魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

代替わり(2)

2011年12月31日 | 大転換

250年間の大航海時代により、産業革命が起こったように、やはり、250年間の産業革命時代で、情報革命が起こった。(大転換

産業革命による民主主義は、共産主義や全体主義の変形も含めて、代議制がベースになっていた。これは、個人の素養に格差があることが前提とされていた前時代の名残であり、250年前には、優れた人が代行するのが自然のこととして受け入れられた。

ところが250年後、近代国家が必要とした人材育成の教育制度に、今日の情報化が加わり、政治代行者と一般個人との差はなくなった。
お偉い先生様」に委せておけなくなったのだ。

今、世界的に起こっている、政治の混乱は、近代国家の仕組みが行き詰まりを迎えていることを表している。
日本でもアメリカでも与野党対立で政治が動かず、中東の独裁政権が倒れ、EUはまとまらない。

これだけ情報化した世界では、二階から目薬のような、布団の上から愛撫のような、代議制は、もう、受け入れがたくなっている。
二千年以上も昔の、陶片追放のやり方で、仰々しく行う選挙制度そのものが、とっくの昔に陳腐になっているのだ。(棄権の増加)

個人の意見が瞬時に反映される環境を、そのまま使う人気投票のようなやり方が良いのではない。しかし、個人の意思を伝達する手段があるのに、使わないこと自体が、政治不信を生んでいる。

今の政治停滞は、冥王星ヤギ座時代の、政治変革の行程だ。
ここに大きな行き詰まりと、技術革新が加われば、世界はたちまち姿を変える。
そして、その「大きな行き詰まり」は、着々と条件が揃い始めた。

世界同時不況、食糧問題、エネルギー問題・・・
これらの問題に、最も多く関わっているところと言えば、1929年はアメリカだったが、今、これらの問題に、さらに加えて、唯一、情報圧力を掛けているのは中国だ。

体調が悪くなったら、先ず、衣服を緩めて身体を解かなければならない。ところが中国は、平時なのに刃物でも刺さっているような「縛り」を加えている。どう見ても、死ぬしかない。
中国がパンクすれば、世界は変わる。

この意味で、やはり、次の時代は中国が鍵になるだろう。ただし、中国が中心になってという意味ではない。(民主化すれば別だが)

こうした、250年の産革パラダイムの生涯が終わる時、新しく生まれてくる技術革新の産声とは、エネルギー生産と、食料生産であり、
核融合や人工光合成、バイオ肉などの、高度な技術などの他に、コロンブスの卵的な、簡単で金の掛からない技術も生まれてくるだろう。
とにかく、大変な嵐の時代であると同時に、われわれは、相当、トンでもないものを目の当たりにする機会にも恵まれているようだ。


代替わり(1)

2011年12月30日 | 大転換

山羊座は、政治経済、国や企業の経営者を表す。
経営者とはリーダーのことではない。もちろん、カリスマ的リーダーシップで国家経営、企業経営をする人もいる。
しかし、リーダーは夢を見せる人であり、マネージャーはやり繰りをする人だ。同じ立場にいても使命が異なる。

星座で言えば、リーダーはオヒツジ座で、マネージャーはヤギ座だ。
今、天王星がオヒツジ座にいて、世界的にリーダーが求められている。
一方で、ヤギ座に冥王星がいて、国家や企業の経営手法に問題が起こっている。(牡羊、山羊は羊がややこしいのでカタカナ表記)

一家で言えば、オヒツジ座は赤ちゃん、一家の希望であり、ヤギ座はお父さん、カニ座はお母さんと言うことになる。
笑顔で迎えられ、涙で送られるのが人間だと言われる。
赤ん坊の誕生は、辛い運命の人ほど喜びになる。
それが、貧乏人の子沢山の本質かも知れないし、先進国の少子化原因なのかも知れない。

老いた父、あるいは祖父は自分の夢を引き継ぐ赤ん坊を喜び、赤ん坊は母を恋う。これは、星座で表す家族関係の基本的な考え方だ。
(なお、これを応用した星座の相対関係が「悪相性に惹かれる」)

今、250年の仕事をしてきた父「産業革命」が、後継者を求めている時に、「技術革新」(天王星)の赤ん坊が生まれた。
具体的に言えば、
化石エネルギーで生きてきた産業革命パラダイムが、まもなく一生を終えようとする時、化石燃料と一線を画する技術が産声を上げた。

次の時代の具体的な形は見えないが、化石燃料文明はすでに、一生を終えようとしている。化石燃料によって果たしてきた業績を引き継ぐ希望の子としての技術革新の産声を聞き、祖父は安心して息を引き取ろうとしている。

廃棄物を前提とする原子燃料が、化石燃料の発想と全く同じ前世紀の遺物であることもはっきりした。
技術革新の新しい命は今始まったばかりだが、新しい時代はこの子に託していくしかない。

冥王星がヤギ座を通過している今、産業革命パラダイムの臨終に合わせて、政治のあり方、金の動き、税(国)のあり方も大きく変わる。
この動きは、世界的な大転換に伴うものであり、一国だけの問題ではない。

250年前、世界は絶対王制から民主主義に変わり始めた。
今、その時と同じぐらいの、原理の転換が起ころうとしている。
原因は、大航海時代からの、物流・経済の変化が、「あり方」に変化を迫ったことであり、今もまた、民主主義の「あり方」が崩壊しようとしている。


でくの坊

2011年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、年の瀬で少し疲れたのか、書く気がしない。

ただ、一つだけ、
サッカーの新ユニホームは一体、誰が考え、誰が決定したのだろう。
「絆の一本線」
聞いた時、まさか、あそこにあんな風に配するとは思わなかったので、見た瞬間、「うそだろ」と、のけぞった。
本当に、これで試合をするんだろうか?

このところの日本サッカーは、「夢を越えた」ぐらいのワクワクだったので、「何の罰ゲームだ?」と、ワケが解らなくなった。
ユニホームが試合するわけではないし、試合が始まれば、選手はそんなことは忘れているだろうが、着衣は人の心理に影響する。

「絆」だから「一本線」という発想もオヤジなら、太いファースナーみたいな、ど真ん中の縦線も、着想した人の生い立ちまで想像するぐらい不毛だ・・・不毛だ、 もう一度、「不毛だあ

しかし、ここまでのナンセンスは、むしろ、横尾忠則なみの斬新なのかも知れない。とも思う。
センスは人様々だから良いとしても、
一体、試合中の影響力は、プラスなのだろうかマイナスなのだろうか。

試合の最中、動き回る「棒」は、パスの目安になって良いのだろうか、それとも、ペナルティーキックで、狙われやすくはないだろうか。
見方に有利で、敵に不利になるデザインであれば、それは、スピード水着以上の、画期的な智恵だが、不利になるようなら、「でくの棒」だ。

試合運びを考えた深謀ならガマンするが、もし成績が下がるようなら、それは、選手のせいではない。「でくの棒」の仕業だ。


ご大層な

2011年12月27日 | 兄弟関係

金正日の葬儀で、ご大層なことだ。
北は先ず、一切の弔問を拒否すると言っておきながら、韓国がお参りしないと、今度は「義理に反する、これからどうなっても知らんぞ」と脅しを掛ける。

北の揺さぶりとは言え、弔問そのものが、まるで政治の核心だ。
世界でも「弔問外交」は重要だが、葬儀そのものが重要なのではなく、その場を好機として、トップ同士が感触を探ったり意見交換をするのが目的だ。一般でも、葬式をきっかけに疎遠にしている親戚が会ったり、日頃は、話すきっかけがない問題を話せたりすることがある。

ところが、葬儀という儀式の形そのものが、葬儀の目的だと思い込んでいる人がいる。こういう人は、どういう形式かにこだわり、やり方が間違っているとか、誰かの態度や言葉が悪かったとか言いだし、喧嘩まで始める。これは、慎ましい気持ちで「喪に服す」ことを、「喪服を着る」ことだと思っているからだ。

この典型例が、若貴葬儀事件で、貴乃花は部屋を継いだことで喪主になるとがんばり、葬儀の心とはほど遠い「形」を固守しようとした。
あえて常識的な形を言うなら、家族の長幼の序で、長男の若乃花に分があると思うのだが、師弟関係の「形」しか見ていない貴乃花は譲る気がなかった。

こういう、「形から入る」人は、誰の葬儀であれ真っ先に駆けつけ、至れり尽くせりの礼節をつくし、時には大泣きをする。
遠方で大変だからと気を遣い、後で知らせたりしようものなら、「何で知らさなかった」と、喪主に怒鳴り込んだり、恨んだりする。

気を遣わせてはと、死んだことを黙っていた後輩に
「何で、知らせないんだ、お前の親が死んだんだぞ、水くさいじゃないか」などと怒るが、
結局の所、「お前」の気持が心配なのではなく、自分が葬儀に関与できない、無視されたことを怒っている。また、逆に、目上の人が自分に知らさなければ、「オレのことを嫌いなんだ」とヒガんだり恨んだりする。さらに高じると、気に入らない人には知らせなかったりする。

見せ場
今現在、弔問をめぐって朝鮮半島の南北でやりとりしている、弔いの駆け引きも、これと同じで、儀式の形式にのみとらわれているから、葬儀そのものが脅しの道具になるほど、双方に価値を持っている。

もし葬儀の本質が、真に死者を弔う心であるなら、儀式は二次的に付随するものだから、哀悼とは別に、儀式はむしろ外交の口実になる。
哀悼と儀式の区別が付かない感覚にとっては、儀式をどう扱うかが最優先の重大問題になる。

俗を離れた亡者の金正日を弔うことと、歴史的政治的存在の金正日という「機能」に哀悼の意を示すこととは全く別問題だ。
これを区別できない人々が、葬儀に関わるか関わらないかで悩み、もめるのであり、北は弔えと言い、南は弔えるかと感情の争いをする。
世界が「機能金正日」を認めない中。中国は逆に、「機能」を明確に認識して、利用している。

アジアの隠蔽タテ型の権力構造に対し、欧米諸国は儀式参列の序列で権力バランスを読み解こうとする。
旧ソ連にせよ中国にせよ、序列を知ってもらおうと見せているのではない。実際の権力構造の結果として表れただけだ。

しかし、北朝鮮は内外に示すために並んで見せている。
これが、独力で立っている者と、根本的に人頼みで立っている者との大きな意識の違いだ。


雲よ風よ

2011年12月26日 | 占いばなし

今日は12月26日。毛沢東の誕生日だ。
山羊座。自動車人間ではハンドル。山羊座もハンドルも逆境に強いが、安定するとバカをすることが多い。

毛沢東も苦労のすえ、1949年、中華人民共和国が成立したものの、その後、何一つロクなことをしなかった。
1952年から現実を無視した過激な共産化を始め、ついに、
1958-60年の大躍進政策で大失敗をする。

こうした動きを、毛沢東個人の占いで説明することも出来るが、歴史は個人が動かすものではなく、歴史が個人を翻弄するものであると考えている。

毛沢東と同年月日に生まれた人は大勢いるのであり、毛沢東はたまたま、そこに居合わせた人に過ぎない。そして、そのような人を選んで、そこに招いたのは歴史である。

もし、毛沢東がそこにいなければ、ほぼ似たような人物が、やはり同じようなことをしていたであろうし、毛沢東はどこかの校長か社長で女と事業に失敗していたかも知れない。
歴史は毛沢東のことなど気にしない。歴史自身に従って動いている。

歴史は繰り返すと言うが、運命的に考えれば、全く同じ時であっても、「違う毛沢東の違う共産中国」が生まれていたかも知れないわけで、同時的な複相も、周期的な複相も存在する。歴史は繰り返すのではなく、歴史は着せ替え人形だ。

極まれば転ずる
時がめぐれば、同じような現象が服を着替えて現れる。
「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」
運命は河の姿であり、着せ替えの服が流れる水の、人や世相だ。

干支60年の周期は、2012年は60年前、1952年の「壬辰」。
中国が過激な共産化に向かった年だが、どこに向かうかではなく、
「大きく方針転換する」年と考えるべきだろう。
ただし、ピンポイントで年度を比較するより、「だいたいそれぐらい」の年と考える方が、歴史の今を理解しやすい。

60年前頃。中国は建国をピークとして周辺国への圧力を高め、様々なトラブルと失政で、長期沈むことになった。
60年後の北京オリンピックと万博を、建国のピークと考えれば、周辺国とのトラブルで、自滅していく過程と比することができる。

一党独裁で、一気に上り詰めた国は、党の判断ミスで、一気に逆走することも考えられる。
今、中国は、軍の暴走、地方の暴走に加え、厳しい世界情勢の中で極めて難しい経済的な舵取りを迫られている。

一方で、冥王星180゜でアメリカが暴走衰退したように、現在、冥王星は、カニ座中国と180゜の山羊座にいる。
すべてが、一つの方向を示している。
占いが、当たったとか外れたとか、そんなことはどうでも良いことだ。
雲の流れを観て、どう考えるかだ。

ビジョン(2)」(尖閣事件はこの後で起こった)


ダメもと

2011年12月25日 | 兄弟関係

忘年会シーズン。パーティー幹事に参加メンバーから、当日、
「子供も行きたいって言ってるんだけど、私は飲むだけだし、子供は食事だけだから、二人で一人分の会費にして」と、言ってきた。
幹事は迷ったが、取り敢えず承知した。
子供と言っても、18才で普通の大人より大きい。

幹事が、メンバーの一人に「どう思う?」と、相談した。
相談された方も、「あの人は、何時でもその調子だ」と、例を挙げて二人でカッカしたが、二人とも文句を言ったことはなかった。

カッカした二人は長子で、「一人分にして」と言ったのは末っ子だ。
長子側から、どっちがおかしいか聞かれた。
「一人分にしてと言っても、理屈はそうかも知れないけど、会場代や諸経費もあるし、飲む飲まないはそれぞれの勝手で、それに、そんなことを突然言われたら、困る事が解っているんだろうか・・・」

これは、長子の考えすぎだ。
もし、言われた方が末っ子なら悩まない。「YES・NO」いずれかだ。
自分の都合が悪くて、考慮する相手でなければ「ムリムリ」で終わり。
都合が悪くても、考慮しなければならない相手なら、特別配慮をアピールした上で「まかせとき」と受け入れ、誰かに頼み込み、それが不可なら、その人のせいにして断る。あるいは、独断で受け入れて、問題が起これば、頼んだ人のせいにする。

長子は、自分の責任ですべて取り仕切ろうとするから、自分の問題として悩むが、どっちに転んでも人頼みの末っ子は、悩まない。
他人の世話事でも、末っ子が積極的で「親切」なのに対し、長子は消極的で「冷たい」。これは、責任を考える長子と、他人頼みの末っ子の違いだ。

「一人分にして」と言った末っ子は、自分なら都合悪ければ断るから、何が何でもとは思っていない。「ダメもと」だ。
だから、言われた長子が悩んでいることを知れば、バカにするか腹を立てるだろう。
「何をグチグチ言ってるんだ、嫌なら断ればいいだろう。それとも人を悪者にしたいのか」そういうことになる。

この場合、言われた長子は、予定外なら取り敢えず「ダメ」と即答し、その上で、誰かに聞いてみることにして、間を取って、もう一度連絡し、半額とか、会場代とか、落としどころを提示して、それが嫌なら元々予定になかったことだから断ればいい。努力しなかったわけではないし、これ以上の譲歩は、むしろ、出来ることをしてくれなかったと思わせることになる。

国も同じ
国別兄弟タイプでも、一人っ子長子の日本は、弟妹型のアメリカや朝鮮半島の「ダメもと」要求に、真面目に悩みすぎる。また、長子代表の中国はよく心得ていて、真っ先に「知らん」と言うが、結局は、なむなむと、弟妹型に配慮して中途半端な妥協をする。
日本は初めから悩んでしまうので、どんどん要求がエスカレートする。


南京虫だ

2011年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

スペイン巡礼の旅に出た友達が、南京虫で挫折した。
毎日20km歩くと意気込んでいたが、思わぬ伏兵で、体中腫れ上がり、ドクターストップで断念したそうだ。

南京虫と言えば、忘れられない光景がある。
昔、トロントで知り合った友人のアパートに泊めてもらった。
ベッドは一つしかないので、寝袋を床に敷いて寝た。
秋になったばかりの、暑くも寒くもない、穏やかな日だった。

夜中、顔中に電気が走ったような刺激を感じて目を覚ますと、顔中が猛烈に痛がゆい。目が覚めた瞬間、何かが顔を走り回っているような感じがしたので、
「おい、何かいるよ」と、言って、電気を付けると、
寝込んでいた友人は
「え~っ、そんなものはいないよ」と、うるさそうに、また寝ようとする。
「いや、絶対いるって!こんなにひどいもん」と、既に腫れ上がっている顔を見せるが、みる気などない。とにかく寝ようとする。

それでも、騒ぎまくって、嫌がる友人をベッドから降ろして、毛布を剥ぐと、赤っぽい、蜘蛛のようなものがサッといなくなった。
「何も、いないじゃない」と、
寝とぼけてベッドに戻ろうとする友人をとどめて、マットをあげた。

もう、何十年も経つが、あの光景は忘れられない。
マットの下の台の上で、ワッと、「蜘蛛の子を散らしたように」赤い虫が、八方に逃げ始めた。大きいのから小さいのまで、赤い絨毯だ。

「わーっ、こいつだ南京虫じゃないか?!
総毛立ちながら、騒ぐが、友人は
「だって、オレは噛まれてないよ」と、言いながら、マットを戻してまた寝てしまった。

結局、一週間ほど、赤鬼のような顔で過ごすことになった。
もちろん、その日はそのまま寝なかった。
その後も友人は、全く噛まれた様子がない。
おそらく、慣れてしまっていたか、噛まれても反応しない体質なのだろう。

あれが、南京虫というものだろうと思っている。名前はよく聞いていたが、日本では実際には見たことがなかった。
途上国ではいろいろな害虫がいるから、ホテルのベッドでも寝袋で寝た方が安全と思っていたが、床とは言え、まさかトロントでやられるとは思わなかった。それも、表に出ている顔だけ。

近頃は、交易、往来が激しくて、あらゆるものに外来種が入り込んでいる。温暖化で日本の気候帯も変わって、昔なら棲息できなかったものまで、当たり前のように生きているから、そろそろ、南京虫も流行するかも知れない。ご用心、ご用心


フォース

2011年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

料理上手になりたい人が、レシピ通り計量し、タイマーで、秒まで計って、何度作っても、「いまいち」になるという。
友人の美味しい料理には、必ず、「レシピを書いて」と頼み、
家で作ってみるが、やっぱり、友人のようには美味しくならない。

友人が、「私のレシピなんか、当てにならないよ」と言うと、今度は、料理している横で、番人のように見学し、同じように作ってみるが、やっぱり、うまくいかない。
友人は、「同じようでも、材料も道具も火も全部その時で違うんだから、全く同じにしてもうまくいかないよ。勘だよ勘!」と言うのだが、その人は、きっと、まだ秘密のコツがあるに違いない、と思う。

その人の料理を食べさせてもらった。なるほど見た目は立派にできあがっている。食べてみると、特に不味いわけではない。だが、確かに「おいしい!」と、言いたくなる感動がない。昔の冷凍食品のような味だ。(近頃の冷食はバカにならない)

これは、いわば、デジタル料理だ。昔流に言うなら「心がこもっていない」からだろうが、こういうことは、何事にもある。
「気合い」や「根性」という言葉も、全く根拠がないわけではない。
その料理上手の友達が言う「勘」は、そうしたアナログ的実体だ。

デジタルテレビになって、ゴーストや滲みなど「よけいなもの」が無くなった。情報機器は明らかにデジタルの方が良い。

ところが、料理や音楽のように、感覚を味わうには「よけいなもの」を含む複合体の全体がなければ、奥深い感覚が味わえない。
だから、音楽にウルサイ人はCDのデジタル音を嫌った。

信仰と権威とフォース
味には、ウルサイ人と、そうでもない人がいる。
もう一つ言えば「ウルサそうにしている」人がいる。
敏感な人がウルサイとは限らないし、ウルサイ人が敏感とも限らない。
味の違いは誰でも解るが、何でも食べる人と、好き嫌いの激しい人、さらに、自分が敏感であると「誇示」したい人がいる。

誇示したい人は、世間で美味いとされているものを美味いと言い、調理法や食べ方にウルサイ。これは、味へのこだわりではなく、「違いが解る」人間だと自分自身思いたいか、誇示したいからだ。

「料理上手」になりたいと、「美味しい物を食べたい」とは違う。
レシピにこだわるのは、自分の感覚より、権威や知識を信じるからだ。友人の料理が美味しければ、その知識をそっくり手に入れようとする。試行錯誤は始めからする気がない。さらに言えば、実は、友人の料理が美味しいと思うのは、皆の評判があったからだ。

「料理上手」になりたいのは、食にウルサイ「権威」になりたい人と同じ動機であり、感覚を味わいたいより、「実利」が目的だ。

本当に食い道楽や料理好きなら、他人にどう思われるかより、自分が美味しいと思うことを追求するから、自分に合った方法で「勘」を磨く。その結果、「好きこそものの上手なれ」になる。

日本の独創性は、平和な島国、競争のない一人っ子の、気ままな世界で生まれたものだ。金のためでも権威のためでもない、探求心だけの「ものづくり」には、手本にするレシピも図面もなかった。

近頃の日本の衰退は、効率よく「売る」ための国になったことにある。
確実に結果を出すため、失敗を許さない。
教育から文化まで、レシピ、マニュアルが無ければ何も出来ない。
自分を信じて、災害から逃げることさえ出来ない。

創造も、冒険も、大バカも、互いに許さない、ガチガチの国になってしまった。

「ルーク、フォースを信じよ
May The Force Be With You


風の流れ

2011年12月21日 | 大転換

金正日が死んだからと言って、スターリンが死んだように、世界が慌てなければならないような状況がアホ臭いのだが、中米ともに動揺を望んでいないから、取り敢えずは落ち着いている。

星的には、これは「前兆」だ。来年10月の、土星サソリ座への本格入宮の予告編だ。サソリ座前5゜圏のこれから、もっと顕著なシーンが見えるだろうが、あくまで予告編であり、本編は秋から始まる。

それにしても、北の将軍様が崩御なされた同じ時、南の大統領殿は日本で啖呵を切っていた。まさに、「不幸の朝鮮半島」の予告編だ。

歌舞や神話の「ファンタジー国家」は、現代では「保たない」。
それどころか、グローバル化時代では、合理主義の近代国家さえ、使命を終わろうとしている。

近年、世界中の政権が替わり、不動に見えた独裁者が倒れている。
これは、大転換のステップだ。
残っている巨大独裁者、中国共産党も、遅かれ早かれ、体制そのものが変わらざるを得ないだろう。

とにかく大転換の時代だ
過去の常識に基づく、国家も制度も、根本から改めない限り、何をしても徒労になる。

年金改革の話も、何パーセント増やすとか減らすとか、雇用年数を延ばすとか困るとか、結局は、増税の、つじつま合わせだ。
(増税そのものが、体制維持だけの成長無きつじつま合わせだ)

これまでの制度そのものを否定する「橋下圧勝」に、制度に甘えて糊している政治屋どもが、オロオロして、生き残りの道を、おっかなびっくり探っている。

もう、「ヤドカリは殻を取れ」と国民が声を上げた。
彼ら政治家が生き残る道は、自分達の依って立つ議会制度そのもの、国家体制そのものの変革しかなく、「年金廃止」「連邦制」など、明治維新に匹敵する根本的な大改革をするしか道はない。しかし、官僚の傀儡に過ぎない政治屋には、決してできないことだ。

そして、多くの国民も、年金何パーセント云々の「猫だまし」に引っかかって、枝葉末節の論議に巻き込まれている。
もうそんな時代ではない、

今は幕末だ。橋下維新の会は幕末の土佐勤王党であり、橋下徹は武市半平太かも知れない。それ自体が日本を変えることはできないが、先駆けであることは間違いない。

      風の流れの激しさに・・・

      もう少し時がゆるやかであったなら

            「愛しき日々」小椋佳


国家の情

2011年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

中国や韓国とは、隣の国だから仲良くしなければならないという。
本当にそうだろうか。
もちろん喧嘩はしないようにしなければならない。
しかし、下手な近づき方は、もめ事の始まりだ。ヤブヘビとも言えば、触らぬ神にたたり無しとも言う。

世間のご近所づきあいを見ていても、上手くいっているケースより難しい関係の方が多い。隣り合っている者同士は利害が重なるからだ。
そこで、遠交近攻ということになる。攻めて喧嘩をしないまでも、不用意に近づかない方が、問題は少ない。

隣と疎遠では寂しくて不便かも知れないが、「隣は何をする人ぞ」の方が、喧嘩にはならない。
下手に親しくしていると、相手の事情がまる見えになるから、遠慮がなくなるし、妬いたりバカにしたり負けん気を起こしたりする。

相手の事情がまるっきり解らなければ、危険だから、喧嘩をしようとは思わない。常に慇懃無礼な隣家とは、イケ好かない奴とは思っても、滅多なことで喧嘩にはならない。これも一つの「君子の交わり」だ。

中韓と日本のこじれは、下手な接近をしたことが原因だ。
中韓がいまだに日本をスケープゴートにしているのに、日本はまた、不用意な接近をしている。

ニクソンが中国に行ったからといって、慌てて国交を開いたことは、本当に日本のためだったのだろうか。
もちろん、経済面では一見大いに得をしているように見えるが、中国を軍事大国にする手助けをした側面はなかっただろうか。
日本が国交を開かなくても、欧米や韓国がしたかも知れないが、韓国の手助けをしたのも、また日本だ。
隣りに包丁を貸して、強盗に入られるようなことをしたのではないだろうか。

親しき仲にも
だから、付き合うなと言うわけではない。甘えて、物欲しそうな付き合い方をすれば、バカにされ、相手を横暴にするということだ。
どこでも悪人はいるし、気が合わない人もいるが、相対的に見れば、何人であれ、個人的には悪い人はいない。しかし、「生きるか死ぬか」になれば、良い人でも豹変する。

国家は、個人の「生きるか死ぬか」を引き受けて代行するものだ。
だから、良い国家など、初めからあるはずがないし、情を通じてわかり合えるはずもない。国家間は好き嫌いではない。いかに互いに害にならないかだ。
その上でなら、ウインウインの「互恵関係」が、ないこともない。

国家に情などあり得ない。しかし、国民庶民は国家関係も情で考える。国民感情が外交を支配すれば、和気あいあいの直後に大喧嘩をすることにもなる。利害代表の国家が情で操られるなら、戦争は避けられない。

人、物、情報がボーダレスに行き交う時代に、器としての近代国家という単位は、利害関係の保護より、「事を荒立てる」トゲになりつつある。利害代表の国家は、お隣だからと言って、「国民に代わって仲良く」する必要は無い。冷徹に利害の監視だけをしていいればいい。そのためには、やはり、大きな政府はジャマになる。

仲良くするのは、人同士、企業同士でいいし、地域間、都市間の交流が、国家を越えるつながりを持つ必要がある。そうすることで、徐々に近代国家はその役目を終えていくだろう。


脳内闘争

2011年12月16日 | 自動車人間学

自動車人間」ハンドルの悩みを聞いた。
聞いている内に、典型的なハンドルの悩みなので、思わず顔が緩んでしまった。

内容は複雑なので説明できないが、複雑にしたのはハンドルだ。
要は、ある一つのことに、自分が想定した問題を雪だるま式に膨らませて身動きとれなくなっている。

ハンドルには、エンジンもガソリンも付いてない。動く気が全くないのにどう走るかをアレコレ考えてしまう。

例えば、ある日、玄関の前にソフトボールぐらいの石が落ちていた。
玄関を開けたハンドルは考え始める。
「この石はなんだろう? 何でここにあるんだろう? 誰かが何かの魂胆で置いたんだろうか? トラックが落としていったんだろうか?・・・」アレコレアレコレ考えたすえ、
「どんな可能性があるか解らないから、とにかく触ってはいけない」と思い、「でも、こんな所に放置しておけば、近所にどう思われるか解らない」とも思う。「それに、第一、どこに持って行けば良いんだろう・・・」と、またアレコレアレコレ考える。

考えている内に、「これは、きっと誰かが自分を困らせてやろうとして置いたに違いない。とすれば誰だろう?」と、いろいろな人とのトラブルを再点検し始める。「いや、トラブルがない人でも自分が気づかないだけで、本当は恨まれているのかも知れない・・・」
もう、世の中が嫌になってくる。
「何で、こんな所に住んでしまったんだろう」そう思うと、家から出るのも嫌になって、早く引っ越ししようと、改めて決心する。

そこに帰ってきたエンジンの夫は、「何やっているんだ?」と言いながら、石を拾って、近所の空き地に放りに行ってしまった。

ハンドルは、誰か他人が困っていると、その人のためには素早く動けるが、だれにも頼まれないこと、自分自身のために始めることには全く身体が動かない。考えだけが堂々巡りを始める。

そして、考えている最中に、「取り敢えずやってみよう」とは思わないし、自分が行動を考えていないことに気づかない。
その上、悩みの基になる複雑な人間関係を、自分自身が造り出していることにも気づかない。

その内、脳内モンスターとの戦いに疲れて、ブチ切れるか、よよと泣き崩れる。
そうなる前に、ハンドルが悩みから逃れるには、目をつぶって行動を起こすか、何も考えないことにするか、誰かに取り敢えずやってもらうことだ。誰かがやって始末に負えなくなったら、初めて自分で解決できる。


三寸の闇

2011年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

大転換は始まっている。
繰り返し言うが、すべての人が、もう、どうにもならない所まで来ていることを悟るべきだ。
冬服を着るためには、夏服を脱がなければならない。
既存のシステムが全く機能しなくなっている。

昔、川の水を利用していた時代、「水は三寸下れば濁りを忘れる」という言葉があった。小川の上で洗い物をしていても、川下の人が利用するのに全く問題ない。という意味だった。(水に流す意味もある)
細菌など知らなかった時代には、見た目がきれいなら、もう浄化されていると考えていた。

文明開化で日本にやってきた欧米人は、「日本人は不浄を嫌うが不潔を厭わない」と笑った。彼らは細菌を知っていたからだ。
細菌を知った現代の日本人は、過剰に不潔を嫌う。不浄が不潔になった。(日本人の不潔には今も不浄意識がある)

誰でも知ればマズイと解ることを、知らなければ平気でいる。それどころか、無知な行為に理由を付けて「濁りを忘れる」などと、さらに安全性を保証する。原発安全神話も、正にこれだ。

原発が安全か安全でないかは、物の道理や自然体験で考えれば、例え、学校で絶対安全だと言われても「なんか変だぞ」ぐらいは感じるし、また、それを感じるぐらいの頭の柔軟性は、幼児期の遊び体験で身につけるのが、むしろ、真の教育だ。

合理主義本家の欧米は、スリーマイル島やチェルノブイリの現実を見て、これはマズイと政治を動かしたが、日本人のほとんどが、学校(政府)の言うことを真に受けた。それぐらい、日本の教育は工業国民洗脳に徹底している。(日本人の宗教的従順さもあるだろう)

「国や企業の都合のため」ではない、物の道理を考える力が削がれている。
「原発推進が良識だ」と言っていたのは、日本工業社会の優等生つまり、洗脳されている人達だった。

洗脳は、自分達では気づかないから「洗脳」という
われわれは、常に、『自分は洗脳されているのではないか』と、疑ってみるべきだ。そして、政府に「本当のことを言え」と言うより、政府や報道の真実を察知して、政治を動かすのが民主主義だ。

政府の言う数字が、本当かウソかなどの目くらましより、その議論の大前提こそが、「たぶらかし」ではないか考え直す必要がある。。

年金は誰が担うかより、他に老人を生かす道はないのか。
子供に金を払うより、親が子育ての負担を負わない方法はないのか。
受験や就職の方法を変えるより、本当に人材を育てる方法はないのか。
こんな、当たり前のことから、考え直してみる必要がある。

洗脳は国だけが行うのではない
われわれは時代の子だ。250年の時代の潮流の中で生まれ、議論の前提をすべて当たり前だと思っている。しかし、わずか数千年の文明史を見渡すだけでも「当たり前」の前提はまったく違ってきた。

「外需を減らし内需を」などという議論自体が、大量消費の垂れ流しが大前提だ。「水は三寸下れば濁りを忘れる」という無責任な無知と全く変わらない。

大量生産、大量消費の産業革命250年の無責任パラダイムに自ら気づいて改めるのか、行き詰まりの大崩壊に呑み込まれるのか。
原発推進に賛成していた人達はどうするのだろう。


生き抜く(2)

2011年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

観光事業を打ち立てた男の話は、「メシの食い方」の教訓であるとともに、日本人的発想への戒めでもある。

日本人的発想とは、安定志向のことだ。
世界から比べれば、平和で安定した島国環境にある日本人は、少しでも気が緩むと、「明日も昨日と同じ」であろうとする。変化を嫌い、現実よりも「安定」にひたろうとする。

冷戦後の激動20年、日本が沈んでいるのは、激動する世界に背を向けているからだ。
昨日がまだ続いていると思いたがっている。激動する世界を見ようとせず、世界のニーズを見ようとしない。成功体験を抱き続け、昨日の夢物語の世界を再現することだけに酔っている。

その結果がガラパゴスであり、放漫行政の無駄遣いであり、就職のミスマッチであり、それら諸々の結果が、世界最高の国家負債だ。
そしてまた、ジャパンクールと言われる日本人気も、実は、
「売り家と唐様で書く三代目」であり、毒のない斜陽族の優美さではないのか。

いや、優美が悪いのではない。むしろ優美に生きるなら、「武士は食わねど高楊枝」を徹底すべきだ。それが、新鎖国の生き方だ。
徹底して、産業革命パラダイムから決別し、経済永世中立宣言し、脱経済成長、国民皆兵、「夢の国」蓬莱の島ジャパンになればいい。

しかし、平和憲法のまま、少しでも世界に互して生きていこうとするならば、生き馬の目を抜く世界を理解しなければならないだろう。
(鬼の外交力を持つならば、平和憲法は必ずしも空論ではないが)

観光事業の男のような人間を、日本人、特に、今の日本人は嫌う。
役人は、新しい概念を持ち込んだ男を全く相手にしなかった。そんなことが出来るはずもないし、してはいけないと、おそらく嫌悪感を持っただろう。空気を乱すからだ。
ところが男は、出来ない出来ないと言う役人の持ち駒を様々な角度から観察して、申請手続きというものを研究、学習した。
その上で、可能性の道を発見し、道を切り開いてしまった。

肉食獣
世界は日本のように恵まれた環境で生きているわけではない。
自然も民俗摩擦も常に切羽詰まっている。鵜の目鷹の目、野獣の目だ。
中韓をパクリと非難しても、盗ったモン勝ちが世界の現実だ。
肉食獣の欧米は、捕獲にルールを設けて、秩序のように見せているだけで、草食動物のアジアは、肉食の狩りを美しくやれないだけだ。

欧米のルールに従い、ようやく美しい狩りが出来るようになった草食の日本は、狩りの目的を忘れて、「美しさ」に埋没している。
狩りの目的は、相手の命を奪い肉を得ることにある。
生きるための「食」を得るには、事態を見極め、相手のスキを探り、厳しく果敢に飛び込む。そこには本来、思いやりも美しさもない。

食うか食われるかが島の外の現実だ。中韓がルール無視なら、欧米は抜け道の手練れだ。欧米式はルールを造り、利用や穴抜けを才覚と考える。ベニスの商人は法の盲点を突くことを賞賛し、CO2規制ルールには排出取引ビジネスを成立させる。

お天道様の他に、恐ろしい人間を知らない日本人は、天のルールに従えば報われると思っている。正直に賢明に、ガマンにガマンを重ね、そのくせ、ひどい目に遭うと、「正直者が馬鹿を見る」と、突然キレ、状況無視の強腰に出る。
祈りばかりで、智恵がない。

切羽詰まれば、生き残りの武器は「知恵と才覚」だ。
戦後のどさくさの頃には、観光事業の男のような、ナリ振り格式を捨てた、ガムシャラな日本人で溢れていた。それが高度成長の繁栄を築いた。

今の上品な日本人は、ガムシャラ人間を、「空気の読めない奴」と排除する。そして、自分がそうなることを恐れ、失敗を恐れ、何も障害が無いにもかかわらず、自分で「結界」を張って、冒険をせず、足を引っ張り、問題を隠蔽し、衰退の坂を全員で転がり落ちている。

100年前、50年前、「坂の上の雲」を目指して、日本人はガムシャラに坂を登っていた。ここまで落ちれば、もう一度登り初めても良い頃だ。

※余談だが、「坂の上の雲」203高地の乃木の参謀こそが、今の日本社会だ。「角を矯めて牛を殺す」福祉政策は抜本的に発想を変えなければ、日本は死ぬ。


生き抜く(1)

2011年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム

ある地方公務員だった人が話していた。
その地方の観光地に、突拍子もない観光サービスを始めたいと言ってきた男がいたが、トンでもないと追い返された。

すると、その男は、毎日やって来ては、担当者に、既にある様々な観光事業の認可を受ける方法を聞き始めた。
担当者は断る理由もないので、一つ一つ丁寧に質問に答えていた。

男は、どうすれば認可が下りて、何があれば認可されないのかを、熱心に問いただした。そして申請用紙の書き方を子細に質問した。
もちろん担当者は面倒くさかったが、邪険にはしても、仕事だから、断ることは出来ない。

男は、そうして質問する間も、冗談や世間話をしながら、担当者を飽きさせない。その上、毎日陽気にやってくるので、たまに現れないと、どうしたんだろうと、観光課の職員は心配して噂までするようになった。

そして半年ほど通った後、最初に断られた観光事業の、非の打ち所のない申請書を、県会議員と一緒に持ってきた。
もちろん、この事業を始めるには、県議会を通さなければならないという知識も雑談の中で得ていた。

昭和30年代の高度成長期の話だ。彼は当時では珍しくなかったが、小学校しか出ていなかった。
その後、その事業は全国にも知られる県の代表的な観光になった。

荒野に生きる
就職難だと言われている。就活に追われる人は、就職とは一体何なのか考えているだろうか。
鳥は毎日飛び回って餌を探す。人も原始時代は食べる物を求めて原野をさまよっていた。

生産が生まれ、分業が生まれ、職業が生まれ、親に従い、親方に従い、そして、組織に従って生きるようになった。
しかし、組織が破壊されると、人は原野に帰る。国家という大組織が破壊された終戦直後、日本人は荒野で食べ物を漁った。
闇市は強者と智者のみが生き残る「水飲み場」だった。

子鹿のような学生など、生きるすべもなかったが、同時に、意識を変えるだけで、メシの種はいくらでも転がっていた。
この当時、知識や若さだけを頼りに、あらゆる力を活かして、起業した若者が多かった。後の大企業につながった例も少なくない。
時代の転換期に、若者が大成功する例は、最近ではITブームや携帯ブームでも見られる。

世界的な激動期には、頼るべき組織が消え、新しい組織が生まれてくる。明治維新で職を失った武士もいれば、生き方を変えて大成功した人もいる。
学校、就職、結婚といった、維新後に持ち込まれた「国家ぐるみの」産業革命システムが今や崩壊し、その構成要素の企業は、グローバル企業として、国家から離脱しようとしている。
苦労して学校に入り、国内基準の人材になったところで、いくつも国家資格を取ってみても、もう、企業は国の枠を越えている。

これから「食」を得るには「職」ではない。復興期に観光事業を打ち立てた男のように、どんなものでも商売にしていく「やる気と才覚」か、「グローバル人材」になるしかない。
就職がないと落ち込むなら、死んだつもりで海外に出るべきだ。
世界は、まだ広い。