魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

大和魂犬

2014年06月29日 | 動物

立て続けに、柴犬が飼い主をクマから救って話題になっている。
6月22日、秋田大館市の河原で5歳児を襲ったクマを、6歳のメス柴「めご」ちゃんが撃退した。
28日は、石川金沢市の山道を散歩していた夫婦に子連れの母クマが襲いかかり、10歳のメスの黒柴「ショコラ」が飛びかかって撃退した。

いずれも、日頃は吠えることもなく大人しく、臆病で人なつこい性格だったので、助けられた飼い主が、誰より驚いていた。
アメリカで子供を救った猫は映像証拠があったので英雄になったが、何よりも「猫」であったことが意外だった。

犬が、飼い主の災難を救った話は、いくらでもあるので、特別な話として記憶に残りにくいが、それぐらい犬は仲間意識が強い。
中でも、日本犬は、今回もそうであったように、日頃、無口で大人しいのに、イザと言う時、思いがけない豹変をする。

犬好きの間でも、洋犬派と日本犬派がいるが、初めから日本犬派なので、何度か、洋犬派と口論したことがあるぐらいだ。
小型洋犬を可愛いと言う人は、多にして、気分屋だ。確かに、ぬいぐるみのように可愛いく作ったのだから「可愛い」、とでも言える可愛さがある。

その点、柴犬は少しも可愛くない。どこにも特徴の無い、ただの動物だ。自然の野山にいるのがふさわしい、愛想のない顔をしている。
しかし、そこが良いのだ。お笑いタレントの笑いより、まじめ人間の天然の方が面白いことがある。

犬は民族の文化として生まれてくる。洋犬は、大作りな顔で喜怒哀楽の激しい欧米人に似ているし、日本犬は、醤油顔で何を考えているのか解らない、静かで無表情な日本人に似ている。
洋犬はかまってやらないと騒ぎ立てるが、日本犬は黙って我慢する。
纏足や宦官の国の中国犬には、何の目的か解らない奇形や愛想の良さがある。

外国人がどうにも理解できない日本人の特徴を、日本犬は全て体現している。
大人しくて、人見知りをするが、心を許した人には、トコトン愛想が良い。無駄に声を上げず、滅多なことで騒ぎだてしない。
今回の柴犬たちも、長年飼ってきた飼い主さえ、臆病で役立たずだから番犬失格だと思っていた。

ところが、イザ鎌倉、一朝事あれば、まるで大石内蔵助かスーパーマンの様に「変身」する。
様々な犬伝説の中にも、飼い主を守って命を落とした犬の話がある。
実際に自分も体験した。

日本犬は、愛くるしい犬ではないかも知れない。しかし、その心根を見詰めると。いじらしくて、いじらしくて、たまらない。

敷島の大和心を人問はば、朝日に映る柴犬の影 ワン


タラの地

2014年05月17日 | 動物

猫の話を書いた後、カルフォルニアの忠猫の話が話題になった。
映像を見て驚いた。どう見てもハッキリ、男の子のために突撃している。
犬が飼い主のために体を張る話は珍しくないが、猫が、ここまで命がけになる話は滅多に聞かない。猫と言えば、勝手者のイメージがあるからだ。

しかし、猫科の動物が他の動物を救った話は、無いわけではない。
ライオンが鹿を救った映像を見たことがある。
あれと、今回の出来事を重ねて考えると、猫科の場合、犬のような忠義や仲間意識とは、少し違うのではなかろうか。

犬の場合は、コミュニケーションをとれる相手を仲間とし、その集団で糧を得ようとするので、ある種の、合理性や知性で動いている。
猫の場合、先ず自分がいて、外界への対応で生きている。だから、自分自身の生存圏であるテリトリーを必要とし、そのテリトリーに共存できるのは、自分の分身である、家族だけだ。

犬が飼い主と共に行動しようとし、猫が都合の良い時だけ懐いてくるのは、基本的にそのせいだろう。
では、なぜ、ライオンが鹿を救い、カルフォルニアの猫は飼い主を守ったのか。
これも、身内とテリトリーで説明が付きそうだ。

カルフォルニアの猫は、同家で6年飼われており、助けられた子供は4歳だ。この猫にとって、自分より後で生まれた子供は、兄弟か子供のような、身内として意識されていたのだろう。
家の周辺は自分のテリトリーであり、そこにいるのは当然、身内だけだから、身内が襲われそうになったら、集団的自衛権を発動する。

猫が、突撃した後、深追いをせず、特に子供のところに駆け寄る様子もないまま引き替えし、駆けつけた母親は、後で映像を見るまで猫に助けられたことに気づかなかったというから、やはり、この「猫の恩返し」の大きな動機の一つには、テリトリー意識もあったのではなかろうか。

振り返って、鹿を助けたライオンも、鹿を助けようとしたと言うより、自分の猟場を守ろうとしたと考えれば、説明がつけやすい。しかも、その時は、満腹だった。(猛獣も満腹なら、めったやたらと襲わない)

昔から、「犬は人に付き、猫は家に付く」と言う。
猫も飼い主を助けるんだと勘違いして、護衛のつもりで連れ回っても、犬のように、どこでも守ってもらえると思ったら大間違いだ。
出先で、猫に子供の番をしてもらおうなど、努々あるまじき。

ところで、カルフォルニアの忠猫の名前は「タラ」だそうだ。
「風と共に去りぬ」の「タラの地」と同じ名前だろうか。だとすれば、守るべきテリトリーと言う点で共通性があり、木星カニ座らしい話題として面白い。「タラ」は、作者も物語もサソリ座の、理想の到達点としての九室、カニ座を表す名前ということになる。


大往生記

2013年06月13日 | 動物

12日も梅雨とは思えぬ暑さだった。
バイクで、例のゴンちゃんの前を通りがかったので、『また、出てきて吠えられるかな?』と、そーっと覗きながら走った。

すると、玄関が開いて、何やら数人の人が出て立っている。
その瞬間、『もしや』と、思って下を見ると、ゴンちゃんが向こう向きに横になっていた。ゴンちゃんの前に立っている男の人は、様子からして家の人ではない。

2~30分して、帰りにもう一度覗くと、水を流して掃除がしてあった。
ゴンちゃんの姿は無い。

本名は「ジョン」、それ以外のことは何も知らない。
玄関先の犬小屋に暮らし、時々、大きなウンコを転がしていた。
学校帰りの小学生には、大人しく嬉しそうに柵から鼻を突き出していたが、バイクの音を聞くと吠え立てた。

バイクでにらまれてしまったが、「ジョン」と呼ぶと面食らっていた。
『怪しい奴なのに、俺の名前を知っている
歩きながら近寄っていくと、吠えてやろうと出て来た。
「ジョン」と呼ぶと、『ギョッ』とした顔で、しばらく見ていたが、とうとう座り込んでしまった。

それから後も、通りながら「ジョン」と呼ぶと、横を向いてしまう。
終いには、遠くでこちらを発見すると、その瞬間、慌てて横を向くようになった。その度に、可笑しくてしょうがない。
気に入られてはいないが、確実に記憶している。
頭の良さに、感心していた。

近頃、家の中で飼われる犬は、10年以上生きるようになった。
昔ながらの番犬として、表の犬小屋で飼われていたジョンが、何歳だったのかは知らない。

同じ日、京都の高齢記録ギネス保持者の木村次郎右衛門さんが116歳で亡くなった。116年の人生の記録は伝えられるが、木村さんの喜びや悲しみは知るよしもない。


パタパタ

2011年09月26日 | 動物

寝る前にシャワーをして、裸のまま着替えを取りに行こうとすると、
パタ、パタ、パタ・・・という音に、取り囲まれた。

「えっ」と見ると、大きな蛾が一匹、飛び回っている。
「うわーっ!」毒蛾だったらマズイゾと、思った瞬間、全身鳥肌、
身の毛がよだった。(元来、蛾が大嫌い)

しかし、それにしても大きい
アワてて避難しながら、見ると、「コウモリだ
一瞬、頭がパニックになった。『何で、コウモリが?』

ついに、ドラキュラが来た、 とは思わなかったが、
「どこから来たんだろう?」「どうしよう?」
なにしろまだ、スッポンポンだ・・・

とりあえず、急いで服を着たことにして、覗くと、まだ飛び回っている。
コウモリなら、蛾より賢いし、毒の心配もない。
飛び回っている下を通り過ぎて、隣の部屋の窓を全開し、引き返した。
しばらくして覗くと、暗い隣の部屋で、パタパタと聞こえる。
急いでドアを閉めて閉じ込めた。もう、窓から出るだろう。

30分ほどすると、音がしなくなったので、恐る恐る覗いてみると、出て行ったらしい。静かなものだ。

しかし、それにしても、いったい、どこから来たんだろう???
家中、網戸だから、入る余地はない。仮にどこかが破れていても、そこからコウモリが、わざわざ入り込むとも思えない。

色々考えているうちに、夕方、薄暗くなってから、ほんの2~3分だが、外灯を付けず玄関を開けていたことを思い出した。
あの時、飛び込んだとしか思えない。

まあ、それにしても、ツバメもヘビも来る玄関だが、コウモリまで来るとは思わなかった。

ドラキュラ様は嫌だが、そのうち、いい女が「おじさん」などと言って現れるかも知れない。その時は、必ず尻尾を確認することにしよう。


忘れた頃

2011年08月04日 | 動物

一昨年の暮れ、ネズミに悩まされている人の話を聞いて、DIYショップに売っているからと、ネズミ捕りを勧めた。
(「チュー獲りアル」)

先日、電話がかかってきて「ネズミが入ってます、どうしましょう」と言われて驚いた。すっかり忘れていた。それに、季節も夏だ。
聞くと、仕掛けた人も忘れていたそうで、
夜中に、ガサゴソ音がするので覗いたら入っていたのだそうだ。

本来、市役所などに電話をすれば処分してくれるのだが、珍しいので見せてもらいに行った。

もう玄関の外に出してあり、ドーム型のネズミ捕りのカゴの中でウロウロしていて、近づくと走り回る。餌の芋の天ぷらが半分くらい食べられている。
捕まった後、わりと長い間、気づかなかったそうだが、芋を食べていたので元気なのだろう。それにしても2年近く前の天ぷらだが、ちゃんと芋の姿をしている。

上から覗くと、カゴの中からジッとこちらを見て、目を離さない。
黒々としたまん丸な目が二つ、当たり前だが白目はない。
お腹をすかせてるかもと思い、ウインナーソーセージをもらって、上にある、穴から差し込んだ。
その瞬間、ウインナーに噛みついた。攻撃されたと思ったらしい。

窮鼠猫を噛むと言うが、激しく飛びかかったので、さすがにビックリした。

見れば可愛い顔をしているし、殺すのは可哀相だという話になった。市役所に頼めば簡単に処分される。子供の頃の光景も目に浮かぶ。(「」)

「じゃあ、どっか山奥に捨ててきます」と、預かった。
家ネズミだから、山で生き残れるかどうかわからない。タカやフクロウもいれば、ヘビも狐もいる。それでも生き残れば、それが運だろうし、何かの餌になればそれはそれで無駄がない。
外来のワニやアライグマでもないから、日本の生態系を破壊することにもならない。

人里から離れた道路脇に車を駐めて、ネズミカゴを取り出すと、ウインナーには手も付けず、ジッとこちらを睨んでいる。
出口を山側に向けて、フタを開けると、ボールのように、ポーンと飛び出し、ピョン、ピョン、ピョーンと、茂みに向かって一目散で飛び込んでいった。

今ごろ、どうしているのやら ?


自然の子

2011年07月02日 | 動物

今年のツバメは、寒い春のせいか、来るのが遅かった。
ようやくやって来たものの、メスの勧誘に手間取ったらしく、巣に泊まるようになったのは、5月23日からだった。

2、3日すると、卵が一つ落ちて割れていたが、卵は抱き続けている。
何があったんだろう?

それから、雛が生まれるまで、異常に長く、例年より一週間ぐらい長く抱いている。
一個落ちた経緯から、もしかしたら、オス同士の争いで、ちゃんと交尾できず、無精卵を抱いているんじゃなかろうか。と、心配になって、気を揉んだが、どうにか生まれたらしく餌を運び始めた。

すると、また2、3日して、卵が一個落ちていた。今度は割れてない。
指が触れた途端、割れて、中はカチカチに乾燥して凝縮していた。
結局、雛は2羽だけだ。

2羽しかいないから、親が餌を運んでくるのもノンビリで、雛も、争うでもなく、5羽の時のような騒がしさもない。

それでも、栄養充分だったのか、生まれてからの成長は早かった。
6月30日に飛んだが、夜はまだ帰ってきて、日が暮れるまで親が餌を運んでいる。

初めて飛び立った日に、空き巣を除いたら、やっぱり、卵が1固残っていた。ちゃんと5固は産んでいたが、成長したのは2羽。
それでも、ヘビやカラスにやられた時から考えれば、まだ上出来で、出生率2.0と言うことになるが、難しい自然界を考えれば、日本の少子化より問題だ。

いつもいつも大変な目に遭いながら、毎年やって来るツバメに、ここは危険だぞと言ってやりたいが、ドリトル先生にはなれない。
巣が造れないようにしておこうかとも思うが、近頃は、手頃な環境が減っているとも聞く。

近くの大型店舗には、毎年、多くの巣が並んで、騒がしく子育てをしていたが、出入り口の真上だから、文句を言った客がいたのか、今年は、巣作りできないようにアミが被せてあった。
それでも、ここと決め込んだツバメが、アミの上に巣をかけ始めて、できあがったら、重みでゴロリとアミごと前にひっくり返り、ぶら下がってしまった。

「業」
それぞれ、様々な困難に遭いながら、全体には激減するわけでもない。個々の不幸では絶滅しないが、気候変動による環境変化の方が、繁殖適地の喪失や移動につながる。

人間も、病気や災害など、様々な困難に見舞われながら生きているが、そう簡単には絶滅しない。
人間にとって、最も危険なことは、目の前で起こる悲劇や辛い体験より、そうしたもの全てを巻き込みながら進んでいく、営みそのものの毒性だ。

セイタカアワダチソウは、ススキの繁殖地に毒をまき、ススキを滅ぼしながら繁殖し、ススキが絶滅すると、今度はその毒で自分達が亡ぶ。
人間は、考える葦だそうだから、このままでは亡ぶ、と気づく人はいるが、人類が方向転換出来るとは限らない。

温暖化問題をインチキだと言う人も、原発をやむを得ない選択だという人も、神の忠実なしもべだ。
自然の摂理である「滅びへの必然」に忠実に従い、抗おうとはしない。
人間が滅びるとすれば、それは神の選択なのだろう。


昔日の犬

2010年07月30日 | 動物

No.982

近所の忠犬、ゴンちゃんの本名が判明した。(実は2
先日、ゴンちゃんの柵の前を通りかかると、学校帰りの小学生の女の子が3人、ゴンちゃんの鼻を撫でている。ゴンちゃんは黙って柵から鼻を突き出して、シッポも振らずにじっとしている。

近づいて、女の子に
「名前知ってる?」と尋ねると、一瞬ぎょっとした顔になったが、
「うん、ジョン・・・」
「そうかあ、ジョン君か」と言うと、
「うん、男の子・・・」と、少しはにかむように答えながら、撫でている。

雰囲気を壊さないように、その場はそのまま立ち去ったが、後日、独りで通りかかった時、例のごとく、『怪しいヤツ!』と改まって起きてきたので、
「ジョン」と呼びかけると、オットットと立ち止まって、
『えーっと、何だっけ?』と、困ったような顔をして、こっちを見たり見なかったりしているから、もう一度「ジョン」と呼んだら座ってしまった。

今度はジャーキーでもお土産に持って行きたいところだが、よその犬なので、我慢している。

昔は
犬はたいてい放し飼いだったから、犬を必ず散歩させる必要もなく、当然、道ばたは犬の糞だらけだった。
飼い犬と野良犬の区別は「首輪」だけで、「首輪のない犬」と言えば、野良犬のことだった。(ハチ公の時代

ただ、その頃でも、闘犬は繋いでおくのが常識だったが、中には非常識な人もいたし、闘犬とまで行かなくても、かなりの大型犬も街をうろついていた。追っかけられたり噛まれたりした子も少なくなかったから、オバQの犬嫌いが自然に理解された。(今の子には理解できないかも知れない)

それでも、大抵は犬と人の「間」はとれていて、放し飼いにしている家では、よく、顔なじみの犬が、『遊びに行こう』と、玄関先に来て出かけていくこともあったし、数匹で誘いに来ることもあった。

犬が勝手に出かけていって、帰ってきて餌を食べないと、
「どっかで、何んか食べさせてもらったんだろう」と、気にもしなかった。

しかし、だんだん、世の中に秩序が生まれ、狂犬病が流行ったり、糞害が問題になったりするようになって、法律が定められ、無責任な飼い方ができなくなると、犬の飼い方は一変し、独立した犬はいなくなった。
20年ほど前に、近所の商店街を挨拶回りして歩く老犬がTVで紹介されていたが、あの時すでに、珍しい光景になっていた。あの商店街も、今ではシャッター街になったかも知れない。

近年は、日本でも、ペットと人間の区別ができない人が増えてきた。
犬を家族と思い、犬や猫に財産相続をさせたり、犬猫の葬式に大金を掛けたりする。
人とペットの優先順位が解らない人は、ペットを人間扱いしているのではなく、自分がペット並みになっていることに気づかない。

日本犬」、「犬の散歩


犬の散歩

2010年04月28日 | 動物

昨日、歩いていたら、何となく周りが騒々しくなったので、ふと見ると、道の向こうの電柱に、こっちを見ながらオシッコを引っかけている犬がいる。

某携帯会社の「おとうさん」犬そっくりの体型と顔立ちで、色を塗り替えただけの柴犬だ。

「こら、ヒロ!」と、後ろから大声がしたので、見ると、中学生ぐらいの男の子達が、4、5人、息を切らせて焦っている。
逃げた「ヒロ」を追っかけてきたらしい。

「ヒロ」は、『へ?』という顔をして、チラリとこちらを見たが、
『えーっと、何処行こうかなー?』と、軽い足取りで横町に入って行った。
焦った、男の子が向こうに渡ろうと、道に飛び出すと
パ、パ、パ、パアー、キー・・・とタクシーが急ブレーキ
あぶない、あぶない

やむなく引き返した男の子達を尻目に、
ゆうゆうと「我が道を行く」探訪を楽しみながら、
スタスタと、「おとうさん」の後ろ姿で、行ってしまった。

犬の散歩は、そう甘くない。
突然、『行かない!』とガンバリ出す犬を、強引に引っ張ったら、犬の種類によっては、首輪ごと抜けてしまうこともある。
家の人が玄関で見ている目の前で、ウンコを始めることがある。
行き交う人に見境なく吠える犬もいる。

だいたい、どんな犬と出会うかも不安要因だ。
子供の頃、飼っていた雑種の日本犬は、メスだったが賢明で勇敢だった。
当時は、動物愛護法もなく、リードを付けるのも、強制ではなかったから、散歩と言っても、ただ従えて歩く人も多かったし、糞の持ち帰りなどする人もいなかった。

散歩をしていると、放し飼いでシェパードを二頭連れた人がやって来た。遠くからこちらの犬を見るなり、二頭が猛烈な勢いで吠えながら走ってくる。どうして良いか解らず、自分が襲われてもいけないので手を離した。

すると、うちの犬は何を思ったか、逆に、二頭に向かってダッシュして行き、一頭に噛みついたのだ。
ひるんだ一頭を捨てておいて、今度は、振り向きざま、もう一頭に噛みつこうとする。慌てて逃げ始めたやつを、もう一度牽制して、今度は初めに噛みついた方にもう一度襲いかかった。
しばらく、行ったり来たりして、二頭を牽制していると、二頭ともシッポを巻いて、走って飼い主の方に逃げて行った。

飼い主は、おばさんだったが、驚いたことに、
「何をする」と、エラい剣幕で、こっちが叱られたのだ。


化けて出る

2010年03月07日 | 動物

棚田で有名な滋賀県の村落を抜ける、県道を走っていた。
交差点で出会ったミニバンに道を譲り、上り坂を後に付いて行った。
すると、村の中程で、ミニバンの前に小さな動物がウロウロするので、ミニバンが止まった。上り坂の斜め上だから、後ろからも見える。
ネコかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。イタチにしては大きすぎる。遠目には、小型のアリクイのようにも見える。

車の前を、左に行きかけたと思うと、引き返して右に、また左に。
しばらくして、ようやく道の端に行ったので、ミニバンも動き始めた。
また引き返してくるかも知れないので、こちらもノロノロと進む。後ろにも車の列ができていたので、止まるわけにはいかないが、その、見たこともない動物は何だろう?と、脇見しながら進んだ。

近くまで行くと、背中に手袋二つほどの毛の山を載せている。
通り掛かりだから、確かではないが、『タヌキだ!』
確か、タヌキの皮膚病がどうのと言う記事を、目にしたことがある。

全身がサイの皮膚のようになって、背中の部分だけ孤島のように生えている毛に、わずかなタヌキの名残がある。
かわいそうだが、どうにもならない。

帰ってネットを検索すると、やっぱり近頃、タヌキの皮膚病が大流行して、罹ったら結局、死ぬと書いてあった。
ダニによる疥癬で、皮膚の下をダニに蝕まれ、痒くて痒くて寝ることもできず、衰弱して死ぬのだそうだ。

疥癬は、昔は人にも多くあった。近頃は少ないが、ケジラミや、結核の流行など、撲滅したと思う頃に現れる。
「極まれば転ずる」のは、大きく増えることだけではない。少ない絶滅状態からの復活と言うこともある。

世の中、思いがけないものの蘇りは、どんなものにも始まることだ。
60年、84年と経てば、何とか主義とか軍拡競争とか・・・
タヌキ事ではない


日本犬

2010年01月18日 | 動物

犬は雑種か、日本犬がいい。
一度だけスピッツを飼ったことがあるが、とにかく鳴きまくる。庭から通りがかりの人に、のべつ幕無く吠えていたら、誰かに毒を盛られたらしく、雪の朝、庭を真っ赤に血に染めて死んでいた。

歴代の犬たちの中で、どうにも躾けられなかった犬で、キジも鳴かずば・・・と言うものの、かわいそうだった。

他の犬たちはほとんど雑種だったが、信じてもらえないような感動秘話を生んだ雑種もいれば、あちこちから、どうしても子供を欲しいと言われた柴系雑種の「偉犬」もいた。

洋犬派の人には申し訳ないが、犬を飼うなら、日本犬だと思う。
日本犬も作られた犬には違いないが、牧畜文化の中で作られた家畜と違い、人工といえども、盆栽のような日本の自然が生きている。

洋犬は人といるのが似合うが、日本犬は里山が似合う。
洋犬は愛玩にも、狩猟マシンにもなるが、日本犬は自立し、人と付き合う賢さと凛々しさがある。ことに柴犬は里山から出てきた狐や狸のような、微笑ましさや逞しさが、そして、少しの哀愁がある。

飼い犬というものは、飼う人の好みで改良されたり、選択的に生き残っていくものだから、犬と民族性は似てくる。

洋犬には自然さが無い。たくましい犬はたくましく、かわいい犬は異常にかわいい。中国犬もそうだが、多少、基準がずれている?!
洋犬好きの人は、愛玩にせよ番犬にせよ、犬を、基本的に人の意のままになるハズのもの、と考えてはいないだろうか。

日本犬に対する日本人の態度は、犬を自然物の一つと考えて、自立する生き物との「つき合い」と考えてきたような気がする。
同様に、雑種犬は人間の意志とは関係ない命を持っている。つまり、これも一つの自然物だ。
DNAの理屈で考えても、偏った血統種より雑種の方が強い命を持っているはずだ。

日本では、オオカミと犬が区別がつかなかったようで、日本オオカミが絶滅した後、野犬の群れがそれに代わったし、オオカミの剥製と言われていたものが、どうも日本犬ではないかと言われている。

日本人の犬に対する意識は、「コミュニティーの独立した一員」なのではなかろうか。桃太郎の家来にしてくれと、犬は猿やキジと同じように現れた。

木訥として、愛想はないが忠実な日本犬は、日本人の姿であり、
無愛想で自立した命は、適度に手を入れながら観察するには、盆栽のように面白い。

約束の(2)時代考証


西陣のタヌキ

2009年12月24日 | 動物

先日の夜、高速の入口でタヌキがはねられて死んでいた。
合流点に上がっていく途中、ライトに照らされた姿が近づくにつれ、タヌキだと解った。
はねられたばかりなのか、きれいな毛皮のまま、道の端にこちらを向いたまま死んでいる。
戦前は、タヌキやキツネの襟巻きと言えば、成金の象徴だった。
落語でも、襟巻きのタヌキの顔に挨拶する小話がある。

タヌキは犬科で、お寺に住み着いたりする話が良くあるが、お寺が山中に建てられることが多かったからだろう。
江戸以降、近代になるに従い、人間の住空間が広がって、もともと犬科で雑食のタヌキが人間の中で暮らすようになったらしい。

>以前、西陣の機織り職人から聞いた話<
忙しい時期、夜まで仕事をすることが続いた。
ある日、隣の人から
「ゆうべは、えらい遅うまで気ばってたなあ」と言われて、
「ああ、積んでるさかいなあ」と答えたものの、
翌日もまた同じ事を言われたので、
「ゆうべはくたびれて早う寝たよ?」
と言いながら「何時頃や」と訊くと、3時頃だと言う。
「そんなもん、とーうに寝てたわ」と言うが、隣人は、音がしていたと譲らない。
不思議に思って、その夜、3時頃まで起きていると、表で
機を織る音がし始めた。
「シュー、トン」
「シュー、トン」
杼(ひ)をシューと、飛ばして、筬(おさ)をトンと打つ音だ。

そおっと表を覗いてみると、
壁にぶら下げたタライの前で、タヌキが後ろ向きになって
シッポをタライに滑らせて叩いている
「シュー、トン」
「シュー、トン」

「タヌキが、上手に音をマネしよるんですわ」

この話は、職人の作業中の思いつきか、本当の話かわからない。
ただ、タヌキが犬科であることを考えれば、それぐらいのことは簡単にやりそうな気もするし、西陣界隈にタヌキが生息していることも事実だ。


実は(2)

2009年10月18日 | 動物

何時も通る横町の家に、大型の雑種の日本犬がつながれている。
箱のように大きな四角い口で、怖い顔なのに泣いたような目をしていて、ハンサムとは言い難いが、愛嬌がある。人間で言えば、楽天のマー君、田中将大選手のような顔をしている。

知らない家だし、近くに寄ると、「何者!」と、緊張した顔で出てきて吠え始めるから、通り過ぎながら見ているだけだが、面相から勝手に「ゴンちゃん」と名前を付けて楽しみにして見ている。

先日、隣の家の庭で、塗装工事に来ている人が吹きつけのスプレーガンの調整をしているので、2mぐらい離れた柵から、ゴンちゃんが顔を突き出して覗いていた。塗装屋さんは、後ろから覗かれていることに気づいてない。

プ、シュ、シュ、シュ、シュ・・・と断続的に甲高い音が出ると、
「見たいけど怖い」ゴンちゃんが、
「わっ、わっ、わっ、わっ・・・」と、しかめっ面をケイレンさせて音に合わせて、小刻みに首を振っているので、笑ってしまった。
カメラがあったらYouTubeで人気しただろうに、残念だ。

ゴンちゃんのご主人は昔流の人らしく、外の犬小屋にゴンちゃんをつないでいる。あまり散歩にも連れて行ってもらえないらしい。
時々、大きなウンコを小屋の横にしている。
昔、犬は放し飼いだったから、散歩は必要なかった。そういう時代の飼い方だ。

それでもゴンちゃんは、自分が家を守る。俺がやらなきゃ誰がやる!
と強い責任感を持っている。常に外を見張って、挙動不審な者が通ると強力に吠える。ちゃんと見極めてのことだ。
初めての、ゴンちゃんとの出会いが悪かったので、必ず吠えられる。
バイクで通りがかって、止まって呼んだのが良くなかった。
エンジン音で怒ってしまった。以後、鼻を付けられた。

いつもは寝ているゴンちゃんだが、ご主人が帰る頃には、ちゃんと座って待っている。誰もいない時でも、ゴンちゃんが正座しているので、『ああ、ご主人が家に向かっているのだな』とわかる。
雪の降る、冬の寒い夜中でも、ゴンちゃんは小屋から出て正座している。
どれほど大切にされているようでもないのに、涙ぐましい。
犬はやはり、犬らしく飼わなければいけない。

ところで、
例の、大仕事をしてくれた居候のコーギーだが、預かってくる時、初めて聞いた名前が「ゴンタ」だった。

けったくそ悪いから、時々は「Mr.ゴーン」とか、「権現様」とか呼ぶが、「ゴン助」と呼んでいる。ゴンちゃんに申し訳ないからだ。


約束の(3)動物愛護

2009年08月22日 | 動物

日本の動物愛護法は、1973年の木星→水瓶座の丑年に定められ、翌年施行された。

生き物をかわいがると言うより、生き物の管理方法のような法律で、動物取扱業者の規定が大きく扱われている。
畜産の伝統がある欧米の基準が軸になっているようで、それはそれで良いことなのだが、何かが根本的に間違っているような気がする。

畜産をベースにする文化は、宗教にも色濃く反映され、動物を苦しめて殺してはいけない。など、命を自由にできる者のモラルが定められている。

それは全くその通りで、東洋のように、中国の、生きたサルから脳みそをストローでチューチュー吸ったり、日本の、躍り食いや活け作り、韓国の、犬を苦しめて殺せば美味くなる・・・など、とんでもない感覚からは、はるかに高度な哲学に進化している。

東洋のこうした「野蛮」は、人間が、動物と対等に命のやりとりをする狩猟の段階から直接、農耕に移ったために、畜産文化が生まれなかったからだろう。
動物を殺して食べることは、管理の一貫ではなく、命の征服ごっことして捉えられているのではなかろうか。

狩猟だけに生きる人達は、自然を敬い、クマ祭りのように、獲物の動物に対して畏敬の念を持っているが、農耕や畜産の文明は、いずれにしても命への畏れを失った。

畜産文化の「動物を苦しめて殺してはいけない」とは、狩猟民の動物への感謝からの変形で、動物の命を奪って生きるうえで、やむにやまれぬ真面目なものだが、同時に、自己弁護でもあるのだろう。

産業革命パラダイムの大量生産時代の中で、農業も畜産も大量生産化され、人間もペットも規格品化された。
人間は学校や工場で、動物は品種改良で、工業製品と同じように生産された。

その過程で生まれた動物愛護法には、自然がない。
大量生産システムの合理性ばかりが考えられている。

ペットの生産売買もビジネスになり、飼う人も規格品を買うようにペットを買う。だから、ペットにもブランドや流行があり、飽きれば捨てる。
ペットの命を軽んずることは、実は、同じシステムで生かされている人間自身の命の軽視が背景にある。
産業革命パラダイムは、人口を増やし、同時に大戦争や公害で多くの命を奪っている。

悪魔に魂を売った250年が終わろうとしている。人類が魂を取り返せるかは、個々の自覚にかかっている。

ペットは売買されるべきではない。人から人へ、心から心へ渡されるべきだ。
動物愛護法に動物売買業者のルールが有ること自体が既におかしいのだ。
ペットが金になるから、様々な悲劇が生まれている。


約束の(2)時代考証 

2009年08月16日 | 動物

40歳以下の人には、イメージできないだろうと思う情景の一つが、野良犬が町中を勝手に歩いている風景だ。

古来より、日本には犬が勝手に暮らしていた。
絵巻や浮世絵の中にも、ちゃんと描き残されている。

今、それと同じようなものを想像するとすれば、カラスだ。
人間の中で暮らし、つかず離れずの集団生活をしている。
人間は困ったやつだと思いながらも、直接の害がない限り放っておく。

古典落語の中でも、魚屋の店先で魚を盗んでいくのは犬だったりするから、飼い犬と野良犬との境界は、あまりはっきりしていなかったようだ。
カラスは飼う人もいないが、人なっこい犬には餌をやったり、家で飼ったりしたのだろう。(カラスも餌をやると次から必ず飛んでくる)

縄文人の伝統からすれば、犬は狩りや生活を供にする家族だが、弥生人にとっては家畜だったようだ。(弥生遺跡からは食べた犬の骨が出る)

花咲じいさんは縄文系で、桃太郎は弥生系だ。ついでに言えば、花咲じいさんの隣の意地悪じいさんは弥生系だ。役に立たなければ殺してしまう。(本当は食べてしまったに違いない)

日本の町や村では、昔から、犬とそんな関わりかたをしてきた。
かわいがる人もいれば、野良犬を捕まえて食べてしまう人もいる。
だから、生類憐れみの令は悪者になった。

戦後も昭和30年頃までは、保健所とは別に、犬殺しとか犬捕りという商売があって、それで生計を立てている人がいた。
4~5才の頃、そういう人が、野良犬を捕まえて、河原で殺して皮を剥いでいったのを、子供達が皆見に行ったが、軟弱者だったので、何が起こるか解ったところで引き返した。
見てきた連中が、得意そうに事の子細を話していたが、多分、その連中は、いまでも、躍り食いや、活け作りを喜ぶのだろう。

人権も希薄だった頃は、犬の立場など、カラス以下だった。
カラスには羽根があるが、ネコは三味線の為に捕まったし、犬は毛皮や肉の為に捕まった。逆に、子供が犬の集団に襲われることもあったし、江戸時代には行き倒れが犬に襲われた。

忠犬ハチ公は、そんなワイルド・タウンの時代、犬が厳しくも自由に生きていた時代の話だ。舗装されない土の道の至る所に犬の糞が転がり、ハエが群がっていた。

今の時代、ハチ公が駅に通ったら、3日目には保健所に連れて行かれてしまうだろう。


約束の(1)

2009年08月14日 | 動物

「ハチ公物語」のアメリカ、リメイク番「HACHI」に「約束の犬」のフレーズが付いている。
ヒットしているようで、いろんな番組にも「約束の・・」とタイトルを付けるのが流行っているようだ。

考えてみれば、マニフェスト選挙も「約束選挙」だ。HACHIに「約束」を付けたことと、関係があったかどうか分からないが、今はとにかく、そういう時代なのだろう。

約束とは何だろう。
互いに信用しあって決めること・・・互いに信じ合うこと
互いを認め合うのは水瓶座で、信じるのは魚座だ。
聖書の中の「約束の地」は、神との約束だから運命だ。運命なら山羊座と言うことになる。いずれにしても今の時代の象徴だ。

子供に、「約束したのにィ」と言われると、大人はかなりつらい。
純粋な信頼を裏切ることが、汚れた大人の、純真に訴えるからだ。

それでも、子供は犬と違って、必ずしもそんなに無垢でもない。
相当、小さな子供でも「約束」を持ち出すぐらいなら、それが駆け引きに使えることをどこかで知っている。

人間の言葉の中に、そうした様々の意味、文化が閉じこめられているからだ。
言葉のお蔭で、人間は複雑で幅の広いつながりや、高度な文明を持つようになった。
しかし、時々、それに疲れてしまう。

そんな時に、物言わぬ動物が、癒しとなるのだろう。
言葉のないコミュニケーションの中にある、ウソの無い信頼関係。
その理想の姿が「ハチ公物語」なのだろう。

天王星がちょうど一回りした今。昭和の初めの話がまた脚光を浴びる。
「約束の犬」はこの時代の約束のフレーズだったのだ。