魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

こもごも

2007年01月31日 | 占いばなし

スペインで67歳出産! しかも初産!双子!
いかにも木星が射手座(スペイン)の話題だ。
一方で、射手座が180゜になる双子座のアメリカは、テンヤワンヤになっている。やっぱり、北朝鮮や中国、イランにいいようにやられているようだ。射手座の久間防衛大臣にまでいろいろ言われて・・・
自分の星座の向かい=180゜の位置に惑星が来ると、対人問題が起こる。木星(膨張)が来た場合、対人関係が増えて振り回され、自分を失う。時には思いがけない良いことも起こるが大抵は損をする。このところ「忙しくて、大変だぁ」と思っている双子座の人は、過剰反応に気づくべし。

良い方の双子座の例はクリント・イーストウッド。予定外の展開で外国(射手)版の「硫黄島からの手紙」の方が評価を受けている。
これは、天王星→魚座の現象でもある。映画そのものが魚座で、映画界に大異変が起こっていると既に話したが、「アメリカ人がつくったアメリカの日本映画」・・・何が本体なのかわからない???
しかも、本作の「父親たちの星条旗」制作の過程で、裏側の視点で生まれてきた映画は、魚座の錯乱(=主体と客体の逆転)現象であり、裏の方が賞をもらったりして、やっぱり表裏がわからない。

魚座と言えば、近年の海賊ブームや、沈没船の財宝サギなども、いかにも魚座。硫黄島が映画に取り上げられるのも大海の孤島で、名前が「硫黄」→ガス事故が相次ぎ、パロマの事件が起きる現象と共鳴して「ガス」。
天然ガスの境界利権争いもそう。

魚座が180゜になるのが乙女座。乙女座にとっては対人関係の革命やハプニングが起こる。そのまんま東(東国原)知事誕生は乙女座の本人もビックリしているかも。

タレント知事
タレント知事と言われる人たちを、四柱推命でみると

   A.人気者になりたい人。名誉職好き。
   B.出たがり目立ちたがり。自分を試したい。
   C.主義主張の正義感。自信家。

     ・・・の、三通りに別れる。

横山ノックは  A
青島幸男は    C (本音はB)
石原慎太郎は C
田中康夫は    C (本音はB)
嘉田由紀子は A+行動力  (タレントではないが)
で、
東国原英夫は B+行動力
他の人と比べ、やたら行動力(オッチョコチョイ)はあるが、バランス感覚に欠ける。七転び八起きは良いとして、人を使うこと活かすことができない。
今年は後半から大変だ。


不穏

2007年01月21日 | 星の流れに

木星が射手座に入って、宇宙分野の話題が多い。
2006秋に日本が打ち上げた「ひので」の観測成果に期待していたJAXAの主幹、小杉健郎さん57歳が11月26日、脳梗塞で亡くなった。NHKのサイエンス番組録画の2日後で、逝去の後で放送されるというショックな出来事だった。
宇宙ステーション計画が再開され、2007年には矢継ぎ早に衛星や観測船が打ち上げられる計画がある一方で、中国が衛星撃墜実験。


子供の成功

2007年01月19日 | 占いばなし

売り出し中のスポーツ選手の親が亡くなることがよくある。悲しみに絶えてガンバル話しをよく耳にする。スポーツ選手でなくても、実は結構ある。昔ならわかるが、医療が発達して平均寿命も延びた現代だからあまり普通のことではない。しかも大抵、親は四十代だ。
しかし、これは占い的には理にかなったことで、聞く度に「ああ、やっぱりなぁ」と思ってしまう。
命理占いなら、どれでも説明が付くが、最も簡単に説明が付くのは四柱推命でいう「気の偏り」だ。五行の気が偏った人は一つの特殊能力を発揮するが、同時に何かが欠けてしまう。
何の世界でも、なぜか有名人の家族運は恵まれない。もちろん環境論でも説明はできるだろう。恵まれないからガンバルとか、有名になったために、いわゆる有名税として家庭が阻害されるとか・・・。
それはそうだとして、何の問題もない普通の家庭で、大成功する子供もいる。そういう家のお父さんが、突然亡くなったりするのは何ぜだろう。
こういうことについて、占いは説明と予測をする。

有名人は普通ではないから有名になる。有名になるプロセスもいろいろあるが、大した能力が無くても処世術だけで有名になる人もいる。こういう人は偏った人ではないから、ほどほどに家庭運はある。
ところが、スポーツや芸能の世界は世渡りと努力だけではトップになれない。努力の上に特殊能力が必要になる。つまり「気の偏り」だ。そして、その偏りがピークに達する時、記録を出したり大注目を受けたりする。偏りがピークに達しているということは、欠けた部分もピークに達する。つまり、家庭の不幸が起こる。
こういう現象を昔から「好事魔多し」と言うが、欠けていることが家庭とは限らない。チャンピオンになった直後に事故死したボクサーや、絶頂期に逮捕される人など、自分の命や立場を失う人もいる。

秀でて名をなすということは、世の中にとっては必要なことだが、本人は自己喪失する。ヒーローは人々の代行者であり、個人であることは許されない。ヒーローを夢見る人は多いが、自分を捨てない人はヒーローになれない。自分を捨てても能力のない人は犯罪者になる。もともと犯罪者とは普通になれない人のことだ。
普通の人々は、自分を捨てずに代行者としての有名人に自らをかさねるから、有名人の勝手な行動を許さない。だから、有名になれるのは、無自覚ではあるが自分を捨てた人であり、普通の個人としての幸せはありえない。杜子春が自分(=母)を捨てきれなかったことの例えの意味はここにある。

やや脱線したが、要は、有名人は極端だということで、強いエネルギーは家族との縁を薄くする。子供が有名になると親、ことに父親は危ない。逆に親が有名人だと子供は芽を出しにくい。回避策は親子の縁を切るか、離れて暮らすことだが、互いに違う道で生きるということだ。
もっとも、子供の芽が出ないと嘆くより、おかげで無事長生きできると喜ぶべきだろうし、親の七光りが無いと嘆くより、可能性が無限にあると気合いをいれるべきだろう。

周りを阻害するエネルギーは男女の仲にもあって、いわゆる「あげまん、さげまん」だが、「さげまん」も相性によっては「あげまん」になることもある。ただ、男女の仲というのはどういうわけか、磁石が引き合うように、何度替えても同じような組み合わせになるものだ。だから、くっついた男も悪いというか、ヘビににらまれたカエルというか・・・


追記メモ

2007年01月15日 | 星の流れに

書きすぎたので、バラバラ殺人が流行る魚座時代の話しなどは上げないことにしたが、
別の話題で・・・チョット

水瓶座時代に「雪印」で、魚座時代には「不二家」は出来すぎ。
魚座時代の例として「パロマ」の鳩はペットや動物としてすでに話したが、人形(疑似人間)を象徴とする会社も同じ魚座。
昔、LOOKチョコレートのCMで「♪夢はフジヤのLOOKチョコレート・・・」と、ブランコをしている少女が話題になった。結局、誰だったのかわからないが、おそらくCMアイドルの元祖だったのではなかろうか。
なお魚座の色、紫にも注目。藤色の藤井がもとで不二家なのだろうが、富士山も昔は不二山だったことが気になる。


今日も

2007年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

どんどん日が過ぎて、もう松の内も終わってしまった。
近頃の世相について、あれこれ書いているうちに、書き過ぎて、上げて良いかどうかわからなくなってしまったので、とりあえず上げないことにした。書くべきことが多すぎる。

老い先短いと、世の中のことが心配になって来る。と共に、どうでもいいや、滅びる時には滅びるのも人類の使命なんだろうとも思い、なんだか投げやりなアンニュイ。
ここで一人焦ってもどうにもならない。でも世の中には、同じように焦っている人の方が、きっと、多いにちがいない。問題は、その力を結集できないことだ。一見、結集したように見える時は、すでに個々の思いとは違ったものになっている。
皆の思いが結集して前進していると思う時は、それは熱気でしかない。時代も、集団も、細胞の集合体のように、不思議な命と意志を持って勝手に動いてゆく。
御輿を担いだり、綱引きに参加したりすると、自分の力がどれほど意味を持っているのかわからなくなる。にもかかわらず、御輿は右往左往し、綱引きには決着が付く。
環境問題も、核戦争も、細菌兵器も、明日はどうなるかわからないが、何の役にも立たないような人間も、互いに関わり合って、見えない綱引きに参加している。己の存在意義を信じ、日々、命を全うしていくしかないようだ。


近頃の正月って

2007年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

何で正月を祝うのか。近頃何で正月が「うすい」のか。これは案外、重大な問題だ。

年の初め」でも話したように、正月は人為的に決めたものだ。社会の形は時間と空間の取り決めから始まる。自分たちのテリトリーと時間の尺度を決めて、みなが同じリズムで社会活動を営む。
その中で、正月は、時間を共有する同じ社会の人たちがルールの再確認をする時であり、価値観や仲間意識を確かめ安心する時だ。だから、みなで正月を祝えば「よかった!」と思えて「めでたい」わけだ。

社会にはみなが共有する信条=神話が必要だ。
ともに仲間であり、運命共同体であり、ルールを守っていこうとする動機の共有だ。アメリカの神話は「自由の国」であり、日本は・・・う~ん、多分「神と仏の国」なのだろう。
自由とキリスト教の国アメリカがクリスマスを盛大に祝うように、日本では除夜の鐘を聞き、初詣をする。

どの社会も、形や時期は違っても、正月は社会の神話を確認する時として、様々な理屈をつけて日常とは違う行動をとるわけで、大きな祭りであることには違いない。
暦は宗派を越える信仰(仮想概念)に基づくわけで、新年を共に迎えることは、既に一つの宗教統合の枠の中に入っていることになる。

近年、日本の正月が「うすく」なってきているのは、「日本教」が消えつつあることであり、そのことは、日本の社会のルールやモラルが崩壊していることを物語っている。
元日から店が開き、門松の代わりにライティングで飾り、初詣はせずに海外で過ごす・・・。

もともと、旧正月を祝わなくなった時から農耕日本の正月は消え始めていたが、今や、初詣はにぎわっていても、クリスマスと同格のセットとなり、正月の意味は完全に消えている。


年の初め

2007年01月01日 | 占いばなし

正月は春
一年の初めは一月一日だが、新暦、旧暦、宗教歴、年度初め・・・と、みな違う。暦は生活や信条に合わせて人為的に決められたものだからだ。

では、占いの年始めはいつかというと、これも各説あるが、「自然に従う」という点では一致している。
四季を表す「春分、秋分、冬至、夏至」の四点はわかり安く、超古代遺跡にも計測の工夫が多く残っているから、暦や占いとともに確立していたのだろう。
年の長さはわかっていても、どこが始点ということはない。だから人間が勝手に理屈をつけて決めるしかないわけだ。

太陽と季節の消長を命に見立て、太陽が育っていく「春」を一年の始めとしたのは自然のことで、もっと原始的な時代は、太陽は毎日生まれて死ぬと思われていた。(注1)
春を一年の初めとする場合。昼の長くなる春分「牡羊座」を初めとする考え方と、春分は春の中心とし、前半に遡った「立春」を初日とする考え方が生まれた。
十二支はこの立春を年始めとする。したがって、節分までは前の年だから、亥年の2月1日生まれは前年の戌年生まれと言うことになる。

ちなみに太陰太陽暦の旧正月は、春の中心の春分から、一月分30度遡った雨水が一番目の月の中心ということになるので、新月を一日とする太陰暦の一ヶ月中にこの雨水を含む月を正月としたもので、春の一番目の月に当たるから「初春」と言う。旧暦は農業用で、実は占いとはあまり関係がない。

冬至
ところで、太陽の生まれる春を一年の初めとするのは生物の営みにマッチするが、理屈で考えれば、太陽が命を持った時、受胎の時が一年の始まりだ。太陽の誕生日は春分だが、受胎日は冬至ということになる。
冬至を知った太古の人々は、太陽の鎮魂と弥栄を祈り、これを年の初めとした。鎮魂祭やクリスマスなどがその名残で、春を年の初めとするのが農耕民の一年なら、冬至はそれより古い時代の一年と思われる。

干支の一年は立春から始まるにもかかわらず、十二支の一番「子の月」は冬至にあって、立春から始まる「寅月」は年初めなのに三番だ。つまり、実感としての一年は春に始まるが、理屈の上の一年は冬至に始まるわけだ。

易では、陰の中にぽつりと陽の現れる姿を地雷「」といい、一陽来復として冬至の姿になぞらえる。「冬来たりなば春遠からじ」の希望、一筋の光明がさすのが年の初めの冬至というわけだ。地雷復は地の下に雷がいる姿。雷とは蕾とも同義で、雪野原の下に春を待つ命の芽のこと。

暦や占いには、人間の歴史や哲学が複雑に絡み合っている。現行のグレゴリオ暦の1月1日が、自然の束縛から離れようとしながらも冬至の概念からは脱しきれていないのは面白い。
欧米で1月1日よりクリスマスを盛大に祝うのは、キリストの生まれた日だからではなく、太古からの年の始まりだからだ。キリストが実際に生まれたのは魚座や天秤座と諸説あるが、少なくとも冬の寒い日ではないようだ。早い話、クリスマスは古来の元日をキリスト誕生日と決めたにすぎない。

注1:一年と一日が比例するという考え方の発生。例→西洋占星術では生後の1日=1年とし、29日後は29年後とする。干支術では月の干支と時間の干支の干のふり当てを同じにする。