魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

制度改正

2019年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

高齢者の事故問題では、自主返納や、家族の説得ばかり話題になるが、現行制度の是非が論じられないのが不思議でならない。
日本は何事も、入り口さえ通過すれば、後は全て放置される。典型は大学入試だが、運転免許も例外ではない。

運転免許に下限の年齢制限があるのは、「一般に」その年齢までは、判断や体力が十分でない不適格者と考えられるからだが、実際には、大人以上の能力を持ち合わせた子供はいくらでも存在する。
年齢制限を設けるのは、一人一人の適格性を判断するより、制度として扱いやすいからであり、それならば、運転免許には下限だけではなく、上限も必要だ。
免許を持っていても、酔っ払いや体調不良が運転できないのは、その時、一時的に不適格者になるからだ。
この一時的不適格者になるリスクが高い高齢者は、年齢で一律に不適格者とするのが、制度として扱いやすく、該当年齢者も納得しやすい。

還暦はわかりやすい目安
前回の「高齢免許」で、「運転免許は基本60歳まで」と言ったが、多くの人が「60歳は早すぎる」と思うようなので、もう少し詳しく書きたい。
普通運転免許の下限は現行18歳だが上限を60歳未満とし、60歳以上は、
「高齢一種免許」を3年おきに新規に受験取得する。
また、これに不適合でも、交通僻地など特殊事情のある人は、
「高齢特定免許」として、速度制限等の特殊仕様車を特定地域だけ運転可能にする。

60歳を区切りにするのは、現在の60歳は、まだ充分に若いからであり、どうしても必要な人が、新規に受験する能力があるからだ。
そして、60歳で区切られることにより、切実に必要の無い人が、「ここで止めよう」と、決断を下せる自省心も残っている。
60歳で、運転を止める人が増えれば、公共交通機関の利用者が増え、公共交通インフラ発展にも寄与する。

なお、この際、二輪免許は現行のまま残す。
本来、二輪免許は乗れる人しか乗れないのだから、自転車同様、免許など必要ないと思うが、交通ルール習得のため、やむを得ないのかも知れない。その意味ではむしろ、どこでも走る自転車こそ、免許が必要なのではなかろうか。


高齢免許

2019年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

また高齢者の事故が起こった。
双子座の火星で、事故続きだが、何れもヤギ座の土星が関係している。「8」も「高齢者」も同じ土星だ。
19日は87歳、21日は64歳。87歳は旧通産省幹部で、64歳は市バスの運転手だ。いわば専門家が起こした事故だが、何れも「ブレーキが戻らない」などと、錯誤状態だった。どんなに立派な人も、運転のベテランも、歳を取れば一瞬でも、何が起こるか解らない。

繰り返し言ってきたことだが、一刻も早く、「法改正」して欲しい。
「運転免許は基本60歳まで」と、法律で決まっていれば、迷わず止められる。
下限はあるのに、なぜ上限はないのか。
60歳以上は、別規定の免許とすれば、よほど必要な人しか受験しない。
この法改正ができないなら、どうしても移動手段に車の必要な高齢者は、小型二輪車に乗ることだ。小型二輪車は、現実に運転できなければ、止めるか死ぬかであり、他人に迷惑をかけることも少ない(四輪車には嫌がられるが)。

※追記
小型二輪車と記したが、主に法律上の軽二輪のこと


喧嘩下手

2019年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

WTOで日本は韓国に逆転敗訴?した。
論理的に考えれば、韓国の規制はナンセンスで、他の国が規制を解除し始めている状況で、日本政府は「簡単に勝訴できる」と考えて提訴したのだろうが、結果的に、とんでもない失態となった。
今回の逆転敗訴の理由にも、「日本が韓国の言い分に回答しなかった」ことが挙げられている。是非ではなく、小手先で負けたのだ。
データが正しくても、受け入れ側に「懸念」があれば、拒否する自由があると言うことだろう。買う買わないは買う側の勝ってと言うことだろうか。

「負ける喧嘩」は、してはならないが、日本は、自分の思い込みで喧嘩を始める国だ。
勝ち負けより「思い」の方が重要なところは、韓国を笑えない。それどころか、勝ち負けを度外視する「潔さ?」は、何が何でも勝とうとする韓国より、世間知らずのお坊ちゃまだ。
実際、今回も、ナメてかかった韓国に。無駄に負けた。
韓国にしてみれば、強欲な日本に「肉は切り取っても良いが、血は一滴も流してはならない」との判決で、ギャフンと言わせた、大喝采の一幕だろう。

何がこんな大失態を招いたのか。それは、己を顧みない傲慢だ。相手の幼稚な態度を見て高をくくり、何の警戒もせずに「不用意」に手を出した。どんな弱そうな相手でも、手を出す以上は、万全の備えをしなければ、今回のように「水を漏らす」ことになる。
窮鼠は猫を噛む。
日本が、清やロシアに負けなかったのも、大帝国が日本をナメて掛かってきたからだ。アメリカも結局、ベトナムに勝てなかった。どんな大国でも、自ら手を出す戦争は、数倍のリスクを伴う。日本に先に手を出させた、太平洋戦争当時までのアメリカは賢明だった。
脆弱に見えるものほど、警戒をするのが戦の常道だ。三方原の敗北で逃げ帰った家康が、城を開け放ち、松明を煌々と燃やしたら、信玄は追い打ちをかけなかった。両者とも戦国武将の常識を心得ていたからだろう。

思いは現実に非ず
昔、営業の新人がやって来て、「買って下さい、わが社は今、販促月間なんです!」と言う。それはおたくの事情でしょと思うが、丁重にお断りした。すると、最初の愛想と、打って変わって、ドアをバーン!と、閉めて帰った。
本人とすれば、買って貰おうと、我慢しながら愛想したにもかかわらず、買ってくれないことに腹を立てたのだろうが、相手が欲しくなるようなことを何も言わず、自分の「思い」に酔っていたのでは、売れる物も売れなくなる。

福島原発事故による各国の輸入制限は、日本人としては辛くて悔しい対応だ。科学的にいくら安全だと言っても、「毛嫌い」をして、受け入れようとしてくれない。
この辛さこそが、「差別」される側の気持ちであることを、差別やイジメを受けたことの無い人は理解する良い機会でもある。そして、どんなに正論を述べても受け入れてもらえない時に、どうあるべきか、どうすべきか、冷徹に考えてみなければならない。

相手の不明や非正義を叫ぶのは、簡単だが、争いを覚悟しなければならない。
「山が動かぬならこちらから歩いて行こう」、「神は自ら助すくる者を助すく」、「叩けよさらば開かれん」、「自らを島とせよ」 ・・・状況を変えるのは、究極、自分自身であると、賢人は説いている。
相手に解って貰うことより、相手にそう思わせること。買って貰おうと思うより、買いたいと思わせることだ。

鳴かせて見せよう
今回、日本政府が、法の「力」で買わせようとしたことに、そもそもの間違いがある。
相手が納得していないのに売りつけようとするのは商売ではない。トランプが圧力で売りつけるアメ車を買いたいだろうか。
とかく、日本のすることは独りよがりだ。戦前の軍国政策は言うに及ばず、日本企業の製品開発、捕鯨問題、世界遺産申請・・・枚挙に暇がない。
「愚直に」「ガンバッテ努力すれば」お天道様は見ていなさる。自分が正しいと思うなら、自分がやましくないなら誰にも恥じることはない。それを解らないのは、解らないヤツが間違っている・・・これが「甘え」であることを、どれだけの日本人が理解するだろう。

国連機関がいきなり日本に改善を求めてくることがよくある。
慰安婦問題を始めとし、対日貶め宣伝に負けるのは、武士道や、フジヤマ芸者のイメージが持つ、負の側面に日本人が気づかず、そこを逆手に取られるからだ。
現在進行中の「日産ゴーン問題」も、事実や結果はどうであれ、外から見た日本の印象は、さらに固定化するだろう。
日本人は、彼らが何を「やっぱり!、ニッポンは」と思うのか、彼らの視点を知るべきだ。

今回のWTO「大敗北」は、日本政府と役人が招いた失態であり、役人の便乗主義が生んだオウンゴールだ。官とは元々、民の力で生きながら威張っている生き物だ。
クールジャパンや褒賞など、民間が築き上げた財産を利用しようとする行為だが、多くの人は、褒賞されると国家に寄与した叙勲のように喜ぶ。しかし、民間の営みは民間から賞賛され、利益を得ることこそが栄誉であり、お上とは関係ない。
イチローが国民栄誉賞を断ったのは、この意味で実に立派な見識であり、これを非国民のように批難や揶揄する人がいるなら、それは、政府に洗脳されたお人好しだろう。

日本人の甘えと、役人の便乗主義が、災害への同情を良いことに、日本が犯した原発事故をも、「無かったここと」にしようとする。この虫の良さを、自覚できない日本人は、内向きの論理だけで、被害者のような気持ちになる。
日本に対する、こうした印象が世界に存在することを心得てこそ、状況を覆すことが可能になる。
外からの偏見を避け、思わぬ角度からの魅力アピールをして、欲しいと思わせる知恵と努力を注がなければならない。
勝つためには、先ず、己を知ることだ。

 


洗脳時代

2019年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

観光以外で、海外に滞在すると、たいていの人が愛国主義者か、逆に国際主義者になる。カルチャーショックで、自分のアイデンティティが動揺する中で、かたくなになれば愛国に傾き、寛容になれば世界人になろうとする。
海外情報の少なかった昔ほどその傾向は強く、現代のようにリアルタイムの情報が溢れる時代は、そういうことが起きないように思える。

しかし、グローバル化の現代には大きな落とし穴がある。何でも見えることで、何も見ないで、何でも知っていると錯覚することだ。
そして、「体験に拠らないカルチャーショック」=情報化によるアイデンティティ不安で、愛国主義が蔓延する。
それは、世界中の人の個室で起こり、互いに、異質なものを拒否する感情に埋没し、会ったこともない人々に対する憎悪の果てに、突然、銃を乱射する。

この「排他」の基準は、情報ツールが何の言語によるかで様相が異なる。言語は文化的背景と一体だから、その社会が持つコアな価値観が反映し、ある時は宗教的排他となり、ある時は民族的、ある時は国家、集団への憎悪となる。

海外滞在で起こる愛国や博愛は、自らの体験による試行錯誤だから、一気には過激化しないが、実体験のない個室や画面では一方的な洗脳となり、孤独な若者が、突然、モンスターになる。
こうして生まれた偏見モンスターが、外に飛び出して銃を乱射したり、共感しているつもりで、いきなり、旗を振ったりローソクを灯してデモ集会に参加する。

洗脳時代
洗脳されている人は、自分が洗脳されていることに気づかない。酔っ払いは常に「酔ってない!」と言う。
昔、ナチスは、当時の最先端の情報機器を駆使して、国民を洗脳した。最先端の機器は文明との格差が大きいほど効果的であり、素直な人ほど効果的だ。それは最新の情報源を神格化し、一元的な情報を全てだと思い込むからだ。

情報機器の発達は複合的な情報を提供するように見えるが、実は、人間の総合的情報源を遮断する。
総合的情報源とは、五感による認識を可能にする「時間のある環境」のことで、自分自身の感覚と認識を客観視し、情報化することのできる能力が無ければ、個人も集団も簡単に洗脳される。
ネットの発達は、ナチの時代より、遙かに次元の違う洗脳環境を創り出した。現代人は五感を捨て、無防備にヒトラーを待っている。

現代人の思考力のもろさは、学校教育による知識偏重が原因だ。
産業革命以後の学校社会によって、現代人は他からの情報を疑わずに受け入れることを習慣づけられている。自分の五感や第六感による判断を徹底的に奪われ、「なんか変じゃないか!?」とは、考えないようになっている。

「もう、何を信じて良いか解らなくなる!」と悲鳴が上がる、情報氾濫の中で、 少なくとも自分を見失わない、確かな方法は、「証拠」と「正しさ」を徹底的に疑い、欲と感情を捨てて、自分の経験に照らし合わせてみることだろう。


火星双子

2019年04月10日 | 星の流れに

先日、BOEING737MAX8の件を書いたばかりで、自衛隊の新鋭機、F35Aが墜落した。
木星・射手座に対し、火星が180゜の双子座に入って、そこに月が来た日、衝撃的な事故が起こった。
ここでは、占星術的なポイントだけ記したい。
737、MAX8、F35、何れも「8」である点が注目される。8は土星の数であり、土星はヤギ座と水瓶座の支配星だ。天王星発見後、水瓶座の支配星は天王星だが、今日でも土星の影響は大きい。
飛行機事故は交通事故としての、射手座-双子座の影響で、このところ、双子座のアメリカは米中交渉でイラついているが、F35の墜落も、決して小さな問題ではない。当の日本以上に、世界中が注視している。
第二次大戦中、米軍が零戦を入手したことで、制空権の大逆転が起こった。日米はF35を血眼で回収するしかない。

一方、マシンとしての飛行機は、数学の土星と、発明&飛行の天王星だ。
このところ水瓶座が不調だが、90゜の牡牛座に入った天王星が影響している。
天王星・牡牛座による、水瓶座の飛行機問題に、ヤギ座で最強となる土星が強く影響し、「8」が世相に際立つ。これは、ヤギ座の人間が目立つこととも通じている。

また、飛行機とは関係ないが、今回、選ばれた日本紙幣の「顔」が、そろいもそろって「ふっくら」顔なのも、やはり、牡牛座の影響だろう。牡牛座は「美」の金星だが、重厚な印象の美男美女が目立つ。
牡牛座のヒトラーも、当時の信奉者の目には「ステキ」に映っていたから、牡牛座の美は古風さがポイントと言える。
オードリー・ヘップバーンの愛らしさも、実は古風な気品なのだろう。


令和の例

2019年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム

前回の「令和元年」で、元号の画数を並べてみたが、明治、大正も併せて並べると、奇しくも末尾画数の同じものは無い。
元号と同画数の人の姓を比べて見れば、元号のイメージが湧くかも知れない。
例えば
明治=16(麻生、安倍、手塚、野田、松岡、黒田)
大正=8 (石川、上田、大田、木戸、中井、山本)
昭和=17(菊池、杉浦、関口、宮沢、森田、渡辺)
平成=11(池田、岩下、大林、木村、中村、吉田)
令和=13(大島、岡田、佐竹、西尾、平林、三浦)

……となり、姓を聞いた時に、何となく浮かぶイメージが、それぞれの時代にもある。

命理の立場からは、姓名は結果だから、あまり関心はないが、妥当性は確かにある。
姓名学にも諸流派があり、画数を始めとして、音韻や字そのものの霊性など、それぞれに説得力があるが、実際、「名は体を表す」印象がある。ただし、体が先か名が先かは、卵とニワトリのように、ややこしい話で、長くなるので触れないが、元号も姓も通常は、体より先にある。

実体からつく名前は、あだ名や俗称、あるいは役職名などがあり、氏名の多くも元は職業や所在地、あるいはあだ名そのものから始まっているので、何となくイメージが残っているのかも知れない。
ところが、元号は、偉い人から賜る姓や、親がつける名と同じように、実体に関係なく付与される。だから名前にイメージはないハズなのだが、時間が経つと、何となくイメージができてくる。
実体に触れることで、だんだんイメージが固まってくるのだろう。

願いうらはら
命名は願いを込めて付与されるが、得てして逆になることが多い。それは死にかけている人に「長寿」と名付けても、めったに生き返らないようなものだ。
名付けで、「幸」、「福」等の吉ごと表記は避ける方が良いと言われるのも、こういう経験則があるからだろう。
元号においても、振り返れば、どちらかと言えば反対だったような気がする。

和を唱える昭和は波瀾万丈だったし、大きく正しい大正は、米騒動や革命ロマンが流行り金融恐慌まで生まれた。平らかで平和な時代を謳った平成は、バブル崩壊や大災害で、平らどころか「凹」続きだった。
唯一、明治だけが、大戦争の中で、比較的「明るさ」の有る時代だったと言えるのかも知れない。それはおそらく、他の時代と比べれば、ほぼ、ゼロからの出発だったことで、希望しか見えなかったからだろう。
令和を迎える今、明治レベルの困難と維新が無い日本は、まだまだ、失うものが多すぎるような気がする。西暦を公式にするとした外務省は、大反対をくらった。
令和を祝う国民も為政者も、世界的な大転換、国家を超える革命の波が押し寄せていることに、まだ、まだ、気づいていないようだ。


令和元年

2019年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

新元号が「令和」と決まり、その話題一色で、エープリルフールが霞んでしまった。 多少の嘘話では、誰も関心を示さない。

「令和」は、初めての「とんがった」元号ではないだろうか。令の部首は「ひとやね」 とか「ひとがしら」と呼ぶらしいが、これまで、「うかんむり」はあったが、こんなにあからさまにとんがった字面は初めてだ。
意味は「和やかであれ」のようなことだろうが、平らな平成に比べ、逆にとんがった。

時代が一回りした昭和初期のような今。「令和」は、ほぼ「昭和」の再来だ。
「令」は、立派で正しいことを告げる。
「昭」は、朗らかに明らかにする。
 昭和も、令和も「和」を高らかに告げることを意味している。

 誰もが一様に、平らになることを目指して、出る杭を叩くハラスメントのムードが蔓延した平成は、結果として、むしろ格差が広がった。
昭和は、和を提唱しながら、戦争と戦後の個性が激しく混乱した中で成長した。
昭和と同意の令和には、再び、個性の時代が託されているのかもしれない。
ちなみに、画数で見ると
「昭和」は17画で個性のとんがったイメージ
「平成」は11画で真面目で気詰まりなイメージ
「令和」は13画で朗らか明快なイメージ

元号決定が、いち早く海外に伝わったと、これもニュースになっていて、世界中が「令和」に沸いているような錯覚をする人も少なくないだろう。
しかし、海外にしてみれば、「日本では桜が咲いて賑わっています」程度の、海外ニュースの一つで、せいぜい「ケンミンショー」のような関心だ。

興奮している人に、「元号で興奮しているのは日本だけですよ」と、言うと。
「えっ、え~~っ!!!」と、驚くかもしれない。