベアーズのような微笑ましさがある。監督采配も素人だ。
だが、時々、とんでも無い投手が現れる。
マイナーチームに投手の換えはない。いつも一枚看板だ。

マウンドで孤高に投げ続け、三振の山を築いていく。
打たせて獲ることなど考えていない。チームメートなど信じていない。
自分一人で試合をしている。
事実また、見ていてもバックがまるでアテにならない。

想像できるだろうか、マウンドでバッターと向かい合った時、後ろに誰もいない。投げ込むキャッチャーも信用できない。サイン通りに投げ込まなければ暴投になる・・・

事実はそんなことはないのだが、どうも、そう考えて投げているとしか思えないような悲壮感が漂ってくるのだ。

昭和35年の選抜大会で、兵庫から来た宮本洋二郎投手を擁した米子東は優勝戦まで勝ち進んだが、サヨナラの一発に破れた。
米子駅に帰ってきた宮本は「申し訳ありません!」と、号泣した。
戦後、間もない、日本人がまだ日本人だった頃の話だ。

その後も鳥取のピッチャーは、いきなりプロには通用していない。
大学か社会人に行ってから、プロ入りして成功するのは、チームを信頼するということを知るからではないだろうか。

野茂も名門高校なら投手として成功していなかったかも知れないし、逆に、イチローも清原も無名校なら凡庸な投手で終わっていたかも知れない。

小林繁も社会人から巨人入りしているが、センセーショナルな事件で巨人、阪神の両エースを務めるなど、
いかにも派手な三碧の面目躍如で、少年野球チームの指導なども三碧の好むところだ。また、自動車人間ではエンジンであり、これも少年野球チームにピッタリだった。
同い年の三碧、河島英五も早世している。

ご冥福を祈りたい

P.S.(同日、TVタックルのナレーター郷里大輔も無くなっていた。やはり、1952年小林と同い年の三碧で、浅川マキと同じく水瓶座)


木星魚座

2010年01月19日 | 星の流れに

いよいよ、18日から木星が魚座に入った。
このまま一気に魚座を駆け抜け、6/6(6月6日)に牡羊座に入る。しかし、7/23、牡羊座の3゜で逆行を始め、9/9に再び魚座に逆入し、11/19、魚座の23゜から再び順行を始め、2011年1/23に本気で牡羊座に入る。ああ、ヤヤコシイ。

ヤヤコシさはこれだけではない。この間に、木・土・天王星が、合(0)や衝(180)を繰り返しながら星座を出入りする。列挙しようと拾ってみたが、煩雑すぎて無意味になるから割愛する。本当に、何と言うヤヤコシイ年なんだろう。

こういう年こそ、世相から一歩引いて眺める必要がある。
めまぐるしく変化する万華鏡のような景色に、踊らされてはいけない。
逆転、逆転また逆転。
政治も経済も、結果が出たと思う時には、次の逆転が待っている。
見た目の「だまし絵」にダマされてはいけない。何が虚で何が実か解らない。

遠目に眺めて関わらないか、
百も承知で鏡部屋に飛び込むか。
観ていても面白い年だが、腹を決めて飛び込めば、
芋洗い機の中で、現れたり消えたりする芋を掴めなくもない。
泥水の底に沈んで見えなかった芋が、現れるからだ。

株価も、乱高下してこそ儲けるチャンスがある。
人も仕事も、滅多に出会えないチャンスが、飛び回る。
固定概念で考える人はババを掴み、無心で考える人は大当たり。
もちろん、大当たりは宝くじ並みの確率だ。素人の世界ではない。

寅年も八白も惑星配置も、転換点を表している。
世界も巷も、涙と笑いと怒りと恐怖を運んでくる。
3Dジェットコースター2010
何があっても驚くな


日本犬

2010年01月18日 | 動物

犬は雑種か、日本犬がいい。
一度だけスピッツを飼ったことがあるが、とにかく鳴きまくる。庭から通りがかりの人に、のべつ幕無く吠えていたら、誰かに毒を盛られたらしく、雪の朝、庭を真っ赤に血に染めて死んでいた。

歴代の犬たちの中で、どうにも躾けられなかった犬で、キジも鳴かずば・・・と言うものの、かわいそうだった。

他の犬たちはほとんど雑種だったが、信じてもらえないような感動秘話を生んだ雑種もいれば、あちこちから、どうしても子供を欲しいと言われた柴系雑種の「偉犬」もいた。

洋犬派の人には申し訳ないが、犬を飼うなら、日本犬だと思う。
日本犬も作られた犬には違いないが、牧畜文化の中で作られた家畜と違い、人工といえども、盆栽のような日本の自然が生きている。

洋犬は人といるのが似合うが、日本犬は里山が似合う。
洋犬は愛玩にも、狩猟マシンにもなるが、日本犬は自立し、人と付き合う賢さと凛々しさがある。ことに柴犬は里山から出てきた狐や狸のような、微笑ましさや逞しさが、そして、少しの哀愁がある。

飼い犬というものは、飼う人の好みで改良されたり、選択的に生き残っていくものだから、犬と民族性は似てくる。

洋犬には自然さが無い。たくましい犬はたくましく、かわいい犬は異常にかわいい。中国犬もそうだが、多少、基準がずれている?!
洋犬好きの人は、愛玩にせよ番犬にせよ、犬を、基本的に人の意のままになるハズのもの、と考えてはいないだろうか。

日本犬に対する日本人の態度は、犬を自然物の一つと考えて、自立する生き物との「つき合い」と考えてきたような気がする。
同様に、雑種犬は人間の意志とは関係ない命を持っている。つまり、これも一つの自然物だ。
DNAの理屈で考えても、偏った血統種より雑種の方が強い命を持っているはずだ。

日本では、オオカミと犬が区別がつかなかったようで、日本オオカミが絶滅した後、野犬の群れがそれに代わったし、オオカミの剥製と言われていたものが、どうも日本犬ではないかと言われている。

日本人の犬に対する意識は、「コミュニティーの独立した一員」なのではなかろうか。桃太郎の家来にしてくれと、犬は猿やキジと同じように現れた。

木訥として、愛想はないが忠実な日本犬は、日本人の姿であり、
無愛想で自立した命は、適度に手を入れながら観察するには、盆栽のように面白い。

約束の(2)時代考証


スーパー様

2010年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

以前、スーパーのレジがどれも長蛇の列で、並んでいた。ふと後ろを見ると、前掛け姿の若い板前風の人が、醤油を一本持って並んでいる。自分の番が来たが、こちらの買い物もワゴン一杯だったので、目で合図して『どうぞ』と譲った。

少し、驚いた風だったが、レジをすませて、サッカー台のところまで行くと、クルッと振り向いて、はるか向こう端のレジまで届くような大きな声で
「ありがとうございましたぁ!」
と言って、最敬礼をして行った。

驚き、慌ててこちらも挨拶をしたが、かなり恥ずかしかった。
しかし、この若い衆と気持ちが、通じたような気がした。

スパー業界に言いたい
単品専用、または単品優先のレジを用意して欲しい
近頃、スーパーのセルフレジが普及して人気しているが、単品優先というわけではない。

スーパーは、単品ならコンビニで買えと言うかも知れないが、大型ワゴンでも、単品でも、単純に並ばせる無神経は、コンビニ普及以前からだ。

一度、大量の買い物をした後で、買い忘れに気づいても、もう一度大行列に並ぶことを考えると、大抵は止めてしまう。
店に来て、思わしい物がなくて単品になったら、混んでる時には全部止める場合もある。

スーパーにとって、単品客など一々相手にしていられないのかも知れないが、もしそうだとすれば、スーパーの驕りだ。
単品を買おうと思う時、スーパーに気楽に行けなければ、客を失う。
単品のつもりで行っても、アレコレ買うのが人情だ。

何も、単品専用レジを作る必要はない。
「単品優先レジ」として、「このレジは、2点以下のお客様を優先してお会計いたします」とでも表示すればいい。

この意見を、スーパーの「ご意見投書」に書こうかと思ったが、一つのスーパーに書いても無視される場合もあるし、店員の抜け駆けや、特定スーパーの差別化に利用されるかも知れないので、止めた。

スーパー業界に同時に訴えたいから、むしろ、ブログに書くことにしたのだが、こんなブログでも読んでもらえるんだろうか???