魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本昔話

2014年01月30日 | 星の流れに

天秤座の火星によって、乙女座の火星で叩かれたオセロの中島のように、日本は中韓に叩かれている。

オセロの中島叩きの時、何も関心が無かった者としては、「何をどうでも良いことを大壮に騒いでいるのか?」と思ったが、おそらく、中韓の日本叩きは、あの時のマスコミのようなものだろう。

恣意的に騒ぎ立てれば、第三者は、「へー、そうか」ぐらいの感想を持つし、「そう言えば」と反応する。中韓の宣伝を聞いた国は、ダボス会議の安倍首相の発言に、「なるほど、本当に出た!」と思ったようだ。
しかし、人の噂も七十五日。今、中島に関心がある人が、どれぐらいいるだろう。

相手が公に騒いでいる時には、なるべく多くの身近な人間と理解を密にし、共存関係を深めておくことだ。表だって反論すれば、不毛の論争に巻き込まれる。
宣伝効果は馬鹿にならないが、個々の理解と信頼は時間では風化しない。

火星が自分の星座に来れば過激になり、目立ち、悪評を被ることが多いが、他の惑星との吉角で、逆に好評を得ることもある。
水星や太陽が吉角の水瓶座の季節に入って、発明や発見の大きなニュースがあった。

三角縁神獣鏡が、背面の図柄を映し出す魔境であったというニュースと、「STAP細胞」実現の発表だ。
おそらく、発表は今だが、いずれも木星双子座の時の成果だろう。
しかも、火星の意味する「若い」学者だ。名前も面白い。「おぼかた」さんは名前はおぼこいが、業績は世界の権威をうならせた。

まるで常温核融合のような革命的発見だが、
小保方さんは当然、子供の頃、昔話「若返りの水」を読んだことだろう。
日本には、まだまだ多くの昔話が残っている、コロンブスの宝島だ。

でも、すぐに、「これがSTAP細胞技術を使った美容液ですよ」と、新しい物語で商売する奴も、現れるにちがいない。


核心利益

2014年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

戦争は科学を進歩させるという。
新技術を発展させるのはエロ産業だといわれる。
なぜ、悪事は新技術を進歩、発展させるのか。
それは、悪事とは元々、常識破りの存在だからだ。

善行とは秩序を守ることであり、新しいことは必ず秩序を乱すことになる。
秩序を維持し、平和を守る最も簡単な方法は、何もしないことだ。
「最も良い敵は死んだ敵だ」のような言葉がある。何もしない者、何もしない社会は、少なくとも害にはならない。

だから、安寧だけを求める宗教や権力者は、ひたすら新しいことを拒否する。月探査やバイオ技術など、変わったことが起こればすぐ「倫理」問題として押さえ込もうとする。変化が起こる度に倫理を持ち出し、否定に回るのは良識のある「善き人」達だ。

時代の良識の中で、少しずつ古い常識を破ってきた科学者のお陰で、今日、科学は常識になったが、ガリレオ、ダーウィン、ジェンナーなど、その道はやはり楽な道ではなかった。

しかし、科学が常識になると、今度は、その科学が科学を抑える側になる。
厳密に言えば、科学が抑える側になるのではなく、科学利権を持つ産官学の抵抗だ。新技術に社会を変えられては困る勢力が、科学を口実に新概念を拒否する。

ことに、医療やバイオには激しい抵抗が起こる。月面探査や火星生命とは違い、我が身に関わることは、人の恐怖感に訴えやすいこともあるが、それだけ利権も深く根付いているということだ。

欲のためなら何でもあり
体制が利権のために新技術を押さえ込もうとしている間に、秩序に従う気のない者、つまり犯罪者は、できるだけ新しい知識や技術を手に入れようとする。規制の裏には、常にボロ儲けのチャンスがある。
捕まるリスクさえ気にしなければ、競争相手のいない裏街道は、濡れ手に粟の千手観音だ。

戦争が科学を進歩させるのは、戦争そのものが、無秩序だからだが、
同様に、秩序破りの犯罪者は、最も早く新技術を習得する。それは敵の盾を打ち破る新兵器のように、金庫破りの魔法になるからだ。

金儲けさえ出来れば何でもする人間は、鵜の目鷹の目で、新技術を漁っている。科学者が純粋に好奇心で発見した知識も、泥棒には宝島の地図と鍵だ。命がけで習得し利用する。努力の次元が違うのだ。

専門家以外で、IT技術を最も早く活用したのは犯罪者だろう。
夢と好奇心から生まれるアメリカのアイデアや、コツコツ開発する日本の技術で、素早く金儲けをしたのは中韓だ。
知的財産権とか、核の平和利用とか、先進国の利権など関係ない。

犯罪者が技術者に感謝することがないように、中韓が先進国に感謝することなどない。犯罪者が新技術を開発しないように、中韓から新技術が生まれてくることはない。目的が違うのだ。
そして、欲に駆られて動く者には、新技術の使用に節操など無い。
確かに、戦争は多くの物を生み出すが、それを進歩と言うのだろうか。

中国はさらに新しい空母を造るそうだ。そして、数千のミサイルが日本に照準を合わせていると得意になっている。
夢や好奇心などどこにも無い知術利用だ。
日本潰しのミサイルなど、原発用50本で充分だと思うのだが。


ステルス

2014年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

中韓の報道を見ていると、もう、本当にウンザリするが、それ以上に、ここまで下手な対応をする日本に、ウンザリする。
今、日本の大方の見方では、過去の政治家の不手際のせいでこうなったと思われている。

確かに、過去の政治家に色々問題はあった。しかし、政治も外交も常に現在の問題だ。
欧米が正しいわけではないが、今回の欧米の靖国反応は、「何だか良く解らないが、やっぱりアジアは目クソ鼻クソだ」の溜息に聞こえる。

昔の政治家の失政を批判し、中韓と揉める今の世代の対応が、賢いとは思えない。
今の政治は、スジを通す・・・と、言えば聞こえは良いが、ものごとは複層的で、スジを通せるのは、答案用紙の解答だけだ。

この複層的な感覚、答えの無い状況、現実の持つ、本質的な真実。
その漠然とした本質に働きかける知恵と力。今の日本人は、どうも、そういうことが解らなくなっている。

一国の総理が、国会で他国の言いがかりに、「そういう証拠はない」と言い切ってみたり、相手が否定していることを、「果敢にも」実行して見せたりする・・・何と青臭い
欧米のように、相手が怒るから遠慮しろ。などと言うのではない。
相手を撃破するには、下策中の下策だということだ。

挑発に、飛んで火に入る夏の虫
大阪攻めの、上田で足止めされた秀忠軍。真田丸で敗退した前田勢のように、挑発に力任せの対応は、後世の恥でしかない。

表面の力だけに頼るから、智恵が出ない。日中より、朝鮮半島の方が遥かに狡猾で知恵がある。昔から大国を手玉に取ってきた、弱小国ゆえの生き残り戦略だ。一つ一つの行動は、どう見ても大局的な視野があるとは思えないが、動物的感覚を持っている。

日韓併合なども、歴史的に見れば結局は、朝鮮の勝利だ。そういう生命力に日本は気づいていないし、中国は解っていても手に負えない。
朝鮮半島は煮ても焼いても食えない。

良いつもりで、か弱い彼女を守ってやらなくてはと、世間知らずのボンボンが、結婚して尻に敷かれ、退職したら離婚され、あちこちで別れた亭主を罵って回る「どんだけー」の、「関わり損」の相手なのだ。

差別的で嫉妬深い、粗野な中韓には、常にポーカーフェースで過ごし、
むしろ、「ステルス・プロパガンダ」に徹するしかない。
日本が磨き上げた、京都的外交戦術。「おおこわー」の態度に徹すべきなのだ。

金や力にものを言わせる輩には逆らわず、品格を保ち、褒め殺しをしながら、陰に回って多数派工作をする。力と力を争わせ、金持ちは消耗させ、軟弱そうな顔で、文化の管理人や知恵袋として指南する。

当面、韓国流を逆手に取ってやるべき、ステルス・プロパガンダとしては、世界中のネット上に、「日本の意見ではなく」他国の第三者の意見として、日本の主張をワケ知りに解説することだ。(nativeで)
日本は可愛そうなヤツだと。戦後何度も謝罪し、様々な贖罪をしてきたにもかかわらず、日本に嫉妬する時代錯誤で下品な中韓のために、いじめられていると・・・ジョークっぽく、面白おかしく


なお、人民解放軍に対しては、「文化解放軍」で


仮想通貨

2014年01月23日 | 世相史観

ようやく今ごろになって、仮想通貨が大問題になってきた。
このブログを初めた時から一貫して言っていることだが、通貨や為替に人類史的大転換が起こる。
それとともに、近代国家という、死に損ないの組織が終焉を迎える。
その始まりの始まりが始まった。

2500年の貨幣の歴史の最後を飾る近代国家が、新テクノロジーと経済秩序の混乱を生み、自滅する。これも人類史の生々流転だ。
通貨を支配する国家。国家を越えて物流を支配する為替。それを利用して生きるマネー。
そして、それらを拒否する仮想通貨の出現。
事ここに極まれりだ。

仮想通貨がこれら全てを吸い上げて、通貨体制が崩壊すれば、大航海から産業革命の過去500年の、財をめぐる世界ゲームが終わる。
資源を全地球的に消費する仕組みが崩壊することで、地球を食い尽くす人類の膨張にブレーキがかかるのか、それともさらに加速するのか、それは解らない。ただ、解っていることは、近代国家と通貨の消滅だ。

今の人間には想像が出来ないことだが、国家や通貨が無い世界は何によって維持されるのだろう。強権や暴政だろうか、それともユートピアのような賢人社会だろうか。
賢人社会が来るとは到底思えないから、暴政の方がありそうな話しだが、その前にもう一つ試されなければならないことがある。
仮想国家だ。

仮想国家
危うい存在とは言え、仮想通貨が成立したように、仮想国家も不可能ではない。
武力を背景としない国家は、実際には、結社のような存在で、土地、民俗、宗教を越えた、フリーメイソンやエスペランティスト、あるいは広義のNPOのようなものも含まれるのかも知れない、自発的参加者による相互協力の存在として、SNSよりも、もう少し責任のあるつながりで、あるいはその連合体のようなものかも知れない。

善意の意思連合が、国家を越えて機能する状態は、仮想通貨が国家を越えて機能する様に似ている。国家はそのネガティブ面だけを取り上げて排除、撲滅キャンペーンに動くだろうが、ネガティブ面なら実在国家にもある、と言うより、戦争などを引き起こす国家の方が、もっとネガティブだ。
現に、仮想通貨に否定的な国ほど、古代的国家だ。


ビットコインが発案されたのは2008末だそうだが、
このブログは予言はしないが、先見と提案はしてきた。
2006/9には、「タイが魚座で、どうよ」で、既にこの件は話している。

先手必勝 1」、「超正念場」、「愚老張る(2)」、「君臣豊楽(3)」


南野日子

2014年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

20日の読売onlineニュースで

「西日で前が」…横断中の女児死亡、母軽傷

の見出しを見かけ、一瞬、「」に気づかず、「西日」ってなんだろう?
「祭日」の変換ミスだろうか、「西日」という地名での事故だろうか、西日本で起こった事故だろうか、とすればどこだろう?
などと、錯乱した。

記事を読み始めて、ハタと気づいた。「にしび」のことだ。
解ってしまえば、何でそんな錯覚をしたのか解らないぐらい、「西日」は「にしび」としか読めない。

思い込みとはそんなもので、「にしび」は「西日」しか思いつかない人には、逆に、「西陽」は出てこないのかも知れない。
これまで、「にしび」に「西陽」しかイメージしてこなかったものだから、「西日」は西日本の略ぐらいしか思いつかなかったのだ。

辞書を引き直すと、「にしび」の正式表記は「西日」で、「西陽」とも書くぐらいの扱いだ。

しかし、我田引水のつもりはないが、「にしび」には「西陽」の方が、より妥当だと思う。

「日」という文字は、元々、太陽をイメージしている。それに対し、「陽」は陽ざし「光り」を意味するものだ。陽ざしの大根源という意味が太陽だ。

「日」は太陽そのもので、太陽を数えるのが日々のカレンダー「日よみ=かよみ=暦」と言われる。「毎日」と言うが「毎陽」とは言わない。
逆に、「陽気」とは言うが、「日気」とは言わない。
小説「斜陽」を「斜日」と言ったとしたら、かなり意味不明になる。
南野陽子と南野日子は相当イメージが異なる。

「日」は太陽、「陽」は太陽から差す光りだ。

逮捕された会社員は
「西日で前が見えなかった」と言っているそうだが、
西に太陽があっても、雲でかすんでいる場合もある。
しかし、
「西陽で前が見えなかった」と言えば、確実に眩しかったことが解る。

ニュース記事に、そこまで考えるヒマは無いだろうが、辞書を作る人には、「にしび」の第一候補は「西陽」にしてもらえないものだろうか。


この道は(3)

2014年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

われ先の時代
昭和初期、世界的な不況とブロック経済の中で、東洋では日中戦争、西欧では全体主義と共産主義の葛藤が起こり、互いの囲い込みによる生存権争いが起こった。

今、FTAからTPPへ続く状況や、地政的あるいは経済的、大国同士の覇権争いなども、ブロック経済と同じ、要は、生存権の争いだ。
それが戦争になるかならないかは、時代の「覇権の意味」によって変わる。例え、戦火を交えなくとも、マネーや情報の争奪によって、ある国は勝利し、ある国は敗北して困窮することになる。

戦争は殺し合いだから、例え、戦火を見なくても、双方が傷つくことになる。経済的な混沌状況が生まれることでも、支配権が移り、財力が移り、世界のバランスが変わる。

こうした、生存権の争いが、生きていくための当然の行動のように思えるのが牡牛座の時代だ。
冷静になって考えれば、協力し分け合うことが互いの生存を守ることになると、誰でも解ることなのに、バーゲンセールに突っ込んでいく人のように、われ先になるのは、人類の性なのだ。

思考停止への道
昭和初期の大不況から、戦争までの道は、牡牛座の時代だ。
冷静になって考えれば解ることが、考えられなくなっていく時代でもある。
最大の理由は、食べる物に窮すること。不作と不況だ。
「貧すれば鈍する」は、誰にでも当てはまる。

苦しいと、人は考えられなくなる。それでも、そういう中で考える人こそが偉人なのだが、普通の人は、考えることを止めてしまう。
混乱と抑圧の中で生まれるのが宗教だ。
自分を見つめ生きる理由を求める哲学と、苦痛を取り去る救いの宗教とは、区別が難しいが、思考停止した人がとりつかれるのは宗教だ。

苦しい状況を自分で抜け出そうと考えるのではなく、誰かの力によって「自分は間違っていない」と安心させてもらうのは、宗教者ではなく信者だ。
あなたは間違っていない、正しいことをしていると告げる言葉は、思考停止した人にとっては、五臓六腑にしみ通る一杯の酒だ。
美味くて、気持ち良く、全てを忘れさせてくれる。
昭和初期には、新興宗教が次々と興った。

笛吹き男の出現
私の言葉に従う限り、あなたは正しい。われわれは正義だ。
髪を振り乱して叫んだヒトラーだけではない。神の民族に逆らうものは鬼畜だ。ブルジョワは民衆の敵だ・・・様々な教義が、追い詰められた人達を導いていった。

こうした言葉に簡単に反応する下地は、苦痛の中の思考停止から始まる。理屈っぽく語ることが嫌われ、語る者は揶揄され拒否され、やがて危険人物と見なされるようになる。今流行りの「語るね」もそうだ。
日本では和歌が大和魂の象徴として持てはやされたが、今また、和歌が大ブームだ。

もちろん、和歌を否定するものではない。世界に冠たる偉大な文化だ。問題なのは、理屈っぽい論壇が拒否され、お笑いと誹謗、簡潔な和歌、あるいはツイッター的文章だけが受け入れられる、世の空気だ。

クローズアップ現代で取り上げられた、聞き心地の良い言葉が氾濫する「ポエム」への危惧とは、
均質化を求め、変わり者を排除し、イジメを生むような学校教育で成長した若者の姿だ。もう若者とは言えない、40代まで広がっている。

快適な感覚だけを受け入れる思考停止の中で、正義のため、国のため、良い事のため、滅私奉公・・・と、解りやすい笛に付いていく。
そういう時代にさしかかっている。


この道は(2)

2014年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

時代の渦中にいると、「何か前とは違うぞ」と思うぐらいで、その空気がどんなものかは客観的に理解できない。
まして、初めてそこに登場した若者には何の違和感もない。

今の時代、今の流れを知るには、歴史知識と経験に照らし合わせる必要がある。40年前の経験はあっても、100年前の生きた経験は誰にもない。
40年前の経験が歴史に活かされるのは、単なる記憶ではなく、体験した感覚の記憶が、歴史にどう記されるものかを知る時、初めて100年前の歴史の実体と感覚が理解できるようになる。

若い人であっても、言葉と実体のギャップを良く理解した人なら、想像力で、歴史の実体を理解できるだろうし、そうで無い人は、どんなに経験を積んでも、何の足しにもならない。

天王星の再来
どの時代のセンセーションも天王星の影響を受けているから、今の時代のムードは、84年前のムードだと思えばいい。
もちろん舞台設定は違うから、一見違った風に思える。
同じ曲を違う歌詞で歌っていると思うと解りやすいかも知れない。
言葉が違えば全く違うように思うが、ノリは同じだ。

ラジオ時代の昔、NHKの「三つの歌」という番組は、出てきた曲に合わせて、三曲歌えたら「合格」だった。
若い女の人が、二曲目をクリアし、いよいよ三曲目。
音楽が鳴り始めると、『楽勝!』とばかりに、勢い込んで、
「♪ たんたんたぬきの、キー」で、突然ストップをかけてしまった。

会場大爆笑。司会者も笑いながら、「どうしました?」と意地悪く聞く。
結局、続きを歌うことが出来ず、残念ながら「不合格」
会場で爆笑した人も、ラジオの前で爆笑した人も、
「向こう横町のたばこ屋の可愛い看板娘・・・」よりも、
「たんたんタヌキの金○は風に吹かれてブーラブラ」の方がすぐ浮かんだだろう。だから大爆笑になった。

この元歌は、スローテンポの讃美歌「 Shall We Gather at the River」で、葬式などで歌われる歌らしい。言葉が違うと全く逆のように思えるメロディーだが、歌う人を楽しく、あるいは気持ちを浄化させることは同じだ。
また、文化の違い故に、違う方向性の歌詞で歌われるものもある。
英語版の「蛍の光」は日本語版のように、麗々しくしんみりとした歌詞ではなく、肩を組んで酒を酌み交わすのに良さそうな歌詞で、実際、楽しそうに歌う。過去に対する考え方の違いだ。

つまり、表面に現れる言葉、事柄で、時や場所により、全く違うことをしているように見えるが、気分は同じ気分、同じ衝動で動いているということだ。

天王星が今、奏でているのは、84年前に奏でていたオヒツジ座のBGMだが、間もなく牡牛座に変わる。
先日、クローズアップ現代で、若者が心酔する「ポエム」のような言葉の話をしていた。言語や社会学の立場からの懸念が出ていたが、これこそが、まさに時代を覆うムードであり、やがて、牡牛座の時代に引き継がれていく現象だ。


この道は(1)

2014年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

北原白秋のこの歌は、戦後ことある毎に、「この道はいつか来た道」と、軍国主義復活の例えとして使われた。

この歌を聴いて育ち、戦争を経験した世代にとっては、軍国主義復活の警鐘として、反射的に口をついた言葉だ。
昭和40年代頃までは頻繁に見聞きした。
しかし、それは、厭戦気分に浸る、心地良い節回しでしかなかった。
この歌詞が繰り返されていた頃には、
「いつか来た道」を見ることはなかった。

この言葉に反応する人が減り、この歌もあまり聞かなくなり、戦争が歴史の一頁に記録されるような時代になった今。
天王星は84年の旅をして
本当の
「いつか来た道」に帰ってきた。

84年も経てば、景色も様子も変わっている。自動車が列をなして行き交う8車線道路を、まさか、戦車や兵隊さんが行軍していくとは誰も思わない。
しかし、デザインや呼称は変わっても、道標の行き先は同じだ。

昔と変わったことは、信号機というものが付いたことだ。
少し、向こうに赤信号が見える時、日本人はどうするのだろう。


補完関係

2014年01月15日 | 占いばなし

占い的に気質が矛盾する人は、他人からは二重人格と思われ、自分は二つの衝動に悩まされることになる。そして、案外、こういう気質の人は珍しくない。
しかし、実際には何らかの形でその衝動を抑え込み、見た目は普通の人格に成長する。しかも、案外、自分自身もその傾向に気づいていないことが多い。

こういう人は、成長期に、自分を抑えて社会に順応することに、相当、苦労し、消耗するから、能力を発揮するのが難しい。

そういう矛盾する生まれの、一卵性双生児の姉妹に会って驚いた。
二人が全く正反対の性格をしている。本来は論理的思考と直感的衝動とが同居して、相当苦しむ複雑な性格のハズなのに、その二人は、一方が脳天気で、一方がクヨクヨ悩み込むタチなのだ。

話している時も、一方がペラペラ喋っている時、それを聞いて一方が悩み込んでいる。そのコントラストが、あまりにも極端で、思わず笑ってしまった。
これは、おそらく、両極端の衝動を、互いが役割分担として引き受けて育ったのではなかろうか。

実際、真反対に見える姉妹だが、よく観察すると、どちらにも複雑と直情が存在している。何事も難しいことは解らないと突っぱねる方は、解らないのではなく、思わず考えてしまうから、考えないようにしているのであり、何でも考え込んでしまう方は、考えている内に落ちこんで、すぐ涙目になる。
すると一方が、またクヨクヨ考えてる・・・と笑い飛ばす。

これが、双子でなければ、自己矛盾となって、自分をバランス良くコントロールするのが難しくなるところだ。
双子はよく似た思考をすると思われているが、このケースのように、元来、矛盾した気質の場合、分離して互いがハッキリ違う人格に成長するケースもある。

ザ・ピーナッツや茉奈佳奈のように、「似てるハズ」を前提に人前にいる人達は、努力して同じようにしているのだろうが、実際は、互いが違う役割分担をする方が、自然で楽なのだろうと思う。
ことに、ザ・ピーナッツの場合は、やはり矛盾した気質なので、茉奈佳奈のようにタレントとして自由に個性を出せなかったのは、辛かったことだろう。

もちろん、それでも、基本の気質は同じだから、互いの考えていることはよく理解できるはずで、期待通り双子らしく振る舞うことは難しくないだろう。

また互いに、バランス良く補い合えば、独りで抱え込むより、相当、有利に能力を発揮できると思うが、得する性格と損する性格に別れるとすれば、片方が犠牲になることになる。
これを避けるためには、一方の引き立て役と考えず、文武、文理のように、まったく逆の分野に道を求めれば、それはそれで、大きく発展することができる。


勝手活動

2014年01月10日 | 星の流れに

闘病中だった、やしきたかじんの訃報。天秤座だ。
火星が天秤座に入って、天秤座はもちろんだが、全ての活動宮が窮地に陥っている。
みな自分では良かれと思って踏み出したことで、マズイ状況になっているが、あまりその自覚がない。

カニ座の中国、山羊座のインド、オヒツジ座のEU、そして天秤座の日本。金正恩も山羊座だ。
今はそれぞれ、自分に都合の良い解釈で、さしたる問題ではないと思っているが、やがて、思惑の違いがぶつかることになるだろう。
周囲も、どの立場に立つかで見方は異なる。

木星がカニ座にいる時はナショナリズムが高まる。
つまり、個人も集団も、誰でも自己中になる。自分の立場からしかものが見えなくなり、自分は正しく相手が間違っていると思う。
そこに、火星が天秤座ときた。

天秤座は平和と道義を表す。正義感はオヒツジ座で、その裏である天秤座は正義感の到達すべき所。人としてあるべき理想を表す。
オヒツジが正義感で、天秤は裁きだ。

火星が天秤座に来ると、みな若者のように正義を信じ、性急に他を裁こうとする。もとより、現在オヒツジ座には爆発の天王星がいる。
争いは、互いが自分の正当性を信じる時に起こる。

2014年、欧米では第一次大戦100年が注目されているが、極東では日清戦争から、二度目の甲午還暦120年に注目が集まっている。
中国では「敵討ち」の気運が高まっているようだ。
本当に困ったものだと思うが、一党軍事独裁だから、そういうことしか考えられないのだろう。
パクパクとしては、むしろ、84年の昭和一桁に注目だ。

世界中の軍人=火星が、このところずっと興奮しているのだが、火星が来ているこの半年がピークだ。
中韓は、安倍総理の靖国参拝を、反撃のチャンスと捉えて、日本叩きの大キャンペーンに出ているが、言っていることとしていることの矛盾が、靖国参拝どころではない。

自分に都合の良い解釈をしている国ばかりだが、
活動宮の人は、「国の振り見て我が振り直せ」と言ったところだ。

ドッカーン」、「誰のせい」、「レッテル」、「時勢現象」、「木星火星


気くばり

2014年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

岡村隆史が、付き合う女性の条件として、「箸を洗った後、立てる上下を気にしないような人はイヤ」と言っていた。
もしかしたら、世の中には、この意味を解らない人が、結構いるのかもしれない。

家相とか気にする割りに、家の窓の開け方を知らない人がいる。
解る人にはくどい話しだが、二階建ての家は一階だけ開けても意味が無い。二階と一階を開けて、上下に空気が流れるようにしなければいけないし、同じ階でも、空気の流れを考えて、離した位置を開けなければ意味が無い。換気扇を回しても、他にどこか一カ所は開いてなければ、出入りの流れができず、却って色々と問題が起こる。

そういうことを考えずに、一カ所だけ開けたり、何でもかんでも開ければ良いと、家中開けて回る人がいる。それは全開に越したことはないが、却って暑い寒いや湿気などを呼び込むこともある。
理にかなった開け方をすれば、ほんの少し開けるだけで、家中の空気を入れ換えることができる。

スマホでも、上を向けて置くか下を向けて置くか、状況によって変わるから、一概にどちらが良いとも言えないが、その都度、考える人と、無頓着に置く人がいる。

家相とか作法の問題ではない。何事も、自分で考えるか、知識で行動するかの違いだ。礼儀作法にうるさい人ほど、自分で考えようとしない。
だから、何か新しいことをしようとすると、固まって動けなくなる。どうして良いか教わっていないからだ。

行動の前に考えること
近頃の日本人は、と言うより、日本社会全体が、固まって動けない。
細かいことを、あれをしてはいけない、これをしては失礼だ、恥ずかしい、空気が読めないと、互いに監視、牽制しあい、何もしない目立たないことを、美しい日本、礼儀正しい日本だと誇りに思っている。

車内では「携帯で話すな」が、当たり前になり、いつの間にかそれがエスカレートして、声を出すこと自体が失礼になり、電車や旅先で知らない同士が声を掛け合うこともない。同行者すらヒソヒソ話だ。
それでいて、ツイッターやBBS では、見ず知らずの相手に、好き放題の暴言を吐く。

規則や礼儀という知識に、異常に忠実で、相手や状況を観察して自分で判断し、妥当な対応をすることが出来ないマニュアル社会だ。
知識偏重の学校教育、受験制度が、日本人の思考力を完全に麻痺させ、社会全体が、個の思考力、個の力による柔軟性を失ってしまった。

昔の美しい日本と言う人は、何時の時代のことを言っているのだろう。幕末明治に日本に来た、外国人が感動した日本のことを言っているのだろうか、学徒出陣や靖国神社の前で整然と並ぶ人々のことを言っているのだろうか。

明治初期に外国人が書き残した伝説の美しい日本は、江戸の文化のことであり、その頃の日本人は、素朴でありながら、個々の智恵や、互いの声掛け、思いやりに満ちていた。
職人は現場で何日でも考え、泥棒が入れば諭して金を与え、多くの人が建白書を書き、政府もそれを聞いた。四民平等になると、日本中の人が商売や起業を始めた。とにかく生き生きしており、今のようなロボット人間ではなかった。

生き生きという点では、また、終戦直後の日本人も同じだった。束縛から解放された時、日本人は途方もない創造力を発揮する。
束縛と洗脳は、法律が生むのではない。束縛の法律と、神話めいた国粋論は、自分の頭で考えない知識と、自由を拒否する社会が生み出すのだ。

気くばりとは、知識通りに正しく行われているかのチェックではなく、何事にも、これはどういうことだと考える姿勢のことだ。


寝ぼすけ

2014年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム

今年も既に、5日過ぎた。
年の初めは日数を数えられるから、時の早さを実感する。
一月ほど経つと、日数が分からなくなり、「えっ、もう」と、何度も思ううちに、気がつけば桜が散っている。

1月「行く」、2月「逃げる」、3月「去る」・・・昔は一月「いぬ」と言ったが古語なので、今は「行く」の方がいいだろう。
とにかくこの季節は、正月ぼけも覚めぬ朦朧のままに過ぎてしまう。
一日で言えば、目覚めて布団の中で、ウツラウツラしていると、
「えっ、もうこんな時間だ!」と、飛び起きることになる。そんな季節だ。
冷たい人

一日と、一年を対比させる考え方は、洋の東西を問わず、普遍的にある。日本のように四季のある土地なら、一年をはっきりと感じることができるのだろうが、それでも秋になると、暖かくなる春を思い出せない。

そんな忘れっぽい人間でも、今朝のことは憶えているだろう。一年の移ろいを一日に例えれば、なるほど光陰とはそういうものかと実感できる。
一年が月の消長で12に別けられることから、一日も12刻に別け、世の中が忙しくなると、さらに半分に区切り、夜と昼の12刻を24時間とし、今では秒単位で動いている。

秒単位で動くようになったから、人間は時をよく心得ているかと言えば、むしろ逆で、めまぐるしさに忙殺され、四季、歳月を忘却し、機械が告げる時だけを信じて振り回されている。

自然の子である人間が、自分で生み出した機械時刻によって、自然から切り離された孤児になり、煌々とした文明の灯りの闇の中で、行方を失い彷徨っている。

本当に、一体この大消費文明はどこに向かっているのだろう。
大量生産が必然的に求める大消費の権益。それを求めて、再び世界をかき回そうとする遅れて来た大国。
それに乗せられ、同じように知恵の無い対抗策を打ち出す国。
何とか、事なかれで納めようとする、老いた大国。

ヒトラーを、事なかれで納めようとした大英帝国のチェンバレンと、今のオバマ大統領・・・
機械が刻む時の中で、やはり、歴史は繰り返すのだろうか。

正月ぼけの暖かい布団の中で、もう少し寝ようとするのだが、古い悪夢に取り憑かれ、どうにも眠ることが出来ない初春の朝がうらめしい。


147年

2014年01月01日 | 占いばなし

2014年1月1日

お年始代わりに何か書こう、と思うのだが、書くことが有ると言えば有り過ぎるし、無いと言えば何も無い。
世の中も、人生もそんなものなのかも知れない。

2014年? 何とも中途半端な数だ。
1999とか、2000は、特に何が無くても、大変な意味があるような気がして、滅亡論などが流行ったが、ミレニアム騒ぎを除けば、特に変わった年でもなかった。

「1961は回転させても1961」というのが一番好きだが、他にも2002の見た目とか、1987、2012なども何となく並び順がいい。
しかし、2014年に大事件が起こったら、後の歴史年表では、どう語呂合わせをするのだろう。

にわいし=庭石に躓いてアイタタタ
ふたりわひとよ=二人は一夜をちぎりおき
においよ=梅にウグイス匂い良し
・・・まあ、どうにでも言えそうだから、大事件よドンと来いだ。

また、占数学、数字占いで見れば、2014年は「7」の年だ。
占数学のみならず、姓名判断や九星のように、全ての占いに、数の意味は切り離せない。
それぞれの占いで、意味合いは異なるものの、大まかな概念、色合いには共通するものがある。

確定した知識として考えれば、全く真反対のものが、実は、同じ原点から始まっていることは少なくない。

例えば、西欧では金星は美と平和を表すが、東洋では軍神だったりする。これは、古代の価値観で、際だって素晴らしいものに対する表現方法の違いで、原始的な時代には、強さこそが美であり、ビーナスも戦いに強く、仏典の神仏の神通力も、ほとんどが軍事力で表される。

数字の意味も、占いによって意味が異なるが、よく考えると何らかの共通点が有り、それこそが本来の「数字」の意味となる。

2014年の「7」は、素数であり、ラッキーセブンと言われるように、かなり特殊な数のように見えるが、年回りでは9年おきに来るから、四緑と重なる。
九星四緑の年は、西暦数の合計が「7」の年と言うことだ。
どちらかの起点が異なっていれば、別の数になるから、単なる偶然だが、1、4、7は因縁数で縁が深い。ちなみに今年は、明治147年。

この年に重なる十二支は、「子卯午酉」で、東西南北の正方位だから、
四正神とか、四旺神と呼び、何事も強力に作用するという。

見た目は中途半端な2014年だが、案外、過激な年になりそうだ。
良い方に過激だといいのだが