魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

大笑いだ

2022年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

ドイツに勝ってコスタリカに負けた。
小泉八雲の怪談の話ではないが、一念に囚われると他のことが飛んでしまう。
ドイツに勝ちたかったし、ドイツに勝って、日本中が喜びすぎた。
当然、選手は締めていくつもりだっただろうが、祝福が押し寄せる中では締め切れなかったのではなかろうか。

試合開始の瞬間は良かったが、たちまちコスタリカペースに巻き込まれてしまった。
守りに自信のあるコスタリカは、しっかりスペイン戦の立て直しをしてきたのだろう。
攻撃的な気配をすっかり消して、「酔拳」のようなノラクラ戦法に日本が呑まれてしまった。柔よく剛を制するだ。
ドイツ戦の後は、コスタリカが小さく見えたのか、対戦予想より日本中がドイツ戦の喜びに覆われていた。ワールドカップは甘くない。ドイツさえ負けたのだ。

何事もそうなのだが、本当に、日本は相手に併せる。強い相手には強く、弱い相手には弱くなる。コスタリカが弱い相手ではないが、「酔拳」戦法に酔わされてしまった。しかも、相手は日本のドイツ戦を逆手に取ってきた。
森保一監督は「1点差」の「保一」だと言う人がいるが、ドイツ戦も1点差、コスタリカにも1点差のつもりでいたのだろうか、1点差で負けた。しかも、たった1本のシュートで・・・今頃、世界中が大笑いだろう。
この上はせめて、相手なりに強くなりスペインを撃沈してもらいたいものだ。

→「大大笑い


兄弟喧嘩

2022年11月25日 | 兄弟関係

兄弟ゲンカと一人っ子
国を兄弟関係に見立て、朝鮮半島を末っ子と見たら、日本が上だと思っているのかと、批判する人がいたが、兄弟関係に上下はない。生い立ち環境の違いによる性格形成の違いを観ているのであって、格付けをしているわけではない。それぞれに長短がある。
上下を気にすること自体が、既に弟妹型の発想だろう。

長子は弟妹の悲哀を味わったことがないから、立場の上下を理解できない。皆同じだから、それぞれ自分の好きなことをやれば良いじゃないかと思っている。何があっても責任を問う相手がいないから、自己責任で解決するつもりでいる。
これに対し、既に兄姉がいる中で生まれた弟妹は、兄姉と同じことができないのは、兄姉が特別扱いされているからだと責任転嫁できるし、兄姉を手本に同じ事をしようとして、逆に兄姉が障害になり、克服する目標になる。一方で、多くは兄姉が責任を取る中で育つので、何かの問題は先ず、自分以外の誰かの責任だと思う。そして良くも悪くも他者の存在を意識し、他者を必要とする。

長子型の国は少ない。実際の兄弟でも長子は一人しかいないが、弟妹はいくらでも生まれる。長子型の国は中国で、イラン、インド、エジプトもその名残がある。長子の原型である一人っ子型は日本だ。古来からの大きな島国は皆一人っ子型になるが、どこにも支配されずに統一した島国は珍しい。
一人っ子の短所の多くは、親の過保護による甘えとワガママだが、国には保護する親などいない。

末っ子型の国は、大国の狭間で常に翻弄されてきた国だ。東アジアでは朝鮮半島がまさにそれに当たるが、他の大国の狭間にないベトナムは一人っ子に近く、他人に文句を言わない。一人っ子は文句を言う他者がいないからだ。西欧の末っ子は東欧の小国であり、ウクライナはその最たるものだろう。
末っ子型の国に共通する特徴は、鼻っ柱が強く、世界(周囲)に向かって大声で存在を主張しても最後まで貫かず、形勢の良い方につく。それまで属してきた国が弱体化すると被害者でしたと時の強者に訴え、味方にすると強気になって元の宗主を叩く。自分では手加減が解らないから、周囲が味方しなくなったり、大国に叱られて初めて止まる。情緒的な民族意識ばかりで、一貫した国家観が無い。

末っ子に巻き込まれる
国のタイプを、このように観ると、ウクライナ戦争を単純にウクライナ一辺倒で応援することの危険が見えてくる。
実際の兄弟では、川遊びで助けようとした長子が死んだりするように、末っ子の無軌道に長子が巻き込まれることが多い。小国の民族意識は世界大戦の引き金になる。
第一次大戦はバルカンで起こり、第二次大戦はチェコスロバキア、日清日露は朝鮮半島で起こった。いずれも直接の衝突ではないが、大国の狭間で揺れ動く民族意識、小国の自己主張が引き金になった。
攻め込んだ国は侵略者だが、正体の無い民族主義は常に大国を挑発する。

長子には親代わりの責任感覚があるが、親ではない。「子供のケンカに親が出る」はあり得ない話の例えだが、弟のケンカに兄が出るのは普通にある。
賢明な兄なら、本当に親代わりになって「話を付ける」。親がケンカに出ないのは、世間のルール、秩序に生きているからで、
「うちの子がご迷惑をおかけして申し訳ありません」、「いえいえ、親のしつけが行き届かないものですから」と、それぞれ家で子供に教育をすることになるが、
ルールの無い子供の世界で、相手の兄を大人のルールに引き込み説得するのは本当に賢明な兄だ。

ウクライナ戦争は、兄弟ゲンカの弟に武器を与えて加勢している無責任な近所のおじさんだ。何より先にすべきは、手を出した兄の説得だろう。
アメリカは末っ子型の大国だが、長子の中国は黙って様子を見ているし、中間児のトルコは、自分が怪我をしない程度に絡んでいる。
長子は進んでケンカを買わない、相談されて裁く。逆に言えばそれしかできない。6カ国協議も中国らしい発想だ。
漁夫の利を狙う中間児は、進んで動かない。今回はその中間児ロシアが張本人だから、トルコのような国が出てきた。

末っ子大国アメリカは、何時も正義の味方で威勢良く出て行って、自分では始末が付けられないトラブルメーカーだ。
兄弟との付き合い方を知らない一人っ子日本は、白村江の昔から、愛想の良い末っ子を信じて出て行き、結局、全てのスケープゴート、悪者にされる。
第二次世界大戦の大悪党にされたのも、もとはと言えば維新以来の朝鮮問題だ。
ウクライナ戦争は結局、米露戦争であり、アメリカは戦時交渉をする気はあっても、ロシアを説得する概念すらない。

日本はまたまた、末っ子の言うがままに踊らされている。日本は、その気になれば米露どちらも説得できる立場にあったが、早々に国を挙げてアメリカ側に立ってしまった。
アメリカ側に立つことによって、白黒ハッキリ、気持ちはスッキリしたが、立場が狭くなり、中露の信頼を失い、国の存亡をかけることになり、今や国論は軍事一色に傾いた。
一人っ子日本は、二枚腰三枚腰を備えた、生き馬の目を抜く世界を知らない。また、知ったところでそんな芸当はできない。やっぱり、永世中立の鎖国しかないのかも知れない。


自転車道

2022年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

自転車走行が問題になり、法律も変わり、規制も増えたが、何かズレている。
自動車のような重量もなく、人並みに小回りがきく自転車をどう走らせるのかは本当に難しい。
町中で自動車を見かけることが戦車並みに少なかった時代には、自転車は立派な「車」だった。それが、自動車社会になって相対的に歩行者類になった。
そして、その歩行者類を規制しようとするから、妙な禁止や義務が加わった。

イヤホンや、傘差し具の禁止をするなら、車のカーオーディオやナビも禁止すべきだ。
ヘルメット装着はバイクも含め、命の自己責任問題で、死傷されたくないのは保険会社や国・警察などの管理者側だ。
通常の自転車走行で最も危険なのは、「無灯火」と「片手スマホ」だが、この取り締まりがイヤホンや傘差し具と同レベルに扱われている。

自転車の歩道走行は全面禁止にすべきだろうが、そうならば、電動車椅子やシニアカーも同じだ。電動車椅子の規制などと口にすること自体が非難対象になるが、誰が乗っているか以前に、何に乗っているかが問題なのだ。スーパーや雑踏で怖い思いをした「健常者」はいないだろうか。

抜本的に概念から変える
自動車社会になって100年以上も経つのに、道路や交通の概念が変わっていない。
「自動車道」という言葉が示すように、昔ながらの道は自動車が走るために生まれた道ではない。
町中に車を走らせるなら、車が不便でも当然だ。
街道や自動車道ではない全国の街路は全て一方通行を原則にし、町の信号は同時点灯する。余裕ができた道に自転車専用道を設け、歩道乗り入れを禁止する。そもそも、それができないような道は自動車の乗り入れに適さない道だ。
駐禁がうるさくなり、宅配業者はリャカーで回っているが、自動車の入れない道の入口にはリヤカーや台車を常設する。

こうした自動車の基本原則を前提にして、自転車も人とは違う責任がある走行域を設ける。
要するに、自動車、自転車、人の住み分けを、概念から変えない限り、自転車の規制だけでは、安全で住みよい町にはならない。


平均選挙

2022年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカの中間選挙でメディアは盛り上がっている。民主主義と言えば選挙だが、その民主主義は権威主義に押され、近年、疑問視されている。
保革の周期的な波もあって、民主主義がおざなりになり、老朽化しているからだ。
その最たるものが、根幹となる選挙で、情報化時代の認識変化にもかかわらず、古来の対面選挙が全く改められていない。

選挙で議論することで民主主義の活性化を維持していた時代から、相手の意見を聞かない、単なる罵り合いに変わった。
現代人の認識は、目の前の演説ではなく、ネットやメディアで刻々と変化する。にもかかわらず、相変わらず街頭で叫んだり、日本ではドブ板選挙で土下座までする。その上、投票所に出かけて手動の「一発勝負」にかける。しかも、それをまた人手で数え、誤投票や不正だと、枝葉末節のもめ事に終始する。
思考がネットでリアルタイムに変化する時代には、選挙もその実情を反映してしかるべきだろう。

選挙日と投票所を決め、出かけていって一発勝負など、どう考えても不合理だ。
ITで社会コンセンサスが変わる時代には、ITで選挙すべきで、一定期間何回か「ネット投票」し、そのアベレージで当落を決めれば、誤投票や心変わりを吸収でき、投票率など論ずる必要もなくなる。投票所も、演説会場もポスターも要らない。選挙サイトに全て集約し、ポップアップで常時誘導すればいい。
また、立候補も、無条件で誰でも立候補できるようにし、立候補していなくても「成ってもらいたい人」の推薦枠を設ける(ただし、タレントなど、ネットやメディア出演で稼いでいる人は除外)。

民主主義の代表のようなアメリカでの、選挙混乱を見ていると、コミュニケーションの状況変化を全く取り入れていないことが良く解る。ネットそのものが思考の分断を生むインフラなのだから、逆に、ネット環境の改革と、ネットによる民意の形成に向き合うべきで、積極的にネット選挙、ネット投票を取り入れてこそ、現代の民主主義が活性化する。毒こそ薬にしなければ、もつたいない。


昔の日本

2022年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

昔の工作」を書きながら思った。
凧から何か撒いたりすれば、すぐ、抗議や警察の目にとまる時代になった。凧を揚げることさえ問題にされるかも知れない。電線や電車など危険もあるし、他人の家に落ちても問題だ。小さな問題も防ごうとする時代と日本の衰退と、ほぼ比例しているように思う。

「昔は良かった」と言うわけではない。何事にも一長一短がある。日本の高度成長期には、様々な事故や犯罪、喧騒に溢れていた。小さな気象異変でも大災害になった。
だが、それでも皆、自由気ままな生活をしていた。猫が魚屋の魚を盗み、道には犬の糞が転がり、野良犬が徘徊し子供が追っかけられた。至る所で子供が喧嘩をし、野球のボールが窓ガラスを割り、どこかのオヤジが怒鳴り、オバサンがなだめに入った。

細かなことまで抗議する不寛容な人間は、子供から大人まで、放置され相手にされなかった。皆、食うのに必死で、前しか見ていなかった。
面白いのは、敗戦直後、精神病が激減し、経済成長と共に少しずつ増えていったそうで、生活に追われている時には、些細なことなど気にしているヒマがないと言うことだろう。

そんな、敗戦から高度成長の時代には、飛行機からのビラ撒きが日常で、今、毎日スマホに送られてくるような、お知らせや広告ほど頻繁ではないが、毎日のように飛行機からビラが撒かれ、子供達が拾いに走った。戦時中、米軍がプロパガンダビラを撒き、それを拾うだけで罰せられた時代の反動だったのかも知れない。ゴミ問題や拾う子供の危険で、今なら考えられない。時々、ビラが塊のまま落ちた話まであったように思う。
ただ、空中で広がるビラには花火のような感動があった。しかも、花火と違い、雪のようにいつまでも空に舞っている。だから、凧から自分で何かを撒けるのは、工作の醍醐味だった。

黒船、進駐軍の次の霹靂は?
何でもありの戦後昭和は、他人にケチを付けても誰も聞いてないし、そんなヒマがあったら、自分のやりたいことをやっていた。その中で、HONDAバイクやSONYラジオが生まれ、手塚アニメや、円谷怪獣が生まれた。
今と比べれば、目標の障害以外には、何の足かせも無い時代だった。これを言うと解ってもらえないのだが、今のように日本人を萎縮させたのは、ひとえに進学社会、偏差値社会だ。

今の日本の現役社会人は、偏差値の中で育っているから、画一的な基準で人を測ることがいかに異常かが、実感として解らない。自分の基準に気づかず是非を語り行動する。その結果が、企業の内部留保や、あらゆる規制であり、いちゃもんだけのメディアだ。
日本が敗戦まで突き進んだ過程は、画一的に優秀な軍人エリートによって社会が動かされていたからだが、平成後の衰退は、偏差値エリートによる「失点」を避ける職務遂行と、宗教団体のような画一社会を、誰も疑わないことだ。変わったことは何も許されない。

統一教会問題で、誰を責めれば良いのか、みな愕然としている。あまりにも広汎に広がっており、この問題が、日本の体質問題、自分の問題であるとは思いたくないために、取りあえず政治家を責めている。
しかし、最も重要な啓示は、自他にかかわらず、誰かを責めても何も始まらない。そんなヒマがあったら、自分のやりたいこと、自分の信じることをやれということだろう。
もしかしたら、これは新しい黒船なのかも知れない。


昔の工作

2022年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

交通の命1」で、子供の頃、動かす目的で工作した話をしたが、
どんな物かと言えば、潜る潜水艦、浮き上がる水中翼船、風に逆らって進むヨット、雪の上を走る雪上車、など、兎に角、本当にそんなことができるか、やってみたかった。模型飛行機は、どこまで高く上がるか、どれだけ長く飛べるか、尽きない挑戦だった。

中でも、今でもやりたくなるのは、凧パラシュート。何かの工作本で見て試してみたら、大空でパラシュートが開いて、大感動し、紙飛行機などいろんな物を撒いた。
今ならすぐ止められるかも知れないし、ドローンならそれ以上のことができる。
ドローンができる前に、どこかの学生達が凧にカメラを付けて、空撮した映像をテレビに投稿していた。まだ、ユーチューブもインスタも無い時代だった。
凧が大好きで、釣り用のリールを利用できるようになってから、もっと面白くなったのだが、オヤジが独りで揚げるには、法被でも着てないと怪しまれそうで、何十年も揚げてない。ジジイならありかなと思うので、また揚げに行こうかと思う。

「凧空中発出器」の図
(半世紀以上前の記憶なので多少?)
紙の帆で凧まで押し上げ、止め木か板に当たって押し開き、帆も発出物も外れて落下すると、本体は滑って手元に戻ってくる


タワマン

2022年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム

高層ビルからの転落事故が止まない。一月一回ぐらいの事故があると言うから驚く。
高層とかタワマンとか言うらしいが、住人はパワマンのつもりだろう。
近藤春菜が、夢のタワマンに住んだら、住人環境の居心地が悪くて、庶民的な町に引っ越したと話していた。
南青山に児童相談所を建てる話が出たら、住民がステータスが傷つくと猛反対したそうだ。昔、仕事の都合で南青山にいたことがあるが、戦時中生まれの地元の人が麻雀をしながら「俺ンチあの道路のあたりにあったんだ」とポソっと呟いた。勝手にステータスだと思っている新参者は古今東西どこにでもいる。

ガムシャラにガンバる人は、案外、何のためにガンバっているのか解らないから、何か証が欲しい。宝石、豪邸、高級車から勲章まで、勲章がなければ「自分へのご褒美」にする。
すると、そのニーズに目を付けた亡者が「王様、これが目に見えない服です」と騙して金を儲け、その金でまた豪邸に住む。歌舞伎町のホストと客のようなサイクルが回っている。
こういう世界から離れることを解脱という。近藤春菜は悟って解脱したのだ。

タワマンも、ただ見晴らしが良いだけではなく、ガンバリの証のパワマンであり、不正直不動産の売る「見えない衣装」だから、ホストと客の勝手な世界と言ってしまえばそれまでかも知れないが、その高層から落下して命を落とす子供には何の責任もない。
ニュースでは、子供が窓に近づかないようにする話で終わっていたが、これは、建築業者の問題だ。
二階建てぐらいならまだしも、高層を売り物にするような住宅には、落下防止の対策を義務化すべきだ。それを外すのは住人の判断に任せるとしても、防火対策並みの基準があっても良いし、それで高くなるなら、お客様も、なおさらにお喜びになるだろう。


なんとか

2022年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム


皆既月食&惑星食で天王星が見られるということで、慌てて30倍のデジカメを出して、皆既月食の月に向けた。
もちろん、肉眼では見えないから(2.0以上あった昔なら見えただろうが)、適当にシャッターを押した。
拡大してみると、たしかにある! ただ、シャッタースピードのせいか、どれも線状になってしまった。
一枚だけ、何とか、点で撮れていたがドットで四角い天王星になった


第三維新 2

2022年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新から77年で敗戦、それから77年が2022年だが、天王星84年の世相周期で考えると、2022年は=1938年頃に当たる。日中戦争の最中であり、1939年に第二次世界大戦も始まった。
明治維新は1853年の黒船来航からで、ここからなら敗戦までは92年間ある。

しかし、敗戦から84年遡ると1861年頃で、桜田門外の変(’60)やアメリカの南北戦争など、世界中で体制変革の戦争が起こり、維新の動乱もこのあたりから始まる。
明治までは桜田門外から約8年。黒船来航と開国から約15年。
敗戦までは日中戦争から約8年。ロンドン海軍軍縮会議から約15年。
天王星周期としての12星座84年は、もう一星座遡る「鳴動期」があるようだ。

つまり、明治維新を考えても、やはり、2022年は昭和12年前後に当たり、第二の維新=敗戦から84年周期の第三維新は、8年後の2030年頃ということになる。
ただ、周期については何度も言うように、全く同じ事が起こるわけではなく、同じ「意味」のことが起こるのであって、桜田門外の変や敗戦の意味を、既存体制の敗北と見れば、2030年頃に、政治・経済体制の大転換が起こるとも考えられる。必ずしも血は流れないかも知れないが、死んだも同然の人が大量に出る。あるいは出ている。
ただ、「大転換2」以来、何度も触れたように、今は海王星が絡み、敗戦前後より幕末に近い。それでも一応、この程度で収まっているのだから喜ぶべきかも知れない。

ともあれ、死なないためには、現状・現体制を信じて付いていかず、自分なりの防空壕を掘っておくことだろうか。もちろん、地を掘る話ではない。


第三維新 1

2022年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム

ウクライナ戦争と円安の影響で飼料代が値上がりし、畜産農家が困窮している話をたまたまラジオで聴いた。
全てがそうだ・・・
戦後、アメリカの小麦でパン食が広がり、トウモロコシを家畜の餌とし、自動車を輸出して51番目の州に成り切っていた。だから、食糧の自給率も問題にならないし、防衛も外交も追随でお茶を濁してきた。
しかし、今のように切羽詰まると、どの国も自国第一主義になり、ハシゴを外されると国家として成り立たなくなる。日本に残された道は、二つに一つ。完全な地産地消と防衛・外交の独立か、アメリカの51番目の州にしてもらうかだ。

しかし仮に、ニホン州に成ったとしても、軍事的負担は今の比ではなくなるだろうし、むしろ捨て石になる危険の方が大きい。
結局、日本の歩む道は一つしかない。完全な自給自足と国民皆兵、専守防衛による真の独立だ。
国民皆兵と言っても、軍事国家の徴兵制ではなく、運転免許並みの任意の資格にする。男女とも武器の扱いの実技と、戦略戦術の基礎知識の筆記試験で年金の特典を付与するなどし、研修部門の多少で特典を加味する。要は、食わず嫌いの平和主義ではなく、全ての人が軍事の常識を前提に考えることができる平和主義であり、イザと言う時には全国民が武器を扱うこともできる。
専守防衛は、情報収集力は言うまでもないが、敵基地攻撃よりも、完全な防御兵器の開発こそが重要で、電子・電磁・レーザー等などで、攻撃兵器の無力化をする技術は、核兵器廃絶への重要技術になる。核兵器反対をいくら叫んでも裏付けが無ければなくならない。

飢えたら終わり
そして、それよりも重要なことは国の存立の基本、食料、エネルギーの自給自足だ。日本は既に充分に海外資産がある。輸出より先ず自活だ。輸入に頼った経済のために、日本の農林水産はボロボロになった。食文化まで変わり米の消費が落ち込み、山の木は切り出せず、漁業の後継者がいない。家畜に輸入飼料を食べさせるから、雑草が生い茂り日本中が葛列島になり、メダカが売れるようになった。
高級農産品の輸出より、先ず国内の農林水産業の循環とエネルギー政策の転換だ。

国としての自給自足は、各地の地産地消から始まる。中央集権思考は産業革命パラダイムの国家競争時代の遺物であり、次の世界政府の時代は、個の自立から始まる。個人の自立、地域の自立あっての国であり、やがて、個が世界政府の礎になる。
どこかの特産品が大都市で食べられるのは異常であり、地域の物は地域で食べるのが正常と気づき、電気は自家発電、町発電を基本にする。こういうことを言うと、「今」に生きる人から誹謗の嵐が起きるが、物事を基本の「0」から考えられない人の言うことなど気にする暇はない。

マイクロ発電は食料と同様、地域環境によって様々な方法がある。江戸幕府の経済が行き詰まったのは、全国一律に「米」経済にしたことだとも言われるが、今は「米」国経済追随だ。行き詰まった時は、個と地域の多様性を活かしてこそ全体の活力が上がる。
冷暖房にしても、同じエアコンは不合理だ。もし、地域毎に発電を考えれば、地下や海底からの送風を組み合わせた地域冷暖房で、電力使用を削減するようなことも考えるだろう。
日本が低迷しているのは、国策経済による画一化で、個人の意欲、能力が奪われたからであり、地産地消こそが、一人一人の自立意識を高め、知恵を活性化する。
地方が激変し活性化したのは、明治維新と敗戦であり、1945年敗戦の77年前が明治維新であり、77年後が今年2022年だ。


中国の病

2022年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

習主席3期目の続投が決まった。これで、中国沈没のお膳立てはすべて整った。
習近平は、お坊ちゃまエリート集団の長であり、「先人のおかげ」を湯水のように消費している。
先人のお膳立てで成し遂げた経済成長を前提にした、一帯一路のずさんな対外進出。軍拡と戦狼外交。資金投入一辺倒の経済対策。挙句の果ては、共同富裕のためとしてIT企業など金の卵のガチョウを殺す、ゼロコロナで国民の首を絞めて止血する。
これらは、韓国の文在寅政権が最低賃金だけ上げたのと同じ、単細胞政策だ。

社会や経済が一つの生命体であることを理解しない蒙昧であり、毛沢東の大躍進政策と同じ、小学生並みの無知の権力行使だ。こんな浅はかな政策が簡単にまかり通るのは、独裁政権ならではだ。
毛沢東の大躍進政策の失敗は、独裁者への忖度が国を挙げて行われたことだったと言われている。
習体制は、その毛沢東を倣い、批判者を徹底的に排除した独裁体制となった。

官僚国家の中国は、誰が支配しても管理は維持されるから、混乱後に政権が確立すると、いい加減な政策で内部抗争だけに明け暮れる。外敵が来ればひとたまりもない。
律令制を習った日本にも似たようなことが言えるが、海に囲まれた天然の要害だったことと、権力のない天皇がいたことで抜本的な変化を知らないできた。
日本で、天皇が権力を持っていたら、こんなに長く天皇が続くことはなかっただろう。外敵の侵入が無く、摂関政治などで、緩やかに政権交代が起こり、天皇の権力が失われた結果、権威として残った。日本は、滅ぼした相手を神様にして祭る国だ。

大陸は、日本のような蓬莱の島ではない。滅ぼした相手は徹底的に抹殺し、悪鬼のレッテルを歴史に残す。でなければ、生き返ったゾンビに自分が殺されるからだ。
西洋の権威は神であり、日本の権威は天皇だが、大陸には権威がない。権力=権威であり、民衆は権力を持った者を権威と同等に扱う。したがって、権力闘争は生か死かの熾烈な闘いとなる。その結果、権力の目的にはほとんど関心がない。権力奪取能力はあっても、国政能力がない。
毛沢東といい、習近平といい、権力以外には無能な人間だ。権力を持った後のプランが何も無い!だから当然、看板として掲げる政策は思い付きであり、ずさんになる。

権威の無い国
確かに中国の歴史は偉大であり、江戸っ子のようにアッサリした中国人気質は気持ちいい。しかし一方で、大陸の環境には、人間の多様性を涵養し楽しむ土壌がない。権力と管理の中では、多様性は封殺される。その中でまた多様性を知らない権力が育つ。中国の埋もれた多様性を活かしたのは、「吹きだまり」の日本だけかも知れない。
中国大陸の「病」は、絶対権力志向であり、今、欧米が「権威主義」と呼ぶものは、権威と同化した権力のことだ。欧米にとって権威は神のものでなければならない。

権威とは、集団が漠然と認識する価値観の象徴であり、一人の人間が決めるものではない。集団の合意がない権威の押しつけは容認されないから、中国式の権威は、権力と共に失われる。中国では、権威と権力の合体を徳とし、民衆が認めなくなれば易姓革命により権力交代が起こる。だから、権力者は権力を守ることだけに専念する。
独立した権威の無い中国では、権力が力を失えば国は簡単に倒れる。権威による民衆の支えがないから国がそっくり入れ替わる。今、習近平体制が抱える内憂外患はあまりにも多い。
唯一の希望は、習近平個人が豹変するほどの君子である場合だけだ。絶対権力を背景に突然、ゼロコロナを廃止し、西側に譲歩する度量があるだろうか・・・
権力しか知らない為政者は国際社会に対しても、権力闘争を持ち込むだろうが、世界には官僚や中国のためだけの先人の遺産はない。となれば、毛沢東Ⅱに残された手段は、国内大循環や国潮による鎖国型「大長征Ⅱ」しか残らないだろう。


何となく

2022年11月01日 | 星の流れに

ソウルの人雪崩による大事故で、日本でもとメディアは便乗心配をしていたが、ソウルと同じ事故は起こらない。日本には日本の大事故は起こるが、人災事故は文化背景によって異なった様相で起き、異なった結果を招く。
相次いで、インドでも吊り橋の落下で大事故になったが、占星術でも国や文化の形質によって星と共鳴するのであって、どこでも同じ事が起こるわけではない。

ソウルのハロウィーンと、渋谷のハロウィーンは映像で見ても様相が異なる。
もともと、渋谷には仮装した人たちが芝居小屋やステージとして集まったから、基本的に満員電車のような密集は避けたい人たちで、せいぜいマハラジャレベルだ。
ところが、ソウルの映像を見るとほとんど仮想はしていない。ちょっとした化粧はしているが、どう見ても、集まりのために集まった群衆で、自分を見てもらおうという主体的個人の集まりではない。

過去の人雪崩を見ると、閉鎖空間での火災や犯罪、花火大会終了後など、本来の目的と異なり、自分の意志と判断の無かった情況で、一方向の行動を迫られた時に起こっているようだ。
今回のソウルの場合も、双方から「一方向」と思い込んで入って行っている。
もし、仮装を見てもらおうと渋谷に来た人なら、混雑状況を見れば、自分の場ではないから、そこに入りたいとは思わないだろう。
渋谷も、全員が自分を見てもらおうと思っている人ではないだろうが、自分の目的を持った人の割合によって、群衆の質は違ってくる。
何か面白いことはないかと、漠然と集まってきた人ばかりだと、情況に流され、物理的なシミュレーション通りの結果になる。

また、警備の面でも、今のような自発的なハロウィーンが始まった日本では、警察は長年の試行錯誤を繰り返してきている。韓国の警察は、デモのような意志のある集まりには慣れているかも知れないが、ハッキリした祭りでもイベントでもない、何となくの人出の意味が解らなかったのかも知れない。