魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

軽々死

2008年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

運命波」でボヤいた「命の実感」の喪失は、歌にも表れている。

近頃、やたら死を持ち出す歌や、死を前提とした歌が多い。昔(戦後)の歌謡曲にも有ったことはあったが、今ほど安易に死のモチーフを扱ったものはなかった。

戦前は、死が身近すぎて、歌詞にするには忌まわしいことだった。
創作的にも、単語で言ってしまえば、それはあまりに軽々しく芸のないことで、いかに、間接的にそれをにおわせ実感させるかが、作詞家のプライドだったように思う。

現実の死が遠ざかるにつれて、「死んだ」「死んだら」と軽々しく出てくるようになった。
ちょっと思い出すと
「黒百合の歌」1954、「アカシアの雨がやむとき」1960、「赤いハンカチ」1962・・・この後、やたら増えてくる。

歌詞に安易に「死」を用いて、悲壮感に浸れることが、逆に死の実感のうすさを表している。

昔のように大家族で暮らし、家族の死を次々と看取り、幼い兄弟姉妹も死ぬことが珍しくなかった頃には、命のはかなさと有りがたさが自然に解っていた。
小説の「人間はなぜ死ぬんでしょう」という言葉も、「命短し恋せよ乙女」という歌詞も、死にたくない気持ちの表れだった。それだけ、死は近くにあった。

アメリカ化
ベトナムや、イラクの帰還兵が社会に適応できなくなる問題がある。
昔の戦争では、あまり聞いたことが無い現象だ。
考えてみればこれも、死の現実感の問題ではないだろうか。

死がありふれていた時代の、死への覚悟と、現代のように医療・食料環境が向上した社会での死生観とは、大きな隔たりがある。
銃社会アメリカといえども、西部劇時代のように撃ちまくっているわけでもない。
死の覚悟がない若者が、いきなり戦場に出たショックによって、死のないウソ社会へは、もはや復帰できない。そういうことではなかろうか。

アメリカでさえ、社会から死の感覚が失われている。アメリカでさえとは、銃の乱射や戦争大国のアメリカという意味だが、外から見れば日本も、サリン事件や都会の鉄道衝突など、結構、殺伐としている。

死という身体感覚を失った社会に、「仮想死」を増幅するゲームというトレーニングマシンが普及し、子供が初めからその環境で育つようになった。

命が危ない一人の子供の手術に、たちまち億単位の寄付が集まる。
そのお金があれば、何万ものアフリカの子供の命が救えるはずだが、現代の命は「一杯のかけそば」話でしか理解されない。


思わず

2008年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム

ニュースを聞いた瞬間、思わず突っ込んでしまった。
日本の科学白書がエネルギー対策として、原子力に傾注すると発表したのだ。ブッシュ大統領が「これからはバイオ燃料」と演説した時と同じぐらい衝撃的だった。

目先の手っ取り早い、あり合わせの対策がどういう結果をもたらすか、事情を知れば子供でも解ることを、ブッシュは先導した。
イラク戦争に続く第二の歴史的犯罪だ。
バイオ燃料のかけ声で、経済、農業、食糧事情が一気に悪化した。
今後の影響は、考えるだけでも恐ろしい。

原子力発電は半世紀を掛けて、世界中がその問題を認識した。
ところがエネルギー事情の悪化で、世界中が、背に腹は代えられぬと、原子力発電に動き出したのを見て、「チャンス!」と判断した日本は政府まで音頭を取って、「待ってました、原子力じゃ~あ」と雄叫びを上げた。

日本の原子力発電技術は、世界に逆行して独り、研鑽を積んできた。
お蔵寸前の技術が、突如、脚光を浴び始めた。
儲け主義では、地球が滅ぶと言われている時代に。
「売れるもんなら何でも売ってしまえ!」とばかりに、ほこりをかぶった前世紀技術の在庫一掃を始めた。

世界が求めているのだから、日本が売らなければ、もっと低い技術が野放しになるわけで、有る意味では、窮余の一策とも言える。
しかし、誰でも知っている通り、原子力はいまだに綱渡り技術だ。

核廃棄物の処理、人為的事故、核拡散、核資源の偏在、テロ攻撃・・・これらは全く見通しのついてない問題だ。
今の苦し紛れに、核インフラを整備してしまえば、簡単には止められない。それは、急には止められない現在の石油依存が物語っている。

日本は、ハゲタカ商売をするより、長期的展望に立った、完全クリーンエネルギーの開発と、展開努力にこそ傾注すべきだろう。
「儲け」という点でも、決して損にはならないはずだ。
商売人が目先に走るのは解るが、ビジョンのない政策が情けない。


アブラボウズ 2

2008年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

沖縄では昔、ハブは食べてもウナギは食べなかった。内地人が来てウナギを捕って食べるのを見て、驚いたが、強引に食べさせられて「うまい」と知ったそうだ。
日本では、ナマズはあまり食べないが、ウナギを食べなかったアメリカではナマズは好評で、湖の畔などでキャットフィッシュ祭(?)のようなものがあり、フライとコールスローをドカッと食べるのだそうだ。

近頃、日本の回転寿司のネタには代用品が多いが、値段に見合った味ならそれで良いようだ。むしろ、新ネタとして堂々と回っていれば好評だ。トロにしても、もとは誰も食べず、捨てていたものだ。

食や性ほど「思い込み」で成り立っているものはない。
人間の究極目的だから、社会の「思い込み」が反映している。
異国の市場やトイレに行くと、誰でもカルチャーショックを受ける。

同じはずだと思っているから、違っていると驚く。多くは、「よくもまあ!」と、相手が間違っていると決めつける。逆に、何でも相手が優れていると迎合する。

近代では、学校や本やテレビを信じ込み、与えられた価値を崇拝する。
それを欲しがり、涙ぐましい努力をし、持てる人をねたみ、持たない人を蔑視する。
時にはそうした幻の価値のために争い、疲れ果て、自分も家族も不幸にする。さらには、民族や国家という幻想が、地域全体、地球全体を争いに巻き込む。

付和雷同
ネットの普及によって、そうした公共の恣意的情報から解放されたかに見えるが、個々が判断を迫られるネット社会は、烏合の衆となる。

災害時のデマは、災害以上に恐ろしい。防災対策でも重大問題だ。
現代のように、事件や災害が世界的に共有されていると、世界中の人が日常でも「災害現場」の心理状態になっている。

正しい情報を流しても、それを疑う情報や、打ち消すデマが駆けめぐる。映像や情報も、「先ず疑う」習慣が身に付いている。
情報を信じられず、自分の判断力に自信を持てない時、人間は大勢に流れる。「みんなが行くから」だけで動く。

富士川の合戦で、驚いて飛び立った鳥は、恐らくフラミンゴの大群以上の群れと大音響だっただろう。
意思統一されている源氏には、ただの鳥と音だが、一元化された情報を持たない寄せ集めの大集団、平氏は、鳥と同じ行動しかとれなかった。周りの様子だけで盲動し、大勢に流れて大敗退した。

大群衆の中に独り立った経験のある人、祭りやラッシュの混乱に巻き込まれた経験のある人ならわかるだろう。個人の意志や判断は何の役にも立たない。世界中に、そういう混乱が広がっている。

ところで、クエの偽物にされたアブラボウズだが、始めから「北海たら」とでも銘々されて、「冬の東北の味」などと売られていれば、こんな汚名を着せられることもなかったかも知れない。

アブラボウズ1


運命波

2008年03月23日 | 世相史観

21日、中国では西部でM7.3の地震があった。弱り目に祟り目だ。

人間界の事件と、天変地異は連動することが多い。
多少なりとも科学的に考えれば、地震エネルギーがたまっている時には、磁気のような未知のエネルギーが人間の思考・感情に影響するのかも知れない。台風にしても、人間はわずかな気象変化で精神に影響を受ける。

昔、日航機の「逆噴射」事件があった時、最初は、満月による自然現象が事故を引き起こしたのだと思ったが、実際は、機長の狂気の逆噴射だった。(1982/2/9)
自然は災害を引き起こすが、事件は自然に影響された人間によって引き起こされる。

今回のチベット暴動も、目に見えない自然の影響が、溜まった怒りの引き金になったのかも知れない。
しかし、怒りの火薬がなければ爆発はしないから、地震のたびに必ず暴動が起きるわけではない。(株の暴落や事故は多々起こるが)

科学的には、自然と人間の関連かも知れないが、占いではどちらも、運命波の問題だ。
自然が人間に影響して生まれる歴史と、人間が自然破壊して新たな自然現象を作り出していくことは同じ運命現象だ。
運命の波は、粛々と押し寄せ、引いていく。

気候変動や人類の歴史も、大きな運命の周期律に従っている。
満月に影響を受けてか、今日23日も、茨城で無差別殺人があった。
不可解な事件も、社会背景の飽和に引き金が引かれたに過ぎない。

「誰でも良いから殺したかった」・・またかと言うほど聞かされる。
世界に蔓延する「命の喪失」。他人の命も自分の命も理解できない。
情報過多社会の実感の喪失だ。

そしてこれもまたサイクルとして、悲しいことながら、巨大な死の体験をしなければ、実感を取り戻すことができないのかも知れない。


アブラボウズ

2008年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

高級魚、クエと偽ってアブラボウズが売られていた。
アブラボウズ。
北の将軍さまの金玉さまに劣らぬ、なんともインパクトのある名前だ。

要するに、クエのブランドイメージに便乗したようだが、2~3年やっていて誰も気づかなかった。
通報でバレたと言うから、食べた人からの抗議ではなく、情報を知るスジからだろう。
実際、レポーターが食べ比べてみて、
「うーん、そう言われれば少しくどいような・・」と言っていた。

ほとんど同じものでも、付加価値がつけば10倍で売れる。
以前、「辛し明太子」はそんなに高価なものだろうか。と言ったが、クエボウズを売っていたのは、またも福岡と大阪だ。
船場吉兆も福岡でヘタを売った。

付加価値やブランドを前面に押し出せば商売になる、という「商魂」は、地道な商品より、「地道な商品作りをしたブランド品」と言うものを作れば売れると見抜き、ブランドじゃ、ブランドじゃと、商売をした。そしてそれは、告発さえなければまかり通った。
はっきり言って、これは消費者の責任だ。

先日は、報道ステーションで博多のブランドいちご「あまおう」を大々的に紹介していた。
いかに苦労して創り出したかを解説していたが、苦労しているのは何も「あまおう」だけではないはずだ。
大体この「あまおう」は不愉快だった。店頭に数多く並ぶイチゴの前で、大音響のVTRが
「♪ イチゴの国からイチゴの国から、甘くてまあるいイチゴだよ、その名はあまおう、あまあまあまおう、博多あまおうおいしいよ」
と、鳴らしっぱなしにしていた。
イチゴのこびとが歌にあわせてバトンを振りながら行進してくる様子を、子供が凝視し、「あまあまあまおう」と復唱している。
一度、店頭に立てば、大人でも「あまあまあま」が頭につく。
いつの間にか、店頭には大々的に「あまおう」が並ぶようになった。

いったい、報道ステーションは、どういうイキサツでわざわざ「あまおう」の報道をしたのだろう。
個人的には、「ひのしずく」の方がよほど甘くておいしいと思うが、最近あまり見かけない。
博多人形、博多帯、博多ラーメン・・・博多商人の辣腕には恐れ入るばかりだ。


火星カニ座

2008年03月19日 | 星の流れに

火星がカニ座の中国に来たから、中国は頭がパニックになって、ゴリ押ししかできなくなっている。
当然、カニ座の人も苛立ち、ゴリ押しになる。カニ座の福田総理も苛立って、中国と同じように、相手のせいにしてゴリ押しすることしかできない。同じくカニ座のブッシュ大統領も、何もできないでいる。

中国のゴリ押しは、兄弟関係の長子的態度でもある。
何事も、良かれと思ってするのだが、相手の気持ちを汲むより、自分のルール、原理で行うから、うまく行かなくなると、目下に対して「うるさい!」と、強引に押し通そうとする。
それでも、向上心もあるから、周囲の全員が抗議すると考え直す。
ただし、言う通りにするのではなく、自分で考えなおして、また新たなルーを持ち出すだけだが。

少しでも味方する人がいる限り、考え直さないのは、中国も福田総理も同じだ。
うまく行かなくなると「こんなに一生懸命やっているのに・・・」と、自分がかわいそうになって、半泣きになりながら耐える。

中国のためを思えば、世界中がオリンピックのボイコットをちらつかせた方がいいだろう。

火星カニ座 2火星カニ座 3


21世紀

2008年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、8日
3月4日から2ヶ月間、火星がカニ座にいるから、180゜の山羊座の木星と冥王星と緊張状態で、活動宮に月が入るたびに事件が起こる。
(活動宮:牡羊、カニ、天秤、山羊)
・・・
と、書いたが、月がカニ座に来た14日(15日だが影響は早く出る)
ついに、カニ座の中国に火がついた。
チベットは獅子座と考えられるが、山岳地帯は山羊座。カニ座の時期に起こることは中国自身の問題であることを表している。
今回も、餃子事件同様、またも強引な突っ張りだ。

前回のチベット暴動、1989年は天安門事件と同じ年で、やはり、山羊座に、土星、天王星、海王星が入っていた。
今は木星と冥王星だから前回ほどのことにはならないが、いずれにせよこれは、中国自身が引き起こしていることだ。
火星が来て自分で引き金を引いた。オリンピックを控えた焦りが原因だろう。
昨年、アメリカがどうして良いか解らなくなったように(今のドル安はその結果)、中国は頭がパニックだ。

中国はチベットに鉄道を引いたことでむしろ環境を悪化させた。
最近のNHKドキュメントで、チベットに進出した漢民族の経営者の横暴が映し出されていたが、危惧したことが現実になったようだ。

中国は政治も発展途上国
国家でものを考える時代は終わろうとしている。近代国家の原理は冥王星250年の時代を終える。
民族や国家という発想にとらわれる地域は取り残されていくだろう。
かと言って、グローバリズムがいきなり地球国家を生み出すものでもない。
人類が一つになるためには、逆に、確かな地域を形成する必要がある。
確かな多様性を認めあってこそ、共存は生まれるからだ。

アメリカという国は、地球国家へのステップとなったことは間違いない。20世紀に起こった、人類の世界的移動の踊り場になったからだ。
ソ連邦が際限のない国家主義を広げた結果、崩壊したにもかかわらず、中国はいまだに同じ事を続けようとしている。

この全く逆の動きがEUであり、将来の地球連邦の試金石となるだろう。確かな地域の存在が連邦を可能にする例だ。
力でまとめるのではなく、合意で共存する道だ。
牡羊座に天王星が来れば、その長短が明らかになるだろう。そして、解決策が生まれてくる。おそらく、その試行錯誤が21世紀のテーマとなる。


名前も現象

2008年03月17日 | スタンス

運命は絶対だが、人間は可能性に生きている
矛盾するように聞こえるこの考え方を、運命論者にも、否定論者にも解ってもらいたい。

人間のドラマは、個人の意志と情熱が創り出す。地上の人間がすべて寝太郎のように何もしないで寝ていれば、人類は10日もあれば滅ぶ。
努力しなければ何も生まれないが、いかに努力しても報われないこともある。

運命を信じなくても成功する人はいる。しかし、努力しても報われないとすれば、運命というものを考えてみてはどうだろう。
西に向かう船で、東に行くことはできない。
つまり、努力が報われないのは「敵と己」、「時勢と適性」を知らないからだ。ドンキホーテは愛すべき人ではあっても賢明とはいえない。

われわれは地球上で生きるように、運命という船に乗っている。
日頃はそれを意識することもないし必要もない。時の流れに逆らわなければ、人間はどのように生きることも許される。
しかし、時の進む方向に逆らえば、生きていくことはできない。いかなる高邁な思想も努力もはかなく消えていく。

だが、その時代に逆らうことが、時の流れに逆らうことではない。
時代は生き物だから、常に姿を変えていく。今の時代に逆らうことはむしろ、時の流れに乗ることであるかもしれない。

惑星も星座も干支も
運命学とは、運命の姿を仮想し、あるいは気配を察知しようとすることだ。だから、仮想する運命の本体も、実際の現象も、共時的につながっていると考える。

その指標である惑星も星座も干支も、地上に現れる姿も形も名前も、すべてつながっているのだ。
星が運命や名前を決めるのではなく、名前が運命を紡ぐわけでもない。

名前も星も、ただ運命の共時的「現れ」に過ぎない。
惑星や星座の動きと、名前や現象は一致する。それは相互作用ではなく、各々が金太郎飴の断面だ。
それを前提として、バロメーターである惑星の動きから時の流れを推し量り、名前や姿で現象の本体を探り、来るべき現象を予測する。

「秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・」星や名前は季節を告げる、風の音となる。

流行の名前や、世間を騒がす名前には「今」が現れ、惑星の動きからは、やがて現れるであろう名前がイメージできる。
予言書に現れる名前が、後世、現実に現れた名前に似てはいるが一致しないのは、予言があくまでイメージに基づくものだからだ。

星と名前
「スタンス」「世相史観」「星の流れに」「競馬の星」を通し、一貫して、名前は運命現象として考えている。

実際にどの名前が、どの星と関係するのかは、いまだ途上にある。
星の動きと、実際に現れる名前を常に考察していく必要があるだろう。
「競馬」はマウス実験のように、手近な研究素材と考えている。

現在考えている基準としては、惑星と星座の表す意味を優先しているが、固定化しない心がけが重要だ。

その上で、名前が表す星(惑星と星座)は、意味の一致を重視する。
名前に数字が入っていても、それが総合して別の意味を表すなら、重複と考える必要がある。

一郎をイチロー、ICHIROとすれば、「一」から離れて固有の意味を持つ。
「1」は太陽・獅子座の数だが、イチローはスポーツ選手で木星・射手座であり、野球は水星・乙女座と見る。

赤は火星・牡羊座、冥王星・サソリ座の色だが、赤城とすれば、山=土星・山羊座であり、戦艦・魚座でもある。逆に、赤城山は火星の山ともいえる。

つまり、名前が現象の一部である以上、実際の意味を解釈する場合、総合的判断が必要になる。


冥王星→山羊座 2

2008年03月13日 | 世相史観

冥王星が惑星から矮惑星に格落ちしたことで運命が変わるか?
何も変わらない。

既述の
惑星が先か運命が先か冥王星除外大転換 2
と同じ事になるが、改めて書く。

惑星も運命の子
運命は惑星に支配されているのではなく、運命は運命そのもので動いている。人も、惑星さえも、運命に動かされているに過ぎない。

惑星で運命を語るのは、それが解りやすいからだ。
くどい話しだが、
温度計が30度になったから30度の暑さなのではなく、暑い気温を温度計という道具で測ったら、摂氏30度を指した。華氏なら86度を指す。人間が勝手に決めても、暑さは同じだ。
惑星は運命を表す温度計、バロメーターに過ぎない。

冥王星という指標が有ろうが無かろうが
運命は動く。暑くなったり寒くなったりするが、それを冥王星の性格で語ると解りやすい。30度ですよと言われると、水に入っても良いんだな、と思うように・・・。

では具体的に、冥王星が山羊座に来るとは、
山羊座と言われる物事に、250年周期で冥王星的な変化が起こるということだ。
占星術ではこれを、山羊座に冥王星が来て影響を受ける。と、逆の表現をしているに過ぎない。

以上のことを前提で、
冥王星が来ると山羊座の人はどうなるか、という話しは、
一言で言えば、山羊座がサソリ座になる。
サソリ座の衣装を着た山羊座はサソリ座風で、サソリの友達が寄ってくる。魚座とかカニ座とかサソリ座とか。
また別な表現をすれば、サソリ酒を呑んだらサソリ酔いをする。
つまり、冥王星が居る期間、サソリと思われ、自分もサソリになる。

山羊座のモットーは「I use」。すべてを物質化し、数値化する。
山羊座はセンチメンタルなコンピューター。そこに、情念と逆転のサソリ座カラーが加わる。
サソリ座のモットーは「I desire」。手段を選ばぬ際限のない欲望、生と死の逆転。
山羊座の人は貪欲になり、やがて生まれ変わる。
山羊座の事柄は、政治と金融と時代だから、サソリ座のエネルギーと生命に関してそれが動く。エネルギーの転換、生命観の転換。

ただし、冥王星の影響は長く、認識しがたい。
むしろ現時点では、一年滞在する木星(=射手座)への変化の方が顕著に出るので、外国やインテリとの精神的出会いが多くなる。

山羊座の社会現象  (木星・冥王星)
現在、世界的に株と商品相場が乱高下している。お金は物の数値化であり、数値が異常に空回りしている現象だ。相場師は大喜びだろう。
この山羊座現象に振り回される、180゜のカニ座=食品はピンチになる。
今年、木星で特に顕著になるが、冥王星滞在の長期にわたり、マネーと相場のあり方が「生まれ変わる」

参考:
ヤギ座
大転換
ヤギ座1988~1995年
サソリ座
天王星と木星のドラマ
サソリ座1974~1980年


2008-03-08 13:13:10

2008年03月08日 | 星の流れに

昨夜来、頭痛
見れば、太陽と月が天王星と魚座で新月。火星と冥王星が180゜
8日明け方、関東と広島で4連発の地震。
まだ頭痛が止まない。

追記
頭痛は、午后ようやく治まった
この分だと、22日の満月が心配だ。
3月4日から2ヶ月間、火星がカニ座にいるから、180゜の山羊座の木星と冥王星と緊張状態で、活動宮に月が入るたびに事件が起こる。
(活動宮:牡羊、カニ、天秤、山羊)

カニ座の代表は中国だが、このところ中国の軍事力懸念や、中国内部での軍や公安の強硬論が続出している。


自らを島とせよ・看脚下

2008年03月07日 | 新鎖国論

「もうダメだ」と思えるほど行き詰まったとき、最後の頼みは自分しかない。

今治市のタオル業界が、中国タオルで窮地に立たされ、売れっ子のデザイナーに見てもらったら、「今治タオルの品質をアピールし、白で勝負すべきだ」と、原点に帰ることを提案され、成功した。

北海道の旭山動物園は、ゴリラの病死で人間感染への不安から観客数が落ち込み、閉園直前まで行ったが、動物園の持つ本来の魅力を開拓し、逆転、超人気となった。

逆に、各地で破産状態の自治体は、イベント会社や金貸し銀行にそそのかされ、言われるままに出資して今日を招いた。

ブランド品を売却したら、10%にもならなくて、腹を立てる人が多い。90%は「付加価値という信仰」へのお布施であったことが解っていない。自治体の破産もバブル時代の放漫消費からだ。

生活がかかったら、人は無駄金を出さない。古い上着が充分に着られることを発見する。

ドーロドロ
京都市の南部には高速が走っているが、北部の住宅街から離れているので、市内の北部まで高速を通そうという大合唱があった。
迎賓館とか、鴨川にフランスの橋を架けようとか、笑えるが許せる。しかし、観光古都をぶち抜く高速道路となると、京都市民だけの問題ではない。京都は日本の財産だ。
大阪では大通りを活用して一方通行にし、渋滞を減少している。
京都は碁盤の目の総本山なのだから、大阪以上に活用できるはずだが、古都を、切られ与三郎にしようと言うのだから、京都にもよほどバカがいるらしい。

滋賀県では「もったいない知事」が出る前に、国から有料の湖西道路を譲ってもらい無料にした。これにより、一般道の万年渋滞が一気に解消し、トータルな、経済効果が計り知れないという。さすが近江商人と言うべきか。

滋賀の例は全国の高速道路無料化のモデルケースにはならないだろうか。
学力だけで成り上がった、つじつま合わせの役人には「損して得取れ」という商人の常識が解らない。
政治家も全く同じ論理に巻き込まれている。
ガソリン話は、飲み屋の酔談だ。大声ばかりで中身は無い。

中央集権を前提にした、道路財源うんぬんは、お通夜の繰り言だ。
年金マルチ詐欺や、土建屋政治は「終わった」のだ。

地方の時代?
地方の道路は、一般財源化で地方に任せるのが先だろう。
その道路で本当に潤うと考えるなら、地方の責任で建設し、借入分は道路による経済効果で返済すればいいはずだ。
道路は自己責任で作ればいい。いまだに陳情の論理から離れられない。

国がそれを許さないなら、もう独立する方が日本のためだ。道州制など飛び越して、6カ国ぐらいに分散独立して国連に加盟しよう。
心は鎖国、姿は分身、名前は「JU」
琉球、筑紫、瀬海、大和、吾妻、モシリ・・・


自動操舵

2008年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

イージス艦が自動操舵で事故を起こしたばかりなのに、明石海峡で自動操舵の船が玉突き事故を起こし、やはり自動操舵の船が沈んだ。

船も飛行機も自動車も、完全自動コントロールはいずれ可能だ。そうなれば人間が運転するより、事故率は激減するだろう。

しかし、今は過渡期で、自動制御はあくまで人間の補助だ。
初めは承知で使っていても、便利に慣れればエスカレートする。酔っぱらい運転や、バクチや借金と同じ「マヒ」だ。(サイバー空間も)

日本丸
今の日本は、高度成長期にセットした自動操縦でいまだに走り続けている。バブル崩壊でスイッチに手は掛けたが、結局そのままだ。
燃料、食料の急騰という氷山が現れて、あわてて解除しても間に合わない。

官僚という自動操舵は、周囲がどう変化しようとワンパターンの運行を続けている。政治家は、運転しているような顔をして操舵室に座り、利権だけに食らいついてきた。
いざ、スイッチを切ったら操舵法を知らないから、「切る切らない」と議論しているが、もう船は衝突してしまっているのだ。

操舵室は、危険水域に来ても何もしなかった。
今度の相手は衝突して初めて解る、とんでもない氷山だ。
逃げるしか選択の余地はない。

かといって
燃料や資源を、ロシアや中国に期待するととんでもないことになる。
共同開発をすれば巻き上げられ、買おうとすれば、文句を言うなと居直る。ロシアはガス供給カット。中国は食品輸出制限を始めた。
もともと、
どこの国でも、自分の食いぶちまで売る国はない。
にもかかわらず日本は、自分の食いぶちまで投げ打って輸出を続けてきた。
日本は自分の足を食べ続ける、タコグルメだ。

船を捨てる
日本丸は沈みつつある。
日本の繁栄は石油が無くなればすべてが終わる。砂上の楼閣だった。
田畑を捨てて、前借お女郎のような虚構に酔ってきた日本に、年増の悲哀が訪れた。客を呼ぶ「力」が消えたのだ。
今すぐできることは、故郷にかえって畑を掘り起こし、自給自足を始めることだ。

イチゴのなる頃青い空、麦わら帽子をかぶりましょ」
冬のイチゴはおかしいじゃないか。農家がそんな競争をしなくても五穀を栽培できる国にならなければ、滅ぶ。

やっぱり歴史は繰り返す
今は、天王星周期で大正末年。60干支で終戦直後。
いずれも、食糧難に見舞われたときだ。
終戦当時は、大きなお屋敷の奥様もモンペをはいて芋づくりをした。
これからどんな食糧難が襲ってくるかわからない。
園芸する庭が少しでもある人は、芋や豆の栽培を心がけた方がいい。
食品はいずれ倍以上に値上がりする。
これは高くなるのではない。正常に戻るのだ。

日本がこの先も繁栄しようと思うなら、
四の五の言うより

エネルギー機器開発」の一点しか、突破口はない。

わしゃ しらん


その顔

2008年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

ある職業に打ち込んでいると、顔がその顔になる。
トンカツ屋のオヤジは猪八戒を思わせるし、養鶏場や鶏屋はどうにも鶏の雰囲気が漂う。ケンタッキーおじさんなど最たる例だ。
うなぎ屋のオヤジもウナギの顔をしている。
顔の骨格や輪郭は、当然まちまちだから、同じ顔になるという話しではない。雰囲気としか言いようがない。

初めは、動物の霊がのり移っているのだろうかと思った。
しかし、
動物関連だけではない。
様々な研究者もその顔になっている。冶金工学の博士が話している顔を見て「冶金の顔」だと思った。これは何とも説明しがたいのだが、他の人にはないある種の雰囲気。おそらく、金属のことを考え続けているうちに、脳のどこかが金属と共鳴し、その波長が表情に表れた「何か」だ。

昔のコンピュータープログラマーは、コンピューターの顔になっていた。無表情で口だけ動かして喋る。
最近は開発環境が変わって、相当、人間らしい表情の人が増えてきた・・・と言うより、もしかしたら、世の中がみな「電脳化」されて、非人間的な顔を認識できなくなっているのかも知れない。

今、これを書いているのは、TVで見た痔の専門医が「痔の顔」だと思ったからだが、これも名状しがたい。
端正で真面目そうな顔の底に、優しさとユーモアを秘めて、無表情な顔がふとした瞬間にゆるみそうになる・・・そんな表現で、ある程度でも「痔顔」を感じてもらえるだろうか。

こんな、生き物でも霊でもない顔が表れるのなら、逆に、専門家の顔には、そのものの本質が表れているのではなかろうか。

気象予報士の表情には、お天気の「無表情なやさしさ」が表れる。
経済評論家の顔に、「経済とは何か」の答えがあり、
政治家には政治が表れ、各党の顔には各党の本質が表れる。

経済評論家はたいてい、愛想良くてどこかウソっぽい。
近頃の政治家に、陰険と威嚇と卑怯が表れるのは、心なしだろうか