魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

南京さん

2023年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

フランスで南京虫騒動が報告されると、韓国でも騒ぎになった。いかにも流行に敏感な韓国らしい。
10年前にスペインに行った友人が南京虫にやられた時に自分の体験も書いたが、これも中国騒動の一環だろうか。(南京虫だ
と言っても、南京虫は中国の責任ではない。一万年以上前から、人類とともに移動してきたらしい。

南京虫の名前は幕末に海外から来た小さなものには何でも「南京」と付けたことが由来で、渡来物に付ける冠詞は、唐(から)、天竺、ジャガタラ、南蛮、オランダ、唐(とう)、南京、台湾、フランス、メリケンなど、時代時代で変わる。何か珍しいワケの解らないものには何でも、こんな冠詞を付けたようだ。

江戸っ子がよく「変な」と付けるのもこれに似ている。古い江戸っ子の「このトウヘンボクめ!」は「変な奴、変わり者」の意味で、元はマッチのことを「唐変木=唐の変わった木」と呼んだのが始めだろう。
関西はボキャブラリーが豊富なので、これと言って思いつかないが、「ヘエみたいな」も「変わった」ものへの冠詞かも知れない。

幕末維新の貿易には欧米との仲介をする中国人が幅をきかせていたので、輸入品に紛れ込んだトコジラミが話題になって南京虫の名前が付いたのだろうが、日本にはもっと昔、おそらく太古からいた。
これらワケの解らないものに付ける冠詞には、舶来ものに対する不安や恐れや憧れがあって、本来は必ずしもバカにしていたものではない。戦国、幕末、終戦後に日本にやってきた「外人」は日本人の好奇心に驚いている。
今なら、間違いなくヘイトと言われるだろう、野口雨情の『南京言葉』、「南京さんの言葉は南京言葉・・・」もエキゾチックなものへの憧れに他ならない。


歴史風景

2023年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

中国の李克強前首相が急逝した。心臓病とされているが、それが本当でも、信じる人はいないだろう。外務大臣や国防相が謎の解任をされたりしている最中だ。
毛沢東と習近平は同じ日干支だが、同じ情況では同じ事をするらしい。
中国の恐ろしさとは、現代の日本人には到底理解できない「えげつない」現実感だろう。
日本人でも戦国時代には首狩りをしていたのだから、あくまで「血筋」の問題ではない。

世界を旅すると、文化の違いの中に、時代を発見する。生活環境の中に、宗教や規則や生活習慣が、特定の歴史的な環境と重なることがあり、そこにいる人たちの反応や行動に、歴史時代の人々の息吹を垣間見るような気がする。
行ったことはないが、北朝鮮など、日本の古墳時代や昭和初期を連想させるし、中東などには室町や戦国時代の臭いがする。
それぞれ、似たような環境の中では、人間はどうも、同じような思考・価値観を持ち、同じような行動をとる。
世界がどう動こうと変わろうと、中国は中東とともに、永遠の興亡大陸だ。


水に流す

2023年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

中国は、核汚染水打撃作戦、海鮮禁輸の失敗が明白になって来ると、即座に作戦変更を始めた。
駐日領事が日本の魚は美味いと言ったり、どうでも良いような「条件」が調えば解決すると、撤退を臭わせる動きを見せている。

またも、またも始めた、「押してもダメなら引いてみな」のご都合戦術だ。
中国流の二者択一の徹底した現実観。事実は一つしかない、右でなければ左と行動を変える思考には、「心」という日本人の最も重視するデリカシーは皆無だ。
これは日中どちらも両極端で、互いに、「何でこんなことが解らないのか」と腹を立てる。
中国人にすれば、「フタを開けて空なら別のフタを開けるのは当然じゃないか」と思うだろうし、日本人にすれば「あれだけのことをしておきながら、良くも平気で顔を出せるものだ」と思うだろう。

こうして何度腹を立てても、日本人はすぐ「水に流し」てしまうが、中国人はチョイスを変えるだけで、事実は決して捨てない、流さない。情況によってまた使う。日本人は過去を忘れるが、感情が蓄積していく。
現実思考の中国人は相手の行動を観察するが、精神思考の日本人は相手を定義する。「あんな奴ら」だと決めつけたり、「良い人だ」と信じ込んだりする。何れも時間を掛けてそう思い込み、相手の目の前の現実行動を見落とす。
「中国はしたたかだ」と畏れる人は、物事を思い込みで見て、現実の動きを見ないから、意表を突かれ、先手を打てない。

前より背後が怖い
トランプは、誰でも自国優先だと言った、これが商売の原則だ。商売は儲けるためにある、福祉事業ではない。商売感覚では、タダほど高い物はないし、元手の掛からない商売もない。外交戦は商取引だ、利のない動きはないし、元金保証などどこにもない。
藤井八冠誕生で、あんなに先を読めるなら外交をやってもらいたいと『TBタックル』で話していたが、
外交は将棋ではない麻雀だ。相手は理詰めでもないし一人でもない。誰かが儲ければ誰かが損をする。Aを上がらせないためにBに振り込むこともある。自分の手に惚れ込んでいる間に上がられる。ほとんどの場合、日本人は自分の手に惚れ込んで、安い手に振り込んだり、口三味線に踊らされる素人だ。将棋発想はむしろ危ない。理詰めのエリート軍人や官僚が招いたのが敗戦だ。
先を読むより先ず今の敵、視界の外、後ろの敵こそ恐ろしい。

今起きていることの本質は、派手な惨状や被害者、正義の旗、誰が得をするかでは解らない、事態の「意味」を知ることが先だ。理屈や知識で過去の大戦争を説明できるだろうか。個々の状況説明はできても、何でそんなことが起こったかの論理的な説明は不可能だろう。歴史の衝動、人類の性としか言いようがない。
ウクライナ戦争の犯人をプーチンやロシアと決めつけたのでは何も解らない。喧嘩には相手がある。中国の横暴を習近平や中華思想と決めつけても止められない。中国共産党を怪物にしたのは世界の欲望だ。

世界がどう動こうと、日本人はまた、水に流して忘れようとするだろう。それは、当面の苦痛を無いことにしたいからで、しばらく経てばまた大陸トラップで同じ失敗を繰り返す。今こそ、外国式のしつこさを学び、日本人の反省好きを活かし、大陸対応を長期ローンと心得て、長い時間を掛けながらのらりくらりとフェイドアウトしていくしかないだろう。


老若男女

2023年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

『所さんお届けモノです!』で、所さんが、お母さんから聞いた食糧難時代のお爺さん(母ちゃんの父ちゃん)の話をしていた。大勢の子供に配給の米を食べさせ、自分は釜の洗い汁をすすっていた話を聞いて泣けたと話していた。
10歳も離れてないのに、その手の話はリアルタイムで知っている。
友人の金持ちの子が、お母さんが必ず、ご飯のお釜にお茶を注いで残った米をかき集めて食べるのが恥ずかしい、と話していた。どうも、所さんのお母さんの方に近い世代らしい。
5歳と言わず、3歳違うと体験した世界が全く違う。

小学校の修学旅行では、お金ではなく米を持って行った。当時はまだ食糧難の名残があって、お金を渡しても、宿では米を調達できず、各自が自分の食い扶持を持参した。大抵は子供に持たせるのだからと、親は上等の米を持たせたが、宿では子供でも分かる安物が出た。
この話は、3~4歳違うと全く知らない。同様に、進駐軍も全く知らないと言う。もっとも我々も進駐軍の姿は憶えているが、「ギブミーチョコレート」と追っかけた歳でもなかった。

人は互いに異邦人
同じ国、同じ世界に暮らしていても、各々の体験した環境は全く違う。
世代論を否定する人もいるが、逆に何でも世代のせいにするのも早計だ。意見の違いを「世代が違うから」とか、「まだ若い」とか、「おじさんには解らない」とかで、突き放すのは単に人の話を聴かない言い訳に過ぎない。同様に、何でも感心したり迎合するのも、人から学ぶ姿勢の放棄でもある。

世代の違いは異邦人との付き合いのように、好奇心を刺激し、違いの中に同一性を発見する学びの宝庫だ。
しかし、年寄りが若い人に感心したり興味を持ったりするのは、若い頃の息吹を思い出し、若返ったような気がするからで、「エキスを吸って若返る」などと言うような、自らの息吹が枯渇している人は、二度と若返れない。「万年青年」などと言う人も既に若さを失ったコンプレックスだ。
100歳になっても精神の老けない人は、自分の歳を忘れていたり、死ぬ気が全く無い。「あと何度この桜を見られるだろう」などと言い出したら、アブナイ。

一方、若い人の中には、年寄りの心境を知りたがる人がいて、自分もその一人だったが、その歳になってみると、「三つ子の魂百まで」の一言に尽きる。基本は何も変わらない。
ただ、老人という概念に囚われ、自分自身がそこに閉じこもる、いわゆる「老人」や、若いのに年寄りぶりたがる人、逆に老人を蔑視する人など、多くの人が外見に惑わされ、年寄りだから、若いから、子供だから、病人だから、外国人だからと決めつけ、本質を見ない。
なり振り、世代の違い、国の違い、姿や形の違いの中の「人間」の本質は皆同じ。その「同じもの」が何かを知った上で、違いを発見するのが、マンウオッチングの面白さだ。


江戸の敵

2023年10月12日 | 星の流れに

山羊座のインドが新生インドとしてスタートしたが、ユダヤとイスラエルも山羊座だ。イスラエル回帰運動のシオニズムから120~30年になる。つまり、ユダヤ人の前回のピークはシオニズムの提起だったことになる。そこから下り続け、ホロコースト、イスラエル建国などを経て、シオニズムの250年が終わった。今、再びユダヤ人の新しいサイクルが始まるのだが、それが何を意味し、どうなるのかはイメージできない。

ユダヤ民族が国を持たなかった期間は、冥王星周期の約10倍の2500年になり、ここ250年で生まれたアイデアは1948年イスラエル建国で実現したものの、それ以来ずっと戦い続けてきた。
冥王星が山羊座に到り、ようやく地域の中に容認される雰囲気が出始めていた。
そこに起こったのが、今回のハマスの急襲だ。

イスラエルとしては、ハマスを除去したかったわけだから、おそらくこの機会に、完全な建国か亡国か、全てを賭けるだろう。
この戦いは、イスラエルの再定義になる。戦闘よりも重要な大義を、世界が認めるかどうかが、イスラエルの戦争だ。そしてその結果が、新生イスラエルそのものになる。

江戸の敵を長崎で
一方で、アメリカの力を分散させるこの情況は、ウクライナのユダヤ人大統領にとっても死活問題だ。直接の黒幕はイラン過激派だろうが、ウクライナの敵をパレスチナで討つ、ロシアや中国の策動かも知れない。
極論すれば、アメリカにはユダヤの傀儡政権の一面がある。亡国の民にとっては新大陸こそ新天地であり、キリスト教徒の国で表には立てないものの、寄り集まりの国なら容易に実権を握ることが出来た。
世界の中で、もっとも国際感覚を持っているのは国家から離れている人々であり、華僑を超えるのがユダヤ人だ。アメリカの強さの一因でもある。

そのユダヤ人が国を持つことは、逆に、アイデンティティの喪失でもある。国を持たない民は、学芸ビジネスなど、権力以外の分野で才覚を磨いてきた。イスラエルの強さはそうした諸々の知的遺産を、国家権力確立につぎ込んだからだが、国家的視野は人間を愚かにする。
国家や権力に集中した人間が、信じられないほどバカになるのは独裁者を見ればわかるが、世界が国家の集合である限り戦争が無くならないのは、各々の国民が国という権力基盤の内側からしか物を見られないからだ。

今回のイスラエルの戦いは、国家が無くなる時代に、国家を持とうとすることの皮肉な教訓になるだろう。
ユダヤが操るアメリカの支えによって建国したイスラエルが、ユダヤ人の夢であることには変わりないが、中にいる人と世界のユダヤ人の認識は、少しずつズレてきている。建国後イスラエルに移った人の中には、幻滅して去った人も少なくなかった。国家は必然的に戦争の手段である以上、どんな理想を掲げて建国しても、結局はコスモポリタンとは真逆の方向性から逃ることはできない。


呆痴条例

2023年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

埼玉県議会で子供の虐待を防ぐため虐待禁止条例(放置禁止)が提起されたが、反対が多く、取り下げた。
当たり前だ。
放置が虐待になる社会そのものを改善するのではなく、社会の問題に目を向けず、それに輪を掛ける束縛を考える。善意は認めるが、思いついた議員の「時代の子」としての蒙昧に、慨嘆どころか哀れになる。

子供が一人で遊べない。家や車に放置される。これを防ぐために親の保護者義務を重くする。この情況に、この発想しか考えられないのは、核家族化の中で育った議員達の人間的視野の欠落なのだが、何が欠落しているかさえ知らないことが悲劇なのだ。

人間は社会的動物などと言われ、集団で生き、共同体の中で生きる。
ところが、大家族が失われ、学校に加えゲームやネットによって、地域集団の関わりを知らないで育つ。昔は学校も地域の中の存在としてあったが、地域の関わりが失われることで、学校は家畜小屋や軍隊や刑務所、オウムのサティアンのような異空間になり、さらに加えてゲームが子供社会を消してしまった。
もちろん、今の学校も塾もゲームも、それなりの社会を作ってはいるが、地域と人との相互の関わりが非常に希薄になっている。

その中で育つと、大人になっても他人との関わりの敷居が高く、間単に人に頼れなくなる。近年のお母さんが子育てに悩み、一人で悩み込むケースが多いのも、誰にも相談できないからだ。相談できる人がいても、経験や勘を否定する教育を受けて育った人は、マニュアル以外の大人の言葉を聴けない。
子育てを個々の家だけの責任とすれば、他人に頼るなら公共保育などしか道がなく、それが窮すれば、父親の協力に焦点を当てる。
放置禁止を厳しくしようと考えるのも、地域協力の無い社会で、少子化による完璧な子育てを個々の親に求めるからだ。

今回の発想が、地方自治とは言え自民党から出たことに、さらに悲哀がある。自民党は江戸の名残りの明治社会を理想とし、「家」にこだわり続けている。少子化は結婚できないからだと思っているが、結婚を基本とする社会が否定されていることに気づいていない。自民党の進める女性進出は、中国の特色ある共産主義のように矛盾している。
男系家族を前提としながら、女性の「活用」だけはしたい。給与&税制の完全対等も無く、育児施設の大々的な保証も無く、穴埋めに都合の良い男性育児だけを煽り立てる。

繰り返し言うことだが、産業革命パラダイムで、大家族や家は消滅した。これからの社会は社会と個人が家族だ。子育ての責任が国や自治体にあることを前提に考えなければ、様々な問題は解決しない。放置した者を罰するのではなく、地域共同体の再構築を含め、放置しなくても良い環境を作ることを、先ず考えるべきではなかろうか。


新生日本 2

2023年10月01日 | 星の流れに

今の日本、新生日本が誕生したのは70年代だった。
それまで、江戸の日本が続いていたのに対し、70年代を起点として新しい価値観、新しい日本のイメージが生まれ、成長し続けている。
江戸の日本とは、「家」を軸とする秩序であり、新しい日本はまだハッキリ定まっていないが「日本人」ではないかと思う。

国も無くなろうかというグローバル時代に、「日本人」とは変な話だが、氏も家も無い個人の時代が来れば、アイデンティティを確認するのは宗教だろう。この場合の宗教とは、生き方のルール、哲学であり、生きる理由、生き方の指針だ。
移民国を始め、多民族国家では国民意識とは別に、宗教が個々のアイデンティティを保っている。この中で、宗教を持たない中国人のように中華街など物理的ルーツで中国人であり続ける人々は、アメリカ人から見ると、同化しない人々と見られている。

戦前は、日本人も同様に日本人街を拠点にしていたので、真珠湾攻撃で収容所に集められたが、実は、日本人は物理的ルーツにはこだわらない。中華型の氏族文化に対し、日本人は「家」文化であり、土地を離れる時、氏素性と縁が切れる。江戸以来、日本人を支えていたのは、「善」を信じる日本教のようなもので、一人一人がその価値観で生きていたから、何国人になっても家風として、その教え「日本人」を守って生きてきた。

幕末、清国を経て日本に上陸したシュリーマンが、税関で荷物を開くのが面倒くさいので、賄賂を渡そうとしたら、役人は「ニッポンムスコ」と言って断った。
「日本男児は賄賂など受け取らない」と、胸を張ったのだ。シュリーマンは「めんどくせえなあ」と思ったが、その後の親切に感動したようだ。
こうして、日本人が信じてきたものが日本教であり、おそらく仏教や儒教を日本流に昇華したものだろう。

世界の中で
70年代に誕生した新生日本は、先代の「世界と日本」から、「世界の中の日本」として生まれた。言わば、移民国で生まれた日系人のような存在だ。異文化に同化しながら、日本教を信じて生きていく。日本教には神も教条もないから、他の宗教と衝突することもない。
移民国の日系人はリーダーにはならないが、信頼される存在になっている。
これからの半世紀、日本は押しつけではない日本のモラルを貫いて行けば、自ずと世界に尊重される存在になっていくだろう。

「誠意を見せろ」と叫ぶ誠意のない連中とは逆に、黙々と誠意で生きていけば、やがて、世界の喧騒の中から、いぶし銀の「日本人」が浮かび上がる。リーダーシップや戦争の才はないのだから、ヘタにしゃしゃり出ようとすれば、太平洋戦争やペルーのフジモリ大統領のようなことになる。
目先のウケ狙い、勝ち負けを遠ざけ、真実一路を続けていれば、布教活動をしなくても、日本教が世界に広がっていくだろう。
世界のリーダーではなく、愛されて一目置かれる存在として成長していくのが、新生日本の「日本人」としての歩みなのかも知れない。当然、これがピークを迎えるとどんな弊害が現れるか、今から考えておくことも大切だろう。