魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

嫌なCM

2008年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

最近多いCMパターンで、

みんなが知っているのに「自分だけ知らない」・・・焦る;’’

20年ぐらい前から徐々に増えてきたが、
CM制作者、スポンサーがこれを納得するからだ。視聴者もまた、実際に注目し、そうそう、あるある、と納得するのだろう。

画一的教育、情報の普及によって、何でも知ることができるから、知らないでいると疎外される恐怖感が生まれる。

さらに、大家族、兄弟、友達に切磋琢磨されてないので、プライドが傷つくことを恐れる若者が、マニュアル学習だけに頼ろうとする。
だから、他人に聞けない。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
とは、思わなくなったようだ。何しろ、検索すれば良いのだから。

こういう若者も、もう50歳が近い。

パソコンショップなどで、知っている言葉でも、
「なんですか、それ?」
などと聞くと、実にうれしそうに笑いをこらえる店員が多い。
小さなプライドは、小さなことで得意になる。

知識さえあれば、物事が解ったように錯覚してしまう社会になった。
さらに、訳知りに、情報は信用できないというポーズもある。
いずれにしても、まず知識ありきだ。

昔から、「かわいい子には旅をさせよ」と言う。
旅は、プライドや思いこみを許してくれない。
未知の世界には、勇気と反省、学びが必要だ。プライドなんか何の役にも立たない。
チマチマと知識を蓄えるより、やってみて、解らなければ
何でも聞いてみる、おおらかさこそ武器なのだ。

50歳に近いような人々は、充分に知識を持っているだろう、しかし、人間性やおおらかさを蓄えてきているか心配だ。
政治や文化に、何とも、スケールを感じられない。


衝動物 3.プロはプロなり

2008年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

プロは「商売もの」には手を出さない
では、さんまは女に手を出さないのか、先生は恋をしないのか
・・・そんなことはない。

「商売もの」には手を出さない農家も肉屋も、食事はする。
売り物でなければ自由に食べるし、食べると決めたら売り物ではなくなる。
たいていは、売れ残りや、取り除いたキズ物だが、飲食店などは勉強や付き合いで、他の店にわざわざ食べに行ったりする。
何はともあれ、昔は日常生活と「商売もの」をはっきり区別し、
お客さんには良い物を出すのがプロ魂、だった。
「紺屋の白袴」「医者の不養生」には、プロ精神も込められていた。

ところが、「お金が神様」の拝金社会では、客は養鶏場のブロイラーになった。形の良い餌を与えておけば喜んで食べる。
見かけだけ良くして売るために、偽装表示はおろか、薬品だろうが着色だろうが何でもありで、蝋細工より怖いものを平気で売る。

そして、安全で美味しい良い物は売り手が食べる・・・逆転だ。
悪いのは、無理を求める客だが、プロ魂がないから、金さえもらえればそれでいいと、客に迎合する。
もう、そういう社会ができあがってしまっている。

「商売もの」に手を出さないはずのプロが、真っ先に「商売もの」から食べてしまう今の世の中。
聖職や職人のプロ魂が昔話になった今、プロ魂を貫くのは難しい。
どんなに真摯に歩もうと、世間は疑いの目で見るようになった。
しかし、プロ魂を枯らしたのはそれを求める世間そのものだ。
例えば、先生を堕落させたのがPTAそのものであるように。

こういう「素人のワナ」は大昔からあったが、マスコミの発展で蔓延し、もう、けじめが無い。プロの荒野、素人時代だ。
だから、売り手も買い手も、世の中そんなもの、という風潮の中では、愚直なプロ魂は意味がないように思える。
しかし、だからこそ結局は、プロ魂を持ち続けた者だけが残っていく。

プロの色恋
生徒や患者に手を出す先生は先生ではないが、職場を離れたら自由だ。
だから、先生を口説こうと思うなら、職場から離れるのがコツだ。

良く知らないのだが、
モナと二岡は、痴漢先生や裁判官と比べて、何が問題なのか良くわからない。
不倫が問題なら、今や世間のふつー事だ。テレビに出る者がモラルに反してはいけないと言うほど、テレビに権威があるとも思えない。
世界の違うプロ同士が、仕事を離れての「おつきあい」だから、
けしからんと言うなら、他人のプライバシーで飯を食うパパラッチだが、これもプロ魂。
結局、一番悪いのはやっぱり、やっかみで騒ぐ「客」の一般人だ。
もし、問題があるとしたら、モナにプロ意識がないことだろうか。

人気商売の職場恋愛や結婚は、それ自体が真剣勝負だ。
人気商売で喰っているような人は、自分のプラスだけに関心がある。これもプロ魂だ。
そんな人同士が、結婚をするときは、双方が自分と相手の実力を承知して納得していなければならない。狐と狸でなければ、とても客の目をだますことはできない。

さんまが、大竹しのぶと結婚したのは、利用されたともいえる。芸の肥やしにされたのだが、サンマはそれが解っていなかったから、結婚当時は、明らかに芸が死んでいた。
逆に、陣内智則はさんまのような自負がないだけに、自分と相手が解っている。これは意図的ではないが、うまく利用しているといえる。

陣内と紀香の場合は、魚座とカニ座で補い合えるが、、さんまと大竹はカニ座同士だった。同じ星座は良い時と悪い時があるので、他の要因が影響する。

天才的お笑い芸人には、チャップリンを始めロリコンが多い。
さんまは、やはり天才なのだろう、大竹のロリータ芸に捕まった。


衝動物 2.洋東苦肉

2008年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

聖職は死語になった。
しかし、それは人権が向上し、社会が平等になったことの証で、職業に上下貴賤がないことの現れと言える。喜ぶべきことだ。

だから、美しい昔に帰るべきだという議論には、無理がある。
社会の構造が変わってしまった今となっては、これからの社会にふさわしい秩序を模索していくしか道はない。
昔の秩序が崩れて、昔の先生も生徒もいないのに、師弟愛や恩を持ち出しても、何も生まれない。

昔の美しい秩序は、東洋的なタテ社会に自然に存在したが、人権と平等をめざし、個を尊重する社会では、個の確立こそが要になる。

個を確立するには、社会制度に依存してはいけない。
権威や立場といった、自分の本質とは関係ないアイテムに頼ってはいけない。またそれを恐れてはいけない。
権威や立場は、そこに就くのではなく、その仕事をする個々が結果的に実現するものだ。

資格を持って先生として学校に行けば、二十四の瞳の子供たちが飛びついてくるわけではない。
人間として、教える者として、自分のなすべきことは何かと、真摯に努力していくことが、結果として認められ慕われる、かも知れない。
かも知れないとは、そうではないかも知れないからだ。
そうでないとしたら、自分の何かが間違っていることを認め、自分を変化させ、進化させるしかない。
このような心がけで、日々精進してこそ、立場にふさわしい個になっていく。立場は試験で得られるものではない。
勿論これは学校の先生だけのことではない。すべてのプロの心得だ。

過渡期の混乱
科挙のような、タテ社会の「位取り」という概念が、東洋には根付いている。その地位に就いた者は自動的にそれにふさわしい人間になるという、あたかも自然現象のような立て前が、個人を検証する意識を退化させてしまった。

勿論、多くの役職者は役職にふさわしい姿になる努力をした。それが昔の秩序の美しさだった。
反面、自己の衝動に素直な人々は、役職という権利アイテムを、賄賂や横暴に乱用した。そして、おそらくその方が圧倒的に多かった。

今、世間を騒がせる、不正や賄賂は、東洋の古典社会に「デモクラシ-の看板」がかかっているための混乱だ。
看板と中身が違うじゃないかと騒いでいる通行人は、実は、みなこの店に商品を納めに来た、取引業者だから、本気で改める人は誰もいない。何とかしろよと言いながら、自分だけは恩恵を失いたくない。
「立て前と本音」社会はそう簡単には改まらない。

それでも、東洋で少し早く看板を上げた日本では、戦争に負けて、いたしかたなく第二の西欧化も受け入れ、一、二歩は進歩した。

西欧化の洗礼を受けていない、東洋の本家、中国を見ていると、民主化という言葉はあるが、概念そのものがどこにもない。
国家を成立させるために、かつて日本がやったように、ナショナリズムに頼るしかない状態を見ていると、恐怖に近い危うさを感じるが、同時に、日本がそれでも少しは進歩しているんだと妙な安心をする。

学歴社会も
東洋人の進学欲と、西欧人の進学欲では微妙に違う。
東洋人が、やはり科挙の登用試験のような認識をしているのに対し、
西欧人はマイスターの実力習得の場と考えているようだ。
だから、学位に対する感覚も、
東洋人は地位を得たようなつもりになるし、西欧人は実力があると自信を持つ。東洋人は偉くなり、西欧人は強くなる。

東洋における学歴コンプレックスは、力の勝ち負けではなく、地位の上下のように、社会構造に直結している。
それが、学歴社会を生み、東洋の受験戦争は何としてでも「通過」することが目的になる。

民主的な個が生まれれば、東洋の立場の美学と、西欧の実体的なプロ意識が融合し、賄賂や学歴社会は消えるのだろうが、何代もかかりそうな気の長い話だ。


衝動物 1.人気商売

2008年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

落書きで大騒ぎになった。良いことではないが、いまさら、それほど騒ぐことだろうかとも思う。古今東西、空気のようにあるからだ。
しかし、落書きを放置すると、犯罪都市になるという。

落書きは、極めて素朴な自己表現であり、芸術の衝動と原点は同じだ。

芸術と落書きが違うのは、落書きには自己との対話がない。
芸術は自己を磨き高めるための創作であって、
自己と作品との対話から生まれる。(客観化)
落書きは、ただの衝動だが、芸術は衝動と思考で、思想に昇華する。

そういう点で、落書きの中には極めて芸術性の高い「作品」もある。
実際、落書き防止には、消すより、芸術性の高い作品を書いておく方が防止効果があることでもわかる。
他人の作品をおかしてまで画かないのは、創作者意識があるからだ。

創作とならない落書きは、ただの衝動だから、それを自分で「押さえられない人」は、他人に押さえてもらうしかない犯罪者だ。

痴漢も落書きと同じ、自分の衝動を抑えられない人間だ。
両者とも、自分を客観視できない。自分の思いこみだけの衝動で行為する。
しかし、落書きも痴漢もいっこうに無くならないように、人間はもともと衝動的な動物だ。

プロ魂
さんまが「恋のから騒ぎ」メンバーに手を出すと、多くの人が思っているようだ。出演者の中にもそれを期待している者もいる。
だが、さんまの言葉は本当で、決して手を出さないだろう。
そこが、さんまのプロ魂であることが、素人には解らない。

昔から、「商売ものには手を出すな」という格言がある。

売り物の場合
売り手が、食い飽きているような物には、高い金を出す気がしないが、売り手すら手に入らないような物なら、金を出す満足感がある。

人気商売、信用商売の場合
アイドルのように、仮想恋人が誰かの物では、ファンとすれば自分の対象と思えない。
また、異性に弱みがあるような芸人では、突っ込みを笑えなくなる。芸人は捨て身で毒のある無頼漢でなければならない。

先生家業と呼ばれる、教師、医者などの信用商売は、人間を超越した存在であることを要求される。人間くささが漂うと、邪心のない公平な判断なのか、不安になり、頼ることができない。
個人的な感情を持つ俗物と分かれば、患者や生徒にはなりたくない。
だから、こういう信用商売の「商売もの」である生徒、患者に手を出す先生は、プロではない。

ところが、客はプロではないから、さんまを見るように先生を誤解する。そしてまた、客が個人的感情を持つのもしかたがない。
自分が信頼する先生ならなおさら、先生からも目をかけてほしい。

先生が自から手を出さなくても、猛攻におちるのは多々あることだ。
実際に手を出さなくても、腹いせや妄想で「先生に○○された」は昔からあった。
だから、先生家業の心得として「君子危うきに近寄らず」を、初めから承知していなければならない。先生育成は先ずそこから教えた。

しかし、それは昔の話らしい。近頃の先生家業はどうだろう。
学生の頃から「モテ慣れ」している医者は別かもしれないが、学校の先生はモンスターペアレント以前に、自ら破綻している。生徒も親もけじめ無く、大学でもセクハラ、パワハラ、何でもありだ。
聖職も警察官なら可愛げがあるが、裁判官までグチャグチャだ。

「商売ものに手を出す」素人に、プロの資格を与えることは、
オオカミに羊の番をさせるようなものだ。
世の中の全てがおかしくなっている一因には、点数だけで人間の価値を決める教育がある。

どんなにおいしそうな食べ物でも、衝動を我慢できなければ、盲導犬にはなれない。盲導犬にも劣る先生たちには鑑札と首輪が必要だ。


長子と弟妹 4

2008年07月20日 | 兄弟関係

長子でありながら、弟妹のような長子がいる。
母親が強権を振り回すとそうなる。父親の場合、兄弟のように子供と接触する時間は少ないが、母親は兄弟と同様の接触時間を持つ。

母親が子供に対して強権で支配しようとするのは、弟妹型の母親だ。
弟妹は、長子の支配に圧力を感じて育ち、自分には持てなかった、権力行使に憧れる。
だから、弟妹型は子分をつくりたがり、社会では親分子分の関係が好きで、上手に子分になり、同時に親分になりたがる。
ところが、女の場合、外で親分子分の関係がつくりにくく、家庭内で親分子分をつくる。亭主を子分にする場合も多いが、子供は確実に子分になる。

長子の母親は始めから親分面をしているが、長子で来ただけに、兼ね合いをつけることを知っている。また、自分も勝手にしてきたから、子供の勝手(自主判断)ということを理解する。

しかし、弟妹型の母親は、「権力行使」が治めること、秩序をつくることと思っている。子供を自由にさせず、反論を許さない。
それでいながら同時に、ワガママにさせることを、自由と人権を認めることだと取り違える。いずれにしても、子供の自主的判断力が育ちにくい。

こういう母親で育つと、長子は中間児のように、意見を言わなくなる。
つまり、母親が長子のマネをするのだから、長子が中間児になる。
常に母親の意向を気にし、自分の得になるように母親に同調する。
また、母親には反論しないが、外では母親の驚くような言動を取る。

兄弟関係 長子と弟妹(


野茂引退

2008年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

野茂が引退した。時には逆らえないが、老兵は死なずだ。
先日、京都大学で爆笑問題が「独創性」についてやっていた。
「誰を独創的だと思うか?」の質問に、学生の大半がイチローを挙げたのにはがっかりした。
京大生といえども、子供だからしかたがない。と思うしかないが、
あまりにも情報化され、大局観がない。

イチローは、紛れもなく天才だ。しかし、培養天才の側面もある。
大リーグへの鉄道を敷設したのは野茂英雄だ。
それまでの日本球界が、大リーグへのコンプレックスに閉じこもり、
渡米など、考えるだけでも嘲笑、非難されるような中から、あらゆる流れに逆らって、トルネードを引っさげ、果敢に飛び込み成果を上げてみせた。
イチローが新幹線なら、野茂は横浜新橋に自ら鉄道を敷いて走って見せた弁慶号だ。
さらに、忘れてならない仰木彬は、敷設に貢献した高島嘉右衛門だ。

物事の普遍的価値は、記録やパフォーマンスではない。
独創とはコロンブスの卵だ。荒野に価値ある第一歩を記すことだ。
自ら創造し、それを実行する勇気、失敗を恐れない不屈の精神、そういうものが独創を生む。

野茂が信長なら、イチローは時代に恵まれた伊達政宗だ。
独創に野球のイチローを言うなら、先ず野茂だろう。

もっとも、近頃の培養秀才の京大生には、イチローの方が納得できるのかも知れない。


牡羊座の兆候 2

2008年07月15日 | 世相史観

天王星・魚座の末期現象は、同時に牡羊座の兆候でもある。
ガソリン高騰で、日本でも漁業者スト。とうとうここまで来た。

天王星が入ると、その星座の事柄は大いに盛り上がって、その後、問題続出し、破綻が起こり、改革が始まる。これが結果的に革命につながる。
だから、短期的に見ると悪いように見えるが、30年ぐらいの長期で見れば、良いことの始まりだ。良いピークは42年目頃で、その後、流れは42年間の衰退に向かう。

魚座の前に、天王星が水瓶に入った1995年から2003年まで、水瓶座の北海道は目立った後、ろくなことがなかったが、徐々に新しい陽が差し始めている。

現在、2003年から5年目の天王星がいる魚座は、問題続出だが、この行き詰まりが、将来の改革をうながす。
漁業も、変化を迫られている。
化石燃料から、燃料電池などの新動力への転換も必要だが、
長期的には、技術の革新に伴って、漁業は、漁から畜、養に転換を始めるだろう。
さらに、動物蛋白全体が、バイオ技術で工場生産になる。
天王星84年周期で考えると、もう一回り先の120年後だろうが。

しかし当面は、政策として、新動力への切り替えを奨励してはどうだろう。燃料スタンドの整備が必要な自動車より、漁船の方が、新動力普及のきっかけになりそうだ。ここで広まれば、自動車産業でも低価格展開でき、一挙両得のチャンスと思うのだが。

魚座と言えば、境界線だが、領土問題にもいろいろ動きが見られる。
竹島は
1952年に始まった李承晩ラインが発端で、1997、8年に韓国が建造物などを造り、日本が動き始めた。つまり1995年あたりで韓国のピークを過ぎ、日本にとっては好転に向かいつつある。ちなみに竹島が島根県に編入されたのは1905年。李ラインの47年前。
何事もそうだが、
ピークの時の態度は重要だ。決してそれ以上進んではいけないが、人間というものは、夏に夏物を買うものだ。

ところで面白いのは、
金剛山観光客を撃った北朝鮮が、全責任は韓国にあると言っている最中に、竹島の教科書問題が起きると、韓国が、何が起ころうと、全責任は日本にある、と、全く同じ口調で言ったことだ。
やはり民族、文化は争えない。

さて、ぼちぼち出始めた牡羊座だが、
竹下元首相の孫DAIGOがブレイクしているらしい。
本名は内藤大湖で、藤、湖が魚座だが、4月8日生まれで牡羊座だ。これも魚座からオヒツジへの渦中の人だ。
このDAIGOのしゃべり方と発声は、テニスの錦織圭と似ている。
錦織は松江出身で出雲弁がベースだが、竹下家で育ったDAIGOが出雲弁の影響を受けているのは面白い。

EUは、統合化を進めようとしたら、アイルランドが反対した。紆余曲折しながら進んでいる。
天王星・山羊座時代に誕生したが、山羊座は体制の存亡の時。ソ連が滅亡してロシアとなり、同時にEUが生まれた。しかし、ロシアが水瓶座で山羊座ではないように、EUも山羊座ではない。今の動きからすればやはり牡羊座だろう。目立った後、生まれ変わる。


ダビング10

2008年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、紙芝居屋は飴を売って、買った子は前、買わない子は後ろで観ていた。

古代より、吟遊詩人や大道芸人は、強制的に報酬を得ていたわけではない。納得すれば幾ばくかを払い、面白くなければ立ち去った。
一方では、権力を持つ者が、自分のためだけに奉仕する芸能奴隷を養い、それをまた、権力の象徴として公開もした。

「お金」が権力になると、金持ちは芸能を金で養った。

やがて、見せ物小屋が生まれ、料金を払った者が観られるようになった。「お金」による権力の一般化。市民権の向上ともいえる。

いずれにしても、「人が観たいと思うもの」を見せれば命をつなぐ糧になった。多くは、嫌々やっていたわけでもない。
現代の古代王国、北の将軍様の喜び組ですら、日々研鑽を積み、それを生き甲斐と考えている。

今日の芸術の礎になったのも、宮廷楽師や画家であり、経済の発展によって、浮世絵や歌舞伎などが、いわば庶民のお抱えになった。
さらに、技術が発達すると、レコードや活動写真が、芸の量産と低価格化を可能にした。
しかし、技術の発達は模倣を容易にするので、著作権という概念が生まれた。見たいと思うものを見せて糧にする、命をつなぐために、プロとして、人の見たいものを創り出す。

神との対話
生産をせずに糧を得るものを、河原乞食=庶民の芸能奴隷と見なすようになったのは、権力者に奉仕する「喜び組」奴隷と同様に、お金に奉仕するから乞食と呼ばれた。

有史以前、人類の放浪時代には、絵を描き、語り歌い踊ることは、神への奉仕、集団のアイデンティティー創成だった。
「われわれはどこから来て、何のためにどこへ行くのか」
芸能はそれを説明する行為だった。

初めはリーダーとシャーマンには区別はなかっただろうが、農業や牧畜で大集団になるに連れ、リーダーが神に代わる主人となり、神に奉仕する芸能はリーダーに奉仕し、やがてお金に奉仕するようになり、企業など経済システムに奉仕するようになった。

表現は元来、神、つまりは人間自身のための素朴な衝動だ。
プロの生活のためにあるのではない。
人類の表現すべてを、何でも見られるようになった今。素朴に見たいものが、神への奉納=人間に必要なものということだろう。

プロの「生活のための創造」は、一度、白紙に戻さなければならなくなっている。
今、誰も想像できないことは、「お金のない世界」、そして、お金を前提として成り立つ、知的財産権などの仮想世界の消滅だ。
これが消えなければ人類は進歩できないし、今の状況はどうにもそこへ向かっている。

著作権とかにこだわって、視聴制限をしようという発想はもう長くない。金を払わなければならないなら、立ち去るだけだ。
飴を買わない子供も観られるおおらかさがあって、みんなが紙芝居のオジサンを待つようになる。

ダビング10・・・
お情けちょうだい、ありがとうございます


ナンセンス

2008年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム

大分県で教員採用の不正で大騒ぎ。宮崎の隣は大分だ。
冥王星の逆入で射手座は暗いが、射手座の教育問題なのだろうか、乙女座・土星の学校公務員問題なのだろうか、それとも魚座・天王星の賄賂なのだろうか。要するに全てがかかわった事件だ。

しかし、こういうことは、今更「けしからん」と言うのが恥ずかしいほど、日本中が暗黙の常識で知っていることだ。
今回、事件になったのはお金を受け取っていたからだが、同僚、先輩、後輩なら、「たのむよ」「よっしゃ」で、あうんの呼吸だ。

不正をただすより、教員や公務員の、養成と採用を考え方から改める時なのだろう。

これも射手座・冥王星なのか、
サミット・テロのシミュレーションで、ハイジャックされた旅客機を撃墜する決定をしたのだそうだ。
日本のテロ対策を見ていると、いつでも陳腐だ。
日本はサッカーでもセットプレー頼りだ。決まり切った過去のパターンばかりを前提にしている。

テロリストはゲリラマインドだ。定石は必ず外してくる。911でやられたのは。「まさか」をやられたからだ。
その同じパターンをシミュレーションしても意味がない。しかも、単にアメリカのマネをして「撃墜」の結論とは、開いた口がふさがらない。
一時間前に発見したものを、なぜ撃墜しなければならないのか。
要人はサミット会場から避難すればいいし、電磁波などの攪乱もできるだろう。何の知恵もない。

要するに、
民間人も殺す戦闘員のマインド訓練なのだろうし、
「こんな時は殺しますけど、解っておいてね」と、一般に了解を取ろうということだろうが、何の知恵も絞らず、大儀の前には民間人の殺傷はやむを得ないという、戦前からの日本軍マインドそのままだ。


つかみ所のない話 2

2008年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム

「お金」というものは、人間の観念の所産、叡智と醜悪の華でもある。
つかみ所がないと言えば、これほど偉大なウナギはいない。
神か悪魔かと言えば、悪魔だろう。

文明をここまで発展させたのは「お金」だ。
「お金」以前の収奪は手に触れる範囲、目に見える範囲までだった。
しかし、「お金」が生まれると、収奪は観念的な領域にまで拡大した。
巨大帝国、技術知識の拡散は「お金」無くしてあり得ない。
「お金」が無ければ、人類が月や火星に行くこともできなかったし、大戦争も地球温暖化も起こらなかっただろう。

そうした、文明史的な要因としての「お金」と、個人が今日の糧とする「お金」は、同じであって同じでない。

自分の足を食べるタコ
温暖化ストップ、飢餓撲滅、戦争反対・・・誰も異議はないだろう。
収入アップ、老後保障、快適生活・・・誰しも願うところだ。
しかし、両者は矛盾する。

個人が「お金」を得ようとすれば、自動的に地球破壊につながる。
「環境に良いことに投資しているから、そんなことはないんだ」と悦に入っても、「お金」を介在する限り、それは気休めに過ぎない。
「お金」は生産しなくても得られるものであり、それを可能にする経済システムの中で暮らしている。

「お金」が単なる物の対価から、植民地収奪の手段に変って以来、ハト時計一つ作っても、回り回って収奪と破壊の要因となった。
今日さらに、経済成長とか、マネー運用とか聞こえは良いが、どこまで行っても、地球環境と資源の消耗につながっている。

先進国というバクチ打ちが、世界中の素人から財(資源)を巻き上げて、終いにはカモもいなくなった。手にした「お金」で食べ物を買おうとしたら、どこにも店が無い。みんなバクチ打ちになってしまった。
それにもかかわらず、まだ、賭博でかせごうとしている。
投機マネーによる経済破壊とはそういうことだ。
賭博で資源は生まれない。

中国やインドにも環境対策はしてもらわなければならないが、そこに巻き込んだのは先進国だ。バクチのルールを変えても何もならない。
先進国がすすんで賭場(マネー経済)を解散するしかない。

排出ガス規制の議論は前提が間違っている。
途上国が先進国に代わって生産をするような発展では、先進国が止めても、途上国は出すしかない。ガス規制は、モグラたたきだ。

世界全体のエネルギー技術が進めば、効率の良いエネルギーの方が結局、安くつく。そうすれば、自動的に途上国は取り入れる。

規制よりも、新エネルギーの開発・利用目標の論議とすべきだろう。
同じ事のように聞こえるかも知れないが、人間はガマンより欲で動く。

幸い、今回のオイルショックが化石燃料の限界をはっきりさせた。
油田から、「お終い」と書いた赤い球が出ると、誰にも解った。

パラダイムはこうして転換していく。我々はその現場にいる。
石油が消え、「お金」も消えれば、人類は数千年の歴史を突き抜ける。


つかみ所のない話 1

2008年07月04日 | 星の流れに

アブラボウズ2で、ウナギのことを書いたが、さすが魚座時代、つかみ所のない話ばかりだ。
虚像・実像。何が本当か解らない。

産地偽装のウナギは言うまでもないが、世の中あまりにも魚座の事柄で満たされているので、かえって当たり前すぎて、指摘すること自体、何でもかんでも無理にこじつけているように聞こえてしまうだろう。

テレビのレポーター、インタビューされる人に至るまで、「洋」や「波」、「夢」や「魚」の字の人であることに、お気づきだろうか。いつの時代でもこんなに目立つわけではない。
少し目を広げると、「藤」や「桜」「春」などもそうだ。

年金運用の赤字など、まさに魚座の末期症状だ。ここ数年が良かったのは魚座の勢いで、サブプライムが魚座の名前であることは説明したが、それにつられて反落した。「山高ければ谷深し」

この期に及んで、若手オッチョコチョイ議員が政府系ファンドで年金資金運用をすべきだなどと言っている。
世界中のファンドマネーが派手に動き回っているのを見て、遅れてならじと思ったのだろうが、こんなビジョンのない連中を国会に送ったのも日本人だ。

ファンドマネーこそが、世界経済を破壊している。政治家なら、むしろ、それをコントロールし、それを逆手に取る方策を考えるべきだろう。

バクチ精神は必要だ。しかし、国民から預かった金で「誰かプロ」に頼んで儲けてもらおう・・・といった、無責任でセコイ精神で儲かるわけがない。
どんなバクチでも、「確実に儲けよう」と思えば必ず負ける。
バクチにはカモが必要だ。
バクチ精神のない素人こそが、一番のカモになる。

使い込みでバクチをして、しっかり穴埋めをしていた話は聞いたことがない。どこかの公務員が使い込みで宝くじ特賞を二度も当てたのに、結局は大損失でばれて捕まった、という希有な例ぐらいだが、やっぱり損をしていた。

バクチ精神とは、チャレンジ精神のことで、創造には必要だが、金目当てには、創造性も生産性も関係ない。

日本の国会議員がアホでも、星の動きから見れば、時間はかかるが、投機マネーはパンクする。相当な荒廃を伴ってだが。

実態とかけ離れた、為替や投機など、つかみ所のない財「お金」のシステムが、冥王星/山羊座を期に、大きく変わっていくだろう。


牡羊座の兆候 1

2008年07月03日 | 世相史観

天王星/魚座の末期現象とともに、牡羊座の序曲が聞こえ始めた。

魚座の末期現象としては、
行き過ぎによる、行き詰まりや方向転換。
ガス、ガソリンは言うに及ばず、海難の多発、相変わらずの社保庁、スピードの水着、偽装続きでブランドや暖簾の衰退、漁業の危機、シー・シェパード・・・、いずれも魚座のニュースだ。
個人的にもシャロン・ストーンの失言など、いろいろ勇み足が現れ始めた

アデランスに起こっている異変は、「カツラ」を偽や、カモフラージュの魚座ととらえるか、頭、頭髪の牡羊座ととらえるか、面白い。
会社組織を変えたり、スティール・パートナーズの影響で取締役選任決議案が日本で初めて否決されたりしているところを見ると、やはり、時代の表にいる魚座なのだろう。
牡羊座時代には同じ「頭髪」でも、毛生え技術とか、もっと直接の頭革命になるはずだ。

ところで、スティール・パートナーズというのは、初めて聞いた時、てっきり「steal」だと思って、ずいぶん正直で、えげつない名前だなと思ったら、「steel」なのだそうだ。そりゃまあ、そうだろう。
しかし、世相史観で名前を考えるときには、当然「steal」の意味も考慮する。

牡羊座の序曲とも言えるものは、
アデランスなどもそうだが、スピードの水着もそうだ。いずれも魚座ではあるが、牡羊座の要素を含んでいるからだ。スピードは牡羊座の国イギリスの会社だ。牡羊座を広義に解釈すると、EUもそうで、経済、環境のイニシアチブを取り始めている。

また、このところ続くテロや凶暴な事件は、魚座の狂気的犯罪だが、銃や刃物は牡羊座であり、牡羊座に入れば、取り締まりが具体化するだろう。

いつも言うように、星座の違いは、突然、境界線で変わるのではなく、連続性をもちながら徐々に変わっていく。(性格なども)
魚座の現象は水瓶座の影響であり、魚座の現象が、次の牡羊座時代を生み出す。
牡羊座でブランド信仰が消えるのは、牡羊座が新概念を生む荒野だからでもあるが、魚座の「本物・偽物」の混乱に翻弄されてうんざりした、という因果関係があるからだ。


頭の切り替え 2

2008年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

旧体制が行き詰まって、それを改革しようとすれば、必ず激しい抵抗にあう。

古いシステムで生きてきた人達は、それで何の矛盾もなく生きてきた。多少、調子が悪くても、新しい環境に飛び込むより、安全だと思う。
我慢にも慣れて、何の不自由もない。むしろそれをカバーするコツや楽しみさえある。

だが、いかに慣れ親しんでいても、その船が沈もうとしている時には、船を乗り換えるしかない。それぞれの持ち場を捨て、思い出やノウハウも捨ててゼロになる。
船を乗り換える必要はわかっても、今の自分は捨てられない。
自分はこの椅子に座っているから、周りを全部変えてくれ。
そう思うから
改革すべきだ!でも、俺の権利を奪うな!

小泉前首相は、これを「演出」で乗り切った。
論理と現実の衝突を、ドラマにすり替えた。天才だ。
ただ、乗り換えた船が、客船か戦艦かドロ船だったかは解らない。

国の場合、システムが大きすぎてよく見えないが、大阪府程度ならわかりやすい。
「抵抗勢力」が言っていることは、「俺の椅子は動かすな」だ。

橋下知事はひたすら椅子を取り払うことばかりに追われて、新しい船の話は出てこない。かと言って、小泉劇場のような天才でもない。
「笑い八年泣き三年」と言うが、お涙ちょうだいでは、劇場をうならせない。
しかし、沈んだ夕張丸のような、大阪丸に乗っていることを皆解っているはずだ。新参者の小僧が何を言うかと抵抗をする前に、それぞれがどうすれば協力できるか、考えたらどうだと思うが、沈んでしまうまで解らないのだろう。

大阪はひな形
日本丸は完全に老朽化している。もう改修では走れなくなっている。
船底から浸水を始め、下から下から、乗組員が駆け上り始めた。
一等船室ではワインで談笑している。船長は礼装で挨拶回りだ。
そんなことをしている場合かよ

早く新しい船に乗り換えなければ・・・
太陽と風で走る新エネルギー船だ。
狭い船内をガソリン自動車で走らない。甲板は全て農場。釣り場。
商売は止めて夢を売る遊覧船になろう。行き先は南米、サンパウロ。名前はひょうたん丸・・・・

ところで、日本には実に色々な技がある。
ハイブリッド帆船や新飛行船も、今こそ出番だ。


頭の切り換え 1

2008年07月01日 | 日記・エッセイ・コラム

コンビニ深夜営業規制に反発が広がっている。
業界が抵抗するのは解るが、消費者の「深夜営業が無くなったら生活できない」は、自覚がないからだ。

「コンビニの深夜エネルギーは微々たるもの」という業界の言い分はその通りでも、それが問題ではない。

どちらが先かは別にして、深夜型の生活文化にはコンビニが欠かせない。規制には、深夜型の社会を転換させる大きな波及効果がある。

深夜テレビ、24時間営業、車社会は、喫煙や飲酒と同じだ。
ゆとりがある時は止める必要はない。しかし、元々、必需品ではないのだから、害があるとわかれば、止めればいい。

ところが、たばこも酒も、止めるのは容易ではない。
たばこを止められないのはニコチン中毒とされているが、ほとんどが心理的な問題で、自分の生活の一部として、当たり前の存在だと思いこんでいるからだ。

親が死ぬ。恋人と別れる。新築のために古い家を壊す・・・
こういうことがつらいのは、無くても仕方がないものを、当たり前の存在だと思いこんでいたからだが、酒やたばこも同じだ。

よく、
それまで贅沢をしていた人が、仕事が行き詰まって対策を考える時、お金の使い方を変える話しには、必ず、「いまさら元の生活には戻せない」と言いだしたり、そういう気持ちで反論を始める。
そうして、自分は改めず、うまくいかなくなると、人のせいにしてグチり出す。典型的な例はタレントの岸部四郎だが、多くは自制の効かない末っ子型だ。
末っ子は良くも悪くも、環境対応での方向転換はうまいが、自制自律で行動を決定しない。例えば、たばこを止めるのも結局、「仕方なく」止める。

庶民感覚は、この末っ子型だ。
為政者に文句を言いながらも、現実対応で生きている。
環境に悪いから車に乗らないのではなく、ガソリン代が上がったら車に乗らない。タバコが2000円なら止める。
コンビニが深夜営業しなければ、昼間に買っておく。深夜娯楽が無ければ昼型になる。

だから、為政者は、どんなに文句を言われようと、環境づくりには英断を下さなければならない。
そして市民の側も、できるなら、自ら頭を切り換え、現状に逆らってでも、湯水のような消費生活を変える時が来ている。

「いまさら終戦直後のような暮らしはできない」と言っていると、向こうからやってくる。

日本で初めて配給制度が始まった1938年から70年。歴史は繰り返す。
早寝早起き、手作り、自転車、畑作り・・・ああ、何と健全な社会か