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ブログは変則的ながら、どうにか参加しているが、チャットやツイッターには参加する気が起こらない。
祭りやイベント、スポーツ観戦の会場で、見知らぬ人同士があれこれ言葉を交わすのは楽しいが、参加したいと思わない。
何でもそうなのだが、とりあえず、鑑賞は終いまで真面目に黙って観たい。その上で、感想は後でゆっくり語り合いたい。
どうも英国派らしい。
昔、誰の文章か忘れたが、イギリス在住時代、英国紳士の集まりで映写会に参加した(無論あれの)。すると、参加者全員、きちっと正座して、身動きもせず一言も発することなく。額から汗を流しながら観ていたので、驚いたそうだ。
戦前のことだろうが、何か、いかにもの話で、嘘くさい気もするが、真面目なテーマの著述だった記憶がある。(ここだけしか憶えてないから困ったものだ)
今では、日本の映画館で画面に声をかけたりしながら観る人はいないが、芝居でかけ声をかけるように、昔は映画に声をかけた。
世界の多くの地域では、今でもそうだ。
舞台に声をかける一体化は、それ自体が一つのコミュニケーション文化であり、良いことだと思うが、どうもうまく参加できない。というか、楽しくないのだから仕方がない。
ネットは多くの人が参加の関わりを楽しんでいる。
と言うことは、今でも本当は、映画館で声をかけたい気持ちはあるのだろうが、迷惑行為として浸透しているから、誰も声を出さない。
だから、ネットで匿名になったとたん、さえずり始める。
多数決は正しいか
一つの「場」で、みんなが共感して一体化するのは、狩りの前のオオカミの集団みたいなもので、力の結集はしても、正しい判断をしているわけではない。群集心理や集団心理、はては、ナショナリズムの昂揚まで、問答無用の陶酔だ。
祭りや応援なら楽しいが、正しい判断は期待できない。
多数決に矛盾を感じた人は少なくないだろう。
自分の意見と違う多数決には誰でも納得いかないが、
もっと、普遍的な問題として、多数決には矛盾がある。
多数決の土台となるのは常識だ。常識を元にして考えた答えは、当然、多数になる。保守的な秩序が必要な時はそれが必要だ。
しかし、集団が行き詰まり、打開の道を探さなければならない時、
むしろ、多数決(民意)こそ愚策と滅亡への道となる。それは歴史が語っている。
集団の常識が行き詰まりを招いている時に、その衆愚の根源に頼ろうというのだから、当然、破滅につながる。
しかも、そんな時ほど、人間はオオカミ集団の思考停止に陥る。
多数決しか受け付けなくなる。 『非国民!』というやつだ。
今回の選挙は、多数決より選挙制度の問題だから、関係ない。
しかし、ネット上の総意が、選挙に影響すれば、炎上と同じで、ネット・ナショナリズム的な、衆愚の狂奔が政治に出現する。
ネット以前の、新聞、ラジオの時代でさえ、ヒトラーは出現した。