魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

黙って考える

2009年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム

1/701の続き
ブログは変則的ながら、どうにか参加しているが、チャットやツイッターには参加する気が起こらない。

祭りやイベント、スポーツ観戦の会場で、見知らぬ人同士があれこれ言葉を交わすのは楽しいが、参加したいと思わない。

何でもそうなのだが、とりあえず、鑑賞は終いまで真面目に黙って観たい。その上で、感想は後でゆっくり語り合いたい。
どうも英国派らしい。

昔、誰の文章か忘れたが、イギリス在住時代、英国紳士の集まりで映写会に参加した(無論あれの)。すると、参加者全員、きちっと正座して、身動きもせず一言も発することなく。額から汗を流しながら観ていたので、驚いたそうだ。
戦前のことだろうが、何か、いかにもの話で、嘘くさい気もするが、真面目なテーマの著述だった記憶がある。(ここだけしか憶えてないから困ったものだ)

今では、日本の映画館で画面に声をかけたりしながら観る人はいないが、芝居でかけ声をかけるように、昔は映画に声をかけた。
世界の多くの地域では、今でもそうだ。

舞台に声をかける一体化は、それ自体が一つのコミュニケーション文化であり、良いことだと思うが、どうもうまく参加できない。というか、楽しくないのだから仕方がない。

ネットは多くの人が参加の関わりを楽しんでいる。
と言うことは、今でも本当は、映画館で声をかけたい気持ちはあるのだろうが、迷惑行為として浸透しているから、誰も声を出さない。
だから、ネットで匿名になったとたん、さえずり始める。

多数決は正しいか
一つの「場」で、みんなが共感して一体化するのは、狩りの前のオオカミの集団みたいなもので、力の結集はしても、正しい判断をしているわけではない。群集心理や集団心理、はては、ナショナリズムの昂揚まで、問答無用の陶酔だ。
祭りや応援なら楽しいが、正しい判断は期待できない。

多数決に矛盾を感じた人は少なくないだろう。
自分の意見と違う多数決には誰でも納得いかないが、
もっと、普遍的な問題として、多数決には矛盾がある。

多数決の土台となるのは常識だ。常識を元にして考えた答えは、当然、多数になる。保守的な秩序が必要な時はそれが必要だ。

しかし、集団が行き詰まり、打開の道を探さなければならない時、
むしろ、多数決(民意)こそ愚策と滅亡への道となる。それは歴史が語っている。
集団の常識が行き詰まりを招いている時に、その衆愚の根源に頼ろうというのだから、当然、破滅につながる。
しかも、そんな時ほど、人間はオオカミ集団の思考停止に陥る。
多数決しか受け付けなくなる。 『非国民!』というやつだ。

今回の選挙は、多数決より選挙制度の問題だから、関係ない。
しかし、ネット上の総意が、選挙に影響すれば、炎上と同じで、ネット・ナショナリズム的な、衆愚の狂奔が政治に出現する。
ネット以前の、新聞、ラジオの時代でさえ、ヒトラーは出現した。


1/700

2009年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

これで、700本目。3年と2ヶ月だ。
100本目ごとの記事を並べてみる。(重要記事は赤文字)
100200300400500600

ここでまた、「お断り」を追加します。
フリーメールには返信できません。こわい~
申し訳ありません m(~_~)m

それと、時々、文章の細かな訂正や体裁変更、リンクの追加をすることがあります。

え~、さて
ぼやきブログだから、相互参加で人気ブログになるつもりもない。
読んでもらった人に多少でも「ふーん」とでも思ってもらえれば望外の幸せだ。(ブログの意義には逆行しているかも知れないが)

最初の、ひやかしと言うのかアラシと言うのか・・・、
コメントに対応して嫌な思いをしたのが、PTSD?になってしまって、以後、コメント欄にアドレスを付けた。
ずっと読んでもらっている人なら、どの記事のことか解ってもらっていると思うし、ひやかしコメントの微笑ましい幼稚さも理解してもらっていると思う。
逆ギレコメントを書き込んだ人は、愛すべき人だが、噛みつきコーギーは愛らしくても、言葉が通じなければどうしようもない。

しかも、コーギーと違って自由だから、都合悪くなれば消えるだろうし、口論が面白ければ、どっと野次馬が参加して炎上となる。そんな戦場に参戦するほど元気でもない。

イベント会場
書き込み自由のネットの世界は、イベント会場だ。
「華麗なるヒコーキ野郎」の中で、主人公は墜落した友達を救おうとするが、見物の野次馬は救うどころか、タバコの火をガソリンに引火させて見殺しにする。(たまりかねた主人公が殺す)

匿名の無責任は野次馬より悪い。炎上が大好きだ。
昔から、対岸の火事は大きいほど面白いと言うが、ネットはさらに、野次馬が、油を注ぐ。

近頃は、この参加会場をさらに広げて盛り上げるために、ツイッターなるものが盛況らしい。
祭りもイベントも発散の場で、そこから何かが生まれるとは思えない。

昔から人混みが嫌いで、全く参加する気がない。話をするなら一対一の、静かな対話をしたい。


とうとう

2009年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

明日、土星が天秤座入り。新型インフルエンザも本格化してきた。
ワクチンは受けないが、相変わらず「鬼うがい」はしている。
しかし、このところ体調不良で、喉も鼻も怪しい。
早く寝なければと思うのだが・・・

よく、車の中で二人ともマスクをして走っている人を見かける。
どこか、人混みに出かけての帰りなのか、どう考えて良いのか解らない。
あの人達、キスしないんだろうか???

あえて考えれば、解らないこともない。理由はいくらでも挙げられるだろう。
しかし、他にもやり方があるだろうし、そこまでやることもないように思う。
むしろ、インフルエンザ以前に、もっと深刻な病に罹っているような気がする。

マスクマスクスクス


一寸先は

2009年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

26~28日は月が水瓶座。空を見上げると、月の下で木星が煌々と光っている。
「月星」と言うと、年寄りは運動靴を連想するが、日新製鋼のブランド名も「月星」らしい。
そんなことをふと思い出すほど、月と星が中空で輝いている。

それはともあれ、水瓶座に月と木星が来れば、獅子座、サソリ座、牡牛座の定着宮もぎくしゃくする。牡牛座の前原大臣もだいぶ苦労しているようだ。

27日の月を見た後、ニュースを聞くと、関門海峡で海自の護衛艦くらまが、韓国船と衝突した。
海難事故や海自は魚座で、北沢俊美防衛大臣個人も魚座。魚座時代の末期症状の一つだ。

しかし、この事故は月と木星の関係から、むしろ、定着宮の問題の意味が大きいと見るべきだろう。

武力や警察力はサソリ座。韓国船もサソリ座。護衛艦くらまの「くらま」もサソリ座であることを物語っている。

「くらま」は当然「鞍馬」だろうから、鞍馬山=鞍馬寺。
鞍馬は単純に名前だけでは、馬関連だから射手座と言うことになるが、牛若丸が修行した鞍馬寺の性質はどうも複雑ながら、サソリ座の傾向が強いようだ。

ご本尊は、千手観世音、毘沙門天、護法魔王尊の三つの神格の合体だ。
千手観世音には驚かないが、毘沙門天は四天王の一武神だし、護法魔王尊というのも金星から飛んで来たという、まるでスーパーマンのような武の神格だ。
鞍馬寺は密教だから、難しい話だがこれもサソリ座だろう。

一方、鞍馬山は都の北方を護る山で玄武。子の北方はヤギ座。
そんなこんなを勘案すると、「くらま」は、ヤギ座に冥王星(サソリ座)の要素を帯びていて、今の時期にピッタリの名前と言うことになる。鞍馬寺も流行ることだろう。

ところで、凶星による事故でもないし、大事故にならなくて良かったが、今回の事故が、定着宮の問題だとすれば、事故処理は案外難しい。千葉の善意の漁師さんとはわけが違う。
謝ればいい誠意を見せればいい、と言うわけにはいかないだろう。


真央のピンチ

2009年10月27日 | 占いばなし

土星が10月30日に天秤座に入るが、もう、とっくに影響している。

不調の浅田真央は天秤座だ。自分の星座に土星が来た人は、重圧がかかる。

しかし、真央の不調は年初からだ。
とすれば、木星が来ている水瓶座のコーチ、タチアナ・タラソワに原因がありそうだ。木星が来た人は欲を出して強引になるからだ。

二人の関係は、天秤座と水瓶座。九紫と八白で、最高の相性のように見える。
ところが、「自動車人間」では、意外と複雑な関係が見えてくる。

人間を自動車の5つの機能と見なす「自動車人間学」では、
浅田真央は自動車ボディーの「見せ上手」。タラソワは「馬力」にこだわるエンジンだ。

この二人の関係は「メル友」のような関係で、
互いに解っていると思っているが、「メル友」にありがちな誤解がある。しかも、お互いそれに気づかない。エンジンにはボディーの気持ちが分からないのだ。

タラソワが、真央に力勝負を強いると、真央のイメトレが崩れるのだが、二人ともそれに気づいていない。
先生に忠実な真央が「ジャンプが完璧なら勝てる」と繰り返していたのが痛々しい。


恩讐の彼方に

2009年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

島国日本の本当の姿は、外国人の思い込みとはかなり違う。

蓬莱の島、黄金の島、ジパングは、古来より今日に至るまで、良くも悪くも、謎めいた幻想の対象だ。
日本人もまた、外まで出向いて宣伝する必要を感じていなかった。
何しろ、盆栽の島で、すべて事足りていたからだ。

世界が、日本を誤解しているように、日本も、外の世界を夢と妄想で見ていた。それが秀吉の文禄・慶長の役や、大東亜共栄圏、八紘一宇の大失敗だ。
独善的な行動が、日本に大きな傷をつくり、恨みと言いがかりのネタをばらまいてしまった。

アメリカは、ベトナム、イラクと、懲りない国だが、関わりと好奇心で、今も成長を続ける形のない国だから、新しいことを始めれば忘れてしまう。

しかし、2000年掛けて島国型に凝り固まっている日本は、形を崩せない。「悪いことはナチの仕業です」と言って、看板を替えるだけで再出発できるような、抜け目ない国ではない。
清濁併せ持つのが人間であるという考え方は、世界のどこにもない。(元祖の中国はやや似ている)

個人でもそうだが、この日本式やり方で「汚名」をそそぐには、反論や言い訳は逆効果だ。謝ってもいけない。
ただ黙々と善徳を積んでいくしかない。

戦後六十年の今、むしろ反日が強まっているのは、反論と謝罪、その両方をやってしまったことも一因だ。
人の噂も75年。敗戦処理の後は、黙っていれば良かったのだ。
物事には良いことも悪いこともある。失敗は消せない。良いことを印象づけることで悪いことを忘れてもらう。それが日本的生き方だ。
水に流す。日本の「時効」の考え方も、ここから出てきたのだろう。

戦後の日本は欧米化され、「物を言う外交」の重要性が叫ばれているが、いまだに日本は「世界流」を理解しないで、中途半端に物を言っては、誤解を膨らませている。

汚名に対し何か言いたくなるのは、言い訳も謝罪も、欲と甘えだ。
相手から何かを得ようとしたり、いい人になりたいからだ。

もし「世界流」に物を言おうとするなら、喧嘩を覚悟でトコトン言わなければならない。そうならば、当然、軍事力を背景にしなければならない。
さもなければ、朝鮮流の「寸止め」の脅しの達人にならなければならない。

しかし、「世界流」で、世界は平和にはならなかった。日本は「世界流」に近づくより、「日本流」を世界に示すことに目覚めるべきだろう。

「恩讐の彼方に」のような物語を、マンガやアニメで広めよう。
もしかしたら、今や、先ず日本人が学ぶべきなのかも知れない。


ニッポンの道

2009年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

少子化問題はどう考えて良いか解らない。
地球全体では、人口増加で大変なことになると言っている。
中国は人口抑制の一人っ子政策をしている。

終戦当時、日本でも産児制限が盛んに行われ、全国の町や村の婦人会で、保健婦さんが避妊具を天高く掲げながら、使用法を具体的に解説をしている写真が、グラビア誌に載っていた。会場は全員笑顔だった。

そのちょっと前の、戦時中は出産奨励が盛んに行われ、子だくさんのお母さんは表彰された。天王星84年周期の昭和初期は、やはり多産を奨励していたわけだが、戦争が終わると、日本人が一億人を超えると戦争を始めると言われて、産児制限が持ち込まれた。

少子化は大変なことになるというのは、従来方式をそのまま維持しようとすれば、帳尻が合わなくなるからだ。
兵隊の数を必要とした時も、生産人口を必要とする時も、子供を増やさなければならないという考え方は、政治の怠慢だ。

働きたい人に仕事も提供できない政治が、少子化対策などと言えた義理だろうか。

そもそも、環境変化に対応するのが政治であって、高齢化と技術の進化、世界人口の飽和という現実を考えて対策を打つべきだろう。高齢概念も変えるべきだ。

日本はもう、人口力で、輸出発展する時期は過ぎた。一方で、世界には過剰人口にあえいでいる地域がある。

歳をとっても、若い時の様なつもりで力仕事をするのは、周りから見ても褒められる姿ではない。年寄りには年寄りの仕事がある。
日本はそれなりに、年寄りの生き方に転じる時が来ているのだ。

先輩老人の英米が失敗したように、金融で食べようとするのは年金の浪費のようなもので、結局はパンクする。
むしろ、高価値の生産をすれば、人口減でも充分やっていける。

年寄りの価値は、若者の教育と指導であり、知恵袋の役割だ。
日本の価値は、ノウハウの提供と、意外にも仲裁役だ。
工業生産は若い国に任せればいい。年金のような知的所有権や、インチキ金融を振り回さなくても、日本には日本方式のノウハウがある。

クオリティーの向上や、労働環境の満足度など、効率よりも満足度を重視した生産が、結局、生産性とニーズを向上させる日本方式は、知的所有権などでは計れない、日本独自のものだ。
この指導(ビジネスモデル)で、日本はこれからも充分やっていける。

また、日本は今後、世界の迎賓館を目指すべきだ。日本人の取り柄はリーダーシップや駆け引きではない。接待などの「満足の提供」だ。国全体が、控えめながら、「おもてなし」の精神に満ちている。


痴的所有権

2009年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

10月22日、ウインドウズ7が発売された。中国ではとっくに海賊版が出回っていて、日本円にして70円だそうだ。
日本では、1万5800円が相場らしい。

ガリレオ」でも言ったように、知的所有権は金儲けゲームのルールとしては良くできているかも知れないが、自然の摂理に逆らうものだ。

今現在の世界では、知的所有権を無視することはできないが、ボッタクリは止めて、もう少し節度があっても良いだろう。

アメリカの強引なルール強制によって、無料配布しようとした日本の「トロン」が潰され、Microsoftが、Windowsで巨万の富を吸い上げたことは言うまでもない。

今、パソコンが2~3万で買える時、Windows7を、安くしたと恩に着せて、1万5800円だ。

中国の海賊ソフト販売店で「あんな高いもの誰が買うか」と言っていたのは「王様は裸だ!」と叫ぶ、正直な子供の声だ。
中国人でなくても、2~3000円であるべきだと思う。

まだ目が覚めないのか
今回の不況を招いた金融マネーは、少し収まったら、もう既に動き出しているという。Microsoftは相変わらず高額OSを売りつける。
パソコンメーカーは、またも、おめおめとWindowsを載せて売ろうとしている。
おそらく、この数年のうちに、もっと大きな天罰が下るだろう。

パラダイムシフトはどこへ
知的所有権の未開地で、工業生産が成功した意味は大きい。
中国は金もうけのためなら何でもするから、当面は知的所有権に従うだろう。しかし、主導権を握ったら破壊者になる。

知的所有権は、強い者が決めるルールだ。知的所有権の概念が無い者が強くなったら、知的所有権は有名無実になる。

今の常識で考えると、知的所有権が守られなければ、商品価値を保てないと思うだろうが、昔は、「秘匿」した。
中国はシルクを守るために蚕を秘匿し、日本でも一子相伝が常識だった。知的所有権は一定時間の後に公開するから、それより良いと言われている。
秘匿から、期限付き権利へ進歩したわけだが、この先、道は二つに分かれる。
完全な公開か、高等な秘匿への回帰か。

結局その両方。選別の問題になるのだろう。
公共性の強いものは公的に買い上げて公開し、一方、嗜好性の強いものは秘匿技術によって利益防衛する。

つまり、知的所有権は廃止するしかないし、パラダイムは転換せざるを得ない。


星に願いを

2009年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

そろそろ寝ようかなと思った時、『そうだオリオン流星群どうかな』と思いだし、窓を開けて空を観た。

天気は良く、雄大なオリオンが懸かっていたが、流星はいっこうに現れない。もう寝ようと思ったら、一つだけ流れた。
ミニ彗星のような、流れ星より幅のある尾を引いて、すぐ消えた。
それっきりで、寒くなってきたから窓を閉めて寝た。

観測記事によると、数時間に10個も見えなかったようだから、運が良かった方だ。

高校の頃。夏休みの夜中に、何となく合流した仲間10人ほどで、近くの小学校の校庭に行った。
ジャングルジムの上に横になって、星空を眺めながら、とりとめのない話をしていたが、
「あ、流れ星だ」「今のは長かったぞ」と、流れ星に夢中になってしまった。
それほどの流れ星が、花火のように流れていた。
正確な日時はおぼえていないが、あれがペルセウス流星群だったのだろうか。

半世紀前も、百年前も、千年前も、人は同じように空を見ていた。
知識が変われば、見る目も多少は違ってきたかも知れない。
しかし、人が流れ星より遠くに行く時代になっても、なお、
あかねの雲に祈り、星に願いをかけたくなるのは、なぜだろう


GOGO!ニッサン

2009年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

トヨタのことを心配していたら、
東京モーターショーに、日産はコンセプトカーを出した。
ランドグライダー
素晴らしい!!!!!!

2年前に書いた「二輪サイズの四輪車」を読んでくれたんだろうか?
ドッカーンと、ど真ん中だ!

あくまで試作車だから、本当に出るかどうか、気がもめる。

あんなオシャレでなくても良いから、もっと、シレーっと、
本当に、売り出して、★ーの★ーの。
あ、それから、電池は必ず、カセット式でお願いします。
スペアを積めば長距離も走れるもんねー 

★★★
ワクワクして、もう、CMまで考えてしまった。
1970年の日産自身のCM
「となりの車が小さく見えま~す」
をもじって、時代が変わったことを主張する。

となりの車がドでかく見えま~す
[A案]
子供達が元気に遊んでいる公園に太った大人がやってくる。
一緒に遊ぼうとするがついていけず、ベンチに座ってつぶしてしまう。
ランドグライダーが次々出入りしている狭い道に、大型乗用車同士が交差できずにストップ。双方の後ろに車が大渋滞
「前の車がドでかく見えま~す」
[B案]
大量のランドグライダーが三列に並んで走っている中、一台の大型乗用車が左端を走っている。
左のランドグライダーの列が止まると、真ん中の列は行ってしまうが、大型車は進めない。その横を三列めのランドグライダーがスイスイ走って行く。
「となりの車がドでかく見えま~す」

実際には、ランドグライダーがどうなるか知らない。
しかし、一歩先を行くとは、こういうことだ。コンセプトのある商品を出して、市場を牽引してこそ、本当の勝者になる。

T型フォードの前にT型フォード無し
プリウスの前にプリウス無し
次に現れるのは何だろう。


今、目の前で

2009年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

新体制に変われば、旧体制の「使えないモノ」が出てくる。
戦国から徳川の太平の世に変わると、荒武者が職を失って大阪城で死に花を咲かせた。

明治維新の四民平等や廃藩置県で職を失った武士は、西南の役を起こした。

敗戦の時には・・・
「戦争には負けたが奴隷になったわけじゃない」白洲次郎
江戸の名残の地主は消えたが、官僚と財閥も、結局、生き残った。

今回の政権交代が、明治維新並みの仕事ができるかどうかは別として、
今、始まっているのは、その官僚と財閥の解体だ。
江戸の地主が敗戦で消えたように、明治の官僚と財閥は時間の流れからすると、そろそろ消えても良い頃だ。

もちろん、農地改革のように、朝起きたら無くなっていたとはいかないが、意味と形が変わるだろう。
官僚は制度の問題だから、案外早い。
しかし、財閥を意味する大企業はそう簡単ではなさそうだ。

が、しかし。時代が変われば、むしろ、こっちの方が早いかも知れない。
アメリカのビッグスリーの有様や、証券・金融の盛衰を観ていると、それは一瞬で来てもおかしくない。

旧体制の「使えないモノ」は巨大工事と土建事業であり、これは戦乱が無くなれば武士が要らなくなる理屈と同じだが、ここでも当然大きな抵抗が出てくる。

その渦中にあるとどんな景色に見えるか、今まさに、我々が観ていることだ。ダムや干拓の時代はとっくに終わっていたが、ばっさり切ることができず、今まで続いてきた。その断末魔の大騒ぎだ。

時代の変わり目に早く対応した者は次の時代を担い、抵抗する者はどこかで討ち死にする。

今、世界最大のトヨタ
先日のNHKドキュメントは、「何を今頃」と思う話で、このブログの初めから言ってきたことを、さも大変そうに「大転換だ」と騒いでいたが、トヨタの戦略を聞いて「終わったな」と思った。

様子を見てシフトしようと言う話だが、それは安定期の変化に対する態度だ。
大転換は、一歩先を行く者が制する。
様子を見たら遅れるのだ。

何よりも、トヨタ自身、ハイブリッドで一歩先を行ったから転換期の花になったではないか。それが、小さな成功体験で守りに入った。

これは、日本が飛行機で大戦の初期を制して、それで学んだ米国に、飛行機で徹底的にやられたことと同じになる。

ああ、ニッポン !


日本が・・・

2009年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム

沢尻エリカが解雇されたそうだ。牡羊座は一言居士と言われる。
「I am」が牡羊座のモットーだから、自分の生き方を妥協しないことが、「他人と一緒にするな」の気持ちになり、自分なりの一言を言うからそう呼ばれるのだろう。

神田うの、和田アキ子、大橋巨泉、大島渚、黒澤明、中島らも・・・
言葉が物議をかもした人達だ。

いよいよ牡羊座が動き始めている。
加藤和彦も牡羊座だ。

ネット上では、死者をむち打つような誹謗があふれている。
友人の北山修に対し、
「精神科医のくせに防げなかったのか、何んか言ってみろ!」
のような誹謗を、たまたま目にした。(言葉はバカ丁寧だったが)

いまさらながら、日本社会は腐っている。
陰湿ないじめ環境で育った人々が社会人になったのだから、当然なのかも知れないが、このままでは、古き良き「日本」は滅ぶ。
「日本」の負の部分だけが、どす黒いウミのように社会を染めている。

日本の長短
江戸の強権による秩序は、美しい日本文化の裏に、陰湿さも秘めていた。日本人は密告を恥ずべきこととは思わない。社会秩序のための正義とさえ思う場合もある。
自分を守るためにも密告をする。その前に、「自粛」で身内を徹底的に押さえ込む。それだけ、江戸幕府が民衆を上手くコントロールしたのだろう。

子供が、先生に告げ口するのを嫌うのは、大人と子供の階層がはっきり分かれているからであり、子供なりの掟の世界があるからだ。
支配者が入れ替わる陸続きの海外では、ほとんどが、権力者と民衆は、大人と子供の関係のような意識だった。

権力者は徹底的に民衆を押さえ搾取するものであり、民衆は面従腹背の自己防衛が基本だった。そういう社会では、権力に通じる密告行為は、人間(民衆)として裏切り者だった。
牧畜文化の欧米では、今でも子供をペット(家畜)のように分けて扱うが、権力者と民衆の関係もアメとムチだった。

失われたもの
江戸時代は階級社会でありながら、権力が民衆の中に完全に浸透したようだ。島国日本ならではの、世界でも稀な例だろう。親子が一緒に寝るような日本人の子供への接し方は、欧米人にとっては「間違っている!」ことになる。

江戸時代の権力と民衆の関係も、家族の関係のように、おそらく完成されたものだったのだろう。密告をする民衆と、慈愛や徳で応える権力者がいた。家族や仲間の関係もまた、そのようなものだった。

ところが、日本に欧米的な産業革命システムが浸透することによって、権力者の慈愛や徳が失われ、日本社会は先生のいない学校のようになった。(先生も子供と同じになった)
権力を持って慈愛や徳で諭す者のいない学校に、密告や五人組の掟だけ残ったのだ。それが「いじめ社会」だ。

昭和30年代まで、先生は学校の宿直をして、生徒がみんなで遊びに行くような風景があった。二十四の瞳などにもそんな師弟関係がある。

江戸時代が良いわけでもないし、もう戻れない。
しかし、せめて、「弱きを助け強きをくじく」ような教育をしなければ、競争だけで、慈愛も徳もない社会が日本を滅ぼす。

悪いやつは死刑にしろ! 辛くても迷惑な自殺はけしからん!
患者が死んだら医者は犯罪者だ!・・・・・・
思いやりのない社会人が増えたのは、思いやりのない教育からだ。

何の面識も関わりもない人に「申し上げ」はしないが
加藤氏のご冥福を祈りたい。


実は(3)

2009年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ゴン助のように、猫かわいがりだったワケではないが、
親が筋金入りの放任主義だったから、礼儀作法を一切教えられずに育った。
いまだに無礼者ではあるが、善悪ぐらいは心得ている・・・つもりだ。

18の時、「箸の持ち方が変よ」と言われて、初めて箸に持ち方があることを知った。
それから、礼儀作法や、紳士の心得のような本を色々読んでみた。
読めば読むほど「バカげている」と思った。と、同時に解ったことは、礼儀作法とは、形ではなくて心だ、と言うことだった。

作法の形は時と場所によって、全く逆の場合さえある。
首狩り族の子供を「可愛いお子さんですね」と頭をなぜたら殺される。

おそらく言えることは、相手の作法しきたりを尊重しながらも、迎合しない。同時に、自分の作法にこだわって、相手に迷惑を掛けたりバカにしたりしない。

「こんなこともできないのか!知らないのか!」と思う人は、むしろ、そんなことしか、知らない人だ。
人の行為や態度を非難する人は、モノを知らない人か、寛容性が身に付いていない。

日本語が乱れていると思う人は、「正しい日本語」しか知らない人だ。
中国人が驚く日本の「モラルの乱れ」や、韓国の日本教科書非難は、自分たちの世界だけで考える、無知のせいだと言うことは、日本人にはよく解る。しかし、彼らは説明も聞かない。

世間で起る大合唱の多くは、中韓の日本非難と似たようなものだ。
その大合唱の結果、作法にまでなったものまである。

モンスター
電車内での携帯会話、化粧直し。ファーストフードの歩き食い。地べた座り・・・
ホメられたものではないが、指弾して止めさせるほどのものでもない。
非難、拒絶する理由はいくらでもあげられるだろうが、
ほとんどの動機が、見慣れない聞き慣れない、違和感からの非難だ。

例えば、電車内の携帯の場合。客同士の会話は良いが、携帯での会話はいけないと思うのは、人間同士が話している光景しか見たことがなかったから、アブナイ人の独り言のように見えたこともあるのだろう。

それを止めさせるために、「心臓ペースメーカー」と、まことしやかな理由が出てきたが、後にそれも、理由になるほどのものではないことが明らかになった。
当初、違和感を感じた人まで携帯が普及すると、違和感は消えたが、おかしなマナーが残った。「携帯でしゃべるな」の規制意識は、逆に、人前でしゃべるなのような権利意識に変わってしまった。

近頃、公園で声を出すな、音を出すなの抗議が増えて、事実上、子供が遊べなくなっているそうだ。モンスター・ペアレンツと言うが、社会全体がモンスター化している。

怪我の功名
躾のできていない人間が、躾のできていない犬に噛まれて、まだ痛い。
18の時に指摘された箸の持ち方は、何度も直そうと試みたが、豆拾いも、魚の食べ方も、自慢ではないが、他人より早く器用にさばける。そのため、美しさより、扱いやすさを優先して、今日までなおらなかった。

ところが、人差し指の関節も噛まれたために、従来の持ち方ができなくなった。
その結果、三本の指先で支える「美しい」持ち方しかできなくなり、生まれて初めて、箸の正しい持ち方が身に付きそうだ。
「ゴンタ」先生、お仕置きありがとう


実は(2)

2009年10月18日 | 動物

何時も通る横町の家に、大型の雑種の日本犬がつながれている。
箱のように大きな四角い口で、怖い顔なのに泣いたような目をしていて、ハンサムとは言い難いが、愛嬌がある。人間で言えば、楽天のマー君、田中将大選手のような顔をしている。

知らない家だし、近くに寄ると、「何者!」と、緊張した顔で出てきて吠え始めるから、通り過ぎながら見ているだけだが、面相から勝手に「ゴンちゃん」と名前を付けて楽しみにして見ている。

先日、隣の家の庭で、塗装工事に来ている人が吹きつけのスプレーガンの調整をしているので、2mぐらい離れた柵から、ゴンちゃんが顔を突き出して覗いていた。塗装屋さんは、後ろから覗かれていることに気づいてない。

プ、シュ、シュ、シュ、シュ・・・と断続的に甲高い音が出ると、
「見たいけど怖い」ゴンちゃんが、
「わっ、わっ、わっ、わっ・・・」と、しかめっ面をケイレンさせて音に合わせて、小刻みに首を振っているので、笑ってしまった。
カメラがあったらYouTubeで人気しただろうに、残念だ。

ゴンちゃんのご主人は昔流の人らしく、外の犬小屋にゴンちゃんをつないでいる。あまり散歩にも連れて行ってもらえないらしい。
時々、大きなウンコを小屋の横にしている。
昔、犬は放し飼いだったから、散歩は必要なかった。そういう時代の飼い方だ。

それでもゴンちゃんは、自分が家を守る。俺がやらなきゃ誰がやる!
と強い責任感を持っている。常に外を見張って、挙動不審な者が通ると強力に吠える。ちゃんと見極めてのことだ。
初めての、ゴンちゃんとの出会いが悪かったので、必ず吠えられる。
バイクで通りがかって、止まって呼んだのが良くなかった。
エンジン音で怒ってしまった。以後、鼻を付けられた。

いつもは寝ているゴンちゃんだが、ご主人が帰る頃には、ちゃんと座って待っている。誰もいない時でも、ゴンちゃんが正座しているので、『ああ、ご主人が家に向かっているのだな』とわかる。
雪の降る、冬の寒い夜中でも、ゴンちゃんは小屋から出て正座している。
どれほど大切にされているようでもないのに、涙ぐましい。
犬はやはり、犬らしく飼わなければいけない。

ところで、
例の、大仕事をしてくれた居候のコーギーだが、預かってくる時、初めて聞いた名前が「ゴンタ」だった。

けったくそ悪いから、時々は「Mr.ゴーン」とか、「権現様」とか呼ぶが、「ゴン助」と呼んでいる。ゴンちゃんに申し訳ないからだ。


ガリレオ

2009年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

ウイニーの作者に無罪判決がでた。
結局、殺人事件に刀鍛冶の責任が有るか無いか、という争点で、刀鍛冶には責任がない。という話だ。

殺人のような、人間社会の基本的生存権に関わる問題なら、誰でも「悪いこと」だと解る。(もちろん哲学的な話ではない)

しかし、知的所有権のような、仮想の新概念は、ややこしい。

今、誰もが当然だと思っている、通貨や国家や民族と同じように、知的所有権も根拠の怪しいものだ。
太陽黒点や地震とは違い、人間の考え一つでどうにでもなる。
これらは、いずれも実は、産業革命パラダイムが成長していく過程で、固まっていった骨組みだ。

中でも、知的所有権は、後から生えてきた、親知らずのようなもので、まだ、その存在も意義もしっかり認識されていない。
にもかかわらず、産業革命の時代が、もう定年を向かえて店仕舞いをしようとしている時に、マネーの暴走と供に害をなし始めた。
若い元気な時なら、親知らずもじゃまにはならないが、筋肉や脂肪が落ちてくると、じゃまな上に、虫歯になったりする。

産業革命パラダイムに染まり切った日本は、知的所有権でも立派な大人になり、それを理解せず守れない者をバカにし、自らもそれで大人の利益を上げようとしている。

しかし、原点で考えれば、そんなものは自然界に存在しないものであり、産業革命ゲームのルールの一つに過ぎない。

天才は必然
人間が進歩してきたのは、歴史に名を残す天才や英雄のお蔭ではない。彼らは、人間の知のネットワークのマイルストーンだ。
天才や英雄は、知の飽和から生まれる結晶だ。時間の必然であり、現れるべくして現れたのであって、その人が生まれていなければ、別の人間が同じ事をしただろう。
それが証拠というか、発明や発見にはタッチの差で、影に埋もれてしまった人の話が多い。
知は元来、個人のものではない。

知的所有権という金儲けシステムのお蔭で、この大転換の時代、どれほどの弊害が出ているのであろうか。
薬品特許の為に救われない貧者。いつまでも後れた技術に縛られる文明。人類全体の認識向上の遅れ・・・隠れた弊害はもっとあるだろう。
金儲けのために、これが当然のルールと思える現代は、今、この時点で移ろいつつある。

新しい時代には、新しいルールが必要になるが、まだ、それは現れていない。それが現れるまで、まだ半世紀はかかるだろうが、
知的所有権を意図的にむしばむ行為は、一つの革命行動とも言えるだろう。
コペルニクスやガリレオの本質を求める行為が、反社会的で堂々と発言できなかったように、知的所有権否定は堂々と公言できない。

500年後、ウイニー作者はガリレオのように語られるかも知れない。