魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

B型A型(1)

2013年01月31日 | 占いばなし

日本はAB型的で、A型を理想像とする国だ。(占い人類学2
東アジア大陸はB型の強い地域だから、AB型を理想像とする。
A型の西欧と比べれば、東アジア全体がB型で、日本もB型だが、アジアの中ではA型が多く、AB型のB部分がかすみ、比較A型と言える。
このことから、おおまかに日本A型、大陸B型として語ることができる。

B型はひがみっぽい。僻みというのは、自分が不利な状況におかれて損をしていると思い込む状態だ。
相手と対等以下だと、損をさせられていると思い、対等であっても、勝手ができなければ、不当だと思い込む。

つまり、僻みの原点は「ワガママ」にある。自分勝手にするのが当然だと思っているから、譲り合いでは「不当」と、感じる。
ワガママとは、好き勝手にやることだから、他者を思いやってガマンする意識が薄いことをいう。

B型は、広い大陸で発生したと言われるぐらい、自由奔放だ。勝手に動き、型や束縛を嫌い、自分の都合のいい言動をとる。
つまり、ワガママであり、それが束縛されたと感じると怒り、ガマンしなければならない時には「僻む」。 何かのせいで自分にはできないと僻むのは、言い訳でもあるが、これもB型だ。

A型は、狭い島や寒い谷間で発生したと言われるぐらい、自制心が強い。環境に順応し、周囲に気を遣い、ガマンし、思いやりや工夫で小さな喜びを見いだそうとする。ガマンしても工夫しても、思いが通らなくなると爆発する。

ガマンして内に向かうA型に対し、勝手気ままに言動を垂れ流すB型が出会うと、B型は良い気分になる。何しろ、勝手な言動が妨げられないからだ。
すると、許されていると思い、どんどんエスカレートする。しかも、相手に尊敬されているとまで思い込む。

A型の方は、B型の無神経な言動に驚き、初めのうちは珍しく、面白いと思うが、エスカレートしてくると、無神経さに苛立ち始める。しかし、とりあえず文句を言わずに、ガマンする。ガマンするための心の支えとして、相手を軽蔑する。

B型はどんどんうぬぼれ、A型はますます軽蔑する。
それがある時、何かの拍子に一線を越えると、A型が爆発する。
B型にしてみれば、突然切りつけられた吉良上野介で、「なんでやねん」と逆ギレする。または逃げ出す。

理由が解らない上、もともと自省心に欠けるから、原因を外(相手)に求めようとする。それが逆ギレとなる。

B型の勝手、A型の軽蔑
尖閣問題は、まさにこの、A型対B型のギャップで起こっている。
B型中国は、何でも勝手なことを言いまくってきたが、それが実現できないのは、外国のせいだと僻んできた。

尖閣を「核心的利益」と勝手に決議し、あわよくば(これもB型流)手に入れようと隙を狙ってきた。今回は「奇貨居くべし」とばかりに行動に出たが、日本が一向に折れない。
『これはやばい』と思うと同時に、自分の思惑が外れて逆ギレ状態になっている。

A型日本は、敗戦で残された唯一の、小さな小さな領土を後生大事に思ってきたが、中国の次から次の勝手な言い分に、ガマンにガマンを重ねてきた。何とか押さえたつもりの行動に、B型中国が、ワガママをたたみ掛けてきた、と受け止め、堪忍袋の緒が切れようとしている。

B型中国はそれでも、A型日本の心情は理解せず、押すことしか考えていない。何ごとにおいてもだが、B型には、このA型の「心情」なるものがまったく理解できない。
次の行動を「読む」ことはできても、気持ちを「察する」ことができない。

それでも何とかこのトラブルが収まった後、
B型中国は決して忘れたり諦めたりしないが、「やあ、やあ」と、気分はコロリと転換する。逆に、A型日本は「ああいう奴だ」と、心に深く刻み込むが、教訓や対策は忘れられる。
中国のように反日教育をしなくても、今後、日本人の中国観は、当分、良くならないだろう。

→「B型A型(2)」


解らない

2013年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、「生きてる意味が解らない」というギャグ?が流行っているようだ。よく耳にする。

「生きる」意味など、誰にも解らない。宇宙の果てと生きる意味は、永遠の謎だ。強いて言えば、「解らないことが解っている」ということになるのだろうか。
人類のあらゆる思索は、それに費やされてきたと言ってもいいだろう。

そう考えると、聖賢聖典から、達人凡人、ボケ老人のつぶやきまで、すべてが、その答えのような気がする。
「こんなに苦労して、何のために生きているんだろう」と、思わず漏らす溜息から、「生きてて良かった」と、歓喜の叫びを上げる瞬間まで、すべてが、生きる意味を物語っている。

生きる意味を求め、ほとんどの人が自分で定めて生きている。でなければ、疑問さえ持たないで生きている。
子のため、親のため、世のため、人のため、愛するため、恨みのため、目標のため・・・

ところが、仏教ではこれを煩悩、執着と呼び、これを捨てよという。
聖書でも、思い煩うなという。それだけではなく、産めよ増えよ地に満ちよとまで付け加える。

もし本当に、人類が地に満ちたら亡んでしまうだろうが、現代はほとんどその瀬戸際にまで迫っている。
ということは、もしかするとそれが聖書の本音なのかも知れない。聖書はそういうつもりで書かれたわけではないだろうが、図らずも深遠な真理が隠されているのかも知れない。
人類が栄えようが滅びようが、すべては、「あるがまま」なのだと。

千の風
人は神に似せて土から造られたと、人間自己中の聖書だが、真の意味は、むしろ、「土に帰るのだぞ」と言いたいのかも知れない。
とすれば、神のもとに召されるとは、神に吹き込まれた魂が神に返されることであり、神とは何かによって、その意味が違ってくる。

仏教では魂が様々な生に生まれ変わる輪廻を、生きることの苦の繰り返しと考え、そこから解放されることを解脱と言うが、もし、魂というものが存在しなければ、別の解釈をすることもできる。

魂が肉体を渡り歩いたり、神のもとに帰ったりしないものだとすれば、魂も宇宙の一部と考えられる。現代人の科学知識では、こう考える方が解りやすい。

「魂」とは、地上に現れている生物のような「一個」の存在ではなく、宇宙全体を覆うエネルギー存在の一部に過ぎない。
バクテリアから人間まで、生物に宿るのは、その連続した「気」であり、それが個々を有機体として動かしている。

音の振動が、周辺の空気や個体を振るわすように、個と見えるものは一つの「気」として、影響し合い繋がっている。
そして、個々の生命の生み出す生成現象は、確実に環境に影響し、地球に影響し、さらには宇宙に影響している。

その「宇宙エネルギー」の意志が何であるのかなど、どこまでも解るはずはないが、生命の起こす変化は、他のどこかの銀河でも、同時的に起こっているのかも知れない。身体の細胞が日々生成するように。

この日々の営みの中で生まれる、思想や言葉それぞれが、「生きている意味」の答えであり、人生の達人ほど、「自分の至らなさに気づく」と、一様につぶやく。

個々の命が為しうるものは、「道半ば」であり、「無」であり、そのことが答えであり、そして、そのことが、宇宙エネルギー全体を支えるのに欠かせない、大無につながる個における「無」なのではあるまいか。

one for all, all for one


親戚関係

2013年01月28日 | 兄弟関係

公明党の山口代表が特使として訪中し、習近平総書記に「謁見」を賜って、ぺこぺこと頭を下げている光景に不安になった。
習近平は、ニコリともせず、ふんぞり返って手だけ出していたが、山口特使は満面の笑みで、抱きつくようにお辞儀をしていた。

公明党は与党に参加すると、「われわれ与党は・・・」と、くどく付け加える。裏を返せば、権威志向が強いことを表している。

今回、すぐには会って貰えず、先ず韓国と差を付けられた上で、じらしにじらされ、帰るギリギリのところで、「会ってやろう」と、お声が掛かったのだから、中国側の計算通りで、嬉しい気持ちは解るが、世界に注視されていることを意識すべきではないか。

中国は未だに古代のタテ型権威思考の国だから、極めて差別意識が強い。(日本人にもいるが)どちらが上かが重要だ。中国人が何かと言えば「バカにされた」と怒るのは、根底的に、自分達が他を見下しているからだ。

そういう相手と付き合うには、高からず低からずで、例え相手がご主人で、こちらがお使いであっても、親しさより品格を見せなければいけない。タテ思考の人間にとって最も重要な「品位」の格づくりだ。

山口代表は素直な良い人なのだろうと思う。しかし、ここはグッと我慢し、使いとしての慇懃無礼な礼を一度すればいい。相手が相手なのだから。
案の定、中国の新聞は、「中国が寛大さを示し、国民も納得した」と書いていた。 なんのこっちゃ???

日本のぐらつきにつけ込んで、「お前が悪い」とケチを付け、えげつないゆすりを仕掛けたうえ、新聞では、
「日本は棚上げを望むならば、中国による尖閣諸島の常態化巡航という前提を認める必要がある。これを踏まえたうえで双方が一時的に棚上げし、極度な対立を避けることはできるが、かつての状態に戻ることはありえない」周永生氏(サーチナ)と主張している。

「中国の寛大さを見せた」  ?!?!?!
これまで棚上げしていたとしても、これでは、今さら日本が棚上げにするとは言いだせない。中国が思う壺の「一歩前進」をすることになる。

長子と一人っ子
実に腹立たしいが、これこそが、まさに、長子中国の「これぐらいにしといたるわ」的な、撤退だ。
形勢が悪いと見て、こういうことを言い出した。決して「悪かった」とは言わないのが長子だ。

長子が「悪かった」と言うのは、相手が泣いている時、優位な立場が保証されている時に、慰めのために言うので、弟妹はとにかく泣きわめく。泣けば、誰かに何らかの対策を打ってもらえるからだ。

しかし、一人っ子は、泣き方も謝り方も知らない。
中国や韓国の関係は長年の付き合いだから、これでバランスが取れるが、一人っ子日本は対処に困り、必要以上に謝ってみたり、我慢した上、ぶちぎれる。

この、日本の出方も、中韓から見ると理解できない。日本は長子ではあっても、上下関係意識が無いことを、中韓には理解できないからだ。
空気の読めない奴ということになる。

中国や韓国に対する理解の仕方において、この、歴史に培われた兄弟関係の観点を、考慮しても良いのではなかろうか。
兄弟関係論が、あまりにもスンナリ当てはまる。

そして、中国には是非説明して欲しい。あなた方とは確かに、いとこ同士かも知れないけれど、兄弟ではないのですと。


景気の気

2013年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アベノミクスが大ブームで、円安・株高の嵐だ。
いかにも、一白らしいムード作りの政治だが、以前、兜町の風雲児とか言われた人物も一白だった。人気作家も少なくない。

ムードに乗ること、ムードを操作することに能力を発揮する一白の政治家は、素早い言動が信条で、ムードの指標でもある株価や為替に敏感だ。政府系ファンドを主張したりする人も多い。

当然、人気も高くなる。その代表が田中角栄だ。一白は人の心の動きを素早くキャッチして、とにかく、人の喜ぶことをしようとするから、人気はあるが、現実や結果は無視だから、後でとんでもない現実が表れてくる。田中角栄の列島改造論が典型だ。

アベノミクスは、レーガノミクスのもじりで、
Reaganomicsは、Reagan+Economicsと上手い組合せだが、
Abenomicsも、Abe+Economicsで、「Abe の mics」とこれも上手く日本語におさまる。

「mics」はmic+sで、学や方式の、大系を表すようだが、
「安倍のMICS」と、日本語で考えると、おもむきが変わってくる。
略語「MICS」には、実に多くの意味があるが、「全国キャッシュサービス」が有名だ。中には「汚水処理施設共同整備事業」というのもある。

Abenomicsが、日本語になると・・・
「安倍のMICS」=「安倍の全国キャッシュサービス」
と、金融緩和&公共事業の大盤振る舞いが秘められているし、
micsを、「MIC(マイク)s」と考えると、「輪転機で札をするぞ」などと、吹聴しまくる、アナウンス効果のことにもなる。

柿のタネより、にぎりめし
ムード派一白による、「景気は気から」と、円安・株高は、カンフル剤として有り難いが、一白水星は風俗水商売で、実業が疎かになりやすい。
酒の席の口は滑らかで、いかにも聞こえの良い話だが、よくよく聞いてみると、日本の重大な病根に手を付ける話は一切ない。

農業対策一つとっても、結局は輸出することしか考えていない。
「島国日本は輸出しか食っていけない」という強迫観念を、根本的に改めるようなビジョンはどこにもない。

「自分の国は自分で護る、美しい普通の国になる」のは良いのだが、軍事力よりも重要なことは、何が何でも「食糧自給率」だ。
衣食足りて礼節を知る。生きる上で最も重要な食料を、自分でまかなえないような者が、本末転倒の金儲けや軍事力を先行させれば、人の道を踏み外す例が、目の前の北朝鮮にある。

日本はお金持ちかも知れないが、お金は食べられない。
サルに騙されて、にぎりめしを柿のタネと交換したりすると、いつかまた柿の実を狙われ、挙げ句の果てには殺される。

何度も言うことだが、
日本のものづくりの魂と、生産工場と取り違えてはいけない。
日本はもう充分お金持ちになったのだから、生産工場は資源のある国に移し、金融や農業を国の根幹として、学術・文化の知術貿易に構造転換してはどうだろう。


雷鳴接近

2013年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

牡羊座時代だ。ハゲの朗報が次々と、雷鳴のように響いて来る。

今日は、「iPSで毛包再生」のニュースが飛び交っている。
慶応大の大山講師らによって、毛の根元の毛包の、さらに基本となる毛乳頭細胞の、さらに基本の細胞をiPSでつくり、マウスで成長させマウスに毛が生えた・・・

何とも微妙で、1月の桜の芽のようだが、去年、どう違うのか解らないが、似たような成果を出した辻孝・東京理科大教授も、「一歩進んだ」と評価しているから、着実に近づいて来ていることは間違いないようだ。

丸刈りにしている者には、この期待がどれほどのものか計りかねるが、最もドキドキしているのは、発毛ビジネス関係者かも知れない。

→「真打登場


嵐の時代

2013年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

あまり書く気がしないのだが、アルジェリアの事件は、起こるべくして起こった事件と言える。
開発現場は、常にあらゆる危険に直面している。事故、災害はもとより、現地住民とのトラブルもつきものだ。

群馬県で、火山灰から発見された古墳時代の人は、鎧を着け、榛名山の噴火に立ち向かって死んでいた。火の神への祈りだろうか。
初めて人が火を得たのは、噴火や山火事からと言われているが、人間に火を与えたプロメテウスの物語が、その厳しさを物語る。

石炭、石油、ガス、原子、という近代の火も、それを得ることが容易ではないと、われわれは大きな犠牲によって思い知らされてきた。
落盤、爆発、放射能と、直接目に見える事故もさることながら、そうと意識されずに起こる人や社会の摩擦によって、実は、遥かに大きな犠牲を払っている。

近代の戦争は、エネルギー争奪戦、火を得るための争いでもある。
帝国主義、植民地主義による犠牲は、誰が加害者と言うことはない。
人類すべてが産業革命パラダイムの嵐に巻き込まれた犠牲者だ。
別の見方をすれば、それを止めることができなかった、愚か者の歴史でもある。

外人部隊
「♪ここは地の果てアルジェリア~」アルジェリアと聞けば、日本人が真っ先に思い出すのが、この「カスバの女」だろう。アルジェリア独立戦争が始まった翌1955年に生まれた歌だ。
この歌謡曲の、「地の果て」とは、日本人にとっての地の果てではなく、ヨーロッパ人にとっての「最果て」だ。

古代から日本人にとっての地の果てが、「唐天竺」だったように(唐は朝鮮半島も含む)、
ヨーロッパ人にとっても、目の前の北アフリカは、古代からの「異国」であり、植民地化後も「外地」のイメージがある。この距離感が、全然知らない新大陸などより、よほど「最果て感」をかき立てたことだろう。

戦前の映画、「外人部隊」や「モロッコ」が、この異国、外地のイメージを良く表現している。
ことに、フランス人にとって、同化政策の対岸アルジェリアは、異国とは思えなかったのかも知れない。時代の流れに逆らって保持しようとして苦しんだ。

アルジェリアが独立した1962年の外人部隊の映画「前進か死か」は、市街戦の機関銃音に合わせて、タイプのようにアルファベットが刻まれていくタイトルと音楽が、当時としては斬新で鮮烈だった。
やはり、外人部隊の空しさを描いた映画だったが、フランスの空しさも表現していたのだろう。

傭兵による戦争は古代からあるし、日本の戦国時代も恩賞目当てだから、実体はたいして変わらない。
ただ、「外人部隊」の言葉は、富が生む無益な戦争をよく象徴している。

今回の、アルジェリアの事件は、リビアのカダフィ政権に雇われていた大量の傭兵が、行き場を失ったことも影響しているという。

パラダイムの影
政治、宗教、ビジネス、何であれ、世界の混乱の場には、産業革命パラダイムの影がある。
今日まで続くアフリカの混乱も、大戦争と同じ、富がもたらす、権益戦争であり、それがまだ終わってないことを象徴している。

安倍総理は犠牲者を、高度成長期の呼び方「企業戦士」と呼んでいた。「戦士」の格好良さは、プロや英雄の響きがあるからだが、「兵」と言うと、もともと戦争そのものを指し、人格無視の単なる戦争道具と感じる。しかし、実体は同じことだ。

会社員が企業戦士なら、ボランティアは義勇兵と言うことになるだろうが、同じように、企業兵と言ってしまうと、ただの将棋の駒になる。
「私も一兵卒として」と言う政治家や企業家は、本音は将官のつもりで、国民や社員を駒と見ているからだ。
「一将功成りて万骨枯る」

企業戦士なのか、企業兵なのか、どういう呼び方をしようとも、
250年続く産業革命パラダイムの大戦争を戦う傭兵「外人部隊」であり、テロの側にもテロの言い分があるだろう。アフリカは、中国や韓国の言うような過去史ではなく、今まさに歴史に苦しんでいる。

誰が悪者と言うことではない。火を奪い合う、産業革命パラダイムの嵐に巻き込まれた犠牲者であり、大転換が始まっても、この混乱がすぐ終わるわけではない。
犠牲者に報いる意味でも、エネルギー転換を急いでほしい。

同時代を生きる者として、犠牲者のご冥福を祈りたい。


商是信也

2013年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

聞くところによると、日本を追い越した中国の富は、中国人の一割に、全体の八割が集中しているそうだ。しかも、その多くの富裕層が、海外移住を目指し、富を海外移転している。
その上、中国は手にした金を軍備につぎ込んでいる。

中国で稼ぐには、共産党に絡んでなければ稼げない。共産党は成立段階から、戸籍による差別社会をつくり、人民を労働奴隷として富を得た。中国富裕層とは共産党のことだ。

人は自分の価値観で他人を見る。日本を「泥棒」と公言する中国共産党こそが、中国人民から富を盗み取っている「大泥棒」だ。
中国を愛する者としては、騙されている中国人以上に腹が立つ。

どんな大悪人であろうと、中国人はメシを食わせてくれる限り、信用し続ける。極悪非道の共産党を倒すには、軍事より経済だ。
例え現在の「大親分」を取り替えても、次に良い人が現れるわけではないが、情報規制を解いて、世界の空気を共に吸えば、違う展開があるだろう。

中国が居丈高に構えるのは、「中国の魅力には勝てまい」と、思い上がっているからだ。
二者択一の陰陽思想の恐るべき単純さ。(これが大好きなのだが)

レアアースの件が典型だが、何よりも人口を武器と考えている。
中国共産党にとっては、人民こそが財産であり、同時に、その財産を道具に使う。
中国に人口がある限り、欲に駆られた西欧諸国は中国を無視できまいと信じ、どんなことをしても、西欧は最終的には中国に頼るしかないと信じている。

何とも憐れな浅ましさだ。
人として付き合おうとしている男に、「あんたはわたしの身体が欲しいんでしょ。ほれ、ほう-れっ」と、得意になっているブスのようだ。自ら人間を捨てている。

そしてまた、実際、手近にあるその身体に、思わず手を出してしまうのが、男(企業)の悲しさだ。

企業の社会的責任とは、ただ金銭的還元をすることではないだろう。
中国の大地のみならず、地球上に暮らす人々に、真に豊かさを提供することが、社会的責任というものではなかろうか。
中国共産党のような、中国人民を食い物にする、「大泥棒」に荷担することはまさに、「悪徳商人」以外の何ものでもない。

金儲けに、良いも悪いもあるかい、と言われれば、それは哲学の問題だから、返す言葉はない。
しかし、商は信なりとは、互いの信用だけではなく、時間をかけて形成される、個人や企業への信頼であり、大局を見ない商いは、必ず淘汰される運命にある。


鏡の車体

2013年01月19日 | 自動車人間学

鳩山元総理には驚いた。
「やる、やる、と思ってはいたが・・・」と言うやつだ。

南京事件や尖閣認識がどうであろうと個人の自由だと思うし、自民党政府の認識が正しいとは限らない。
しかし、「元総理」は公人だ。公の場の言動は政治的な意味を持つ。

招待された海外で報道を前にしての言動は、確実に政治的立場の表明であり、日本の元総理として日本の意思の表明とみなされる。
そうした行為を、おそらく誰とも図らず、思いつきで垂れ流している・・・としか思えない。

南京事件や、尖閣問題について意見があるなら、先ず国内で、国民世論に向かって、詳細な意見を述べるべきだろう。できるならばだが。
おそらく、自分で検証するようなことは何一つなかっただろう。
国内でも、あれだけ矛盾だらけの思いつき放言をしながら、まったく意に介していない。

一貫していることは、思想ではなく、独りよがりの「良い子ちゃん」の信念だ。
自動車人間「ボディー」は、自分の世界を「見せる」ことが信条だが、一歩間違って、中身のない人間が、見せることだけにとらわれると、徹底した迎合主義になる。

また、見られることを意識している「ボディー」は、プライドの塊だ。非を認めるまえに、自分の「立つ瀬」を考える。早く言えば、言い訳だ。
もちろん、印象を気にするから、あからさまな言い訳は避け、誰かの存在や権威を強調して、その陰に隠れたり、その場で支持してくれる人に賛同することで、自分を正統化しようとする。

鳩山はこの、できそこないの「ボディー」だ。何度も言うが、ボディーがダメなのではない。自動車のボディーとしての機能には向かない、「鏡」でできたボディーなのだ。(見えない光学ベンツはあったが)

とにかく、行くところ行くところ、相手を映して、「私たしはこうです」と叫ぶ。相手は自分の願望を映す鏡を見て、「素晴らしい」と喜ぶ。
「少なくとも県外」も、沖縄を映した鏡だ。

しかし、アメリカや、中国は初めから信じなかった。
今回、中国に招待されて訪中したのも、中国が格好の道具と見込んだからであり、中国はこの「鳩」で、都合の良い手品を始めた。
手品の鳩は、押し込まれて、よく死ぬことがあるそうだ。


どの口が」、「笑ばなし


B787

2013年01月17日 | 占いばなし

ボーイング787の故障が相次いでいる。
当面、煙が出たのはバッテリーなので、バッテリー会社が注目されているが、原因は単純では無い。ハードよりソフトの問題だろう。

バッテリーは星占いでは何に当たるのか、確証は持てないが、やはり、エネルギーを表すサソリ座だろう。土星が来ているから悪玉になるのは当然と言えば当然だ。
しかし、この現象はむしろ、乙女座と水瓶座ではないかと思っている。

もともと、ボーイングという会社は魚座ではないかと思ってきた。
ボーイングの絡む事件が魚座現象とよく関連しているから、そう見ていたのだが、社名の「Boeing」は創業者名で、意味がよく解らない。

「Boeing」の「Boe」に近い音を見ると、
「Boer」は農民を意味するボーア人(アフリカの白人)。
「Boeotian」はBoeotia地方の「粗野な田舎者」。
また、意味的には野蛮人の「barbarian」にも通じ、音も近い。

音だけなら、仏語の美しい「beau、belle」(英beau・ty)さらに中語「美měi」(日bi)も、これに通じるような気がする(nippon・nihon→Japanの変化の理屈で)。

こうした音や意味は、魚座の「辺境」・「魅惑」と一致する。
なお、天秤座の美が、形状やバランスの「美」そのものにたいし、魚座の「魅惑」は、音や香りの五感に訴えて、そう思わす「心地よさ」だ。
(ちなみに、創始者のW. E. Boeingは天秤座)

そんなわけで、ボーイング社は魚座と思ってきたが、魚座と連動するように見える事件が、裏の乙女座であっても不思議では無い。逆に、乙女座に見える現象が魚座ということもある。

さらに、意味解釈の微妙なズレで、粗野な田舎者や、辺境の地を荒野と見れば牡羊座とも考えられるし、牡羊座にも「美」の側面がある。
天秤座の「美」が黄金律のような「完璧」さや、静的「平和」であるのに対し、裏の牡羊座は、動的な存在感のカッコ良さを表す。

天王星の権化、787
ボーイングの今回の事故は、魚座の海王星、牡羊座の天王星、いずれかの影響と考えられるが、やはり、天王星の影響の方が強いようだ。

ボーイングの状況がおかしくなってきたのは、天王星が魚座にいた2000年代であり、787開発が始まったのもこの時期だ。
一時代を画した「747」は、7+4+7=単数「9」で、サソリ座か牡羊座で、ボーイングが魚座、牡羊座、どちらであっても影響力として納得できる。
787の前身777は「3」で、吉数だが、787は「4」天王星の数だ。

天王星は水瓶座と同義で、飛行物体、ハイテク、電気、ハプニング、事故・・・も表す。
787が「電気のお化け」と言われるぐらい、超高度なコンピューター制御で飛ぶことは、天王星の象徴の名前「4」と符合する。

そして、今回の事故に垣間見える、複雑な電気回路で固めた「4」は、ほとんど海外部品で、しかも、開発製造過程で、ストライキや契約変更など、不安定な状況の中、アメリカで製造された。

この混乱の過程を、乙女座の表す労働環境や、機体内部機構の乱れと見れば、製造中に天王星が魚座を通過し、さらに、その間には土星の乙女座通過もあって、乙女座を不安定にしていた。これが、製造の不備を招いたとも考えられる。

さらに、今の時期こ問題が表れたのは、木星→双子座で、相互に90゜の凶角となる魚座にとっても乙女座にとっても、「困ったこと」が起きる時期だからだ。
当然、射手座の航空業界にとっても「困ったこと」になる。

もう一つ、別の角度で考えれば、土星の来たサソリ座のバッテリー会社にとっては、やはり、サソリ座と90゜の水瓶座「飛行機」しかも「4」に足払いをされた格好になった。

やはり、この事故は、社会現象として複合的で相当根が深く、単純では無さそうだ。


わらい話

2013年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

嘉田滋賀県知事が支援者新年会で謝罪したそうだ。
曰く、
自分は「時間がない、国政にかかわり得ない」と難色を示したのに、小沢さんに「あなたが出てくれたら100人通る」と説得され決断した。
「候補者リストを見ていたら100議席取れるなんて信じなかった」

推測通りの「雇われ社長」ぶりだ。しかも、自分の無能を棚に上げて、小沢のせい、知っていたら引き受けなかったと、恥の上塗りをした。
早い話、この人はただの「乗っかり屋」だ。そのうえ、取り込み詐欺の被害者面をして、政治的無能者であると自爆した。
どの口が

この度の責任を取って即刻、知事を辞任すればまだしもだが、次の目は無いだろう。(滋賀県民がどう考えるかだが)
同じ「乗っかり屋」のルーピー鳩山が、党首の筋を通して、彼なりにがんばった?のに比べれば、素人にも程がある。

それは、もとより、政治家は素人に超したことは無い。素人には、世の中を良くしたい捨て身の情熱があるからだ。
政治でメシを食うような人間がいる限り、治世は衰退するが、もう一つ、政治をダメにするのは、自己顕示欲だけの政治家だ。

旧弊政治の除去
人前に立つ政治家には自己顕示欲も必要だが、豊で平和な時代には、メシのタネや、自己顕示欲「だけ」で政治家になれた。
しかし、動乱期には、こうした「飾り物」こそが障害になる。
非常時に立ち向かうには、先ず旧弊の障害を取り除く作業が必要になるが、幕末にも見られたように、何段階かのステップを経る。

民主党の大勝→自滅は、旧政治の解体であり、小沢方式が完全に除去されたことを意味する。また、鳩山、嘉田といった存在は、現実政治から目をそらす免罪符、糖衣錠の糖となった旧社会党の末裔であり、この古い方式である一枚目の旧弊がまとめて除去されることになった。

次のステップは、権力の再構築であり、統治システムの再構築のために、自らを解体できる者にしかできないことだ。圧勝したとは言え、「党の再建」「旧日本を取り戻す」を目指す自民党に果たして可能だろうか。幕末の二転、三転はまだ終わっていない。

わらい話
旧秩序を夢見る「危うさ」と「滑稽さ」は、歴史上、枚挙に暇が無い。
改革の志はあっても、「発想」と「慧眼」がない凡人は過去を見る。例え一人や二人の賢者がいたとしても、歴史を決定するのは集団の資質だ。

たった今、われわれが見ている世界は、まさにデジャブ、東洋新興国の暴走であり、過去しか見られない者は過去の過ちを繰り返す。
中国や韓国という「カッコー鳥」は、70年前の眼で、日本を見ている。そして休むこと無く、日本を過去に引き戻そうとしてきた。

今回、振り上げた拳を下ろせなくなった中国は、新聞を通して、日本をポツダム宣言に違反していると、戦勝者として批難しているが、ポツダム宣言は中華人民共和国ではなく、中華民国台湾の蒋介石であり、中国共産党流に言えば毛沢東が「盗み取った」ものだ。

中華人民共和国の素性を誰も言わないのに、「カッコー、カッコー」と鳴いていると、「鳴かずば撃たれまいに」ではないが、結局は墓穴を掘ることになるだろう。


妄言語録

2013年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

知術貿易」で、何度も極論を言っているうちに、この際、日頃より、さらにお気楽で極端な、極論妄言を吐いてみたくなった。

昔から、何か言うと、怒られたり、笑われたりする。じっくり対話し、詳細まで話すと、たいてい納得してもらえるのだが、そういう時に、よく「想像もしていなかった」とか、「自分を否定されたと思った」などと言われる。おそらく、いきなり突飛な結論から話すからだろう。

どんな問題であれ、それが問題になるのは、誰でも常識を前提に考えるからだが、アレクサンドロス王が断ち切った、ゴルディアスの結び目のように、常識を外して考えると、問題は問題でなくなる。
行き詰まった問題には、案外、非常識が役に立つものだ。

非常識人間が最も気をつけなければならないのは、思ったことを直言しないことだ。ことに、文字にすることは命取りだ。
話す言葉でも、覆水盆に返らずで、口から出てしまうと取り返しが付かないが、まだ、説明のチャンスが残っている。

しかし、文字にすると、解説のない言葉が一人歩きする。発した者が想像もしていなかったような受け止め方をされる。ましてや、非常識人間の言葉は「誤解爆弾」だ。
非常識人間は、単語の基本定義が違うから、「まとも」な人が理解しようとすると、理解不能。「ありえない」言葉となってしまう。
だから、これでもまだ、非常に自重して書いている。

でも、時には、温泉に入って一杯飲みながら話すように、気楽に話してみたくなる。誤解を承知の上の妄言だから、解る人だけ解ってもらえばいい。

妄言 1.
年金・健康保険・生活保護は全面廃止
その代わり、これで困る人を、すべて、収容する施設を造る。
基本的には福祉に頼らない社会だが、どうしても困ったら、絶対に助ける社会的な無料保証設備を設けて、最後の安心を保証する。
あくまで自己責任社会だが、どうにもならないなら、一定の制限付きで救済する。ここでは、治療・職業訓練などは強制指導。
独居老人が困ったら、家屋敷の財産を担保に収容し厚遇する。相続権のある者が嫌なら、自分で面倒を見る。ただし、介護は別の専門家が行い、その費用を相続権者が持つ(虐待収奪予防)。

妄言 2.
幼児から少年までのグループ化と老人の交流
廃校や空き家を改装して保育施設にし、資格が無くても、一定の基準を満たした年寄りを、世話人とする。
幼稚園から小学校までの学年を廃止し、老人保養施設と同居させ、学校の管理や子供のケアは老人が行う。PTAを止めてFTAにする。Parentsの核家族から、Familyの大家族化に戻す。

妄言 3.
大学入試の全廃
高等教育は、希望者全員可能にする。一般教養は高校とネットで一体化し、徹底した単位制で、その成績を大学側が判断して、専門課程に受け入れる。
飛び級の仕組みも必要だが、とにかく一発試験ではなく、時間をかけて人材を育成し可能性・適性を判断していく。受験や就活の無駄を省き、教育を真に研鑽の場にする。当然、企業の一括採用は廃止し、インターンシップなど、教育と人材育成を共存させる。

妄言 4.
尖閣の施政権をアメリカに再返還する
アメリカが領有権について明言しないのだから、日本はこれ以上消耗戦に巻き込まれることはない。アメリカにノシを付けて返還し、アメリカの都合しだいに委せればいい。
アメリカが中国に返すならそれまでだが、当面、アメリカはそんなことはできないだろう。迎撃ミサイルを配備するなり、捕虜収容施設を造るなり好きにすれば良いし、洋上基地を造るというなら進んで協力すれば良い。ジュゴンもいないし、沖縄の軽減策にもなるかも知れない。

妄言 5.
オスプレイを民間用に採用
オスプレイ危険説は、基地反対の言いがかりだ。実際にそんなに危険なら米軍も使えない。「ヘリコプターより安全」には説得力がある。
飛行場が無くても飛び立てる運搬飛行機は、狭い日本国内のコミューターとして利用すれば極めて役にたつ。元々軍事用に開発された物が民生用になることは多い。
旅客用に改装し、国内線に使えば、僻地・離島対策にもなる。各地の金食い虫の飛行場やキツネしか歩かない道路も要らなくなる。
オスプレイが危険だと信じる人は乗らなければいいが、
その前に、日本こそ、こういう乗物を民生用に開発すべきだ。

妄言 まだまだマグマのようにあるが・・・


八百万薬

2013年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

このところまた地震が多くて、頭痛に悩まされている。頭痛のたびに、地震だろうか?ただの健康障害だろうか?と悩みながら耐えている。
しかし、『もし、地震だとすれば』と、想定して、いつ頃どの辺りかと予想してみると、ほとんど当たっている。

スッと頭痛が無くなってから、1~2時間で起きる。頭痛の位置で、後頭部ほど遠く、東北北海道沖縄、関東中部中国九州、近畿北陸・・・ぐらいの感じで判断し、左右で表日本裏日本ぐらいの感じで分かることもある。

大体はM4以上だが、M5以上になると、かなり辛い。
ズーンと痛いのが続いて、たまらず寝込むこともあるが、M4くらいだと、ズキン、『あれっ・・・かな?』ぐらいのことの方が多い。

しかし、いまだに、関連性には確証が持てないし、心の底で、どこか信じたくないところがある。
だから、よけい科学的に検証して欲しい。
頭痛持ち、1000人ぐらいに、メールさせるようにして、統計を取れば良いだけだ。ナマズの観察よりよほど簡単だ。

脱薬物障害
昔から頻繁に起こる頭痛だが、あまり頻繁に起こるし、必ず治まる経験から、頭痛薬は飲まないことにしている。
脳腫瘍などの病気ではないかと言われるが、仮にそうであっても、既にこの年まで生きているから、どうでもいい。検査もしない。

先日、60代の友人に会ったら、杖を突いている。足でも悪いのかと聞いたら、「怖い」のだと言う。階段などを上から見下ろすと、怖くて降りられないのだと言う。話をしているうちに、不眠症で毎晩睡眠薬を飲んでいるのだそうだ。

自分も、かなり昔から眠られないが、決して睡眠薬など飲まないから、驚きあきれた。薬は酒と同じような効果をもたらすこともあるが、決して晩酌するようなものではない。
日本人は何かと言えば薬を飲むと、あきれられるが、AB型的国民性故だろう。良く言えば合理的で、悪く言えば依存的だ。

B型、弥生的合理性と、A型、縄文的信仰心が合わさって、症状に応じた機能を利用しようと考えることと、薬という神様を信じることで、八百万の薬物を信仰する。

加えて、近頃は、商業主義の売薬やサプリが氾濫している。
もちろん、薬は本当に必要な時がある。適切に用いれば劇的に効果があることも事実だ。しかし、おやつや晩酌のように飲んでいると、肝心な時に薬が効かなくなったり、過剰摂取による副作用が起きかねない。

階段が怖い友人は、もとより、依存的なのだが、階段で目がくらむのは、晩酌のように飲んでいる睡眠薬の副作用ではないかと疑った。
ニワトリと卵はどちらが先か分からない。


知術貿易

2013年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

日本再生には、この先250年を見通し、未来から逆算して、今何をすべきなのを考えなければ、何をしても雪の上に家を建てるようなもので、すべてが徒労に終わるだろう。

250年経てば、近代国家など無くなっている。そんな時代の日本を考えるのに、国家間の覇権争いなど、何の意味も無い。
グローバル時代の日本は、地域としての存在となるが、その時、世界のヴィジョンを導く勢力として立っているかが問題だ。

世界の一地域としての日本とは、どういう「地方」なのか。
世界の一員となる資格は、独り立ちできていることだ。大前提は自給自足であり、100%の地産地消だ。
多少の気候変動や天災では他の世話にならず、かつ、他地域を救済できる余力を持つ。

日本は縄文も含めれば、1万数千年、どこにも世話にならず、収奪をせず自立してきた。(逆に、現日本人が乗っ取ったとも言える)

例外的な進出はあるが、「倭寇」は地域の海賊であり、秀吉の「朝鮮出兵」は土地恩賞の戦国システムの末期的な暴走であり、「大陸侵略」は近代帝国主義に巻き込まれた日本の必然的な帰結であった。

これらの海外進出は日本史の例外であり、日本が自活していくためには、何の必要も無かった。日本は天災は多いが海に守られ外敵は無く、自給自足して行くには、天国のような島だった。

産業革命パラダイムの限界が見え、人類の方向転換がせまられる今、日本は恵まれた環境にある。
工業生産を捨て、農水業をベースにするには、日本は絶好の地であり、先進国として得た技術力と資金力で稼ぐこともできる。

日本の宿命のように思ってきた工業立国は、もう止めるべきだ。
「加工貿易」の強迫観念は、捨てなければならない。
これからは、「知術貿易」だ。

知術貿易
「加工貿易脳」だから、農業改革と言えば、すぐ、農産品輸出の話になるが、農業は何よりも自給自足を第一に考え、農水産品は余った物を売る程度でいい。
極論すれば、日本人全員が家庭菜園で食べる発想であり、家庭菜園は高く付くが、自分でつくったものは安心で美味しい。

「知術貿易」とは、文化、サービス、学術、基礎科学技術を、双方向的に売買することで、この方面の、人材育成と交流ができる環境を重点的に整え、国際拠点をめざす。

今、TPPでもめているのは、国家主義の「過去」と、地球時代の「未来」との視野の違いだ。
地球時代の未来を想定する場合。TPPも、国家を乗り越えるステップに過ぎない。

大転換の今は、国家が権益を争う時代から、人や企業が直接関わり合う時代の入り口であり、TPPは国家時代を終わらせるための仮免許だ。国家の枠を取り払うためのステップであれば、これも、極端な話で誤解を招くが、アメリカの一州に加えて貰ってもいいくらいだ。
少なくとも、中国の日本自治区よりはマシだろう。


再生可能

2013年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

人類の特長は道具を使うことだと言われているが、近頃、サルやカラスも道具を使うことが分かってきた。

だが、「火」は人類にしか使えない道具だ。
プロメテウスのお陰で、人間は地上唯一のエネルギー使いとして生きてきた。人類の歴史はエネルギーの歴史でもある。

もとより、生命の進化そのものが、エネルギーを燃やす進化であったわけだが、人類は、その生命が他の自然物を燃やして活用するという飛躍的な次元を切り開いた。
そして、その利用方法、燃料の争奪戦こそが人類史となった。

産業革命パラダイムが始まると、人類は猛然と地球を燃やし始めた。
それまで、地表の森林程度だったものが、燃料を求めて、至る所で地球を掘り、汚染や地盤沈下はお構いなく、それを電気に変えて、地球の裏側まで光で覆われている。闇の光は、地球が燃える姿だ。

そして、石炭や石油が尽きそうになると、今度はシェール燃料やメタンハイドレートを燃やすのだという。
まだまだ、100年や200年は充分燃やせると鼻息が荒いが、地球温暖化の解決策が見つかったわけではない。

既に、燃やすエネルギーの限界は見えているし、インチキ、クリーンエネルギーの原発廃棄物はどんどん蓄積されている。

この産革パラダイムの仕組みを使って、覇権を握ろうとする中国は、使えるものは何でも使おうとするから、傍若無人な資源確保はもとより、面白いことに、再生可能エネルギーにも徹底的に注力している。

大転換はエネルギー転換だ
古代帝国は鉄を造るために森を焼き尽くした。産革パラダイムでは化石燃料を燃やし尽くした。そうして帝国が興亡を繰り返した。
エネルギーとテクノロジーこそが、パラダイム変遷の本質だ。

再生可能エネルギー産業こそが日本を救うのだと、執拗に言ってきたのだが、日本は完全に立ち後れている。
情けないことだが、このままで行けば、再生可能エネルギーで覇権を握るのは中国になるかも知れない。

エネルギーを制する者は世界を制する。
目先の需要だけを追い求めて、使える物を使っていると、気がついた時には、己が化石になっている。

極端な話、自動車も家電もすべて投げ打ってでも、再生可能エネルギー産業に特化することが、次の時代の昇る旭になれるだろう。
それができるのは、日本ではないのかも知れない。

恐竜時代の脇役だったほ乳類のように、コレといった産業のない国こそ、可能性があるからだ。
ローマも、イギリスも、アメリカも、もとは、誰も意にも留めない植民地や小国だった。


八重の桜

2013年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

大河「八重の桜」が始まった。
第一回は「ならぬことはならぬ」で、会津藩の什の掟を強調し、会津人の生き方の美しさを紹介していた。

これまでも、白虎隊のドラマなど、東北会津の実直な美しさが印象に残っているし、この度の大災害の渦中にあっても、世界を驚かせた東北人の、厳とした人間性は、日本人の面目躍如であった。

日本人ではあるが、西の人間として、東北の人々の愚直なまでの真面目さには、涙が出るほど感動する。
そして、日本の西と東の文化の落差は、世界と日本の関係に似ていると思っている。

同じ日本でも、西に行くほど外来文化に影響され、非日本的だ。いわゆる日本文化というものは、縄文文化をベースにする東の感性が、弥生文化を吸収感化したものだ。

日本独特の美意識は、縄文の「美への探究心」と、弥生の「合理性」が織りなしたものであり、これこそがデザインの基本だろう。

デザインは単なる美術とは異なり、ものに与える形、ものの持つ必然的な形、機能美がなければならないが、日本文化には究極のデザイン感覚が備わっている。形が機能を生み、機能が形を生む。
日本の「ものづくり」という言葉が、日本人の琴線に触れるのは、日本人の美への探究心が揺さぶられるからだ。

伊達と言われる美意識は、東北全域に根付く文化の結晶であり、源日本人の末裔である東北人の生き様だ。
伊達者として現れた東北の質実は、大海の孤島で醸成された、日本全体の文化となっているが、その日本でも、東西には大きな違いがある。

美しい日本
黙っていても見れば解ってもらえると、ひたすら実質を磨こうとする東北と、売り込んでなんぼ儲けてなんぼの、ハッタリ駆け引きで付加価値を売りものにする西との違いは、視点を引いて見れば、中韓と日本の関係に匹敵する。

日本が「ものづくり」にこだわっている間に、パクリを能力と心得て、活用したり、右から左に売って儲けた中韓が、逆に日本に命令を始める。
この構図は、蝦夷、奥州藤原、伊逹、会津と・・・律儀さ故に常に悲哀を見てきた東北と大和日本の関係と似ている。

「ならぬことはならぬ」と、戒めガマンする東北の生き方は美しいが、京・大阪を拠点とした秀吉のイメージ「鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス」とは真反対だ。

東北復興で、東北舞台のドラマを展開するのは大いに賛成だが、今の日本に失われているものは、むしろ「鳴かせて見せよう」の破天荒であり、「ならぬことをなす」寛容性だ。

ドラマの舞台は、やがて西に移るだろうから、東北のガマンと保守から、破天荒、進取、知恵とアイデアへと価値観を転換させて行って欲しいものだ。

PS.
タイトル「ならぬことはならぬ」を「ならぬものはならぬ」と書いていた。 訂正\(_ _ )