是非に及ばずで話題にした織田信成君。やっちまった!
犯罪は犯罪だから、「是非に及ばず」
ただ、スポーツ選手の事件を見ていると、何かかわいそうで、腹立たしい。
学者とかタレントなどもそうだが、スペシャリストというものは社会訓練の機会が少ない。しかも、ほとんどの場合はコーチや先生、事務所の管理下にある。今回の場合も、もし、成人3ヶ月の彼だけ処分を受けて、一緒に呑んだ先生達が何の処分も受けないのなら、大学そのものが糾弾されてもしかたがない。
連帯責任という概念は無くなったのだろうか。日常生活まで管理しながら、事件を起こすとそれは本人の自己責任になる。
ところが、高校野球では、ミョウなところで連帯責任が出てくる。
一人の生徒が事件を起こすと、出場まで取りやめてしまう。ひどいのは、指導教員の起こした事件で出場辞退まである。
わけのわからない自己責任や連帯責任は、本来の意味が忘れられて、都合良く解釈されているからだ。
しかも、それは学校の対面のためだけに。
スポーツ
奨学生問題も裏金問題も、選手を商品と見ているから起こる。
プロスポーツの歴史は剣闘士の昔から、本来は非人間的なもので、英雄視される反面、観衆と商人の道具の側面を持つ。
大金を稼ぎVIP待遇であるのは花魁(オイラン)も同じだ。大変な努力をしていることも共通している。しかし、一歩引いてみれば、商人に仕組まれた演出によって付加価値を高められ、虚構の憧れに仕上げられていることも同じだ。
虚構の憧れというなら、社会競争はすべてそうだ。
金儲けが商人の目的なら、国家も集団の利益のために虚構の憧れを生み出す。いや、虚構が集団の目的を生み出すのかも知れない。
いずれにせよ、
社会生活でガンバッていると、必ず大きな壁にぶつかる。
受験、就職、結婚、子供の悩みなど、誰にでもやってくる障害物競走の壁だが、壁で立ち止まることで、初めて夢(虚構の憧れ)から覚める。
挫折が無くても、ふと目覚める人もいる。
映画「長距離ランナーの孤独」も、個に目覚める話だが、「スパルタカス」で、強い剣闘士が地位を得て得意になっている場面は、何とも哀しい。
どんなに立派になっても、奴隷であることに変わりない。
壁を越えられず、自暴自棄になったり、逆に、「再チャレンジ」を続ける人もいるが、その人達もやがて時の壁にぶつかることになる。
人間である以上、社会競争ゲームから逃れることはできないが、個に目覚めている人では、打たれ強さやしなやかさが違ってくる。
一度折れた骨は強くなる。挫折バンザイ。人間万事塞翁が馬。