ウクライナ戦争
この戦争をどう呼べばよいのか解らないが、露西亜(ロシア)、宇克蘭(ウクライナ)の戦争で「露宇」戦争と呼ぶらしい。しかし、ロシアが劣勢なら、「宇露」戦争で、長引くようなら「ウロウロ」戦争だ。
戦争には大義が必要だ。命をかけてまで参加する国民、それを見守る他国の賛同、そうした諸々のエネルギーが集約できてこそ、完遂、勝利につながる。戦争は始めから非道であり、道理などどこにもない。
その非道を行うのだから、人々を納得させる説得力が大義となる。正義などはどこにもない。勝った側が正義となる。したがって、正義を信じて戦う国民は、単に、説得されているに過ぎない。
このウロウロ戦争は、もはや、グダグダ戦争になっている。
仕掛けた側のプーチンは、国民の支持に甘えて始めた。国の内外に何ら、大義を説得することなく、自分の思い込みだけで決行した。
一方、ゼレンスキーは国際的な状況を直視することなく、政治的な知恵を絞らず、願望だけを叫び続け、結果的にプーチンを挑発した。
しかし、戦争も喧嘩も、先に手を出した方が悪になる。浮気三昧、罵詈雑言の女房でも、手を出した亭主は罪に問われる。世間はなぜ手を出したかまで、亭主の心情など考えない。
ゼレンスキーは英雄だ。先に手を出したロシアに、敢然と立ち向かう姿を華々しく見せ、ロシアの残虐行為を晒し、正義の戦争に味方しない国も悪だと非難した。
世界中の国が慌ててウクライナを支援し、武器と金を送り込んでいる。
今や、ゼレンスキーは「だから、ウクライナをNATOに入れろと言ったじゃないか」と、声高に罵り、「ウクライナ全土を奪還する」とまで言いだした。
この状況を、何かおかしいと思わない人は、1941年12月8日に居合わせれば、「ああ、スッキリした!」と言う人だろう。
戦争という無益な殺戮を直視することなく、心情に従う行動は、政治的妥協を理解できないゼレンスキーらの「戦争英雄」と同じだ。
日本の世論でも、ゼレンスキーを讃える意見ばかり見受けるが、プーチンが暴力亭主なら、ゼレンスキーは罵詈雑言の悪妻だ。ただ、芸達者で宣伝上手の若い女房に、老いぼれ亭主は歯が立たない。
ウクライナ人はコサックの末裔であり、コサックは猛勇で知られるが、歴史的には、大国に牛耳られ、傭兵として生きてきた。国を統治する政治的経験を持たない。
今回も、戦禍の中でのウクライナ人の勇気と胆力には敬服させられるばかりだが、大局を見て国民の生存を図る、政治意識が全く見受けられない。
ドラマは派手なほど見応えがあるが、平和は眠くなるからドラマにならない。