中国では自国の支配下にあった国が思い通りに従わなくなると、「恩知らず」だと声が上がる。手綱を切って逃げ出した馬に、餌を貰っていたくせに「恩知らずめ!」と言うなら、誰が何のために縛っていたのか、思い起こすべきだろう。全て自分の都合だったはずだ。
介護した行き倒れに殺されて、財産を奪われた・・・「恩知らず」とは、こういうマイナスの不条理を言う。
しかし、縦型社会の東洋では、自分の目下と(勝手に)思っていた者が、自分より上になったり、そこから自分が何の得もしなければ、「恩知らず」と罵る。日本人も例外ではない。
逆に、何かと言えば、行動理由に、「恩返し」と言うのも、実はこうした、打算やご都合主義の裏返しなのだが、誰も不思議に思わず、むしろ賞賛される。
「恩」の論理は、欧米人には理解しがたいもののようで、『菊と刀』の中では、日本人の特性として強調される。
「善意への恩返し」の論理は、欧米人にとっては打算としか理解できない。善意とは無償であり、それへの「お返し」は必要無い。東洋人の「恩返し」に当たるものは、同じように、善意を受けた人がする、「新たな無償の善意」だからだ。
何かをしてくれたから返すのは「取引」であり、返さないのは単なる「契約違反」だ。
洋画などで「借りは返したぜ」と言ったりするのも、善意を持てないはずの関係の相手に助けて貰った場合などで、そもそもの成り立ちが取引の一種、貸し借りと認識されるような場合だ。
スポーツ選手が、「応援をしてくれた人への恩返し」などと言うのも、いかにも東洋的で、西欧式なら、応援する人も、自分の勝手な選手への代行願望であり、選手も自分の目標のために頑張る。勝てば自分の手柄であり、応援側も自分の願望である投影感が満たされる。それだけのことだ。
「選手と応援」の関係は、応援する側が選手に何かを貸し、選手がそれに返済するような貸し借りの関係ではないはずなのだが、情緒的な貸借関係が生じるのが東洋だ。
ライオンの美
東洋の、取引と情とが混ざった、ジメジメとウエットな「恩」の論理は、国際関係の場にも持ち込まれる。それが、中国のご都合主義の「恩の押し売り」であり、首脳同士が仲良くなれば、相手の国益さえも崩せると錯覚する外交手法もまた、しかりと言えるだろう。
近頃は少なくなったが、取引の前に先ず酒を飲んで「お近づき」になろうとするのは、取引に情を絡めて、恩や義理の寝技に持ち込みたいからだ。
古い文化ほど、汚職が多くなるのは、取引や契約の論理が浸透せず、原始的な「血族や力関係の情緒」による損得勘定で事が動くからであり、中国が、途上国の支配者を容易に抱き込めるのも、中国が古代原理に生きる帝国だからだ。
情に絡んだ金には、「契約」意識が存在しないから、金を受ける側は無防備に受け取り、「いつかきっと恩返しをしなければ」と喜ぶ。だから返済を求めると、突然、恐ろしい「証文」を突きつけられた!優しさは嘘だったのかと恨む。「情」と「理」の区別のつかない社会では、「金貸し」と言えば極悪人の代名詞だった。 これはベニスの商人や金色夜叉のように、古い社会が残っていた西欧でも戦前の日本でも変わらない。
日本で貨幣経済が普及した中世以後も、金銭という「契約の象徴」が理解できず、金を多く持っている人を「長者様」として、権力地位と理解していたし、逆に、施しが無ければ恨んだ。これは、肉食獣のリーダーが先ず食べた残りを、地位の低い者が食べる習性のままだ。
「恩」や「報恩」や「忠義」は、力関係による動物的秩序の美しさであり、それを美しいと感じる心には、野生が働いている。
もとより、物事に善し悪し、上下など無い。野生回帰を追求するのか、理性向上を追求するのか、人それぞれだが、少なくとも自由主義社会とは、力による秩序を目的とするものではないだろう。
「恩」が規範になるような社会は、自由主義社会とは少なからず方向性が違うのではないか。中国が叫ぶ「恩知らず!」と、共に叫びたいのならそれも良かろうが、中国嫌いの人ほど、この「恩」を語る人が多いのは何故だろう。