魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

必然事故

2023年06月25日 | 星の流れに

タイタニック探索ツアーの深海艇が遭難した。
近年、盛んになった沈没船探査や深海ツアーは、海王星・魚座の現象だ。海王星が本拠地の魚座に入る時には東日本大震災があった。その影響もほぼ終わりかけている今、土星が魚座に来た。
言うまでもなく、土星は、萎縮、膠着、野心の星だ。魚座の人、魚座の事柄に圧力が掛り、責任や不安が生まれる。土星の影響は融通が利かなくなり、無理や過剰な不安で事態を悪化させる。魚座の人は無自覚に下向きになっているので、少し気を抜いたほうが良いかも。

今回の事故で、映画タイタニックのキャメロン監督は、「タイタニック号の事故と同じ、無謀と傲慢によって起こった」と語っていた。
まさに土星による思考停止だ。ただし、タイタニック号と同じとは言えないだろう。タイタニックの時は土星は牡牛座で、天王星が水瓶座であり、科学技術に対する過信とビジネス欲がもたらした事故とみるべきだろう。
そもそも、ネプチューン(ポセイドン)の支配する海洋に、タイタンは相性が悪い。元々ギリシャ神話では敵対関係だ。


占い宗教

2023年06月19日 | 占いばなし

「あなたの前世は・・・あなたの来世は・・・」
こんな「占い?」を結構多くの人が信じている。
前世や来世やあの世が、あるか無いかは知らない。お楽しみ、娯楽ならばあっても良いと思うが、何かの判断の根拠にするなら無責任だ。
こんなことを言えば、占いをよく知らない人から、「目くそ鼻くそではないか」と言われるだろうが、少なくとも、占学と前世占いとは別ものだ。これは優劣ではなく、次元の問題だ。

是非はともあれ、「占学」は古代の星や事象の観測から導き出した法則に則ったもので、直観やひらめきによる、霊やあの世や透視術とは異質のものだが、「占学」を知らない一般の人にとっては区別がつかない。何かわけの解らないものを根拠に、今ここに存在しないものを語るのは同じだからだ。つまり、どうでもいい。
もちろん、どちらも、現代の正統な知見から外れているが、「何かわけの解らない根拠」という点では、一般人にとってのAIと何ら替わらない。解らないから信じる世界だ。

占いと宗教
「前世や来世」は宗教観の上に存在し、占学は素朴な探究心の上に存在する。
前世や来世は、現世を生きる為に想定されたもので、生の安心を得る「心の世界」だ。
一方、占学は行動を決定する為の手段であり、原始の学問だ。
宗教は心の世界だから、仮説を立てたり実証することはなく、信じるか信じないか、いかに心安らかに暮らすかが目的であり、教えの為には死ぬことさえもいとわない。ちなみに、「名も無く貧しく美しく」など日本の美学も、一つの宗教と言えるかも知れない。

占いは元来、あくまで物理的解決が目的で、飢饉や戦争をいかに克服するかを探る手段であり、その目的においては「呪術」も同類のものとなる。
ただ、「呪術」は徹底して目的思考だから、役に立つなら神も仏も天然摂理も全て利用するので、宗教にも占いにも関わっている。
解決策としての東洋の占いは、呪術で効果を求める一方で、精神面にも着目し、それが陰陽五行や易のような哲学にもなった。

宗教と占い哲学との境界は難しいが、仏教にも中華思想にも一神教の神が存在せず、自然の摂理を前提とする人間観は、占い哲学にも生きている。
一神教は神と人間との関係、つまり人間自身の自問自答だが、仏教や占い哲学は環境に向き合う人間の、相対的なあり方を考える。

ここで面白いのは、西洋が神との関係を考えるのに対し、東洋は関係そのものを実体と考えることだ。西洋は自己の内面から他の存在に気づき、神を他の存在としている。東洋は先に外界の自然環境を認め、自然の一部である自分自身の存在に気づく。日本神話の神も先ず無の中に現れるが、聖書は始めから神が存在し神が自然を創る。
西洋は内面から発想し、東洋には先ず外界がある。これは、血液型で言われるA型気質とB型気質に通じる。そして実際、血液型分布は西欧はA型、アジアはB型に偏りがある。
A型とB型が交わるのがインドと日本で、何故日本にA型が多いのかは解らないが、同じアジアでも大陸との文化に違いがある。

占学においても、西洋の占星術と東洋の干支術では、真逆と言っていいほど考え方が違う。
西洋は惑星そのものが影響し、東洋は干支の関係が作用する。このことを西洋占星術の専門家に解説したが、なかなか理解してもらえなかったことがある。干支術の初心者もよく誤解する。
医学などでも西洋医学は個別に治療し、東洋は全体的なバランスを創ろうとする。

東西の違いはあるものの、「天国地獄」や「前世来世」を語るのは、少なくとも占学とは全く関係が無い宗教世界だ。そして、占いが必ず当たると信じるなら、それもやはり信仰になる。
占学は今も試行錯誤があり、100%の答はない。
「必ず当たる」「恐ろしいほど当たる」と言う看板は、「出血大サービス」同様のビジネスフレーズに過ぎない。
誰も、血を流している商店主を見たことはないだろう。


意地暴走

2023年06月14日 | 自動車人間学

大谷翔平はこのところ、打撃絶好調だが投手としてはホームランを連発されている。得意のスイーパーを狙われているようだ。しかし、なかなかスイーパーを引っ込めない。調子が悪いわけではないのだろう。伝家の宝刀を抜きっぱなしだ。
これは自動車人間・エンジンの悪い癖で、異変が起こると強引に突破しようとする。
エンジンにはハンドルもブレーキもない。ただ、ひたすらガンバるのが信条だ。
「押してもダメなら、もっと押せ」と、意地になる。

しかし、ホームラン被弾ぐらいなら愛嬌だが、エンジンの「意地」が大きな災難をもたらしているのが、ウクライナのプーチンだ。
旧ソ連の遺産手法を、情況の変化も見ず、考え直すこともせず、同じ事をやろうとして、止められ、却って意地になって突っ込んだ。本気で突入する気はあまり無かったであろうことは、作戦の稚拙が物語っている。
このウクライナ戦争の、陰の共犯者はバイデンだ。
バイデンは、プーチンと話し合う姿勢は見せず、ただ、止めろ止めろと圧力を掛けた。
エンジンはバカではないから、静かに話せば考え直す。しかし、想定外の事態には爆発する。脅しのつもりで拳を振り上げたら、周囲が異常に騒ぎ立て、引っ込みがつかず振り下ろした。

エンジン体質の中国
一方、中国はエンジンのような国だ。エンジンは走っている時の自分の勢いは止められないが、他人事には常に「便乗」策で臨む。
エンジン人間の悪い癖の一つに、「ついでに頼む」がある。自分から意を決して依頼したり、提案することはないが、誰かの動きには自分も便乗しようとする。
誰かが買い物に行くからと、動き出した瞬間、「スーパーに行くなら。ついでに○○買ってきて」と、今の今まで一言も言っていなかったような要望を出し、「そんなの、自分で行けよ」と喧嘩になったりする。エンジン人間は自分が頼まれたら喜んで買ってくるから、断られるのが理解できない。言葉やルールではなく、情況で動くからだ。

中国の出方は、常に自分からは提案せず、相手の動きに合わせて態度を決める。米中接近、日中国交・・・全て、相手方の動きに熱烈歓迎!かと思えば、尖閣からフクシマ処理水まで、相手の動きや偶然に便乗し、それまで一言も言っていなかったようなことに、突然、突っ込んでくる。
これまでも何度か触れているが、東京都のドンとか言われるような、いつの間にか実権を握っているような人は、エンジンだ。自分から主張せず、事態に絡むうち、中心に座っている。プーチン、菅直人もそうだが、便利なアシスタントがナンバー2から実権を握るのは、中国台頭の過程と同じだ。人はこれを中国のしたたかさと呼ぶが、魂胆あってのことではなく、マメさの結果だから、意図や考えを探ろうとしてもムダだ。

中国の取説
エンジン体質の中国と付き合う上で重要なことは、今回のプーチンのように、とっさの事=想定外に意地になる。「できないのか!」と言われると「やりますッ!」というのがエンジンであり、「違反です!」と言われると「何でやねん!」と逆ギレする。
朝鮮戦争で、中共軍が死に物狂いで参戦したのも、米軍が想定外の進撃をしたからであり、南シナ海で、無人島を片っ端から要塞化しているのも、国際法違反だと言われたからだ。静かにしていれば、中印国境のように現場での攻防戦次第になるが、目立った事態には死に物狂いになる。そして、その勢いを自制できない。第二次大戦後の中共の戦争は天安門事件も含め、その場の勢いで「やっちまった」戦争だ。
つまり、正面切って中国を止めようとすると「キレ」る。理解不能の目立つ事態にはとにかく「キレ」る。中国人が街中で突然喧嘩を始めるのも、この文化ゆえだろう。

では、日本は何体質か。強いて言えば、ボディーだ。全て体裁に始まり体裁に終わる。外から見ると神秘的で感じは良いけど、何を考えているのか解らない。決断力は無いのに、突然、突飛な行動に出る。
ボディーとエンジンは全く相反する性質、動と静なのに、互いに無いものを持っているから、引き合う。ただし、常に、エンジンから動き出す。日本の中国進出はエンジン体質の「軍」が、ボディー体質の日本を握っていたからだが、中共は始めから興亡の大地で生まれた軍政権だ。
中国侵略をあえて進出と呼ぶのは、右翼的浄化ではなく、そもそも何の考えもなかった成り行き暴走だったからで、現在の中共の動きも、何の戦略もない戦術の積み重ねによる「成り行き暴走」だ。無論、プーチンのウクライナにも何の戦略もない。

エンジンの人や、エンジン体質の中国と付き合うには、突然、言い出したり、反対したりしてはいけない。徐々に慣らして、ジワジワと線路の先を移動させておくことだ。
急発進、急停車は事故の元

エンジン」20230329


長寿大国

2023年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

厚生労働省は、国民の健康作りに向けた基本計画で、1日の食事の目標摂取量の食塩を7g未満と定めた。WHOは既に5gにしている。このニュースを伝えながら、NHKは 減塩料理まで紹介していた。

医食同源は洋の東西を問わず昔から知られている。強い動物を食べれば強くなると信じる素朴な発想から、肝臓を強くするにはレバーを食べるなど、かなり信憑性のありそうな説まであったが、科学の発達で、全て成分で考えられるようになった。
今は分析や抽出技術が進歩し、食品のみならず、あらゆる分野が数値化されるようになり、素人も専門家も、先ずは数値を知ろうとし、数値で判断する。
検査疲れで衰弱する患者や、炭水化物恐怖症や、サプリだけで生きようとする人まで、社会全体が人間を機械として扱うようになった。

「人間は機械だ」と言い切っていた利根川博士の認識は、全く正しいと思うが、世の中の人が、それを鵜呑みにするような時代になっている。
前衛の言葉には、逆説の驚きが込められている。生命の神秘に挑むスタンスから出た言葉だからこそ、あたかも真逆に聞こえる真理が語られる。
不可思議に挑む人は、不可思議を良く知っているが、その結果だけを得ようとする人は、のび太のようなムチャをする。基礎研究をせずに利益だけを得ようと欲を出す中韓ビジネスは、一時は成果を上げるが、どこかでつまずき、ドラえもんに叱られる。

サプリ全盛の時代、目的だけを考え、プロテインが、炭水化物が、ビタミンがと偏った接し方をする人が増えた。それは確かに目に見える効果があるだろう。しかし、何事も、過ぎたるは及ばざるがごとしだ。
自然界は未だ、人智の及ばない多様な物質と多様な働きのバランスによって成り立っている。こうした人為的な栄養が効果を生むのは、その前に、多様な自然の一部である人間の構成バランスがあるからだ。個々の栄養だけでは身体を維持できない。「supplement」は文字通り、補助、補足であって主体ではない。

目に見えるものが全てではない
こんな時代では、専門家も「数値教」の信者になっている。専門家と言われる人の多くは、自分自身が神秘に立ち向かい、試行錯誤して何度も打ちのめされた人とは限らない。
定説、新説を素早く理解し、それを事象に適用することに優れた人が、様々な数値状況を分析し対応策を打ち出している。国際機関の方策や数値は、現場の人間には首をかしげるような意見が少なくない。にもかかわらず、各国の優秀な人々は、それを素早く理解して、国内で施行する。

終戦直後、日本を教育しようとやってきた占領軍の人々は、「自分たちの常識」に照らして、日本人は塩分やヨウ素の取り過ぎだと仰天し、食事改革を進めた。おかげで日本人の栄養情況は上昇し、世界的な長寿国に成った。
だが、それでも日本人の塩分摂取量は世界よりはるかに多い。では、塩分を減らせば、日本人の平均寿命は120歳を突破するだろうか。
明らかなことは、これでも、すでに日本は世界の長寿になっていることだ。

人の体質は様々な地域で適応し、DNAも微妙に変化することが認められている。栄養の少ない南の島の人は、欧米式の食習慣によって肥満が止められない。どういう経緯かは知らないが世界にはアルコールを分解できる人と出来ない人がいる。
海洋島国の日本人が、塩分やヨードの必要量や処理能力が大陸型の人々と異なっていてもおかしくない。このあたりの研究がどれほど進んでいるのか知らないが、単に数値の比較だけで、病因を一つに特定して考えるような、「優秀」な考えや運動には、思わず呟いてしまう。
「おかしな話やで・・・」

 


蛙の歌が

2023年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム

蛙の声がうるさいと訴える人がいて、話題になっている。
以前、キャンプ場の管理人に「川の音がうるさいから何とかしろ」と言ってくる人がいると聞いたから、特に驚く話題でもないが、単なる笑い話でもない。

一つには都会化し、自然を知らない現代社会がある。
都会は走る電車のような特殊空間だ。外の自然を眺めることは出来るが、空間も時間も切り離され、車内放送だけを頼りに過ごす。こんな中で生まれ育つと、何でも知っているようなつもりで、何も知らない無菌室の人間になる。放送、ネット、ゲームは、全て車内放送だ。
車窓の景色に憧れて、一歩電車を降りてみると、異次元の世界が広がっている。都会人の中には適応性の無い人も多いから、川や蛙の音が耐えられない。

「蛙ってこんなにウルサいものですか?」、「子供って何であんなに騒ぐんでしょうねえ」と、誰かに話したこともない。話せば、そんなものかと考え直すことも出来るが、自分の感覚と知識の範囲でしか思考できない。
対話の中で暮らせば、自分の考えが正しいとは限らないと気づくが、それもない。
電車で泣く子を白い目で見る乗客も、申し訳なくて萎縮する親も同じ都会人だ。昔の日本なら、誰かが子供をあやしたり、母親を元気づけたりアドバイスしただろう。

資質の問題も
蛙の声や川のせせらぎのみならず、音によるトラブルは少なくない。ピアノ殺人やクラクション殺人まであった。
近隣トラブルの発端の多くには、音がある。五感の中で最も原始的なものは音だと言われている。おそらく振動が、生命の感じた最初の刺激だったのだろう。
人が死ぬ時、最後まで感じるのは音だとも言われる。確かめたことはない。が、身体が衰弱している時、小さな音でも、全身が痛いほどウルサいと感じた体験はある。
音に敏感で、小さな音でもウルサいと言う人は、身体のどこかに障害が起こっているのかも知れない。あるいは、初めからそういう体質の人かも知れない。

他の人なら何でもない、ただの音が、そういう人にとっては、槍で刺されるような苦痛になる。
音は聞きようだ。日本人にとっては心地よい虫の音も、欧米人にとってはただの騒音にしか聞こえない。ある人には癒やされる音楽も、その文化を持たない人にとっては騒音だ。若者の音楽は、多くの老人にはウルサい騒音になる。まして、体質的に音そのものが苦痛になる人にとっては、とんでもない暴力行為だ。
例え美しい音楽と知っていても、耐えられないのだから、子供の嬌声や、天井階のドタバタなど正に拷問だ。

そういう音に耐えられない人が、耐えることに慣れない都会人になれば、蛙の声が訴訟問題になる。
クヮ クヮ クヮ クヮ
ケロケロケロケロ
ゲッゲッゲ


短歌時代

2023年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム

天王星84年周期として、以前から指摘していることだが、現在は太平洋戦争前夜であり、和歌が流行する。
太平洋戦争前から終戦にかけて短歌が大流行していた。国粋主義による記紀や萬葉への傾倒も大きかったのだろう。戦時中、婦人動員で軍関係に勤務していた人から聞いた話では、休憩時間の楽しみと言えば、上司の軍人を含め、即興の句会をすることだったそうだ。
ドナルドキーンが日本文学に傾倒した大きな切っ掛けは、戦死した日本兵の多くが万葉集を携帯していたことだという。

先日、NHKでSNS上の若者の短歌ブームを特集していた。コロナ禍による若者の疲弊に短歌が癒やしとなっていることに焦点を当てていたが、それに意義はないものの、歴史的観点からは、いささかもの足りない。始めから恣意的にコロナに結びつけている。
コロナは一つの切っ掛け、事象、テーマではあるものの、それが短歌でなければならない理由にはならない。
コロナの無い80年前にも短歌がブームだったことにこそ、短歌でなければならない理由がある。

出演していた歌人は、「短歌で皆が優しくなれる」と話していた。これも全くその通りだと思う。
短歌が流行る時代の共通点は、「ものの言えない社会」だ。「優しくない社会」があるから、短歌でしかものが言えない。
戦前戦中の軍による言論弾圧とそれに同調する世間の抑圧の中で、その当事者をも含め、思いの丈を漏らす語法は短歌でしかなかった。

閉塞のただ中
失われた30年で生まれた閉塞状況は、失敗を恐れ萎縮する大人と、その教育によって手足をもがれて盆栽化した若者が、ネットによる自警団を形成し、少しでも異質な言動をピラニアのように集って抹殺する、言葉狩りと相まって、戦前以上の警察国家になっている。
短歌は日常会話から離れた異空間の独白だ。直接誰かに話しかける言葉ではないから、聞いた人も、その独白に直接攻撃できない。短歌には短歌で返さなければ空振りする。
直接ものが言えない独裁者には、比喩的に意見を述べるが、それでも命がけだ。京都人の「いけず」な会話も、外来の権力者への、「当たり障り」を避ける伝統で、直接会話しか出来ない人々は理解も反論もできず、「何か知らん腹が立つ!」と言うことになる。これも伝統の京都だ。

もともと和歌は、言いにくい思いを伝える口説き手段として、歌垣などで歌われたものだから、相手を怒らせない機能がある。和歌のみならず、歌は独自空間の中にあるので、中に入れば理解し合えるが、直接相手を刺激しない。宗教のような世界だ。
告白して断られれば、お互いに辛いが、歌に歌で答えれば、角は立たない。
SNS上に直接考えを上げれば、攻撃される場合でも、和歌の衣を着て上げれば、解釈のクッションがあるので、攻撃できない。

冷静なコミュニケーションが出来るツールとしての短歌は、素晴らしい伝統だが、一方で、直接考えを表明することが避けられる文化でもある。
そして、その文化が周期的に呼び起こされることは、「ええじゃないか」同様に、日本人が、自ら閉塞社会に落ち込んでいく性を持っていることの証しだろう。