魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

いよいよ

2009年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

新政権が生まれる。国民の怒りが爆発した。
敗北した与党は「政権選択の波にやられた」と言っている。
この程度の認識だから負けたということが、この期に及んでも解ってない。恐るべき腐敗だ。逆風は自分たちが生み出したのだ。

当然、民主党が支持されたわけでもない。究極の選択だ。
だとしても、政権を取った以上、民主党にがんばってもらわなければならない。

古今東西、あらゆる新政権には、苦難が待っている。
新政権が生まれるということは、それだけ状況が悪いからだ。
野球でもそうだが、立ち上がりというものは何でも難しい
先ず、大掃除から始めなければならない。

今まさに
苦難の土星が、日本の表に立ってドアを叩いている状態だ。
この先、何一つ希望的な予想ができない。
パンドラの箱に一つだけ残っている希望は、天王星が牡羊座に入ることで、進取の気風が出てくることだが、悪いことに、他の惑星と凶配置ばかりだ。

国内状況だけでも混乱しているのに、ここに天災や、海外情勢の悪化などが押し寄せればひとたまりもない。
(国民も応援したいなら、すぐに結果を求めない方がいい)

しかし、「雨降って地固まる」
大局的に見れば、つまり50年先、100年先を考えれば、一度、コテンパンにやられるのは良いことなのかも知れない。
今の財政状態は、すでに、60余年前の終戦時の状態なのだそうだ。

何かの予兆なのか、民主党圧勝のさなか、地震が起こり、台風がやってきた。


古すぎ

2009年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の選挙。期日前投票は1400万人ぐらいになるそうだ。
とすれば、有権者の13%ぐらいの人が期日前で投票することになる。
投票率で考えれば、実際に投票をする人の、何割になるのだろう。恐ろしい数だ。
単に、関心の高さの問題ではないことに気づかないのだろうか。

しかも、期日前投票が圧倒的に増えたのは、主に地方だ。

若者の投票率が云々と言う前に、やらなきゃいけないことがある。

結論から言えば、
投票はしたくても、町内の人がいるような投票所に行きたくない。
電話もネットも携帯もATMも無いような時代ならやむをえない。
これだけ、環境が整った時代に、相変わらず昔の制度のまま選挙をやっていることに、違和感があるのではなかろうか。

年寄りは慣れているかも知れないが、それでも何か、書いた中身まで見られているような違和感がある。
まして若者の多くは、大人に身辺チェックをされているような不快感があってもおかしくない。

命の次に大切なお金を、指先一つでやり取りする時代に、わざわざ出かけて行って、ご近所監視の中で・・・
年寄りでも嫌になる。
もちろん、期日前投票する人がそんな本音を言うわけはない。

今頃ようやくネット選挙論議をしているが、投票そのものを通信機器でできるようにすれば、「爆発的に」投票率は上がる。天気一つでも投票率は変わるのだ。

もちろんそうなれば、議会システムや、任期についても大改革が必要になるが。


血液型 閑話(3)

2009年08月29日 | 占いばなし

どこで、A型B型と、O型がかみ合わなくなるのだろう

自分の「好み」の世界を広げて、その思い入れの世界を楽しもうとするA型B型は、そのこだわりについて、細かな違いを説明したりする。

しかし、O型は、A型B型の知識や技術のこだわり披露を見ていて、物量パワーの話として聞いてしまう。
ある時にはその知識量、力量に感動したり、時には、知識自慢をしていると思ったりする。

勝ち負けや、支配関係で考えるO型は、
自分が到底及ばない物量や能力をみると、「恐れ入」ってしまう。
「こりゃあ、とってもかなわない、スゴイ」
そういう思いは、尊敬に変わり、自分もそんな達人になろうとモーレツな努力を始める。
O型の山本五十六が、O型社会のアメリカは最初にガツンとかませれば戦争意欲を失う。と見抜いたのは、おそらく正解だが、真珠湾はコツンだったので、逆効果になった。

O型は、大きな物量を見た時も感動する
販売方法の一つとして、店舗を巨大にする。商品を網羅する。入り口に商品をうずたかく積み上げる・・・なども、人のO型気質の刺激だ。
さらに、チェーン展開も大きさの証明となり、同じパターンの店舗はO型には分かりやすさ、A型にはお馴染みとして受け入れられる。B型は個々の店を見る。

物量はデータ量でも同じだ。例えば、ハイテク機器のびっしり並んだ細かい仕様書を見た時・・・・・・
A型なら、その表の細部の正確さのチェックと、データの数値の微妙な違いを正しく比較しようとするだろう。
B型なら、全体で一番大きな違いを探そうとし、どれぐらい違うのかを確認しようとするだろう。

O型は、どれが一番良いのか、得なのか、を探すためにそれぞれの機種のセールスポイントをまず探し、長所短所をそれぞれ記憶して、選択理由を説明できるようにする。

A型B型が、現実には役立たない事象の世界にこだわっているのに対し、O型は先ず現実に着目している。
本当は、O型にはカタログデータなど要らないのだが、人間社会にはA型B型的要素が、必要なツールであることは解っているから、ツール、アイテム量も多いほど良いと考え、大量に用意する。

A型B型が、自分の好み、こだわりだけしか注目しないのに、O型は取りあえず網羅する。
すると結果的に、A型B型にとっては中途半端なデータであるにもかかわらず、A型B型が集めなかったデータまで持ち合わせていることで、比較競争をされると勝てないことが出てくる。

当初は一見、同じ次元の話題のつもりで話していると、いつの間にか物量競争になっていて、自分には感心のないデータを並べられ、どう受け答えして良いのか分からなくなる。
これが、かみ合わなくなる分岐点だ。

O型にしても、これだけ網羅しているのに、何が不満で認めないのだ、ものわかりの悪いやつだ。そう見える。
また、問題の、現実的な答えを話しているのに、愚にもつかない枝葉のことばかり言って、ただ逆らっている。そう見える。

O型気質は人類の向上心の原動力
こだわりのないO型の、現実バイタリティーこそ、人類発展の原動力だが、A型B型の社会性や技術へのこだわりはその武器になった。
O型が鬼なら、A型B型は金棒だ。もちろん、O型気質はA型B型自身にもある。


血液型 閑話(2)

2009年08月28日 | 占いばなし

血液型による見方が、科学的市民権がないことを承知の上、
さらに占いでもないことを断りながら、血液型閑話をしてみたい。
当然、A型B型にO型要因が強くあることは前提だ。

A型B型
家族全員A型の中で、たった一人のB型のお父さんが、Tシャツを買った。
これがなかなか気に入ったので、お店に在庫があるうちにと、翌日、まとめて5枚買って来た。

家族全員の大ブーイングが起こって、困ってしまった。
「お父さん、止めて!」「人に同じシャツ着てると思われる」

お父さんとしては、だから5枚買って来た。毎日、とっ替えて清潔なシャツを着ていたいからだ。

この話を聞いて、笑ってしまった。
B型は一つ気に入ると、しばらくは、そればかりになる。
どこかのメンチカツが気に入ると、毎日そこに買いに行く。
B型の家庭では、毎日が、ナベでも誰も文句を言わない。

着るものにしても、着心地がよくて、見た目もイケてると思えば、毎日それを着ていたい。物理的に「良い」からだ。

ところが、A型は自分の思う感覚より、他人にどう思われるかで判断する。ファッションという、社会性に波長を合わせることが、イケてる「良い」ことなのだ。

A型にせよB型にせよ、自分なりの基準やこだわりを持っている。
A型は精神や社会性だが、B型は物質と感覚だ。
A型とB型の関係は、まったく違うので、互いに解りやすい。

O型
ところが、O型には自分の基準に対するこだわりはない。
鈍感なわけではない。識別能力は、偏見やこだわりのAやBよりむしろあると言える。

自己防衛本能による好き嫌いはあるが、価値観の基となる、こだわりや好みがない。
ここが、A型B型が、O型に調子がくるうところだ。

O型は現実的だから、A型B型と付き合う時、何でも物量に置き換える。
大きい、多い、強い、上位・・・を強調するO型に、
A型もB型も、あっけにとられてしまう。次元が違うからだ。

例えばグルメ・・・について、B型が、味そのものにこだわるのに対し、A型は、そのストーリーにこだわる。この両者の「こだわり」は、生い立ちからくるそれぞれの「好み」による。

しかし、「好み」がないO型は、それにまつわる「データ」を網羅し始める。
歴史、由来、調理法、食材・・・それぞれのデータを、得意の記憶力を活かして網羅し、そのバイタリティーで熱心に講義する。
そして、これが「最高」なのだと、店に案内したり、自分で調理したりして、さらには、指導しようとする。

A型B型の「好み」の話が、O型にかかるといつの間にか、上下や勝ち負けの支配権争いに変わってしまい、A型B型にとっては無意味な問題なので、結局、沈黙し、O型は「どうだい」と溜飲を下げる。


血液型 閑話(1)

2009年08月27日 | 占いばなし

血液型は心理学ではないが、占いでもない。
科学に閉め出されて、もっぱら占いの仲間にされている。

科学家の庶子として生まれた血液型気質分類は、科学家から関わり無用と縁を切られ、見捨てられたために、路頭に迷い、巷の悪い連中に利用され、見せ物にされ、ますます荒んでいる。
この哀れな血液型を、何とか助け出してやれないものだろうか。

「たった四つの血液型が、気質や性格に影響するわけがない」
もっともな話だが、では、ほかの様々な血液型分類による気質や性格などというものを、真面目に研究した人はいるのだろうか。

人格は多様な条件が重なって生まれるが、
一つの分類で全てが説明できるというのだろうか。
占いですら、一つの分類で性格など説明できない。
もし、様々な血液型分類が並立すれば、ABOの比重は低下する。

血液型は気質に影響しないという前提で、初めから、他の血液型分類も一切、研究しないとしたら、それは科学的態度だろうか。
心理学者の血液型否定論も幾度か聞いたが、どうにも否定する「タメ」の宗教論争的、上手な説教にしか聞こえなかった。

クレッチマーの「体格と性格」など、今では笑い話かも知れないが、一石を投じたことは間違いない。男と女の体質の違いを始め、病気と気質の関係もチラホラと言われ始めている。

肉体的要因が気質に及ぼす側面を考えれば、なぜ、血液型要因はタブーなのだろう。あらゆる血液型分類、体内で血液型が変わることによる変質なども含め、解明の道は本当にないものだろうか。
免疫との関係などを考えても、脳の働きだけで、気質が決定されるものだろうか。

また、何事においても、科学的方法以外には、意味のある分類や、分析というものはあり得ないものだろうか。
血液型のように、科学的分類で説明できないからと言って、錯覚のメカニズム論ですませれば良い問題だろうか。
全く違う他の分類概念というものは、無意味で可能性がないものだろうか。
科学には宗教の側面は全く無いのだろうか。
誰も疑わなかった常識が覆ったことはなかっただろうか。

血液型にかかわらず、短絡的に盲信して決めつけ、害毒を流すものはどの分野にもある。最先端の科学ですら、過去に多くの間違いを犯した。それは現在進行形のものにも少なくないように見受ける。

そうした盲信を打ち砕くのは、否定ではなく、むしろ、より詳しく知られることによってではなかっただろうか。


烏合の衆

2009年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

テレビの討論番組に、電話やメールしてくる意見は、ほとんどが、出演者の言っていること。言ったままの意見だ。
人の意見を聞いて、自分が影響されている自覚がない。だから、まったく同じ意見を、わざわざ、自分の意見として発信してくる。

もちろん、テレビ局側の誘導によるピックアップもあるだろうが、時々、会場には無い、個性的な意見もあるから、局の意図的な統制だけでもなさそうだ。

他人の意見に感化されるのは、おそらく、人類共通だろう。

ほ乳類は、仲間を見習って自己形成していく。中でも、群れで暮らす人類は、他人と同化しようとする。
話をしていても、相手の瞬きが移ったり、咳が移ったりする。

そのうえ、
学校教育を受けた人は、教壇の先生の再現が習い性になっている。テレビを観ていても、批判より、先ず学習する。

討論番組で、意見が分かれる場合は、場の趨勢が有利な「雰囲気的に正しい」方に、同化される。
または、自分の先入観と一致する意見を見つけて、意を強くする。

多数意見
ブログに書かれているような意見も、ほとんどが、マスコミやネットのトレース、復唱で、めったに斬新な意見にはお目にかかれないし、あっても、目立たなかったり、表現が面白くなかったりする。

同じような意見を、互いに復唱し合って増幅させていくと、結局、ネット上には「劣化」コンセンサスができあがる。

新聞の時代には、専門のジャーナリストが、ある程度、方向性を整えていたが、そこには、大間違いもあった。ネット社会には、確信的ミスリードはない代わりに、衆愚と言われるものが拡大した。

ネット社会の烏合の衆が、フラミンゴ千羽鶴のように、ドーッ、ドーッと西や東にうごめく中で、二大政党ならまだ良いが、オバマのようなカリスマ、アジテーターがミスリードを始めると、始末がつかなくなるだろう。

しかし、また、このネット衆愚では、偶像の引き倒しも一瞬にして起こる。リーダーを必要とする時代に、リーダーが不在になる。
そうなると、まさに烏合の時代で、たまたま居合わせた人間がリードする、渡り鳥のような仕組みで動くしかない。

前に押し出された者が誰でもリーダーシップを発揮できるようになるためには、日頃からの一人一人の自立の自覚が重要だ。
日本の総理大臣のように、回り持ち意識では、渡り鳥集団は直ちに全滅する


ブーム

2009年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃から、自転車が好きだ。
自分ではそれほどとは思っていなかったが、同窓会で会った中学時代の友達が「おまえ、自転車が好きだったよなあ」と、突然、言うから、よほど自転車ばかり乗っていたのだろう。自転車部など無かった。

そのせいか、高校二年の時、驚いたことに背筋力が、柔道部の大男に続いて学年で2番だった。肺活量も相当上位だった。
小学校時代は、健康要注意児童で、体操もほとんど休んでいたし、プールにも入れてもらえなかった。
中学でも、地学部という怪しげなクラブで、スポーツなど考えたこともない。
近すぎて自転車通学ができなかったから、放課後は真っ直ぐ帰って自転車で出かけた。だから、学校以外は、ほとんど自転車の上にいた。

当然のように、愛車と上京したが、第2京浜を走っていると、大型トラックの運転手が「こらーっ、危ぶねーじゃねーか」と怒鳴る。
『そうか、東京では自転車は走れないんだ』とわかって、それからは、近所しか乗らなくなった。
友達が乗って帰って盗まれてから、自転車には乗らなくなった。

それから、20年ぐらいして、久々に少し良い自転車を買った。
十代の時はドロップハンドルが流行っていたが、その時は、フラットバーが流行っていた。乗ってみると、ドロップより乗りやすく車体も10㎏で、取り回しも良く。気に入った。

ところが、時代はバブル絶頂期。軽のワンボックスに自転車を乗せて走っていると、周りは皆、気の毒そうな目で見るので、困った。
軽のワンボックスは、最高の車だと思う。
駐車スペース、燃費、運転の取り回し、積載量、車内の応用、全て最高の機能性だ。ただし、乗り心地と所有の満足は無視をする。

しかし、東名でエンストして、軽の限界を知り、今度はミニバンに乗り換えたが、これはムダに大きすぎた。結局、今では自転車を載せられる1500ccにしている。

近頃、自転車がブームなのだそうだ。
長年、見かけなかった、一般人のドロップハンドルを頻繁に見かけるようになった。みな、一様に、ヘルメットとウエストポーチで走り回っている。ウエアも決まっている。

先日、そういう格好をした、60代の夫婦とすれ違った。
信号待ちの間、我が愛車を、バカにしたように、しげしげとチェックして行った。
愛車は、シフトレバーをグリップに取り替え、タイヤも何度も取り替えて、年季の入った、「近頃見かけない」自転車で、ヘルメットもかぶらず、ジーンズにスニーカーで乗っていた。
自転車とは、長年そんな付き合いをしてきたから、何も違和感はないのだが、近頃の自転車ブームでは、そういうわけにいかないようだ。
先ずスタイルを決め。自転車もそれぞれ、ブランドや格式に従う。

ブームというものは嫌なものだ
ごく普通に接していたものが、ブームとなると、欲の亡者のゴールドラッシュのように、今まで見向きもしなかったような人達が押し寄せてくる。
ゴールドラッシュが原住民を追い払ったように、土地バブルが下町の生活を破壊したように、自然な姿を、先ず押しのける。
静かなコオロギの土地に、どこから湧いたか、大声の教祖や信者のバッタの大群が押し寄せてくるのだ。

30年以上前。世の中が、料理と言えばフランス料理とありがたがっていた頃。特に美味いとは思わなくて、素直なイタリア料理やワインが好きだった。
が、その後、突如湧いたバッタの大群が、イタリア料理に襲いかかった。近頃、イタリア料理は食べなくなった。

この逆に、40年ほど前、確か南青山で、「韓国料理」と大看板を掲げた店があったので、どんな料理だろうと一度入って、以後、二度と韓国料理と称するものを口にしたことがない。
それが、近年、何故にこんなに韓国料理が世間に広まっているのかサッパリ解らない。


処女宮

2009年08月24日 | スタンス

今年は23日から乙女座。占星術では正しくは黄道の処女宮(Virgo)0度のことで、実際の乙女座の星座の位置とはずれている。
二十四節気では「処暑」と呼ぶ。

処女宮は「しょじょきゅう」と読むが、処暑の「しょしょ」とは全く関係がないのに、似たような読みになっているから、偶然はおもしろい。
なお、処女宮を乙女座から「おとめきゅう」と読む場合もある。

むかし、
印刷屋さんに占い関連の印刷物を発注したさい、「天宮図」と書いていたら、印刷屋さんが鬼の首を取ったように、
「あの~、辞書に[天球]は有りますが[天宮]は無いんですが・・・」
と慇懃に言う。

確かに、印刷屋さんの国語辞典には無かったので、英和辞典を出してもらい「horoscope」を見ると「天宮図」があったので、「あ、これです」と、さりげなく見せた。
すると、極端に恐縮していたが、見ないふりをして、話題を変えた。

この印刷屋さんが、初めから、二十歳そこそこの若造が占いをすることを不愉快に思いバカにしていることが、言葉の端々で分かっていたので、内心、極めて不愉快だったが、あらためて、占いの立場を確認したできごとだった。

金を儲けたくて占いをする人がいる。他人を指導したくて占いをする人がいる。
占い師に対する悪感情の多くは、大方がそういうところにあるのだろうが、占い師に強く敵意を持つ人の多くが、自分自身にそういう衝動がある人なのではなかろうか。(アホ言うもんがアホ

確かに、そういう汚れた動機の占い師は多いし、純粋であっても、盲信して常識を逸脱している占い師もいる。
しかし、真面目に占いに取り組んでいる人達も決して少なくない。

占いそのものの存在がケシカランと言われば、これはもう宗教論で、言葉がないのだが。


約束の(4)殺すな

2009年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

人類が絶滅しなかったのは、肉食をしたからだそうだ。
食料が無くなった時、最後まで手に入れられるのは動物の肉だ。
肉食の下等動物は共食いを始める。ほ乳類は基本的に共食いをしないのに、むしろ人間にはそれがある。
※この件については、様々なケースと考察を書いているうちに、ウンザリしたので省略。

肉食によって生き延びた人類は、薬物中毒のように、肉食から縁を切れない。
日本人も欧米の畜産文明に取り込まれ、肉食による新しい病気と闘いながらも、ますます止められないでいる。
これは、悪魔のビジネスであるアヘンや覚醒剤と同様の、畜産マネーの罠にはまっているからだ。

畜産マネーは、動物の命で稼ぐことに何の疑問も持たない。
確かに今まで、肉のためには殺すしか方法がなかった。
その気になれば、バイオ技術で食用肉を作ることも可能になった今の時代でも、これで儲かっているから、商売替えをする気は毛頭ない。

ところが、畜産ができなくなれば、直ちにバイオ開発に殺到し、おそらく、アッサリ実現するだろう。
動物愛護のためではない。欲のためにすべてが動くマネー社会だ。
だから、捕鯨禁止運動など、いかにも白々しいのだ。

いま、BSEや鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなど、畜産のタタリではないかと思えるような現象が相次いでいる。

確かに、これは、タタリだ。
つまり、人類が悟る前に、一つの方式の限界が向こうからやって来たのだ。
もう、肉のための「畜産」を止める時が来ている。
肉に代わる食品を考えるのでなければ、食用肉の培養ビジネスの時代になる。

以前、バイオ技術やクローンについて、とんでもない誤解をしている人達がいた。
クローン技術は、臓器を移植するために人間を作って、そのクローン人間から直接取り出し移植する残虐な方法だから、止めさせなければならない。と、新聞に投書している人がいて仰天した。
そんなトンでも妄想をするのは、その人自身の隠れた残虐性からの発想だろう。

臓器培養は単独の方が簡単だろう。それができれば、食用の肉を作ることも可能なはずだ。意志有る動物を、殺すために育てる畜産は、止めようと思えば止められる時代になったはずだ。
また、そうせざるを得なくなる日は遠くないだろう。

」、「クジラ


約束の(3)動物愛護

2009年08月22日 | 動物

日本の動物愛護法は、1973年の木星→水瓶座の丑年に定められ、翌年施行された。

生き物をかわいがると言うより、生き物の管理方法のような法律で、動物取扱業者の規定が大きく扱われている。
畜産の伝統がある欧米の基準が軸になっているようで、それはそれで良いことなのだが、何かが根本的に間違っているような気がする。

畜産をベースにする文化は、宗教にも色濃く反映され、動物を苦しめて殺してはいけない。など、命を自由にできる者のモラルが定められている。

それは全くその通りで、東洋のように、中国の、生きたサルから脳みそをストローでチューチュー吸ったり、日本の、躍り食いや活け作り、韓国の、犬を苦しめて殺せば美味くなる・・・など、とんでもない感覚からは、はるかに高度な哲学に進化している。

東洋のこうした「野蛮」は、人間が、動物と対等に命のやりとりをする狩猟の段階から直接、農耕に移ったために、畜産文化が生まれなかったからだろう。
動物を殺して食べることは、管理の一貫ではなく、命の征服ごっことして捉えられているのではなかろうか。

狩猟だけに生きる人達は、自然を敬い、クマ祭りのように、獲物の動物に対して畏敬の念を持っているが、農耕や畜産の文明は、いずれにしても命への畏れを失った。

畜産文化の「動物を苦しめて殺してはいけない」とは、狩猟民の動物への感謝からの変形で、動物の命を奪って生きるうえで、やむにやまれぬ真面目なものだが、同時に、自己弁護でもあるのだろう。

産業革命パラダイムの大量生産時代の中で、農業も畜産も大量生産化され、人間もペットも規格品化された。
人間は学校や工場で、動物は品種改良で、工業製品と同じように生産された。

その過程で生まれた動物愛護法には、自然がない。
大量生産システムの合理性ばかりが考えられている。

ペットの生産売買もビジネスになり、飼う人も規格品を買うようにペットを買う。だから、ペットにもブランドや流行があり、飽きれば捨てる。
ペットの命を軽んずることは、実は、同じシステムで生かされている人間自身の命の軽視が背景にある。
産業革命パラダイムは、人口を増やし、同時に大戦争や公害で多くの命を奪っている。

悪魔に魂を売った250年が終わろうとしている。人類が魂を取り返せるかは、個々の自覚にかかっている。

ペットは売買されるべきではない。人から人へ、心から心へ渡されるべきだ。
動物愛護法に動物売買業者のルールが有ること自体が既におかしいのだ。
ペットが金になるから、様々な悲劇が生まれている。


モザイク列島

2009年08月21日 | 京都&ケンミン文化

「し」でも、地域による顔立ちのことを話したのだが、各地には鹿児島の西郷さんのように、その土地を象徴するような顔がある。
津軽の吉幾三のような顔は、栃木や奈良にもあって、ものすごく渡来人を感じる。ところが、津軽には逆三角の美形の小顔も多い。

日本列島が、いかに寄り集まり所帯か、日本人の顔を見るたびに、古代史への想像がひろがる。

現地レポートの海外特派員は、どの顔も、現地人と見違える。
現地の人と同じ生活をし、現地の人と向かい合って話していると、表情が似てくるのだろう。

顔を見分けるには、画家のように、先ず骨格から見る必要がある。
髪型を変えただけで、別人だと思ってしまうようでは、話にならない。
逆に、人格を見抜くには、顔立ちに先入観をもったら間違える。表情で見る必要がある。

近畿には、渡来系が集中している。
滋賀県では、フェンシングの太田君など、完璧な渡来系で、京都、奈良にも多く、古い仏像にもよく見かける顔だ。

ところが、その滋賀県(湖西)には
どこからやって来た人達なのか、北の日本海側にも、南の三重、奈良にも見かけないタイプの人たちがいて、長い間、不思議に思っていた。
基本的には小柄で、手足が短く、アゴの骨がしっかりしていて、いくぶん受け口、眉毛が濃くて目が大きく二重だ。

最近、NHK看板アナウンサーの一人、神田愛花を見て、「アレッ?」と驚いた。このタイプに酷似している。しかし、出身は横浜となっているので、なるほど、南方系の相模顔でもうなずける。
目が大きい二重は南方系だ。

これに似ているのは、やはり看板の鎌倉千秋で、アゴと目に共通性がある。出身がやはり静岡だが、お母さんが台湾だと言うことだ。
台湾であろうが、相模であろうが、南方系であっておかしくない。

神田愛花の場合、さらに、小柄が共通している。
もちろん、歴史の中で、滋賀には顔立ちが同じでも、大柄がいたり、逆に、渡来系の顔で、かなりの小柄もいる。

DNAでは、見た目や体格はあまり意味がない。見た目がどうであれ、様々なタイプが影響しあった形跡が、確実に残っているのだそうだ。
つまり、DNA次元で考えれば人種は存在しない。

にもかかわらず、日本列島の中で様々なタイプが見分けられると言うことは、日本列島に住む人間は、人類史的にはごく最近、ほんの2000年ほど前の、寄り集まり所帯のままでいるわけで、とても、一つの人種で考えるような段階ではない。まさにモザイクというわけだ。(もちろん、日本ならではの顔も既にある)

ところで、結局、
滋賀のこの特徴ある人達は、渡来人より昔からいた、南方系の縄文人なのだろうか。それとも、南方系の人たちが、比較的最近、移り住んだのだろうか。

気になる手がかりとして、大津市堅田に伊豆神社という水運を司っていた人達の神社があって、平安中期の創建とされている。
伊豆神社や伊豆山神社は、名前の通り伊豆半島周辺の海洋民族の神だ。
海運の専門家が近江に移り住んだのかも知れない。

それとも、神田愛花には滋賀県の系統が混じっているのだろうか。

顔2東西、「し」、「し」2古代アメリカ(1


乙女座から天秤座

2009年08月20日 | 星の流れに

高校野球もたけなわだ。
野球は乙女座のスポーツだ。天王星が乙女座にいた1961-1967年、プロ野球は絶頂期だった。

その天王星が真反対の魚座に来た42年前。1919-20年と言えば、MLBではベーブルースがヤンキースにトレードされた時で、MLBの絶頂期でもあり、転換期でもあった。
日本ではこの頃、プロ野球が生まれ、学生野球は盛んになり、甲子園が生まれた。

さらに42年前の、つまり、戦後のプロ野球絶頂期の84年前。同じく天王星が、乙女座にいた頃の、1878年頃は、日本に野球が伝わってわずか10年ほどだったが、正岡子規らが熱中したように、野球の日本語訳など、現在の日本野球の出発となった。

日米の野球は、どうも、42年で影響し合うようだ。
(もちろん、初めは一方的だが)

野球は、発祥から流行まで、学校が深く関わっている。そのせいか、ルールと管理秩序がうるさいスポーツで、いかにも乙女座的だ。
乙女座は、学校、病院、職場、役所、家庭・・・のように、
管理される空間だ。

だから日本野球の栄枯盛衰は、官僚のそれと同じ波になる。
今、官僚、特に厚労省がひどい状態にあることは、日本野球の停滞とオリンピックからの除外など、と同じ現象だ。

加えて土星が、乙女座にいたこの3年は、まさに冬だった。
冬来たりなば春遠からじ・・・どちらもまた再起をするだろう。

入れ替わって
乙女座から、天秤座が影響を受ける時になる。
土星が天秤座に移り、天王星は牡羊座に移る。

天秤座のスポーツと言えば、バランスのスポーツ相撲だろうか。
裸でする、レスリングという点では魚座になるが、相撲や柔道は、天秤座の日本を代表するものであり、内容的にもバランスが命だ。
バランスという点では、自転車もそうかも知れない。(大腿は射手座)
天秤座の美しさを競うスポーツと言うことなら、体操やフィギア、シンクロなどもそうかも知れない。
これらのスポーツが、良くも悪くも、曲がり角を迎えることになる。

社会では、芸術、娯楽、結婚、平和・・・の分野が冬の時代で、外務省がやり玉に挙がる。つまり、日本は外交に禍根を残すようなことになる。
今の、何もしない日本の方が良かったことになるのかも知れない。

乙女座天秤座


グローカル

2009年08月19日 | 大転換

新鎖国論を、色々に話そうとするが、どうもうまく説明できない。

「グローカル」と言う言葉を、今日、初めて聞いた。
完全ではないが、新鎖国論とかなり近い考え方のようだ。
グローバル+ローカル=「グローカル」なのだそうだ。
地域の特性を、直接グローバル化する。
地域文化や産業を、国際的に知らしめ展開することで、地域と世界が影響し合う。

ただ、その財源として、外部投資を前提にするところが、今イチ納得いかない。
投資マネーは信用できない、時代遅れだ。
投資マネーを前提にする限り、産業革命パラダイムからの脱却はできない。「マネーからの離脱」がないかぎり、同じ過ちを繰り返す。

新鎖国論で考える鎖国とは、世界各地を村化することだ。
国や連邦の枠よりどんどん小さくして、世界中がすべて村単位になる。小さな村細胞の集まりで、全体としての「地球村」が生まれる。

この地球村を可能にするのは、「知」=情報だ。
もちろん、流通や世界統合は平行しての話だが。
世界が限りなく細分化することで、一つの器に収まり、なじみやすくなる。

地球を小さくしてきたものは、生命活動だが、人類誕生以降の活動が、略奪、破壊から、ようやく純粋に「知」の世界まで到達したようだ。

平和連邦


今年の夏は

2009年08月18日 | 星の流れに

ようやく暑くなったが、ほとんど夏らしい日も無いうちに、もう秋の陽ざしになった。天気予報では、「徐々に涼しくなるでしょう」と言っていた。

これは、ゆゆしき事態だ。
農家の話では、農作物には、ただの値上がり以上のことが起こっている。成らないから出荷できないそうだ。昔より農法も発達したし、輸入品が入るから、店頭には取りあえず品物は並んでいる。

しかし、日照が少なければ、植物だけではない、目には見えないが、人間にも影響が出てくるはずだ。
今年の秋は、新インフルが心配されている。太陽と熱で体を絞らないまま冬に向かうと、抵抗力が付かない。インフルエンザにかかる人が多くなれば、ウイルスの突然変異が毒性を強める可能性も高くなる。

おりしも、
秋から(10月末)苦難の土星が、天秤座の日本に来る。
天王星は84年前の昭和初年を通過中で、苦難からの強行脱出を強いられる。

技術も知識も発達したのだから、一世紀前のようにはならないとは思うのだが、経済パニックや大国の利権争い、さらに加えて情報パニックも拡大した現代を見ていると、
もしかすると、もっと大きな惨劇が待っているのかも知れないと、背筋が寒くなる。

牡羊座2010~2018年


トムとジェリー

2009年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、原油高騰が解消し、材料も値段が下がったので、値下げが流行っている。
値段が下がれば、前の値上げを忘れてうれしくなるのは人情だが、喜ぶ話だろうか。

金正日は、さんざんじらして韓国の財閥に会ってやった上、
これまで自分で起こした問題を解消してやろうと、実は、自分が欲しいものを提示して見せた。相変わらずだ。
♪仲良く喧嘩しな

滅せぬ者の(3)