魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

美しき時

2021年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

冥王星は山羊座の25゜を過ぎ、もう水瓶座にかかりつつある。しかし、まだ山羊座の影響は続いている。
このブログを始めた頃に心配していたことは、だいたいそのようになったが、今のところこの程度で、まずまず良かったと言うべきだろう。
大転換3」(2007年)
アメリカの暴走のピークの後は、中国の暴走が始まり、今それも末期を迎えている。

250年の冥王星周期では、カニ座の中国は冥王星が180゜の山羊座にいる現在がピークで、この先は、現在のアメリカのようにグダグダになる。
中国のピークは、なんと言っても経済面だが、毛沢東、鄧小平に続く3代目を自認する習近平は、あろうことか、毛沢東と同じ生日干支「丁酉」だ。つまり、気質が同じだから、毛沢東に共感するのだろう。しかし、能力と性格は全く異なる。
毛沢東が複雑な性格で、逆境を好むのに対し、習近平は単細胞で押し一辺倒。あえて例えれば劉邦と項羽、イメージなら鬼と金棒だ。

毛沢東は今更語るまでもないが、習近平だけを観れば、自動車人間のシャーシ、自己顕示欲の塊で、ひねったことなど考えられない単細胞、良く言えば豪傑タイプだ。押すことしか知らないから、行き詰まれば頓死する、前進か死かだ。
とにかく舞台の主役に立ちたい人間で、舞台の成り立ちなど理解できない。
習近平が派手に演ずる中国経済の大舞台は、すべて先人と人民のおかげであることが理解できていないから、過去の資産を湯水のように使う。ちなみに安倍もオバマもシャーシ。岸田はハンドル。

さらに、1953年生まれの生い立ちに染みこんでいるのは、文革への愛憎だ。自身が巻き込まれた動乱で、否定肯定と両評価された毛沢東だが、全面肯定でなければ自分を否定することになる。両方を飲み込むような複雑な性格ではない。
多くの人は、自分の嫌だった人間になる。それが強烈体験であるほどそうなりやすい。学習の視野が限られ、二者択一になるからだ。習近平の場合それが毛沢東だった。
しかし、習近平は毛沢東のように、試行錯誤しながら叩き上げてきた人間ではない。形だけ真似るから、行き詰まる。

一帯一路は素晴らしい構想に見えるが、中国の経済力を恃んだ白髪三千丈の暴走だ。
現実を考える日米を尻目に、英国はダメ元で真っ先に手を挙げた。素人の金貸しに絡んでおけば、どう転んでもいいとこ取りが出来る、「タダなら貰っとこう!」と、アヘン戦争以来のキツネの勘が働いたのだろう。
習近平は先人が築いた金と信用を大盤振る舞いでばらまいたあげく、コロナまでばらまいて、すっかり信用を無くしてしまうと、今度は、保身のために、片っ端から縛り始めた。手中の政界よりも、自分の理解できない産業界の方が怖い。
IT業界を締め上げると、今度は、中国経済の病巣である不動産の切除を始めた。
これは、悪いところは何でも切ってしまえば良いと考える、単細胞のヤブ外科だ。

これで、大不況が訪れようと、世界が大恐慌に陥ろうと大したことではない。毛沢東も、「一億や二億死んでも」と言ったではないか。鄧小平も「豊になれる者から豊かになれ」と言ったのだから、ここで豊かになり過ぎた部分を刈り取らなければならない。
いざ、あの美しき毛沢東時代へ回帰だ。退廃文化も掃討し、精神の「共同富裕」を達成しよう・・・貧しく清く美しく
「美しい日本!」・・・単純化は、シャーシの美学だ。
オバマも安倍も、最後の資産をキレイに使い切った。


家族売買

2021年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

木星が魚座に来ると、ペットの状況にも改善がある。
韓国では犬食禁止の動きがあるし、世界的に代替肉の話題も盛んだ。
先日フランスは、ペットショップでの犬や猫の売買禁止を決議した。もともとペットショップは少ないそうだが、日本よりは正しい判断だろう。
単純に正しいと言い切れないのは、動物愛護団体の情緒的な圧力は生命全般を考えたものではなく、生命を恣意的に区分けしてのことだからだ。
豚や牛は食べるためにあり、猫や犬は友達で、イルカやライオンは自然の許す限り守ってあげなければならない。実に傲慢な感覚で、自らを疑うことがない。

それでも、日本よりましなのは、一応、仲間と認めた存在を売買するようなことは、筋が通らないと解っているからだ。
日本のように、売買を前提にしながら、平気で「ペットは家族」などとは言わない。
モンゴルの羊の話を聞きながら、日本のタレントが「どこで買ってくるんですか」と問うと、モンゴル人はしばらく答えられなかった。日本は何でも「店」で買うことに慣れ過ぎている。

昔は、北の宿で編んだ手編みのセーターは最大の愛情表現だったが、その後、工業製品のブランドに押しのけられてしまった。今や日本人は、飛び込んできたスズメの子に餌をやるのは動物虐待で、魚釣りはリリースで帰してやるものだとしながら、一方で、命はちゃんと金を出して買うのが、正しい方法だと信じている。
これは、欧米の形を真似ただけの態度だ。ご都合主義の欧米だが、食肉文化としての行為にはそれなりの論理があり、ペットと家畜は別けている。

ただ、逆説的に考えると、「家族」を買える感覚は、生命は皆等しいと考える仏教的な、ある種の東洋的達観によるものなのかも知れない。
東洋の人間観や社会観は、人間中心の欧米的「存在権」では測れないものがある。自殺の多さや人身売買、民衆の奴隷化、あるいは個々の隷属意識なども、欧米的な「自我意識」ではありえない人権の希薄さだ。しかし、裏を返せば、黒人は人間ではないと考えて区別をしていたというわけだ。
何が正しいのかは測れないが、例え東洋であっても、身売りも自殺も最大の悲劇だ。
ペットを家族と考えたいのなら、売買ではなく、縁によって出会うべきものだろう。

買って来た人形を一生大切にする人もいるが、飽きたらゴミ箱に捨てる人もいる。ペットが捨てられるのは、買える物だからだ。欲しくなったらまた買える。
しかし、家族は買えない。親は選べないし、願っても子供が得られない人もいる。
家族は良くも悪くも、縁による。常に自分に都合の良い、愛すべき存在とも限らない。むしろ、苦労や足かせにもなる。
血縁でなくても結婚や養子縁組で家族にはなれるが、金が絡んでいると、金の切れ目が縁の切れ目となる。
やはり、家族は金ではない

P.S.
なお、売買によらないペットは、保護センターなど色々方法がある


神の御業

2021年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

コロナは神の啓示だ。
コロナ・ウイルスの危険度など、歴史上の疫病に比べれば無に等しい。しかし、この事件は人類の生き方を変える契機になる。
コロナによって一時的に止められた産業は、長期的に見れば変質し、消滅する。
飲食、航空、自動車・・・など、湯水のような化石エネルギー消費を前提にした産業が、コロナ拡散と一致した。
これらの産業の悲鳴は痛いほど解るが、賢明な人はコロナ禍で生き方を変えるだろう。

一時的な停滞で、やむなく現場を離れる人を始め、見切りを付けて離脱する人、さらには意味を悟る人、事情は様々でも、ニーズそのものも低下し社会が変わる。
今現在も、コロナショックで需要の低下を招いた石油原産国が減産しているが、既に石油を前提とする産業への投資が減り、ここから産業そのものも量的質的に変化し、人々の労働、生活条件が変わり、社会文化が変わる。

温暖化対策会議を何度開いても、炭素取引など愚かなビジネス以外に、何も進まない小田原評定だが、コロナは世界を脱炭素社会に変える、強烈パンチだ。
コロナ禍そのものが、化石文化の爛熟で生まれたことを思えば、まさに、偉大な神の意思であると、畏れ入るしかない。


チン穴子

2021年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

11日。中国共産党は「歴史決議」とやら言うものを採択した。
11月11日は、以前は「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」から「下駄の日」として知られていた。ところが、テレビでは、並んで首を出す「チンアナゴの日」として紹介していた。下駄を履く人もいなくなった近頃では、やむを得ないのかも知れない。

中国共産党の意思決定は、総会方式で定められ、こういうやり方を「全過程人民民主」として、欧米の選挙による民主主義を超えるものだと、中共は自画自賛している。
党員の党員による代表者が集まって、上からの意思をシャンシャンと賛同する単なる儀式にしか見えないのだが、これが民主主義だというのなら、中国歴代の帝国は全て民主主義だったことになる。

また、欧米の思想を知らないほぼ全ての中国人民も、「全過程人民民主」を全く疑うことがないのだろう。
欧米思想を取り入れて2世紀近くになる日本でさえ、形式とは裏腹に、人権や民主が個々の意識に染みこんでいるとは思えないことばかりだ。中国人民が人権に基づかない「正義」を支持するのは、何の不思議もない。

大会場に、皇宮の君臣よろしく参列するニュースを見ながら、
「そうか、今日はチンアナゴの日か」と、妙に納得した。


真面目局

2021年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

もう、半世紀ぐらい前の話だが、インテリア関連のアルバイトで、NHKの放送センターに行った。既に運営中だったが、まだ、建設中の部分もあり、アルバイトの内容は各部屋のルームナンバーを貼り付ける仕事だった。

リーダーの前田さんに従って、アルバイト二人がアクリルの数字を、部屋の入り口の上に貼り付けて回るのだが、
一応、寸法は測るが、前田さんは
「あまり、寸法に囚われないように。文字の形や部屋の配置の関係で、かえって見た目がズレてしまうから」と言いながら、何部屋か手本を示して回り、あとは前田さん一人とアルバイト二人に別れて回ることになった。
前田さんは慣れているので一人で見当を付けられるが、アルバイトは貼り役とバランス判断と二人でやる必要があった。

放送センターがどういう構造になっているのか、どこにいるのか解らないまま、指定された順序に作業を進めていった。
一つの部屋の中に別の部屋の入り口がある場合も多く、ガランとした、だだっ広い部屋で床に図面を広げ、間違えないように二人でしゃがみ込んで確認していると、
突然、40歳ぐらいのメガネを掛けたスーツの細い男性が飛び込んできて、
「なんだ!君たちは!誰の許しを得てこの部屋に入ったんだ!」
と、早口で絶叫のようにまくし立てる。
あっけにとられて、二人で顔を見合わせながら、
「前田さんに言われてきました・・・」
間抜けな返事だが、それ以外に何の根拠もなかった。もちろん入館証などもない。

と、突然その男性は、号令を掛けられたように姿勢を正し、
「あ、そ、そうですか」
と慌てて出て行った。
アルバイトの相棒のキョトンとした顔を見ているうちに、笑いがこみ上げてきた。
「アハ、アハ、アハハハ・・・きっと、勘違いしたんだよ」
当時のNHK会長が前田という人だったことを思い出した。

ウソのような話だが、思い出すたびに笑えてくる。
と、同時に、NHKの体質を垣間見た、忘れられない出来事だ。
身なり風体の定まらない若造には虫けらのように接し、偉い人には名前だけでも震え上がる。名前を聞いただけで畏れ入り、どこの前田さんですかとさえ聞き返せない。
当時は、戦後まだ30年も経っていない時だから、社会的な上下意識は残っていたとは言え極端な態度だった。少なくともNHKの内部で、あの人は普通に過ごせていたのだろう。
その後のNHKの報道姿勢や出演者、様々な関係事件を見ていても、NHKの体質は根本的に変わっていない。各地の県民性があるように、大学カラーや企業体質は時代が変わっても変わらない。
若い頃は、御用放送のNHKに、受信料は払うべきではないと思っていたが、視ているうちに、最も確かなソースであると気づき、これは払うべきであると考えを変えた。したがって、情報は信じるが配信姿勢は信じない。ウソではないがモザイク情報もある。
NHKは権威主義と同時にくそ真面目で善意だ。しかし、善意は何を基準にするかによって非常に危険なものでもある。


道理思考

2021年11月08日 | 占いばなし

科学時代の現代でも、根拠の無い言説に振り回される人は少なくない。と言うより、その方が多数派だ。
恐怖や快楽、願望で情緒的に言葉を聞き、その言葉に流される。言葉の持つ意味や多面性、発せられた背景などは考えず、いきなり信じ込む。
これを逆用するのが「レッテル貼り」であり、刺激的な言葉や、事実を装う情報でレッテルの信憑性を高める「ステルス洗脳」が横行する。

そんな馬鹿なことはしないと、理性を自負する人も、実は科学「信仰」に洗脳されている。コロナ禍で流行った言葉、ファクトやエビデンスは、科学的裏付けと信じられているが、事柄や数値の意味を理解できる人は、ごく希な専門家で、大多数の人は結局、そうした言葉のイメージが生む「レッテル」しか見ていない。
詐欺師の話はなぜか、理路整然とつじつまが合っている。次々と繰り出す単語を、聞く側が勝手に自分でつじつまを合わせ、話を成立させるからだ。「皆まで言うな、解る解る」と勝手に理解し、思い込む。
オームの麻原彰晃に、高等教育を受けたエリートが付いていったのは、彼らの願望とプライドが、知識を駆使してでたらめな話を補い、「超人」教祖を完成させたからだ。

知識豊富な現代人は、「ウイルスが」、「何%が」と聞くと、ウイルスや統計の奥深さなど考えもせず、有り余る知識をつなぎ合わせ、解らないところは「専門家の保証」でスルーし、全部解ったようなつもりで「えらいコッチャ!」と走り出す。
科学時代の今日でも、世の中は情緒的な信仰心で動いている。今回のコロナのように未知の脅威の前では、たちまち馬脚を現す。コロナ禍も、実は情報パニックだ。

捨てられた方法
今日の判断根拠が科学であるように、古代では占いは立派な判断基準だった。
科学時代でさえ、曖昧な情緒的判断が世の中を動かすのだから、占いの時代は言うまでもない。ましてや、科学時代の化石となった占いは、人心を惑わすだけの妄信であり、実際に、世の中ではそのような存在だ。

当然、占いに関わるには、この点を厳しく踏まえなければならない。
占い信者の情緒に迎合せず、一方では科学的な「正しい情報」にもこだわらない。事実としてあることよりも、あり得ることは何かを常に求める。
ワニの河を渡るヌーの群れは「何頭」死ぬかではなく、結局、ヌーとワニは絶滅するのかしないのかが問題だ。全財産を失った人は、失った「額」よりも、死ぬのか生きるのかが問題だ。迷信も科学も超えて、大切なことは何かを考える。
合理性でも情緒でもなく、事実を超えた実体、「ことの本質」を探る。それが本来の占いマインドだ。占いの信者になってはならないが、迷信と一蹴する人も、また別の信者だろう。

占いは森羅万象の原理に従うことであり、動機においては科学と変わりはないが、事実よりもその背景を見る。これは、道理を求める仏道修行に通ずる。
仏道修行は自ら法を悟り体現することにあるが、占いは法を利用する。あえて言えば、スポーツ選手と観客の違いだろうか。主客の違いはあっても、ともにスポーツの価値を知っている。
ただ、仏道も占いも、スポーツ科学のような手段ではなく、道理によってあり方の是非を問う哲学だ。

「何が正しいか解らない!」と混乱する情報過多の現代こそ、道理が求められる。
情緒に支配されていた非科学時代の占いや宗教は、実は、情緒を排除する試みだった。迷いを断ち、とるべき行動を考える。それは、現代においても何も変わらない。
科学時代の現代さえ、世間は科学を迷信に変える。直情的判断は、人が動物である限り逃れられない習性だ。
今、世界的に宗教が見直されているのも、情報過多の「迷いの時代」だからであり、占いもまた「迷い」を断つ方法としてある。

科学と道理の遭遇
科学が到達した、実態を見極める一つの手段として、AIによるビッグデータ解析が進化しているが、現在の所、これの受け止め方もやはり量的解釈に止まっている。古代の宗教や占いが求めていたものは、物量や経験を超えた不変の道理だった。

道理から考えるとは、たとえば現在、気象データの解析が温暖化を示していたとして、それを戻すべきかこのままで良いかを考えるのは、AIによる分析や真偽論争ではなく、道理による。
温暖化を止めようとするのは現状を守るためだが、放置すれば人類は滅び、地球は再び常態を取り戻す。また一方、止められない温暖化の中で、人類が進化し適応し、宇宙に生き延びたりするのなら、それは、宇宙生々の使命なのかも知れない。
そうした諸々の状況と可能性の前で、あるべき姿、とるべき行動は、科学ではなく道理にある。科学は事実しか示さない。
道理には形も論理も無く、説明が付かない。なぜなら、人智を超えた次元にあるべきものだからだ。デタラメな謀りのように聞こえるかも知れないが、要は、敬虔で謙虚な思考の姿勢だ。
道理に基づいて考えれば、
知りうることが全てでもなければ、知らないことを怖れることもない。
そして、自分で考えることを止めた時から、迷信に生きることになる。

 


貝になる

2021年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム

中露が極超音速ミサイルを開発し、北朝鮮まで開発しているという。
ミサイル迎撃システムという道楽システムで荒稼ぎをする、アメリカの詐欺的商法に金を搾り取られていた日本は、ある意味で助かったのかも知れない。
「飛ぶ鳥を落とす」とは不可能に近いことの例えだ。迎撃ミサイルは発想が根本的に間違っている。太平洋戦争の最中、神風特攻対策で米軍は弾幕のバリアーを張った。これが実戦の発想だ。(防衛防御

アメリカの迎撃ミサイルに対抗してロシアが、極超音速ミサイルを考えたのは、すごいようで、同じ発想の延長線上に過ぎない、戦略兵器における矛盾の戦いだ。
今や、ドローンや電磁波が実戦の主流になりつつある。
古い発想から抜け出せていない老舗のアメリカロシアを尻目に、新しい可能性にすぐ飛びつく中国は、サイバーはおろか着々と新領域を広げている。日本はアメリカに頼っていては、全てにおいて負け組になる。

核やミサイル、戦闘機など、アメリカが重視する分野より、既存の概念から離れた。兵器とは関係ないような独自の分野で、何が本当に役に立つ防衛か考えて動く必要がある。
昔のSFにあるような、日本全域を覆うバリアシステムを本気で考えるべきだ。
ミサイルも電子機器であることを考えれば、それほど難しいこととは思えない。
超結果主義の中国は、必要以上の核を持つより、使える実戦兵器を開発し、既に使用している!!!

兵器と文明の歩みは常に同じだ。複雑で入り組んだ高度文明が、コロナ一つでダウンした。国土防衛は、湯水のように金を使う高度技術ではなく、発想の転換こそがカギになる。ただし、歌や祈りは平和の使者ではない。天安門、ミャンマー、香港・・・今、そこにある危機だ。
それにしても、こんなことを考えなければならない国に囲まれていることは、本当に泣けてくる。
「深い海の底の貝になりたい」


中国の罠

2021年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

中露の日本周回軍事演習は、日本海を挟むロシアは解るとしても、中国の行為は明らかに挑発だ。だとすれば、日本の選挙に露骨な圧力を掛けたことになり、反発した日本の少なからぬ有権者が、改憲勢力に投票した。
中国は一体どういうつもりなのだろう。日本人が恐れ入ると思ったのだろうか。
あまりにも稚拙だ。
が、中華5000年の知恵がそんなものとは思えない。

習近平が繰り返す得体の知れない「中国の夢」には、実は、『日本と戦争して雪辱を果たしたい』が含まれている。中国の夢とは、近代の屈辱の歴史を払拭し、中華帝国の誇りを取り戻すことだ。
最大の目標は世界の覇王だが、少なくともアジア全域の覇者には成りたい。その第一歩は、欧米ならぬ、小さな日本にしてやられた歴史を塗り替え、日本を隷属させることだ。
欧米にはかなわなくても、日本なら勝てるはずだ。それがかなうだけでも、中国人のプライドはじゅうぶん満たされる。

台湾征服は建国以来の目標だが、日本を従えれば、溜飲が下がる。日本と現在のような国際協調関係でいることは到底納得できないのが、中国人の本音だ。
日本人はのんきに水に流したつもりでいるが、一般の中国人が「中国はひどい目に遭ってきた」と素直に発する言葉の節々に、恨みがこもっている。この恨みを簡単に晴らせそうなのが小さな日本だ。だからこそ、何かにつけて日本に上から目線で物を言う。その論調には『ガマンしてやっているのに』が含まれている。

今の中国なら日本に余裕で勝てる。なんとか正式に戦争をしたい。
ところが、日本は平和憲法を掲げ、世界に平和主義を唱えている。いくら中国が乱暴でも、無抵抗の相手に手を出すのは大義が無く、世界を敵に回すことは百も承知だ。それは中華のプライドが許さない。なんとか先に日本に手を出させたい。それが尖閣挑発だが、日本は我慢強く手を出さない。これは、やはり平和憲法があるからだ。

今回の、選挙の最中の挑発は、どっちに転んでも損はない。中国の「英断?」だ。
日本人が恐れ入れば即効性の特効薬になるし、怒って、普通の国になる改憲に動けば、何時でも戦争を仕掛けることが出来る。戦争の大義などどうにでも後付けできる。
中国は欧米と戦争する気はないが、日本に対してはウズウズしている。
日本が普通の国であれば、速攻の局地戦で結果を出し、素早く停戦して、既成事実を作れる。日本を占領する必要はない。「勝った」という一言だけが欲しい。中国のマウントを確かなものにするためだ。

韓国は日本に対して素直な攻撃を仕掛けてくるが、とても老獪とは言えない。しかし、中国は舐めてはいけない。そして、日本はどこまでも慎重に、胆力と知恵で立ち向かわなければ、罠に墜ちることになる。今こそ改憲を「深く深く」考える時だろう。


政治胎動

2021年11月02日 | 日記・エッセイ・コラム

衆院選の結果がでた。どの政党も予想外だったようだ。
共闘で勢い込んでいた立民や共産は当然だが、一番ガッカリしたのはメディアだろう。
「政権交代!」が起これば、コロナ後の大きな飯の種ができる。ワクワクしながら応援していたら、政権交代どころか議席を減らしてしまった。

この失態で、メディアは全く触れないが、保守勢力の圧勝を助けたのは、習近平だ。
与党の強みは安保問題だが、選挙戦と同時に中国とロシアが、史上初めて日本を一周して軍事演習をした。一体、中国は何を考えているんだろう。不思議で仕方ない。
台湾の選挙の時もそうだったが、軍事的圧力を加えれば、選挙民が震え上がって、「早く、中共様に近い政党に投票しなければ!」と動くと考えているのだろうか。
やはり、選挙をしたことがない権力者は、選挙民の心理が全く解らないようだ。民は抑えつければ付いてくる?・・・豚や羊ではない!

メディアが全く無視する中露の圧力を、地政学に敏感な人々が見過ごすわけがない。
「政権交代!」祭りに浮かれている間に、黙々と保守に向かった。
しかも、荒んだ日本経済の立て直しを、具体的に語ったのは維新だけだった。
アベノミクスの失敗は、本丸である第三の矢が折れてしまったことにある。
これを語ったのは唯一、維新だ。他の政党は大なり小なり、分配ばかり語っていた。目の前に分配で失敗した韓国があるのに、日本は未だに高度成長期の夢を見ている。
既存政党の古参が落選し、これまでメディア総掛かりで叩いてきた維新が伸びたことは、日本の有権者の真面目さの表れだろう。

政党も政治家も、世代交代が始まった。野党共闘や政権交代の発想は既に時代遅れだ。
選挙権を18歳にしたのなら、オンライン投票や被選挙権年齢引き下げを含め、政党政治の在り方そのものまで、変わらざるを得ない。
今回の変化は、その始まりを告げている。


憧れの的 3

2021年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム

眞子さま騒動に、王皇を否定する中国、ベトナム、韓国が、皇女の結婚相手としてふさわしくないと、口うるさい親戚のように、わざわざ非難したのには笑ってしまった。

欧米が英国王室を有名スターのように観ているのとは違い、日本を含めアジアの論調は、しかるべき身分、社会問題の一つとして是非を論じている。
欧州の王は、神の下に平等な、人間界の単なる有力者だが、神がいないアジアの王皇は神に匹敵する立場と受け止められている。
この騒動は、アジアの人権理解が、欧米とは異次元であるということだ。

アジアが欧米の文化を入れて二百年。言葉は行き渡ったが、ほとんど全く違う理解で過ごしている。裏を返せば、東洋人と西洋人が同じテーブルで話していても、同床異夢ならぬ同言異夢であり、言葉が一致するほど互いは離れていく。
その結果、例えば、日本の言い分より韓国の言い分の方が世界に通用したりする。真意を伝えようと腐心するより、言葉で相手が早合点するのを利用する方が早いからだ。
慰安婦問題を文化や歴史の経緯を飛び越えて、「人権問題」とか、「奴隷制」とか、欧米人が最も反応しやすい言葉を並べて、行動を引き出す。自分が理解して主張するのではなく、とにかく相手が動くなら何でも良い。

「みんながそう言っている」のような、既成事実と錯覚させる言葉遣いは、中国を始めとするアジア得意の「空念仏」で、 自分のことを棚に上げ「覇権主義は止めよ」「既に世界の知るところである」などと、平気で言う。言葉は単なるBGMで、これで相手が動くなら、儲けもので、始めから期待していない。
説得や理解などより、言葉は糊塗するためだけにある。饒舌は言葉に意味が無い。「巧言令色鮮し仁」は孔子の教えだが。孔子学院を広める中国には、古来それだけ口先人間が多く、結果だけが真実だと考えているから、白髪三千丈などの事実と関係ない言葉が平気で踊る。

人権は言葉から生まれる
欧米人は「はじめに言葉ありき」と考え、日本人には「言霊」が染みこんでいる。しかし、中華思想にはこれが希薄だ。
魂や思想そのものが言葉に表れると考える欧米や、発した言葉そのものが魂であると考える日本は、言葉だけを機関銃のように発することが出来ない。言葉はウソやお世辞を含めて、思想そのものだ。つまり、ウソも意図的なものと考えられる。
日本人が大陸の思想を学ぶ時、おそらくは、歌のように発せられた言葉を、根掘り葉掘り返す返す吟味して、原典よりも深く理解していったのではなかろうか。

言葉とそれを発する者が一体化している欧米や日本が、人の存在、つまり人権に目覚める素地があるのに対し、言葉が現実を補う道具でしかない中華思想は、人間以外の何かが上に存在する敬虔な感情が生まれない。人の上に人を作り、人の下に人を作る差別思想だ。
欧米の唯一神や日本の精霊のような、畏怖の対象がないから、皇帝を最高位に置く。天は、だまって見ているに過ぎない。
日本の天皇も、古来の日本列島にあったものではなく、大陸の渡来人がもたらした中華思想であり、その神話にしたがったとしても、2700年にもならない。
ただ、日本で中華思想が独特の理解をされたように、天皇も中華の皇帝とは異なる、現世に影響しない存在に変化した。

皇帝と差別の中華思想は、皇帝がいなくなった今も健在だから、大陸のトップは皇帝のような存在になり、その価値観で見れば、日本の皇室問題も、ゆゆしき問題として黙っていられなかったのだろう。
日本で、皇室問題を喧しく責め立てる人は、12000年来の日本人ではなく、中華大陸の末裔なのかも知れない。