魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

優秀な人

2015年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

docomoショップで、契約プランの話をしていると、「スマ放題」と言っても、話が通じず、こちらが言いたいことを説明しようと、「あの、通信パケットの上限が・・・」と話していると、
「ああ、パケ放題ですか!」と言い直しながら、納得して貰った。

「すみません、年寄りは単語が出なくて」と、謝って話を続けた。
自分でも何で、「スマ放題」と言ったのか、その時は解らず、スマートホンだからスマ放題と言い間違えたのだろうと思っていた。帰り道で、ふと思い出したのは、ソフトバンクのCMで、やたら「スマ放題」を連呼していたことだった。

またしても、「やれやれ」と嘆息した。
年を取ると、単語がテキパキと浮かばなくなる。だから漫才でも、
「うーん、あの、赤い色して、ほら、走り回る」
「消防車か」
「いや、そやのうて」
「郵便局か」
「いや、ちがうがな、暮れの忙しい時に」
「やっぱり、郵便局やろ」
「違うがな、サンタクロースも知らんのか!」
・・・
と言ったような、年寄り漫才があるぐらいだ。

若い時は、感性が敏感だから、記憶力も良いし、滑舌も良い。他人が言い間違えたりすると、大いに可笑しがって笑い転げる。
テキパキと言葉を並べ、まくし立てる。何かとても賢く見えるし、実際、学校の試験もそうした能力で優劣をはかる。
しかし、単語という事柄を駆使して、饒舌に話す人が、事の本質、その意味を理解しているとは限らない。だから、論語読みの論語知らずという言葉がある。

docomoショップの店員は、会話の中で、時々ソフトバンクの話もしていたので、「スマ放題」を知らなかったわけではないだろう。また、それと同一視されるのを嫌がって、あえて知らない顔をしたとも思えない。会話のやりとりの前後で、「パケ放題」と言いたがっていることを察知し、「スマ放題」と言い間違えていることを悟るほど、頭が回らなかったのだろう。

もう少し世慣れてくると、「消防車か?郵便車か?」と、自分で探ろうとするが、自分の知識の確認で精一杯だったのだろう。
まあ、あまり賢そうなタイプでもなかったが、賢い人ならそうではないかと言えば、むしろ、賢い人の方が、事柄の的確性にこだわる。この場合の賢いとは、もちろん、優秀な学校を出て、エリーとして世の中を動かしているような人だ。

事柄、事実の妥当性、的確姓にこだわるから、適当な妥協が出来ない。自分の行為の失敗を恐れ、他人の失敗や矛盾を許せない。大局が見えず、妥協が出来ない。
日本の企業が縮こまり、政治家が妙に潔白で、妥協が出来ない。政治や商売ほど、理屈の通らないものはない。そこに理屈を通そうとする。

その場で言い勝ったり勝ち通したりせず、相手の腹や感情を読んで、結果において勝てる算段をするのが、真の駆け引きだ。
慰安婦問題を記載したアメリカの教科書に、削除要請をするような、目先の筋道に走る衝動を止められない政治家には、嘆息の他はない。これがどんなに愚かしい駆け引きか解らない「賢さ」だ。安倍総理が国会で「そんな証拠はない」と、明言したことと同じ結果を招く。相手には、理屈ではない、メンツや感情があることが解っていない。
どうも最近、こういう政治家が増えたのは、法律論に終始する弁護士が増えたせいかもしれない。陪審員制度に鍛えられたアメリカの弁護士とは質が違うようだ。

 


自他の闇

2015年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

いつの間にか、ブログのデザインが変わっている。
ドーナツが出るのが気に入っていたのに、クッキー二枚になってしまった。
Gooブログ側の都合なのだろうが、どうなっているんだ。調べたり直したりするのもめんどくさいので、このままだ。

また、「人を殺してみたかった」殺人が出た。
交通違反と同じで、犯罪というものは、明るみに出て初めて犯罪だから、実際はもっとあるのかもしれない。
この種の犯罪は、狂気によるものだが、狂気でない犯罪というものはあるのだろうか。いや、むしろ逆に、正気の犯罪というものはどういうものだろう。

本来、犯罪は、集団の秩序を乱す掟破りだから、犯罪者は駆除される対象だが、狂気という病理によるものなら、治療によって復帰できる。近代ではそういうことになっている。
秩序を乱したからと、片っ端から駆除したら、誰もいなくなる。もともと集団は、不完全なものの寄り集まりで成り立っている。だから病気を治療する。

昔は、限界を超えたら、一発退場だった。過ちだろうが勘違いだろうが、魔が差そうが、経緯に関係なく、市中引き回しのうえ獄門磔だったから、お上は何とか救ってやろうと、八百屋お七に、「おまえは十五だな」と何度も訊く話がある。
もとよりフィクションだが、昔の庶民には、そうした話を良しとする情があった。

現代日本では、悪い奴は何でも悪い。死刑だ死刑だと騒ぎ立てるのが、当たり前になっている。自分のよく知らない話でも、自分には関係ない話でも、誰も彼もが自分は完全無欠の人間だと信じ込んで、キーボードで石を投げる。

犯罪の狂気は社会の歪みで起こる。石を投げる人は、その社会の一員である自分にも責任の一端があり、一方で、何時、自分がその狂気に陥らないとも限らない。とは、思わないのだろうか。いや、実は心のどこかにその恐怖があるから、よけい他者を責めるのかもしれない。

儚いもの」、「加藤の乱


それぞれ

2015年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム

「日本ヨイショ」番組の元祖、NHKの「クールジャパン」は文化交流がテーマなので、まだ観ていられる。ただ、日本をよく知る外国人ばかりが出演していることと、外国人の疑問に対し、専門的に答えることが不足している。その結果、視聴者である日本人も不完全燃焼になる。

毎回必ず観ているわけではないので、最近は、どういう運びになっているのか、よく知らない。先日観た正月特番、「日本人への大疑問」で、日本人の、マスク姿と川の字で寝ることへの疑問も、日本人の主観だけ聞いてお茶を濁した。せめて、社会心理学者や人類学者のコメントが欲しかった。

川の字とマスクは、日本人の集団依存心理の、原因と結果だろう。
川の字で他者の存在を皮膚感で確認しながら育つ、日本人が持つ集団帰属意識と、その結果、他人に迷惑をかけてはいけないし、「迷惑をかけられることも迷惑をかけること」の意識がマスクであり、それだけ他者を意識し、依存していることの表れだ。
観ていて、中途半端さに歯がゆい思いがした。専門家はどう見るのか一言欲しかった。

また、幼稚園での「○○ちゃんママ」の呼び方については、出演の作家、荒俣宏が東洋の名前についての意識解説はあったが、これは単に知識を披露しただけで、日本社会の変化までは掘り下げなかった。

一昔前は、初対面の子供の親は、姓で呼び合ったが、家や結婚の形が不確かになり、子供を一家に属するとは見なくなったことがある。それでいて、欧米のような個人を基本とする社会ではないから、子供の関わりなら、子供のママと見なすのが、最も無難となったのだろう。未婚の母も、離婚の母も、高齢の母もいるからだ。
これは、持論、「日本は母系社会」で、現在またそこに回帰しつつある。の傍証でもある。

また、最後に、なぜ、日本人男性は女性のためにドアも開けないし、椅子も引かない、コートも掛けないのか。の設問があったが、これは、各国人の意見を総合すると、かねてより主張しているとおりの結論になり、溜飲を下げた。
要は、この種のレディーズファーストは、欧米にあっても、もてたい男のパフォーマンスであって、実際には、状況に応じて臨機応変に、やるものだ。

最も面白かったのは、ドイツ人女性が、「何でそんなことをやって貰わなければいけないの、私は自立した一人の人間で、自分で出来ます」と言っていたことだ。
元々、この設問自体、フランス国籍だが、露骨にインド系なまりの英語を話す若い女性であり、日本でも外国かぶれの女性にありがちな主張だ。
近年のこうした常識は、アメリカの開拓文化から生まれた、男社会ゆえの過剰サービスであり、世界的なアメリカナイズに他ならない。


たか転び

2015年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、「日本は世界で一番」と盛り上げる番組ばかりでうんざりする。
日本の個性を自慢することと、能力の優劣を自慢することは、全く次元の違うことだ。
技術やノウハウを外国人が感心する設定ばかりだが、価値観の違いは全く無視している。

ご飯を食べるのに、ナイフとホークを使う人達が、箸の効用を聴き、その扱い方を知って感心したとしよう。確かに日本人の価値観からすれば、箸の方が優れていると思う。
しかし、目の前で肉を取り分けて食べる方が美味いと思う人達には、ナイフとホークの方が好ましい。外国人が感心するのは、単に、違いに感心しているに過ぎない。

もっと言えば、手づかみで食べる方が食べた気がすると思う人達には、どれも煩わしい。器用さを言うなら、実際、ピラフを素手で食べてみるといい。決して、彼らのようにスムーズには食べられない。

また近頃、中国では、自分たちに不都合な批判を聞くと、中国が台頭して金持ちになったから、焦っているのだといった論調になる。
「日本は最高」と、自惚れに浸るのは、これと同じ事だ。
中国が批判される理由を、文化や価値観のギャップによると認識するなら、調和も反論も出来るが、上下の位置関係の問題として捉える限り、自省することは難しく、ただ、相手に打ち勝つことしか考えないだろう。

地位が上がっても文句を言われるなら、もっと上に上がって、力尽くで文句を言わさないようにしようと、考えるだろうし、それが叶わなければ敗北感で僻みこむだろう。
日本は素晴らしい、日本人は素晴らしい・・・と、外国と比較して思うなら、中国の上下意識と同じ事になる。

素晴らしいか素晴らしくないかは自分たちの問題であり、自分たちが納得していればそれで良いのだ。外国人を呼んできてまでお世辞を言わせるような番組は、止めてほしい。

また、世界から日本が評価されてきたのは、日本人が思いたがっていることとは別のところにあるかもしれないわけで、それを、自分たちの思い込みで自惚れていれば、やがて、たか転びに転げ落ちることになりかねない。


日本方式

2015年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

白鵬が全勝で33回目の優勝を飾り、大鵬を抜いて単独新記録を打ち立てた。
いろいろな国からの力士が増えて、相撲が多彩で面白くなった。
その中では、モンゴル出身の力士は、ほとんど違和感がない。神に捧げる儀式としての日本の相撲のルーツは、モンゴル相撲と同じではないかと思えるし、モンゴルと日本の間には感覚や価値観に、通じるものがありそうだ。
戦前を知るモンゴル留学生の祖母が、日本人は礼節をわきまえ、まともだと言っていたそうだが、価値観が通じたのだろう。

日本の若者が、相撲よりも他のスポーツに傾倒する中で、モンゴルの勇者が次々と来日し、上位をほとんどモンゴル力士で占めるようになった。
朝青龍全盛時代、日本の相撲フアンの中には、日本人ガンバレと対抗意識を燃やし、何かに付けて、朝青龍をこき下ろすムードがあった。朝青龍は末っ子でハチャメチャなところがあり、脇が甘いことも事実だったが、結局、追い出されてしまった。

白鵬は中間児で如才なく、実直なところがあるから、双葉山や大鵬の日本人力士の先達を敬い、日本人に好感を持たれた。
そして、相撲界の偉大な記録を次々と塗り替えたわけだが、当時、朝青龍を追い出した、日本人びいきの素朴なファンは、日本人の記録が全て破られたことを、どう思っているのだろうか。もし、朝青龍が体力の限界まで横綱を張っていれば、果たして、白鵬はこれだけの記録を残せただろうか。小さなナショナリズムの皮肉が面白い。

白鵬の大記録は、相撲を根源的に面白くしたと思う。日本の伝統に従って、日本に来て日本語を覚え、日本の習慣を身につけて、日本人の出来ない日本の美を打ち立てた。
日本刀の美しさには輸入の鮫革(エイ)が使われたことも一因であったように、日本の流儀に異国のものが混ざって、少しも不自然ではない。日本人、日本の文化自体が、混成の極致だからだ。

白鵬の記録が相撲を活性化させ、モンゴル相撲のテクニックもやがて、相撲そのものを多彩に面白くしていくだろうし、日本人の中からも、そこに立ち向かおうとする意欲もわいてくるだろう。
また、力士の構成が国際的になれば、相撲そのものの認知度が上がり、日本文化の価値が一段と上がる。もちろん柔道のように、外国に迎合していく必要もない。日本文化は日本でのみ生きることが出来る。興味があるなら来れば良い。

あらゆることに言えることだが、日本のオリジナリティーは、先ず、日本で生息することで、初めて価値が出る。

 


希少な魂

2015年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

たまたま映った「BS日本の歌」で、ジェロが、「夕陽が泣いている」を歌っていた。
好きな歌だったので聴いてみた。さっぱりアカン。
堺正章は声が良いわけでもないし、うまいわけでもないが、この歌は彼でなければと思った。

K-POP関係者が、日本の歌もダンスも下手だと言う。全く解っていない。
ダンスは機械体操ではない。手塚治虫の漫画は優美ではなかった。でも絵がきれいだから読んでいたわけではない。歌もダンスもマンガも、人は形以前の情熱と個性に感動するのだ。
むしろ、姿形が整いすぎていると、かえって情熱がかすむ場合さえある。

カラオケのお手本歌手の歌は、皆うまいが、少しも魅力を感じない。
逆に、人気歌手がカラオケを歌うと評価点が低くなる。以前、探偵ナイトスクープで、メチャクチャへたくそなオバサンが歌うと必ずカラオケで100点が出る話があった。音程さえ合っていれば100点が出るが、歌としての魅力は全く無い。

日本製品の魅力が無くなったのは、これと同じだ。
個性ある製造者が、信念で売り出した時代から、優等生が非の打ち所のない製品を作るようになったからだ。規定値を満たす優等生は、100点満点のカラオケだ。
誰も魅力を感じない。

魅力とは、概念の破壊であり、同時に、新しい調和を持っていなければならない。それが個性だ。何でも概念を裏返せば良い、破壊なら良いというものでもない。
日本の「ものづくり」と言うが、それは、個性ある製造者、職人魂による主張をさす。仮に、今の企業にそのような職人気質がいても、エリート上司がそれを受け入れない。
海外事業を展開する大企業の原理は欧米合理主義であり、そこで働くエリートは、欧米合理主義教育の申し子だ。

日本の、漫画やアニメにしても、オタクとも言われる職人気質が紡ぎ出したもので、クールジャパンとか銘打って、政府が商品にしようとした時から衰退を始める。

自称ではなく、外から「クール」と言われる日本の個性は、島国の中で、日本人の自由なスピリッツが生み出したものだ。それは、希少であり、独自の空間の中でのみ発生する。
パンダも、コアラも商品化すれば、簡単に死んでしまう。


やれやれ

2015年01月23日 | 星の流れに

日本のアジアカップが終わった。ちぐはぐな試合だった。
後半、遠藤と替わった柴崎が決めて追いついたが、結局、PK負け。
その柴崎が、「まさかこんなところで負けるとは思わなかった」と言っていた。

今日は月が魚座の日だった。火星も魚座にいて、もちろん、土星は射手座。
故障した長友が乙女座。PKを外したエース本田が双子座、香川が魚座。
意外な交代で得点した柴崎も双子座で、最後のチャンスのFKを外した。
そして監督アギーレが射手座。変容宮魚座の日に、相性の悪い変容宮の役者が勢揃いだ。

土星が来ると、頭が固くなり、定石や過去にこだわる。最初は国内組ばかり使っていたのが、本番を前に突然、海外組や古株ばかりでチーム作りをした。

負けたからと言って、何でも監督を替えれば良いとは思わないが、やはり、この際は、アギーレには、裁判に専念して貰った方が良さそうだ。


原点回帰

2015年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「イスラム国」というテロリスト集団をどう考えるか。「国とは何か」、「宗教とは何か」、極めて難しく皮肉な問題を投げかけている。

近代のような国境が無かった時代の国は、力の及ぶところが国だった。
人が集まって自分たちの利害のために、邪魔者を滅ぼし、敗者を奴隷にし、力で集団と地域を確保するのが古代の国であり、現代でも、表面上は近代国家を装いながら、この原理で存在している大国は存在する。

近代国家は成立過程で大戦争を繰り返しながら、古代原理を克服してきた。
武力に頼る国家は共倒れになり、存続不可能であると、ようやく解り始めた先進国が、建前上覆い隠している力の支配を、ストレートに体現しているのが「イスラム国」だ。
格闘技の段持ちは、力が合っても喧嘩に用いることが出来ないが、段持ちでない無法者が勝手放題に喧嘩を仕掛けている。

「イスラム国」と名乗る暴力集団が、イスラム教に基づく国家だと宣言したために、現代社会に調和して生きるイスラム教徒が迷惑をしている。
イスラム教徒は、「イスラム国」は教理を間違って理解していると訴える。
しかし、世界のどこにいても、ハラルや礼拝のように特別の習慣を頑なに守る教理が、信者と、その他の者を別けていることは事実だ。

自分たちの価値観を守り通すことは、他者に強要しない限り自由なのだが、他者に対しても、自分たちのやり方しか認めないのが原理主義のテロ集団「イスラム国」だ。
自分たちの流儀しか認めず、力で押し通そうとする原始的な行動は、現代では単なる、暴力や、テロと言われるが、近代以前は、それが国家というものだった。
食べる物のためであれ、宗教のためであれ、力こそが生存の裏付けであり、キリスト教も、イスラム教も同じ、土俵で争っていた。

今日、理性的に上品におつきあいしている国際外交だが、隠れた実態はやはり力だ。
だから、「イスラム国」の出現は、建前のきれい事を言う大国に対する、挑戦なのだ。
しかも、「イスラム国」を育てたのは、他ならぬ、キリスト教から生まれた先進大国であり、自分たちの流儀の押し売りで、イスラム社会を破壊したことで、古代の狂気がよみがえり、キリスト教社会の矛盾ゆえに、疎外された若者を引きつけている。

「イスラム国」は、現代の正義を否定している。なぜなら、自由や平等に基づく秩序、また、そこから生まれる錬金術、それらの諸々の価値観が、キリスト教的な宗教改革の延長線上にあり、その正義によって追い詰められた人々の心情を代弁する行動だと信じているからだ。

だから、日本人が普通に信じる善や正義を前提の話には、聞く耳を持っていない。日本人の肯定する、自由と平等は、欧米の、つまりはキリスト教主義に基づく価値観であり、彼らは、それら全てを敵視している。

キリスト教世界が生んだ、産業革命パラダイムの大転換期、日本人は日本人で今、果たしてデモクラシーとどう付き合ってきたのか、これからどう生きていくべきなのかを、アンチキリスト教主義の象徴「イスラム国」に突きつけられている。

明治維新以降、押し寄せたキリスト教主義の大波にもまれながら生きてきた日本人だが、果たしてこれが本来の生き方なのか、また、同時に対抗軸として引き出した皇国史観は何だったのか、本当に取り戻すべき日本人の生きる道とは何なのか、
今まさに、「本当の原点」に帰って考え直してみる時ではなかろうか。

 


百億超え

2015年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

スーパーに行くと北海道物産展をやっていた。九州物産展も良くやっているが、正直、北海道の方が食指が動く。
北海道だからソーラン節がかかっている。
♪~男度胸なら五尺の身体~

ここで、ふと思い出した。江戸時代の日本男児の標準身長は五尺(151㎝)だった。
「五尺の身」とか「五尺の身体」と言えば、一人前の男のことを指したし、江戸末期に製作された鎧も、それぐらいのサイズで、ミニチュアではないかと思うぐらい小さい。
これに比べ、戦国時代の鎧は大きく、今の若者でも着用できるような物が多い。

戦場を走り回り、肉食もして、適者生存をしていた戦国時代は自然に大きくなったのだろ。
日本人の体格は、時代によって、大きくなったり小さくなったりしていて、時には違う人種ではないかと疑われたりする。
乱世には大きくなり、平和になると小さくなる。これからすると、やはり現代は、世界に互していかなければならない乱世なのだろう。

幕末に来日した欧米人は、日本人の小さいことに驚き、可愛いとさえ思っていたようだ。しかし、明治維新も日清日露の戦争も、この小さな日本人がやったことだ。
それは昭和の敗戦まで続き、日本人と言えば小さいと思われているし、日本人自身も、遺伝的に小さいと思い込んでいた。しかし、戦後の栄養や生活環境で、日本人はまた大きくなった。

日本人のことを「小日本」と呼んでいる中国人は、平均身長が日本人より小さいことを知って相当ショックを受けている。何しろ、結婚相手には背が高い人をと、映画の中などでも決まり文句のように話している。大きいことは良い事だの大陸人だからだろうが、経済成長期の影響なのかもしれない。日本でも、戦後のトレンドは、「足が長くて背が高くて」が、決まり文句だった。

ところが、どうだろう。こんなに大きくなった日本人なのに、近頃は、妙に遠慮がちで窮屈な社会になっている。昔は、電車でも大きな声で話し、旅行で乗り合わせた客は「袖すり合うも多生の縁」と、見知らぬ同士が必ず声を掛け合って、大きな声で話をした。
今そんなことをすれば、叱られないまでも、露骨に嫌な顔をされるだろう。

海外留学や海外赴任をいやがる若者の風潮からすると、このままでは、おそらく日本人は再び島嶼化を始め、半世紀もすれば再び、五尺の身体に帰ってしまうだろう。

だが、それも悪いことではない。日本人のみならず、人類全てが、野放図から冷めて、小さな地球で島嶼化していくなら、これほど結構なことはない。明治維新の日本人を見ても、身体の大きさと能力は関係ない。恐竜がやがて小鳥にまで縮小したように、人類が百億を超えて、これからも生息していく上では、極力小さくなるのが、最も合理的ではなかろうか。


活用が命

2015年01月18日 | 占いばなし

近頃、ようやくビッグデータが有効に利用されるようになってきた。
コンピュータが出現した時から、利用の可能性は認識されていたが、データそのものの収拾が容易になったこともあるのだろう、あらゆる分析や予測が可能になりつつある。

20年ほど前に、チェーン店のカード会員になるのに、細かな情報を記入させられるので、腹を立てて止めたことがあった。その頃既に、個人情報の収集は容易になっていたからだ。だから腹を立てると同時に、そんな古めかしい手法をとる企業は情報落伍者だから、きっとつぶれるに違いないと確信した。実際、10年ほどで身売りした。

占いの予測は、ビッグデータ予測とほぼ重複する。逆に、占いの周期律をビッグデータで証明することが出来るかもしれない。
両者に共通する重要ポイントは、日頃繰り返し言うように、「木を見ず森を見る」ことだ。
個々の因果関係を論理的に分析するより、マスで捉えることで浮かび上がる姿こそが実体であり、そこには、目に見える物とは別のものが存在する。

その姿そのものが指し示すものに忠実に従っても、常に的を射るとは限らない。統計の示す通りに馬券を買っても当たるとは限らないが、長期にわたり、買い続ければ儲かるはずだ。しかし、実際にそれを実行し続ける資金や根気が無いから、結局、儲からない。

ビッグデータによる分析予測は、情報の収拾が鍵になる。人心にまつわるトレンドは容易に把握できるだろうが、天変地異や歴史的大事件は当分、難しいだろう。
占いの予測は、古聖賢の観察と勘の集積で見いだされた叡智に基づいて予測する。だから、当たる当たらないがあるとすれば、占う人の体得度による。理解と集中力によって差が出る。しかし、占いの活用は、的中より、適用の方が重要だ。

「手術は成功した、だが患者は死んだ」では意味が無い。占いを含めて、学問としての修得と、術としての体得は別物だ。「論語読みの論語知らず」は、現代のように学習環境が充実した時代の方が圧倒的に多い。難しい単語や専門用語を羅列すればするほど、事の本質が見えなくなる。世の中全体が「頭デッカチ」になっている。
近頃の政治経済がおかしげな動きをするのも、学習によって、目が鱗だらけになった専門家が動かしているからだ。

占いも、的中には意味が無い。個々の人生が、結果として「うまくいく」ことが最も重要なことであり、天然自然と個人の周期律の調和を、いかにして図るかを考えることに意味がある。
良く当たる良く当たると言うが、「52歳で死にます」と、言って貰いたいのだろうか。


星の後先

2015年01月17日 | 星の流れに

中国の内情は相当苦しいことになっているだろう。木星カニ座のツケが回ってきているはずだ。国家財政はお金の帳尻だけの問題ではない。周辺国に対する軍事挑発や、新興国の盟主気取りなど、雑な放漫経営で、お金には換えがたいものを失った。

これが致命傷になるかならないかは、身を捨てる勇気があるかだが、独裁国家にそんなことが出来るわけがないので、遠からず大事になりそうだ。
本来、木星が次の星座に移ると、収入源の第二室だから、金回りが良くなりそうなものなのだが、多くの人がここで窮してしまう。

個人では、ここでお金が入ってくる人と窮する人の違いは、生来そこに何の惑星があるかによるが、基本的には、木星が第一室=自分の星座にいるときの行動による。
第二室に凶星があるような人は、第一室のときにまずいことをしやすい。
国や組織の場合は、過去の歴史が表に吹き出す。良いことをしてきたら良いことをするし、過去の体制が悪ければ、隠していた本性が現れる。

たいていは何らかのことを隠してきているので、良いことをする組織は少ない。
一昨年から去年までの中国の行状は、軍事独裁政権の本性をいかんなく発揮した。
日本だけが中国を嫌いになったようなアンケート結果が出ているが、世界中の中国を見る目が変わったことは否めない。

中国への投資がどんどん減少し、孔子学院などのプロパガンダ組織が排斥され、中国人による黄禍まで言い出されている。
情報封鎖している独裁政権の内情は、誰にも分からないが、逆に、誰もが、「相当、様子がおかしいぞ」と感じている。

中国は双子座のアメリカの次の、カニ座だから、アメリカの次に似たような現象が起きる。
射手座に土星が来れば、アメリカには昔のつきあいが始まったり、いまの友達が誰も付き合ってくれなくなったりする。または友達に不幸が起きる。
キューバとつきあいを再開したり、欧州のために自由に動けなくなったりする。

しかし、双子座の場合、まだ、天王星や木星の助けがある。
2018年、土星がヤギ座に移ると今度はカニ座にその現象が起きる。中国の場合は、土星がヤギ座の支配星だけに強力だ。しかも、2019年の暮れには木星も山羊座に入る。
この最中に、天王星が牡羊座から牡牛座に入るから、急転直下、大チャンスになる。ちょうど、東京オリンピックの年だ。

中国が大事になるとしたら、天秤座の日本も対岸の火事ではすまされない。


老人の目

2015年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

初場所もたけなわだが、子供の頃、相撲には全く興味がなかった。
昭和30年代初め。銭湯に行くと、オヤジどもが記念写真を写すように並んでテレビを観ていた。
その頃、地方都市にはまだ電波中継が無く、ほとんど真っ黒な砂嵐の中で白っぽい影がうごめいている。音を聞かなければ相撲とは分からないのだが、「オー」とか言いながら、食い入るように砂嵐を観ていた。電波中継所が出来て、大人も子供も力道山のプロレスに夢中になる少し前のことだった。
もちろん、プロレスにも興味が無かったから、ほとんどこの頃のテレビ番組を知らない。ラジオの落語ばかり聴いていた。

この頃は、メンコにも相撲取りの絵が描いてあって、周りの男の子は皆その名を言いながら、メンコを競い合っていた。
ある日、従兄弟がやってきて、突然、相撲を取ろうと言う。よく分からないままに組み合ったが、襖とともに投げ飛ばされてしまった。

だから当然、大人になっても相撲には全く関心が無かった。学生の頃、柔道個人で全国準優勝をした友人が、「柔道だ、空手だとか言うけど、なんと言っても強いのは相撲取りだ」と言っていた。相撲部屋に行って体験した実感だそうだ。
そういう話や、柔道や相撲の世界の話も聞いていたので、何となく好感は持ってはいたが、わざわざ相撲を観る気にはならなかった。

ところが、どういうワケか、ジジイと言われるような頃になって、俄然、相撲を面白いと思うようになった。よく分からないが、元々の相撲ファンとは、全然違う視点で面白いと思っているのかもしれない。自分が実際に取ることは念頭にない。ただ、力士の見せる人間性がたまらなくカワイイ。

他のスポーツでも選手の気持ちは伝わるが、相撲ほどシンプルに、本人の思いが表れる競技は無いのではなかろうか。一対一の競技は心の動きがそのまま出るが、相撲の場合、ほぼ一瞬でケリがつく。嘆いたり怒ったりする時は、既に勝負がついている。勝負の中での心の変化も面白いことは面白いが、それを面白がるのは、やはり勝負の後だ。
また、仕切りの間が合わなくてイライラする様子や、駆け引きの心の動きも面白い。

負けて、情けなそうにしたり、勝った力士が興奮のあまり鬼の形相で仁王立ちになったり、とにかく、始めから仕舞いまで心の変化がそのまま見える。
しかも、思いがけない展開が待っているのに、勝負そのものには審判の介在が無い。フェアなのだ。

相撲と全く同じように、年を取ってから面白くなったのは子供の行動だ。どちらも、一生懸命考えて生きていることが、たまらなくカワイイ。
動物番組を観て感動するのも、動物が一生懸命生きているからだ。そしてその感動によって、生きることの意味を、改めて教えてくれるような気がするからだろう。

年を取って、よけいこうしたことを面白く感じるのは、きっと、自分自身の生命欲が、それだけ薄らいできているからにちがいない。


免許無用

2015年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

運転免許証制度見直しに当たり、75歳以上の認知機能検査で「認知症の恐れ」のある人は医師の受信を義務化する案が出ている。これも、また、射手座の土星話だ。(運輸と老人)
この話はある意味、当然と言えば当然だ。老化は能力低下につながり、能力が満たない子供が免許を持てない事と同じだ。

ただ、子供でも遊園地でゴーカートを上手に運転する子がいるし、先日は、何年も自分で車を運転して通学していて見つかった子がいた。何事も、年齢で線引きするのは適当ではないかもしれない。
男女による能力を決めつけることと同じで、出来る人は出来るし出来ない人は出来ない。
今のように、様々な分析方法が開発された時代では、運転の適正など、その気になれば簡単に判定できるはずだ。

だが、相対的に、年を取れば能力が低下するのは厳然たる事実であり、75歳と言わず、40代ぐらいから適性テストの方法も変えた方が良いだろう。

これから、年寄りは急激に増加する。個々の老人対策より、老人社会を前提の、環境づくりの方が急がれる。
何年も前に自動運転は可能なはずだと繰り返し書いたが、今、ようやく姿が見えてきた。
自動車会社も、運転できない人を客にしなければならないことに迫られたからだろう。

車に行き先を告げるだけの完全自動運転も良いが、よほど慣れないと、当分は任せきりに出来ないのが人情だろう。
そこで思うのだが、もう一つ別の発想もあるのではないか。

いまや、遠く離れたアメリカから、地球の裏側の空爆をする時代だ。また、新幹線でも、各種の制御機器管理でも、管制室から遠隔操作をしている。
個々の自動車の運転も、管制室からリモート運転や管理をするという方法はどうだろう。
これも、完全自動運転同様、あるいはそれ以上に、実現可能だ。

自動運転車であっても、基本的には管制室と繋がってコントロールされていれば、乗っている人は安心して任せきりに出来る。
まずは、バスなどの公共交通やトラック輸送などを、自動運転&リモートにし、自家用車はオプションでリモート契約する。いわば、簡易運転手付きだ。
そういう時代を経て後、車は勝手に走る物と思えるようになるのではなかろうか。

そうなれば、免許そのものが要らなくなるから、運転免許の利権に絡む勢力の、抵抗が相当有りそうだ。


サソリ日

2015年01月14日 | 占いばなし

今日は朝から月がサソリ座に入っている。
夜のNHKニュースは、火葬場が足りない話と、既婚者の45%が月一以下のセックスレス状態だという話題だった。

死とセックス。どちらもサソリ座の話題だ。NHKは何を思ったか、特集までしていた。
毎日、ニュースは山ほど有る中で、特に今日でなければならない話題でも無かったはずだが、わざわざ今日この話題を選ばせたのは、サソリ座の月だ。

月が、サソリ座の日は、世間一般に何となくそんなムードが漂う。
観察眼を研ぎ澄ませてみると、男女のカップルは日頃より、何となくマッタリ、ベッタリしている。満月や新月との兼ね合いがあるから、一概には言えないが、性犯罪も多くなるだろうし、風俗も賑わうだろう。

ニュースを観て、こんな事ではいかんと、今夜あたり、人口減少問題をまじめに考え直す人も多いかもしれない。