魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ミクミタ

2012年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

ロンドンオリンピック開会セレモニーに、歌って貰いたい歌手のネット人気投票をしたら、例のごとく、韓国勢の「集中お祭り投票」が押し寄せ、LADY GAGA等を押しのけ、聞いたこともないようなK-POPの歌手が並んだ。

すると、突然、思いもかけない「初音ミク」が出現し、あっという間に、1位になってしまった。この状況に、韓国では、自分達と同じように、日本人が集団投票したんだと憤慨したらしい。
しかし、韓国勢のお祭り投票のように、日本人はネット投票に熱心ではないし、まして、「初音ミク」を押し上げるほど、好みが偏っているわけでもないだろう。

ネット投票にかける韓国の情熱は、今や世界的なネット住人の常識になっている。昨年、ネット募集された「新世界七大景観」では、済州島が入選という不思議な結果になったが、この投票突撃に、政府関係筋だけで数十億を費やし、挙げ句の果てに、この投票の主催自体がネット社会を利用した詐欺だったという「珍事」があったばかりだ。

「初音ミク」の1位は、そうした、韓国の「ネット祭」を知る、世界のネット住人の、反発が生んだものとしか考えられない。
(※「初音ミク」は日本から発売されたボーカロイド、歌ソフト)

ミクとミタ
先日、「ミタ現象」で、リアルに演じるより、嘘は嘘っぽく演じた方が真実が伝わる「世相の歌舞伎化」の話をしたが、「初音ミク」の思わぬ世界的大人気も、現代の世相を反映している。

「初音ミク」のブレークは、成るべくしてなった観がある。
ミタ現象のような世相の歌舞伎化は、アニメブームとゲーム、ネットの非人間的世界が、現実を覆っていることを表している。

現実が、仮想を通して理解される現実がある。情報発達により、地球の裏側の情報を知り、会ったこともない人と話ができる時代になった。
一方で、目の前の人との接触が難しくなっている。店頭では人を介さずレジで済ませ、自動販売機で買い、無人改札を通り、メールで告白メールで別れ、恋愛せずに引きこもる。

皮膚感によるコミュニケーションができなくなる中で、肉体や声の持つ存在感が邪魔になってきた。
始めは、人間ではないアニメキャラで「人の存在感」が回避されていたが、その内、アニメ声優さえ邪魔になるようになった。

役者や歌手の存在を取り除いた、電子音なら、ストーリーや歌詞を純粋に受け止めることができる。
歌を聴くのに、美しい声より、歌詞やメロディーに集中して聞くようになった・・・・

それは、ミュージック爛熟の時代を経て、雑音で聞くSPレコードの時代が蘇ったのであり、映画ドラマの全盛時代から、仮面劇の時代、さらにはセレナーデや歌垣の時代・・・歌舞の原点に戻った
そういうことなのかも知れない。


逆転の話

2012年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

神話や聖書に書かれた物語が、事実だったか探る研究は様々な立場から研究されているが、それが事実であったとしても、物語の前提が真実であることにはならない。

神の為せるわざとして記録された現象が実在したとしても、神の存在を証明するわけではない。

人の話を聞く時、その話がすべて知られた事実であったとしても、その話し手が言うことが本当とは限らない。

ごく単純な詐欺でも、
「消防署の方から来たんですが、この度火災報知器設置が義務になりました。お宅は設置されていますか?」
と言って、法外な値段で火災報知器を売りつけるような、パターンがある。

火災報知器設置は嘘ではないし、消防署の方角からやって来たのも嘘ではない。詐欺は、荒唐無稽の話では、むしろ成り立たない。
「わたしは地球人との友好のためにやってきた宇宙人です。地球のお金を研究するために、お札1000枚貸して下さい」
と言っても、誰も金は出さない。

多少なりとも、脳裏にあることを話の筋立てとして持ち出されると、
『ああ、知ってる知ってる』と、自分で勝手にその背景まで描いてしまう。だから、何も先入観のない子供より、年寄りの方が引っかかりやすい。

3000年後の聖書
聖書に出て来る話でも、ソドムとゴモラや、ノアの大洪水は神の天罰によって起こったことになっているが、大災害を自分の話に都合よく利用して語られたとしても、何の矛盾もない。
ショッキングで、人の記憶に生々しい事件を、自分の神(自分の正当性)を証明するために、神の力だと語ったものが、神話として残る。

東日本大震災時に「天罰」と言った石原都知事が非難されたが、都知事の言葉は、単なる自戒と嘆きの言葉だったから、むしろ唐突で、反発が大きかった。
もし、言葉巧みな人間が、始めから人を洗脳するつもりで、神の存在を吹聴し、大災害を神の御業だと語れば、信じる人はいただろう。

阪神大震災の時、海外で「天罰だ」と言った人々がいた。今回の地震や原発事故でも、気の毒にと言いながら喜んでいる人々が実際にいる。
出エジプト記などもそうだが、この人達が仮に、古代ユダヤ人だったとして、日本が、エジプトだったとしたら、3000年後には、どのような旧約聖書が語り継がれているだろう。語り継ぐ話のネタや既に神話と成った話はいくらでもある。

旧約聖書の話を、逆の立場から読んでみると、エジプトは踏んだり蹴ったりで、いい面の皮だ。
近年、ピラミッドは奴隷酷使によって建造されたのではなく、雇用対策や福祉事業として建設されていたことが判った。ユダヤ人も、実際は、奴隷だったのか、出稼ぎ移民だったのか誰にも判らない。


左右後方

2012年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日から昨日まで、久々に連続頭痛に悩まされた。
頭痛が始まった時から、頭のあちこちが痛くなる。
地震の場合、後頭部は遠くで前頭部は近い。始めは後頭部だったが真ん中辺りで右や左が痛くなり、また後頭部へと、一向に収まらない。

星の配置は、(木星-土星、火星-金星・月)それぞれ180゜で、確かに危険だが、吐き気がするほどの頭痛でもない。(充分、辛いが)
昨27日の昼に千葉沖でM5.1があったが、その後もまだ痛い。
『やっぱり風邪だろうか?』と思いながら寝た。

今朝28日、遅めに起きると、8時前に山梨でM5と5.5。そして、起きる少し前に岩手沖でM5.6があった。
その後、茨城沖でM4.9や沖縄でM4.7もあったが、今日は、昨日と打って変わって頭がスッキリしている。(今のところ)


融通無碍

2012年01月26日 | 占いばなし

占いで人や時代を観る場合、個々の人生や事件の詳細にこだわらない。その事柄の持つ、意味や概観の「位相」を観ようとする。

それは、人生や世相の類型化であり、相対的な概念理解だ。
元来、占いは個人を占うものではなく天下国家を占うものだが、個人を占う場合でも、人生の類型パターン、タイプを応用している。

少しくどくなるが、絵画の出来は、角度や長さを測って良し悪しが決まるものではなく、基本手法の変形の組合せバランスによって決まる。
個々の人生も、基本パターンのズレによって吉凶が別れる。
同じ部品なのに、組合せバランスで、美形とそうでない顔になる。

何事も、基本パターンや基準値が、予想や判定の参考になるから、時代や世相も、まず類型パターンに集約して考える。
だから、何ごとも「類型化では語れない」とする立場とは、始めから次元が異なる。

一事が万事という言葉があるが、他にも、子は親の鏡、推して知るべし、など、論理学のような考え方が一般にも受け入れられている。
占いはこれに似ているが、これでもない。

融通無碍
あえて言えば、融通無碍という概念に近い。類型化する条件も融通無碍なら、応用も融通無碍に適用する。
ルールの無いところに原則を見いだし、原則を観ながら、無限の応用で考える。とりとめのない思考方法であり、人が見ればデタラメだ。

人生も歴史も、それぞれ似ているようで違うものであり、違うようでいて、同じものだ。
これと説明できるような法則はないが、それでも森羅万象は法則に従って動いている。
占いは、そういう心がけ、そういう視点で観るものだと思っている。

祇園精舎の鐘の声・・・
ゆく河の流れは絶えずして・・・

こういう無常観は、東洋独特の感性だと思うが、正確な対比では理解できない。非論理的ないい加減さがなければ実感できない認識だ。それが、逆に、科学的理解を遠ざけ、欧米に後れを取った。

しかし、森羅万象を、把握するには、少なくとも現在の人間レベルでは手に余る。経済の動きや運命のような、実体がない現象の正体を、科学的に把握できると考えること自体が、出発から間違っているのではなかろうか。

近年、仏教が見直されているのは、科学の最先端分野での、相対的な関係性の認識が、大乗仏教の哲学に通じるところがあるからだ、と言われている。
占いの認識も、あながち捨てたものではないかも知れない。


闇夜の声

2012年01月25日 | 話の畑

ハーン(小泉八雲)の「怪談」に、
横着者のお姫様が爪楊枝を畳のすき間に差していたら、夜中に爪楊枝の小さな精霊達が騒ぎ立てるという話があった。
また、「怪談」には、親に死に別れ、強欲な質屋にすべて取り上げられた幼い兄弟が、「お前寒かろ」「兄さん寒かろ」と言いながら凍え死んだ声が、一枚の布団から聞こえるという話もある。

先日、風邪気味なので、早く寝ようと横になった。と言っても、丑三つ時の2時前だった。

電気を消して、寝入りかけた頃、何か小さな声が聞こえる。
「・・・○×゜△〆□×○?ヾ∞〃・・・」
『あれっ』と思って、耳を澄ますと聞こえなくなる。
気のせいかと思い、眠ろうとすると、また、聞こえてくる。
耳を澄ますと、聞こえない。

そんなことを、2~3回繰り返しているうちに、すっかり目が覚めてしまった。
横になったまま、辺りを窺うが、何の物音もしない。
ハーンの「怪談」を思い出して、
『何かの精霊だろうか?』と、ふと、期待する。
妖怪にしては、声が微かで可愛らしすぎる。
しかし、楊枝もなにも、思い当たるふしはない。

『アホなこと考えてないで、寝なくては』と、再び寝入ろうとすると、
「・・・△〆○ヾ∞×゜?□×○〃・・・」
また、聞こえ始めた。

今度は、身体を起こして電気を点けてみた。寒い夜更けの部屋は、静まりかえっている。
所在なく、再び布団をかぶった。

「・・・〃□×〆○ヾ∞×!△゜?〃・・・」
また何か言っているが、どうにも聞き取れない。聞こうとすると聞こえなくなる。
『もう、相手にしないぞッ!』と、構わず寝ることにした。

眠気が増すにつれ、だんだん声が大きくなってくる。
なんだか、言っていることが聞き取れそうになってきた。

その時、ハッと気がついた。

何だ、気管支が鳴っているのだ。寝息とはタイミングのずれた時に、微かに微かに鳴っている。
音を聞こうと緊張して、息を潜めると、鳴らなくなる。眠りに入り、力が抜けると鳴り始める。だから、寝入る直前に最大値になったというわけだ。

電気もなかった時代には、こんな夜更けの体験も、妖怪になったのだろう。
翌朝、目覚めると、風邪気もスッキリ収まっていた。


維新伝心

2012年01月23日 | 大転換

世の中は、ますます牡羊座の「新」に覆われてきた。
2009年、政権交代の「新」は、予兆に過ぎなかった。

2010年、天王星が実際に牡羊座に入って以来、既成概念や旧秩序が完全に行き詰まり、世界的にも動きが取れなくなってきた。
ユーロに始まるソブリンリスクは、世界の通貨体制、近代国家システムに変革を迫っている。

国内でも、国民が期待した政権交代が全く機能しない事態に、既成政党、国家体制そのものの信用が失われている。
その結果起こった、去年の政治的大事件は「維新の会」の圧勝だ。
震災や原発被害を直接受けていない大坂で、既成政党が全滅した。
「新」の時代が本格化し、もう「維新」以外は受け付けない。

自民党はそれでも、政権奪還などと言い、公明党は議員定数削減に反対している。既成政党には、状況が全く見えていないし、見ようともしていない。

世界的な大転換の今、既成政党の生き残る道は、何度も言うが、身を捨てた国家解体「新国家ビジョン」の提案だけだ。
官僚と戦うには、官僚の巣窟の国家の殻、ヤドカリの殻を剥がすしかない。つまり、連邦制による国家解体だ。

明治維新で、幕藩体制から廃藩置県に切り替えたのは、自己完結型の複合国家から、近代国家競争をするための体制強化だった。
しかし、今再び切り替えを迫られているのは、グローバル世界への浸透力の強化だ。国家中央が国民を管理し面倒を見る、近代国家ではなく、ポリス国家のように、地域が世界に直結するネットワーク時代の新型複合国家だ。

次の250年
(グローバル三幕:大航海→産業革命→第三幕:情報革命)
エネルギー転換。通貨統合から通貨廃止。食糧難。世界協力体制などの・・・グローバル大転換が迫っている。
次の250年を見据えた国家ビジョンで、国を作り直さなければならない。もしかすれば、日本にはその使命があるのかも知れない。
大英帝国、アメリカ・・・次は日本か、中国か、インドか。

次の世界の中心は、常識的には中国と思われるが、先進国の基礎、情報の自由を兼ね備えているのは日本であり、小国ゆえの動きやすさという点からも、日本の時代が来てもおかしくない。

ただし、日本の時代があるとすれば、大英帝国のような「世界に冠たる」国家ではなく、日本原理を兼ね備えた世界企業によってだろう。
企業が世界に分散することで、日本原理が世界に拡散する。

一つの国や文化が分散するには、何と言っても経済力だが、欠かせないのは伝達力であり、言語の簡易さだ。
中国語は英語同様の簡便さがあるが、実は日本語ほど簡便化しやすい言語はないと思う。

民俗の寄り集まりで生まれた日本語は、もともと合成語だ。どのようにも発展する要素を秘めている。難しい発音をしなくても音節の組合せで単語が出来る。発音のくせがあっても単語が成り立つ。
文化に密着した日本語のイメージは複雑だが、会話の基本は単語だ。

それより何より、まもなく翻訳機が飛躍的な発達をするだろう。
そうなれば、狭い日本が獲得した「おりあい」社会が世界に拡散する。
これからの世界に必要なものは、多様性の包容であり、他者に耳を傾ける姿勢だ。

これまでの主張中心の世界では、声と力の大きい方が良しとされたが、世界が狭くなるこれからは、思いやりと、寛容さが世界に求められるようになるだろう。

日本と日本人は、次の世界を担う使命がある。
少なくとも、それ位の覚悟で国を作り直す姿勢があっても良いのでは無かろうか


商の真髄

2012年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国は国の全面支援で、マグロの陸上養殖により通常の倍のスピードで成長、出荷できるるようになった。と報じられていた。
マグロの養殖と言えば日本だと思っていたのに、どういうことだ。
海洋魚類の陸上養殖技術も日本のものだったはずだ。

どうもよく解らないが、要するに、家電と同じで、日本から基幹部品を買って、組み立て販売をする方式のようだ。
マグロの稚魚や必要機材を日本から購入し、手を加えて、より早くより付加価値を付けて販売しようという商法だ。
韓国はこれで大成功をしてきた。

この2~3年だけ振り返っても、「3D」も「有機EL」も、日本企業がこれに期待を掛けていると言っているうちに、商品化して大量販売を掛け、シェアを取ってしまい、日本企業は戦略変更を迫られるありさまだ。
マグロも、稚魚のふ化による完全養殖ができたと喜んでいるうちに、韓国はそれを仕入れて売り込む方に専念する。

中国の高速鉄道にしてもしかりだが、こういう動きに、日本では、パクリ商法だとか、偽物だとか、質が違うとか、やっかみや蔑視でうさを晴らしている。
日本人として、非常に悔しいと同時に、目を覚ませと言いたくなる。

紙一重
日本の東西は、漠然と職人と商人の文化に別れる。東は武士と職人の文化であり、西は公家と商人の文化だ。
関西に来た時、学者が大きな家に住み、芸術に関する会話がすべて、金と地位で語られるのに、カルチャーショックを受けた。
関西では、金も地位もないのは実力のない証拠と考えられ、関東では、金がある学者や芸術家は、うさん臭いと考えられる。

東西の対比は、スケールをアジアに広げれば、中韓が西で日本が東だ。
職人日本がせっせと開発したものを、商人中韓は包み直してあちこちに売りまくる。
職人と問屋とどっちが儲けるかと言えば、昔から、商売人の問屋だ。
長者様、旦那衆と呼ばれて花街で遊び、人をアゴで使う。

商人は元来、遊牧民だ。あちこち移動することで、流通を生み家畜で食べる。遊牧民が商人なら、農工民は家畜だ。商人はそう考える。
天才とキチガイが紙一重なら、商人と泥棒も紙一重だ。

近代国家は取引の為にあり、外交は商取引と同じで、基本的に自分が得するためにある。相手を泥棒だと非難しているヒマがあるなら、その泥棒の上前をはねて、「立派な商人」にならなければ、いつの間にか、その泥棒の家畜にされて、骨の髄までしゃぶられる。
喰うか喰われるかとはこのことだ。

目先儲かるからと、開発した稚魚を売っていると、いつの間にかシェアとブランドを奪われる。
お母さん、あの日本のテレビは何処に行ったんでしょう?


時間旅行

2012年01月21日 | 世相史観

昨日、三浦友和の件をちょっと挟んだが、世相ウオッチャーとしては、やっぱり少し触れておかなければならないのだろう。
(年寄りとしては、面倒な話題には触れたくないのだが・・・)

この件に関して、実際にどういう発言があり、どう炎上したのか知らない。多分に、映画宣伝の仕込みもあるのだろう。だから、むしろ、具体的に調べて、論評のようなことはしない方が良いと思う。

誤解の無いように断っておくと、ドーハの悲劇以来、ジャパンブルーの隠れサポーターであり、今回のなでしこ優勝に大興奮した一人だが、バレーボールには、64年当時も今も、それほど関心はない。

その上で、どちらが日本を興奮させたかと問われれば、何の迷いもなく、三浦友和と同じように「東洋の魔女」と即答するだろう。
これはスポーツの問題ではなく、世相の問題だからだ。

体験した世代が、体験してない世代に、自分の体験を語る時、ともすれば、「お前は知らんだろう」的な、体験を権威としてゴリ押しするような懐古趣味になり、拒絶反応から非難されることになる。
これは、どの世代であれ、自分の実感こそが最大の事実だからだ。

時代の位相
そういう、世代間ギャップとは全く別の問題として、歴史や時代の持つ意味を、世相のパターンで比較する「周期律」や「世相史観」は、古今を越えて、「ありさま」の本質を把握し、「次」を予想しようとするものだ。

「東洋の魔女」と「なでしこ」は、どちらも木星が牡牛座にあった。
天秤座に木星が居るわけでもないのになぜ?と思われるが、実は、牡牛座と天秤座は何れも金星が支配星で、表裏の関係にある。
他の惑星の関係で、精神と肉体、男性と女性の補完関係で現れる。
占い的には、木星→天秤座と同じ状況だったことになる。

だから、惑星が導く事件の大きさという点で優劣はない。
しかし、食糧難でステーキを食べるのと、何でもある時にステーキを食べるのとは、インパクトがまったく違う。

今は、オリンピックの地位が低下しているが、当時の日本では世界最大のスポーツの祭典だった。それが、この日本で開かれていた空気は、2002年のワールドカップで、多少、解るかも知れない。
日本単独開催で、しかも、戦後18年しか経っていなかった日本人が、また、戦時中の「一億火の玉」のような熱気を取り戻した時だった。

このオリンピックのマラソンで、決勝前で抜かれて3位になった円谷幸吉が自殺したほど、良くも悪くも、日本中の熱気が一丸になっていた。その空気の中の「東洋の魔女」だと言うことだ。

だから「東洋の魔女」の価値が上だとか言う話ではない。
時代の空気は、その現場に居合わせない限り解らない。である以上、比較することは、元々、無意味なのだ。

敗戦の焼土と東日本の災害とどちらが上かと言った比較は、現に苦しんでいる人には腹立たしいばかりだ。
そして、一方ではまた、冷静な比較がなければ「次」に備えることが出来なくなることも事実だ。


ガンマン

2012年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アホ言うもんがアホ」でも言ったように、人は自分の知識や経験からしか他人を考えることができない。

だれでも、人の行動や態度を見て、喜んだり怒ったりするが、相手が本当のところどう考えているかは、決して解らない。たとえ、どんなに親しい仲でも、多少のズレや思い違いはある。

だから、理解できない相手や、腹の立つ相手ならなおさら、いきなり怒ったりせず、必ずしも容認できない考えではないかも知れないと、許容の余地を残しておくべきだろう。

人には色々な感じ方や考えがある。違う理由で同感する場合もあれば、同じ理由で反対の考えを持っこともある。
そう心得て人と接していれば、トラブルは起きないはずなのだが、実際は、相手がそれを心得ていない場合の方が普通だ。

だから、トラブルが起こると、理解力のある方が引くことになり、偏狭で無理解な方が主張を通してしまうことになる。これは、知的問題も同様で、見識ある人は、偏狭な主張にも一理あると引いてしまう。
これは「泣く子と地頭には勝てない」であり、無知・・・ハッキリ言えば、バカの考えの方が正しいことになってしまう仕組みだ。

集団内での議論で過激な意見が通るのもこれであり、集団イジメも同じ理由だ。客観性の無い偏狭で感情的な価値観が、多様性を圧殺する。

国家も人も
人間同様、同じ環境内でものを考える国家的価値観も、他国の事情を理解できない。
「人の振り見て我が振り直せ」自分達がどれほど相手国のことを理解していないかを知るには、相手国がどれほどこちらを理解していないかを知れば解る。

中国の日本に対する論評を見ていると、日本を知る必要を全く感じていないぐらい、良くも悪くも独善的だが、これは情報云々の問題ではない。国が大きいから、歴史的に、他国に興味がないのだろう。
また逆に、韓国のように、他国ばかり気にしながら、すべてを恣意的に見る国もある。
中韓の言い分を聞いていると、おかしいほど本音が解る。非難理由こそが、彼らの本音だからだ。(覇権主義と非難する中国など)
これに比べ、寄り集まりの国アメリカは、始めから多元的で、自らの大国の横暴も、承知の上での戦略的横暴だ。

一方、日本ほど外国を良く知っている国はないだろう。
「最果ての国」の意識は古代からあったようだから、遠くの国の事情を常に関心を持って知ろうとしてきた。
それが、明治維新の対応の早さや、戦後の経済復興の早さになったのだろうが、これが災いしてか、逆に「知ってるつもり」の独善を生み、第二次大戦や近年の貿易現地化の遅れを招いた。

日本が2000年後のアメリカだとすれば、それは老人アメリカだ。
老人は何でも解っていると思っているが、身体は付いていかない。
老人の世界は若者には未知の領域であり理解できないし、老人も、それを解らせる気力はない。自分だけが納得した世界で生きている。

これを書いていたら、三浦友和が「東洋の魔女」は「なでしこ」の比ではないと言って、若者から大批難が起こった話があった。
様々な理由から、三浦友和の言う通りだと思うが、現場に居なかった若者にそれを「言っても無駄」だ。年寄りはそう思ってしまう。

日本が、説明不足で世界に誤解されることが多いのは、うかつなことを言って議論に巻き込まれるより、一人静かに納得していたい。
奥ゆかしさとも陰険さとも言われるが、そういう、プライドの高い消極的な文化があるからだろう。

こうした、教養老人的な日本が、たまたま成功したために、鼻息の荒い新興国のターゲットになりやすい。前を行く日本の粗探しをし、敵愾心を燃やし、模倣をしながら、足を引っ張る。

これはイジメられる優等生の宿命なのかも知れない。優等生が優しさの気配りや遠慮ばかりしていると、反って危ない。
多くの名うてのガンマンが、若造や卑怯者に後ろから撃たれたように、偏狭な野心にはもろいのだ。


加工食品

2012年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

以前、スーパーのお総菜の味付けが濃いことを書いたが、世の中に出回っている加工食品全体の方が、もっと問題だ。
安全性とか添加物とか賞味期限の問題ではない。

社会や時代と味覚には、相性がある。なぜそうなるかは、要するに環境と慣れの問題だが、これを語り始めるときりがない。
実際に出回っている食品について、素朴に考えてみたい。

判断基準
昔、自然派のアメリカ人が、ケンタッキーやマクドナルドなんか、人間の食べる物じゃない、と言っていた。近年では日本でもこういう人が増えて、何かと言えば有機農法とか手作りクッキーとか、おしゃれLOHASな人々に持てはやされる。

それはそれで良いとしても、時として、こういう流行りは単にグルメブームの裏返しだったりする。実際に自分の感性で判断するのではなく、ある種の宗教的生き方だ。

日本の原発は最先端で安全だから「最も賢い選択」と言っていた人が、突然、原発全面廃止を叫び始めるように、スポットライトのステージ上の猫だましに反応し、洗脳されて付いていく。それと変わらない。

テレビや政府がどう言おうと、自分の知識と素朴な感性に照らし合わせれば、安全な原発など無いし、逆に、今すぐ原発を止められるはずもない。
原発事故が有ろうと無かろうと、始めから原発廃止に向かっていれば、今ごろは自然エネルギーに替わっていたかも知れない反面、事故があったからすぐ止めろと言っても、電気は、自然エネルギー機器を開発するにも必要だ。感情的な判断は何も見えなくする。

時代の価値観
原発のような重大問題ですら、他人の言葉や「常識」に付いていく。
衣食住などは、誰でも自分の判断で決めているが、その判断基準は時代の環境、流行や常識だ。

どんなに暑くなっても、腰ミノに革靴で電車に乗る人はいない。
しかし、もし、猛暑続きにこういう人が現れると、世の中にだんだんこういう人が現れるようになり、それを有名人が真似たりすると、俄然、腰ミノがファッションになる。最初の人は奇人であり、最初に真似る人はファッションリーダーだ。(もちろん腰ミノは例え)

味覚もこれと全くかわらない。変わった味でも、美味いと感じた人が「美味い」と言って人に薦めると、何人かの人が共感し、新体験を吹聴する。その内、人が美味いというものを美味いと感じる人が行列を始める。もちろん、暑い時の腰ミノのように、何らかの必然が背景にある。(例えば、甘い物が溢れると辛い物がウケる)
豚骨スープや激辛などもその例だ。

企業が、マーケティングで仕掛ける場合も、アサヒドライが古いキリンラガーに勝ったケースなど、社会状況を把握して提案すれば成功する。ところが、そのアサヒが、トップになると、俄然、保守に回ってしまった。提案した「味」に囚われ、「提案」したことの勝利とは考えなくなってしまった。

食べたくない、選挙と同じ食選び
時代や社会で味覚も変わるが、目に見えない流行は捉えにくい。
昔当たったからと言って、名前におぼれて新しい時代の好みに敏感でなければ、「名物に美味いもの無し」と言われてしまう。

滋賀の鮒寿司ほど極端ならまだ潔い。京都名物の千枚漬けなど、古い時代に好まれた「ダダ甘い」物を名前だけで売っている老舗があれば、塩辛いだけの奈良の奈良漬けより、京都の甘い薄味奈良漬けの方が美味いということもある。

また、スナック菓子など、大量販売のための保存優先で、軍隊の携行食よりも不味いような物を、当然のように売っている。
企業の都合で出回るこれらの食品が、美味い不味いの話題になるたびに、鶏小屋のブロイラーの悲哀を感じて、情けない。
そう思いながら、今日も、新発売のパッケージを破っている。

結局、本当に美味いものは、空きっ腹に食べる、自分の手作りだ。


三人姉妹

2012年01月18日 | 兄弟関係

ご近所づきあいの三人。十年以上の付き合いだが、50才を過ぎて知り合った同世代60代の他人同士。

長子と中間児と末っ子だが、年齢はちょうど逆になる。末っ子が二才上の年長、中間児が一つ下。長女が最年少。
長女は弟、中間児は兄と弟、末っ子は女ばかりの四女。
同世代だから、ほとんど遠慮の無い付き合いをしている。

話を切り出すのはいつも末っ子だ。思いついたことや、その日あったことをランダムに話し始めるが、たいていは長女に向かって話している。長女は話しにコメントする形で受け答えしている。

末っ子はアレコレ話ながら、「どう思う?」とか、「そうやろ」とか、常に意見を求める。それに即答するのは長女だから、結局、末っ子と長女の会話になり、中間児は常に形勢の良い方の話に便乗して
「そうやで、あんた知らんかったん?」と、話を広げる。

ある日、末っ子が例のごとく「どう思う」と言うと、長女が「それはアカンわ」と否定して、道理を話していると、
横で聞いていた中間児が「えー、あんたそんなことしたん!はずかしいなあ」と、話に入って来たが、末っ子の方は長女の話を聞いている。
話が終わったと見て、また中間児が、たたみかけて末っ子を馬鹿にし始めた。

末っ子は、もうその話はしたくないので、他の話をしようとするが、中間児は、何とか末っ子に馬鹿を認めさせて、面白がりたい。
また、同じようにさっきの話を蒸し返して「本当に、あきれるわ」と二度ほど繰り返した。

「ウッさいなあー」と、末っ子がブチギレた。(三人とも60代)
こんなに怒ったのを見たことがなかったので、長女は驚いて、この後のことを考える。
『どうするんだろう?』と心配していると、一瞬、間があって、
「この前のレストラン美味しかったか?」と、ブチギレた末っ子が中間児に聞く。
「ああ、たいしたことないけど、まあ値段なりやな」と、中間児も普通に答えて、何事もなかったように話を続けている。

長女はあっけにとられてしまった。しつこく馬鹿にする中間児も、ブチギレる末っ子も、相手に全く気を遣うと言うこともなく、出たとこ勝負の状況次第で会話が成り立っている。自分ならまず、相手がブチギレるまで馬鹿にしたりしないし、たとえ腹が立っても、いきなり叫んだりしない。その上、そのまま平気で、次の話などできなくなる。

この話を、その長女から聞いて、いかにもありそうな話で喜んだ。

成り行き、状況で考える弟妹型は、それぞれが精一杯自己主張して、相手の反応で次の動きを決める。多少まずいことやトラブルは想定内だから、懲りると言うことがない。

これに比べ、元来、相手のいない一人っ子で始まった長子は、何をするにも、まず状況を見て考え、想定をして、ことが起こりそうになる前にやり直す。逆に、相手の存在を考えていないから、空気を読まずに暴走することもある。すると、弟妹型から「KY」と馬鹿にされる。


ハイエナ

2012年01月17日 | 兄弟関係

円高は続かない。円高はそれなりに長所もあるので、続くならずっと続けば良いが、円高体制ができた頃に円安になる。それが問題だ。
冬になれた頃、春になると暑い。春の20度と秋の20度は大違いだ。

今回の円高の原因は、土星が天秤に来ているからだ。
天秤は日本。土星はヤギ座の投機マネー関係者。
ファンドマネーは元々、リスク回避のための資産管理。ヤギ座は人間最後の陸地「瀬戸際」を表す。加えて、ヤギ座は秋の収穫物を運用する季節、つまり、運用マネー。ユダヤ人もヤギ座。

現実主義で、金しか信用しないハイエナが、世界中の金の臭いに群がってくる。企業だろうが国だろうが、倒産しようが破綻しようが知ったことではない。
状況次第で、世界中に金を浴びせては奪う。世界中の金庫に穴が開けば、比較的穴の小さい金庫に先を争って移動させる。

そういった土星が、今寄りついているのが天秤座の日本という図式だ。悪い奴に目を付けられてしまったものだ。

しかし、ハイエナも好きで日本に寄りついているのではない。ガリガリの痩せ鹿では食べるところがない。どこかで良いニオイがすれば、そこに飛びつこうと鼻をヒクヒクさせている。
どこにも獲物がいなければ、もしかすれば、痩せ鹿を太らせることを考えるかも知れない。

近頃、ドイツの証券会社が、日本の株や土地は上がると言い出した。
『おやおや、雲行きが変わってきたぞ・・・』
ハイエナやハゲタカが、何を考えているのかは解らないが、
初夏には木星が双子座に入り、秋には土星が天秤座から抜ける。
日本にようやく春がやって来そうだ。

土星の移動
一方、土星が次に移るサソリ座の朝鮮半島では、ぼちぼち兆候が現れ始めている。金正日の死もその一つだが、韓国サムソンは世界の不況に大投資を始めた。
前回の不況に積極投資をしたことが、その後の大躍進につながったので、柳の下の二匹目のドジョウを狙って、一つ覚えを発動した。

確かに、日本企業の萎縮はあまりにも不甲斐ないが、土星到来のこの時期は前回とは状況がまったく違う。世界経済も桁違いだ。
明らかに土星がサソリ座に影響を及ぼし始めているようだ。土星は「野心」「野望」も表す。

土星が来れば、権力欲がでて「野心的」になる。そしてそれが失敗につながる。もちろん始めは景気が良い。しかし、その景気よさがアダになる。無理をするから非難されたり、敵を作ったり、終いには自ら倒れたりする。(首長の死も国の無理から)

韓国・朝鮮半島が日本の後を受けて不幸に見舞われるシナリオが少しずつ見えてきたようだ。ウオン高?、売れ残りの山?、それとも戦争か?
末っ子は失敗すれば他人のせいで、成功すれば全部自分の手柄だから、大ばくちが打てる。
日本のように、失敗しても誰にも助けてもらえない一人っ子と、失敗しても誰かが助けてくれる(スワップ)末っ子とは「度胸」が違う。


よくある

2012年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

顔料プリントが必要なので、EPSONのPX-434Aを買った。
この機種には、実は別の期待があった。本をスキャナで読む時、日本のスキャナは縁が広く、片面を横縁に掛けるようにして読み取れない。それだけではなく、読み込み側の始点が、奥側の上蓋の付け根にあり、反対側の縁に本の片側を掛けて読み込んでも、ページ面の半分ほどしか読めない。

ところが、この複合機のスキャナ部分は、手前側に始点があり、その上、縁がかなり細い。
もしかすれば、海外製の「BOOKスキャナ」のように、本の片面を引っ掛けて読み取れるかも知れない・・・

これは画期的なことだ。
日本のスキャナは著作権問題を回避するために、わざと本を読み取れないようにしているのだろうかと思っていたので、もしかしたら、開発技術者が、知らん顔して、事実上のBOOKスキャナを出したのかも知れない・・・そんな期待もあった。

買って最初に試したことは、印刷ではなくスキャナだった。
う~ん・・・、微妙だ。

強引に押しつければ、BOOKスキャナ「まがい」で、なくもない。
しかし、何よりも問題なのは、スキャンスピードが遅い。
押しつけているには時間が長い。指が曲がりそうだ。
これでは、従来のスキャナと差し引きすればメリットはない。

で、プリンタの方は、コンパクトで4色、コストパフォーマンス的には、なかなかの優れもので、納得できた。

一週間ほど使った後
改めて使おうとしたら、用紙の読み込みが曲がってしまう。
上蓋を開けてみるが、読み込み時に曲がって入ってくる。送りのゴムローラーを掃除しても読み込めない。インクジェットの印刷部分だから、指先がベッタリ、インクで染まってしまった。

悪いことに、電話サポートは時間外だ。ネット上で故障例を検索してみるが、該当する現象はない。出張修理料金は9,450円。
ヨドバシカメラで、ポイント差し引き13,500で買ったばかり、修理代の方が高くつく。保証修理に持ち込んでも交通費と手間はかかる。

『カンベンしてくれよ』と、思いながら、あれこれ調べてみるが、手がかりがない。
途方に暮れて、『安物買いの銭失いか』と、ボーゼンとしていると、ハタと思いついた。『まてよ・・・』と、
壁際の用紙入れの口に張り付いて、用紙入れを覗いて見た。
『あれ・・・かな?』
紙の吸入口が、何か2~3センチの白いものでよく見えない。
プリンタを引っ張り出して、よく覗くと付箋紙だ。
物差しを入れて引っ張り出した。
正解。プリンタはスムーズに動き出した。
サポート電話が時間外で、ほんとに助かった。恥ずかしい。
神は自らを助くものを助く


ミタ現象

2012年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

「家政婦のミタ」が今世紀最高のドラマ視聴率を記録し、紅白が負けるのではと心配されたが、かろうじて上回った・・・そうだ。
このテレビ番組。どちらも観ていなかった。だからどうこうコメントする立場ではないのだが、世相現象としての観点から一言。

観ていなかった。と言っても、正確には、感触を確かめるため、チラリと覗いてはミタ。紅白もチラりだが、これは十年一日と言うより百年一日で、コメントには及ばないだろう。

ミタの方は、「あ~あ」としか言いようがない。一言で言えば、時代そのものだ。観ていないのだから、ストーリーやテーマの話ではない。
時代の情景だ。

「ミタ現象」は歌舞伎
文化が爛熟退廃期に入ると、創造性が無くなり、型や様式が生まれる。様式は過去の創造の整理整頓であり、がさつな文化は姿を消す。
平安文化、江戸文化に見られる、既存知識のひねり、超現実的なファンタジーなど、華麗だが、狭い世界への現実逃避だ。

歌舞伎はド派手な創造性が注目されるが、古代からの芸能の集大成を、「歌舞伎小屋」という限定世界に集約している。
また、こういう時代は、洒落や掛詞が盛んになる。江戸の庶民文芸は洒落ずくめだし、中国の西遊記なども、五行話ばかりでウンザリだ。
オヤジギャグは、固定概念や既存知識のヒネリだから、新鮮さを求める若者にはウンザリされる。

今の時代は、時代そのものがオヤジ
戦後のドラマで言えば、高度成長の創生期にはリアリティーが重視されたが、竹中直人やジム・キャリーのようなギャグ芸が受けるようになった頃から、狂言や歌舞伎の「芝居がかった」古典的な演技が復活した。これは近代への、一つの概念革命かも知れない。

ドラマは所詮、現実ではない。虚構をいかに最もらしく演じても所詮ウソであり、そうならばむしろ、「ウソだよ」と演じる方が作品の意図するところを伝えることが出来るのではないか・・・
そう意図したかどうかは知らないが、「もっともらしいTVドラマ」に飽きた若者に支持されたことは事実だ。

また、ストーリー設定も、一般的には起こらないような家族設定や、極めて特殊な犯罪の手法解説など、キワモノ競争になり、それがまた社会に影響を与えて、実社会が猟奇や退廃にシュール化すると、ドラマはさらにその上を行こうとして現実感を失い、結局、視聴者の共感も失ってしまった。

それが、素朴な韓流ドラマにチャンスを提供したわけだが、バブル以降の世代にとっては、ドラマは既に「芝居」になっている。
名作と言われた「三丁目の夕陽」なども、アニメや芝居の不自然な演出がベースであり、「ミタ」もこの「芝居」の世界だ。

近年の「芝居ドラマ」になれた世代に抵抗がなく、しかも、定番の猟奇的話題を通して、実は家族愛という、極めて素朴なテーマを扱う。

これは、非現実的な舞台や衣装を通して、人情に溜飲を下げる歌舞伎と同じ世界であり、ある意味ではここが終着点で、襲名以外は、ここから新しい世界は生まれない。

道楽オヤジ
文化はそれで良いとしても、実生活の道具には新機軸が求められる。
工業製品は、単に、見た目や手触りの改良ではなく、
お金を出せば「新しい世界が開ける魔法の杖」でなければならない。
日本企業がおちいった「ガラパゴス」とは、新世界を忘れて型の機微を楽しむ、歌舞伎小屋の芝居道楽だ。