魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

振る舞い

2009年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

マイケル・ジャクソンの突然の死が、北朝鮮の核実験と同じぐらいの扱いで報道されている。マスコミとはこんなものだ。

マイケル・ジャクソンの世代ではないので、そう実感はない。
むしろ、生き様に痛々しさを感じていたので、空しさがある。
元々、どんな死についても、あまり衝撃を受けない・・・
と言えば、冷たいやつだと言う人もいるだろうが、人の痛みは互いにわからないものだ。

死は生の裏返しだから、誰もが、死を見て生を再確認する。
誰かが死んだ時、あるいは死んでから、その人の生がどれほどのものだったのかが解ってくる。
決して、葬儀の盛大さや、参列者の数のことではない。

個人的にも社会的にも、その人のいた空間がポッカリと浮かび上がる。その空間の大きさは、人それぞれの立ち位置で違ってくる。
ある人には大きく、ある人には小さい。そしてまた、ある人にはまったく見えない。

見えない人。自分でその意味を考えられない人ほど、死について大騒ぎをする。
死でなくても、何事においても実感のない人ほど仰々しく騒ぎ立てる。
裸の王様の衣装に「すばらしい!」と大声を上げるような人は、どこにでもいる。
これは意識してではなく、考える習慣がないから、「行為」でしか感じられないからだ。

誰かが死んだと聞くと、現場に駆けつけ、泣き叫び、弔いの場で大層に振る舞い。時には、誰かに当たり散らしてトラブルをつくる。
そして、悲しみで言葉も失った人に対し、涙も流さない冷たいヤツと罵倒し、比較して自分こそが、一番悲しんでいる人間であると納得する。

挙げ句の果てに、近親縁故の場合、その証として、財産や地位の相続を多く受けようとする。あるいは実際に、いつの間にか受けている。
有名人の場合などで言えば、いつの間にか一番親しかった人間として墓守のようにTV出演している。
悪意はないのだろう。そういうやり方でしか実感できない人なのだ。

変な人
親が死んでも泣かず、友の葬式にも行かない。そういう人が時々いる。
中には、自分の葬式も止めてくれと言い残す人もいる。
多くの人は、「変わりモンだ」「人間味のないやつだ」と言うだろう。
確かに、人間が人並みにすることをしないのだから、人間味がないと言えばその通りだ。

しかし、感受性や正直さにおいて、人並み外れて人間性のある人ではなかろうか。

人の営みに疑問を持ち、生きることに苦しみ、人が普通に習い覚えて振る舞うようにできない人が、ついには居直って、自分に忠実に生きるようになった人。
受け入れられない出来事を、深く考え悩み、自分なりにしか答えを出せない人・・・

「世間」という俗世の人は、こういう人を「変人」と呼んで嫌う。
集団と同じように反応しない存在は、危険な異物だからだ。


政治家太平記

2009年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

映画、社長太平記シリーズが面白いのは、経済復興の大波に乗った日本人の楽観と幸せがあふれていたからだ。
大して難しいことを考えなくても、何でもうまくいって、誰もがそれぞれ有能だと思えた時代だ。
日本の政治家も役人も、あの時代のままでいる。

東国原知事が衆院選出馬要請を受けて、自分を総裁として戦う気があるかと言ったことが話題になっている。
真意がどうであれ、氏がリーダーに向く器とは思わない。

しかし、東国原氏を、お笑い芸人風情が何を言うか、と決めつけて見る政治家は、初めから志の卑しい政治家だ。
既存の権威にどっぷり浸って、時代がわかっていない。
お笑いではないが、レーガン大統領はちゃんと大統領の仕事をこなし、冷戦まで終わらせた。

元が何だったのかは重要ではない。何ができるかが重要なのだ。
そういう観点で、東国原氏については生き様を見る限り、やはり、リーダーはこなせない。口は流暢だが、言っていることは、状況便乗の後追いで、ビジョンと信念が見えない。

ちゃんと知事をやっているではないか。と、言われるかも知れないが、現在の都道府県知事の立場は、基本的に管理職だ。
制限の中でしか動けないし、そのことに文句を言っている首長達が、実際にリーダーの権限を与えられて、どこまでやれるかは定かではない。ビジョンや責任意識を試されたことはないからだ。
管理職には、切れ者もいれば宴会係もいる。

だが、それでもなお
東国原氏の「気持ち」は良く理解できる。
ニッポンを「どげんかせんといかん」だ。しかし、「こげんせんといかん」ではないところがミソだ。

この事態に平行して、首長の会が国政にもの申そうという動きが出ている。政党の地方分権への姿勢で、支持を打ち出すと、政党に圧力をかけている。このあたりが、やっぱり、管理職の意識だ。
あれこれ言っても、我が身の安全を図り、役員に期待する課長達だ。

何で「連邦推進党」を結成して、地域組織を結集する反乱を起こそうとしないのだろう。もし連邦制ができれば、霞ヶ関を完全解体できる。

何でだろう???
頭が悪いから、ワカンな~い 曾

★★★
今、これを書いている最中に、大阪の橋下知事が新党を結成すると言い出し、他の首長が「あせるな」と押さえている、との記事が出た。
やっぱり維新は若さがなければできない。


好奇心が好き

2009年06月25日 | 占いばなし

占いの立場で考えれば、基本的に血液型の性格はあっても良いと思っているし、やっぱりあると思う。
ただ、何でもかんでも一つの分類で見るのは、占いであっても「大間違い」だ。
さまざまな条件が重なって人格はできあがる。

また、血液型の「今日の占い」などあり得ない。兄弟関係による今日の占いなど無いのと同じように、性格や気質と「運の波」とは関係ない。
運と性格が関係あるのは、性格そのものが運命的に定められていると考える運命論の場合だ。
血液型のような科学の成果が、気質分類の「可能性」を持つとしても、運命まで発展させるのはお門違いだ。しかも、科学の立場は血液型気質を否定している。
仮に、科学と運命論がどこかで繋がっているとしても、いきなり、それを語るような地平ではない。

しかし、「今日の血液型占い」が全く不可能かと言えば、そうでもない。
易やタロットのような「卜占」は、あらゆる事象をもとに占うから、血液型別に、卦を立てたりすれば、とりあえず答えは出る。
でも、それなら何も、血液型である必要も無いことになる。
血液型「OO型さんの今日の占い」など、単なる受け狙いのお遊びだ。
占いがお遊びであっても良いのだが、プロなら「まじめにやれ」。

どんなことでもそうだが、一つの要因だけで成り立っていることなど無い。これを忘れると、すべての原因はそれであり、結果も必ず同じになると考えてしまう。

逆に、それが原因となることは100%無いと決めつけるのも同じ思考だ。占いや血液型を否定する立場の説明を聞いていても、初めから否定ありきで、もしかしてあるとすれば、と言った解明意欲は見られない。
こうなると信条の問題になってくる。

事故や生活習慣病など、ある結果の血液型分類に偏りがないから、性格に血液型は関係ない。というのが、否定ありきなら、
その原因別はどうなのか、状態別にはどうなのか、と飽くなき追求をするのは、「もしかしたら」を追求する、素直な好奇心だ。


ウンの話

2009年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

ウンを付けるウンを落とす
よく冗談で、勝負の前に緊張してトイレに行くと、ウンを付けてきたとか、ウンを落としたとか言う。本当はどっちだろう。

「下の話」は、人間に絶対必要なことなのに、避けたがる。
人間臭い関西では、その人間臭さをカバーするために、過剰な儀礼と思惑が炊き込められ、なおさら臭くなっている。

泌尿器の病気の話をする人が、
一々、「えらい、尾籠な話ですが」「えらい、尾籠な話ですが」と機関銃のように繰り返すので、何の話なのかサッパリ解らない。
要約すれば30秒とかからない話を、理解するまでに20分ぐらいかかった。

この逆に、関西といえば「えげつない」の印象もあって、ことさらに、ドギつく、デフォルメして話をする。
「こらっ! 犬のクソ始末せんかい。玄関にババたれたろか」
どちらも、歴史と文化の関西ならではの、奥深さなのだろう。

関西と関東の語彙の量は、関西の方が倍ほど多い、という昔の研究があったが、新語の多い今の東京圏ではどうだろう。
仮に新語が増えて、流入者が多く住むとしても、生活に根ざす言葉は案外、変わっていないような気がする。

関東は、「えらい、尾籠な話ですが」のような、緩衝やカモフラージュを好まない。
しかし、ビジネス社会の東京語は、単語と論理を盛り上げてカモフラージュする。関西人が聞くと、「ゴッツ頭が良さそう」に聞こえるが、言葉が流暢なほど中身が無く、関西人の「しぶとさ」には、かなわない。しかも、この「しぶとい」は、関西の中でも特に、京都の代名詞のようにいわれている。

で、その、尾籠な話ですが
いまでは、和式トイレさえ使えない子が多い。
「しゃがむ」のは、排便の基本姿勢で、これができないと生き抜けない。
子供の時、友達と山に入ったら、「ウンコしたい」と言いだしたので、人や動物が来ないか見張り役になり、友達は藪でウンコを始めた。
紙もないので、柔らかめの葉っぱを使って済ませたが、その間、「臭いか、ゴメン」「ウン」と、話しながら見張っていた。臭かった。
しかし、こういう臭い中で友情は深まる。

しゃがめないで、修学旅行のお風呂に水着を持って行くような、無菌室の子供達はどう生き抜くのだろう。冷房で発汗腺も少なくなっていると聞くが。


センス

2009年06月23日 | 星の流れに

公正取引委員会がセブン-イレブン・ジャパンに、売れ残り弁当の値引き販売制限に、排除措置命令を出した。

セブンイレブンの正体とは何なのか、経緯が複雑でとらえどころがないが、一言で言えばコンビニの代表だ。

コンビニは、業態も呼び名も「かに座」だ。かに座と言えば中国でもある。
コンビニは成長に成長を重ね、酒屋も米屋もたばこ屋も八百屋も、ぜ~んぶ、同じ看板になってしまった。
そしてついには昨年、百貨店売り上げを超えたそうだ。

今回のセブンへの公取委命令は、一つのピークの折り返しを象徴するものであり、同時に、新しい出発にもなるのだろう。
セブン-イレブン・ジャパンの始まりは1973年の丑年で、木星が水瓶だったが、一号店オープンは、翌年の寅年、木星が魚座にいた。
今年も丑年、木星水瓶座だ。

「7」は魚座。名前は「11」や「i」がつくが、象徴的なのは「7」の方だろう。好調を続けてきた魚座に、末期症状が出ていることは色々とあるが、これなどもその一つと言える。

ただ、セブンイレブンがつぶれるのではなく、これまでのやり方が通用しなくなるという点で、むしろ大きな改革が始まる。

化石燃料からの脱却という、パラダイムの大転換と重なり、自動車流通システムを軸とする、緻密なセブンイレブン方式も、行き詰まりが表面化した・・・ということだろう。

これは単に、セブンイレブンや、コンビニ業界だけの問題ではなく、生産と対をなす、流通全体の転換点、ターニングポイントだ。
当然、市民生活も大きく変わっていく。

一つの現象には、複雑な事情が絡み合っているように、星の配置も複雑に絡み合っている。木星だけでも、天王星だけでもない。
しかし、次に起こることの目安を付けるには、大周期の惑星は役に立つ。

エネルギー転換は冥王星の250年目。時代別の流行や政治経済は天王星の84年目。世相の類似性は木星と土星がつくる60年の干支。
今は昭和初期であり、終戦直後でもある。
蟹工船や太宰治が流行り、ルンペンや闇市が流行る。

戦後と今の人心の類似性がわかる人は、時代を読むセンスがある。
例えば、コンビニは配給所で、ユニクロはモンペと国民服だ。
では、闇市は・・・?


7は魚座だが、9は牡羊座とサソリ座。セブンイレブンは7+11→9:牡羊座の動きとも考えられる


和心

2009年06月21日 | 京都&ケンミン文化

6月21日。京都烏丸地下鉄四条駅の出口にあるたばこ屋に車が突っ込んだ。8人のけが人が出て、運転していた64歳は「運転していたことさえ記憶にない」というから、何らかの病気なのだろう。
関係者全員が災難だ。

テレビのニュースを、「もしかしたら」と思いながら見ていると、出てきた! 画面いっぱいに、あのオッちゃんが映っている。
「棚やらライターやらメチャクチャや!」

実は、東京と関西の、街意識の違いについて、何度か書こうとして、このオッちゃんの例を書いたが、話がまとまらないので、上げないでいた。
一言で言えば、東京は洋式のマナーで、一歩家を出れば西洋式の公の街だが、関西、特に京都は和式の街で、着物空間が広がっている。
着物は洋服のような形がない。ひも一本、布一枚で形が出来る。
風呂敷はバッグと違い、自在にどんな物でも包めてしまう。

日本の伝統文化が、どっしり息づいている関西には、例え洋服を着て外車に乗っていても、このしなやかな和心がある。
空襲を受けていない京都の中心部など、幹線の大通りの隣は、およそ車には向かない、路地、小路でできていて、昔ながらの生活が息づいている。

京都生まれの人が書いていたのだが、家から出ても我が町の意識で、家の中の格好のまま出て行くことが気にならない。

多少時代がずれるから、今もそうかはわからないが、日本全国、ほんの少し前までみなそうだったことは「日本埋没3」でも書いた。
そうは言っても、昔の首都であった京都は、昔式の都会人のおしゃれ感覚は今も確実にある。
ことに女の人は、流行を「型通り」にスキなく着る。全体に、A型あるいはAB型のスマートなファッションを好む。
男は・・・? なぜか、思い浮かばない。

しかし、いくらファッションにうるさい京都人でも、靴にはかなり無頓着だ。東京は広いこともあるが、洋式の街であり、履き倒れというようにファッションは靴からはいる。
関西人が近所に出る時は、靴はあり合わせだが、東京人は一歩家を出る時には、コンビニでも靴を決める。
ただ、ジャージが流行りだした頃から多少、変わっているようだ。

東京が関西化し、関西が東京化する中で、今では見られなくなった光景を時々見る。
それが、例の災難のオッちゃんだ。

タバコや自動販売機を並べて商うオッちゃんは、夏の真昼、短パン一枚で自動販売機を詰め、ホースで水をまきながら掃除をしている。
地下鉄四条の出口と言えば、京都の都心だから。短パンは目立つ。
10年ほど前。初めてみた時には感動した。

このオッちゃんの若い頃は、おそらく街中がそういう景色だったはずだ。東京も大阪も戦前の写真を見ると大差ない。
京都の最大の価値は、空襲を受けない古都が、生活ごと残ったことだろう。


想像力

2009年06月20日 | 占いばなし

「滅せぬ者の(3)」 補足
仮説とデータを同じ扱いにすれば、どんな結論でも導ける。
これは科学ではない。占いや物語の世界だ。

占いと物語は、同じ能力を必要とする。
知識と想像を組み合わせて、一つのまとまった世界を描き出す。
現実の世界から考えると、荒唐無稽、デタラメの世界だ。
では、何のために、そんなデタラメが必要なのだろう。

それは、今、生きている現実の世界を理解するためだ。
仮想現実に照らして、今生きていることの意味を知り、これからどう生きるかを考えるためにある。
鏡を見て自分を知るが、鏡は本当の自分ではない。

小説は「もしも・・・なら」
占いは「もしかすると・・・かも」
歴史小説は「もしも・・・だったら」「もしかして・・・だったかも」
いずれもありそうだが、現実には存在しない、想像の別世界であることを、普通の人ならわかっている。

しかし、歴史は「存在したはず」の現実だ。歴史に想像は許されない。
一方で、「歴史は一つではない」とも言うように、事実の受け止め方はさまざまだ。だからこそ、一点の想像も許されない。
事実の認定に、「どうせ」や「に、決まっている」と、「想像の事実」を加えれば、それは物語だ。どんなに楽しい話でも歴史ではない。

小説と占い
占いは「将来起こる現実」という、リアリティがあることになっている。逆に、小説はあくまでフィクションということになっている。
しかし、これは、どちらかと言えば逆だ。

占いは後に現実に照らし合わせ、「当たった、外れた」と判断し、占い師の問題や責任にすることができる。いずれ現実が現れる。
小説はウソだと解っているのだから、面白くなくても、小説家をウソつきだとは非難できない。物語の世界が消されることはない。

占いは自分や自分に関わる話であって、自分のための特別な物語への欲求だ。これに対し、小説は他人の話だが、他人を自分に引き当てて読み、現実に縛られないまま、自分の世界が広がっていく。
小説は様々な解釈で、多くの人の中に生き続け、その結果、個人や社会に与える影響は、占いの比ではない。

小説は初めから仮想だからペテン師とは見られないが、占いは未来の現実について語るから、「当たらぬも八卦」で、ペテン師とされる。
今ここにない事を語るのは、実は小説も占いも同じなのだが、占いを「当たる」現実と信じる錯覚が、「当たらぬ」を作り出し、占いをペテンにする。

占いが小説の地位に近づこうとするなら、むしろ、
「fortune telling 幸せ語り」に徹した方が良いのかも知れない。


滅せぬ者の(3)

2009年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

好き嫌いは適当にしておかなければ、相手の思うツボにハマってしまう。

嫌なヤツ、腹の立つヤツ・・・には、理由がある。
しかし、間違いやすいのは
「こうだから嫌い」なのか、「嫌いな理由はこうだ」なのか、だ。

嫌いになると、論理人間は理由を探す。そして、「そうだ、ここが嫌いなのだ!」と、後付で、納得してしまう。
嫌なことを仕掛ける相手は、適当なところでそれを取り除き、
「おや、案外良いところがあるジャン」と、好感に逆転させる。

しかも、仕掛る側は天性の感情人間だから、それを意識しないでしている。

天性の色事師や、魔性の女と言われるタイプは、意識的でも作為的でもない。本人自身が生来、利己的な感情で生きている。

北朝鮮の瀬戸際外交に、世界中が振り回され、貢がされているのは、よく見れば、すべて、「扇情」によってだ。
人道や人権と言う先進国の論理は、北朝鮮にしてみれば、格好の刺激のツボでしかない。痛いほど良く効く。

北朝鮮とは同民族、と自負する韓国の主要輸出品は、工業よりむしろ、新興宗教や歌手、韓流ドラマで、これは、まさにオリジナルの特産品だ。そして、これこそが天性の、扇情能力だろう。
(なお、ギャンブルも、論理ではない)

近年、北朝鮮に対する憎悪や恐怖、韓国に対する嫌悪が広がっている。
しかし、あまり本気にならない方が良さそうだ。
文化全体にしみこんだ情念は、天性の能力だ。とてもかなうものではない。反応すれば、思うツボにハマってしまう。

あらゆるスポーツで見せる「嫌み」は、意図しているものでは無かろうが、それ故に、自然に巻き込まれてしまう。

スポーツぐらいなら笑い話だが、産業や外交で巻き込まれるわけにはいかない。相手の特質を良く理解し、同次元で応対しない方がいい。

同次元でとりあうのは、決して誠意や優しさではない。相手が自分と同じだと決めつける、「おごり」なのだ。
単純に拒否するのも無思慮なら、わけ知りで、積極的に受け入れようとすることも、また、礼節を欠いた態度だ。
大切なのは多様性の尊重なのだから。

2009年、NHKは日本と朝鮮半島2000年史を、シリーズ化している。
わけ知りのNHKがどこまでやれるか、興味深く観ているが、
古代史の双方の言い分を、日本側が、気をつかって息を詰まらせながら話し、韓国側の言い分はそのまま忠実に放送している。

韓国側の言い分、言い方、論理の奇天烈*さもそのままなので、現在までの所、良くやっていると言えるのではなかろうか。
もっとも、対論方式なので、作為を挟む余地はないのだろうが、これからも徹頭徹尾、両論を並べるだけで、面白いものになると思うのだが、どこまでやれるものやら・・・近代になるにしたがい難しくなるだろう。

*仮説とデータを同じ扱いにすれば、どんな結論でも導ける。


滅せぬ者の(2)

2009年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム

素人は偽者にダマされるが、
落語「こんにゃく問答」*のように、専門家が素人にダマされることもある。

専門家が素人にダマされるのは、専門分野にハマッてしまっているからだ。なんでも自分の関心事で考えるから、現象の背景にある、別の魂胆や事情に目がいかない。
また、データが半端だと、修復して完璧にしたくなる。自分はそれを良く知っている、理解力があると思うからだ。

専門家ではないが、宗教マニアのオウム信者達が、麻原彰晃に納得したのも同じで、中途半端な宗教論だったからハマッた。麻原が障害者であったことも、信者をさらに熱狂させた。

自分が完璧だと思っている人は、偏狭や無理解になりたくない。
理屈に合わないことは修復し、違和感のあることは積極的に受け入れようとする。

歴史上、異形の聖人や英雄は多い。一つには、異形には特別な能力があるのでは、という思いが働くから、普通の英雄より印象に残る。
子供や憑依の言葉を尊重することも同じだ。

大統領選中に、オバマが支持されるのは黒人だからだ。と言った人が非難された。たてまえ上、口にしてはいけない核心だった。
そして、そうかどうか確かに、熱狂的な異常人気にはなっている。

わけ知りで、違和感を積極的に受け入れたい気持ちが働くことに加えて、もう一つの理由として・・・
拒否感が、絶対的な好感や従属に転ずる、という法則もある。

「嫌いは好きの裏返し」
「あんな人、大嫌い」と言うのは、それだけ関心があると言うことで、しばらくして会ったら、その嫌いな人と結婚していたというサプライズは珍しいことではない。

仮に関心が無かったとしても、
嫌な印象は、関心を呼び起こし、意識がそこに集中してしまう。
そうした強い嫌悪感は、チョットしたきっかけで反作用を起こす。
柔道などの技で、押してから引くと、簡単に前にのめる。
抵抗する意識を利用して、相手の方から転がり込ませる。

子供が、好きな子に意地悪をするのは、こうした原理が無自覚に働いているのかも知れない。
「嫌われてなんぼ」は、お笑い芸の一つでもある。

そして、このまた逆に、ものすごい好きだったものは、突然、大嫌いにもなる。

何事も、好き嫌いは、ほどほどにしておく方が良さそうだ。

*こんにゃく問答
禅寺の留守番をしたこんにゃく屋が、問答の勝負に来た僧に、こんにゃく話を身振りで対応。僧は禅の話と理解して降参する。


滅せぬ者の(1)

2009年06月11日 | 占いばなし

「このままでは命がなくなる」と、統一教会系の印鑑屋が、高額印鑑を売りつけて捜査が入った。

「例の」悪徳商法だ。しかし、このニュースだけ聞くと、何が悪いのか解らない。
「このままでは命がなくなる」のは、誰でも100%、その通りだから、別に、嘘をついているわけではない。

だから、何でそんなことで騙されるんだろう?と、疑問の方が先に立つ・・・はずなのだが、
これまた、ニュースを聞く方も、死の当然を忘れて、「またか、けしからん!」となってしまう。

ニュースの様々な仕掛けで、そう思うように出来ている。
統一協会、占い、高額印鑑・・・悪印象の三点セットに、警察の捜査となると、自動的に、「けしからん!」となる。
ニュースを聞いた時。死の事実にうっかり気づかない素直な人は、被害者になる可能性がある。

だんだん、ニュースの詳細が明らかになってきた。
街頭で「姓名判断をしてあげましょう」と声を掛け、
不幸続きの被害者に
「今は運命の曲がり角で、このままでは身内もあなたも命が危ない。これを避けるために、先祖供養と改印をしなければ・・・」と
一本、40万円の印鑑3本売りつけた。(印鑑の相場は1~3万円)

こういう事件が起こるたびに、いつでも感心するのは、いかにも占い師の言いそうな言葉を、うまく活用していることだ。
占いだけではない、医療、健康に絡んだ詐欺やカルトも、素人が聞けば、専門家の言葉と同じに聞こえることを、実に巧みに語る。

それは、このペテン師自身が素人だから、専門家以上に素人を納得させられる、逆説的真理があるからだ。
本当のスペシャリストは、その知識やワザだけに関心を持っているから、その身なり態度は一向に「らしくない」。

ところが、中途半端な専門家や、ペテン師は、いかにもそれらしい身なり態度でいる。他人にそう思ってもらいたいからだ。
他人にそう思って貰うことで、飯を食っていることは共通している。

本物を理解しない人間は、本物の態度や言葉など、表に現れたところだけに着目し、正確に模倣する。あるいは特徴を強調する。
物まね芸人のおもしろさは、「同じ」ではなく、「そっくり」であることだ。本物よりどぎつい方が面白い。

今回の印鑑商法にせよ、占い師なら言わない「先祖供養」や「改印」など、話がエスカレートしている。
どぎつい方が、つまりウソの方が、より信用されやすく、聞く方も、例えウソでも「自分だけ特別な利益」を求めている。
そういう人がダマされる。

運の悪い時は誰でもある。占いが役に立つとすれば、運命を知り、耐えて待つこと、最悪の事態を避けることなど、人生を学び、次のチャンスに羽ばたく用意をすることだ。
占いは、狼狽しないためにあるので、狼狽させるためにあるのではない。


時の記念日

2009年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム

そう言えば、今日は時の記念日だ。
天智天皇が水時計を造って、鐘が鳴った日なのだそうだ。
明日香は好きでよく行く。何にもないところなのに、地名を見ただけで萬葉時代にタイムスリップできる。

明日香村の水時計遺跡が発見された、昭和56年は、木星→サソリ座の年で、地下からいろんな物が出る年だ。

しかし実は、それ以前に、天王星→サソリ座にいたので、むしろ、その名残の発掘だ。
天王星→サソリ座の、1970年代後半は、始皇帝の兵馬俑や、太安万侶の墓誌など、大発見が続き、発掘が熱気を帯びていた。その勢いで出てきた結果とも言える。

天王星がサソリ座に入る前の、天秤座時代には高松塚の壁画が発見され、美術性に注目を浴びたが、サソリ座時代にはいると、墓誌や死後の世界など、「死」そのものが注目を浴びた。

水時計遺構の発見は、天王星→射手座時代だったので、天智天皇(智)が話題になり、水時計遺構が実は、天文観測所であったという展開になった。

同じ物であっても、時代の関心が、天王星に影響される様を見ていると、世間を騒がす事件の、問題の核心は、世間で思っていることとは別の所にあるのではないかと、いつも思ってしまう。

時の記念日はどうも、あまり好きではない。
小学校の頃、学校がやたら近かったので、いつも、鐘の音を聞いてから家を出て、遅刻王になった。
そのクセが身に付いて、とうとう生涯、遅刻人間になってしまった。


宇宙の違い

2009年06月09日 | 占いばなし

木星→水瓶座。飛行機は落ちるし、クレーンもまた落ちた。鉄板が倒れたり、石川県ではオタマジャクシまで落ちてきたらしい。
立ち消えになったはずの新鋭戦闘機「F22」(=4)も再燃。
村上春樹1Q84=1984=4
ダービーはロジユニヴァース。

宇宙は射手座と水瓶座だが、もともとは、射手座の「遙かなるもの」と、水瓶座の「神の領域」の違いがある。

天王星→射手座時代に、やたら流行ったのは「コスモ」や「コスモス」。この言葉を冠した社名や組織名がどっと現れて、消えた。
天王星→射手座は1981~87年だが、カール・セーガンの「COSMOS」の初回放送は1980年で、以来、大ブームになった。
1980年は当然、既に射手座の影響が始まっていた。
(911が魚座時代の始まりだったように)

宇宙を表す英語には「universe、cosmos、space」などがある。日本語にも「天、宇宙、空」など、色々あって、それぞれ微妙に意味合いが違う。もちろん言葉の生い立ちからきている。
「天にまします神様」とは言うが「宇宙にまします」とは言わない。
「天飛行士」は絶対におかしいが、天体観測と宇宙観測の差違は難しい。

まして英語のニュアンスなど、ネイティブでもない者には、さらさら解らない。
しかし、あえてこじつけ、現象の観察から考えると、
どうも、「cosmos」は射手座で、「universe」は水瓶座の方だ。

「cosmosは調和、秩序」で、「universeは統合、一体化」の意味合いがある。
cosmosが人間の考えを差し挟む余地のない「秩序」なのに対し、universeは、様々なものが寄り集まって一つになる「渾然一体」を表している。つまり、カオスだ。

この違いは、いかにも射手座と水瓶座の違いと言える。
射手座が、自分のオリジナリティーより、完成された神の世界に「憧れる」のに対し、水瓶座は、自分を神の領域に入れている。

水瓶座は自分を含む、あらゆるものが「参加者」だ。この意味において、神をも恐れない。神たろうとする人間主義を尊重する。

射手座と水瓶座のこの違いは、現象においても、
例えば、飛行機が射手座にとって「遙かなところ」への移動手段であるのに対し、水瓶座にとっては、人間の手で神の定めを超えて「空を飛ぶ」向上心の象徴だ。だから、ダイダロスの翼のように「落ちる」宿命を抱えている。

花のコスモスも、昔流行ったコスモポリタンも「cosmos」への憧れからきている。ミレニアムの21世紀は、人類が「universe」の一員として生きていく自覚が必要なのだろう。


何のために

2009年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

W杯ウズベキスタン戦。悪条件の中、堂々たる勝利だ。
それにしても、「アウェーの洗礼」は、極端すぎて笑ってしまった。
よくあることながら、中立国のはずの審判が、あれだけ露骨な判定をするのは、「何らかのバック」に対する意思表示だ。
『言われた通り、ちゃんと、真面目にやってますよ~』と、
15人目のプレーヤーにアピールしている。
(12人目ゴールバー、13人目サポーター、14人目審判)

金なのか権力なのか情なのか、何の力が働いているのか解らない。
どこの力が働いているのかも解らない。地元なのか組織なのか国なのか。
ウズベキスタンに勝たせたいのか、日本を勝たせたくないのか。
どちらかと言えば、意外と、日本を勝たせたくない意志のようなものを感じた。
日本が勝てば、世界一番乗りの勲章がつく。
そうはさせたくない、子供のような負けず嫌いの感情で、金を持っている勢力

ウズベキスタンが、いくら勝ちたいとはいえ、審判を操作しようと思うほどの作為と金があるとは思えないし、勝敗率から見て、そこまでする展望もなさそうだ。

ウズベキスタンは独裁国ではあるが、全方位外交で、得する相手なら誰とでも付き合っているようだ。
近年、鉱物資源が注目され、各国の争奪戦の舞台にもなっている。

そんな国に、さも仲間のような顔をして、ご機嫌取りに、「おたくのサッカー勝利に協力しましょう」と、悪知恵とお金を出す企業がいてもおかしくはない。

審判は同じイスラム国のシリア人。イスラム教徒には、国が違っても家族の意識があるから、元々、味方の気持ちが無くはない。
そこに、一生安泰な金を積まれたら、審判を首になろうが、「コロブ」に決まっている。
企業にすれば、日頃の賄賂と比べれば屁にもならない金だ。

スポーツは代理戦争と言われるが
国の威信より、金が絡んでいる。経済効果や利権の側面で見れば、戦争そのものとも言える。

日露戦争で、勝てないはずの日本がロシアに勝ったのは、日本軍に訓練された優秀な兵隊、優秀な指揮官がいた・・・だけではない。
金と技術を導入し、欧米世論という副審を味方に付け、アメリカの笛が吹かれたから、どうにかドローで、勝ち点1をもぎ取った。

そうした環境的な「コートの外の戦い」に勝ったことを、選手が勘違いして暴走したのが、その後の軍国日本だ。

戦争は生存競争の総力戦であって。戦場だけが目的ではない。
同様に、スポーツも競技場の外の戦いが本当の戦争だ。
サッカーを始め、どのスポーツも経済効果を目的にしている。
誘致して儲けようとする者があれば、競らせて利権で稼ごうとする興行師がいる。興行を盛り上げるためには、確かに、試合に勝つことも必要だ。

興行師の都合で、ルールー変更する事など利権の基本テクニックだ。
今回もワケのわからない理由で、世界新の水着が閉め出されそうだ。


詐欺も色々

2009年06月07日 | 占いばなし

6日のニュースで、みずほ銀行の元調査役が、一般には販売してない高利回りの米国債があると、客をだまして金をせしめていた。
この経緯を聞きながら『こりゃ、七赤だな』と思っていたら、52歳と表示された。今年の誕生日が既に来ているなら、昭和32年生まれの七赤だ。

九星の犯罪の中で、詐欺が多いのは一白、三碧、七赤だが、
先日の「情は仇なす(後)」でも、一白が周到でマニアックな性格だと言ったように、一白の詐欺には、だまされたことさえ気づかないような周到さがある。

一方、詐欺劇場とも言える、三碧の詐欺は、計画性のない、寸借詐欺や釣り銭詐欺のような「口先詐欺」で、大して悪意はなく、自分が被害者でなければ、笑ってしまう。

ところが、七赤の詐欺は、一白のように深刻ではないが、詐欺を自覚して詐欺をする。
口先でもなければ、練りに練った陰謀でもない。
意図してやるけれど根性はないから、さまざまな道具を使って「だまそう」とする。
みずほ銀行の事件も、肩書きや偽造証文を使った経緯が、いかにも七赤っぽい。

三碧が情報世界に生きていて、言葉遊びの犯罪をするのに対し、一白は人の心や情に入り込んだ犯罪をたくらむ。

七赤は社会性でもなければ人の情でもない、個人主義の本音で生きている。他人を当てにしない代わりに、他人にも本音を出さない。
もの言えば唇寒し、と思っているから、口先だけ表面だけ調子よく合わせる。その表面のつじつま合わせが、詐欺の小道具だ。

七赤だろうと思った理由はもう一つ、去年発覚した事件だからだ。
去年は一白の年で、麻雀で言う「147のスジ目」の人。つまり、一白、四緑、七赤の人は要注意年だ。
それが今年になって逮捕ニュースになるのは、多分に野邑と言う姓が影響している。野村や野邑は水瓶座だ。

九星と犯罪


知の壺

2009年06月06日 | 占いばなし

さっきのTVで、インタビューを受けた人が「シモビになってきた」
と答える画面の下には「下火になってきた」と表示されていた。

先日、PCショップで、部品が使用可能かどうか尋ねたら、
「一応、ボンヨウに使えるものですが」と言うので、それを買った後、
言おうか言うまいか、悩んだ末、やっぱり、引き返して

「あの、個人的な話で気を悪くしないで下さいね」と言って、「さっき、ボンヨウとおっしゃっていたのはこれですか?」と携帯で「汎用」を見せたら、「そうです」と言うので、「これならハンヨウです」と言って、あわてて立ち去った。

どっかで恥をかくより、年寄りに言われた方がましだろうと、かなり勇気を出して言ったものの、相手の気持ちを思うと、
「いや、私も昔、間違えたことがあるんですよ」などと、持って回ったことを言うのもイヤだったので、よけいなことは言わずに帰った。

麻生総理が「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだことを、長子現象として話したが、近頃は、一人っ子時代で、独学をする人が増えた。
みぞうゆうとゆうと
何でもマニュアル学習をして、ベッドのテクニックまで、AV通りにやろうとする人が多いらしい。
滑稽というか、情けないというか、なんとも嘆かわしい。

しかし、勉強しないよりは、よほど立派であることには違いない。
知の理解と吸収を、本やディスプレーに向かって、黙々と一人で学んでいる姿を思うと、ほほえましくもあるが、何となくかわいそうでもある。

仲間が集まって議論を交わしながら、学ぶような所では、切磋琢磨のうちに自然に解消される誤認が、独学では、そのままになってしまう。
だからと言って、言い間違いをバカにする気にはなれない。
自分も、読み方より内容の方が大切だと思っている人間だからだ。

また、多くの人間の切磋琢磨の中で学ぶと、言葉や知識に幅が出る。
小難しい話に冗談を交えて話すと、「くだらない冗談は止めろ」と言う人がいるが、こういうことでも、知識硬直のレベルがはかれる。

読み間違いぐらいはどうでも良いことだが、
認識違いは、何としても修正しなければ、学ぶことがかえって害になる。
まったく同じ知識に対しても、真反対に理解することは常に起こる。
これを修正するのが、事実、現実との摺り合わせだ。
知識学習の目的は、現実への対応なのだから、あくまで、現実がどうなっているかが優先する。

占いでも
占いの本を読んで、この星の人は・・・と、おぼえる前に、実際、この人はどんな人だろうと観察することが重要だ。