観光苦行
百年前の再来は、芸能だけではない。
あらゆる概念が劇的に変わる。消費、運輸、仕事、教育、観光、コミュニティ・・・すべての概念が変わり、人類の生き方が変わる。
観光業に関しても、GOTOキャンペーンなどより、地域観光の再開発を手助けすべきだ。コロナ危機で露呈したように、国がすべてを面倒見る、中央集権の時代は終わった。
近代まで、慰安旅行のようなものは地域内が基本で、伊勢参りのような遠出は、メッカ巡礼のように、ある種の使命感による冒険だった。経済交通の発達に伴い、戦後は北海道や沖縄旅行がブームになり、さらに、海外旅行が当然になって、南極にまで行くようになってきたが、これは本来、苦難を伴う冒険や旅であって、それをハンディな「旅行」にしたのは、交通インフラの発達だ。
今、宇宙旅行をする人は、観光であっても基本訓練を必要とする。異界に行くとはそういうことだ。
業者による快適な旅行は、自然や政治経済が、最も安定している時のみ可能なものだ。この幸運な前提を忘れると、登山ツアーでの遭難や、今回のような感染症の拡散につながる。
世界旅行ブームで、遠くに行けることが、贅沢や快楽のように信じられてきたが、これは、それが可能になった喜びに過ぎない。大人になって大人買いをするようなもので、必要も無いのに大量買いする。海外旅行は、決して、近場の温泉に行くような気楽なものではない。
観光業者による旅行は、映画を見るようなプチ体験、プチ冒険だが、プチと言えども冒険であり、危険や困難を孕んでいる。
よほど旅慣れて、身体一つで世界中を飛び回る人か、冒険が好きで、命がけで苦難を乗り越えたい人以外は、ほとんどが海外旅行という重労働をしている。猫も杓子も海外旅行する必要など始めから無いのだが、そうしなければ、取り残されるような気がして、人並みになるために出かけて行き、疲れ果てたことを「ああ素晴らしかった」と納得する。いわば、祭りの大興奮で、目的など無い。あそこも行った、ここも見たと、スタンプラリーやカード集めのように満足している。
解説を読んでから映画鑑賞する人は映画を観るのではなく、解説の追体験をしに行くのだが、ほとんどの観光客は、現地の人の本根など無関心で、観光イメージの追体験をして帰ってくる。近年の押し寄せる来日観光客を見て、日本人が感じたことの裏返しなのだ。
観光は好奇心を満たすか、憂さ晴らしの慰安だ。憂さ晴らしならお祭りでも良いし、好奇心を満たすなら、オンライン・ツアーで間に合う。現地に行く意味のある人は、それだけの見識と洞察力のある人で、そういう人には観光業者は必要ない。
現地でなければ味わえない空気や体験と言っても、日本観光で日本を絶賛する中国人の、どれだけの人が台風や地震を体験して帰るのだろう。ほとんどの観光旅行は皮相的な追体験だ。
こうした原点から考え直してみると、近代に始まった、ビジネスとしてのツーリズムは、明日消えても困らない。何時、新しい形の「体験」に入れ替わっても、不思議ではないのだ。
宿泊施設も交通機関も観光業も、映画館が、レンタルビデオに変わり、ダウンロードに変わったように、観光客は家で観光し、近所で冒険体験をするようになる。
若者が車よりゲームを好むのは、金が無いからだけではない。求める価値が変わったのだ。
大移動を前提とするオリンピックやツーリズム、そして大戦争も、産業革命の大量生産が生んだ「価値」であり、物に踊らされる人類の、幻想にすぎない。
だから、本当に小さなきっかけで、世界は簡単に変わる。まるで夢の中の風景や物語が、脈絡も無く、一瞬で入れ替わるように。
百年前の再来は、芸能だけではない。
あらゆる概念が劇的に変わる。消費、運輸、仕事、教育、観光、コミュニティ・・・すべての概念が変わり、人類の生き方が変わる。
観光業に関しても、GOTOキャンペーンなどより、地域観光の再開発を手助けすべきだ。コロナ危機で露呈したように、国がすべてを面倒見る、中央集権の時代は終わった。
近代まで、慰安旅行のようなものは地域内が基本で、伊勢参りのような遠出は、メッカ巡礼のように、ある種の使命感による冒険だった。経済交通の発達に伴い、戦後は北海道や沖縄旅行がブームになり、さらに、海外旅行が当然になって、南極にまで行くようになってきたが、これは本来、苦難を伴う冒険や旅であって、それをハンディな「旅行」にしたのは、交通インフラの発達だ。
今、宇宙旅行をする人は、観光であっても基本訓練を必要とする。異界に行くとはそういうことだ。
業者による快適な旅行は、自然や政治経済が、最も安定している時のみ可能なものだ。この幸運な前提を忘れると、登山ツアーでの遭難や、今回のような感染症の拡散につながる。
世界旅行ブームで、遠くに行けることが、贅沢や快楽のように信じられてきたが、これは、それが可能になった喜びに過ぎない。大人になって大人買いをするようなもので、必要も無いのに大量買いする。海外旅行は、決して、近場の温泉に行くような気楽なものではない。
観光業者による旅行は、映画を見るようなプチ体験、プチ冒険だが、プチと言えども冒険であり、危険や困難を孕んでいる。
よほど旅慣れて、身体一つで世界中を飛び回る人か、冒険が好きで、命がけで苦難を乗り越えたい人以外は、ほとんどが海外旅行という重労働をしている。猫も杓子も海外旅行する必要など始めから無いのだが、そうしなければ、取り残されるような気がして、人並みになるために出かけて行き、疲れ果てたことを「ああ素晴らしかった」と納得する。いわば、祭りの大興奮で、目的など無い。あそこも行った、ここも見たと、スタンプラリーやカード集めのように満足している。
解説を読んでから映画鑑賞する人は映画を観るのではなく、解説の追体験をしに行くのだが、ほとんどの観光客は、現地の人の本根など無関心で、観光イメージの追体験をして帰ってくる。近年の押し寄せる来日観光客を見て、日本人が感じたことの裏返しなのだ。
観光は好奇心を満たすか、憂さ晴らしの慰安だ。憂さ晴らしならお祭りでも良いし、好奇心を満たすなら、オンライン・ツアーで間に合う。現地に行く意味のある人は、それだけの見識と洞察力のある人で、そういう人には観光業者は必要ない。
現地でなければ味わえない空気や体験と言っても、日本観光で日本を絶賛する中国人の、どれだけの人が台風や地震を体験して帰るのだろう。ほとんどの観光旅行は皮相的な追体験だ。
こうした原点から考え直してみると、近代に始まった、ビジネスとしてのツーリズムは、明日消えても困らない。何時、新しい形の「体験」に入れ替わっても、不思議ではないのだ。
宿泊施設も交通機関も観光業も、映画館が、レンタルビデオに変わり、ダウンロードに変わったように、観光客は家で観光し、近所で冒険体験をするようになる。
若者が車よりゲームを好むのは、金が無いからだけではない。求める価値が変わったのだ。
大移動を前提とするオリンピックやツーリズム、そして大戦争も、産業革命の大量生産が生んだ「価値」であり、物に踊らされる人類の、幻想にすぎない。
だから、本当に小さなきっかけで、世界は簡単に変わる。まるで夢の中の風景や物語が、脈絡も無く、一瞬で入れ替わるように。