魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

十万馬力

2011年07月31日 | 自動車人間学

菅叩きもたけなわだが、もうこれ以上ないと言うほど、悪菅ぶりが出てきて、中には「極左」だと言う人もいる。

しかし、自動車人間的観点からすれば、そんな「立派?」なものではない。
だいたい、「極左」とはどういうものなのかよく解らないのだが、
徹底した思想や信条に基づいて行動するなら、「極」と言えるかも知れないが、共産主義者ともアナーキストとも思えない。

左翼というなら、この世代の、いわゆる「心情左翼」とか「ムード左翼」に属するのだろう。
共産主義革命を目指したわけでも無さそうだし、徹底した反戦や反核平和でもなさそうだ。もちろんそれも含むとは言え、女性運動から出発した人だ。(この辺りがいかにも天秤座なのだが)
あえて言えば、中道左派社会改革派「のようなもの」だろうか。
よく解らない??? とにかく、極左には当たらないだろう。

自動車人間のエンジンは、よく働く
目の前に「やるべきこと」があると直ちにやってしまう。
ひたすらガンバルが、何の為に頑張っているのか考えない。
行動に、原理や理想はなく、計画も作戦もない。業績を誇る為でも、いい顔をする為でもない。「そこに山があるから登る」のだ。
とにかく、すぐ結果を見たがるために、大きな目的を忘れてしまう。というか、大きな目標をイメージできない。

政治家が好きな「為にする」ということが全くない。そのことが、かえって、政界やマスコミの、違和感と不快感をかき立てる。
それまでの政治の常識が、全く通用しないからだ。

「ありえない」事が次々起こる。
何の予告もなく、予定が覆される。いわば、事後承諾で、独断専行する。スケジュール発表もない。周囲は、ますますわからなくなる。

自動車はエンジンが無ければただの飾りだ。シャーシもボディーも
エンジンの行動力には歯が立たない。だから辞めさせられない。

しかし、もし協力して利用する気なら、エンジンほど扱いやすい能力はない。右と言えば右に、左と言えば左に、目一杯動いてくれる。

何か問題があるとすぐ改める。必要ならすぐ謝る。署名をしてくれと言えば確かめずにするし、お金が要ると言えば、「いいよーっ!」と金を出す。問題があればやり直せばいい、と思っている。本当の意味で、「やり直しのできる社会」を実践する人だ。

やはりエンジンの鈴木宗男と同じで、おそらく今日まで、政界の便利屋として重宝がられてきたのだろう。
しかし、パワーは制御して初めて使い物になる。もし、カートに500馬力エンジンを載せたら、カートは潰れて、エンジンが飛び跳ね、怪我人が続出する。

今のこの事態を招いたのは、エンジンという「形無し」に協力したくない、お体裁屋のボディー達、つまり政界とマスコミだ。

ところで、忍の字と涙で話題の海江田万里経産相は、「見せ上手」のボディー魚座だ。エンジンには腹が立つが抵抗できない。


傾城大陸

2011年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

バブル崩壊から20年。バブルからは、まもなく30年になろうかという時、東日本大震災が起こり、日本の苦境は来るところまで来た。
まだ、しばらくは苦境が続くが、もう反転攻勢が見え始めた。

日本はゆとりが出始めると、大陸に目を向ける。しかし、さらに30年後には、これが大きなツケになって戻ってくる。
→「まほろば(4)日本の輪廻

最初は、苦し紛れの突破口として関わりを持つが、やがて中毒になり、歯止めが利かなくなり、終いには、身ぐるみ剥がされてタタキ出される。

今、苦し紛れに、日本企業が争って大陸や半島に進出しているが、この連中は、歴史を憶えているのだろうか。
全てを置いて帰った上、罵詈雑言を歴史に刻まれている。

今から半世紀もすれば、進出企業は大陸の露と消え、日本の技術や知識が大陸に別の名前の花を咲かせているだろう。
技術を手に入れた中国高速鉄道の居直りの大見得に、あっけにとられながら、それでも中国や韓国に進出しようとしている。

たまたま起こった高速鉄道の大事故は、日本にとっては神風のようなものだが、これがなければ、中国は邪魔な日本を叩きつぶすことに専念していただろう。

大陸に進出することは、根こそぎパクられることだと言うことを、どの程度理解しているのだろう。新大陸に進出するのとはまったく違うのだ。

新大陸は多細胞生物だが、中国は単細胞生物だ。中国に入れば吸収されてしまう。最大限成功して生き残るとしても、体内共生しかない。中国のミトコンドリア、日本省になる覚悟があるのだろうか。

昭和初期、日本が元気いっぱいで、大陸進出していた頃、
「狭い日本にゃ住み飽きた・・・」「目指せ満蒙」と、すべてが素晴らしいことのように言われたが、さんざんな目にあった上、今日まで、言いがかりの種を残すことになった。

一方で、新大陸に移民した人々は、苦労のすえに、新天地に根を下ろし、日本人の信用を高めることになった。
アメリカに進出した企業も、現地に根付き、信頼されている。
短絡的に安易な道を選ぶ企業は、必ず亡ぶ。

再来再見


敏感鈍感(1)

2011年07月28日 | 兄弟関係

ラモス夫人初音さんが突然亡くなった。手遅れになるまで周囲が気づかなかった。
弟妹型ではないなと思ったら、一人っ子だった。

考えてみれば、一人っ子ほど堪えるタイプはないと思う。
苦痛も喜びも、一人っ子は比較する対象が無く育つから、自分の苦痛がどの程度のものなのか分からない。

同じ長子でも、弟妹がいれば、痛みの「事と次第」がわかるから、堪えてはいけないレベルがわかる。
しかし、一人っ子は、せいぜい母親しかいないし、母親は、そうそう子供に苦痛を見せない。

他人に相談したり、苦痛を訴えたりする習慣がないから、むしろ、堪えたり、自分をなだめたりする方法を身につける。例えば、痛みが快感になることを発見したりする。

だから、場合によっては、自分自身のストレス調整や体調管理を身につけて、多少の病気は自分で治してしまう、と言うより、だれにも言わないうちに治ってしまう。

一方、弟妹型の場合、自分で管理するより、問題は全て訴えるから、少しでも異変があると、すぐ病院に行く。
特に、中間児の安全主義はどんな些細なことにも敏感で、自分のみならず、周囲の人の病状も気にかけて、病院漬け、薬漬けにしてしまう場合もある。

一人っ子や、弟妹のある長子は、あまり病気に「なりたがらない」。
中には、口癖のように、あそこが悪いここが変だと言っている長子もいるが、病院や薬を勧めても素直に従わない。人に判断して貰うために訴えているのではなく、自分自身で調整するためのかけ声のような「独り言」だからだ。

ことに、一人っ子の場合、周囲に人がいることを忘れているから、無口なタイプは、極限状態になるまで、苦痛を訴えない。
堪え忍ぶことで、自己調整ができ、自力快復する場合も多いが、手遅れになる可能性は、兄弟のある人より高い。

一人っ子も、弟妹のある長子も、自分の事情を人に相談しないから、人の事情にもあまり関心がない。
長子同士の夫婦などでは、日頃、心配事や病気の心配も少なく、平穏な生活だが、一端、起こったら、手遅れの場合が多い。

末っ子の場合、苦痛は訴えないが、いきなり発症する場合が多く、それでいて、手遅れになることも少ない。これは、一人っ子のまったく逆で、自己調整をしようとしないからだ。
問題も病気も、誰かが何とかしてくれることを前提で行動するから、七転び八起きで、猫のように七つの命の人生になる。

敏感鈍感(2)


激突墜落

2011年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

中国高速鉄道の事故は、単なる鉄道事故ではない、時代の分岐点となる大事件だ。
同じようにトラブル続きの高速鉄道を抱える韓国は、日本の報道を、中国に出し抜かれそうになったやっかみで大げさな報道をしていると、揶揄しているが、ことはそんな低次元の問題ではない。

新興中国を牽引して驀進する、先頭機関車が爆発したようなもので、
911や311に匹敵する、歴史的な意味がある。

911は石油とグローバリズムの壁、311は原子力と大量生産の壁。そして、今回の鉄道事故は、生産とビジネス手法の壁だ。

日米の惨劇では、産業革命パラダイムの限界が現れたが、中国の鉄道事故は、自由主義経済に「商」で挑む古代帝国の誤算が露呈した。

大量生産と大量消費は、知恵、技術、労働が、自然界の生命活動のように、バランスを保ち、淘汰し合いながら発展を続ける。
これに対し、人為的な計画生産には無理があることを、ソビエト崩壊が証明した。

しかし、中国は巨大なキャパシティに引かれて集まる人智を資源にして、「駆け引き」だけで世界に君臨した古代帝国を夢見ている。
先進国の技術と情報を、人口を餌に自国に引き込み、それを包み直して逆に売りつけるという、「商」の伝統を武器にして、自由主義の世界に逆襲しようとしている。これは、ゲリラ戦の発想でもある。

産革パラダイムの本体は交通システム
船、鉄道、自動車、飛行機は、生産消費の要であり、これを押さえる者が、世界を制覇する。輸送機器こそは、近代戦争の主役でもある。
当然、世界制覇を目論む古代帝国=共産中国は、省資源時代の本命として、鉄道を基幹戦略に位置づけた。

そして、伝統の「商」駆け引きを駆使して、高速鉄道技術を手に入れ、アジア全域のみならず、世界に中国規格を張り巡らそうと企んでいる。
もし、中国規格が中国、東南アジアからロシア、アメリカ大陸まで押さえれば、やがて、日本まで飲み込まれることになる。

何が何でも相手の武器を手に入れて、逆襲する、毛沢東ゲリラ戦術がまさに功を奏しようとしているこの時に、信じられないほどのタイミングで起こった、鉄道事故だ。

産革パラダイムに欠かせないものは、モノ造りのマインド、職人魂やマイスターの精神であり、欧米や日本には、元々それがあったから大量生産も可能になった。
しかし、新興国は、右から左に流す、「商」だけでそれができると甘く見た。

占いの目からすれば、「歴史は必然だ」としか言いようがない事件だ。
今回の事件で、少なくともアメリカ大陸上陸は不可能になるだろう。
それだけではない。トップダウンで拡大する、タテ型古代帝国システムそのものの足下が揺るぐことになる。

また、軍事と平行してつぎ込んできた、巨大投資に大きな狂いが生ずる。もし、バブルがはじければ、さらに大きな山が崩れ落ちることになる。

まもなく、大恐慌から一周した天王星が、84年ぶりに還ってくる。


迫り来る

2011年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

惑星衝突は必ず起きる。しかし、多くは、早期発見で何とか対処できるそうだ。問題は、如何に早く発見して人類の叡智を結集できるかだ。

しかし、何が起こっても、政争に明け暮れる、日本の政治家のような連中では、人類は亡んでしまうだろう。
傾いた船の上での、反乱劇だ・・・

これは、どうも、日本だけの現象ではない。
EUもアメリカも、警報が鳴り響く中、燃料バルブを閉めろ開けろと、殴り合っている。
いまや、星の影響は世界を大きく覆っている。世界中で政権交代が起こり、その後の混乱が続いている。

経済バランスの崩壊による混乱が、先進国の政権交代を生じ、その結果、さらなる混乱が起こっているように見えるが、むしろ、その経済状況自体が必然的な流れであり、混乱も約束されていたものと言える。

資源、エネルギー、消費の循環が、一つの時代をつくる。
人間に火を与えたプロメティウスの神話は、「時代の転換点」のことをギリシャの昔から語っている。
転換には、大きな苦痛と犠牲がともなう。
プロメティウスの心臓は、再生しても、また鷲に食われる運命だ。

化石燃料から原子炉による発電。くどいが、これは「ワットの蒸気機関」から、何も進歩していない。
時代を動かしてきた250年の産業革命パラダイムのなかで、燃料を断たれた日本は戦争を起こし、オイルマネーが世界を席巻した。
いま、また、資源に行き詰まった中国は、戦争をじさない行動に出ている。

産革パラダイムの、資源と消費の狂奔も、最終段階に入った。
250年かけて形作られた循環システム「プロメティウスの心臓」は、また、鷲に食べられる。
先進国が試行錯誤しながら作り上げた、循環システムを、資源供給国が、そっくり模倣することで、流れる血液=資源が無くなる。つまりそこが終点であり、鷲に食べられる時だ。

激しい苦痛が襲う
世界同時デフォルト、世界大恐慌、どういう形であれ、250年かけて形作られた循環システムが失われる。
規模が大きくなっている分だけ、84年前とは比較にならない。

新しい心臓は、新しいエネルギーのために形作られる。
エネルギーの転換こそが、次の時代の姿、形になる。
産革パラダイムを前提にした経済学者の論理など、何の役にも立たない。今ここで企業を保護しても、大崩壊が起これば無意味になる。

大航海500年のグローバル化は、ビッグバンであり、広がりきれば、反転、凝縮に向かう。物流の凝縮は、情報の拡大と共存することで可能となり、争いの拡散から反転し、認め合いと共存を可能にする。

新エネルギー、省資源、資源循環、地産地消、ネットワーク・・・
つまり、結局は、徹底的な地域独立こそが、最大のグローバル化を可能にする。

日本の将来のために、今必要なものは、鎖国の精神だ。
世界の中の規模より、徹底した自給自足、自己循環であり、世界が大恐慌の大洪水に見舞われても、無関係に生き残る「ノアの箱船」経済の建設だ。

しかし、もう時間がない。
迫り来る衝突惑星が見えていたとしても、我々はどこに逃げたらいいのだろう。


政治災害

2011年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

菅総理には任期一杯居て欲しい。
菅総理を支持しているからではない。誰がやっても同じだからだ。
どうせ同じなら、同じ顔の方が、世界にわかりやすい。

もちろん、誰か他の人に替われば、今のような誰も協力しない状況は一時的に緩和するし、しばらくは動くだろう。何かまずいことがあっても、全て前菅政権のせいにすることができるから、とりあえず動くことができる。
しかし、1年もすれば、誰も協力しなくなる。

一番の問題は政治制度なのかも知れない。
しかし、もっと問題なのは、日本人に民主主義が解ってないことだ。
この国の始まり、この島が一つにまとまったのは、天孫が降臨したからだ。

初めから、「天下る者」に従うことで成り立ってきた。
それが力を失うと、代理の力に従い、それが力を失うと次の代理の力に従う。従うことが平和で幸せであると、2000年、そうやってきた。

代理の力が生まれる時には、混乱が伴う、混乱すれば、誰でも良いから早く安定することだけを願う。台風や地震のような長い物に巻かれることが、この島に生きることなのかも知れない。
自分たちで何とかしようとは思わないから、うまくいかない時には、早く災害が過ぎてくれと願う。トップが交わることを願う。

新世界潮流500年
それでも、トコトンのことになれば立ち上がる者があり、すると、それが次の代理の力に収まる。
近年では明治維新であり、その延長線上に、占領軍がある。
明治維新政府というのも、人類史的に俯瞰してみれば、英米の傀儡であり、敗戦によるアメリカナイズも、実は、大航海、産業革命と続く、新大陸時代の線上にあるとも言える。

日露戦争にしても、日英同盟があり、アメリカの介在があって初めて、勝つことができた。それを忘れたことが、敗戦につながり、そして、本格的なアメリカナイズにつながってきた。

世界潮流の中で日本は、国中の人が、隅々に至るまで、議論を戦わせて革命を成し遂げたわけでもなく、支配階級の予備軍が代理の力に入れ替わったのが実体だ。

だから、維新政府に代わる代理の力として現れた占領軍にも、安々と従った。維新政府も占領軍も、「天下る者」の代理であることで、権力を難なく行使したし、そのことを、占領軍は文化人類学的観点でよく研究していた。

日本という国としてまとまって以来、幸いにして、占領時以外、表だって他国に支配されたことはなく、日本は、常に、天(大自然)と天孫にゆだねてきた。
だから、物事がうまくいかなければ、所詮、代理の力なのだから、とりあえずトップを替えてくれと願う。
政治は自分たちでやろうとはならない。テレビには突っ込んでも、
あちこちの町内から政治運動が始まるわけでもない。


アマゾン

2011年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ベトナム戦争が終わる頃。まだ、ロックや反戦の時代で、アジアや日本は、今とは違う理由で、若者のトレンドだった。

その頃会った、日本に来ていたアメリカ人女性は、本による知識がふんだんにあり、おとぎ話まで挙げて、日本論を繰り広げていた。
後に、彼女と同年代のクリントン大統領の日本に対する言動を観て、ほとんど同じものを感じた。ステレオタイプなのだ。

ことに、日本は男尊女卑であり、女が虐げられ、女には何の力もないという前提で話を展開するので、「日本は潜在的に女の国」であると説明するのには、英語力のつたなさもあって、相当苦労した。
そこで、古代には女帝が多数いたことを例に挙げると、かなり驚いていた。

だから後に、クリントンが大統領になった時、『まずいな』と思ったが、恐れたことは現実になった。日本に対する豊富な知識が、むしろ、訳知りの無理解となり、日本を無慈悲にたたき落とすことになった。

今日でも、世界の認識は、日本を男尊女卑の国としており、その認識が、逆に、国内の偏狭な女性運動家に影響を与えている。

立前の日本は、儒教的価値観で男尊女卑が貫かれてきたが、元々、母系母性の文化であり、日本の歴史は、本音は女に依存して成り立っている。日本史上の偉人のほとんどが、母に何らかの影響を受けたマザコンだが、これは、儒教文化の本質で、アジア全体の傾向でもある。

欧米にはファザコンの話はやたらあるが、東洋のようにマザコンが美談になることは少ない。

欧米に始まる女性運動にしても、男の絶対優位を前提にした、女権拡張であり、騎士道のように、か弱い女を守る強い男の概念が背景にある。何か悲惨な事件があると、女子供には見せないようにし、女は箱に入れて保護するものとされている。

日本も近年はそういう価値観に影響されて、「僕が守る」が決まり文句になったが、いつの間にか、女が守ることになっていたりする。
男女どちらが守るにせよ、騎士道的なモチーフは、元来、アジアには無いようだ。

「女に手を上げるな」はあっても、積極的に守る美意識はない。
女は不浄であり、魔性であり、守るより、避けるもの、つまり、放っておいても生き抜く、大自然のような生命力があると思われており、それを前提にアジアの文化は成り立っている。

もし、肉体的、環境的に対等なら、欧米女性より、アジアの女性の方が圧倒的に強い。今回の女子サッカーのみならず、他のスポーツにもその傾向が見られるが、論理を超越した「芯」の強さ=生命力から来るものだ。

しかし、男性の得意分野、理想や論理となると、どうも欧米にはかなわないようだ。
国際法や、知的所有権などのルール作りはもとより、国家、主権、プライドなど、理念こそが「戦争の素」となるのだが、
女性戦士族アマゾンは、ヘラクレスに敗れたことになっている。


大和撫子

2011年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

月並みな話題ながら、  女子サッカーはスゴイ

星占いも、四柱推命も、易卦も、日本の勝利を暗示していたが、
『勝って欲しい』あまり、占いを信じ切れなかった。
競馬占いと同じで、願望が強いと、素直さがなくなり、占いを素直に信じられなくなる。

やはり、自分の問題は占えない。
我が事のように、願望が強すぎると、妙なバイアスがかかる。
日本が勝つと出れば出るほど、常識で考える。どう見てもアメリカはケタ外れに強い。日本に勢いがあるとは言え、不安の方が先に立つ。

アメリカには一度も勝ててない。しかし、引き分けならある。
日本が勝つとすれば、PKしかないだろう。
しかし、それが勝ちと言えるのか・・・など、迷いで一杯になる。
その上、ドイツに勝ったことで、当然のことながら、マスコミが騒がしく盛り上げ始めた、
『あああ、勝つ勝つ言うな!言うと、負けるぞ・・・』と、イライラする。当然、ブログなど、もってのほかだ。

いよいよ、決勝戦。純粋なファンとして、ハラハラドキドキしながら、観戦した。
延長戦、澤のゴールで追いつくと、『も、もしかすると、勝ち越すかも』と、期待したが、結局、引き分けた。

こうなると、さすがに、占いを信じるしかない。日本が勝つな。
そう思いながらも、先行したアメリカの一番手、ボックスを海堀が止めた瞬間、「やったー!」と叫んでしまった。

数時間後には月が魚座に入る。試合後半になるほど影響が出て、アメリカには不利になる。延長戦から、PKまでもつれ込んで、時間が延びた。これもやはり、占い通りと言うことか。
不幸の星、土星だが、「古風、正確、粘り、信念、不屈」などの長所が日本の大和撫子(天秤の土星)を輝かせた。

大和撫子、おめでとう、ありがとう

それにしても、敗れた欧米各国の反応が素晴らしい。やはりスポーツは文化だ。勝つためのものではない。勝っても負けても、たがいに認め合う文明と文化があってこそ、スポーツの意味がある。

スポーツが国威発揚や、金儲けの手段であったり、手段を選ばず勝とうとしたり、勝てば敗者を貶め、負ければ、不正で負けたとゴネまくるような、非文明国とは、できることならを試合して欲しくないのだが。

ところで、日本サッカーは、恐らく日本以上に評価されて、今後は、逆襲に遭う可能性もある。
太平洋戦争で、日本は飛行機による新戦法で連戦連勝した後、突然、巨艦巨砲信仰に逆戻りして、むしろ、飛行機による新戦法を進化させた連合軍に、トコトンやられてしまった。


人を食う

2011年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

九州B型」で、B型の「人を食った」言い回し、と言ったのだが、
この説明は、長くなりそうなので、日を改めた。

先ず、「人を食った」言い回しとはどういう意味か。それが難しい。
どうも、意外に定義しにくい言葉のようだ。
舞台に上がる前に「人」という字を書いて、それを呑んだことにすれば、上がらない。というから、これがヒントだろう。
また、似たような言葉で「ナメるな」とも言う。

大まかな意味としては、人を虚仮にする。傍若無人の意味で、「他人を無視する、意に介さない」意味だと思うが、嘗めるとか食べるとか、皮膚感に訴える言葉は、「スッと」とか、「きちんと」のように、論理的に説明するより、「解った」ような気になる。

他人を「ナメる」ことは、実際に可能なので、ベチャッと不快感があるが、「食う」は現実感が無く、シュールな世界だ。
こうなると、「食う」こと自体の感覚を確認しなければならない。

生命活動は、エネルギー摂取のために、命がけで戦い、他の命を取り入れ、合体せねばならず、「食う」ことは、他の命に勝ったことを意味する。

「食べちゃいたい」ぐらい可愛いと言う場合は、力上位の者が弱い者に感じる愛情だが、
近頃流行りの表現、「食べちゃいました」「食べられちゃいました」も、勝ち負けの上の合意、納得であり、食物との化学的一体化の喜びがある。共生のような「無くてはならない関係」になる前段階だ。

「食う」は、相手を対等に見てはいないが、危害を加えようというわけではない。むしろ、理解し、共存する気持ちが含まれているようだ。
ただ、相手の意向や気持ちは全く配慮しない。強者の独りよがりであり、兄弟関係で言えば、横暴な長子の視点だ。

他人事
「A型」が集団秩序を重視するため、他の人の意向や気持ちを気にするのに対し、個人主義で、ネットワークの「B型」は、個人行動のための物理的な客観情勢を重視する。当然、自分自身にも、客観的な位置づけをする。

「困ったやつだ」は、普通、他人のことだが、「B型」は、好んで自分のことをいう。自分の存在も他人事として観ているから、自分のことを面白がる。これが他の人には理解できないから、よほど自惚れしているのだろうと受け止められたり、今回の「九州B型」のように非難されることになる。

つまり、人間関係や自己分析を、他人事として観て、話すことが「B型」の「人を食った」話し方となり、そしてそのことが、脇の甘い暴言として、撃墜されやすい。お笑い芸人ならそれで良いのだが・・・


九州B型

2011年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム

暴言で辞任した松本復興大臣が、「自分は九州人のB型だから」と言ったので、B型の九州人が怒っているそうだ。
この話題は世界中に伝搬して、血液型好きの日本人を面白がり、我が国の大統領もA型でなければ、と冗談が交わされている。

「九州B型」の話は、何も見ていないから、見当違いかも知れないが、おそらく、本人は相当『失敗した』と後悔しているのだろう。

環境で異なるが、B型は基本的に直情的だ。加えて、九州人は、沖縄や韓国に負けないぐらい直情的だ。いわゆる大陸的。
大陸的と言っても、沖縄や台湾なども含めるなら、中華文化圏のことだろう。「雑さ、いい加減さ」を大器として尊重し、瞬発的な反応をする。これがいわゆる「選択と集中」の原点だ。

価値観も、儒教思想に強い影響を受けているから、「長幼の序」や、「父父たり子子たり」の上下関係の中で暮らしている。

今、中国では、「日本人は割り勘にするそうだ」と呆れ、理解に苦しんでいるという。イギリス人も、昔は「ダッチアカウント(Dutch account )」と、オランダ人の合理性を「ケチ」とバカにした。
何でも「ダッチ」とバカにしていたわけだが(ダッチワイフ)、自分達と同じでないとバカにするのは、自分達自身が無知だからだ。

国同士がいがみ合う原因は、ほとんど庶民レベルの無知からで、そこから政治が突き上げられて、戦争にまで至ることも少なくない。

中国人が当然と思っている「おごり」は、まだ日本にも残っている。
そして、日本の若い人がこれを嫌うのは、「おごり」は金銭支配の関係であり、おごったりおごられたりしながら力関係を調節するような、動物的力関係を避けたいからだ。

人格を尊重した付き合いには、力関係や上下関係がじゃまになる。
男が払うのが当然と考えるような男性優位社会も、もはや、日本では過去のものになりつつある。

しかし、「家族的」という、動物的な力関係のバランスを秩序とする儒教文化は、九州などには今日でも色濃く残っている。そして同時に、身内意識や、家長、男女の差なども強く、それが、「九州男児」の誇りの背景にもなっている。

「九州生まれのB型」とは、「上下関係の秩序に敏感なので、感じたことをすぐ口に出してしまった」という、自嘲的な反省なのだろう。
後悔していることはよく解るのだが、こういう、人を食った、他人事のような言い回しこそ、いかにも「B型」だ。
他の血液型なら、反省している態度を取るか、黙っている。

しかし、重要なことは、昔と違い、職業上の立場と長幼は関係ないはずで、そこに何らかの上下意識があったとすれば、政府の立場が、知事よりもエライという意識が働いたことになり、何よりもそこが問題だ。


一髪解決(2)

2011年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

一髪解決(1)」←

西暦201X年。ついに、シセネボー化粧品から「美人マスク」が発売されることになった。
ハリウッドの特殊メイクアーチストと契約し、ようやく商品化にいたったが、今回売り出されるのは、男性女性それぞれ一タイプしか用意されていない。

何故一タイプしか出さないのか、開発の吉原氏に聞いてみた。

>一つしか無ければ、街中同じ顔になるということはありませんか
吉原
もちろんこれから、様々なタイプとバリエーションを出す予定ですし、お好みによって、手を加えていただくこともできます。
ただ、トレンドとして、「一つの時代、一つの顔」ということも現実ですので、コンシューマーの反応によって進めていきたいと思います。

>「一つの時代、一つの顔」とはどういうことでしょう
吉原
時代によって、顔の好みや美人の基準は違います。ファッション・リーダーの顔立ちや、化粧法が一つの基準となり、流行となります。
ファッション・リーダーは、その時代、最もインパクトのある事象のセンサーですので、古代であれば唐風であってみたり、江戸時代であれば歌舞伎風、明治の二百三高地髷など、まさに、一世風靡します。
近年では浜崎あゆみがヒットして、日本中が「あゆ顔」になったことがありますね。男性では、どこでも吉田栄作がいたこともあります。

>では、化粧品メーカーとしての戦略はどうなのでしょう
吉原
化粧品メーカーとしては、そうした、トレンドを考慮しながら、化粧法をご提案し、新商品を出していくわけですが、どうしても、上手な人と、そうでもない人の差が出ます。
また、ファッション・トレンドと、メーカー側の提案で、結果的に街中が一つの顔になってしまうという現実から、「同じ顔」のニーズは相当あるのではないかと考え、今回の「美人マスク」になりました。
もちろん、個性重視の方にはご利用いただけないと思っていますが、個性重視と考える方でも、実際には「同じ顔」メイクをなさっている方もいらっしゃいます。

>しかし、それでは、消費者蔑視ということになりませんか
吉原
とんでもありません。企業としては効率よく商品が消化されることは有り難いことですが、いくら企業が目論んでも、もし、それぞれの方が、流行に無関心で、全く個性的なものをお好みなら、こうした展開にはなりません。
流行は、個人が社会の一員として、一定水準の品質を満たしている人間であることを証明するための方法です。ですから、規格外品として、社会からはじき出されることは、どなたも好まれないのです。
そうした、健全な社会帰属意識のお手伝いをすることは、私ども化粧品メーカーとしての誇りです。


巡る季節

2011年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム

5才ぐらいの頃、母の友達のお店に行った。何屋さんか分からないが多分、食堂だったと思う。夏の暑い日で、冷蔵庫など無い時代だったから、瓶入りのオレンジジュースを、タライの水から上げて、栓を抜いてくれた。

母は二十代半ばだったが、病み上がりで、ほとんど和服を着ていたので、映画のような洋服を着て、軽快に話すおばさんがまぶしかった。

近頃、子供連れのお母さんを見ると、無条件で可愛らしく見える。
あの頃の、母達の年齢なのだが、子供心に感じた、女の人への気恥ずかしさも、オヤジの欲も、何もない、ただひたすら可愛い。
母子ともども、無事に育って欲しいと思ってしまう。
良いのか悪いのか、間違いなく年寄りになった。

しかし、だからといって、いまだ仏さんになったわけでもない。
朝から晩まで、怒り、嘆き、後悔する。妄想も、好奇心も、丸くなるどころか、ますます手が付けられなくなってきた。これもまた、老化の一つなのだろう。

胆力の衰退と諦めが、バランス良く進行すれば、好好爺になれるのだろうが、なかなか、そうはいかない。

昔から、少しズレているので、世間の趨勢と常に方向が違う。うかつに意見を言えばマズイことになると、経験的に知っている。
半世紀を振り返ってみると、結果的に、時の趨勢というものは、ほとんど間違いだと確信するが、世論に異を唱えても、何にもならないことも学んだ。

時の勢いというものは、一人や二人の抵抗など、あっという間に飲み込んでしまう。時代は、秀逸な意見や、優れた人物がリードするのではない。
時代とは奔流であり、時のリーダーとは、ただの筏乗りに過ぎない。
流れの尖端で、あたかも流れを御しているように振る舞えば、その人が時代を動かしたことになるが、時代を動かせる人など、実はいない。

時代は一人の人が動かすのではなく、成り行きにまかせて走るヌーの大群だ。
丘があれば西に、谷があれば東へと、毎年、同じコースを闇雲に走り続けるように、時が来れば、同じパターンを繰り返す。
誰かが「この先はワニの待つ川だゾー!」と叫んでも、ヌーは止まらない。

ワニを意識してもしなくても、大群は川に突入する。ワニがいることを知っているヌーは、集団に姿を隠して、多少は有利な位置取りで、渡りきれるかも知れない。

そうして生き抜いても、ワニに食べられて命を落としても、ヌーは絶滅しない。命を落としたヌーがいたから、生き残ったヌーがいる。
長らえたものも、倒れたものも、命の価値は同じだ。

季節が巡れば、ヌーはまた走り始める。


目に栄養

2011年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、目薬が離せなくなった。
30年以上ほとんど毎日、ディスプレーをにらんでいる。その間、人並みに老眼にもなり、眼鏡をかけると、大人になったような気がして喜んだ。その時、高齢化のこれからは、老眼鏡が売れるだろうから、HOYAの株は良いんじゃないかと思ったら、他の理由で既に上がっていた。

元来、視力には自信があったので、目薬を差したことはなかったが、
4~5年前、ものもらいで、抗生物質入りの目薬を差したら、妙に気持ち良かった。それがきっかけで、疲れ目用の目薬を差したら、まさに「キターッ」で、クセになってしまった。

と言っても、過ぎたるは及ばざるがごとしだ。一日、せいぜい、2~3回しか差さない。目薬の容器は小さすぎるじゃないかと思ったが、意外に減らないことを知った。それでも、これまで、ついに、2本を使い切り、もうすぐ、3本目が空になる。

街角などで、中高年の男性が、よく目薬を差しているのを見かける。
自分が使うようになったから、目に付くようになったのか、実際に、目薬の必要な年齢層が増えたからか、どちらか解らないが、女性が目薬を差しているのは見かけない。

やはり、女の心遣いで、人目に付かないところで使っているのかも知れない。それとも、実際に、男の方が目薬が必要なのかも知れない。
なにしろ、男は目で興奮する。グラビア、ミニスカ、巨乳と、朝から晩まで、女の策略にハマって目を懲らしていれば、疲れるのは当然だ。
悲しい男の性なのかも知れない。

女の人の目薬はあまり見たことがないが、30年ほど前、某有名女子大がある地下鉄の、電車が行ってしまったホームで、天海祐希のような大柄の女子大生が、友達を抱き寄せるようにして、目薬を差してやっていた。

宝塚のようなショットに、『学生時代』の歌が頭をよぎって、思わず、見ほれてしまった。


ほどほど

2011年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

原爆から66年。第五福竜丸から57年。日本人は様々なものを体験し、見聞きしてきた。
だから、恐怖感だけで考える異国の人とは違うと思っていた。
アマテラス(1)」、「アマテラス(2)」

しかし、情報が伝わるに従い、他国並の過剰反応が起こっている。
子供を抱える若い親たちの心配はよく解るが、子供への心配以上に、核や放射能に対する、実感に基づかない恐怖心が、「世界レベルの情報」となって襲いかかっているのではないだろうか。

放射能被害の時代を経てきた日本の年寄りは、おそらく、世界の人々や、日本の若い人達よりも、動じていないと思う。
60年間、あらゆる核や放射能の情報に接しながら、同時に、現実を見てきたからだ。(学習しない人はどこにもいる)
現象と結果が、漠然と体得されている。「この程度ならこうなる」という、経験と勘だ。

しかし、世界の人や、核の恐怖にさらされたことのない若い世代は、核や放射能について、情報だけで考える。もちろんマスコミも、既に、体験のない世代が情報を伝えている。
しかも、現代の測定技術や、情報伝搬の量とスピードは、50年前の比ではない。得体の知れない「恐怖の情報シャワー」が、放射能よりも激しく襲いかかっている。

50年前には、これほど細かくスピーディーに、逐一、知らされることもなく、何かワケのわからない恐怖が覆っていた。もちろん風評被害もあった。

原爆や核実験の放射能は、あらゆる放射物質が、巨大な規模でばらまかれたし、チェルノブイリもそれに近い飛散だった。
福島の被害は、様々な刺激的な言葉や数値があふれているし、昔と比べれば遙かに発達した情報量と、情報ビジネスが煽り立てて、もう、その刺激だけで死んでしまいそうなぐらいだ。

だが、はたして、核爆弾やチェルノブイリと比べてどうなのか。
少なくとも、それ以上ではないはずだ。

直接被爆した原爆の被害は、争うことのない最大の核被害だ。
そのことに対し、一つの共通認識を持つ日本国民として、世界のどの国民より、我々は核の恐怖、放射能の恐ろしさを知っているはずだ。
同時に放射能の現実も知っているはずだ。

様々な数値に一喜一憂して、日々、恐れおののいて暮らす前に、
現実に被爆した語り部が、今も生きて語っている事実も見のがしてはならないし、BBCで笑いものにされたと日本中が抗議した二重被爆の人は93才の2010年まで生きていた。

放射能は、恐ろしいものではあるが、その恐怖の余りに自殺するようなことがあってはならないと言うことだ。
友達にわっと脅されて、道に飛び出せば、車で死ぬ事だってあるのだ。


暗い西空

2011年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

本当にひどい状態だ。
84年周期の宿命と言ってしまえばそれまでだが、苦境を前に、政治の混乱には吐き気がしてくる。 
この上、もう一つの大震災が起こったら、日本は万事休すだ。

5日、和歌山で震度5強。阪神大震災以来の揺れだそうだが、直下型なので、マグニチュードは案外小さい。311の4日後、静岡の富士で震度6強で、やはり直下型があった他は、全国で強い地震が相次ぐ中、東海一円は異常に沈黙している。

富士も和歌山も、気象庁は、東海、南海、東南海地震とは関係ないと言っている。と言うことは、大ナマズは全く沈黙していることになる。

東日本大震災の影響は、二つの解釈ができる。
北米プレートと太平洋プレートのストレスが解放されて、むしろ、
フィリピン海プレートのストレスも解消された、と考えるか。位相が変わって、フィリピン海プレートにさらなる圧力が加わり東海地方の危険が増したと考えるか。真反対の、どちらにも取れそうだ。

しかし、どちらであれ、物事は最悪の事態を考えておくべきであることを、日本人は学んだばかりだ。

かりに地震が起きなくても、84年周期は、近未来に警戒警報を出している。
震源は、日本だけではない。84年前、中国では何が起こったか、アメリカでは何が起こったか、世界では何が起こったか。
もう一度、思い出してみる必要がある。

アナログ終了だけではない。カウントダウンは始まっている