魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

実は

2009年09月30日 | 写真

どうにか、ポツポツと、キーが打てるようになった。

知人の、知人の、友人の弟(61)が脳梗塞で倒れて、入院。
一人暮らしなので、愛犬を引き取る人が無く、頼まれて預かってきた。

7歳のコーギーで、利発だが、まったく躾ができてない。
よくある「気ままなネコかわいがり」で、せっかく賢いのに可哀そうだ。

すぐ立場をわきまえ、散歩も食事も素直に従い、愛想も良いのだが、自分が無視され、人間同士が話していると、「仲間に入れろ」と鳴く。
少しでもお腹が空いたら鳴く、おシッコの間隔が短く一日4回ぐらい散歩を要求して鳴く。
それも、渾身の力を込めて、目をむきだして鳴きわめく。

相手にしてやりさえすれば収まるところを見ると、完全に甘えだ。

こりゃ、大変だ、と思った矢先。
消しゴムを落として、拾おうとしたら、噛みつかれた。

自分の方が早く取ろうとしたのを、こっちが拾おうとしたものだから手に噛みついて来た。かなり本気で・・・
まったく、うかつだった。
そこまで凶暴とも思わなかったが、ロープが届いてしまったのだ。

予防注射確認のため、飼い主の姉さんに噛まれた話をしたら、
「弟なんか、ふくらはぎを噛まれた」と言う。
そんなことを言わなければ、腹も立たなかったが
内心
『あ、そう。やっぱり、そういう一家に飼われていた犬か』
と、妙に納得。犬は飼い主の鏡だ。

そう言うことは、初めに伝達すべきだろうし、
第一、その段階で、躾ができてない。
もともと、子犬から飼っているなら、凶暴になる前の段階でしつけるべきだ。
どんなことがあっても、人間に噛みついてはいけないことを教えるべきだ。
※間違っても、言葉で教えようとしないこと。犬は犬語しか解らない。先ず態度ありきだ。この姉さんも、嬌声をあげて犬に話しかける。犬にとって見れば、ただ興奮して遊んでもらっていると思うだけだ。

噛みついたのは、本人?にしてみれば悪気ではない。遊びのレベルが解らないのだ。極めて賢いのに、基本的な「礼儀作法」をまったく知らない。
食事を欲しくて、お手をしようとするのは「芸」であって、躾ではない。

どんな飼い方をしようと、飼い主の勝手だが、自分が面倒見られなくなった時のことを考えて、日頃から「良い子」に躾けておかなければ、可哀想だ。それとも、犬と一家心中するつもりだろうか。

犬は犬として飼わなければ、犬が不幸になる。












僕がやりました

Photo

♪可愛い顔してあのこやるもんだねと~

可愛いけど目は笑いません
吠える時、むいた目が血走ります
(血走った白目が出てくる)

Photo_2


遠出

2009年09月22日 | 星の流れに

「クレヨンしんちゃん」の作者の滑落死。これも世相事件だ。

水瓶座→落下、臼井儀人(名前が水瓶座。生まれは牡牛座)
うお座→春日部、クレヨン、マンガ、アニメ、荒船山、写真撮影
六白、9月11日の西行きは、日が本命的殺、月は九紫暗剣殺

日本のマンガ界にとっても大きな損失だ。ご冥福を祈りたい。

やっぱり
高速道路無料化は相当な反対がある。
選挙そのものもそうだが、世の中みな、単純なキャッチフレーズで動かされる。

温暖化ガス25%削減には圧倒的な支持があると同時に、環境に悪いというイメージで、無料化に反対する。
多くの人が、きれい事のキャッチフレーズには、簡単に反応する。

今現在の状況で、大渋滞を見れば、ノロノロ運転の排気ガスが心配になるし、無料化すれば日本中の人が車で遠出して、年中、全国の高速道路が駐車場になってしまうように見える。

しかし、物事は大局観で見なければならない。
「やすい!」と言われれば、要らない物まで買ってしまうのが人情だ。
「今だけ!」と言われれば、売り場に殺到し、喧嘩までして奪い合う。
「ETCを付けた人だけ安い!」「土日だけ安い!」と言われれば、行く必要が無くても出かけていく。電車が楽でもわざわざ車で行く。

しかし、どんなに安くても、毎日どこでもタダなら、誰でも「ホントに必要か」と考える。
高速と一般道と、どっちが早いか考える。車で行く必要があるか考える。

現に、この連休の渋滞も、前回とは全く様子の違う渋滞が現れた。
みんな、色々に考えているのだ。

直感的には、完全無料化で、必ず環境に寄与すると思うが、
賛成派も反対派も納得できるように、先ず、環境シミュレーションや試算を大々的にやって欲しい。
コンピュータ社会なら、一日で、できるかも知れない。


自分なり(2)

2009年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

世の中が、「グルメ、グルメ」とうるさかった頃。飲食店の裏に残飯があふれ、コンビニの廃棄弁当が山と積まれていた。
レストランで残すのが女の子の嗜みのような風潮まであった。
海外では食べ物を争うニュースが流れているのに・・・
こんなことをしていれば必ず「バチが当たる」そう思った。

今、少しはバチが当たっているように見えるが、こんなことではすまされない。本当の天罰はこれからだ。

古いアメリカ映画で、成り上がりの友人に招待されて、当時、流行り始めたスパゲティーを食べるシーンがあった。
スプーンで巻いて、と指導されながら食べるのが、皮肉な笑いどころだった。

中国では、今まで食べる習慣の無かった刺身を、先進国のトレンドとして競って食べている。お蔭で、世界の魚が枯渇するのではないかと日本人は心配になる。

熱が冷めて、多少大人になった日本人から見ると、中国人のブランド買いあさりや、グルメブームが恥ずかしく見える。

しかし、アメリカ映画と同じように、香港映画でも、珍しい物に飛びつく成り上がり者を皮肉ったシーンは多い。
何時の時代でも、どこの国でも、熱に浮かされる人と参加できない人がいる。

燻銀の老成
すぐ浮かされるのは若さで、冷ややかに見るのは年寄りだ。
人類は、若さの持つ好奇心と、年寄りの知恵で発達した。
知恵は経験から生まれる。しかし過去の経験にとらわれていると新事態に対処できず、やがて滅びる。

若いエネルギーは、何でも目立つ物に飛びついて試す。たいていはバカげた失敗の山になるが、万に一つの価値が残る。
日本人もバブル期のブランドやグルメブームの体験を経て、老成し、価値観に定見が生まれた・・・と信じたい。

近頃、ラーメンのようなB級グルメがブームになるのも、ただの不景気だけでもないだろう。
他人に吹き込まれた価値ではなく、自分たちの目で価値を確かめようとする、ギャルのプチプラなどとともに、一つの「老成の自覚」ではなかろうか。
だから、高度成長期の熱も、それなりに意味があったのだろう。

しかし、産業革命パラダイムからは、そろそろ離れても良い頃だ。
大量生産の波が、後進地域の末端まで行き渡り、大量生産時代が完全に終わるには、まだ、半世紀以上かかるが、

独自の文化土壌を持つ地域として、大量生産の成功者の一員として、日本には未来の生き方をめざす使命がある。
そんな自負があっても良いだろう


自分なり(1)

2009年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アライグマで、子供の頃の教育が体に染みこむ話をしたが、
「お米はお百姓さんが一粒づつ苦労して育てたのだから、残してはいけません。」
そう教えられたから、ご飯を残すことが大嫌いだ。

どんなに可愛い人でも、ご飯を残す人は許せなかった。
他人が、隣のテーブルで残すのを見ても腹が立った。
外食では昔から必ず、食べられそうにない時は盛りつけを少なくしてくれと注文を付ける。
近頃、そういう人が多いのか、お店の方もすんなり聞いてくれるようになったが、昔は露骨に嫌な顔をされた。
「食べられなければ残してください!」と言う店も少なくなかった。

近頃は、「(少なくても)値段は変わりませんが」と言われるようになった。不景気のせいだろうか。

食べるものにほとんど好みはない。出されたものは何でも食べるが、ゲテモノや珍味などは、好んでは食べない。

鶴瓶の宣伝で「うまいモンは、うまい!」というのがあったが、
どんなに評判が高くても高価でも、「まずいモンは、まずい!」
というものがある。もちろん出されればニコニコと食べる。

生まれてこの方、腹の底から『まずい!』と思ったことが二度ある。
いずれも「うまいだろう」と言いながら出された料理だった。
初対面の人の家に招待された時のことだ。空きっ腹にもかかわらず、いかに不味かったのかを語りたいが、長い話なのでまたにする。
ただ、言えることは、この人達はこれを美味いと思いながら、一生、食べているんだなあ、と感動したということだ。
もちろん、ニコニコと「美味しい」と言いながら食べた。

食べるものには好みがないから、特別に美味しいものを食べたいとは思わない。グルメも手料理も興味がない。栄養さえ取れればいい。
しかし、不味いものを食べたいわけではない。その時食べたいものを気ままに食べられるのが一番幸せだ。

作ってもらったものは何でも喜んで食べるが、「美味しい」の言葉を期待されれば不味くなる。料理にかかわらず、評価や改善の話は楽しめるが、賞賛しか許されないなら拷問だ。
また、「これは美味しいものだ」と言う「評判を食べさせられる」のも不味くなる。そう聞いても食べてみたいとは思わない。

できることなら、食べるものぐらい、自分で決めたいのだ。
それが最高の贅沢だ。


三つの落下

2009年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム

落ちる」ことが目立つ水瓶座の年。飛行機事故も多い。
同じ「落下」関連事故にも、それぞれ多様な問題が含まれている。

17日、堺市で飛び降り自殺。下を歩いていた、「はたち」さんが打撲の軽傷。何で年齢を言うんだろうと画面を見たら、幡地やよいさん(56)。
はたちさんは無事で良かったが、飛び降り自殺も毎日のようにある。
日本の自殺については、宗教やモラルの観点からも考えてみる必要があるだろう。

17日、岐阜でパラグライダーが墜落。平田昭和三さん(81)が死亡と言うから、タンデムだろうかと思ったら、単独操縦だった。
81歳でパラグライダー歴15年。これはすごい。元気老人時代のトップランナーだ。事故死は残念だが、ある意味、本望だっただろう。
ご冥福をお祈りしたい。

ところで、平田さん、名前が昭和三(しょうわぞう)で、81歳だから、昭和3年生まれだろう。生まれ年の九星が九紫で、今年は九紫の人は要注意の年。控えるか止めるか、すべき年だった。

この事故に際し、先日、アルプスでヘリが墜落したばかりの岐阜県はヘリ出動できず、滋賀県から出たそうだ。これも「落ちる」つながり。

言語道断
13日、東急東横線多摩川駅で車いすの女性がホームから線路に転落、のち死亡。(この人も81歳)
過剰な傾斜のあるホームで、2年前にも同様の落下事故がありながら、会社は、駅員に注意する以外、何の対策も打たず放置していた。
今回、あわてて仮柵を設けるとか言っている。

前回が死亡事故に至らなかったから、真剣に考えていなかったにちがいない。
「ハッと、ヒヤッと」事故と言うが、前回は、怪我人が出ている重大事故だ。にもかかわらず、徹底調査や対策を打たず、漫然と現場に押しつけていた責任者は、懲戒免職でも良いぐらいだ。

大事故にならなければ事の重大さに気づかない。想像力のなさ、緊張感のなさは、高度成長やバブルまでの話で、今やそんな態度は許されない時代になっている。政権交代まで起こる時代だ。
会社の都合で簡単に首を切られるような時代に、自分の職責が解らないような人間が、真っ先に追われなければ、尼崎事故の二の舞になる。


弔う(2)

2009年09月18日 | 占いばなし

墓参りと先祖供養は少し違う。
先祖供養は墓参り、祭祀の一つの考え方、方法に過ぎない。
亡き人への思いをどう整理するのかということは、死をどう考えるかによって、様々な行為に分かれる。

一神教のように、神様のもとに行くのだから、死んだ人も生きている自分も同列で、神様さえ見ていれば良い。と考えれば、墓は要らないはずだが、一神教の人々も墓を作る。しかも、火葬は少ないから、ただ死体の処理が目的ではない。太古の考えが生きているのだろう。

「全宇宙を統べる神様」という考え方がなければ、死んだ人の魂や森の精霊のような集合体に祈ることになる。
総じて言えば、神道も先祖供養もこの発展系だが、仏教と合体して、より構造的というか、複雑になった。

一神教が、神秘主義や心霊主義を色濃く含むのに対し、東アジア的な先祖供養は、形式主義というのか、際限なく決まり事を積み重ね、それ自体が信仰になっている。

これは、中国というカニ座の文化圏の影響で、
カニ座は、先祖や生い立ち、自分の根になるところを表すから、先祖が信仰の対象になる。しかも、カニ座は甲羅=囲いを表すから、何事にも型式をつけ、それがどんどん増える。

仏教が生まれたヤギ座のインドでは、精神・哲学だったが、中国というフィルターを通して、先祖供養や墓、祭儀が膨張してしまった。

この理屈で、日本ではどうなっているのか考えてみると、
天秤座の日本では、総花的な宗教になり、御利益があれば何でも良くて、先祖だろうが、人だろうが何でも祈る対象になり、朝日、夕日に祈り、集まって講をする。神道では祭りだ。(日没は天秤座のマーク。社交の宴も天秤座)

なお、護国仏教は朝鮮(新羅)から来た考え方で、いかにもサソリ座の闘争的発想だ。


弔う(1)

2009年09月17日 | 占いばなし

久々にトイレ掃除をしてスッキリした。
トイレ掃除と墓参りは、なぜか借金を払ったようにスッキリする。
洗濯もさっぱりするが、それとも違う。やらない人には解らない。

トイレを本格的に掃除するには、後のシャワーを含めて、少し覚悟がいる。
毎日気になっているが、使うたびに、隅々まで掃除するわけにもいかない。それを思い切ってやってしまうと、胸のつかえが下りる。

墓参りは、多くは離れた所にある上、行っても何の得もないし褒めてくれる人もいない。それでも死んだ人に申し訳ないような気がして、お彼岸、お盆と聞けば、墓参りに出かけて墓掃除をする。
そうやって、ノルマを果たせば、仏さんが喜んでいるだろうと勝手に思って、スッキリする。(中には、御利益だけを期待している人もいるが)

近年は、社会も祭祀意識も変わってきたが、「死者の認識」そのものは変わらない。いなくなった人をどう思うかという問題だ。

墓もトイレもサソリ座
葬式はヤギ座で、墓がサソリ座。順番では先のサソリ座が、葬式の後に埋葬する墓を意味するとはどういうことだろうか。

サソリ座は「死」を表す。ヤギ座は人間として「最後の時」を表す。
つまり、死は人間の終わりではない。古代には人が死ねば、もがり(殯)の期間を置いたり、山に捨てたりした。鳥や動物に食べさせたり、ミイラにするやり方もあった。

鳥や動物に食べさせるのは、もとは狩猟時代の、超人的な力に命を引き継いでもらうためだろうから、命はまだ続くと考えた。
その他の方法も、命が続いていることを前提としている。

ミイラに命が残る、還る。他の動物に移る、魂が輪廻する・・・に至るまで、命や魂は人間世界から離れない。これがサソリ座の死と生だ。

これに対し、ヤギ座の葬式とは、輪廻からの解脱を意味する。
水瓶座の「神の世界への旅立ち」であり、非人間的で冷徹な時だ。

サソリ座の死は、消滅ではなく転換であり、別の姿に生まれ変わる転生、甦りを意味する。
だからサソリ座は「死と誕生」であり、DNA融合の「生殖」であり、「排泄」やエネルギー「燃料」とも同じものになる。

「排泄」は、食べた物を体内で変質させた結果であり、次の生成の素になる。つまり、トイレもまた「再生の入り口」なわけだ。

供養は「思いの処理」のためにある。亡き人への未練や悔恨を断ち切るためにする。日常の不条理、わだかまりを亡き人と供に持ち去ってもらおうとするものでもある。つまりは、明日の自分のためにする。
排泄は、新しい食物、エネルギーを取り入れるためにする。
どちらも、心と体のリサイクルだ。
だから、トイレ掃除と墓参りは、ただの洗濯より、スッキリする。

もうすぐお彼岸だからという話ではない。あまり墓参りをしない人は、いつでも良いから、墓掃除をしてみるといい。不思議にサッパリ軽くなる。
先祖供養とかそういう話ではないから、墓のない人は、トイレ掃除でも良いわけだが、中には、この快感を覚えてか、トイレ掃除が趣味の人もいる。


オーラ

2009年09月16日 | 占いばなし

スターにはオーラがあると言われる。
この場合のオーラとは、何を指しているのか良く解らない。
「気」や電気エネルギーのように、物理的なものなのか、純粋に精神的な話なのか、いずれにしても、一般人に見えるはずのないものだ。

にもかかわらず、誰かが「OOさんにはオーラがあった」と言うのは、自分自身も普通の人ではない。と、言っているようなものだ。

しかし、実際はオーラを見たわけではないだろう。
オーラのようなものを感じたという意味だろう。

と、すれば、何をオーラと感じたのだろう。
会った時、見た時。その人にただならぬ輝きを感じたと言うことだろうが、これは、恋する人が、自分の恋人だけ、どこにいても見つけられるような、心と脳の働きで、言わば自分が勝手に見るものだ。
早い話、思い込み、心なしだ。

では、スターは、マスコミやプロダクションの策略だけでつくられるものかと言えば、そうではない。
スカウトが「何か」がある人材を発掘するから当たる。
プロはそれを見抜き、小さな原石の輝きを巨大な宝石に仕上げる。

この「何か」こそ、オーラの素であり、実はどこにでも転がっている。
クラスの誰かや、あなたかも知れない。
例え、そうでない人でも、人生のいつかはそういう時がある。
ただし、これは、いわゆる「モテ期」とは少し違う、「光る時」だ。
なぜなら、幼児期や晩年と言うこともあるからだ。

美人の星美人のDNA


丑年

2009年09月15日 | 星の流れに

子年にはネズミの話題。申年にはサルの話題。戌年には犬の話題・・・と、なぜか不思議に多い。

丑年の今年も「ペッパーランチ」や「ステーキのどん」がO-157の食中毒。精肉工場の「大垣食肉供給センター協同組合」が原因らしい。
三田の伊藤ハムでも、肉牛に斬りつける事件が起きている。

食中毒の季節だが、O-157とは出来過ぎだ。
丑年とは、木星が水瓶座の年のことだが、O-157は、もっと強力な、天王星が水瓶座の時代に、大事件になった。

157=4は、水瓶の数。木星は天王星ほどの大事件にはならないが、一応、ちゃんと顔を見せた。
(157→1+5+7=13→1+3=4)

丑年だからと、わざわざ探したニュースではない。普通に話題になった。いつも、不思議で面白い。来年は虎や猫の話題かな。


子供の世界

2009年09月14日 | 兄弟関係

日本の政権交代に世界中が驚いたが、中でも大騒ぎをしたのは、アメリカと韓国だった。
同盟関係にあるアメリカが気を揉むのは解らないでもないが、韓国にいたっては、全紙、どこの国の新聞かと思うほど、日本の政権交代で占められた。

欧州がクールな反応を示したのは、ただ、遠くだからではない。近い中国も、極めて冷静だった。
これは、兄弟関係でも、説明がつく
(→占い人類学

アメリカは、やっぱり、弟妹型の国だ。
目先に動きがあると、大騒ぎする。
状況に対応して動く末っ子は、新事態には、とりあえず相手にちょっかいを出して反応を探り、事の大小、有利不利を確かめる。

この時、そういう弟妹の動きに慣れている長子の中国は動じない。原理原則型の長子は、自分の思い込みで、変化に対応するからだ。
しかし、一人っ子の日本は、この揺さぶりに困惑する。

19世紀
抜け目ない中間児のイギリスが、極東に進出してきた時、長子中国は独善的な思い込みで相手をよく見ずに対応したために、やられてしまった。

帝国主義の動きに便乗して、日本に目を付けた末っ子型のアメリカに、一人っ子の日本は困惑したが、独りで、悩んでどうにか対応した。

それを見た、中国の末弟、朝鮮は自分たち兄弟と同じようにしない日本を、中国お兄ちゃんが後ろにいるつもりで、例の通り、大声を張り上げて罵倒した。

三つ子の魂
今も、変化への態度は同じだ。
長子の中国は「ああ、わかってるよ、良かったな・・・」
中間児イギリスは「わかってるけども・・・もしかして」
ロシアも『・・・よ~く様子を見てみよう。。。』

末っ子アメリカは「何だ!何だ! テーヘンだ!」
よく確かめる前から「変なことをしたら承知せんぞ」と、軽挙妄動で声を上げる。

韓国は「見ろ、自民党の悪は滅んだ!民主党が宝船でやって来るぞ」
と、これまたよく確かめもせず大喜びで皮算用。

ただ、この末っ子タイプの国は、どんな大騒ぎをしても、次の瞬間には180゜逆のことが言えるのだから強い。しかも、何度失敗しても懲りない。

一人っ子の対処法としては「沈黙は金」と、手の内は見せない方が良い。
三味線ならぬ琵琶でも弾いて、芳一になっていれば、怪我は耳だけで済む。


アライグマ

2009年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、父が近所の子供達を集めて、幻灯会をした。
幻灯機と言っても、近頃の人は知らないかも知れない。スライド写真のプロジェクターのことだ。

その内容は、公衆衛生に関するもので、どんな時、どんな所で病原菌は繁殖するのか。どうすれば清潔を保てるのか。手はどう洗うのか・・・など、さまざまなケースを比較しながら、啓蒙するものだった。

その後しばらく、幻灯機のセットが置いてあったので、勝手に何度も映してみた。

良く解ったことは、世の中がいかに不潔で、執拗に手を洗わなければ、細菌からは逃れられない、と言うことだった。
その後、どんな時でも必ず手を洗うようになった。それも、かなり徹底的に・・・

潔癖性にはならなかったが、大人になってからも、執拗に手を洗う。
汚れているから洗うのではない。もう、完全にクセになっている。

自分の考え方としては、潔癖症は好きでもないし、良いことではないと思っている。
しかし、手を洗わずにいると、手に熱があるような感覚になって、手袋をしているような違和感が出てくる。手を洗えば、サッパリして爽やかになる。

ほどほどにと思いながらも、誰に迷惑を掛けるわけでもなく、一般には良いことなのだから、止めることもなかった。

過ぎたるは及ばざるがごとし
様々な弊害が出てきた。30代には手荒れが始まった。
元々、油分の少ない体質なので、冬場はひび割れに悩まされていたが、夏でも両手の指がひび割れ始めた。薬も、クリームも、効く前に手を洗ってしまうから意味がない。

また、別の問題も起こった。
常に清潔にしているせいか、感染しやすくなった。前にも書いたが、37歳の時、同じ食事で生活している人達の誰もかからなかったのに、一人だけ食中毒になった。
もともと気管支は弱かったので、呼吸器系の流行病には真っ先にかかる。それで、「鬼うがい」をするようになった。

だから、新型インフルエンザへの備えは、初めからできていることになるのだが、はたして、どうだろう?
むしろ、人より何倍も罹りやすいような気がする。

今、新型インフルエンザに備えて、世界的に手洗いキャンペーンをやっている。
子供の時の教育は、体に染みこむ。
20年後に、世界中に、手荒れや腺病質の人があふれなければいいのだが。


日本語族(3)

2009年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

のかな
近頃、世の中すっかり「~のかな」社会になっている。
比較的最近まで「~↑?」と、言葉尻を上げて、疑問にする言い方が流行って、耳についた。

この疑問形は、女の言い回しから始まったと思う。可愛らしく疑問形にして言い切らない言い方で、良く言えば、相手に判断を譲って、我を消す。悪く言えば、言葉に責任を持たない。

しかし、女社会の現代のこと。すぐ、男もマネするようになった。
ことに、女性との接触が多い政治家などが、公の場で、自分が責任者のはずの言動にまで「~↑?」と、疑問で話す。

この言い方が、男社会にも浸透すると、男言葉で何とかしようという動きが出てきたのだろう。
それが、「~のかな」で、「~なのかな」と同じ疑問形だ。

これを、男が言いだしたものか、女が言いだしたものかは解らないが、自問のニュアンスがあるから、少しだけ、責任感を漂わせている。
責任感という、男的自覚は、女性にも必要な時代だから、これはもう、男言葉も女言葉も関係ない。
が、しかし、やはり無責任な言い方には違いない。

にもかかわらず、この言い回しは、語呂がいい。そのうえ、
「~のかな」
と、言い切った形をとっても「・・・と、思う」と逃げられる。

今や、すっかり、禁煙社会になったが、タバコを止められない理由として、「間が持てない」と言われていた。
会話や行為のほんのちょっとした一瞬に、相手と正面切って対峙しなくていい。
「今、ちょっと、他のことをしてますので・・・」という雰囲気に逃れられる。
タバコを吸えなくなったせいか、「~のかな」が、タバコの一服のようになった。

公の記者会見でも、やたら「~のかな」「~のかな」を聞く。
聞いているうちに、いつの間にか移ってしまった。
相手に尋ねる「~↑?」と違い、「~のかな」は独り言でも使える。

社会全体が、自問自答するために、「~のかな」が流行るのなら良いのだが、確信が持てない社会になっているからとしか思えない。

政権が変わって、何であれ、ハッキリ責任を持った行動が見られるようになれば、こういう言葉も廃れていく・・・のかな


日本語族(2)

2009年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、「リンゴが売っていた」と書いて、訂正された。
「リンゴが売られていた」が正しい。

「リンゴが売っていた」と言えば、
店先にリンゴが立ってハチマキをして
「えー、安いよ、安いよ」と、売っている姿を想像するのだろう。

しかし、関西では「リンゴが売られていた」という人は滅多にいない。
「リンゴ、売ってたで」または「売っとったで」と言う。
この場合。気持ちの中、頭の中では『リンゴを売ってたで』または『リンゴが売っとったで』と言っているのではなかろうか。

「店でリンゴ売ってるで」は「店でリンゴを売ってますよ」で、
お店の人が売るのがリンゴで、リンゴは人ではないから、仮に「リンゴが」と言っても、わざわざ受け身にしてやる必要はない。

この辺りが、標準語の論理性、東京人の理屈っぽさであり、関西人の現実感との違いなのだろう。

もう一つ、
これは、体験的にだが、東京弁を言葉尻がハッキリ聞こえないで聞いていると、つまり、意味が解らないで聞いていると、朝鮮語に聞こえる。関西弁は中国語に聞こえる。
言葉の持つ音楽性、リズムや音質、イントネーションのためだ。

日頃自分たちがしゃべっている言葉を、意味の解らない他言語のように聞くのは極めて難しい。寝とぼけて隣の部屋の話を聞いたり、遠くの話し声を聞く時に時々、聞こえてくる。

外国人には日本語がどう聞こえるか聞いてみたことがない。ただ、中国人の留学生が、「大阪で暮らすと中国にいるような気がする」と言っていたのも、この辺りと関係あるような気がする。

大阪が中国沿岸部の文化と近いのは想像がつくが、東京弁が朝鮮語のように聞こえるのは、モンゴル朝鮮あたりの影響を受けている東北に属するからかも知れない。
東北と離れた山陰出雲のズーズー弁や、山陰のイントネーションと関東とが似ていることなど、渡来人の影響なのだろう。

あるいは逆に、関西弁集団が後で入り込んできた。この方が有力だ。


日本語族(1)

2009年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

間抜けとは、話芸や音楽の間が悪く、全体のできが悪いことから言われるようになった。

近年、「ら」抜きが問題視されている。
「見られる」を「見れる」という言い方が、若者に広まっていると問題視されてきた。ら抜けは、そんなに間抜けだろうか。

ら抜きは標準語では、間違いかも知れないが、日本語として間違いだとは思わない。これも、日本語だ。
幸い、最近の調査では、容認派の方が多数派になっているそうだ。
「日本語の乱れ」という、問題意識も少なくなった。

日本語は多様だ。土地、時代、集団・・・様々な人々が、生活に都合の良い言い方をしており、その総体が日本語だ。
そういう多様性を持った日本語を互いに理解できる中で、言語感覚は豊かになる。

ヨーロッパ人は多言語を容易に習得し、理解する人たちが多い。数カ国語をしゃべるというと日本人は驚くが、日本人が東京弁も大阪弁も簡単に理解するのと似たようなもので、同じ語族だからだ。
多言語を聞き慣れていると、何となく意味を理解できるようになる。
だから、かえって、先日のイギリス人のような間違いが起こる。(「間違った」)まったく知らない言葉なら初めから間違えない。

どこに行っても英語が通じるアメリカ人は、一般に他言語に鈍感だ。
まったく同じように、三代続いた東京生まれの東京育ちのような人は、方言に対する勘が悪い。ところが、地方育ちは違う方言を聞いても、何となく理解できる。標準語と自分の方言の両方を使い分けているから、他言語に対する柔軟な勘を持っている。

若者の間で「ら抜き」が広がっているのは、標準語という学校語に対する反乱のようなもので、若者がテレビ言葉という方言で暮らしているからだ。
もっとも大きいのは、お笑いやマンガの非標準語で、面白くするために、関西弁や九州弁などの方言を多用するからだろう。若者の柔軟性だ。

それだけでもない、方言には人工の標準語にない、皮膚感があって親近感を醸し出す。
ら抜き言葉は、そうしたものを総合した実感の「可能」表現で、むしろリアリティーのある実語なのだと思う。