魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

曲がり角(2)

2020年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
観光苦行
百年前の再来は、芸能だけではない。
あらゆる概念が劇的に変わる。消費、運輸、仕事、教育、観光、コミュニティ・・・すべての概念が変わり、人類の生き方が変わる。

観光業に関しても、GOTOキャンペーンなどより、地域観光の再開発を手助けすべきだ。コロナ危機で露呈したように、国がすべてを面倒見る、中央集権の時代は終わった。
近代まで、慰安旅行のようなものは地域内が基本で、伊勢参りのような遠出は、メッカ巡礼のように、ある種の使命感による冒険だった。経済交通の発達に伴い、戦後は北海道や沖縄旅行がブームになり、さらに、海外旅行が当然になって、南極にまで行くようになってきたが、これは本来、苦難を伴う冒険や旅であって、それをハンディな「旅行」にしたのは、交通インフラの発達だ。
今、宇宙旅行をする人は、観光であっても基本訓練を必要とする。異界に行くとはそういうことだ。

業者による快適な旅行は、自然や政治経済が、最も安定している時のみ可能なものだ。この幸運な前提を忘れると、登山ツアーでの遭難や、今回のような感染症の拡散につながる。
世界旅行ブームで、遠くに行けることが、贅沢や快楽のように信じられてきたが、これは、それが可能になった喜びに過ぎない。大人になって大人買いをするようなもので、必要も無いのに大量買いする。海外旅行は、決して、近場の温泉に行くような気楽なものではない。
観光業者による旅行は、映画を見るようなプチ体験、プチ冒険だが、プチと言えども冒険であり、危険や困難を孕んでいる。
よほど旅慣れて、身体一つで世界中を飛び回る人か、冒険が好きで、命がけで苦難を乗り越えたい人以外は、ほとんどが海外旅行という重労働をしている。猫も杓子も海外旅行する必要など始めから無いのだが、そうしなければ、取り残されるような気がして、人並みになるために出かけて行き、疲れ果てたことを「ああ素晴らしかった」と納得する。いわば、祭りの大興奮で、目的など無い。あそこも行った、ここも見たと、スタンプラリーやカード集めのように満足している。
解説を読んでから映画鑑賞する人は映画を観るのではなく、解説の追体験をしに行くのだが、ほとんどの観光客は、現地の人の本根など無関心で、観光イメージの追体験をして帰ってくる。近年の押し寄せる来日観光客を見て、日本人が感じたことの裏返しなのだ。

観光は好奇心を満たすか、憂さ晴らしの慰安だ。憂さ晴らしならお祭りでも良いし、好奇心を満たすなら、オンライン・ツアーで間に合う。現地に行く意味のある人は、それだけの見識と洞察力のある人で、そういう人には観光業者は必要ない。
現地でなければ味わえない空気や体験と言っても、日本観光で日本を絶賛する中国人の、どれだけの人が台風や地震を体験して帰るのだろう。ほとんどの観光旅行は皮相的な追体験だ。
こうした原点から考え直してみると、近代に始まった、ビジネスとしてのツーリズムは、明日消えても困らない。何時、新しい形の「体験」に入れ替わっても、不思議ではないのだ。
宿泊施設も交通機関も観光業も、映画館が、レンタルビデオに変わり、ダウンロードに変わったように、観光客は家で観光し、近所で冒険体験をするようになる。

若者が車よりゲームを好むのは、金が無いからだけではない。求める価値が変わったのだ。
大移動を前提とするオリンピックやツーリズム、そして大戦争も、産業革命の大量生産が生んだ「価値」であり、物に踊らされる人類の、幻想にすぎない。
だから、本当に小さなきっかけで、世界は簡単に変わる。まるで夢の中の風景や物語が、脈絡も無く、一瞬で入れ替わるように。

曲がり角(1)

2020年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
新世界
これから」でも話したが、「常識」や「当たり前」が、変わる時が来た。
先ず、GOTOキャンペーンのような、正常バイアスによる盲動政治を、改めなければならない。
もう、これまでの業態や社会慣習を守るために金を使う時ではない。
社会は、苦しくなれば自ら変わる。むしろ、その変わる人々を支える政策を出すべきだ。
GOTOキャンペーンで助けようとしたのは、変わろうとしない人々だ。

26日、JR東日本が、東北新幹線で新鮮な魚を東京に運び、東京駅のレストランで提供したニュースがあり、大好評だった。こうした努力こそ助けるべきだ。
政治家は、時代変化を認識し、既存の経済資源を、違う形で活かす知恵を絞り、同時に、将来のビジョンを打ち出すのが仕事だろう。
知恵が出ないなら、幕末のように、謙虚に国民から知恵を募ることだ。膨大な意見を、AIで集約し、有用な案を抜き出すなら、これもアナログ政府には一つの前進だ。

コロナが収まっても、これを機に始まった動きは止まらない。ついに世界は大転換の曲がり角を回ったのだ。これまでの常識は失われる。
コロナも気候変動による大転換の一コマに過ぎない。地球の環境変化のほうが大問題なのだ。防災は言うに及ばず、生活、産業、社会が根底から変る。もう小さな傷や心の問題にかまっていられる時ではない。前進か死か!人類の正念場だ。

一人の犠牲者も出さない戦争は無い。今起こっているのは戦争以上の出来事だが、戦争として考えてみよう。
観光産業一つとっても、見た目は同じだが、宿泊施設も交通機関も観光業者も、大空襲で焼け野原になったと考えるべきだ。
焼け野原になったのは、物の意味、使用目的であり、ここからの再出発は「意味を創出」すること、使い方を変えることだ。

新常識が始まる
例えば、芸能・音楽も、この百年の変化は、人類史を覆すほどのものだった。
古代ギリシャの円形劇場は、当時としては驚異的だ。大勢の人が演者の声と姿を同時に楽しむことができるようになったのだ。
近代、ポピュラー歌手はメガホンで歌っていたが、マイクとスピーカーが生まれて歌の概念が変わり、レコードが生まれて、音楽の意味が変わった。特別な場を必要とせず、誰でもどこでも楽しめるようになった。
しかし、臨場感は得られなかったから、コンサートはやはり原点だった。
ところが今回のコロナで、一堂に会することが不可能になり、臨場感を得る様々な試みが行われている。オンライン、VRなど、すでに技術環境は整っている。この動きがあと一歩進めば、芸能音楽の概念は画期的に変わる。
百年前の視聴覚革命が、今、再び始まろうとしている。

困難持病

2020年08月28日 | 占いばなし
安倍首相がまた辞めることになった。
仮病ではない。本当に病気だ。色々むづかしい病気だと説明されている。
しかし、これは一白独特の病気だ。「融通無碍」の「水の一白は幻」の項でも述べたように、基本は心因性の体調不良から起こる持病の一つだ。

多くの人は、病気は、病魔が独立して存在するように思っているが、自己コントロールができなくなった時に病気になる。
病気の多くは、ウイルスや細菌の侵入との戦いだが、疲労やストレスで、コントロールを失って自ら患うこともあれば、感染に対抗できなくなることもある。
いずれにしても、病は自ら招くとも言える。心と身体のバランスが崩れれば発病し、終いには命を落とす。
占学の寿命は、このバランスが最大限に崩れる時のことだ。稀に、逃れる人もいる。

ふつう人は、この心と体のバランスを忘れて、無自覚のうちに崩してしまう。あるいは、健康になろうと過度にバランスを刺激して、かえって崩してしまうこともある。「健康のためなら死んでもいい!」と言うやつだ。
だから、ふつうは不本意に病気になる。
ところが、一白は、もともとが悩みの星、病気の星だ。正常な時には、他人の病気に気を使うことで元気になる。他人の悩みや不幸、秘密に目が向き、そこに関わることで活路を見出す。ビジネスでは人が見落とすスキ間産業に強く、裏取引や、秘密に関わる仕事でも成功する。また、人の心の裏、性産業や悩み事を聞き出す仕事にも向いている。悲しい小説や、恨みを晴らす小説もうまい。
裏の世界に生きる一白が、表の世界で生きると、行き詰った時、自然に裏に退避する。
不可思議な持病を抱えている一白が多いのは、持病が安全弁になるからだ。

一白以外の人は、災難として病にかかるが、一白は安全弁として病にかかる。(もちろん無自覚に)
死んだふりをする虫は、意図的に死んだふりをするのではない。本当に気絶するのだが、
仮にそこで食べられてしまったら、それはそれで楽だし、捨てられたら、しばらくして歩き出す。
一白は、本当に病気になるが、決して、意図して仮病になるのではない。とてつもない困難の前では、自然に裏の世界に回帰する。つまり、持病を誘発するのだ。これがわからないと、不可思議な持病を、難病と受け止める。日本には、病気の人や死んだ人を責める文化はない(昔はあった)。

ただ、とてつもない困難は、個々の生い立ちでレベルの差がある。厳しい環境で育った人と、恵まれた環境で育った人では、ストレスも困難も、受け止め方が全く異なる。


狂想曲禍

2020年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナコロナと言っているうちに、熱中症の死者が東京だけで100人近い(増加中)。
言わんこっちゃない。
体力を失えば、どんなことでも命を落とす。年寄、病人、基礎疾患のある人は、ちょっとした環境異変で、これまでも簡単に死んでいる。コロナの死者数ばかり叫ぶが、様々な複合要因による死者も、今は、感染者であれば、すべてコロナ死者にカウントされる。

熱中症で直接死ななくても、体力消耗で、コロナに感染して死ねば、コロナ死だ。
コロナによる医療従事者の死亡が圧倒的に多いのも、過酷な現場での過労からだ。
毎日続く、40度の中で、マスクをしている人がいる。観測40度は、アスファルト上ではさらに加熱する。
それでも、コロロナを煽るメディアは、「状況が許せば、マスクを外してください」と、言い訳めいた、曖昧な注意で口を濁す。

コロナの死亡率に影響する、糖尿病や肥満が少ない日本は、死者が少ない。
体力消耗の激しい屋外でのマスクは、出来たら外すではなく、むしろ、積極的に止めるべきではなかろうか。その前に、気温35度の屋外で、どれくらいウイルス感染の危険があるか検証してもらいたい。ハワイや沖縄でも感染拡大しているが、あくまで接触感染で、浜辺の飛沫感染はとても考えられないのだが。

鎖国芝居

2020年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
「半沢直樹」は面白い。
話題になっていた第一シーズンは観てなかったので、放送開始前の総集編で観た。歌舞伎俳優を多用している訳がわかった。これは、まさに勧善懲悪の現代歌舞伎だ。
確かに面白いが、これが大人気する今の日本が、心配になってきた。
これまでも、水戸黄門や大岡越前、遠山の金さん、桃太郎侍と、同類のドラマは人気してきたし、日本人の多くはこのパターンを好み、権威による正義のお裁きを求めている。
江戸幕府の権威による安定社会では、どんな悪事が行われようと、最後には権威によって懲戒される・・・と、思いたかった。自分たちの力で正義を追求することができなかったからだ。
ところが、自由と人権が認められている現代にありながら、水戸黄門や大岡越前が人気する。それは、自分では悪に立ち向かえないと諦めているからであり、始めからその気もないからだ。
そういう人たちが、悪を滅ぼしてくれる権威を待ち望むのは良く解るが、おそらくは日頃、水戸黄門や桃太郎侍をバカにしているであろう人でも、「半沢直樹」には喝采をする。

「半沢直樹」の舞台は現代だが、閉塞社会の内部の話であることは、江戸の時代劇と変わらない。
日本経済や大銀行という、崩せないことが前提の権威があり、物語はその仕組みとルールの中で進行する。
銀行は世のため人のためにある社会インフラで、大銀行は破綻しないと信じ、それを守ろうとすることが善として描かれる。これは、幕藩体制は守るのが当然とする、江戸時代劇と同じ物語だ。
大岡越前を後ろで支える将軍に当たるのが頭取で、物言わぬ権威が黙ってそこにいるのは、法華経や華厳経の沈黙のお釈迦様のような、あるいは、日本神話の天之御中主神のような古典的設定でもある。つまり、頭取の下の限定世界の物語となっている。

これに対し、戦国物、幕末維新物は、体制そのものを創る話だから、世界に果てが無く、登場人物の力関係に上下が無い。しかし、それでも、視聴者は歴史を知っているから、安心して観ている。興味は、どの視点で描かれているかだが、その意味で、これも所詮、定番ドラマの枠を出ない。
ただ、外国に対するスタンスは、江戸時代劇では、せいぜい抜け荷の話ぐらいだが、幕末や戦国は外国勢力が大きなファクターになる。この点でも、「半沢直樹」は江戸時代劇だ。外国の位置づけが大きな影響力として存在しない。外国企業の存在は、何かスゴイけど、南蛮渡来や舶来と同程度の扱いで、ストーリーの柱ではない。

今そこにある日本のマジョリティ
「半沢直樹」の閉塞社会での闘いは、作者が、バブル世代で、崩壊後の苦境を生きてきたことにあるのだろう。半沢が目の敵にする上司たちは、バブル世代が忌み嫌う団塊世代であり、戦後混乱期に育った団塊世代は、戦国・幕末的な世界観だから、秩序や組織を信用していない。自分がルールを作るつもりでいる。一方、バブル世代以降は、偏差値に象徴される規格化の時代に育ち、進学も就職も一つの尺度で上下が決まり、一方で、その反動から、規格を拒否するツッパリの時代でもあった。
無秩序で育った団塊世代が自由を求めるのに対し、秩序に縛られながら個人競争を強いられたバブル世代は、スポーツルールの中のガッツと緻密さを原動力にしている。

団塊世代は大まかに昭和20年代生まれで、バブル世代は30年代となり、長子と中間児の関係に似ている。なお、30年生まれの明石家さんまはその分岐点で、そのどちらでもないが、個人的には弟妹だ。気持ちはバブルだが、団塊の兄姉から学んだ価値観を是とする。
中間児をブランド志向に例える人がいるが、言い得て妙だ。既存の価値を尊重する。
また、長子が長たる責任の負担を嫌がるのに対し、弟妹は自分が長であることに憧れる。トランプも安倍も中間児だが、クリントン、ブッシュ、オバマは長子だ。つまり、責任の重さに対する認識が違う。長子は自分が責任者だから人の言うことを素直に聞かない。

ブランド志向のバブル世代が残した問題は、男女の「しきたり事」で、このため、後の世代は、いわゆる男女交際を敬遠するようになり、恋愛や結婚観が大きく変わった。
バブル崩壊後の苦境の中、バブル世代のパワーは、保守に向かい、その世代が現在の企業を担っている。このため、日本企業はルールの無い冒険を避ける。

「半沢直樹」を観ていても、緻密な将棋の面白さとは裏腹に、脅威となる黒船が、体制そのもの、日本経済や大銀行を滅ぼすような危機感はない。話もルールも通じない相手と戦うことは想定外だ。
太平を願う内向き思考の江戸幕府に黒船が現れると、戦略無き攘夷論や、無節操な開国論しか出てこない。
実際、新興国に後れを取った日本企業は、内部留保に走るかと思えば、ご祈祷のように見境無く外国企業買収に走り、大怪我をしている。

「半沢直樹」に喝采する日本は、海外赴任を嫌い、海外留学を嫌う若者を始め、捨て身の韓国や暴力団中国の脅しに負けて、ただただ嫌韓、嫌中になる、上品なお公家さん社会だ。
想定外のコロナ事態も、「おおこわ!おおこわ!」と、ひたすら恐れて騒ぎ、ワクチン祈願に手を合わす。自分が犠牲者になる前提はなく、汚れを排除し、「早う官軍を派遣して反乱軍を鎮圧せんかいな!」と、喚くだけだ。
戦場にいる者は小さな傷を気にしている暇はない。格闘技を始めアスリートも、一般人と比べれば、怪我に無頓着だ。戦場に無傷は無く、コロナは突然襲ってきた正体の判らない敵との、戦争だ。

戦いはともに傷つくものだ。取るか取られるかの麻雀ではない。「倍返し」の発想は、戦勝国の賠償請求がナチスドイツを生んだ第一次大戦のように、日本に際限なく賠償を求める韓国のように、「人を呪わば穴二つ」だ。
自然災害に「倍返し」など要求できない。正体不明の巨大な相手、黒船との戦いは、先ず自己修復が第一であり、二度と攻められない思想と体制を作ることこそが、自らへの倍返しだ。

海千山千

2020年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
このブログのテーマでもある「占い的見方」は、非科学的視点の再考だ。経験と勘による大局観で、もう一度、世界を見直してみれば、どう見えるのか。
科学の発展で、世の中は何事もデータで「知る」ようになった。人の価値も健康も経済も防災も、全てが数値で知られ、数値に合わせて実体が存在すると信じられている。
しかし、世界の大半は数値化できないもので充たされている。あるいは、数値化が意味をなさないものもある。

人の心は数値化できないものの代表だが、それが社会や自然に与える影響は計り知れない。ビッグデータで描き出せるのは結果であり、人の心そのものの実体を観ているわけではない。
天気予報も、あくまで過去データが基準だから、温暖化で地球環境が変われば、どんなビッグデータがあっても、予報できなくなる。
太陽系の果てまでカメラを飛ばしてみられるようになった現代でも、人類はお釈迦様の掌の孫悟空のように、何も解っていないのだ。
にもかかわらず、現代人は全てが解ったようなつもりでいる、何でも解るように思っている。
今回のコロナパニックは、まさにそうした現代人の傲慢の虚を突いた。

どこで発生!、感染者何人!、死者何人!・・・と、次々と報道される数値データに、ゴジラの出現だ!と慌てふためき、水槽の中を泳ぎ回るマグロのように、衝突を重ね、自滅しようとしている。
もし、コロナウイルスの存在を知らず、多くの発病者がいても、「風邪が大流行しているから気いつけてや。横町のジイサンも死んだらしいで」と暮らしていたら、死者は多く出たかも知れないが、経済崩壊や社会崩壊は起こらなかっただろう。

角を矯めて牛を殺す
医療の現場にいて、正体の分からないウイルスと戦っている専門家にすれば、真っ先に最悪の事態を考えるから、とにかく「水ももらすな!」と、叫ぶのは当然だ。
そして当然、素人は専門家の意見を最大限信用する。メディアはそれを拡声器でかき鳴らす。水鳥の音で大敗北した平氏でなくても、パニックが引き起こした大量死は古今東西、枚挙にいとまがない。
コロナによる死者を一人も出さないつもりで、感染者を一人も出さないということであれば、完全封鎖しかないが、それで精神異常を来した殺人が絶対に起こらないと、誰が約束できるだろう。会社倒産、失業で、自殺者が出ないと誰が約束できるだろう。
コロナ事態が始まって以来の、日本の総死亡数は果たしてどれぐらい増えたのだろう。むしろ減少しているとも聞いた。

集団免疫獲得のため、特別なことをしない対応をしたスエーデンは、多くの死者を出して失敗したと揶揄されたが、多くの死者が出たのは老人施設など特別なケースで、今、スエーデンは、何事もなかったかのような日常を送っている。
毎日、「感染者数」が驚愕の伸びを示している日本だが、他の国と比べ、死亡率が倍以上少ない。無症状の感染者数もどんどん伸びている。日本式の対応も、他の国から「とんでもないと」バカにされ非難されたが、果たして、今の結果はどうなのだろう。

麻生大臣のように「民度」を自慢するような話ではないが、取りあえず、今のところ大敗北というわけではない。
今更、感染を抑えるためだけに、あれこれ対策を打たない方がいい。受入体制確保は必須だが、数値データで満点を取ろうとすれば、「角を矯めて牛を殺す」事になる。
むしろ日本は、死者、重傷者の数と比較して、良い形でコロナが拡散しているのではないか。「With Corona」とは、こうして普通の風邪にしてしまうことではないのか。

数値に囚われる現代人は、数値に反応して震え上がるかも知れないが、数値と関係ない現象や、過去の歴史と比較する大局観で眺めれば、コロナ事態の過剰反応の方がよほど怖い「病気」に見える。
テレビを見ながら、やたら怖がっている老人がいる反面、トランプを始め、多くの社会経験の豊富な老人ほど(結果的に男性)が「騒ぎ過ぎだろう」と思っていることも事実だ。経験的に、その実体を把握しているからだ。身の危険は承知しているが、世間の常識に逆らい、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた老人にとっては、「コロナがなんぼのもんや」だろう。占いの視点も、この経験的大局観に通じる。
ただ、海千山千の老人は、この風潮の中で、そう言い出すことの危険も体得しているから、口には出さないのだが。

命のまま

2020年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム
安楽死事件に対して、賛同する人は誰もいない。善悪を論ずる前に、少なくとも違法なのだから、当然だろう。
しかし、こんな事件が起きるのは、日本が安楽死をタブー視しているため、公論にもならないからだ。
切腹文化で知られ、自殺大国でもある日本が、安楽死を無視する不可思議に、誰も矛盾を感じないのだろうか。近頃は自殺を自死と言い換えるらしいが、こうした事なかれ精神が、ますます問題を遠ざけている。
文化、社会心理の観点では、極めて面白い現象なだけに、一言で説明できるような問題ではないかもしれない。

むづかしい議論やプロセスはさておき、もし、安楽死を認める法律があったらどうだろう。
真の安楽死が研究される一方で、自殺者の多くを救うことができるはずだ。
安楽死が公的に行われるならば、そこまでの過程で多くの専門家の判定を受け、何よりも、その前に、受付の段階でカウンセリンを受けることができる。
自殺者は元々、死にたくない人だ。生を求める故に、生に行き詰まれば、死ぬしかないと選んでしまう。生きることの希望や意味に気づけば、死を選ぶ必要はない。

世にはばかる憎まれっ子のようには生きられない人を、慰めたり、道を示したり、壁の突破を助けることは出来るはずだ。
自分の生が、人に役立つと思えるなら、光明が見える。人の役立ち方は無限にある。
死を伏せるような偉い人でなくても、その人が生きてくれているだけで、周囲にとってありがたい人は少なくない。また、この人のために生きなければと思って生きている人も多い。

生命は命(いのち)
何のために生まれてきたかと問われて、答えられる人などいないだろう。だから人は、何かのために、誰かのために生きていると思いたい。多くは、家族のため、主君のため、国のためなど、自分に関わる存在、つまりは、生命の自己防衛意識を拡大し、理由を見いだす。
しかし、人類のため宇宙のためなどと、思う人は滅多にいない。五感に響くリアリティが無いものには、一体感を感じられないからだ。

ところが、実は、人類の多くはこれに共感して生きている。一神教の神や、仏教の法と言われるものは、この宇宙観だ。
一神教では、命は神が定めるものなので、自分で勝手に決めることはできないと考える。仏教でも、人は従うべき法を悟る修行をしなければならない。解釈の仕方によっては、例外的に、神のため法のためなら死ぬことは可能と考える人もいる。

神によって、法に従って、生かされていること、宇宙の一部として生きていることは、それ自体が生きることの意味となる。
そうであれば、どのような形どのような境遇であっても、無駄な生ではない。何らかの使命を帯びている。なぜなら、宇宙は互いの存在に依存し合って成立しているからだ。

体が動かなくなっても、意識が働いている以上、他者に働きかける力がある。そこに気づけば、そしてそれが可能なら、確固たる存在理由があり、最後まで生きている価値を発揮できる。意識が無くても、誰かがその存在を必要としているなら、それだけで意味がある。
いわゆる普通の状態でなければ、生きている価値がないとすれば、老人など要らないし、姥捨て山に捨てた方がいい。
また、この先、科学の発展で、人類は脳だけで生きることも考えられる。今の「普通」しか考えられない人には、そんなことはとても受け入れられないかもしれないが、
もし、意識だけで生きる経験をしている人がいれば、そういう世界の体験者として、極めて貴重な存在となる。

人間の身体は、人間そのものではない。意識と魂の依り代にすぎない。一方で、身体そのものの存続を繰り返すことで、数多の依り代を成し、魂の集合体として文化・技術を紡ぎ出している。そしてそれが、やがて宇宙に影響していく。そのときは今のような姿をしていないかもしれない。あるいは別の生命体になっているかもしれない。その過渡期を預かるのが人類の使命なのだとすれば、個々の命に、何一つ無駄はない。
生きることの意味が、この時代の価値観しか無いとすれば、そこから外れたものは皆死ななければならないが、すべての在りようは、時代を謳歌する人を支えているのだ。大将を支えているのは兵卒であり、国民であり、馬なのだ。共に生きるものは、何一つ欠かすことは出来ない。

生命は、宇宙とともに生きよと命じられている。生きる命(いのち)は使命であり宿命なのだ。ただの一つも無駄な生は無い。何のために生きているかわからない時こそ、悟りへの第一歩が始まる。死にたいと思うその時に、偉大なる生の道、魂の道が開かれる。
犯罪者、馬鹿な人、無能の人、虐げられている人、苦難の底にいる人・・・無駄と思われる規格外の人こそが、人類を、そして生命を支える力の温床なのだ。絶やすわけにはいかない。