魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

渡来勢力

2022年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

どこかの企業の社長が、NHKのアナウンサーはほとんど韓国系だと言って物議を醸したが、この時の騒ぎで不可解なのは、言ったこと自体が問題にされ、本当にそうかどうかを検証する前に、話が立ち消えになったことだった。
仮に韓国系だったとしても、それ自体何も問題ないはずで、発言自体を頭から「悪」のように取り上げることの方が、おかしな話だ。

どこの企業でもそうだが、先輩社員は後輩を優遇する。NHKは昔は早稲田閥と言われていたが、今は東大を始めとする国立系が多い。東大嫌いがNHKのアナウンサーはほとんど東大だと言ったとしたら問題になるのだろうか。そうではないと反証すれば良いだけだ。未だに件の社長のいわゆる「ヘイト」発言には根拠がないという反証は見かけない。
発言自体を問題にするのは、言論封殺だ。様々な意見に対し、別の意見を主張するのではなく、言った人の言い方や状況を持ち出して、言葉の価値を貶め、「足を引っ張る」だけの言論攻撃がまかり通っている。

もともと、貶めることに効果があるのは、メンツを重んじる中華圏の発想で、根拠や論理より力や情緒で状況が動く、原始的な世界だからだ。
もちろん、欧米でもスキャンダル合戦のような貶め合いがあるが、スキャンダルの実態を証明することが伴う。ところが、東洋での貶めは、空気作りや強権利用で、検証は関係ない。空気や力が強ければ、多数が忖度して趨勢が一方に流れる。中国の街頭インタビューなどが典型例だ。

ヘイトスピーチ規制法は一見、世界の趨勢に則った公正な法律に見えるが、世界の趨勢の基本は人種問題であって、民族や国家は副次的だ。日本のこの法律が何から何を守ろうとしているのか不可解だったが、公明党と統一教会漬けの自民党の連立政権で成立したことを想起すれば納得する。野党は言うに及ばない。
日本は今、1500年前数世紀の日本成立前夜の大混乱の様相を呈しているようで、古代史ファンとしては面白くて仕方がない。

選挙投票率を上げても、選択対象は皆、渡来勢力の息がかかっている。在来勢には候補を立てる意識もビジョンもない。在来企業は衰退の一途、若者は「コワいコワい」と、矢面に立つことを恐れ、渡海して学ぶ気もない。かと言って、自給自足、孤高自立の意思もなく、世界遺産だノーベル賞だと他者のお墨付きを請い焦がれ自慢する。
一方で、渡来勢の意識は日本のみならず世界に向かっている。世界中に進出してネットワークを広げ、それを力にしている。
このままでは、そのうち国譲りが行われ、そしてまた、新しい神話のもとに2000年の歩みを始めるのだろう・・・か。


後門の申 2

2022年07月29日 | 占いばなし

「後門の申」を上げた直後に、テレビにディーンフジオカが映って、『この人、名前が思い出せないあの女優の男バージョンだなあ』と思った。福岡出身のモデルということは憶えていたので、検索した結果、吉瀬美智子と判明。スッキリした。
学生の頃、集まって飲んでいるときに、マイナーな俳優の名前を思い出せなくて二人で一晩中悩んでいる奴がいた。今なら、即座に解決する。便利な時代になった。

吉瀬美智子を見ると、2月17日生まれ。一方、ディーンフジオカは8月19日生まれ。
これが、まさに「後門の申」で、今上げたばかりの真反対に位置する人だ。真反対の中にある同一性とはこのことだ。二人の占い上のタイプも何から何まで真反対だが、見た目に共通性を感じる。常人離れした透明感のような雰囲気で、同類では石田ゆり子などもそうだが、パッと吉瀬美智子が思い浮かんだのは、やはり何か、言語を超えた共通点があるのだろう。しいて言語化を試みれば、「捨て身の自我」のようなものだ。

ところで前回、「前門の虎後門の狼」から、「前門のコロナ後門のサル痘」と書いたのだが、今と星の配置が同じ幕末明治にコレラが大流行して、「虎列刺」と当て字され、巷では「コロリ(と死ぬ)」と呼ばれた。コレラとコロナは全く桁違いの病気だが、世相史的には社会に与えるインパクトの面で、再来と言える。
だから、もし、コロナに漢字を当てるとすれば、先ず、「虎」でなければならないから、さしずめ「虎狼哪」というところなので、前門の虎をコロナにした。「虎狼哪」なら既に狼も含んでいるので、後門に狼はいない。


後門の申

2022年07月28日 | 占いばなし

日本でも「サル痘!」と、新ネタで、またメディアは大はしゃぎだが、全然種類も違う感染症であり、宝くじより当たらない。宝くじの当たる確率がどんなに低くても、人は信じて買うのだから、同じように現実的な恐怖を感じるのかも知れない。

毎年なぜか、その年の十二支が話題になることは、何度か書いたが、今年はトラ年で、サルは関係ないように見える。しかし、これは占い的には非常に関係がある。
十二支も十二星座も円形に配置し、その180゜に位置する星同士が、裏と表の関係として同一の性質を持っている。干支では「対冲」と言い、占星術では「Opposition」(主に惑星角)と言う。
寅の対冲は申で、星座では魚座と乙女座の関係になる。この状態は両者の影響が最高に達するので、通常はあまり良いことは起こらない。

十二支で寅の年に、申の現象が起こるのは、寅の影が映っているだけで、コロナに比べ、サル痘にさしたる実態は無い。前門のコロナ後門のサル痘というわけではない。
しかし、占星術の場合は、惑星が実際に来て作動する星座現象だから、具体的な影響、現象が現れる。
昨年から木星が魚座、牡羊座を行き来しているので、乙女座、天秤座の人や国が興奮する。昨年は乙女座の医療界が興奮し、今年から天秤座の社交外交が忙しくなる。ただしその前に、本体の魚座の薬事が拡大したし、牡羊座では軍事が勃発した。

土星、海王星など、それぞれこの事象が起こっているが、世相に最もインパクトがある天王星が牡牛座に入っているので、喉の病気にびっくりした世界だが、影響を受けたサソリ座も大興奮している。
サソリ座の事象は死と再生で相続やセックスを表し、警察や銀行、不動産など「権益の証拠や保守」も意味する。セックスも他者の証拠(DNA)の受渡し行為だ。朝鮮半島がサソリ座なのは、大陸と海洋の受渡し(通過)点に当たるからだろう。

近年、韓国の芸能が人気したり、文在寅政権のような突飛な行動が起こったりするのも、牡牛座の天王星の影響と考えられる。サソリ座は元々、他者を前提とする存在なので、他者中の他者である180゜牡牛座の影響は少なくない。しかも、それがハプニングの天王星だから、思いがけないことが連続する。
ちなみに、天秤座日本の180゜に天王星が来た時は、民主党政権で東日本大震災が起こり、一方で日本は評価されることも多く、予測不能の時代だった。


有り難い 2

2022年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

秦の始皇帝は、全ての力を手に入れると、寿命も征服できると考えたのだろう、不老不死の薬で詐欺師にひっかかった。ただ、徐福が帰らないうちに死んだ始皇帝は、不老不死を信じていただろう。「嘘はバレなければロマン」の始まりだ。

王や皇帝は、世にある全てを手に入れたいと願い、人に命じて探させたり、作らせたりする。力なき庶民には手に入らない物を独占するのが権力者だ。
ただ、権力とは文字通り、集団の総力、あるいは無自覚な総意に代わって行使する力だから、頂点の人間が様々な珍しい物を独占して手に入れ享受するのは、どんな葛藤軋轢があったにしても、それは、その集団の総意の成果であり、権力者はその体験の代理人だ。
一人の人間では決して出来ないことを集団の力で実現する、それが社会的動物と言われる人間の進歩であり、暗黙のワンフォーオール、オールフォーワン・・・だった。

ところが、職人の手によってしか作れない希少なものが、産業革命の大量生産によって、隅々まで行き渡り、あげくは、魔法の絨毯で空を飛び、「開けゴマ!」で扉が開く、夢の千一夜の世界が実現した。
産業革命は権力者の存在を無用にしたのだ。
しかし、今でも人間の身体はサルと大差ないように、それまで営んできた社会習性は簡単には切り替わらない。誰でもが王や皇帝の体験ができる時代に、体験代行者としての特別な存在を必要とする社会概念を維持しようとし、それ故に大戦争を繰り返した。

戦争は頂点の人間の判断と、それを支持し追随する大衆が引き起こす。
産業革命が生んだ剰余を等しく分配するシステムがないために、定期的に起こる大恐慌と大戦争の中で、それでも徐々に、概念や価値観が変わってきた。
あらゆる個人の平等を前提とする社会の概念が大きく広がり、これからは、それをいかに実現するかを試みる時代に移っていく。

権力者を必要としない社会を実現するためには、国家の解体だが、これは目標であって条件ではない。世界的情報共有の中で、国家によるベーシックインカムのような生存保障の上で、徐々に人類としての多様性の共存を根付かせる、精神の「金持ち喧嘩せず」世界を醸成していく。
口で言うのは簡単だが、これは、やはり次の250年の課題だ。
大航海で資源を手に入れ、産業革命で生産をし、仕上げは精神の向上となる。
そして、順調に進めば、この間に、人類は始皇帝が夢見た不老不死を手に入れるだろう。もちろん、始皇帝がイメージしたような不死ではないが、人類としての知は向上する。過去には無かった、古人類では有り難い(有り得ない)新人類が生まれるだろう。
そこまで生きていないのは、残念なのか有り難いのか???


有り難い

2022年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

イエスは、「7の70倍赦しなさい」と言ったそうだが、7は古来の神秘数で、単なる象徴に過ぎない。要は無限にという意味だ。
コロナもついに「第7波」に至った。「過去最大の感染者数」と、メディアは条件反射で色めき立つが、これは想定内だったはずだ。ここまで来れば、もう、赦し受け入れるしかない。
政府も、曖昧なことしか言わない。要は、受入体制だ。
初出現のインパクトで騒ぎ過ぎたことが皆、薄々解ってきたが、今更、風邪扱いとも言えない。当初から、他の病気と比べて、本当のところどうなんだの疑問があった。
関係者も、「数が増えれば、重傷者も死者も増える」と言い出した。つまり、いくら「軽症」でも、が本旨だ。

どんな病気でも、死ぬ時は死ぬ、死ぬ人は死ぬ。誰でも生死どちらかになる。
生きていることが、どんなに有り難いことかを意識していない人は、「死ぬかも知れない」と言われただけで驚愕する。
本来の仏教が説くのは、来世や転生の方便ではなく、「生きてるだけで丸儲け」「ダメ元」を知ることであり、その上で生を慈しむことだ。

苦悩は生から始まる。怒り恐れ悩むのも、生きていればこそだ。
子供が「誰が産んでくれと頼んだか!」と親を恨み、長じては貧乏を嘆き、不運を恨み、死を恐れるのも、生きていることを当たり前だと思っているからだ。今生きていることが、本来は存在するはずがない=「有り難い」ことだと知らないからだ。
よく、「どうせ死ぬんだから」と言うが、これは違う。生きていれば死ぬのは当たり前と思う前に、生きていることが、当たり前ではないと知るべきだ。

同じ事のように聞こえるかも知れないが、先ず生きていることの希さ貴さに気づき、感謝して生き、その上で死を受け入れるのと、生きていることを疑わず、誰でも死ぬからやむを得ないと思うのとでは、死を前にした時の生き様に、大きな違いが出る。
今回のコロナ騒動は、まさにその死生観「検査」だった。
生きていることの有り難さを噛みしめていなければ、生きることに囚われ、「死んでもいいから、早くワクチンを!」と、免罪符を求めて走り出す。本音では「死ぬはずがない」と思っているから死を恐れる。それを認めたくないから、「他人様に迷惑をかける」と人のせいにする。
「死にたくない」と「生きていることを大切にしたい」とは、似て非なるものだ。

「死ぬのが怖くて仕方がない」と話す90代の女性がいた。この人の人生は、よく生き延びてきたと思えるほど波瀾万丈なので、意外だったが、生への執着が人一倍強かったから死線を越えてきたのだろう。しかし、そのガムシャラでも超えられない寿命を前にすれば、恐怖しか残らないということだろうか。
生きる気満々の素直な気力に、これはこれで生を全うすることかと、感銘を受けた。
コロナ騒動もまた、人類の健全な生命力の証だろう。
食べられても食べられても、イワシの群れは泳ぎ続ける。


大和残照

2022年07月20日 | 京都&ケンミン文化

3年ぶりの祇園祭の山鉾巡行で、京の街に華やぎが帰ってきた。
この季節は気候が不順で、祇園祭と言えば雨を思い出す。今年も降ったが、幸い山鉾巡行は晴れていた。気まぐれな雨もこの祭りの彩りなのかも知れない。

京都三大祭りの中でも、真夏の祇園祭は町衆文化の象徴として、京都の顔のような存在だが、その鏡となった葵祭は、王朝文化が醸す気品なのか、やや地味な感がある。
古の息吹を映し出すこの祭りも、今では町衆によって支えられている。
しかし、千年の古都の祭りと言えばやはり、山城国一宮・賀茂神社の葵祭だろう。都を都たらしめた王朝時代の魂の祭りだ。

賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代に徳川幕府によって再興されて以来で、人も牛馬も、行事関連の全てを葵の葉で飾るようになった。賀茂神社の双葉葵の神紋や、松平との関わりと言われている。
双葉葵であれ三つ葉葵であれ、植物を頭に飾ることは、自然の力、神の力を身につけることを意味する。古代オリンピックのオリーブの冠は、黄金の冠より意味があった。

野辺の花を手折り髪に挿すのは、初めて草花に触れたこども心と同じであり、原始のピュアな感情とそこから生まれる自然への信仰がある。
江戸時代に葵の葉で飾ったのは古式を再現したまでで、賀茂神社だから葵だが、何よりも、草木を頭に飾り神と一体になることに意味があった。

ヤマトタケルが力尽きて、大和を懐かしみ、最後に詠んだ歌の一つに
「命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の 熊白梼が葉を 髻華に挿せ その子」
(わたしはもう帰れないが、生きて帰れた人は、大和の平群の山の樫の葉を髪に挿して命を謳歌してくれ 頼むぞ)
・・・の歌がある。
ヤマトタケルの薄れゆく意識の中に、命輝く祭りの姿が去来していたのではなかろうか。
草木を飾り用いる祭儀は多いが、葵祭の双葉葵には、萬葉の心、日本人の思いがまぶしく輝いている。


まもなく

2022年07月15日 | 星の流れに

天王星の84年周期で見ると、単純には今年は1938年=昭和13年にあたる。日中戦争の最中で、欧州ではナチスのズデーデン併合に妥協したことが翌年の第二次世界大戦につながった。現在の、ロシアのウクライナ侵略と同じような図式だから、トラウマの欧米は引くことができない。配役が入れ替わっただけの大戦劇の再演だ。

この第二次世界大戦で、枢軸国に対抗して国際連合が生まれ、終戦によって戦後復興世界平和を名目に正式な国際機関に変わった。
今日、常任理事国の特別な地位によって国連が機能しないのは、中国の偽者とドサクサで紛れ込んだソ連の偽者が居座っているからであり、国際機関が第二次大戦のゾンビ化しているからだ。

今、天王星の周期は完全に第三次大戦の最中だ。核戦争が回避され、軍事連合が国際機関に変わる図式なら、新たな国際機関はNATOが原型になりそうだ。もしそうなら、「常任理事国」の失敗を教訓に、現国連よりもう少しましなものになるだろう。国際連盟、国際連合から、さらに現実的な世界連邦に近づくだろうが、恐らくもう百年かかるだろう。
冥王星250年の周期の中で天王星は3周する。

国際連合が生まれた時代は、天王星が双子座に入って、アメリカが大興奮の時代だった。
まもなく、2024年に木星が双子座に入り、翌年、双子座入りする天王星も影響圏に入っている。前回のこの時期、日本の敗戦は辛いものではあったが、大躍進の切っ掛けになった。その前は黒船と明治維新だ。
双子座時代の苦難は、吉兆として期待していいだろう。


伝統文化

2022年07月11日 | 新鎖国論

今年の七夕は近畿地方は珍しく晴れていた。良い天気が前提のような、七夕の風習だが、雨の特異日ぐらい降る。これは、新暦の7月7日に固定したからで、旧暦の七夕では、天の川を見ながら祝うことが多かっただろう。

日本が新暦にしたのは合理的で良かった。しかしそうなら、公用表記も西暦にして欲しい。元号表記は印鑑に並ぶ、古式の弊害だ。
キリスト教を信じているわけでもないし、天皇を否定するわけでもない。ただ、現代の世界ルールを無視する元号表記は、大げさなようだが、印鑑同様の経済ロスを生んでいる。(数字でしか理解できない日本人のために、誰か試算して欲しい)
元号を公式表記に使うなら、スポーツの世界大会も袴と襷で出場すれば良い。それぐらい陳腐で不合理なことなのだ。

一方で、星空の実感の無い七夕は、やがて消えていくだろう。これは逆に、新暦で祝うことの弊害だ。
旧暦を前提に生まれた風習は、基本的に旧暦に戻し、旧暦を意識するイベントとして楽しむ方が、伝統と文化の温存につながる。
正月やお彼岸、お盆など、社会生活の軸になっている行事は新暦で良いが、七夕や各地の祭りなど、太陽暦と馴染まない風習は、旧暦に合わせた方が文化を豊かにする。

元号表記も、本当に大切にしたいなら、世界基準の表記と切り離し、「日干支」と共に、もう一つの日本として意識すれば、日本人の感性がさらに豊かになる。天皇の継承問題も権威と権力が完全分離していれば起こらなかったことだ。
法律で定めてまで世界と乖離した特殊文化を強要すれば、煩雑さの末に結局、全面排除につながる。公式行事を和服と定めなくても卒業式に袴をはき、浴衣で花火を見に行く。文化は人によって守られるもので、法律によって強制されるものではない。

 


仮想時代

2022年07月06日 | 星の流れに

天王星が牡牛座に再来すれば、五感に訴える娯楽が広がる。牡牛座は所有も表すので、近頃、レコードやカセットなどの「物」が人気するのもその一つだが、一方で、メタバースのように、五感だけの世界も広がっている。
牡牛座の、物と五感による世界は、人生で言えば乳離れして様々な食物の味を覚える時に当たり、物質的な快楽を知っても精神的な認識には至らない段階と言える。
したがって、牡牛座の人は味覚を始めとする五感に優れ、堅実な所得意識が強い。

なお、次の星座の双子座では、「何で?何で?」と知的好奇心が高まる、初等教育の段階に入る。
双子座の人は何でも知りたがり経験したがるが、思索や哲学には至らない。分野で言えばマスコミやテレビであり、国で言えばアメリカだ。幼稚園や小学校のように、常に騒がしく、次々と珍しい物に飛びつき形が定まらない。しかし、全ての人の営みの温床になる。神童の言葉通りに動いてはいけないが、参考にする価値はある。屈託の無い直観があるからだ。アメリカからは様々な発明やトレンドが生まれる。

牡牛座の空気
時代の常識は、時代の空気の中で決まる。天王星牡牛座の現在の感心は、生存権であり、死を恐れて生を求め、それがさらに死を呼ぶ時代になっている。生きようとして死ぬのが戦争であり、過剰治療も多にして死を招く。
生存権を求めて戦争になり、その死が生を意識させる。戦争が食糧難を生み食料やエネルギーの重要性に気づかせる。いかにして食うかが大問題になる時代だ。
一方、メタバースのような五感だけの世界が広がるのは、「生きる」ことを五感のみと見れば、ある意味ではむしろ完璧な人生の形が得られるからだ。
五感だけの世界は、自己を背後に隔離し、表面的な関係だけで成就できる世界だ。

自分の肉体で生きる世界さえ、空であると言われているのに、さらに仮想現実の世界に生きれば、本当の自分を忘れ、単純な自己肯定感に浸ることができる。
その一端は既にネット上で広がっている。ネットの情報に飛びつき、直情的に攻撃のコメつぶてを投げる炎上も、自分を自覚する意識が飛んでしまっているからだ。
面と向かっては言えないことが言えるのは、ネットは既に、肉体を伴わない仮想現実の世界だからだ。

海王星の世界
この、仮想現実、錯覚や夢の世界は魚座であり、既に10年、海王星が最強の働きをする魚座にとどまっており、世界中が「我を忘れ」ている。そこに天王星が牡牛座に来て、仮想空間での自己実現が「現実のもの」になった。つまり、嘘の世界の本当だが、これは嘘から出た実の逆であり、嘘つき村の正直者のような話だ。とにかく世界は混乱している。

魚座は二匹の親子の魚であり、愛とエロスが紐につながっている。格差や分断が注目されるのも、このご時世だが、実は紐でつながっており、いま目にする全ての分断や二極化は、切っても切れない仲にある。これを忘れると、時代の藻屑と消える者になる。