魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ザ・京都

2021年08月30日 | 京都&ケンミン文化

先日、西陣の狭い道を自転車で走りながら、リュックからスマホを出そうと道に面した家の格子際に止めた。格子下の側溝沿いの敷石が10㎝ほど高く、またがったまま足を乗せると安定するからだったが、リュックを外そうとしていると、目の前の玄関ドアが少し開き、中から大型犬が口を突き出して、猛烈な勢いで吠え始めた。
状況と意味は解ったので、すぐその場を移動した。その間、30秒も経っていない。

京都に何十年も暮らし、京都人の良さも理解しているつもりで、折に触れ、京都人は意地悪ではありませんよと喧伝に務めているのだが、こういう時には、『ああ、これじゃあしょうがないなあ』と、情けなくなる。
近頃は、祇園でも、一見さんお断りとは言っていられなくなったそうだが、その心は広く京都に根付いているようだ。

千年の都、京都は利権の中央だ。ここから公家や社寺が全国の領地を支配し、領地と権利でせめぎ合ってきた。そういう土地柄は庶民に至るまで浸透し、土地に対する権利意識が強い。
土地に対する所有意識は特に京都でなくても強いが、地方豪族や武士集団が自らの血肉として一所懸命に守るのとは色合いが異なる。お上から与えられた土地、継承によって得られた土地に対する権利意識は、自分自身の「物」である前に、自分に与えられた「権利」そのものを所有物と考えている。

自分の物であれば、多少汚されても自分の裁量で寛容になれるが、形のない権利は主張しなければ消えてしまうし、賜った物を汚されることは、自分が勝手に容認するわけにはいかない。権利を守るのは使命だ。
京都で遭遇する私有地の権利主張は、誰も表だっては口にしないがしぶとく、ただの所有欲以上の敏感さを感じる。京都に来て初めて感じた自慢話は、「借家がある」と言う会話で、これがステータスを表す。
自分に権利のある土地を守るためには、何でも許される感覚があり、文句があるなら出るとこに出てもらえば良いと言うことだろう。
実際、権利に「お互い様」は無い。狭い曲がり角に置く「いけず石」や、「駒寄せ(除け)」など、いちいち自分の口で、「ここに入るな」とは言わないが、掃き清めた門前とともに、暗黙の威嚇になっている。

京都人は争うことを好まない。しかし、権利と秩序を守る「使命感」は強い。この矛盾を解決しようとする多様な手段が、「意地悪」になってしまう。
力によらないで秩序を保つためには、流儀を知らずに「なんでやねん!」と言い出しそうな、心得ない「一見さん」は初めから避けたい。

窓の格子に人影が見えた瞬間、『うちの前で何やろ!』と、恐怖心と権利意識が働き、かといって、何者か解らないし、自分が出て角を立てたくない。そっとドアを押して、この日のために飼ってある犬を覗かせて、一見さんお断り。
用意周到なのが京都人だ。

ただ、こんな家の人でも、知り合いなら極めて好意的で、全く違う顔を見せる。犬なら知り合いと他人をよく心得ているから、先ず犬に様子を見させたというわけだ。
そもそも知り合いは、自ら先に声をかけ、驚かせないようにする。
大阪人が京都人を嫌うのは、いきなり入りこんでくる大阪人に、小心な京都人が繰り出す様々なバリアを、「得体が知れない、腹黒い」と思ってしまうことが大きいのだろう。


歴史現場

2021年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

荒っぽいバイデンのやり方で、アフガニスタンは大混乱に陥ったが、その中で、すべての「実体」が露わになった。
形だけの政権が、何の実体も持っていなかったこと、タリバンとISの関係、中国やロシアの本音、その他諸々の関係国の立場や資質・・・
英語では、軍事作戦も外科手術も「operation」だが、たいていは、「やってみなければ分からない」。どんなに万全の想定と準備をしていても、何が飛び出すか、一つとして同じものはない。問われるのは、「対応力」だ。

アメリカが撤退を決めたのは、ラチのあかない腐敗政権に業を煮やしたからで、始めから解っていたが、誰も怖くて手がつけられなかった。
実際、撤退を始めると大混乱が起こった。作戦上、撤退が一番難しいとされる。勇気と能力がなければ、「しんがり」は務まらない。バイデンがこの事態をどこまで織り込んでいたか解らないが、反バイデンが騒ぐほどの想定外ではないだろう。
一方で、またも日本は極楽トンボぶりを晒すことになった。予定通りのことしか出来ない日本は、今回も間に合わなかった。タリバンが動き出した途端、現地も政府も動くべきだった。コロナ同様、後手後手だ。これは国民性だから、政権が変わったところで変わらない。

歴史の現場
アメリカがアフガンを離れ始めると、傀儡政権は一瞬で消滅し、残ったタリバンに中露が秋波を送り、タリバンと勢力争いをするテロリスト集団が結果的におびき出された。
過去のタリバンの行状を記憶する世界は信じようとしないが、少なくとも現在の代表の言っていることは嘘ではないだろう。ただ、アフガニスタンは暴走族のようなものだから、組織的統制力があるわけではない。現代の国家のように、一つの政権と話をすれば、約束が守られるというものではない。

20年の学習を経て、現在のタリバン代表は、アフガニスタンを現代国家にしたいと願っていることだけは確かで、その本音と、アフガニスタンの実体を直視して関わる者が、真に影響力を持てることになる。
アフガニスタンは、今まさに、歴史が生まれる現場だ。
アジアの交差点に中露が関心を持つのは当然だが、ここにクサビを打てれば、域外国にも損な話ではない。
消耗から手を引くことにしたアメリカだが、健全な国家と交流するのはむしろ望むところだ。一夜にして消滅した傀儡政権より、タリバンを相手にする方がよほど手応えがある。少なくとも現在の代表は、国家として世界の一員になることを望んでいる。しかも、アメリカにとっての本来の敵、ISテロ集団をともに敵に回した。
ここで、タリバンと手を結び、許容の範囲で健全な国家となる後押しをすることになれば、アメリカは実益を得ることが出来る。

歴史は動いている。バイデンがタリバンを抱き込むことが出来れば、途方もない大手柄だ。
ただし、アフガニスタンは統一不能な土地であり、政権との連携には意味がない。全域的な地元の民心をつかんでこそ、交流の実態が生まれる。
政権に金をつぎ込むのではなく。地元のリーダーを直接支援することを政権に協力させることが重要だろう。
日本の政治で言えば奈良時代以前であり、井戸や、ため池や橋を掛けて回った人が崇められた時代だ。
今回日本が撤退できなかったことは、官民による日本の出方次第では、怪我の功名になるかも知れない。


日本沈没

2021年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

東京オリンピックが決まった日、心配したことが現実になった。
デジタルで遅れた日本は、一人あたりGDPでも韓国に抜かれたそうだ。

半世紀も前の夢にすがって生きる日本人は、兵器も昔のままで大戦争を始めた。新しい航空戦を進める一方で、多くの指揮官が古式に拘り、ミッドウェーの大敗北を招いた。不運ではなく、夢の結末だった。今も日本は、郵便やファクシミリで戦っている。
日本軍が敗北を続ける中で、米軍の指揮官がどうにも解せなかったことは、日本軍が過去に一度成功した作戦を、通用しなくなった後も何度も仕掛けてくることだったという。
日本の美しい精神性の致命的な弱点、思考停止だ。

戦争は文化の対決だ。文明で勝る米国が、ベトナムにもアフガンにも勝てなかった。
血であがなった戦史こそ、国運のあらゆる場面で最高の教訓になる。
オリンピックはまさに、通用しなくなった作戦であることを、オリンピック誘致に狂奔した人々は考えることもなかった。
そして結局、夢に浸る間に世界的競争に致命的な後れをとってしまった。
「日本沈没」の中で長老の出した結論は、「日本はこのまま沈没するのが一番ええ」だった。小松左京の慨嘆だ。

明治政府による失敗した軍事システムに誠を捧げ、夫婦別姓さえタブー視する。そして一度成功したオリンピックに拘り続け、もう麻薬のようになった金融緩和にすがり続ける。
徹底的な破壊しか、この国は目を覚ませないのだろうか。
去りゆく老兵は、見てはいけない後ろを振り返えり、石になる。
戦後復興


禍の正体 2

2021年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

メディアが暗に期待するロックダウンに、若者が賛同しないのは、メディアが若者の情報源ではなくなっているからだろう。
コロナに対する認識は、メディアとの親和度に比例する。
新聞&テレビのメディア世代と、スマホ世代の断層は、弥生と縄文ほどの落差がある。
メディア世代の認識は弥生型の文明で、正否が統一されているが、スマホ世代は定見の無い縄文のようなものだ。

弥生集落では、敵味方を前提に物見櫓の上から敵の来襲を告げるが、敵を見張る必要のない縄文では、見えた物はすべて直感的に霊的な解釈をする。
メディアを信じて生きる大人世代は、先ず敵か見方か、定義を知りたがるが、スマホ世界に生きる若者は、聞こえてくる現象や噂を直感的に判断し、無防備無批判に受け入れる。
物事を基準に照らして理路整然と考えるメディア世代の大人は、見識の無いスマホ世代を心配するが、既成概念の無いスマホ世代には「裸の王様」が見える。

かわら版屋が報道機関に成り上がったのは、民意と双方向で成り立つ民主主義に必要だったからで、学校教育もその社会の一員として参加するために生まれた。当然、国民は報道によって個人と社会のあるべき姿を考えるのだが、そこから生まれる賛否は、一定の常識から外れるものではない。学校で教えられた、知識と論理に則っているからだ。
メディアは情報インフラとしての権威を持っているから、自分たちが社会を形作っていると自負している・・・と、ここまでは良いとしよう。

戦争責任
メディアがなぜ戦争を誘発するのか。それは、権威を持つ者が「帝王学」を学んでいないからだ。民を統治する権力者には責任がある。したがつて軽々な言動は許されない。
しかし、剣より強いペンは、飯の種なら何でもやる。結果や責任など考えていない。誤報道の訂正が元記事より大きかったことは無いし、誤報道で潰れた会社は無い。戦犯新聞社が得意になって戦犯を糾弾し、平気で誤報道を垂れ流す。
そんなメディアがまくしたてるコロナ報道に国中が踊らされ、挙げ句の果てに、まんまと「ロックダウン」を叫ぶ先兵にされている。
弥生の文明思考は、敵味方が明らかだから、櫓の上でメディアが叫べば、直ちに槍を持って駆け出してくる。

ところが、櫓も囲いも無い、メディアと無縁の縄文思考の若者は、周囲の言葉と自分の経験から考えるから、噂を信じても、櫓の叫びには関心が無い。大人のように簡単には反応しない。メディア情報も、スマホを介してウワサになった方を信じる、ものごとを霊や妖怪の人格のように理解する。血の通わない大本営発表に距離を置く。合理的な話をうさんくさいと感じる。メディア世代が合理的な報道によって情緒的になるのに対し、スマホ世代は感覚的に情報に接する故に、説明のつかない「本当のこと」が見えてしまう。
メディアが幾ら叫んでも、今更、拡大防止のロックダウンが無意味であると、感覚的に察知している。非論理的だが、裸の王様は見えるのだ。
ただ、残念なことは、大人世代の空しい戦いに、説得力のある提案が出来ないことだ。
戦時中、様々な意見を持ちながら、若者が黙って死んでいったことを、今の大人は思い起こすべきだろう。


禍の正体

2021年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

アンケートでは、30代以上はロックダウン賛成派が過半数だという。
若い世代は、若者がと言われる怒りからか、反対の方が多い。
報道を見ていると、メディアはロックダウンを求めているようだ。メディアが大火事を期待していることは端々から解る。
何か新しい単語が出てくると、その最悪事態を大々的に報じ、反証的な可能性は挙げない。そして、その単語を根拠に記者会見で認識不足を責め、政治の無責任を報道する。

菅総理が、珍しく
「ロックダウンをした国でも、まだ蔓延で苦しんでいる」と、強く反論した。
政府の後手後手対策は大いに問題があるが、叫くばかりのメディアこそが、コロナ禍を演出していることに気づくべきだ。
コロナ禍は国運を賭けた戦争だ。太平洋戦争を焚きつけたのがメディアだったように、コロナ禍を大きくしているのはメディアであると、国民はそろそろ気づき始めている。

こんな報道があった。
子供が感染して来ると、たちまち家族全員が感染しました。これまでは成人間あるいは成人からの感染だったものが、子供同士、子供からの感染という「新しい事態」が増えています・・・自宅療養は過去最多です。
これが、少し前までの風邪やインプルエンザの大流行と、何が変わっているのだろう。多くの死者が出ていることも変わりない。歴史に残る有名人もインフルエンザで死んでいる。「ふとした風邪が元で」風邪をこじらせて死んだ話は、ごく普通だった。
当然、昔は自宅療養で、どんな病気も後遺症はつきものだから、「病み上がり」という言葉が決まり文句だった。医学も情報も発達してない、と言っても、ほんの少し前のことだ。ところが今では、流行病は完封できると信じられている。

コロナと過去の流感の違いは、その始まりから、事細かな情報が飛び交っていることだ。世界のどこで何人、国内に何人、何県に何人、どこの店から何人、感染者何人、重傷者何人、死者何人、どこで感染してどんな症状が・・・こんなことは、少し前まで知ることはなかった。しかも、病原が判っているから、封じ込め前提の法規制を定め、それゆえに問題が増えて、メディアが囃し立てる。メディアが騒げば、政府も引けなくなり、いまさら五類相当に落とすことも出来ない。連日のおどろおどろしい情報に、国民は恐怖に陥っている。

病気と闘う
コロナは、ただの風邪ではないが、ペストやエボラ熱のような致命的病ではない。
よく、「病気と闘う」と言うが、そんなことは出来るわけがない。病気は自分の中にいるからだ。病気との闘いは自分との戦いだ。病気を攻撃しようとすることは自分を攻撃することになる。自分自身を強化し、悪疫退散を待つしかない。
体力の強化は常に精神と肉体の両方が無ければならない。いくら休息と栄養を摂取しても、恐れと不安はそれ以上に体力を奪う。

コロナ禍の「禍」とは、人心に、繰り返し繰り返し「恐怖」を刷り込むことだ。独りでいる時、ふと、得体の知れない恐怖をおぼえたことはあるだろうか。ゾッとするのは身体が臨戦態勢に入り、バランスを捨てて戦いに特化するからだが、そんな状態は長続きしない。ひどい消耗を伴うからだ。
メディアが繰り返す「恐怖の刷り込み」こそが、国民の体力、気力を奪い、感染の恐怖に怯え、感染告知の瞬間に絶望の闇に堕とされ、抵抗力が挫折する。
希望はワクチンではない。コロナそのものに対する楽観的側面を知ることだが、メディアは一切、語ろうとはしない。
この偏った報道に、『おかしな話やで !?』と感じはじめた人が、封じ込め一辺倒の対策に「もうマンネリだ」と言い出した。


覇権商売

2021年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

NHKのニュースを見ていたら、オーストラリアの例を挙げて、中国の横暴とどう向かい合うか真剣な顔で伝えていた次のニュースは、双子パンダの命名募集だった。
相変わらず、皆パンダに夢中だ。
パンダがかわいいことは否定のしようがない。クマのプーさんの進化形が、プーより昔から実在したワケだから、誰でも虜になる。

スタートレックの「宇宙大作戦」時代に、トリブルという愛玩生物の話がある。モルモットサイズで何ともかわいく誰もが夢中になり過ぎて労働意欲を失い、しかも大食で、アッと言う間に大繁殖し、USSエンタープライズの食料を食べ尽くしてしまう。
中国に大金を払って借りているだけのパンダに、ただかわいいからと夢中になる危険を諭す話だ。

日本で生まれても、あくまで中国からの借りものだ。中国は絶滅危惧種同様のパンダを外国懐柔のために恩に着せながら金を取って海外に送っている。
NHKニュースは、中国がオーストラリアから輸入品を、買わないと言い出した話だったが、言うまでもなく、中国の常套手段だ。
今まで与えていた餌を突然、「お預け!」にする。日本に対するレアアース、その他多くの国に対する観光客の停止など、外国を家畜のように飼い慣らそうとする。冊封国を飼い慣らしてきた手段を、そのまま使っているのだ。これは商売の基本的な手管で、始め安売りして、馴染んだ頃に値上げをするのと同じ方法だ。
パンダがその商品であることは、疑いの余地がない。目的は経済覇権だ。

何度でも言うが、かわいいだけで、パンダを借りてきてはいけない。
パンダは本来、自然の中の生き物だ。パンダに囚われるのは、輸入禁止生物を飼う人の心理と変わらない。欲望に駆られて我が身を売ることになる。中国共産党という悪徳商人の家畜になっていることに気づくべきだ。欲望のままに生きる人はブタになる。

志ある日本の企業は、実益を兼ねて、AIBOを超えるロボットパンダ、PANBOを出してほしい。
→「大当たり


銅銅巡り

2021年08月19日 | 星の流れに

正直、全く念頭に無かったのだが、言われてみれば、ごく当然だ。
銅が値上がりして、関連器財の盗難が増えているそうだ。オイルに替わり、電気の時代を担う資源として、幾らあっても足りないと大注目だという。

占星術では銅は金星で、オリンピックのメダル金、銀、銅は、太陽、月、金星を表している。
銅(金星)が注目されるのは、センセーションの天王星が牡牛座に来たのだから当然だ。牡牛座は金星と同じだが、天秤座も金星だ。しかし、天秤座の場合は精神的な美だから、あまり銅そのものに注目されることはない。
牡牛座は、人生で言えば乳離れで、様々なものを触ったり舐めたりして外界を知る時期であり、物による快感(美)を意味する。

牡牛座と銅の関係を象徴的に表すのが「青銅器時代」だ。
歳差による時代は一星座約2千年で、春分点が星座を逆に進む。紀元後の2千年は魚座時代。その前の2千年は牡羊座時代。その前の2千年が牡牛座時代に当たる。
牡牛座は金星だから青銅器時代。その後の牡羊座は火星だから鉄器時代。紀元後は魚座だから木星の錫ということになるが、拡張性の面から化学時代と言えるだろう。
今後の2千年は水瓶座時代で、本来の土星なら鉛時代だが、天王星の革新性と集中力、更に太陽の真反対、神の領域を表すことから、核融合と人間超越、そして次元超越の時代になるのではなかろうか。

2千年先は知らないが、天王星による「銅の注目」は、今の牡牛座7年だから起こっていることで、21世紀が銅の世紀とまでは行かないだろう。そこまで電気に必要なら、銅以外の方法も出てくるだろう。20世紀が石油の時代だったのは、エネルギー以外のあらゆる物に利用されたからであって、銅に求められているのは、今考えられる器財の素材に過ぎない。だとしても、当面、銅は大注目ということになる。


タンタン

2021年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

米国が撤退表明すると、アッと言う間に、アフガニスタンがタリバンの手に落ちた。
アフガニスタンは、英国、ソ連、米国と、時の大国がすべて敗退した国になった。
しかし、これは、ベトナムとは状況が異なる。
アフガニスタンは、中央アジアの「○○タン」に連なる遊牧民の地で、近代国家が考える、一つの政権が支配する国家ではなく、ベトナムのように西欧の植民地として価値のある定住農業の豊かな国でもない。大国の覇権争いの場でしかなかった。。

「○○タン」は「○○の地」の意味で、国と言うより漠然とした「島」縄張りだが、ヤクザのように支配体系が固まっていない、暴走族のようなものだから、誰かを押さえれば全面支配できるというものではない。しかも、基本的に定住ではないから、都市を押さえても集団は分散する。大国が一勢力の後押しをして、近代国家の形式を整えても、バックアップが無くなれば、たちまち消える、まさに砂上の楼閣だ。中東から中央アジアと言われる遊牧民の地には、現れては消えた国の遺跡がゴロゴロある。

元々アメリカは、ベトナムのように、何らかの政治的意図をもって侵攻したわけではなく、911の怒りにまかせて殴り込んだだけだから、居座る必要はなかったのだが、民主主義を守るという名文上、簡単に捨てられなかっただけだ。
アメリカの撤退は賢明な「損切り」だろう。結局、こうして一夜にして消えてしまう政権に、莫大な人と金をつぎ込んでいたことが証明されたのだ。見た目の割に荒っぽい、バイデンの真骨頂と言える。
(双子座のアメリカにとって精神の水瓶座に土星がいることは、悟りを意味する)

大国が遊牧民を制圧するには、中国流しかないのかも知れない。中国はモンゴルもウイグルも国内に囲い込み、民族の生計を解体し、奴隷化することで、民族のアイデンティティを消し去ろうとしている。つまり、民族を抹殺している。一方で、雲南、チベットは、文化の核心の骨抜で家畜化して飼い慣らそうとしている。
いずれも、中華文明の根源的差別の実践だ。三国志演義の中で諸葛孔明の七縦七擒は架空の話だろうが、南蛮に対する中国人の優越意識をくすぐる好例だ。
中国は古代の伝説的領土を核心利益と称して侵略の大義としている。一体、中国共産党とは何者なのだ。雲南、チベット、ウイグル、モンゴル、南シナ海、東シナ海、どこまで手を広げるつもりなのだろう。

恐竜時代に哺乳類の胎動
アフガンを捨て、アメリカが、いよいよ本気で中国に振り向いた。しかし、日本は逆に、アフガン、ベトナムを心に深く留めるべきだろう。アメリカが戦うのは日本のためではない。かと言って、中国のアメリカ崩しのプロパガンダにも乗るべきではない。もし、アメリカと運命を共にするつもりなら、アメリカの51番目の州にして貰うしかない。
ここは、アメリカを支持しながらも、先頭を切っての中国批判は避けておこう。

むしろ、今こそチャンスと捉え、中堅国が連携しやすい部分で、日本の独自路線を展開する時だ。
この点、CPTTPにアメリカが参加していないことは幸いだ。大国やその属国を排除し、EUなども含む経済ブロックを想定して、経済規模より、規格やルールの統一を重視するなど、大国に支配されない領域を確保していく。将来的には逆に大国を取り込み、新型の国際連合に発展させることも可能だ。国際連合が生まれた経緯は安全保障のはずだが、法を無視する傲慢な大国が発言権を持つ限り、存在意義は失われている。
大国を排除した広域経済ルールが確立すれば、大国が牛耳る既存の組織をも吸収することができるはずだ。
当然名前も、PacificをWorldに変えて、CPTWP。
それも長いし解りにくいから、WPでいい。
United NationsがWorld Partnershipに変われば皆happyになるから、「○○タン」から名前をとって、幸せの地=「ハッピータン」がふさわしい???


最悪想定

2021年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

コロナ過去最高!・・・何を騒いでいるんだろう?
こんなことは、初めから分かっていたことで、そんな分かり切ったことも想定せずに、場当たりを続けて、すべての対策が無意味になった。日本の最大の弱点は「完璧主義」だ。
何があっても、「あってはならないこと」と言うばかりで、責任者に詰め腹を切らせたり、場当たりを繰り返す。

新しい問題に遭遇したら、先ず、最悪の事態を想定し、それを前提に構える。つまり、始めからゴールを見据え、多少の漏れは覚悟して、大きな破綻を防ぐのが未知との戦いだ。
ところが日本の場合、ことに近年は、すべてが精密図面でなければ許されない。
美しいガラス細工に次々とガムテープを貼って、結局、終いには投げ捨ててしまう。
今回のコロナ対応がまさにそれだ。

未知との戦いは、ラフスケッチの覚え書きだけで良い。出来ればそれも要らないぐらいだ。細かな策に囚われると、臨機応変の果断とひらめきを失う。最終的にどこに向かうのかの大目的を周知してさえいれば、一人一人はバカではない。集団の愚行はリーダーの愚鈍によって起こる。非常事態こそリーダーの資質、大局観や創造力が問われる。
現在のグダグダの方針を立てたのは、国民にいい顔をしたい一心の安倍政権であり、最悪の事態を提示し、非難を覚悟して実行することが無かったために、こう薬の重ね張りになった。
菅政権で自宅療養を打ち出したのも、状況対処だが、もし、コロナ当初から、五類、あるいは五類相当にして、重症化対策に全力を注いでいれば、今のような混乱は無かった。
最悪事態とは、全国蔓延の状況だが、これを、「あってはならないこと」として出発したために、むしろ破綻が迫っている。対策が状況の後追いばかりしているからだ。

蔓延防止にばかり気をとられて、二年もの歳月を無駄にし、自宅療養のケア、搬送体制、病床と人員の確保を、今頃騒いでいる。
入試、就職、資格・・・あらゆることを、入り口だけにこだわる、日本の体質がここでも出ているが、入ってしまえば何でもOKの生命力があるから、大丈夫なのかも知れない。
イヤヨイヤヨも好きのうち・・・???


裏の正論

2021年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

2008年の北京オリンピックは、冥王星が、カニ座を表す中国のピークとなる山羊座に入った年だ。それから14年、2022年再び北京オリンピックを迎える。
14年目の冥王星は山羊座の28゜で、既に、次の水瓶座にかかっている。
冥王星が、その前の射手座を通過する間、アメリカのピークが過ぎ去ったように、山羊座で中国のピークが過ぎて行く。
夏の北京オリンピックに始まり冬で終わる、きらびやかな物語絵巻からは、おごれる習近「平氏」も久しからず、諸行無常の響きが聞こえる。

コロナ拡散の失態を、断固、覆い隠そうとする中国は、コロナを制圧した中国の政治体制が、西欧の民主主義より勝っていると強調し、国民を洗脳しているが、中国が投げたブーメランが、インドに行って還ってきた。
カニ座の中国と、山羊座のインドは表裏一体の因縁の関係だ。180゜に位置する両星座は全く違うスタンスで、シーソーのように向かい合っている。
山羊座は天頂の孤高であり、カニ座は天底の情愛だ。祖父母と孫の関係で、全く違うものが互いに求め合う。

カニ座の中国はワガママな幼児で、ワガママを通すために可愛がられたいと思っている。それが「メンツ」だ。
一方、山羊座のインドは誰にも頼ることができない孤独な老人で、人生の意味を考え続けている。それが仏教やヒンドゥー教を生んだ。同じ山羊座のユダヤ人は、一神教の元祖になった。
祖父母は孫に人生の意味を見いだし、孫は祖父母の愛に安心を得る。カニ座と山羊座は、「生きる」において表裏の関係にある。

日本の手本
コロナは孫のしたウンチであり、祖父母は叱りもしないで、「わあースゴイね!それじゃあこれで、もっとやってごらん」と、変異株ケーキを与えた。
親からすると、この関係は子供の教育にならない困った行動だが、どこかで助かってもいる。
デルタ(インド)株の登場で、中国はヤバイと思い出した。抑えきれない強力な感染力を見て、ロックダウン方式の限界を覚り、中国の好きな「常態化」に国民を導こうとしている。自慢のコロナ「制圧」をそっと引っ込めようとしているのだ。
国内の蔓延よりも、仮に、世界で唯一、無菌室にしたとすれば、自ら経済的孤立を招くことになる。
デルタ株は祖父母が孫に与えた、無言の教訓だ。

中国がコロナ「常態化」を模索し始めたのは、イギリスの行動を「なるほど」と思ったのだろう。日本の、出来もしない「制圧」のドタバタも十分に参考にしている。
イギリスと日本は、中印の表裏関係と同様に、牡羊座と天秤座の表裏関係にある。
牡羊座のイギリスは事始めの国であり、一人で始めるが、日本は「みんなで始める」。
日本の防疫騒ぎは、他国のマネであり、マネだから上手くやれない。同じマネするなら、日本にとって最も有効な手本は、またもイギリスであることを早く悟るべきだ。
イギリスは、デルタ株事態で、集団免疫はワクチンでも不可能と判断したようだ。
まさに、「英断」だ。


二百年後

2021年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム

オリンピックを強行すれば、やはり、それなりの盛り上がりはあった。日本の金メダルラッシュで、反対していたことを忘れた人は、為政者の愛する良き民衆だ。
確かに、菅総理の言う「責任を果たした」が、スポーツ大会であって、オリンピックは無かった。と言うより、新しい時代を告げる、記念すべきオリンピックと言うべきなのかも知れない。
無観客や、選手のバブル隔離、スポンサーの敬遠など初物尽くしで、近代オリンピックを支えた柱が、ことごとく失われた。
さらに、これに続く北京も、世界の嫌悪の中で、ヒトラーのベルリン大会の様相を帯びてきた。
近代オリンピックは、東京・北京で、終わるか生まれ変わることになる。

この先もオリンピックを続けるならば、名前だけ残して、理念も形も一から刷新する必要がある。全く同じことを続けようとすれば、自然消滅する。既に、経済効果も見込めず、開催を名乗り出る国が減り、残るのは、国威プロパガンダの道具にする中国のような国だけだ。
オリンピック招致で、日本が得たもの失ったものを冷徹に評価する必要がある。そして、中国は何を得て何を失うか。この観覧の方が面白そうだ。

ミレニアムのイベント
オリンピックがこの時期に強行されたのは、アメリカのテレビ放映の都合であり、アメリカで人気が無いオリンピックは、他のスポーツの閑散期の穴埋めに使われ、IOCはそれに合わせなければ開催できず、しかも、視聴率は最低だった。まさに、20世紀方式の終焉を告げている。
情報化時代に一堂に会するスポーツイベントをしたいなら、ムダの無い固定方式だろうが、逆に、通信を生かした各競技の「世界分散方式」も可能だ。持ち回りか固定で、各競技を世界同時開催すれば、世界中で地元開催と国際イベントを体感することができる。しかも、南半球と北半球で夏冬同時開催もできる。

様々な方法が考えられるが、今回の、東京・北京は近代オリンピックを改める機会になりそうだし、フランス大会を打ち止めにすれば、クーベルタン記念で美しく終われる。
オリンピックに限らず、2020年代は第二次大戦後と同様に、世界が大きく変わる。
結果的に主導権を握るのは大国ではない。
近代国家が失われていく過程で、大国は自己崩壊し、中堅国連携による新時代の秩序が生まれ、その後、地球連邦的な新秩序が生まれていくのだろう。連邦というのも概念であって、実際は様々な組織の集合体になる。二百年後の話だが。

どういう世界が生まれるか、霧の彼方だが、確かなことは、現在の国家を前提に将来を考えても始まらない。将来の地球国家を見据えながら、そのステップとして政経を進めていかなければならないだろう。オリンピックもその一つだ。


風も爆弾

2021年08月08日 | 星の流れに

魚座に入った木星は6月21日、魚座の2°から逆行し、7月28日から再び水瓶座に還っている。しかし、10月半ばに水瓶座の22°から改めて魚座に向かう。
次の星座の影響圏は25゜からと言われているが、実際には23゜ぐらいから始まる。したがって、2020年の水瓶の影響がブリ返すのは10月前後だけだが、太陽が天秤座の期間なので、むしろ多少良い影響が垣間見えるだろう。と言っても、2020年を振り返れば解るように、牡牛座の天王星と水瓶座の木星は相性が悪い。

このコロナ禍現象は、喉と気管支を表す牡牛座に、「ハプニングとインパクト」の天王星が入ったことによる。つまり、喉の病気がセンセーションを巻き起こしているので、ここに土・木・火などの惑星が悪い角度になれば悪化する。昨年は土星と木星が水瓶座にいて、土星は今もいる。土星が魚座に抜けるのは、2023年の春だが、22年の春頃から23゜圏に入るので、波を打ちながら影響が薄らいでいくだろう。病気が無くなると言うより、センセーションが薄らいでいく。

運命論的に見れば、コロナ禍は、疾病の実体よりセンセーションの方が大きい。
とは言え、世界の歴史はこのような人間の心理が動かしているのだから、やはり重大な事件には変わりない。ただの空気でも風速80mは爆弾になる。


ミソクソ

2021年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム

落語の「はてなの茶碗」の枕で、「古いもんなら何でもええ値がつくそうやから、うちのオバア売ってこい!」という下りがある。
誰でも笑う味噌糞一緒の「単純化」話だが、中国のスポーツ観はこのレベルだ。スポーツを勝ち負けだけで考えている。
国として、スポーツを国威発揚の道具にしているから、国民もスポーツとはそういうものだと思っている。勝てば愛国で負ければ「敵」を憎み、負けた自国の選手を非愛国と叩く。

スポーツを文化として楽しむ国では、敵味方、勝ち負けは、楽しむための目安に過ぎず、スポーツ観戦も、人間の生き様を楽しんでいる。
麻雀好きは麻雀で、ゴルフ好きはゴルフで人柄が分かると言う。
スポーツに対する姿勢にも、自ずとその国柄が現れる。国別のスポーツ大会は国民性の見本市でもある。
ドーピング問題にしても、スポーツを結果だけの道具として考えれば、手段は関係ない。
「技」としてのドーピングが難しくなれば、当然、別の技を繰り出すだろう。

中国のように、纏足や宦官を文化にした国で、デザインベビーが出るのはごく自然だった。世界の目があるから、医師が処罰されたが、中国の価値観としてはむしろ、「すごい技術」と感動していただろう。そんな国が磨くスポーツの技は、漢方薬の次は当然、遺伝子操作だ。
何しろ、スポーツの目的が違うから、結果のためなら何でもありだ。動物の遺伝子を組み込んだ「アスリート」が出てくる日も遠くないだろう。動物の能力を取り入れるのは元々カンフーの伝統だ。
ただ、スポーツを国威のメンツと考える中国は、不正がバレてメンツを失うことも避けたい。バレたら白を切り、恥をかかせる気かと脅し、切羽詰まれば、ドロを塗られたと被害者になる。コロナ起源もウイグル問題も、変わらない。
メンツは中国人の説得にも効く。勝ちに拘るネット民が日本選手を罵ると、「国際的にみっともない」から止めろという意見も出た。

ネット時代の味噌糞
日本人も、勝ち負けだけで考える人は少なくない。それでも、前回の東京五輪の頃より、多少は進歩した。ゴール前で抜かれた円谷が自殺したような悲劇は無くなったが、ネットで直接誹謗中傷する数はむしろ増えた。
それでも、体験スポーツ人口が増え、社会全体の意識が底上げされ、国威発揚とは考えなくなった。負けた選手を誹謗中傷するのは、自分ではやらないネット住民だ。アスリートを単なるゲームキャラぐらいに考えている。人の気持ちなど想像する能力がない。

麻雀やゴルフより、人間性が表れるのは運転だ。「ハンドルを持った途端」豹変する人がいる。車が自分の思い通りに動くことで、王様になるという説があるが、微妙に違うと思う。
運転に集中することで、社会性に配慮していられなくなる。周囲の人を忘れて地が出るのだろう。
同じ事はネットにも言える。ディスプレイとの対話には全く第三者がいない。文字通り「傍若無人」になり、なりふり構わぬ子供になって喚き散らす。
ネット上の誹謗中傷は、場合によっては取り締まる方向に・・・などと遠慮する必要はない。交通違反の切符のように、どんなに小さくても罰金を取ることにすれば、大きな犯罪になる前の抑止効果が生まれるのではなかろうか。


因循姑息

2021年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム

近代オリンピックの意義がまた一つ怪しくなっている。
性転換をしてオリンピックに参加するニュージーランド選手の正統性が話題になっているが、国別対抗、男女別の競技といった、近代の大前提が崩れてきた。
近代は、現代でも未来でもない。
近代の定義云々を言い出せば、専門家がうるさいことだろうが、ここでは一時代を約250年×3の、約750年と考えるから、今は、大航海時代、産業革命時代に続く、次の時代への大転換期に当たっている。近代を産業革命時代の250年と考えれば、この間の仕様、しつらえは改める時が来た。

今、オリンピックやワールドカップで、ナショナリズムに燃えて応援する「国」は、近代の概念だ。日本も明治以前は幾つもの「お国」で成り立っていたし、ヨーロッパも同様で、大航海時代に生まれた植民地も、独立して国家になった。近代国家は300年も歴史がない。歴史の古さを誇る日本も、近代国家としては、アメリカより新しい。
この先の250年は、近代の国家が消え、新しいユニットが世界を構成することになるのだろう。
いずれにしても、近代オリンピックの前提条件「国家」が崩れ、選手が国籍を変えるのも普通になっている。更にトランスジェンダー問題では、「性別」も崩れることになる。

欧米で生まれたスポーツ競技は、階級別が前提で、相撲のように、小兵が巨人を倒す痛快さなど始めから想定されていない。
欧米人は差別ではないが、極めて区分け、弁別が好きで、それが科学を生んだが、区分けを超えるダイナミズムを理解できない。
ついでに言うと、日本人より欧米人に近い中国人は、区分けをして差別する。逆に、日本人の差別意識は非合理で、恐怖心による嫌悪が差別になる。これは中国より朝鮮に類似する。日本人の被爆差別や感染差別には合理性がない。これに対し、福島でアメリカが80キロ以内の退避勧告を出したのは情や差別とは関係なく、状況が見えない時の合理的予防措置、区分けだ。

概念、定義の仕切り直し
しかし、欧米流の区別の大前提は近年、大きく崩れてきた。これも科学の成果によるものだが、不確定性理論やDNAの発見によって、これまでの区分けが成り立たなくなった。
目に見える姿で物を定義することができない、まさに、色即是空、空即是色の世界が現れた。
これまで当然と思われていた「男女」の違いが、実はそれほど確かではなく、個人は生地でも民族でも別けられず、国民は政権の臣民ではなく、働かざるものも食えるようになった。自然環境は変わり、南の砂漠に雪が降り、ツンドラや氷河が溶け、季節は失われる。

これからの250年は、過去を維持しようとする者は、過去と共に消えていく。
20世紀までかろうじて命脈を保ってきた王族も、それを守ろうとする勢力と共に消え、地政学的な環境が失われれば、やがて近代国家も破綻する。
そんな新しい時代に、近代オリンピックを続けようとすることは、
散切り頭ではなく・・・半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする、人々だ。

将来のスポーツ競技は、男女や障害など、現在の区別がむしろ有利になる種目が生まれることで、何の制限もない競技が可能になる。そうした根本的なことから考え直す時代が来ている。
ギリシャ神話には、男に勝る女狩人アタランテの話やアマゾンの話がある。これは男社会ゆえの猟奇趣味的な話だが、女性が否定されているわけではない。
神話の夢が次々と実現する未来では、同一競技を無差別で競うことは可能だろう。