魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

\1000/

2010年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

No.1000

今日は送り火
♪千のカ~ゼに・・・

ついに1000本達成。足かけ5年。丸4年。
干支12年の1/3で、戌年から三合の寅年に巡ってきた。
石の上にも三年と言うから、既にスタイルができたような気もする。

大学で言えば卒業。何を修めたと言うこともないが、一区切り付けるには良い時かも知れない。
パクパクしながら、発見したことや、考えを改めたこともあった。
自問自答しながら、書いていたので、混乱しないように、コメントの受付はアドレス付きの人だけにした。

まだ、書きたいことは困るほど有るが、何とかの考え・・・と言うから、このあたりが潮時だ。

この後は、気が向いた時に、総集編として、テーマ事にピックアップしたり、反省や、気づいたところに訂正を入れたりしたい。
思いついたら、更新するかも知れないが、考えれば、残された時間も少ない。やるべきことが多くある。

とは言え、年寄りは、やり残した事が多いと思うから、せっかちで、
何時も「忙しい、忙しい」と言っているが、何もはかどっていない。
だから、そうならないように、逆に、何もしないことに決めて、時に応じて、出来ることだけやればいいと思っている。

更新目標1000を達成したら、気が抜けてコロッと逝くかも

読んで頂いた方へ
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長らく有り難うございました。
一応、ここで更新を休みます。今後のコメントはオープンにして、自由に書き込んで頂ければ幸いです。振り返ると、間違いや思い込み、言い足りないことも多いので、お叱りもあるでしょうが、それも有り難いです。
(なお、コメントは自動アップします。表示したくない人は、プロフィール欄からメールでください。基本的にはお返事出来ません)


沈黙は金

2010年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム

No.999

占いは、理論と直感が一体化しなければできない。
理論から漠然と、予想することができても、焦点を合わせるためには、占う対象(人や事物)の持つ気配も必要だ。
逆に言えば、理論より、現実の気配こそがすべてを語っている。
理論の方が脇役だ。(観天望気

電話やメール、手紙での占いは、やってやれないことはないが、相当おぼつかない。したがって非常に疲れる。直接会ったり、現場に行くと理論や知識を超えた情報がある。

現実の人や物に接すると、目には見えず無自覚でも、実際は様々なものが存在している。温度、臭い、人なら人相、場所なら風など、まだ、科学的にも把握できないようなものまで漂っている。
最近、人の電界の科学利用が進んでいるそうだが、電界なども、見た目では認識できなくても、確実に何らかの影響があるだろう。

そのように、人と直接会うということは、ハッキリとは自覚できなくても、相手を理解する上で、とても重要なことだ。

近頃、世の中は、電話やメールによって、直接の接触を避けて暮らすことが多くなった。自動販売機や食券を利用すれば、一日中、誰とも口を利かずに過ごすことさえできる。これをみな気楽だと思って選んでいるが、無自覚のうちに相当なストレスになっている。

犯罪や自殺の増加は、社会の中で、人間に接触を持たないストレスが一因ではあるまいか。犯罪や自殺は、人の絆が断たれた時、糸の切れた凧のように、生きる規範や支えを失うからだ。

しかし、一方で
直接会うことによって、相手の勢いや粘りに負けて、判断が狂うこともある。鑑定で、失敗するのは、依頼者の希望に添おうとした時だ。
当事者の思惑の側に立ってしまうと、客観性を失う。

人との付き合いも、仕事の現場も、歴史の渦中も、後で考えれば、理解できないような行動を取るのが人間だ。
エネルギーがぶつかり合う中では、誰も冷静ではいられない。

立場の違う者が、合意するためにはルールが必要だ。
法律はその為にあるが、法律がない時代は、力とごまかしが自然の掟だった。
ごまかしと言えば変だが、相手を喜ばせたり、スキを見てかすめ取ったりすることだ。動物の行動を見ているとよく解る。

我欲むき出しのルール無き世界に生きてきたような人は、情熱的好印象や強引な自己主張のパワーを持っている。こういう人にとっては、ルールや法律さえも、逆手に取って利用する武器にしかならない。

幾ら理を解いても、初めから聞く耳を持たない人に、客観的な話をしようとしても、何としても、自分の望む結論を認めさせようとする。
こういう人には、初めから話をしないことが賢明だ。
占いだけでもない、「人を見て法を説け」「沈黙は金なり」とはよく言ったものだ。昔の人は偉い。


前門後門

2010年08月15日 | 大転換

No.998

世界で「ジャパナイゼーション」が心配されている。日本型長期デフレ不況のことらしい。ことにヨーロッパで深刻だが、アメリカはまだ強気だ。

対策として、新型の成長政策などが期待されているが、これと言った妙案が無く、ムード的な心配が広がっている。何事も一直線では行かないから、これからも、景気は良くなったり悪くなったりしながら、一つの方向に進んでいく。

中国のような大人口が一斉に物を作りだしたら、世界的な過剰生産になるのは当然で、中国内需がしばらくはバランスを保つとしても、結局は、資源不足で物余りになっていく。
世界第二位の経済大国だけに、日本は、パラダイムシフト=大転換の、先頭を切っていたのかも知れない。

大量生産、大量消費の産業革命パラダイムは、最終段階に向かっている。今は、いち早く250年の熱病から冷めて、黙々と次の時代に進化を始める者が生き残る。

もし、それでも人類が、これからも「経済成長」原理で、進もうとするなら、資源を求めて、本気で宇宙進出するしかない。
宇宙の環境破壊をしないために・・・云々、などときれい事を言っている場合ではない。

人類は初めから、環境破壊の使命を背負っている。シアノバクテリアが酸素を大量排出し、環境破壊をしたおかげで、人類が生まれた。
環境破壊とそれによる自滅は、生命の使命だ。環境保護とは、決して自然のためではなく、あくまで、人間のための話だ。

人間による環境破壊は、地球や宇宙にとっては進化だ。
鳩山元総理が、、「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」と言ったのはその通りだが、実はそれも、「人間のために」という前提だから、不思議な矛盾になる。

大自然にとっては、人間のことなどどうでも良い。
困るのは人間だ。地球を破壊し尽くしたら、バッタの大群のように、宇宙に出て行くしかないだろう。
それとも、地球をエデンの園に戻して、元の裸で暮らすのか。

宇宙逃亡か地球楽園か。どちらで生きるにしても、人間は「根性をたたき直さなければ」ならない。この時点から生き残るのは、かなり難しそうだ。

この先250年で、宇宙植民時代が来るとは思えないから、その努力は続けるとしても、日々の営みを改める方が、楽そうだ。

もっとも、スタートレックでは、2063年に、人類はワープ航法を手に入れている。だが、2003年にアトムは生まれなかった。


ピース座

2010年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

No.997

また、この季節が来た。毎日、戦争特集をやっている。
本当は、見たくも聞きたくもない。戦争を体験していない世代だが、戦争の悲惨を、いいかと言うほど見聞きして育った。
実際に体験していないことは、むしろ、何倍にも増幅されて潜在意識に焼き付くのだと思う。

昭和40年前後に生まれた人が、自分の生まれる少し前の、昭和30年代にノスタルジーを感じるのも、同じ理屈だろう。
ノスタルジーならいいのだが、厭戦感情が染みこんでいる。

ところが、どこでどんな教育をされたのか、今の若者は、知識としてすら日本の戦争を知らない。
テレビの戦争特集や、近現代史の話で、戦争の実体に、驚いていることに驚かされる。一方で、ネット上には、妙に知ったかぶりの戦争観が広がっている。

南京事件は無かった。日本兵の残虐は無かった。といった常識ができあがっている。もちろん、他国の言う歴史は、これもまた、それぞれの都合の話だから、聞く必要はないとしても、日本聖戦説がネット世代の常識になっていることには暗澹たる思いがする。防衛戦はあるかも知れないが、他国での聖戦というものはあり得ない。

結局の所、日本の戦争体験世代と、その余波を受けた世代が、厭戦の情の強さと、戦犯国のレッテルゆえに、戦争にフタをしてしまったことが、戦争体験の不毛地帯を作ったのではなかろうか。

ただ、よくドイツと比較されるが、ドイツのような徹底して計画的な虐殺ではないし、さらに、完全にナチの仕業にすることによって、自分たちの立つ瀬を見いだしているのとは、全く違う。

日本人は、何でも残していくから、看板を変えるだけで現実が変わるとは思わない。戦犯のせいにすれば、自分たちには責任がないとは思わない。だからこそ、水に流して、すぐ忘れようとする。

有ったことや、起こった事実は消えないが、それをどう処理するかが、日本と世界の違いであり、日本が特殊なのは島国だからだろう。

世界の人が、過去を決して水に流さず、すべて、正当化に利用するということが、島国の極楽トンボには理解できない。
ヤクザを相手に、すぐ謝ったり親切にしたりすることが、どんなに危険なことか、世間知らずのお嬢さんには想像も出来ない。

しかし、まあ、あまりにも世間知らずというものは、案外、被害には遭わないもので、日本が、歴史的に何となくうまくいく国なのは、そのせいかもしれない。
天秤座というのは、元来、他から見れば、運のいい星座と言われる。


ウイルス

2010年08月13日 | 日記・エッセイ・コラム

No.996

イカタコウイルスを製作し、感染させた男が逮捕されたが、
「技術を試し、違法ダウンロードする人間をこらしめたかった」
と供述しているそうだ。

このところ、タコ占いや、上海万博のタコ焼き人気とか、タコの話題が多いが、今度は、コンピュータウイルスまで、タコが出た。
山羊座の冥王星にしては、一時的な話題のようだから、土星の「8」とは関係なく、むしろ、魚座の海洋生物、それも軟体動物の影響かも知れない。

いや、話題になったのが、木星の牡羊座入りの時だから、
イカ・タコの「頭足類」と言うヤツかも知れない。胴体が全部「頭」とは、いかにも牡羊座の話題だ。

いかなる星のめぐり合わせかは別として
イカタコで捕まった男の、言いぐさが気に入らない。
「違法人間を懲らしめたかった」って、おまえが違法人間だろう。
何より、「技術を試したい」なら、何も、人を困らせることはないはずだ。

懲らしめたいという、「ファイル交換ソフト」を作った人は、違法であれ、少なくとも、誰かのためになりたいという動機で作っている。
ところが、コンピューターウイルスは全て、他人を傷つけるために作られている。盗人猛々しいとはこのことだ。

自分の知識という武器で、無垢の人々をいたぶって喜ぶのが、ウイルス製作者だ。善悪の二分法なら、完全な悪人だ。

善玉ウイルス
技術を試したいなら、世の中の人々がハッピーになるウイルスはいくらでもできる。

侵入したPCで、持ち主の誕生日や結婚記念日を探し、その日になると、電源を入れた途端、花束と音楽が流れるとか、

画面の上に、魔法使いやアラジンのランプの巨人が現れて、
「はーい、ご主人様。次の三つの願い事の内、一つをかなえます!」
「1.PCのスピードアップ 2.アラビア風フォントの追加 3.誰かの写真を壁紙に」します。とか、

癒し系のキャラが現れて、
「やあ、今日もガンバっているんだね。誰も知らないかも知れないけど、いつもガンバっていること、見ているからね」
などと言ってくれる。とか、

技術を試したいなら、こんな、おせっかいウイルスが、いくらでも考えられる。
ファイルを潰すとか、流出させるなど、幼稚な技術で他人を困らせるなど、「ファイル交換ソフト」を作った人と比べれば、気の毒になるぐらいのコンプレックスだ。


時の商売

2010年08月12日 | 日記・エッセイ・コラム

No.995

昭和30年代。知り合いの大金持ちが、自動車のディーラーを始めた。
同時に、自動車学校も始めた。

高度成長期は、今の中国のように、誰でも自動車を欲しがり、当然、運転をしたがった。自動車はモテるための必須アイテムであり、仕事に就職に、絶対、不可欠になった。

知り合いのお金持ちは、元々、その地方の山の、大半を所有する山持ちだったが、高度成長とともに林業が衰退し、山林を維持するための別の事業が必要だったので、自動車ビジネスは、儲かったかどうかは知らないが、役に立ったようだった。

自動車を売って、運転を教えて儲ける。こんなアコギ・・・上手い商売はない。パソコンを売ってコンピュータ学校をするのも似たような発想だが、自動車学校は運転免許の利権がらみだ。ケタが違う。
近頃では、運転免許証は、「事実上」唯一の身分証明書にまで成っている。

時代は変わった
最近、不景気もあるが、若者の車離れが広がり、車が売れなくなっているそうだ。
それは、素晴らしいことだと思う。本当に、若者が車離れをして、公共交通機関の利用が進めば、社会システムに影響を与え、鉄道やバスが充実し、安価で便利に使われるようになり、脱車社会に弾みが付く。

しかし、それでは困るという立場の人が、そうはさせじと思うなら、もっと、車に近しい環境を整えるべきだ。
まず、免許制度の合理化。更新手続きに金や時間をかけさせない。

また、車を運転するより、猟銃の所有が簡単であるとは、信じられない。
自動車免許は、講習と届け出で得られるようにし、むしろ不適格者の抽出の制度を考えるべきだろう。
軽い違反や事故を厳しく取り締まり、そこから厳しい更新手続き=講習と試験を始める・・・など、実効性で考える。
何事も入り口と形式に拘る、日本流を改めて欲しい。

制度を変えられないと言うなら、何より、自動車を売って儲ける側が、自動車学校を無料サービスにすればいい。
免許が無くて車を買う人には、自動車学校の無料券を出すとか、自社の車を使った自動車学校で免許を取った人には、自動車購入金額から教習料分値引くとか、本気で考えればいくらでも智恵は出るはずだ。
ただし、中途半端な補助金などでは、誰も振り向かない。

製品開発にしても、日本企業は小出しか全部出しをする。
開発も、販売も、消費者の溜飲を下げる「サプライズ」が必要だ。
主張のない中途半端が一番いけない。

自動車だけではない、行政も業者も、「おざなり」に埋没している。


善行悪行

2010年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

No.994

昔、映画やテレビの悪役は、日頃悪役をしているので、日常は、ものすごく優しい人が多いと言われた。逆に、お笑い芸人や喜劇役者は自分はアホではないと思っているから、日常は難しい人格だった。

近頃は、役者に対する認識が変わったので、昔のように悪役俳優を単純に悪い奴と思う人は少なくなったが、それでも、役と人格が同じだと思う人がいるから、ヨン様ブームのような幼稚なファンは無くならない。

お笑い芸人も、お笑いブームで、芸人の評価が変わったので、心のゆとりができて、昔のような、仲間イジメや難しい人が減っているようだ。

人間は、自分がアホバカだとは思ってないし、悪い人間だとも思っていない。だから、どういう場合でも、自分は理解力があり、善に生きる良い人であると思いたい。

善の基準が、同朋の正義であったりすると、「おまえ、それでも日本人か」とか、「それでも男か」という言葉には逆らえなかった。
狭い集団の中では、その集団の価値基準に逆らう者は、愚か者であり、悪者となる。

個人が生きていく上で、善意のためだけに生きようとすれば、必ず破綻する。物事には表と裏があるからだ。だからと言って、汚くなければ生きられないと思うのも間違いだ。

多くの悩みは、自分が「いい人」であろうとすること。と言うより、いい人と思われたいことから起こっている。
もし、自分の信じる善を行いたいのなら、それを実行するに当たって「悪人」と思われ嫌われることも覚悟しなければ、本当の善は実現せず、さらに、相手も自分も不幸にしてしまう。

「あなたのためを思って言うのですよ」と言う偽善的な言い方は、決して受け入れられない。本当に相手のためを思うなら、どう思われてもいいから、信じるところを実行するだけだ。
いつかは解ってくれるだろう、と期待してもいけない。
最後まで悪人になる覚悟がなければ、善は実行できない。

逆に、自分が悪人として嫌っている人が、本当にそうなのかも考えてみるぐらいの、視野とゆとりも必要だ。


熱帯日本

2010年08月10日 | 日記・エッセイ・コラム

No.993

沖縄で、台風4号が突然発生。台風とは南の海で生まれるものだと思っていたのに、近頃、日本近海や、時には日本で発生する。
もはや、日本は熱帯だ。と言えば、大げさかも知れないが、この暑さは尋常ではない。

熱中症の多発が話題だが、昔は、病院に担ぎ込まれることもなく、寒暖に弱い老人の死に方の一つ、程度に思われていたかも知れない。
多分に、情報による過敏もあると思うが、確かに、日本は暑くなっている。

前にも書いたが、亜熱帯のかかった日本は、欧米式の北の文化風俗は止めるべきだ。

クールビズなど、まだ手ぬるい。先ず、生活習慣から改めよう。
沖縄やスペインのように、暑い盛りは昼寝時間として休憩し、外に出ない。独り暮らしの年寄りは、クーラーの利いた合同昼寝所で寝るようにすれば、安心と交流で一挙両得だ。

サマータイムなど設けなくても、夏生活、夏営業を習慣化して、日の出を始業時間とし、お昼に終業する。当然、昼寝の後の、宵の刻からがお楽しみタイムだ。

夏の正装も、アロハがいい。国際会議だろうが、民族衣装の正装なら失礼ではない。アロハは民族衣装ではないが、亜熱帯地方日本の、新しい正装として、アロハや甚兵衛のような、本気で涼しい民族衣装を考案しても良いのではなかろうか。

温暖化問題の象徴として、「日本はそれを正装とした」と言うだけで、インパクトになる。いまさら、世界基準に合わせようと、西欧式の服装に無理をして追随するのは、後進コンプレックスだ。

昔、サラリーマンと言えば、グレーの「ドブネズミ」と言われたが、紺のリクルートスーツを着て来なければ採用しないのであれば、その時点で、日本企業の創造性、独創性は死んでいる。

野球の監督が、茶髪の選手にダメ出しをするように、怒濤の集団突撃をするには、一糸乱れぬタイプが良いかもしれないが、世界を「アッ」と言わせる創造企業には成れない。

創造的な日本企業が生まれた頃は、戦争に負けたばかりで、軍人的な統一よりも、金が無くて、ボロボロの学生服を着て面接に行ったような学生が、のちに大活躍をした。

パンクが良いとは言わないが、面接にも、個性豊かなファッションで行けるような、社会文化が生まれない限り、日本は萎縮のブラックホールで消えてしまうだろう。

しかし、アロハが正装になれば、リクルートもカラフルだ。
こんなことを言えば、怒られるかバカにされるだろうが、何なら、みんな水着で仕事をすれば、清々する。見慣れないから想像もつかないかも知れないが、リゾートでは自然な風景だ。
どうしても水着ではと言うなら、亜熱帯日本なのだから、ファッショナブルな腰ミノを巻いてはどうだろう。

あー、とにかく暑いんだから・・・とうとう、やられたかな?


我慢傲慢

2010年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム

No.992

「我慢」という言葉は変な言葉だ。
字面で見ると、「自我+慢心」だから、「自慢」にも通じる。
「自分を抑える」とは、真反対の意味だ。

不思議なので、辞書を見ると、「辛抱すること」に並んで、やはり、「我を張る」とか「強情・高慢」があり、仏教用語から出たものらしい。
なんで、「我慢」しないことが、「我慢」することになったんだろう。
辞書には、その経緯までは書かれていない。

で、勝手に推察するに・・・
おそらく、我慢しない人、我を張る人に対して、
「それは、あなたの我慢というものですよ。辛抱しなさい」
という意味で言っているうちに
(ほら、また出た、あなたの)「我慢」・・・「我慢、我慢ですよ!」
となって、「ガマン」と言えば、辛抱することになった。

だから、もしそれを「傲慢」と言っていれば、今頃はガマンすることは「ゴウマンしなさい」だったかも知れない。「ジマンしなさい」だったかも知れない。

言葉が逆転したこととは、また別に・・・
ガマンには、「つもり」が逆転している、ということがある。
自分では、ガマンしているつもりの人が、実は、全くガマンしていない・・・と言えば、猛烈に怒られるかも知れない。

「自分はガマンばかりさせられている」と言う人は、まだ素直な人で、
「自分は、いつもガマンしている」と、向上努力をしているつもりの人は、自分と他人にウソをついている。

「ガマンしている」とは、自分を出さないで押さえていることだから、本音は、納得はしていない。
もし、自分の欲求が、客観的に理不尽なものだと思ったり、解決策に気づいたなら、我慢する必要は無いはずだ。

だから、「ガマンしている」ということは、自分の欲求は曲げようとはせず、表面上、折れているだけに過ぎない。
つまり、これこそが仏教で言うところの「我慢=慢心」であり、辛抱するという意味の「ガマン」とは全く逆の、「自省のない不遜の心」ということになる。

易経「節」に、「苦節不可貞」とある。度が過ぎる無理な節制は正しくないと言うことだが、このような「ガマン」にも、同じ事が言える。
自分を抑えるとは、「冷静」に自分の欲求を知り、その解決策を探る努力のことだ。自省し、相手を理解し、妥協点を探る努力だ。

自分は努力をせずに、欲求が通らないことを相手のせいにして、本音と違う態度を取ることを「ガマン」することと思うなら、それは、自分と相手を欺くことで、苦しいばかりで、やがて不幸の元となる。


生き写し

2010年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

No.991

電車で、中村泰治を細面にしたような男性がいた。アロハシャツの横顔を見ると、絵巻の中によく登場する庶民のような顔をしている。
顴骨高くぎょろっと目をむいて、事件に驚く顔だ。
絵巻の中では、たいていは、慌てて駆けだしている。

とにかく、どこかで見たような顔だが、この人ほど絵巻物を連想させる顔も少ない。
猫背で、アロハを着ている上半身しか見えないので、きっと、上っ張りを風に巻き上げ、下半身はフンドシ一つで走り出しているにちがいない・・・と、思わせる。

親子3人の行楽帰りらしい。奥さんは肝っ玉母さん風。真っ黒に日焼けした6年生ぐらいの息子は、10年もすれば、オヤジそっくりになりそうだ。

改めて、絵巻物の絵師の描写力に感心した。
そして、千年近く昔にも、やっぱり同じ顔の日本人達が、泣き、笑い、怒り、嘆きながら生きていたと思うと、日本という島が、いかに恵まれていたか、誰にとはなく感謝したくなる。

実際、もっと短い時間になると、ほとんど顔が変わらない。
子供の頃生活をしていた街を訪ねると、街角から、幼なじみの「あいつ」が、突然、現れる。思わず、「おい」と声を掛けたくなるが、考えたら、そんなはずがない。

何十年も経ったのに、あの時のあいつが、今流行りのTシャツを着た10代で、現れるわけがない。それでもそっくりだから、呼び止めて、名前を聞きたくなるが、きっと、息子でも孫でもないだろう。
その街は、そういう顔がいる土地なのだと、改めて、思い出す。

小説やドラマで、昔の彼女の娘に出会う話しがよくある。どうも、センチメンタリズムが気に入らないのだが、生き写しという設定は、まんざらデタラメでもないようだ。


お世継ぎ

2010年08月07日 | 星の流れに

No.990

近頃の新入社員は海外赴任を嫌がるそうだ。一方では同年代の女性に専業主婦希望が多いそうだ。
色々な理由や、見方があるが、これも、日本の老化現象だろう。

その、日本の老化にもまた、色々な理由がある。
占い的に、単純に言えば、土星が天秤座に来たからだが、土星が来たから突然、老化するわけではない。

惑星を、周期の指標と考えれば、成るべくして成る、それまでの経緯もまた、土星が仕組んできたことだ。
前回、土星が天秤座に来た1980年、自民党の派閥抗争→衆参同時選挙→大平総理の死→「弔い選挙」の不思議なかけ声で自民圧勝。

しかし、これが、自民党の終わりの始まりだった。予想外の大勝の後、土星が去ると、今度は大敗する。その後30年、紆余曲折を辿りながら、形だけで、実態のない政権がアメリカに押されて、バブルを招き、その動きとともに、日本の実態も失われて行った。

日本は、当然のことながら、政権政党と運命をともにしてきた。
その結果が、今日の日本を覆う無気力と老化になった。
戦後、60余年は自民党の還暦の歳月であり、前半30年のムチャでも元気な時代から、後半30年は、大人面から老化に向かう時代であった。

この期に及んで、国民は自民党を葬り、新生児の民主党を生み出したものの、未だに体を成してはいない。嘆く国民は、自民党の遺影に線香を上げ泣き言を言いながらも、どうにもならないことも知っている。
まだ、初盆も迎えていない。

再び、土星が天秤座に来た今、紆余曲折を辿りながらも、日本はまた、成長していくだろう。自民党の形が定まったのも1955年で、土星・天秤座から5年後だった。
1980年、自民圧勝からバブル原因のプラザ合意まで、やはり5年。バブル崩壊の30年は1980年から始まっていたわけだ。

土星が成長周期をもたらすと言っても、経済成長のことではない。それがどのような色合いのものになるかは、その他の大周期の惑星の影響による。
天王星の84年周期では、今は昭和初期。
土星の周期で60年前は昭和25年。120年前は明治23年(1890)だが、土星が天秤座に来たのは翌年。その5年間に日清戦争、三国干渉が起こるが、やはりこのあたりからの30年は日本の発展期と言える。

昭和初期は、関東大震災から5年後にあたり、大日本帝国滅亡に向かうわけだが、今回の天王星の牡羊座は、土星的には、むしろ日本の発展期に向かう時と重なる。
代替わりをして出直す日本と成って欲しいものだが、そのためには、何よりも旧弊を破棄しなければ始まらないし、ムチャが横行して物議を醸すぐらいでなければ、何も生まれない。


ねじれ相性

2010年08月06日 | 自動車人間学

No.989

西武のデーブ大久保コーチが、菊池雄星に暴力をふるって解雇された。
どちらのことも詳しく知らない。
ただ、「自動車人間」で見ると、ある程度どんな経緯だったのか推察できる。

デーブ大久保は「ガソリンs」。菊池雄星は「シャーシs」。
本来、ものすごく相性のいい仲なのだが、上下関係が逆だった。

「自動車人間」の「いい友」職場の相性でも、
「シャーシが上司なら、ツーカーの仲で、何事もテキパキ進みますが、ガソリンが上司だとギクシャクします。選手が監督に指示するようなもの・・・」と、書いてあるように、

気質的にワンマン社長のようなシャーシに、感受性で行動するガソリンが、上から指示しようとすると、相手が一向に動じないのに、ガソリンはシャーシの言動にビンビン反応するから、エネルギーのやり場に困って爆発する。

これが逆に、シャーシが上から断言的な指示をすると、ガソリンは迷い無く、自分の感じたことを行動に移せる。

相性の悪い中だと、ガソリンもそれほど反応しないから、暴力にまで行かないのだが、相性が良すぎて、反応しすぎてしまった。

相性が悪い者同士は、互いに理解できないから、大喧嘩にはならないが、相性の良い者同士が、微妙にズレた時の方が大喧嘩になる。
良くも悪くも共鳴するわけだ。相性というものは難しい。


炭火焼き

2010年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム

No.988

だから~あ
年寄りは無理しちゃいけないって言ってるでしょ
所さん、畑仕事で熱中症だって。
大したことはなくて良かったけど、誰でも、自分じゃ気づかないのが老化。(砂を蹴る

昔のように、年寄りが偉い人だった頃は、みんな年寄りになりたがって、若年寄なんて、変な役職まであった。
それも変な時代だけど、今のように、何でも若ければ良いみたいな時代も困ったものだ。

不惑とか、四十過ぎたら自分の顔に責任を持て、とか言う言葉が重かった頃は、「いつまでも若いですね」などと言えば失礼だった。
ところが、今はどうだ。アラフォーとか言って、多少は気にしても、ほぼ全く年寄りの自覚がない。

どっちが良いとも言えないが、あえて言えば、どっちも間違いだ。
人生80年時代だから、5~60で老け込んではいけないが、20と変わらぬ姿でいこうとするのも大人げない。
要は、肉体の老化を自覚しつつ、概念に囚われない「自分の生き方」を持つことだろう。

実際、80歳になっても、10代の時の気持ちと、そう変わるものではない。むしろ、それぐらいになると、童に帰るというか、アクが抜けて微笑ましくなってくる。

そこまで行かなくても、40~70ぐらいは、現代の新中年だ。
中年と言えば、気力はあるが、体力の衰えの始まる時代。男も女も更年期だ。気持ちは変わらなくても、昨日できたことが今日できるとは思わない方がいい。

肉体派の人は、外見と体力が、若さそのものだと思うから、何とか衰えを見せないようにするし、自分でもガンバリで体力をカバーしようとする。
すると、ある日突然、現実を突きつけられると、ショックでガックリ老け込む。
見ていて、何ともしんどいことだと思う。

個人的には、昔から、自分で5歳早く歳をとる。
初めから肉体年齢を捨てて掛かっているので、焦らない、ガンバらない、ショックを受けない。

その上、『その年のわりには元気でいけてるな』と気分が良い。
何の努力もしないで、肉体と年齢を超越した、ただの自分でいられる。
初めから炭なら、カッカとは燃えないが、いつまでも消えない。

そのうち、「生きているか死んでいるか解らない人」、になるだろう


日本の奥

2010年08月04日 | 新鎖国論

No.987

フ暑い~ッ
街を行く人が、お風呂上がりのような顔で歩いている。
湯上がりは親も惚れ・・・と言いたいが、もう完全にくたびれている

夏は暑いのが当たり前だから、文句はないのだが、何か昔の暑さと、景色が違うような気がするのは、気のせいだろうか。

昔は、夏でも着物を着て歩いていた。着物と言っても浴衣ではない。
絽や紗を着ていても、内には襦袢を着ていた。
クーラーも冷蔵庫もない時代。団扇と扇子が必需品だった。
オシャレや、変わった趣味ではなく、誰でもどこでも扇いでいた。

人の集まるところでは一斉に扇ぎ出すから、講演や演芸の壇上から見ると、全体で木の葉が揺らめいているように見える。

扇子が日本で発明されたのは、何よりも高温多湿な風土に加え、日本にはコンパクト指向が、昔からあったということだろう。
おおざっぱな大陸思考では、先ず「必要」を感じない。

日本では結構、膨大なアイデア品が生まれたが、何よりも平和だったからだろう。扇子の形から思い出したが、脱穀農具の「千歯こき」もその一つだ。

扇子が、いかに日本の生活に根ざしているかは、あらゆる儀式や正装の必需品になっているし、与一が射たのも扇子だ。
直接的な接触を好まない日本人には、もってこいのコミュニケーションツールでもあり、舞の振りにして、多様な表現も見せる。

子供の頃、骨董屋の友達のうちに行くと、色々なものがあって面白かったのだが、そこで、初めて、マンガで見た鉄扇の実物を手にした。
ただの鉄の棒ではなく、実際に広げることが出来て、一枚一枚の鉄の羽板に何か解らない漢文が刻されて、ずっしり重かった。
護身、鍛錬、学問ができる、武士の必須アイテムだったのだろうか。

日本人が、普通に使っているものは、禿鷹やオウムには、何でも金になる「宝の島」だ。
確かに、異文化は互いの国で商売のネタになるが、おそらく日本ほど宝が埋もれているところはないだろう。

ところが、日本人はその価値に無自覚だから、(無自覚はお互いだが)何でも気楽に放出してきた。扇子もそうだが、幕末と終戦当時は膨大な日本文化が、物とともに二束三文で出て行った。
まあ、そのおかげで、日本文化への関心は高まったのだが・・・

産業革命パラダイムが終われば、文化そのものの価値がものを言うようになる。知的財産権など、産革パラダイムのまやかしに過ぎない。
一子相伝、門外不出方式の新鎖国主義で、板場を見せずに、おもてなしと技の美しさを、喜んでもらおう。
化粧室まで見せる女優はいない。


砂を蹴る

2010年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム

No.986

昨年の、北海道トムラウシ山での老人登山事故から1年。またヌカビラ岳で遭難者8人がヘリで救助された。とにかく無事で良かった。
このところの登山ブームで、老人だけでもないのだが、無謀な登山が増えている。

世の中がシステム化され、自然や動物に対する認識も、テーマパークや縫いぐるみのような、人工的な感覚になっている。
後先を考えずに、ペットを飼って、手に余ったら捨てる。
山に登るのも、パックツアーのワンダーランド巡りのように、金額の問題だと考えているようだ。

旅行代理店のパック広告から「どれがいいかな?」と選んで、現地に行けば、お気楽にパック体験できる。問題が起これば、オプションのレスキューヘリを呼べば大丈夫・・・そんな感覚としか思えない。
もし、自分一人で初めて行くなら、こんな無謀は出来ないはずだ。

何よりも、高齢者のブームとは困ったものだ。
相当なベテランでも、高齢になるとやはりトラブルに遭っている。
まして、最近の高齢パックトレッキングは、これまでほとんど経験のないような人が、ガイド頼りでいきなりの大冒険だ。

年寄りの冷や水と言うが、人生50年時代なら、60歳は立派なご老人だ。
♪村の渡しの船頭さんは 今年60のおじいさん
 年をとってもお船をこぐ時は 元気いっぱい櫓がしなる

人生80年時代にはなったとは言え、50、60を過ぎれば、見た目や気持ちは若くても、やはり体質は変わっている。
ヘリコプターを呼ばなければならないような所に行くには、よほどの自覚が必要なのだが、
『気持ちがいけてるから大丈夫だ~あ』だけで、60の足習い。
何よりも、自分がそんな年だとは思いたくない。

老人パワーとなるか、老害となるかは、自覚に掛かっている。
『自分はまだまだいける』と、やり残したことを、金にまかせて挑戦する。
でも、実は身体がついて行ってないが、現実を直視しようとしない。
舗装道路で糞をして、後ろ足で砂を蹴ってる犬のようなものだ。

それでも、山登りやマラソンに挑戦するのは健全だ。
残り火を何とか消すまいと、買春で回春とばかり、血走る残党もいる。