魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

みすみす

2016年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

東北や北海道で台風が暴れまくっているかと思うと、今日も、熊本で地震があった。
明日は関東大震災を記憶にとどめる防災の日だ。
本当に、日本は災害地獄のような島だ。地震の活動期に入ったと言われる昨今、震度5と聞いても何の驚きもない。外国なら、震度5でも、多くの死者が出る。
震度5でも日本で多数の死者が出ないのは、やはり、この環境に弛まず立ち向かってきた日本人の努力の成果だ。日本人は、自分で自分を褒めてあげても良いと思う。

しかし、その今も、異常気象で、前例が通用しない災害が起こり、巨大地震のエネルギーは蓄積されている。一時たりとも気を抜けない。地震の安全地帯と信じていた熊本で、今のような地震が起こる。日本のすべての土地が安全地帯ではない。

災害解説していた専門家が、「川があるから現在の地形ができている。今も自然は生きている」と、話していた。
火山で山を造り、川と地震で崩している日本は、火攻め水攻めの地獄釜だ。

既定路線を変えられない日本
日本人の努力は褒められるが、この地獄の釜で、それでも懲りもせず原発を捨てようとしない愚かしさは、決して褒められない。
台風には、「不要不急の外出はしないで下さい」と、アナウンスされる。日本の原発は、不要不急のゴリ押し発電だ。

東日本大震災のフクシマで、日本は新エネルギー先進国になれるチャンスに出会ったが、5年経っても、先進国どころか、執拗に原発を推進している。
これは、第二次大戦で、航空機戦争時代を証明して見せた日本が、負けが込むほど思考停止し、武蔵や大和の巨艦巨砲にこだわって、結局は追い詰められた状況と同じだ。一端始めると、誰も止められず、終いには、非現実的な信仰のような行動を取る。

技術の可能性をふんだんに持ちながら、原発に拘る日本に対し、技術のない中国は、新エネルギー技術に積極投資して、それなりの成果を出している。
戦争は究極のサバイバル戦だ。結局は行動文化が勝敗を決める。
ビジネスも全く同じであり、良いモノを極めるより、雑でも使える物の方が売れる。
零戦に勝てなかったアメリカは、重くても馬力のある戦闘機で、人命軽視の零戦に乱射で対抗した。神業の高性能より実用性に拘る文化だ。

現金な中国人も現実的だ。役に立ちそうだと思えば、こだわりなく方針転換し取り入れる。早トチリだが、失敗すればすぐ方針転換するから、始めることに躊躇がない。このあたりが、日本人と真反対だ。
自然エネルギーに注力して、過剰生産に至っているぐらいだ。

原発停止していた5年間。日本は新エネルギーに、中途半端な関わりでゴマカシながら、原発の再稼働を狙っていた。結局、雰囲気が悪いから死んだふりをして、そろそろ良かろうと動き出したのだ。基本路線を変えられない日本に、絶望を感じる。
大きな代償を払いながら得た、せっかくのチャンスを、結局、潰してしまった。
そうこうしている内に、技術のない中国のような国に、主導権を握られることになるのだろうか。


ポケベル

2016年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

四半世紀前、「ポケベルが鳴らなくて」という歌が流行るほど、ポケベルが社会ツールだった。十代以下の人の多くは、ポケベルを知らないだろう。

今、ツイッターや、LINEなどのSNSが、社会の必須ツールになっている。それが原因で殺人まで起こるほど広く浸透し、これがなければ生きていけないと思っている人もいる。常にチェックしていなければ、自分の存在が無くなってしまうような、恐怖感があるようだ。

2、3人の小さな集団から、地球規模の巨大なネットワークまで、人は他人との関わりの中で自分を確認する。その関わり方は、媒体によって変わってきた。
言葉を得て言葉で、文字を得て文字で、電話が生まれ、ラジオやテレビのマスメディアが生まれ、電気による仮想現実を、現実コミュニケーションと信じるようになった。
ポケベルが狼煙なら、スマホの文字情報は糸電話だ。どちらも現実の言葉ではないが、互いに、理解し合ったと錯覚する。

現代人の多くは、SNSのコミュニケーションで、充分疎通し合っていると信じている。そして、一カ所で集団として行動しているような錯覚をしている。
実際の集団は、顔も声も直接触れているから、何らかの誤解が生じても、身体全体を使って意思疎通ができる。身体全体とは、声色、臭い、表情など、文字でも電話でも伝えられない要素だ。だから、SNSは、動物としての人間のコミュニケーションではない。

従来のコミュニケーションが良いか悪いかは別にして、とにかく別の世界に暮らしている。それは、繋がりではなく、独りよがりを増幅する世界であり、人は互いに、避け合うようになる。実際に接触すれば、自分の思い込みが壊れるからだ。
しかし、思い込みのコミュニケーションが始まったのは、電気信号のせいではない。
言葉が生まれた時から猿は孤独になった。

言葉が無くても動物は、充分通じ合っている。それが何かは分からないが、実際に以心伝心で心を通じ、集団行動がとれている。互いに感じ合って動くから誤解や疑いが起こらない。もちろん意志の違いで衝突することはあるが、人間のように、他人が発した言葉の意味を考える必要はない。
以心伝心の場合、言わば、互いの脳内を見ているが、言葉があることで、一つの溝が生まれてしまった。互いに言葉という衣服を見ながら相手を理解しなければならない。言葉の裏に何が隠れているかを考え、自分の言葉さえ、自分の本心かどうかも分からない。

現在の電気信号を介するコミュニケーションは、以心伝心ができなくなった人間の、最も進んだ形だ。猿は言葉によって、多くを失い多くを得た。今のサイバーコミュニケーションは、世界人類の意思伝達に寄与するだろうが、言葉によって人間が多くを失ったように、それまでの能力をさらに失いつつある。
この過程で最も重要なことは恐らく、従来の価値観や感覚でコミュニケーションをしていると思わないことだろう。全く違う人間関係や、生きる目的のためにサイバーを使っていることを理解しなければならない。子供達がこの方法のコミュニケーションで、大人が教える概念の、友達やモラルを持てると思い込まないように教育すべきだろう。
しかし、その大人が、既に、従来の皮膚感的なコミュニケーションをしているつもりになっているのだから、もう遅いのかも知れない。いかなる文明が生まれるのか。見たいような見たくないような・・・

一方では→「まる見え


目出度い

2016年08月29日 | 星の流れに

木星は乙女座の27゜、ほぼ天秤座だ。
南鳥島の海底で、膨大なマンガンノジュールやレアアース泥が確認された。
天秤座の日本に、木星の宝がやって来た。
南鳥島と沖ノ鳥島と区別が付かず、確認してみたら、確実な島だった。中国や韓国にあれこれ言われない島で、ホットするとともに、資源が全く無いと教えられてきた日本が、全く違う国になったんだと、興奮した。
あれこれ言われるはずがないとは言え、あの国のことだから、どう出るか、むしろ心配になった。金持ちには金持ちの悩みが・・・

天秤座、木星と言えば、吹石一恵がオメデタのニュース。これも天秤座木星だ。夫の福山君も水瓶だから、木星で大吉だ。

木星到来の吉は、その時始めるものではなく、それまでの努力が実り、表彰されるようなイベントだ。


カーテン

2016年08月28日 | 京都&ケンミン文化

近年、古都観光の仕掛け「きもので街歩き」が、大人気で、日本人外国人を問わず観光客が楽しそうに、街をレンタル着物で歩いている。
しかし、和服の街、京都の人々は顔をしかめている。和服振興を呼びかけている京都の人がなぜと言うことになるが、トラディショナルな和服を知る人々にとっては、全くの常識外れだからだ。

およそ、和服の雅やシックの概念から外れた、柄行きと、着こなしで、和服のイメージを壊していると感じている。
日本の伝統衣装の和服だが、高度成長期を境に、この半世紀ほどの間に、徐々に着る人がいなくなり、和服産業は、ほぼ壊滅状態にまでなった。和服産業は裾野の広い産業で、一度途絶えると、復活は難しい。

日本人が和服で暮らしていた時代は、当たり前の事ながら、誰でも自分で着ていた。ところが、洋服で育った人が増えるにしたがい、和服の種類、TPO、小物の使い分けに至るまで、知る人がいなくなっていった。
着物を売ることは、一つの文化教室のような仕事となり、取り合わせから着付けまで、すべて呉服屋の仕事に変わっていき、ますます、日本人の生活から、和服が遠ざかっていった。高度成長期の着物バブルで値段のつり上がった着物は、バブル崩壊の1990年代にほぼ壊滅した。

なお、きもの、着物、和服、呉服は、同じものだが、呼び方を変えたのは、着物は広くは洋服も含む「用途」を表すが、和服は褌からはっぴまで含む日本の伝統衣類だ。現代人が通常意識する和服は、呉服屋で売っているおしゃれ着であり、これを敢えて「きもの」と呼ぶことにした。しかし、ひらがなで書くと読みにくいので着物と書いている。呉服屋で売っているおしゃれ「きもの」は、呉服でもある。本来、呉服は中国の呉から伝わった、絹織物のことを指していたと思われる。したがって、呉服は、厳密には着物になる前の生地、反物で、それを売るのが呉服屋だ。

ニューウェーブ
21世紀になり、高度成長からバブル崩壊と、熱気から覚めた日本では、伝統への回帰志向が強くなり、若者を中心に伝統衣装に目が向けられたが、価格的に手が届いたのは浴衣だった。この結果、浴衣が和服として広まり、文字通りのホームウエアが外出着として着られるようになった。いわば、街にジャージやパジャマが広がったようなものだ。

そうして、「きもの」としての浴衣が広まるにつれ、浴衣の自由な柄行きと洋服に慣れた現代の若者センスが融合し、浴衣といえども、派手な色合いや自由な帯使い、洋物との取り合わせによって、徐々に、新しい着物文化が芽生え始めた。古い形にとらわれない着物文化は、着物の歴史の中で幾度も大きな波を経験しているから、これはこれで素晴らしい伝統文化の創造だと思う。問題は、今流行の、きもの観光だ。

レンタル着物屋で着せてもらって街を歩く若者や、外国人は、伝統的な着物がどんなものであるかは、全く知らない。しかし、彼らが求めているのは、日本の伝統文化の体験であり、伝統文化の創造ではない。
観光客は、伝統の何たるかを知らないから、レンタル屋の勧めるままに着るのだろうが、その着物は、およそ伝統文化から逸脱している。
伝統産業としての着物は、生地も染色も自然素材だから、どぎつい色になりにくく、江戸時代の贅沢禁止令の影響もあって、全体的に、渋さが基調になる。

ところが、大正期のバブルと大正ロマンの開花で、着物もファッションが多様化したのか、銘仙のように安価な薄絹で、斬新なデザインとリバーシブルで、色柄を楽しむ時代があった。その後、戦争でファッションを諦めた世代の、和服への憧れから、高度成長期に入ると、一気に着物ブームが起こり、それも伝統的で高価な着物バブルとなった。
現在の着物の常識は、この着物バブルの頃の伝統的な江戸様式になっている。

チンドン屋でも着ない
その伝統的常識で見れば、観光客が着せられているレンタル着物は、異様な代物だ。派手な色合いばかりで、そのカラフルさは、銘仙の斬新なデザインとも違い、和服の自然な色合いが無く、まるで、カーテン地を着て歩いているようだ。
何であんな物を着ているのか理解に苦しむが、聞くところによると、やはり、あの手の生地で、大量に仕立てさせた業者がいたそうだ。

おそらくは、若者の浴衣感覚と、外国人の色センスから、レンタル屋で人気するのが派手な物ばかりであることに目を付けたレンタル業者が、「それなら」と、その好みに迎合して、しかも、安価な物を大量生産したのだろう。
客が喜ぶのならそれで良いかもしれない。しかし、それは「騙し」だ。これが日本の伝統だと思われたら、観光客も不幸だが、着物文化そのものが貶められる。

何も知らないで伝統を求める観光客には、「これが伝統和服です」と、半強制的にでも、和服らしい物を着せるべきだ。化繊でも何でも良い。色合い柄行きだけは、和の自然色、伝統的な和柄を基調にして欲しい。
着物姿の観光客が、古都らしさを引き立てるか、古都の景観をぶち壊しにするか、これは意外に重大問題であることに、京都市は注力すべきだ。レンタル業を着物業界が直接行う方法もあるし、京都市も景観条例の一環として、レンタル着物業者を認可制にすべきかも知れない。


コロリと

2016年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ中国は、妙に日本に友好姿勢を示している。中国各紙は日本を褒めそやし、外相会議で王毅外相が笑顔を見せたのは、関係改善の意志の証などと、関係改善の押し売りのような態度を見せている。
一方で、相変わらず尖閣では警備行動パフォーマンスの常態化を見せている。

先日来の漁船軍団の謎の大挙襲来は、ここに来て、関係改善の駆け引きであったことが見えてきたようだ。
何の駆け引きでもそうだが、始めに高値をふっかけて、相手の顔色を見ながら値引きしてみせる。すると、千円の物でも一万円と言っておけば、うまくすれば三千円で売れるかも知れないし、間違っても千五百円ぐらいには売れる。しかも、相手に恩を着せながらだ。

日本に、「これは大変だ!」と、思わせておいて、「そちらがこちらの言い分を呑むなら引きましょう」と、あたかも折れたかのような顔をして、一歩詰め寄ろうという魂胆だ。
G20の開催国として、このところの不祥事に触れられたくないものだから、とりあえず会議が終わるまで、何としても日本の口封じをしなければならない。その魂胆が見え見えだ。

日本はどう出るのか知らないが、ASEANでしてやられておきながら、これでまた、おめおめと軍事国家中国の軍門に降るのだろうか。
今、立場の弱いのは中国だ。G20前の今こそ、諸外国と力を合わせて中国を押し切らなければならない。
事実、北朝鮮非難声明も、結局、中国は折れた。勝負はG20開催までだ。今は、日本もゆとりを持つて甘く出られるような時でもないし、北朝鮮の潜水艦発射弾道ミサイルに一番真剣になっているのはアメリカだ。対中圧力を加えるエネルギーが膨らんでいる。

G20が終われば、国内権力闘争の都合次第で、コロリと態度を変えることは目に見えている。ある意味で、極めて解りやすい国なのだから、上手い駆け引きをして欲しいものだ。が・・・


新世紀型

2016年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

リオ・オリンピック閉会式の、東京引き継ぎのパフォーマンスが大好評だったらしい。
日本の誇るアニメキャラ総出演で、世界中に受けたが、映像中心で、あまり金はかかっていなかったそうだ。
リオ・オリンピックも、観覧席などを架設にして、ほとんど金を掛けてないという。ブラジル経済の悪化が、却って功を奏したようだ。

東京オリンピックは、「金のかからないオリンピック」で誘致したはずなのに、いつの間にか、一兆とか二兆とか言っている。これは詐欺だ。
ここでも、「やっぱり、東洋人は信じられない」と、いうことになるだろう。
こんなことになるのは、「それっ!」と、イベントに食らいついて金儲けしようとする人々がいるからだ。どういう名目で誘致したかなど関係ない。取ってしまえばこっちのものだ。そう思っているのだろう。

東京オリンピックが決まった時、真っ先に心配したのは、オリンピックのような前世紀方式の経済に拘泥して、ドガチャカドガチャカと土建工事している間に、世界の新経済トレンドに取り残されることだった。どうも、案じた通りに進んでいる。

21世紀は「智」の世紀だ。物によって経済が動くと思う者は取り残される。
19世紀20世紀と、物は行き着くところまで行き着いた。少なくとも、これからの一世紀は、その物を、いかに享受するかで動いていくだろう。
通貨、労働、重工業・・・のような、社会基盤概念は大きく変貌する。

これは、一つのサイクルだ。種をまき、成長し、刈り入れをした後は、祭りを楽しみ翌年の計画を立てるように、産業革命パラダイムが一段落したら、次の生産トレンドが生まれるまで、しばらくは生産は停滞する。
その間、文化の開花の中で次のニーズが生まれてくる。21世紀はこれまでの発展の成果を享受する時代であり、ソフト産業が大きく開花する。

鉄鉱や土建産業が無くなるわけではないが、経済の中心はソフト産業で動く。
新経済トレンドのリーダーを目指すなら、オリンピックを1964年のように、工業の宣伝の場と考えているようでは、取り返しの付かないことになる。
オリンピックを経済振興と考えるなら、土建業よりもソフト産業の活躍の場とすべきだ。

幸い、引き継ぎパフォーマンスは大成功だった。バーチャルとキャラクターコンテンツの勝利だ。
年々派手になる開会式、閉会式だが、笑いものになった北京大会のバーチャル花火は、むしろ可能性の芽だ。土建屋に金を掛けるより、サーカスのテントではないが、仮設やバーチャルの力で、競技場も報道映像も完全に騙しきる技術があれば、ほとんど金もかからず、現実以上に、素晴らしい設備やサービスの中で競技が行われることになる。まさに、夢のようなオリンピックだ。そして、後には何も残らない。融通性100%の土地が残る。

まあ、実際には、競技場など最低限の施設は必要だろうし、記念建設物の残ることも無駄ではない。しかし、考え方の基本として、物より、ソフトをいかに駆使するかを考える。例えば、一度顔認証をすれば一切の金銭を持たないで動き回れるとか、未来社会を感じさせる大会にすべきではなかろうか。


評判の先

2016年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

金メダルの内村航平に、英国記者が「審判に好意的に見られているのでは」との質問が出て、僅差で銀になったウクライナのベルニャエフが「そんなことは無い」と怒った。これも、オリンピックの美談となったが、なぜ英国記者はそんな質問をしたのだろう。

もともと、欧州人は皮肉を楽しむところがあり、ことに、英国は陰謀やスパイが大好きだ。ハニートラップ事件も多く、007も英国だ。風刺記事もフランス人は明け透けに笑い者にするが、イギリス人は奥歯に物の挟まった言い方をする。今回の場合も、暗に、裏金が動いているのではないかと言いたかったのだろう。

なぜ、そんな風に勘ぐったのかと言えば、金持ちの中東や、東アジアの国では、オリンピックやサッカーでの、ドーピングや賄賂疑惑が後を絶たないからだ。
英国記者にとっては、アジアに区別は付かない。アジアは薄汚いことをする連中だという先入観が染みこんでいる。だから、今回のような接戦での勝利には、何らかの裏があるに違いないと確信したのだろう。

日本人としては、心外この上ないが、オリンパスで不当な扱いをされた社長も英国人だし、日本企業のブラックな経理体質が次々と明るみに出ている状況を見ても、欧米人から見れば、「やっぱり東洋は」ということになる。

この東洋観は、東洋を十把一絡げで「どう相手にするか」という目で見るから、中国だろうが日本だろうが、自分(欧州)の役に立つなら相手の気持ちなどどうでも良い。家畜を飼うのと同じ目で見ている。欧州人にとってはアラブは敵だが、東洋は敵でさえない。
友好的な付き合いをしているからと言って、勘違いしてはいけないのは、人は敵よりもペットの犬に対しての方が親身になって付き合う事を忘れてはいけない。
今の英国にとって、日本は可愛い犬かも知れないが、中国は役に立つ牛なのだ。

もちろん世界の人、個々は、色々な人がいるから、そうした偏見を超越した人は多い。しかし、総体的に見れば、人間は互いに偏見でしか相手を見ることができない。
増して、日本でも、今のメディアやその関係者のレベルを見れば、かなり低俗なレベルが目立っている。英国の記者も似たようなものと考えて良いだろう。

英独仏などの主要な欧州国が、中国の無法に対しほとんど無関心なのは、どんなに東洋でもめようと米中で衝突しようと、自分たちには全く関係がなく、直接被害がないからだ。中国を押さえ込んだり制裁したりするより、漁夫の利を狙って自分たちさえ儲かれば良いと思っている。ドイツは中国で車を売ることばかり考えているし、金融利権を狙う英国は真っ先にAIIBに参加した。元々、ポンドを凋落させたアメリカのドルは面白いはずがない。

ロシアを押さえるために、日英同盟を結んだ英国は国際貢献など関心がない。自分たちの都合次第で中国だろうが韓国だろうが媚を売る。
教養に溢れ、お洒落で上品な欧州人は、中韓のような下品な態度は取らないが、未だに東洋蔑視の意識が消えたわけではない。ダウントン・アビーやEU離脱も、懐古趣味の表れだ。

日本では、東洋の中で日本は特別と思っているが、上流階級の奥様は下男より犬を大切にする。
海外からの日本の評価を喜んでも何の意味もない。可愛がられる犬になって喜ぶのではなく、相手以上の広い視野と心を持って、逆に、相手に評価してもらいたいと思われる存在になることの方が大切なのだ。日本の意見を聞いてから考えようと。


養育環境

2016年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

俳優の高畑裕太が強姦で逮捕された。残念なことだ。
今回の事件で真っ先に思い出したのは、荒木一郎だ。母親が有名女優という共通点と同類の犯罪内容だ。
母親が有名女優で、恐らくは発言権も母親が握っているであろう家庭で育ち、本人も俳優をしていた。
犯罪内容は違うが、三田佳子の息子のケースもある。
また、息子ではないが、美空ひばりも弟で苦労した。美空ひばりも母親と一卵性親子と言われるほど家の中心だった。

こういう話しをすると、「やっぱり女が力を持つと、子供がまともに育たない」と言った意見が出てくるかも知れない。
しかし、母系社会提唱者としてハッキリ指摘しておきたいのは、これは、男性社会の中で母親が力を持ったケースだ。

前出のいずれのケースも、女性の大黒柱が、男の子を一生懸命育てていた。問題は、この「一生懸命」なのだ。
男性社会の中で女手で男の子を育てる母親は、「男でしょ」「男なんだから」と、偏って「男」にしなければならないと考える。それが、いつしか、「男なら何でもできる」ような感覚に変わってしまう可能性がある。
成長期に父親が関わっていると、男の弱さや責任も、自然に学んでいくが、その機会が無く、俳優などのチヤホヤされる立場になると、自制の意識が無くなってしまうのではなかろうか。

母親が力を持ち、女手で子供を育てる場合、もし、母系社会であれば、男の子に、無意味な「男」意識など植え付けない。男は、実質的に、ありのままの男であれば充分だ。
母系社会であれば、才女の子供に、今回のような不祥事は起こらなかったのではなかろうか。

有名人の子供の不祥事に、世間は喜んで親を叩くが、有名人は、それだけで一般人とは違う環境に置かれている。養育係がいれば別だが、男親女親にかかわらず、有名人の子育ては始めからハンデを負っていることを、理解して上げてほしい。


応援の心

2016年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

偶像とは、神仏などの崇拝するものを象ったものであり、崇拝や憧れの対象のこと全般を言う。アイドルやヒーロー、スターなども偶像とされる。実体には関係なく、人々の思い込みを映し出す対象を偶像と呼ぶ。
人形やフィギアも個人の思いを投影する偶像だ。

こういう、実体でない物をあると信じる世界は、魚座の虚構の世界だ。映像、人形、ペット、蜃気楼、薬物、信仰・・・が魚座なのは、魚座が、この世とあの世の出入り口であり、どちらに属するか解らない存在だからだ。
偶像は土や木、金属など、物理的な物だが、崇める人には物を超越した神仏として存在する。見る人の勝手な思い込みの対象だ。

スポーツ観戦も、偶像としての選手に成り切って見る人が多い。あるいは自分の家族やペットのように思って見ている。選手が活躍すれば、自分がやれたように喜ぶ。ピンチになると手に汗を握りドキドキする。ここまでは、ファンなら皆同じだ。ところが、負けた時の反応は人によって大きく異なる。

「よくやった、よくやった」と、健闘をたたえる人。「惜しい、本当なら勝てていた」とか、「おかしい、負けるはずがない、誰かの陰謀だ」と、負けを認めない人。「何だ、何をやっているんだ、バカ野郎」と、選手を攻撃する人。
自分の偶像、アバター(分身)としての選手が失敗した時の態度は、その人の自分に対する態度がそのまま出る。

勝ち負けにかかわらず、選手を讃えることのできる人は、自分を大切にしている人であり、同時に、責任感が強く、自分に責任のとれる人だ。
負けを認めようとしない人は、自分を大切にはしているが、責任意識の無い人で、不都合は自分には責任がない、きっと誰かのせいだと、事実を見つめようとしない人だ。
最も困った人は、突然、他人事として、「おまえが悪い」と、選手を非難、攻撃する人だ。

今まで自分の手柄と自慢していたことが、失敗だと解ると、それは他人がやったことだと責任転嫁する人は、自分が無く、常に強者に従い、尻馬に乗って弱者を叩く。弱者を叩く一方で、自分は強者を恐れ盲従する。
こういう人は、貧困や暴力など恵まれない生い立ちから、自我が育たなかった人で、気の毒な人ではあるが、愛想の良さに気を抜いて付き合うと、必ず何時か、後ろから刺されることになる。愛想が良いのは、とりあえず強者と見ているからに過ぎない。

愛国の偶像
スポーツ応援の仕方にも色々あるが、自分の応援するチームがふがいないと怒り出したり、中には相手方の応援を始める国がある。これは、誰かの応援をしていると言うより、スポーツの面白さそのものを観ている人達で、愛国心や自分の分身として応援しているのではないからだ。
国際大会で自国のチームが負けると、相手を非難したり、自国の選手をこき下ろす人々もいる。こうした、気の毒で困った人達は、自由の無い環境で育った人だ。国で言えば独裁国家や植民地など、国民が政治に参加できない環境の国民であり、そのため、独裁国家では、宇宙飛行士やスポーツ選手の偶像を、国が生産して、国民を満足させなければならない。

日本の中にも、スポーツを熱狂的に応援しながら、負けるとボロクソに言う人もいるが、日本社会は総じて、代表が負けても選手をねぎらう。伝統的な判官びいきもあるが、日本人がそれだけ責任意識が強いことの表れだろう。

なお、判官びいきは、自我や責任意識とは関係なく、今も東北地方に残る縄文の優しさであり、また、恐らくは、渡来した弥生人の多くが、大陸の戦乱から逃れた難民だったこともあるのだろう。


気候変動

2016年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今年は台風が来ないと話題になっていたが、何のその、連続的に発生し、今日はいきなり9号、10号、11号と、三つ現れた。天気図に低気圧が並んでいるなと思ったら、あっという間に台風になった。

前にも書いたが、日本はもう台風発生現場だ。
昔は、台風と言えば九州や西日本が台風銀座と言われていたが、近頃は関東から北海道にかけて、直撃を受けるようになった。北海道の人も、口をそろえて「こんなことは初めてです」と言っていたが、これからは、当たり前になりそうだ。

温暖化を騒ぎたてるのは、一つのビジネスだと言う人達もいるが、そんな奇をてらう意見は、事実の前に影が薄くなっている。
南の島国が沈み、世界に異常気象が起こり、動植物の生態系が明らかに変わってきている。日本には、毒虫やどう猛な動物は少なかったが、近頃は物流のグローバリズムも加わって、裏庭にさえ、何がいるか安心できなくなっている。クマ被害も、都市化だけではなく、もしかすると温暖化で、クマの生態にも変化が起きているのかも知れない。

外来種が持ち込まれたとしても、昔は気候が違うから、繁殖できなかったものが、今は、容易に在来種と入れ替わっている。在来種が姿を消しているのも、農業の衰退や外来種のせいだけでもない。気候そのものが変わって繁殖できなくなっている。

おいしい日本の米も、気候が変われば産地も変わっていく。日本人が米を食べなくなったのも、あながち、欧米化だけでもないのかも知れない。
その内、本州でも、コーヒーやカカオ栽培が流行りだすだろう。
と言うより、本気で、栽培作物を検討しなければならない時が来ているようだ。


困りもの

2016年08月18日 | 占いばなし

英BBCが、リオオリンピックで、中国国民には被害者意識が広がっており、その原因は南シナ海問題をめぐるハーグの仲裁裁判判決 によって、国際社会への怒りや不信感がつのり、国営メディアがそれを煽っていると伝えた。

これこそが、B型の東アジアだ。独善的行動を止められると、ABCDラインに包囲されていると、暴発したかつての日本のように、自らを省みることなく、一方的に他者のせいにし、僻み込んで爆発する。

中国が、かつての日本のように、このまま暴発に向かうとは思えない。なぜなら、日本は気持ちをため込むA型的要素が強い「健さんの殴り込み」文化だが、中国は現金なB型の典型で、口実さえ見つかれば、コロリと態度を変える。ただし拘りが強いから、内心の主張は曲げない。何しろ、4000年の昔話を現代に持ち込んでくる。

ここで、それなら旧約聖書の話で争う中東や西欧も、同じように思えるかも知れないが、心と事柄の違いがある。
旧約聖書に基づく土地や聖地は、先ず、信仰という心の方向性があり、その目的として、土地や聖地を争っている。
ところが、中国の場合、何の方向性もなく、その時々の行動の口実に、歴史の残骸である記録を引っ張り出しているに過ぎない。強い拘りとはワガママのことであり、常に自分を主体として考える習性だ。被害者意識は客観性を欠いた自己中から始まる。
→「B型A型


マメ勝負

2016年08月16日 | 自動車人間学

東京都議会のドンと言われる人のことが話題になっていたので、どんな人か見てみた。
内田茂という人は、自動車人間のエンジンだ。
中国共産党のことを書いたばかりだが、鄧小平以降はすべてエンジンが仕切ってきた。政としての政治は、人望や展望によって成り立つが、地方政治のように、目先の問題だけ処理する仕事には、むしろ、行動力、マメさだけが求められる。

中央集権における地方政治は、誰も人格など求めない。目先の問題をいかに手早く処理するかで評価される。国会議員の先生の行動はよく見えないから、見た目の良さや何となく立派そうな人が求められる。実質より印象や信用が大切であり、そのパフォーマンスを政(まつりごと)と呼ぶ。役に立つのか立たないのか解らないのが「祭り」だ。

地方議員に求められる処理能力の高さ、身近な愛想の良さは、まさにエンジンのものだ。東京都のドンと言われる人は、国会議員のような思わくの塊ではなく、現実処理の速さで、結果的に誰も追いつけなくなったのだろう。表に出てエエカッコするより、トットと事を処理するので、隠れた存在のように思われたのだろう。
たたき上げと言われているが、同じくエンジンの鈴木宗男の例もある。とにかくマメなので、国会議員も抵抗できなかった。しかし、エンジンは、国会議員の先生としては品がない。

表に出るとすぐ足下をすくわれる例としては、森喜朗、麻生太郎、菅直人のエンジンの例がある。
選挙のある民主主義国家ではエンジンは安定トップには成れないが、選挙があっても事実上の譲位で政権を握り、マメな謀略と情報統制でコントロールし、映画スターのようなパフォーマンスをするプーチンは、タレントとして人気している。
エンジンの能力はサービス精神だから、森喜朗も、麻生太郎も、菅直人も、鈴木宗男も、始めからお笑いで行けば、別の展開があったかも知れない。しかし、目立たないところに引っ込むと、俄然、活躍する。

選挙のない中国では、政権内での実行力がものを言うから、エンジンが国を牛耳り続けることが可能になる(民主国家では不可能)。実際、今の習近平にしても、地方での実績が評価されてのものだ。
エンジン政権がどの様なものになるかは、中国を見ればよく解る。素早くマメに動くから、次々と結果を出すが。展望や理想がないから、やることなすこと品がなく、明らかに間違った路線でも、行き着くところまで突っ走る。エンジンはむき出しのパワーだが、政治は人心の納得だ。

 


敗戦記念

2016年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

お盆と終戦の日が重なる8月15日、相変わらず靖国参拝に中韓が過激反応している。
戦死した人に対し弔いの気持ちのない日本人など誰もいない。
靖国参拝をどう考えるかは、今の日本と大日本帝国との関係をどう考えるかの問題だ。現行憲法を肯定する人には、靖国神社でなければならない理由を合理的に説明できないだろう。

しかし、中韓の靖国非難はまた、別の理由なので、全く気にする必要はない。
靖国参拝をしたい人が、なぜ中韓の恫喝に屈するのか、これも理解できない。自分が靖国でなければならないと思うなら、正々堂々と、理由を国内外に発信すれば良い。それができないから顔色を見て、出たり引っ込んだりするのだと思われても仕方がない。

有り体に言えば、大日本帝国の存続を信じ、新憲法による戦後の日本を認めない人が、明治以後の軍国主義の装置として生まれた靖国神社に拘るのだ。それはそれで、立派な思想なのだから、公言すれば良いと思う。ところが、これまでの日本で、そんなことを言えば極右として代議士になれないから、その本音を隠していた。そんな姑息な人種が、戦争の名残さえ知らない昨今の若者の右傾化に気をよくして、既成事実化しようとしている。そして、そのような姑息な人間に日本が牛耳られるとすれば、それこそが致命的問題なのだ。

一方、中国の靖国非難報道へのコメントに、「日本は変な国。投降した8月15日は日本にとって『屈辱の日』になるはずなのに、日本人にはこういう感覚がないみたい」と言うのがあった。
これこそが、軍国教育を受けた中国人の日本に対する偏見であり、戦争を勝ち負けだけで見ているから、日本人の戦後の平和主義が理解できない。

日本人は心底、戦争に懲りたのだ。敗戦の日を記念することで戒めを思い起こしている。そうして70年余に渡り、平和を貫いてきた。その戒めと努力にもかかわらず、中国は一貫して、日本を仮想敵とし、明日にでも日本が攻めてくることを前提に、あらゆる挑発行為を繰り返し、日本を右へ右へと追い立ててきた。
今は剣を捨て平和に暮らしている、老いた昔の人斬りを挑発し、その人斬りを倒した名誉を得たいために、さんざん罵倒して、刀を前に投げ出し、「腰抜け、刀を取れ」と言っている若者のようなものだ。

敗戦の日を記念している日本は、もっと、そのことを強調すべきだ。我々は、日清日露の戦勝記念日など祝わない。未来志向で歩みながらも、我々自身はひたすら敗戦を見つめることで、常に自戒し平和を目指し、二度と戦争が起きないことを祈っている。失敗こそが教訓なのであると。


そろそろ

2016年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年暮れから、次々と小さな事故に見舞われ、万全な時がない。大抵、下らないチョットしたことで怪我をするのだが、どれも全治3週間ぐらいで、治ったかなと思う頃に次の怪我をする。
原因は、一言で言えば歳なのだが、占いで言えば、ちょうど10年に一度の転換点に当たっている。最大の転換点は30年に一度だが、その間、二回の転換点を経る。運の転換期は、30年目は両3年、あるいはそれ以上の動揺期があるが、10年目は1年間ぐらいだ。

昨年暮れからの異変は、測ったように10年目に始まった。これは珍しい例だが、自己暗示ではない(と、思う)。こうした動揺は、心身共に変化することで、それまでとは違う生き方を迫られている事を表している。
今まで出来ていたことが出来なくなり、出来なかったことが出来るようになる。
人生前半は、体力気力が向上し依存ができなくなる。後半は体力は失われ理解や寛容性が向上する。

中でも、30年に一度の転換は、かなり大きな変化で、全く違う人生を歩み始めることも多い。
自民党の谷垣禎一幹事長が自転車で転び、大怪我をして幹事長を降りた。今まさに、30年目の転機に当たっている。昨年は、アメリカのケリー国務長官も自転車で転んで大怪我をした。これも30年の転機だった。ケリー長官はその後復帰して、仕事をしているが、オバマ政権も終わるので、転機であることには変わりない。

自転車愛好家は、転ぶのには慣れている。転んだことのない愛好家などいないだろう。ただ、何でもない時なら、転んでも擦り傷ぐらいですむが、運の転機では過去に無いような結果をもたらす。ケリー長官も、外交に大きな穴を開けた。
つまり、それまで当たり前にしていたことが、転換期には思わぬ結果になる。

自分も、一連の怪我の中には、自転車での転倒もあったが、大転換期でもなく一市民なのでどうにか事なきを得た。ただ、やはり、生き方を転換せよとの天の声に、色々考え直すことにした。
このブログを始めて、この9月で丸10年になる。ちょうど良い機会だから、そろそろブログを止めようと思う。元々、書き始めたこと自体が、星に導かれていたのだろう。
金にはならないが、書くために、少なからず勉強をしたり、チェックしたりする。10年続けたことで、色々気づいたこともあったし、考え方も多少は変化した。人間、どんな下らない行為もムダではない。

下書きや、書きかけだけでも何百も溜まったし、まだまだ書きたいことはあるが、炎上しないように気を配っているので、全体に刺激がなく、あまり面白みがない。
また、恋愛やセックスに関することは、ほぼ封印したので、人間について、7割ぐらいは書いていないことになる。人間は繁殖のために生まれるのだから、これを外せば、画竜点睛を欠き、目白のサンマになってしまう。
しかし、何も気にせずに書いていれば、色気違いと思われるし、そんな人ばかりが来るようになって、読んでもらいたい人に読んでもらえなくなる。だから、意識して書かなかった。

言いたくても上手く言えなかったことの方が多いが、力量が無いから仕方ない。
10年前に始めた秋になれば、潮が引くように止めていこうと思う。


軍隊思考

2016年08月12日 | 自動車人間学

尖閣に大挙押し寄せた中国漁船部隊と海警に、ギリシャ船が衝突し、漁船が転覆沈没。中国海警は間に合わず、日本の海保が救助した。
世の中は、実に面白いことが起こるものだ。
まるで、ミニ元寇の神風だ。中国が覇権を示そうとしたことが却って裏目に出る。
日清戦争の海戦もそうだった。中国の傲りが裏目に出た。

中国海警は漁船に乗り込んだりするパフォーマンスで実効支配をアピールしようとしたが、結果的に、日本の管轄が証明されてしまった。
中国のメディアは、サッカー予選の日本のオウンゴールを、日本はお笑い担当だと揶揄したが、中国は世界政治のお笑い担当だ。

中国共産党とは、一体どういう体質なのだろう。
とりあえず、明らかなことは、軍事国家であることだ。軍事力によって政権を握り、軍事力によって国境を広げてきた。そして、歴代の国家代表とは、中国共産党中央軍事委員会の主席だ。
この軍事国家を打ち立てたのは毛沢東だが、路線変更により今日の経済繁栄をもたらしたのは、事実上の二代目、鄧小平だ。
鄧小平路線と、それ以前は明らかに変わった。それまではイデオロギー志向であり、鄧小平以降は現金志向だ。

ガムシャラ集団
自動車人間で見ると、毛沢東と死後引き継いだ華国鋒は「sハ」=スポーツタイプのハンドルだ。ところが、鄧小平を始め、それ以降の主席は全員「sエ」、または「エ」のエンジンで占められている。
つまり中国は、ハンドルから、エンジンに変わったのだ。ハンドルはプログラム志向、目的志向であり、理想設計図に従って動く。
これに対し、エンジンは状況対応で、ひたすら動くことで結果を出そうとする。対策の連続で、目先の利を得るには有効だが、ガムシャラに走り続け、崖から飛び出しても足が回転している。状況が見えなくなると、とにかく動き盲動する。

このエンジンの性質を理解して見ていると、中国の出方はすべて説明が付くし、次の出方も想像がつく。
エンジンは解りやすい物を信じる。行動、お金、人の反応など、あからさまな現実思考であり、名誉や知的満足、プライドなど見えないものなどどうでも良い。美しさより手応えを求める。ただし、意外にも芸術家や芸能人にエンジンは多い。これは、物を造ることや、人の反応を見ることを喜びとするからで、抽象概念を表現したいからではない。

また、軍人にはエンジンが多い。これは、現場志向、対策志向人間には、目的が解りやすいからだ。前戦では理念や理屈など関係ない。処理と対策で、結果あるのみだ。
命令一下、素早く立ち回り、結果を出す。オウムの幹部がほとんどエンジンだったことが、麻原の妄言を実現させることになった。

中国共産党の、常軌を逸した行動は、政治や外交が、人心の納得によるものであることを理解できないからだ。行動と力を駆使すれば、結果が出ると信じ込んでおり、ひたすら行動と対策を打ち出してくる。まさにエンジンだ。
批判言論は監視や抑圧で押さえ込もうとし、いい気で進撃した南シナ海で否定されると、さらに上回る力で押し切ろうとする。南でダメなら東にもと、さらに大規模な行動に出てきた。エンジンは、圧力と爆発で動くが、圧力が掛かるほど爆発する。

エンジンには、ボディーやハンドルのような情緒や理念がなく、何事も物理思考だから、何でも金で解決すると考える。高速鉄道の売り込みを始め、南シナ海問題では、大量の裏金や経済援助でカンボジャやラオスを味方に付けた。
過剰生産で行き詰まり、サービス産業に転換しなければならないと知ると、大量の資金を投入して、映画やアニメ産業を拡大しようとする。しかし、検閲前提の文化成長など成功するわけがない。

これも、何度も言うことだが、尖閣での最初の魚船体当たりはハプニングだ。しかし、共産党は「これは有効だ」と、南シナ海でも東シナ海でも、一つ覚えで使い始めた。エンジンは、やり方を一つ憶えると、それが行き詰まるまで同じことをする。
またエンジンは、一端起こした行動に自分でブレーキを掛けられない。軍人が実権を握ると、原爆まで突っ走った日本帝国のように、歯止めがきかなくなる。

突っ走っているエンジンを止めることはできない。止めるには、気づかれないように燃料を切るしかない。
燃料(資金)がない時には中共も暴走できなかった。
エンジンの暴走を止めるもう一つの方法は、誰も反応しないことだ。反応を見たがるエンジンは、聴衆が無反応になると、気が抜けてしまう。お笑いタレントが一番怖いものはスベる事だ。中国の行動に一々取り合うより、みんなが置き去りにして、他の土地で楽しく賑やかにやれば良い。

ベトナムもフィリピンも、中国の強引な行為に反応せず、国際社会に中国の行為を宣伝して、国際コンセンサスを築いていれば、南シナ海の大暴走までには発展しなかっただろう。怒り、物理的対抗をしたから、中国に暴走の大義を与えてしまった嫌いがある。
エンジンは、相手の反応に反応して動く。