魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

時代の歩

2022年10月31日 | 結婚コン

コロナで外出が減れば、出生率が上がると思ったら、反対に落ちた。
人間の性欲というものは、多様な刺激と共にあるらしい。
同じ男女だけで常に同じ所に同居していると、繁殖欲がなくなるのかも知れない。
ものすごく仲が良い何時もベッタリの夫婦は、何故か子供縁が無いことが多い。
これは、男女の関係ではなく、母子の関係になっているせいだと思っていたが、コロナ現象では、さらに、同族婚の忌避感覚も加わったのではないかと思う。

浮気は罪悪とされるが、近年、性欲はDNAの多様な交配欲であることが解ってきたことで、始めから避けられない衝動と認識されるようになった。
長期同居する男女が性欲を持てるのは、浮気をしないまでも、外で他の異性を見ることで刺激を受け、性欲そのものがリフレッシュされるからかも知れない。
コロナで閉じ込められた夫婦が繁殖に励むどころか、DVや過食に走り、出生率が減少したことと、つじつまが合う。

昔の出生率の高さは、それだけ死亡率が高かったからだろう。
黄泉比良坂で、毎日1000人殺すと言うイザナミに、イザナギは1500人産むと応酬する。
多死多産は、古代の常識だが、現代人は簡単に死ななくなった上に、一生同じ異性と暮らす立前があるから、DNA配合の更新意欲を失う。しかもその相手と長時間閉じ込められたら、よほど、妄想力や好奇心がない限り、興味を失い、不満しか見えなくなる。
それでも、それが結婚という束縛のない相手なら、まだ自由な妄想の対象になるだろうが、「縛られている」相手と顔をつきあわせていれば、心理と物理の両面から呼吸困難になり、近寄ろうとも思わなくなるのだろう。

出生率に拘るのは、産業革命パラダイムの思考だが、どうしても人口を必要だと思うなら、婚姻制度の抜本的見直しが必要だ。
統一教会に洗脳されたような、因習的でイヤらしい純血主義を掲げ、夫婦別姓さえ拒みながら、一方で、子供を増やそうとする政治家の矛盾。
しかし、労働力を求める産業革命パラダイムこそが、氏族的大家族を解体し、女性を解放した250年だった。現行の婚姻常識は、さらにその前の時代の遺物であり、未来には害にこそなれ、何の足しにもならない。

復古より先取りが現実的
ポスト産業革命後は、既に始まっている。先ず真っ先に改めなければならないのは婚姻制度だ。
教育、労働、財産など、全てが婚姻制度に繋がっている。社会基盤を氏族や婚姻においた古代の発想が、今や完全に通用しなくなっている。
未来は、氏族や家族ではなく、個人が基盤になる。個人のネットワーク社会には、婚姻は必要ない。実際に、墓や葬式や結婚式は廃れつつある。
個人が属する社会システムが、国か世界かはこれからの問題だが、子供は夫婦で育てるのではなく、親と社会で育てるものになるだろう。ほんの1世紀前まで、子供は一族で育てるのが常識だった。
「イクメン」などという言葉はいかにも新しそうだが、婚姻と家族を大前提とする復古主義の宣伝であり、夫婦別姓などの個人への流れを封じ込めようとする、おそらくは無自覚な、進歩への抵抗だ。
今、進みつつある「来たるべき時代」を先取りするためには、今の常識は捨てて考えるしかない。


偽旗作戦

2022年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシアが、「ウクライナが汚い爆弾を使う可能性がある」と繰り返して吹聴し、国連安保理でもそう主張した。
しかし西側は、またロシアの常套手段の「偽旗作戦」だと、逆に非難している。
シリアの化学兵器もそうだったが、使った側が「使われた」と言うのは常識だ。
ロシアの場合、前もって複線を引いているのだが、あまりにも露骨で笑えてくる。
しかし、笑い事ではない。こういう「偽旗」を上げることは、それを実行する準備が終わったということだ。

10年前にもなるが、泥棒をするつもりの人間が、狙った物が「うちにあるのと同じだ!」と言っておいて盗む話をしたが、それと同じテクニックだ。
一、二度やったらバレるのに、平然と何度でもやるのは、証拠を出されても居直る自信があるからだ。
こんな見え見えの犯行でも、結局の所、力でしか解決が付かない。個人なら法的解決であり、国なら戦争だ。糺そうとする側も相当な被害を受ける。

もしウクライナで、「汚い爆弾」が使われたら、被害を受けるのはウクライナ人だ、それでもロシアは、いけしゃあしゃあと、ウクライナの犯行だと言うのだろう。
中国も同じぐらい厚顔だが、ズルさにおいてはロシアにはかなわないし、横暴なアメリカでももう少し可愛げがある。もっとも、ロシアの猿芝居はお笑いのネタにはなる。
お笑いネタと言えば、統一教会やオーム真理教の記者会見も、「誰でも解るウソ」の可笑しさでは、一級品だ。

 

ところで、ロシアの「偽旗作戦」は、むしろ西側の認識を逆手に取って停戦交渉に引き込む脅しだと言われている。であるなら、お笑いセンスでは、ロシアもなかなか隅に置けない。


どんだけ

2022年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

統一教会(事実上)が、選挙応援をする自民党の候補者に対し、推薦確認書にサインさせていた。
これを問題視するメディアに対し、勅使河原某は「何か問題ありますか」と逆に問うた。
おっしゃる通り!全く、何も問題ない。候補者は意見を同じくする賛同者の支援を受けて選挙活動をする。候補者は支援者の代弁者だ。
つまり、統一教会の支援を受けて当選した自民党議員は、統一教会の代弁者であり、自民党に統一教会の代表がいるに過ぎない。
自民党は様々な意見を持った、実に懐の深い党・・・いや、日本の政治は懐が深い。

政治信条を国政に反映させる方法は色々ある。仲間を募り政党を立ち上げ立候補して代議士になる。その仲間になって応援する。代議士に献金の形で応援する・・・
当然、布教を信条とする多くの宗教団体は政治参加を試みる。成功したグループもあれば、失敗した腹いせに、テロを起こしたグループもある。これは、いずれも日本で起こり、日本に拠点を置く宗教だ。しかし、統一教会はれっきとした韓国発祥で、韓国に拠点を置く宗教だ。しかも、日本人は韓国に償うことでしか救われないと言う教理まで含んでいる。
そんな宗教団体は、日本で政党を立ち上げることはできないが、政治家と同化することで、政党を立ち上げるより効率良く、目的を果たすことができると踏んだのだろう。
少なくとも、政治家と交わることで政治家を広告塔にすることには成功したようだ。

日本人からすればとんでも宗教の統一教会だが、東海大の韓国人教授は、韓国での統一教会の位置は、宗教と言うより一つのビジネスモデルと考えられていると言っていた。つまり、日本人から朝鮮併合の贖罪と称して金を稼ぐのは、ビジネスと理解されていると言うわけだ。
日本から資金を吸い上げることに成功している団体なら、分野に関係なく一つの成功ビジネスモデルだと受け止める韓国では、慰安婦や徴用工支援団体は一体、何モデルなのだろう。そして、彼らは何業なのだろう。
今、世間では、一度、詐欺に引っかかった人の「引っかかりやすい人リスト」が出回り、次から次に詐欺師が押しかける。しかも実際、また引っかかる。
日本人は懐が深いのか、「いいひと」なのか「××」なのか・・・


外来宗教

2022年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

ゴッホの『ひまわり』に、環境団体の若者がトマトケチャップを掛けたそうだ。
どうひねって考えても関連性が解らない。インパクトだけの目的で、有名なものが選ばれたのだろうか。
環境問題に黙っていられない若者の気持ちは良く解る。
将来を案ずる若者にもいろいろあるから、環境問題の研究に黙々と打ち込む人もいるだろうし、静かな政治運動を始める人もいるだろう。
また、環境に良くない生活を断つ人も増えている。確かに、小さなことからコツコツと、「意識高い系」を積み重ねていけば、環境は変わるかも知れない。しかし、これもまた、宗教のようなものにすぐ変質する。

知ることと信じることの狭間
宗教の弊害はいつの時代もなくならない。宗教というものは、こうした環境問題でも表れるように、発端は、知的な理解だが、それを聴いた人が情念で受け止め、情念で行動を起こせば宗教になる。
情念が求めるのは知性とは逆の、短絡的な結果だから、それを実現する資金を要し、最終的な発露は暴力になる。世界の宗教が戦争を起こし、財を集めるのは、知性のない物理的解決に向かう場合だ。ことに一神教は、囚われ人のユダヤ教から始まった、集団の障害を打破する宗教だったことは否めない。
これに対し、お坊っちゃまの釈迦が始めた仏教は、個々の人を救う素朴な知恵だった。

この原点の性質は、どこまで行っても残り、一神教に秘めた指向性と、仏教の無指向性に表れる。
仏教も一神教も、長い時間と広がりの中で様々な文化の影響を受けて、おそらく元の姿とは全く違っているだろう。仏教にも僧兵や一向一揆などの暴力があるが、宗教同士が衝突する、十字軍や中東の興亡とは全く次元が異なる。
長い歴史の多様な形を集約した、最大公約数的なエッセンスを俯瞰すると、それぞれの原点が垣間見えてくる。

イスラム教のハラールや、日本の肉食禁止などは、元は過剰を戒めただけの話が、「ケースバイケース」を切り捨て単純化し、狂信化したものだろう。
近年、欧米から始まった、ベジタリアンやヴィーガンなども、宗教的狂信の萌芽であり、若者の環境運動も情念だけが先行して、狂信化すればケチャップ掛けになる。
心の救済、安寧を求める柔軟な智恵が、箇条書きの教理となり宗教となると、他の考えを受け付けなくなり、教理の実現を求め布教や蓄財が始まり、政治や力に変質する。
それがさらに過激化すると、いわゆる原理主義や、カルトになる。そして、その方式を利用して、宗教を語る悪徳ビジネスまで現れる。

日本は日本教の世界
日本は無宗教の国だと言われ、宗教に対するアレルギーのようなものもある。しかし、実は、これ自体が宗教と言える。
他の神を否定する一神教は、他の教理に拒否感を持つので、あえて寛容として受け入れる。ユダヤの神からだんだん神の概念が広がり、イスラム教に至っては、神は唯一のハズだから異教徒が信じているのも同じ神のハズで、信仰していれば仏教徒さえも仲間と考える(そうではないというのが原理主義)。
いずれにしても、他の宗教を拒否する一神教世界で、何とか共存しようとして生まれた「信教の自由」の考えが、戦後日本に唐突に持ち込まれた。

ところが、一神教のような根深い対立がない日本では、意味が解らないから、アンタッチャブルになってしまった。その結果、信教とカルトの識別ができない。できないまま「信教の自由」が一人歩きしている。
日本は八百万の神の国に、無神の仏教が合体した、一神教とは真逆の言わば、始めから信教の自由な世界だ。
日本人が宗教と聞いただけで拒否感を持つのは、一神教の宗教概念がないからで、一つの神(原理)を信じることに嫌悪感を抱く。つまり、裏を返せば日本人は、そういう逆の宗教、日本教の信心世界にいる。
日本人が「宗教」に拒否感があるのは、宗教という言葉が欧米の一神教を翻訳した言葉で良く理解できず、加えて、明治以降に現れたカルト集団が全て新興「宗教」と呼ばれたことにより、いかがわしいものとして刻み込まれたからだろう。

仏教世界の日本では、人間を神の創造した所有物とは考えず、人は自ら神の「ような」存在、仏を目指して修養するものと考える。一神教で人を縛っているのは神だが、日本では、人は人によって縛られている。どちらが、より束縛的であるかは考え方一つだろう。
ただ、日本人がカルトや、宗教を語る詐欺師に騙されないためにも、日本人自身がどういう宗教世界にいるかを自覚することと、一神教の神と人間の関係を知る必要はあるだろう。これを知らずにいると、八百万の神である先祖やタタリを口実に、騙されてしまうことになる。


交通の命 2

2022年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

山手線運行の無人化が進んでいる。将来の人手不足に備え、段階的に進めているそうだ。
これは必然の流れだ。昔は、バスに車掌、エレベーターにエレベーターガールがいたし、エスカレーターの前には必ず係が立っていた。今の人には、滑稽かも知れない。
技術が進み人が慣れると要らなくなるものでも、それが無くなる時には抵抗を感じる人がいる。しかし、公共交通機関は、可能なら人手によらない方がいい。山手線も新幹線もエレベーターやエスカレーターの一種なのだ。

この感覚は、日本人の共同文化の方が馴染みやすいかも知れない。公共交通の先輩である欧米人は、船や飛行機を動かす人に拘る。船旅で船長が挨拶に回ったり、飛行機の機長が挨拶をするのは欧米のヒロイズムだ。シベリア鉄道に乗った時、キャプテン(機関手?)が挨拶に来たのには、昔の日本人としては驚かされた。
鉄道大国の日本人にとって、鉄道は既にエレベーター同様になっていたからだ。
今は逆に、長距離バスの運転手も挨拶するが、これは欧米式の再輸入だろう。

公共交通が無人化すれば、今よりはマニアが減るかも知れない。エレベーター・オタクが滅多にいないのは、建物に同化され人の関与が見えないからだろう。
鉄道が社会のエレベーターになれば、もっと物流の方に目が行く。
戦後の鉄道は、自動車通勤や長距離トラックによって在来線の需要が減り、田舎暮らしは自動車だけに頼り、末端のローカル線から徐々に消えて行った。
しかし、家を出てから目的地まで、エレベーターを利用するように移動できるなら、長い時間を運転して通勤する人はいなくなり、貨物列車とローカル配送が切れ目なく繋がるなら、長距離トラックは要らなくなる。自動車社会は、その発展過程で自動車だけしか考えて来なかった。

今や、エコと労働力、そして大きな経済効果の観点から、自動車一辺倒を見直す時が来ている。
もし、ガソリン1リッターが一万円なら、今のような乗り方をするだろうか。排気ガスより現実的な問題が、化石燃料の枯渇であり、電気自動車とて発電は無限ではない。
目先の利便性のためにエネルギーを無駄遣いするのではなく、より良い社会のためにエネルギーの使い方を考え、効率の良いシステムを先に考える。そういう時代への転換が始まっている。

今すぐできること
貨物列車と地域配送の一元化や、水素エンジン、燃料電池車や電気飛行船、ハイブリッド帆船など、技術開発が進めば可能なことは多いが、今このままでもできることは、ルールの変更だ。
自転車と乗れる鉄道は、ルールだけでできる。無論、専用車両があればなお良いが。
廃線や減便で廃れる一方のローカル線は、地方の生活環境から考えるべきで、鉄道より広いエリアに住む住人の利便を考えれば、「駅に行くまで、駅を降りてから」を切れ目なくすることが最重要で、人と自転車・バイクを同時に運べば。家や学校・職場、買い物のエリアが一つのビルの中のようになる。駅まで繋ぐバスを増やすより簡単だ。

また、利用人口が大きな都市では、鉄道のホームとバス停を一つにして欲しい。海外では昔からそうなっているところがある。これも鉄道に対する認識の違いだろう。鉄道の相互乗り入れが進んでいるが、IC化が進めば、バス乗り換えも改札など要らないはずだ。
一方、廃線になってまだ線路があるなら、工事点検用のカートのようなものを利用させて欲しい。廃線になって困る、たった一人の高校生の話など、レールの上を走る自転車やバイクは無いものかと思う。使えるのであれば、利用の知恵や事故対策の知恵はいくらでもある。


交通の命 1

2022年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

鉄道150年で、様々な鉄道番組を放送している。
鉄オタでも何でもないが、文明の観点から鉄道には関心がある。
中東横断やシベリア鉄道、アメリカ横断バス、ユーレイル、いずれも長期の日数を要する乗り物に乗ったが、嬉しくはなかった。元来、どんな乗り物にもあまり興味はない。
子供の頃、盛んに模型作りをしたが、動かして遊びたかったからで、工作そのものが好きだったわけではない。だから、プラモデルは作ったことがない。
それと同じで、鉄道そのものに対する興味も皆無と言っても良いかもしれない。関心は交通機器そのものではなく、それによって何が実現するかに関心がある。

ことあるごとに、飛行船や鉄道の話をするのは、それがエコであり、社会経済を豊かにすると思うからで、ツェッペリンがカッコ良いわけでも、蒸気機関車の迫力に心奪われるからでもない。
ところが、日本の交通機関はマニアによって支えられ、それが結果的に非効率となり、壮大な無駄と不便を生んでいる。

鉄道と共に発展した戦前の日本は、あれだけ多くの鉄道を生みながら、戦後のアメリカ化による自動車立国で、鉄道の墓場を作った。今や全国のローカル線は事実上壊滅している。
戦後は、自動車で世界制覇をしたといってもいい日本だが、その自動車も、環境とエネルギー問題から、崖っぷちに立たされている。
交通機関は、金儲けのためでもなく、マニアの楽しみのためでもない。文明を支えるインフラだ。機器への愛着や金儲けは派生問題であり、先ずはいかに効率良く利用するかだ。

贔屓の引き倒し
自動車のサブスク化で、ようやく、乗り物本来の機能が目覚めてきた。ところが、鉄道は、未だに愛着を原点に開発されている。
半世紀かけて開発したリニアモーターカーだが、現実は無用の長物になってしまった。
戦前の鉄道社会が残る中で生まれた新幹線は、まさに夢の実現だったが、現代ではそれだけのスピードで人が大量移動するニーズが無くなってきた。どうしても急ぐ人には飛行機があるし、今後は空飛ぶ自動車も増える。連絡や会議はテレワークで事足りる。
現実的な経済効果を考えた時、リニアモーターカーは費用対効果が合わなくなる。
それでも、鉄道会社がリニアに拘るのは、半世紀の夢と情念を捨てられないからだ。
日本人は、飛行機時代に戦艦大和を建造した海軍と同じことをしている。まして、東京ー名古屋-大阪以外に駅を作るなら、何のための建設かと涙が出る。リニア唯一の意味は、東西の直結だ。名古屋さえ邪魔になる。

こんなことを繰り返すのは、日本人が採算より思い入れに拘る職人だからだ。前にも話したが、マンガの『ふくちゃん』が潮干狩りで、小さな貝を見つけ「小っちゃい!」比べをしているうちに潮が満ち、みんなが大きな袋をしょって引き上げる時には何も収穫が無かった。日本人はそういう意味での童心なのかも知れない。

全く新しい物流社会へ
乗り物は未来社会から考えるもので、愛着や思い入れで運行されるべきではない。
ローカル線は郷愁でもお荷物でもない。新しいビジョンさえあれば宝になる。物流の人手不足も、今ある自動車と鉄道の使い方一つで解決する。
鉄道を新社会の素材と考えれば、ローカル線のお別れの日だけ賑わうような、交通機関への感傷的な見方はしないだろう。
日本人は機関車や鉄道を、一つの人格と考えるから、解体再利用より、惜しみながら死なせることを選ぶ。戦艦大和は結局、特攻で死なせた。


きび団子

2022年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム

確か、小学校の時、日本は三権分立だと習った。語呂が良いのか「司法、立法、行政」と憶えている。内容は「グー、チョキ、パー」みたいなものだなあと思った。劣等生だったので、それ以上学ぶ気はなかった。中学でも高校でも、適当に聞き流していた。だから、どうも、よく解っていないようだ。

このところ、政治家が、統一教会との関係が有ったとか無かったとか、これからは付き合わないとか、何のための話か、劣等生には良く解らないもめ事が続いている。

政府によると、活動できなくなった統一教会の名称変更が認可されたのは、法律に基づいた手続きだったので、問題なく受け付けたそうだ。これは行政の話だと思う。
統一教会は多額献金などで多くの違法判決を受け、その違法体質は歴然としている。これは司法の仕事だろう。

ところが、政治家は、付き合っていないとか、今後付き合わないとか、ひたすら言い訳に明け暮れる。これはたしか立法府の話だったはずだ。
付き合わない理由は、旧統一教会の評判が悪いからだという。
行政は法に従って名称変更を認可し、司法は法の精神に従って判決を出した。
ところが、立法府では印象が悪いとか好ましくないとか言うばかりで、何の仕事もしない。

社会に問題をまき散らし、その違法性が司法で認定された団体に、「社会的問題が指摘される」ので近づきませんと、言い訳をするばかりで、自分たちの仕事であるはずの、社会に害毒をもたらす存在を排除する法律作りに、一向に動かない。
こんな「国会議員」とは、いったい、何者だろうか!?
議員とは、社会を良くするためのルール作りを仕事とする国民の代行者であって、人気や評判を気にするタレントではない。学校ではそう習ったと思っていた。

♪桃太郎さん桃太郎さん
しかし、ただただ議員になるために、「社会的問題が指摘される」団体に選挙応援をして貰い、お金まで払って「教え」を拝聴に行き。それが明るみに出ると、悪い人「らしい」からもう付き合いませんと言って、何もしない。
これは、お爺さんとお婆さんに「ガンバレ」ときび団子を貰って送り出されながら、鬼にきび団子を与えて、家来にしたつもりで、鬼ヶ島で婿入りした桃太郎だ。鬼退治などできるはずがない。鬼退治どころか、すみませんねえ、うちの鬼が迷惑をかけて、「鬼に怪我させられた人、おけが治します」と救済所の旗を揚げる。
一方では、国民というお爺さんお婆さんに「選挙にきび団子を持ってくる人が少ないので、もっと出かけましょう」とテレビで、きび団子率をどうすれば上げられるかと真面目な顔で議論する。

それでも、まだ、中露北と国難の時に鬼ヶ島の話などしている時か!と、桃太郎に期待する人たちがいるが、国難ならなおさら、鬼ヶ島の桃太郎に頼るわけにはいかないではないか。
もはや、お爺さんお婆さん自ら鉢巻きをして出陣する時だ。足腰立たなくても経験がなくても、ここはまだ鬼ヶ島ではない・・・そう祈る


戦争の罪

2022年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシアで、プーチンが予備役動員の大統領令をだすと、国民がウクライナ侵攻を自分の問題として捉え始め、各地で反戦デモが起こり、国外逃亡を図る多くの男性が国境に向かった。これは、ベトナム戦争当時のアメリカと同じだ。
アメリカは、ロシアをソ連時代の全体主義イメージだけで敵視し、NATOを拡大し、プーチンを疎外し続けた。無論、KGB上がりのプーチンは今回のように、ソ連時代の手法しか知らないから、チェチェン同様、周辺国へも強圧的な手段を執り続けてきた。
しかし、今回見るように、ロシアの体制には自由がある。ロシアはソ連ではない。まして中国でもない。

もし、同じように、中国で台湾侵攻のようなことが起こった時、多くの反戦デモや国外逃亡者が出るだろうか。そういう動きがあったとしても、徹底的に押さえるだろう。天安門、香港の中国は、今のミャンマー、昔のカンボジャにも見る、野蛮の総本山だ。
もしかすれば、マヤ、アステカなどに通ずる、モンゴリアンの残虐体質なのかも知れない。
そう思いたくなる中華圏だが、アウシュビッツなどを考えれば、民族や人種は関係ない。全体主義やカルトのようなシステムや空気ゆえに起こる問題であり、中国の政治体制にあることを物語っている。

だが、中国共産党はこの体制を「民主主義」だと言う。吹き出してしまうほどの強弁だが、選挙による民主主義では理解できない、空気による民主主義を言いたいのだろう。
帝政は、それを支える民衆を完全に無視すると倒れる。民主主義では選挙に現れるが、帝政では権力側が民意との「兼ね合い」を測る、それが中国共産党の言う「民主主義」だ。
これが中国の「民主主義」なら、西洋医学と東洋医学、デジタルとアナログの違いのようなもので、一面の共通性は無くもない。

この「中国の民主主義」と比べれば、プーチンがどうであれ、ロシアは西洋側だ。
もし、欧米がNATOのようなあからさまな脅迫を控え、ロシアと対等な経済、文化の交流を積極的に行っていれば、果たしてプーチンの権力はここまで盤石になっただろうか。
欧米が続けてきたNATOの脅迫と、資源国に対する植民地的な経済蔑視は、ソ連、大ロシアのプライドを傷つけ、欧米に怒るプーチンを支持する動きになったのではないか。
この点、中国は欧米の経済蔑視を逆手に取る伝統的したたかさを持っていたが、田舎者のロシア人はそれだけ素朴なイワンだということだ。

どんな理由があったとしてもロシアの侵攻は罪だが、「泥棒にも三分の理」を知る日本人が、正義のウクライナ、悪のロシアと割り切ってみるとしたら、日本文化や武士道など語ることはできないのではなかろうか。終戦当時、日本もソ連軍にひどい目に遭わされた。しかし、そのソ連軍の中にウクライナ人はいなかったのだろうか。
どんな戦争にも一方的な正義など無い。始まってしまえば聖人君子はいなくなる。例え防衛戦であっても、そこに至るまでに知恵は出尽くしていただろうか。いかなる戦争も、戦争そのものが悪であり、それを止めようとする努力だけが正義だ。