魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

チュー獲りアル

2009年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、町屋ブームで、古い町の屋敷を改装して商売やイベントに使うことが全国的に流行っている。
町屋の住人が減少しているところに、若い風が入って、新しいコミュニティーが復活したりして、なかなか結構なことだと思う。

しかし、そうは言っても、全部が新しい人たちが住んでいるわけではない。古い人たちが住んでいるから、新しい人も「参加」できる。

古い家に古い人たち。家が古くなっても、資金、体力、人手がないから、そう簡単には改装できない。どうしようもない所だけ修理しながら暮らしている。

昔から続く古い家には、ほんの4、50年前に使っていた竈(かまど)や風呂がそのまま残っている家も少なくない。
取り除くと大工事になるから、そのまま、流しが台所に進化していたりする。

毎日使うところでさえそうなのだから、他の部屋はまったくそのままで、天井裏にはドロがたまって堆積層になり、年代測定ができる。

冬になると、天井裏にはネズミが入り込んでくる
町屋に嫁に来て数十年。子供達も出て行き、亭主も先立ち、一人暮らしをしている人から聞いた。

冬場になると、ネズミが、我が物顔で生活をし始める。
天井裏でドタドタと走り回るのは序の口で、食べ物を隠していると、観葉植物をかじっている。
明け方、どこかで「ガリガリガリガリ」すさまじい音がしていたかと思うと、となりの部屋の天井にポッカリと穴を開けているではないか。
その穴に金網を貼り付けると、今度は別の部屋の壁に穴を開けている。

夜中、怪しい雰囲気に、ハッと目覚めると、枕元を大きなネズミが悠々と歩いていく。「ギャーッ!」
もう、たまったもんじゃない。

近頃の新築住宅やマンションでは、ネズミも簡単に入り込めないし、食品も冷蔵庫などで守られているから、こういう経験をする人は減っていると思うが、わずか半世紀前までは、誰でも経験している常識だった。
オッパイを付けた赤ちゃんが鼻をかじられた事件も少なくなかったから、虫除け、ネズミ除けとして、赤ちゃんに被せるネットがあったし、「頭の黒いネズミに引かれる」と言えば浮気されることだった。

ネズミと対決してみると分かることだが、意外に頭が良い。
ネズミ取りを仕掛けても、そう簡単には捕まらない。
トムとジェリーでもネコのトムは常にネズミのジェリーにやられている。人間の実感が込められているような気がする。

疫病を媒介したり電線をかじったり、放ってはおけないヤツなのだが、顔を見ると、可愛らしくて憎めない。
天井裏に入り込んでくる客にはイタチもいて、天井裏で、ネズミと激しい死闘が始まることもある。
イタチも、ネズミに劣らずワルサをするのだが、ネズミの天敵でもあり、大目に見たくなる。

それに、ネズミよりさらに可愛い。
ネズミよりはるかにスピードがあるが、なにかの拍子に顔が合うと、
「何?」と言った表情で、しばらくこちらを見ていたりする。
それも、逃げ腰状態で、見返りだから、なおさら可愛い。

いくら可愛いと言っても、ネズミが枕元を歩いていたら、寝られなくなる。これを話してくれた人も、恐怖で寝られなくなり、
ようやく寝たかと思ったら、
ネズミの怪獣に襲われる夢を見たそうだ。

興奮で、顔を真っ赤にしながら話してくれた。


奇しくも

2009年12月30日 | 星の流れに

2010年春、木星と天王星が相続き牡羊座に入る。
牡羊座は天秤座の日本にとって、第七室に当たる。

第七室=180゜に惑星が来ればどうなるか、解りやすい例としては、木星が七室の水瓶座に来た時、向こうからノーベル賞がやってきて、ありがた迷惑の獅子座、オバマ大統領だ。
つまり日本も、色々ありがた迷惑な対処をすることになる。(7年も!)

虎は千里を行き千里を帰る
自称は龍。外からは張り子の虎と言われた中国。
2010年、寅年の木星は行ったり来たり忙しい。1~6月の魚座通過は、カニ座の中国、サソリ座の朝鮮半島にとってチャンスの位置だから、絶好調になるだろう、ところがその直後、一転、中国にとって第十室の牡羊座に天王星に続き、木星も入ると、絶好調のように見えて、その後の難儀につながるツケを背負い込む。

木星は1月18日に魚座に入るが、どうも、この年末から明らかに影響が出始めている。(2010年

アメリカではテロの再来。そのうえ、韓国系アメリカ人がわざわざ北朝鮮に侵入。韓国はUAEから原発受注で絶好調。中国の昇り調子は言うまでもない。

その中国。英国籍の麻薬密輸犯を、英国の懇願にもかかわらず死刑にしてしまった。これも強気、絶好調だ。

英国と中国と麻薬・・・因縁の関係だ
奇しくも、天王星・海王星が、アヘン戦争当時とほぼ同位置にある。
大転換2」で、2008~2011年に近い星の配置は「幕末」だと言ったが、いまさら戦争は起こせないものの、星のイメージ再現は、大小にかかわらず象意として現れる、とはこういうことだ。

ここから逆に読み解くとすれば、
19世紀、眠れる巨人と思われた中国が、案外もろかった・・・と言う歴史も内包しているのかも知れない。

得体の知れない経済大国、中国に、世界の列強(先進国)がどう取り入ろうかと腐心している最中だが、意外にもアメリカや日本よりもろく崩れ落ちるかも知れない。

サブプライムショックは大恐慌には微妙に早く、本物の大恐慌が控えているとすれば、中国発と考えるのが自然だろう。(土星が天秤座に

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
桐一葉落ちて天下の秋を知る

小さな出来事は大事件を告げていることがある。


旧弊

2009年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

気が付けば、今日が去年になるまでに、後三日しかない。
ミレニアムを口実に、年賀状を止めてから10年になる。
賀状を書いていた時代と比較して、この10年は何と明るく、さばさばと新年を迎えていることだろう。

当然、初詣にも行かなければ、おせちも食べない。
日本の文化伝統は大切にしたいと思うが、止めるべきだと思うことや、変わっても仕方がないと思うことも多い。

日本が日本たるゆえんは文化だが、文化は形式によって保たれる面と、文化によって形式が生まれる面がある。
逆に、形式によって文化が沈滞することもある。

文化は人間の営みそのものだから、営みの生命力こそが本体であり、その生命力を維持するためには、時折、形式を脱皮しなければならない。

文化伝統を守ると言うと、ほとんどの人が、旧態を維持することだと考えるが、古い仕来りは、古い時代に当たり前だったことが、そのままの形で残っているものであり、環境が変われば、維持でき無くなるものや、むしろ別な形に変えた方がよいものもある。

鯛やアワビを神前に供えるのは、古代より海の恵みに感謝するものではあるが、もし、自然環境が変わって、鯛もアワビも輸入するものになったら、輸入してまでも供える必要もなく、むしろ、そうしてはいけない。

日本語の乱れとか、うるさい向きもあるが、一体、いつの時代の日本語のことを言っているのだろう。仮に標準語のことを言っているのだとすれば、標準語は、いかに乱れた、むちゃくちゃな言葉として生まれたか、解っているのだろうか。

言葉は文化であり、変遷していく生命力こそが文化であるはずだ。
自然崇拝としての神社は敬愛しているが、靖国神社は不可解だ。
標準語、靖国神社、年賀状・・・みな、明治以降の環境と必要から生まれたものだ。

それを大切に思う人に、異を唱えるつもりは毛頭無い。
ただ、それを理由に、他人を非難することだけはご勘弁願いたい。
ポケベルはもう要らない

年の初め近頃の正月


パラダイム(2)

2009年12月28日 | 世相史観

700年ぐらいで人類の生き方が変わるという説がある。
その、約700年の中では、冥王星の250年は約三回転する。
その、250年の中で、天王星の84年が約三回転。
その、84年の中で、土星が約三回転。
その、30年の中で、木星が約三回転。

何でもおおざっぱに合理化するのが好きな大陸中国の干支術は、この原理を合理化して、上元、中元、下元の三元でまとめている。
当然、古代中国では、天王星、海王星、冥王星は発見されていなかったので(断言できないが)、火星、木星、土星などの周期を絡み合わせて周期律を発見したものと思われる。※

干支は60干支を三回転させて三元の180年を一つの時代と考え、これを九等分して、20年ごとに時代が変わっていくと考える。

20年というのは、ちょうど、土星と木星が交差して0゜になる周期だ。
180年に最も近いのは、海王星165年で、天王星の二倍であり、天王星をざっと90年と考えると、天王星・海王星という災害の星が時代の崩壊に影響するとも考えられる。

いずれにしても、様々なパラダイム・スパンがあるわけで、
人心が、世相的に一辺倒になる、一世風靡期間があるとすれば、
その熱気にも、三つの時期があると言うことだろう。
春・夏・秋・・・そして終わりの冬が来る。

秋はもっとも充実している時期だが、滅びに向かっている。
産業革命パラダイムは、もう一度花が咲くことはない。


中国の占いにも、古代印欧の占星術の原理が多く入り込んでおり、中国人に理解しやすい形に発展したようだ。細かく正確に観察することより、実用的な原理の方が好まれた。
日本にも仏典と共に宿曜経など、占星術が伝わったが、仏典として理解され、未来予知学としては無視された。


パラダイム(1)

2009年12月27日 | 世相史観

パラダイム転換という場合、通常は100年ぐらいを意識する。
サブプライム金融危機で「100年に一度の」が流行ったが、大恐慌を意識した言葉だったのだろう。

しかし、大恐慌を意識している限り、産業革命パラダイムであることは何も変わっていない。
約40年余の冷戦時代も、一つのパラダイムと見なすことも出来れば、ガソリンエンジンの石油時代100年を、パラダイムと見なすことも出来る。

そういう「時代」をおおう価値観や方式は、何を軸としてみるかによって様々なスパンがあり、占いでは惑星の周期で考えることが出来る。

おそらく、有史時代の枠組みの中で、現代が属する最長パラダイムは、大航海時代からの500年ではないかと思う。
人類史は700年で大転換を起こすという説が好きなので、それに従えば、まだ200~250年残っている。
これは、冥王星250年がもう一回りするということだが、
次のスタート、牡羊座までには、後50年かかる。

大航海という地球征服時代から、産業革命時代、そして、太陽系征服時代の250年になるのだろう。
つまり、次の250年で地球は統一され故郷になる。
人類史が続いていればの話だが。


超国際

2009年12月26日 | 大転換

COP15は迷走したあげく、「国際協調の可能性」だけ取り繕って終了した。
地球規模の問題を、国家単位の国際協力の枠組みで解決することの、無理と矛盾がはっきり見えただけだった。

産業革命後の近代国家の枠組みがもう機能しなくなった。
技術革新により宇宙から地球を観たことが、世界の人々の地球観を変えたのだとすれば、産革パラダイムはその使命を果たし終えたことになる。

地球を考えない、どん欲な共食いのシステムとして近代国家があったわけだが、相次ぐ大異変が神の裁きを告げている。
濁った水槽のピラニアは一度、全部放り出さなければ、水槽の大掃除ができない。

国家や民族という「くくり」で、地球を支配する時代は終わっている。
終わっているが、滅んではいない。生き物は死んでも、死体が滅ぶまでには「おぞましい時間」が必要なのだ。

「おまえはもう死んでいる」と言われても、解らないのが死体だ。
世の中の、ほとんどすべての仕組みが産革パラダイムの構成要素であり、われわれ自身も、どっぷり産革パラダイムの思考の中で生きている。

学校、就職、恋愛、結婚、医療、葬式、国家・・・人生すべての構成要素が、大量生産、大量消費に向けられ、その必要アイテムを一つづつ手に入れながら、産革パラダイムのために生きている。
あるいはそれが手に入らないと悩み、終いには、それ故に自殺する人さえ生まれる。

こうした生きていくうえで「当たり前のこと」を、一度、白紙にして、白紙の出発点から考えなければ、地球環境の沈静化というゴールは見えない。

国家や、国家の代表という、産革パラダイムの優等生に、反産革パラダイムの答えをだせというのは、
国会議員に、議員数を50人に減らして、ボランティアだけの国会議員にする決議をさせるようなものだ。
泥棒の警察に泥棒は捕まえられない(無くもないが)。

国家という、産革パラダイムの構成員に、温暖化は止められない。
産革パラダイムが、断末魔にもがきながら死ぬのを待つより、

新しい時代を担う生命で、世代交代をする方が、新しいパラダイムは早く来る。
次の世代を担うものは、国家から離れる必要がある。
NGOなどの、まったく国益から離れたベクトルが動き始めているが、金融マネーという黒NGOは、既に地球規模で暴れ回っている。


2010年

2009年12月25日 | 星の流れに

来年のパターン
1月18日。木星は魚座に移動し、一気に駆け抜けて、6月6日には牡羊座に入る。そして9月9日には、また魚座に逆入りする。

この間、4月8日には土星がまた乙女座に逆入し、5月28日には天王星が牡羊座入りする。

2010年~2011年にかけて、外惑星の出入りが激しい。
惑星が星座に入る時には、事件が増える。事件を起こすのも歴史を作るのも人間だ。惑星が動けば、人心が動揺するから世の中が動く。
同じ星座内での順行・逆行より、出入りの方が影響するようだ。

複数の外惑星が、何度も星座を出入りしたのは、この半世紀くらいを遡ってみても・・・
1937、1941~3、1948~50、1955 1959~62、1967~9、
1980~84、1988~9、1996~8、2000~1、
そして、2009~12年と言うことになるが、現代史に詳しい人には面白いかも知れない。

いずれにしても、5~10年おきぐらいに、惑星出入りが重なる刺激の強い年はあるが、中でも、土星や天王星が重なって出入りするような年には大事件が頻発する。

外惑星が直列して、星座出入りの大きな年は、
1941~3=木・土・天(牡牛座→双子座)=第二次大戦
1988~9=土・天・海(射手座→山羊座)=冷戦崩壊
次の大きな年は2020年頃(山羊座→水瓶座)。
さらに先は2060年頃(牡牛座→双子座)で、120年前の第二次世界大戦当時と似ているが・・・

こう見てくると、2010~1年は、世界をひっくり返すほどのインパクトはないようだが、90゜180゜の、「苦難の大十字」の基本形「Tスクエア」が形成される。

惑星直列による激動は、人心が「一辺倒」になることで一極に流れるようだが、十文字のような配置状態は、各人各様、地域同士の思いや主張がぶつかることで、ゴタゴタが増える。

2010年
天王星・魚座時代の終わりに、木星が魚座にやってくる。
2011年には、海王星が本来の魚座に来ることもあって、世界中がますます終末感に満ちていくだろうが、インパクトのある現象として魚座最後の輝きが起こる。

改めて言うまでもないが、この7年間に起こったことの総集編になる。
テロとの戦い。大自然災害。主客の逆転、虚実の反転。
具体的には・・・予約済みのアフガニスタンはもとより、マネーの再暴走、中韓のワルのり、猟奇事件、二重権力、映画映像の話題、薬物・薬品・福祉の問題と改革・・・とにかく、総決算だ。
災害については、軽々に言えないようなところもアブナイ。
一家に一つ防災袋だ。

また、双子座のアメリカにとっては、魚座を木星が通過する来年は、新たな問題発生だが、木星、天王星ともに牡羊座に移れば、大統領も元気になるだろう。
さんざんもめた後、決着は、2011年の春だ。


西陣のタヌキ

2009年12月24日 | 動物

先日の夜、高速の入口でタヌキがはねられて死んでいた。
合流点に上がっていく途中、ライトに照らされた姿が近づくにつれ、タヌキだと解った。
はねられたばかりなのか、きれいな毛皮のまま、道の端にこちらを向いたまま死んでいる。
戦前は、タヌキやキツネの襟巻きと言えば、成金の象徴だった。
落語でも、襟巻きのタヌキの顔に挨拶する小話がある。

タヌキは犬科で、お寺に住み着いたりする話が良くあるが、お寺が山中に建てられることが多かったからだろう。
江戸以降、近代になるに従い、人間の住空間が広がって、もともと犬科で雑食のタヌキが人間の中で暮らすようになったらしい。

>以前、西陣の機織り職人から聞いた話<
忙しい時期、夜まで仕事をすることが続いた。
ある日、隣の人から
「ゆうべは、えらい遅うまで気ばってたなあ」と言われて、
「ああ、積んでるさかいなあ」と答えたものの、
翌日もまた同じ事を言われたので、
「ゆうべはくたびれて早う寝たよ?」
と言いながら「何時頃や」と訊くと、3時頃だと言う。
「そんなもん、とーうに寝てたわ」と言うが、隣人は、音がしていたと譲らない。
不思議に思って、その夜、3時頃まで起きていると、表で
機を織る音がし始めた。
「シュー、トン」
「シュー、トン」
杼(ひ)をシューと、飛ばして、筬(おさ)をトンと打つ音だ。

そおっと表を覗いてみると、
壁にぶら下げたタライの前で、タヌキが後ろ向きになって
シッポをタライに滑らせて叩いている
「シュー、トン」
「シュー、トン」

「タヌキが、上手に音をマネしよるんですわ」

この話は、職人の作業中の思いつきか、本当の話かわからない。
ただ、タヌキが犬科であることを考えれば、それぐらいのことは簡単にやりそうな気もするし、西陣界隈にタヌキが生息していることも事実だ。


今年も暮れる

2009年12月23日 | 星の流れに

火星が10月後半、獅子座に来て以来、水瓶座の鳩山首相、獅子座のオバマ大統領とも支持率低下。

2009年で、火山のことを書いたが、こまめにはあったものの、太陽・獅子座の期間中にはたいしたことはなかった。
(ただし、桜島の噴火も、今年は過去の年間最多記録を更新中)

ところが、水瓶座で木・海が交差、180゜の獅子座の火星がほぼ停止した、新月直後の17日深夜。伊豆の群発地震が始まり、各地で地震の連鎖反応が頻発し始めた。
そして最後に、決定的なフィリピンの大物(マヨン山)がマグマを吹き出し爆発しそうだ。

ただ、フィリピンはインドネシアなどと同じ魚座と考えられるから、むしろ、魚座の影響が始まっているのかも知れない。

水瓶座の鳩山首相も水瓶座に月が来た21日、ついに「ご英断?」とか。
獅子座のオバマ大統領にとっても、水瓶座の木星はノーベル賞までやって来て、色々な「相手」に振り回された年だった。


水筒

2009年12月22日 | 星の流れに

今年、水筒が大当たりだそうだ。エコ流行と言うことになっているが、星占いでは、木星の水瓶座で、最もズバリのものだ。

もちろん誰も「水瓶座だから水筒(水瓶)を買わなくては」と思って買うわけではない。
水筒を見て、
「そうだ、これは節約にも健康にも良いし、第一、エコだ!」
売る方も、「何で売れるんだろう?あ、エコか!」
それを見て、マスコミは「エコ志向で水筒ブーム」と書く。

エコ志向なら、「量り売り」もブームになりそうだが(近々なるだろうが)、今年の着目は水筒だった。


8888

2009年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「8888」ナンバーの車を見かけた。
ナンバーを選べるようになってから、買った年の西暦をナンバーにしている人が多いようだが、「777」とか「1」などもある。
自分のラッキーナンバーとか、いろいろ思い入れがあるのだろう。

「8888」は、おそらく、「八」の末広がりで縁起が良いから選んだのではないかと思うが、せっかくだが、あまり意味のないことだと思う。

「八」が末広がりというのは、どう考えてもおかしい。
「八」はどう見ても末細りだ。にもかかわらず、8を無理に吉にこじつけるのは、本当は、日本古来の「8」好み、神聖数からだろう。

八百万、大八島・・・など、8は和語の無限大を表す数だから、漢字が伝わって八の字を見た時、上下逆にもかかわらず、広がっていること、あるいは開いていることに着目して、目出度い「末広がり」となったのではあるまいか。

原始的な文化では、数えられる数の上限があるそうで、
「1,2,3・・・あとはイッパイ」と、表現したそうだ。
太古の日本人の最大値は、8だったのかも知れない。

数字に対する思い入れは、音が同じだからと、「4=死」や「9=苦」を嫌う人もいるが、「44」は「良し」とも読める。
「8888」の人が、音や見た目でこだわったのだとすれば、お疲れ様と言うしかない。
「8888」を見ると申し訳ないが「パッパラパー」と読んでしまう。

でも、「8」を「∞」と見れば、確かに古語の八の無限大に通じるから、やっぱり目出度いのかも知れない。
しかし、これを「メビウスの輪」と見れば、「出口無し」とも見て取れる。

なお、占いの場合、それが本当かどうかは別として、
数字の意味は、見た目や響きから決められたものではなく、天文の数理や、数の持つ性質から定義されている・・・ようだ。

P.S.思い出したのだが、中国では「8=八」は「パー=発」と同じ発音の縁起の良い数だったがそれと関係があるのだろうか???


鉄道ガンバレ

2009年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

高速道路無料化は環境イメージが誤解されて、圧倒的な反対にあい、ボシャッたようだ。こういう時だからこそ、経済活性化にも寄与すると思うのだが・・・。

今や、環境イメージは錦の御旗だ。
高速道路無料化反対を言う前に、公共交通機関がいかに環境に良いか、各方面からアピールしてもらいたい。

JRは1000円高速に対抗するため値下げをすると言うが、もっと重要なことを忘れている。
鉄道の環境貢献をアピールすれば、鉄道ブームを呼び起こすことだってできるかも知れない。

エコマイレージ
低燃費で大量輸送できる鉄道は、飛行機や自動車とくらべ、圧倒的な燃費効率があるのだから、徹頭徹尾、これを強調すべきだろう。

鉄道切符を買った時、同じ距離を自動車で行く場合の燃費とくらべ、
「あなたは、ガソリン=OOリッターの経済貢献、CO2=OOキロの環境貢献をしました」と表示。

エコマイレージとしてポイント加算し、乗車券割引などに使えるようにすれば、同じ割引でも鉄道旅行の励みになり、鉄道で、もっと旅行しようという気持ちになるだろう。

これは鉄道に限らず、公共交通機関全てに言えることで、貨物輸送も、鉄道を利用したものにはポイントを付けるなど色々と工夫できる。

社会全体を、自動車社会以前の鉄道時代に戻すことはなかなかできないだろうが、新型路面電車の有効性もすでに先進国の常識に成りつつあるわけで、公共交通機関中心の社会、経済に戻せば、現在の壊れた人間関係修復にも少なからず貢献するだろう。
袖すり合うも多生の縁・・・
近年は、見知らぬ乗客同士が会話をすることが無くなった。


顔負け

2009年12月19日 | 自動車人間学

大阪の橋下知事が小沢幹事長と会って
「とてつもない」「陳情なんかできる雰囲気じゃなかった」と恐れ入っていた。

自動車人間では、橋下徹知事は「ガソリン」、小沢一郎幹事長は「シャーシ」
社長と秘書の「いい友」関係だ。シャーシが社長なら、ガソリンは秘書。「自信」が服を着ているようなワンマン社長のシャーシには、あれだけ言いたい放題のガソリンが何も言えない。

「はい、社長!次は何をしましょうか!」そんな気持ちになるから、自分の方から意見など、おこがましくてとても言い出せない。
日頃、ガソリンがシャーシに文句を言ったり冷やかしたりするのは、何を言っても、シャーシが動揺しないと信頼していればこそ。

ところで、「顔」で売るのがシャーシの真骨頂。
小沢幹事長の顔は迫力がある、歳をとってさらに迫力が増した。
関東東北にある渡来系の顔で、全く関係ないだろうが、七尾出身の防衛長官や建設大臣を務めた瓦力とも同系統だ。ただし、こちらはハンドルだから性格は全然違う。


東洋の現実感(2)

2009年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

文化を取り入れることと、文化に順応することは全く違う。
文化に順応するには柔軟性が必要だ。
現代の中国は遊牧文化の影響も大きく、略奪性も秘めている。

騎士道のヨーロッパがモンゴルに負けたのは、重装備で固めた融通の利かない武器と戦い方に対し、軽装備で素早く柔軟な展開をするネットワーク軍団に、ついて行けなかったからだ。

前回で欧米人と言ったのは、もちろん時代的には欧州人のことで、牧畜民ではあるが、農業を主体とする定住民だから、遊牧民の柔軟性とは次元が違う。

だいたい、欧米や日本のように、戦いに騎士道とか武士道という「型」を持ち出すことは既に観念的だ。
遊牧民的な戦いは、負かした相手は逆らった家畜と同じだから、八つ裂きにしてしまわなければ示しがつかない。戦争は殺し合い以上でも以下でもなく、「武士の情け」など始めから概念に無い。

日本の軍隊も、戦渦の中で残虐なこともしただろうが、秘宝館のような日本軍の残虐ジオラマを作るのは、彼ら自身の潜在的な残虐意識の投影だろう。

遊牧と農耕が生み出した、パクリ中国には精神も型もない、ひたすら現実的で現金な実利のために、自我や自省(名や体)より、メンツや義理という「関係」によって生じる自分の「立場」の方にこだわるようになった。立場関係は利害に直結するからだ。
「商」は自分一人では成り立たない。

神や仏と生きる
日本が欧米化しやすかったのは、中国文化圏にありながら、閉鎖的な島国で、取引相手も侵略者もいなかったので、箱入り娘の人の良さが身に付いたからだ。世間知らずは明るく内省的であり、キリスト教的な罪の意識は暗く内省的だ。
キリスト教的に言えば、日本人は楽園のアダムとイブであり、西欧人は失楽園後のアダムとイブで、ヘビの中で暮らしたことがなかった。

神と自分との世界で暮らしている者にとって、異文化は従う相手ではなく、取り入れるものでしかない。
神と自分との世界とは、自分の世界のことだから、技術や知識は自分が咀嚼して取り入れる。
リンゴに合わせて自分の口を大きくするのではなく、口に入る大きさに刻んで食べる。それが、欧米と日本に通じる、オリジナルへのこだわりだ。

日本人が英風名を名乗らないのは、プライドや自我ではなく、そうして取り入っても、上手に実利を挙げる自信もなければ方法も知らないからであって、便宜的に名乗る必要を感じないからだ。

一方で、近頃、欧風な呼び名に漢字を当てはめることが流行っているのは、「文化を取り入れる」ことで、教会の結婚式同様、実利的な目的のためではない。

ややこしい話だが、掘り下げればもっとややこしい。文化は複雑だ。


東洋の現実感(1)

2009年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

中国人のブログに、何で日本人は「イングリッシュネーム」を使わないんだろう?と言う疑問が書かれているそうで、かなり笑った。

確かに、昔。カナダで香港人が英語名を名乗っていて、カナダ人に「本名か?」と聞かれ、「そうだ」と答えると「何で?」と聞かれ、「オヤジに聞いてくれ」と答えて、話が終わった。

韓国人は「李」を「LEE」と、得意そうに表記している。

文化を取り入れることと、文化に順応することは全く違う。
中国のブロガーも、英風名の方が外国の人がおぼえやすいのに、欧米化している日本人が使わないのは、征服された経験がないからだろうと言っているそうだ。

確かに、征服された経験がないことも一因だが、欧米人はイスラムにもモンゴルにも征服されているが、進んで征服者の名前を付けようとはしなかったようだ。

昔、移民や留学で海外に出かけていった日本人が、現地でニックネームで呼ばれたことは少なくないが、明らかに欧米人の、驕りと異文化に対する蔑視で、
「ややこしい!憶えにくい名前だからジョーにしろ」と言ったイキサツで呼ばれるようになり、、屈辱的だったという。

しかし、郷にいれば郷に従い、多くの人は受け入れ、むしろ、そのことによって親近感を持ち、共同体で認められることも多かった。
だから、常に征服され支配を受けてきた中国人が、むしろ積極的に異文化に順応しようとするのは、一つの生命力かも知れない。

女性的現実感
中韓のパクリ商品は、名前と同じで、そのまま真似る。
猿まねと言われた日本は、必ず手を加え改良し、別なものにまで進化させた。
欧米の文化も、日本と同じで、情報として仕入れた技術を磨き上げている。羅針盤、火薬、印刷技術から科学まで、中国の発明品もイスラムの化学も、欧米で近代技術に進化した。

自分たちの精神性にこだわる文化は、他者に成り切ることは出来ない。だから、物を見れば、自分たちなりの方法論で作ろうとする。物作りは、物をつくるのが目的ではなく、アイデンティティーの確認のために物をつくる。
「自分ならこう作る」と・・・

逆に思われているが、農耕文化の東洋は精神主義より現実主義だ。
人間の精神より、自然の現実に従う。農耕はどんなに人間の意志が強くても天候には勝てない。
名前やアイデンティティーより、いかに実を取るかが重要だ。

これは女性的な生命力であって、牧畜民の男性的意志の逆であり、
だからこそ、東洋の学問は現実解決の手段とはならず観念的となり、むしろそれが、東洋の哲学、宗教、学問の、精神性の奥深さになっている。

温暖で侵略もうけず、恵まれた環境で生まれた日本文化は、現実対応に迫られなかったから、牧畜文化とは逆の過程で精神性が育った。
それが、結果的に欧米と同じアイデンティティー重視であり、
実のために、名も体も偽るようなことが出来ない文化となっているのではあるまいか。