魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

長子と弟妹 2

2008年05月27日 | 兄弟関係

長子はよく、弟妹に、「お前はこうだから・・・」と説教や説明をしようとするが、弟妹は、「で、どうするんだ」という答えを聞きたがる。

功利主義の弟妹には、原理は無意味だから、自分を原理的に理解する習慣がない。
つまり、自分を客観的に理解しないから、「お前はどうの・・・」と言われると、「何か気に入らないのだな」と考える。

しかし、長子は「問題」を感じた時、老婆心のつもりで弟妹に解らせようとする。しかし、長子は、弟妹がそういう話に興味がないことを知るべきだ。

長子は、弟妹が対人関係を、「対応」でこなしていることを知り、弟妹に説教や説得をするより「対処」することが有効だと知るべきだろう。
だが、長子にとって、これは案外、辛い。
「何度言ったら解るんだ」と思い、説得もせずに「対処」するのは相手の人格を無視するようで、後ろめたい。

弟妹はキャッチャーだ。球筋の解説より、球を待っている。

長子の親と弟妹の親
長子が親になると、子供を説得しようとするが、弟妹が親になると、命令と無視をする。
長子の親は子供に対して、厳しさとあきらめが必要だろうし、
弟妹の親は子供の人格を認め、同時に、依存しないことが重要だろう。
長子の親は放任主義と言いながら、子供を精神的に拘束する。
弟妹の親は子供を子分のように扱いながら、子供離れができない。

しかしながら、えてして夫婦は、長子と弟妹の組み合わせが多いので、案外バランスはとれる。

中間児
同じ弟妹でも、末っ子と中間児は全くちがう。
中間児は実に複雑な性格だ。

中間児のことを悪く思う人は、滅多にいないだろう。
「好印象」は中間児の生きる術だからだ。
優しく親切で、嫌なことも言わない。
しかし、意地悪く観察していると、次のことに気づくかも知れない。

不満を溜めやすい
幸せそうなノーテンキを見るといらつく→いじめの黒幕
他人の手柄を認めない→偏屈
自分の過ちを認めない→他人のせいにする
自分の短所を認めない→執拗に否定する
気が小さい→病院好き医者好き権威好き
むっつり助平

中間児でも、4人以上の兄弟の中間児と、3人兄弟の中間児は多少違う。
特に、長子の兄がいる中間児がもっとも中間児の典型といえる。
姉は、弟妹にとって大きな壁ではないが、兄は大きな壁となるからだ。

長女は親から母親代わりを期待され、長女も積極的にそう振る舞う。
しかし長男は、やさしい母親どころか、勝手気ままなトムソーヤだ。

最も難物の中間児は、長子長男の下に生まれた、第二子の長女だろう。
責任はなく、親にも兄にも可愛がられ、その上、弟妹という道具ができる。
さんざん可愛がられていたところに、邪魔者の弟妹が現れた。恨みに思うと共に、それは人形のような玩具でもある。
その結果、自分は「優しい支配者」だと思うようになる。実際、穏やかで優しい言動だ。

どういう組み合わせであれ、中間児は、声を殺していることが一番得になることを覚える。
先ず、なんとしても責任から逃れようとするし、それは可能だ。
責任者は長子であり、下には罪を被せることができる。
黙っていれば、上下のいずれかが責任を取り、もし、自分に降りかかりかけたら、さりげなく、下のせいにする。
上の親兄姉から非難されれば下に被せ、下からの攻撃なら、仲間のような顔をして、内緒話で上のせいだと説得する。
幼児期からのこのトレーニングが、中間児を猛獣使いに成長させる。

しかし、こういう過ごし方は、思ったことが言えないわけだから、常に不満が蓄積する。親しい人には密かに愚痴る。また、常に周りの動向を気にしているわけだから、ビクビクで気が小さくなる。

その結果、無神経なヤツに腹が立ち、周りを扇動していじめをする。しかし周囲は、穏やかな中間児が張本人だとは決して気づかない。
扇動されていじめを実行するのは、たいてい末っ子だ。
長子の場合は扇動されても、限度ややり方を自分で判断するから、実際には過激にはならない。

中間児の、気の小ささが現れるのは、病院好き医者好きの権威指向だが、自分の短所や失敗を認められないのも、攻撃を避けたい習性から来ている。

意志を見せないようにする習慣が、「むっつり助平」を生む。
人間、誰でも助平なわけだが、自分勝手に意思表明する長子や、数打ちゃ当たる式の末っ子にくらべ、中間児は本心を隠し通そうとする。
でも、チャンスは決して逃さないことにしているから、想像以上に手が早い。また、口には出さずに、べったり接近して黙ってチャンスを窺う。これをもって、むっつり助平を任じることになる。

ただ、いずれにしても、中間児も元は末っ子だから、自分に対する客観性はない。
ここで挙げたようなことを、本人は決して認めないだろう。


長子と弟妹 1

2008年05月27日 | 兄弟関係

長子は弟妹になったことが無い。
弟妹は長子になったことが無い。
よほど賢い人か、修行のできた人でなければ、互いの立場や気持ちは解らないだろう。

あえて言えば、長子の方がやや理解力がある。
長子はもともと一人っ子だから、自問自答しながら成長する。
強い自意識が生まれるから、他人の自意識にも気づき理解もする。

しかし、初めから上との関係によって行動を判断する弟妹は、相手の立場を考えるゆとりなどないし、自分を省みるヒマもない。
憧れ、非難、感謝、闘争、恨み、僻み・・・のような、関係によって生れる「感情」で兄姉を見る。

長子の場合、弟妹に対しては、無関心、関心、遊び相手、邪魔、便利、管理責任・・・のように、親のような「物」意識で弟妹を見ている。
その上で、その「物」の人格、自意識について考える。
つまり、親の子供に対する理解の仕方とほとんど同じで、弟妹に対してペットのような、ご都合主義の接し方をする。先ず自分ありきだ。

親が子供のことを解らないように、長子も弟妹の気持ちを実際には理解できない。しかし同時に、弟妹に親のような愛着を持っている。

弟妹は、子供が親心というものに気づかないように、長子の思いやりには気づかない。恐怖、尊敬、依存、不満で長子を見る。

方法論より結果の弟妹
だいたい弟妹には、こういう「兄弟の分析」と言った、ややこしい話しはあまり性に合わない。
どういう理屈で、そうなるのかより、それは役に立つのか、どっちが良いもんで、どっちが悪もんだ・・・のように、
自分にとって「損か得か」を手っ取り早く知りたがる。

自分の短所をあげられると、基本的には受け付けない。逆に、自分の気に入らない人間の短所なら、大いに同意して、「兄弟関係では」などと攻撃材料にする。
これは何度も言うように、何事も、「身の施し方」の材料データとして受け止めるからだ。

だから、都合の悪い材料はアッサリ無視する。
原理原則より、とりあえずの利益と効果を考えている。
それは、弟妹にとっては当然の行動で、相手の出方に自分はどう対応するか、ということの方が重要だ。
そして、長子にはこの無原則が我慢ならない。

例えば、誰かに約束を破られた場合。
現実主義の弟妹思考なら、相手が約束を破ったことを攻撃する方が、自分に有利とみれば、トコトンそのことを主張するが、それに効果がないと判れば、サッと攻撃ポイントを切り替えるか、攻撃そのものを止める。

原理主義の長子思考では、約束が破られたことを大前提に押さえるが、強くは主張しない。相手が反省することを期待するが、一向に反省の様子がないと、やがて相手にしなくなる。


鴻鵠

2008年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカやカナダの開拓時代の「伝説」に、
ある朝、起きたら、隣の村が無くなっていた。といった話しがある。
沼地に落ち込んだ巨大な岩が風化して、表面は平地になっていた。それに気づかず、上に村ができた。そして、ある夜、その岩がゴロリと回転した。

アメリカ大陸は巨大だ。「アメリカと日本」などと同列に並べて話しても、実はかみ合うはずがない。
養老の滝とナイアガラを、同じ滝の名所と言えば笑われる。

日本人も英国人も、世界の情報は良く知っているが、宇宙を箱庭のように思い込んでいる。そして、自分の宇宙観のことは解ってない。
英国のSF映画で、宇宙からの侵略に、国内を逃げ回る話がよくある。
逆に、日本の映画では日本に起こる問題を常に世界のニュースと連動させる。(ゴジラや日本沈没)
見る方向は逆だが、どちらも自己中だ。狭い範囲にまとめたがる。

アメリカも中国もロシアも、日本とは桁違いに大きい。国内でも地域により全く違う条件や価値観で暮らしている。
中国は、そういう混沌を5000年続けてきた。
中国の地震で1000万人が被災。と言っても、日本なら1/10以下だ。
本当のところ、中国政府にとっては「たいしたこと」ではない。

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや

中国の本質はいまだ軍事政権であり、いわば戦時中だ。
死人の数より、作戦の成功の方が重要だ。
地震が起こったとき。
中央は、ざっと何万人と把握し「ハイッ!死んだ」として、対策を打ち始めた。大本営にとっての「玉砕!」みたいなものだ。

作戦本部の考えることは、発表の仕方と次の一手だ。
公表だけでも、24万人の死者を出した1976年の唐山地震は、詳報も伝えず外国の救援も受け入れなかった。戦況、戦死者の発表と同じで、闇の中だ。

今回、中国はチベットの初動で失敗し、ミャンマーの軍事政権が国際的非難を浴びているのを見て、「作戦」を変えてきた。
一つには、胡錦涛の視野の広さということがあるだろう。
(餃子事件は胡錦涛の手の及ばぬところで進んだと言われている)

おそらく胡錦涛は、中国は開国しなければならないことを知っているのだろう。一党独裁が時勢に合わなくなったことも、よく解っているのかも知れない。

いずれにしても、首脳部は、これをチャンスとして、博打を打っている。あくまでも、政権としてのだが。

何事もそうだが、「危機こそ最大のチャンス」なのだ。
なぜなら、
非常時には前例が役に立たないから、旧弊を捨てることができる。

君子は豹変する、大物とは、ここぞと言うときに博打を打てる人だ。

いい面の皮はサイコロにされる人民だが。


惑星の座屈現象

2008年05月13日 | 星の流れに

中国の大地震については当然であり、予想すべきであった。
世相面にとらわれて見落とした。
(占い師が頭に来てはいけない。反省/)

惑星の影響については、天王星の影響で、話したように、人事・天変は連動して起きる。
チベット問題の世相は、むしろ天変地異を暗示していた。
(この二ヶ月のひどい耳鳴りも、チベット問題で頭に来たのも、地磁気の影響???)

ミャンマーのサイクロン→今回の中国と、大量死が連動。
火星と木星の180゜の緊張状態が続いて、それが崩れたとたん、
つっかい棒が外れたように地震が起きた。

人事は自然現象の影響を受ける。チベット暴動自体が地磁気に影響されていた。と、考えるべきだろう。
元来の不満に、火が着く「きっかけ」になったと。

エネルギーの座屈
地震などは満月後に起きると言われている。むしろ、惑星も180゜後の方が影響があるようだ。
火星と月が、山羊座と180゜のカニ座を過ぎた後、獅子座で起こった。(水瓶の海王星とは180゜で太陽とはTスクエア)

大量死は冥王星だが、大災害は海王星で、
3日からは土星の乙女座順行で、魚座の天王星を刺激。
その天王星は、海王星とミューチャル・レセプションで、相互影響の最強状態だ。
スマトラ地震からの大災害時代の流れは続いている。

ミャンマー、ネパール、ブータン、チベット・・・と、
インドと中国の狭間、山岳地帯でこのところ続く政変・異変は、プレートの衝突の影響があると考えてもいいのかも知れないし、逆に、天変地異が惑星(周期)の影響と考えるべきなのかも知れない。

いずれにしても、この動きは、近年中に、日本に影響する。


こういうことか

2008年05月13日 | 星の流れに

カニ座から火星が去り、ヤギ座の木星が逆行。土星は乙女座で順行。
カニ座は楽になるはず。なのに地震で大災害。

どういうことだ? →つまりそういうことか!

ミャンマーの例でも解るように、軍事独裁政権にとって国民がどれほど死のうが「そんなの関係ネー」
最優先の本音は、体制維持だ。

自分の手で国民を殺せば、非難される。
しかし、災害で死ねば、同情される。
国内も引き締めができる。

もう、多くは語るまい


大陸 2

2008年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

講演を聴いていて耳を疑った。
『えっ、これ中国に本当に生放送しているんだよな』と思い、同時に『また、上手く音声をカットしてるんじゃないか』と、疑った。
どうも、本当に中国に生放送したらしい。
胡錦涛主席が「日本の円借款が中国の発展に役に立った」と明言したのだ。

これは、パンダや餃子の各論に比べれば、はるかに大きな英断だ。
中国は今の苦し紛れに、相当なバーゲンをやるんじゃないかと思っていたが、餃子も、ガス田問題もスッキリしない中で、
突然「日本のおかげ」と日中に見える形で表明した。

このぶんだと、ガス田問題も実際かなり踏み込んだ話しができているのかもしれない。(双方の国内事情からすれば公表はできまいが)

もちろん、これを手放しで喜ぶわけにはいかない。しかし、評価すべきものは評価しなければ、相互理解は一歩も進まない。

中国の国内状況からすれば、ある意味で身を捨てた勇気とも言える。
胡錦涛だって、今、盤石なわけではない。
何か、日本に泣きつきたいような「気持ち」がにじみ出ていた。

軍事政権といえども大陸気質の血が流れている。
世界の動向や国内支持率を気にして、ワケのわからないことばかり言っていた福田首相は明らかに小物だ。
中国との外交で今、胡錦涛は見殺しにできない唯一の突破口だろう。

近所づきあい
結局、チベット問題の解決は、中国の先進国入りを助けることと平行していくしかないのだろう。
中華人民共和国は、現代世界ではまだまだ思春期だ。身体と心のバランスがとれていない。うかつに刺激すると暴れるかも知れない。
しかし、親しく説けば成長するし、将来の盟友にもなる。

元来、「周囲の状況で」くるくる態度を変えるような、卑怯ではない。むしろ、プライド高く不器用だから西欧の風にしてやられた。くどいようだが、中国と朝鮮半島の反日は全く異質のものだ。
商売人とヤクザは一見似ているが、商売人には義と信がある。親しくなくてもつきあえる。

チベット問題の解決は、中国自身の成長問題だ。
儒教的な上下の価値観のまま、軍事独裁で近代的な中央集権をめざすには無理がある。

諸葛孔明の南征は、まさに雲南・チベットに対する中国人の見方が表れている。1994年中国制作のドラマ「三国志演義」には、このドラマを制作した時点でのチベット政策の意識がダブり、実に興味深い。

儒教的上下意識で秩序を打ち立てようとする中国のやり方が、もう通用しないものであるということを解ってもらうには、日本自身も民主主義というものを、一から組み直す必要があるのだろう。


1/300

2008年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

これで300本目。
はじめは文字量を気にしていたが、書いているうち、文字量より視覚の方が重要なんだと気がついた。
なるべくコマメに行替えをする方が読みやすい。
過去の文も、ヒマをみて組み直したい。

文房具
ディスプレイと紙は、横書き縦書きより、大きな相違点がある。
紙活字がレストランの食事なら、ディスプレイはベンチで食べるハンバーガーだ。

ディスプレイは読む環境も視覚もまちまちだ。紙活字のように、固定の字面やサイズで視覚効果は演出できない。
論理や知識は伝達できても、文章の味や香りのような感性を伝えることは難しい。
すると必然的に、ブログなどネット上では意表を突く展開や言葉、事柄だけが好まれるようになるし、話し言葉の方が取っつきやすい。

携帯小説とかも流行っているが、はたして小説と呼べるだろうか。

文芸としては大いに評価できると思う。言葉の試行錯誤は賛成だ。
歴史的にも、文芸は媒体によって変遷してきた。
聖典は、一文字づつ写し取っていた「ありがたさ」から、印刷で量産するようになった時点で読み物になった。

紙に筆やペンで書くことと、キーで作文することはかなり次元が違う。

手書きは行為自体が創作といえる。「書」という肉体が付随する思考であり、書く精神や姿勢が一体になった思想だ。
ところが、キーで作文する時は、書という肉体から解放される。
字の上手いヘタ、文字の点画など関係ない。純粋に思考を表現する。
キー入力は論理か、口をつくままの表現に、二極化していく。

もしかすると、タイプ作文が先行していた欧米の思考にはすでに、思想の肉体離脱が起こっていたのかも知れない。(合理的、観念的)
そうでなくとも、キー入力は、アルファベット文字の発想だ。

喋る書く打つ
確か、宇野鴻一郎だったと思うが、口頭筆記でポルノ小説を多作しており、その筆記をしていた人が「恥ずかしいやら可笑しいやら・・・」と話していた。
近頃ではボイスレコダーで、恒星日誌を書いている人もいるだろう。

手書きによる和文は、映像のような「幻影」を醸し出す。
キー入力による文芸は、口頭筆記よりは思索的だが、やはり、口をつくままの「裸踊り」に近い表現だ。
裸踊りは一見、芸もなく下品に見えるが、和洋中混血の日本語をボディーにすれば、モダンバレーに高めることは可能だろう。発展が楽しみだ。

ただ、このブログには関係ない


なんなんだぱんだ

2008年05月06日 | 動物

パンダを貸して頂けることになった

多摩川にはピラニアがいるそうだ。
ペットで、世界中の生態系がめちゃくちゃになっている。
絶滅危惧種でなければ、どこの誰が飼っても良いというのは間違いだ。
地球の裏からやってきたペットが、不可解な菌を広げる危険。
飼い主の都合が悪くなったら捨てる、生態系破壊。
何としても飼いたい偏執狂の密輸売買。

そうでなくても、世界的な物流に紛れ込んだ生物で、生態系や環境は確実に破壊されている。

昔は、風と鳥が運んだ地球の生態移動は、人間が現れて、もはやミキサー状態だ。
これも、神のしくんだ地球進化の一環なのかも知れないが、人間によって進化した地球には、人間は不要になる。

「かけがえのない地球」とは、何もCO2だけの問題ではない。
ペット飼育など、人間の傲慢も行きすぎれば直ちに環境破壊だ。

絶滅危惧種は、「かわいそう」だから保護するのではない。
生態系の破壊が人間自身の首を絞めるからだ。

犬猫など、昔ながらのペット以外、徹底的に禁止すべきだ。
犬猫だってそうだが、ペットをかわいがることは自己を試されることになる。虐待してはいけないが、虜になってもいけない。
ペットは自分の影だからだ。

特殊なペットを欲しがるのは、他人とは違う自分になりたいわけだが、同時に、人間である本当の自分を捨てることでもある。
動物愛護のバランスを失うことは、人間への思いやりを失うことだ。

誠意
中国には贈り物の伝統がある。贈り物の種類によって、相手に対する格付けを表す。(これが賄賂の温床なのだが)
外交においても、何を手土産にするかで誠意(ランク付け)を表すのだそうだ。

中華人民共和国は「パンダ」という恰好の「玉」をチベットから手に入れ、ここぞという時に贈っている。
絶滅危惧種など気にすることではない。むしろ箔が付いて値打ちが出る。
生きた猿の脳をストローで飲み、ハクビシンを好んで食べる文化感覚では、パンダも超級の「贈答品」でしかない。

ワシントン条約で、貸与しかできないような動物を、贈られて喜んでいられるだろうか。

パンダがいかに可愛いからと言って、異国で檻に閉じこめて観ることが、地球環境にどういうことかと言うことを、先進国日本の国民はもう解っているはずだ。


差別時代

2008年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

「格差」「階級」「ブランド」などの言葉については何度も話したが、
魚座は差別意識の星座だ。
だから、逆に、不必要なまでに「無差別」になる側面もある。
(献身愛、同性愛、性同一性、SM、ニューハーフ・・・)
魚座時代は「差別混同」時代と言える。

人間は他者と自己を分けてこそ生きられる。近年、発展した免疫学や共生論は、差別と連帯の始まりを暗示しているようで面白い。

どうも、生命というものはコンニャク問答だ。
個は衆であり衆が個である・・・と、
だから究極、人間も類的、社会的なマスの存在なのだろう。

愛は差別の裏
宗教は、初めは破壊とカオスから出発するが、必ず差別に堕落する。
バラモン教から仏教が生まれ、ユダヤ教からキリスト教が生まれたように、旧弊を打ち破るものが、旧弊に閉じこめられた心を救済する。しかし、その救済はやがてまた形骸化し、弊害となる。

これは「愛は憎しみに終わる」ように、情で始まれば情で終わることを意味している。情は音楽のように一過性であり、止まれば消える。

「愛」のキリスト教は魚座の宗教と言われている。
一つには、歳差による春分点移動が魚座を通過する約2000年間、世界を支配したからだともいわれているが、それはキリスト教中心の見方で、むしろ、これまでの宗教全体が「情の魚座」だったと言えるだろう。仏教すらそう受け止められていた。

情が一過性なのに対し、智は理解であり、認識を心に刻む。
仏教の慈愛は、キリスト教の愛とは少し異なる。仏教の説くところは般若であり、智と理解だ。

「敵を愛する」のではなく、「敵を理解する」こと、認めること。
理解は、もはや敵ではなく他者であり、愛ではなく共存することだ。
情が魚座のものなら、知的理解は水瓶座のものだ。(多様性の共存)

確かに、敵を愛することができれば争いは無くなるかもしれない。
しかし、愛がとぎれた時、よりいっそうの憎しみを生むこともある。
一神教の宗派対立は、内への情愛と、外(異端)への憎しみ排斥であり、愛しても融和しない者へは、結局、敵対が待っている。

近年、仏教が徐々に人気を高めているのは、
「理解による他者との共存」が、敵味方や異端をつくる一神教に対して、説得力を持ち始めたからではないかと思う。
仏教も、戦乱地帯では戦争哲学として期待されたが、結局、戦争の役には立たなかった。(今日でも、仏教と称して排他的な宗派もある)

仏教は、和平目的か、平和地帯でしか成り立たない哲学だ。
チベットが中国を拒否するのは、平和哲学を抹殺しようとするからであり、暴動が起きるのは平和哲学が奪われたからだ。
まさに、軍事政権が暴力を強要しているということだ。


幸子の幸は

2008年05月04日 | 星の流れに

大正のデモクラシー、階級闘争の時代から、天王星が84年、一回りして、「階級」が「格差」に入れ替わった。(これから時代は
社会改革には色々なとらえ方、色々な方法があると思うが、84年前と名前が替わっただけで、ほぼ全く同じようなパターンが現れてきている。

カニ座が山羊座(木・冥)に刺激されて、さらに火星が来た。
今、「蟹工船」がずいぶん読まれているそうだ。

これはまた、あまりにもできすぎではないか。
本の発表は1929年だが、当然、その前に書かれたものだから、時代は、天王星・魚座の現在と同じだろう。
プロレタリア文学の代表とも言える小説が「船」であることは、時代の必然だが、今また、脚光を浴びるところに「運命」に翻弄される人類の性のようなものを感じる。

階級闘争という動きが生まれてから80年以上経ち、人類は色々なものを見てきた。
今考えれば、もっと別の考え方や展開があったと思うのだが、当時の時代の空気の中では、もっとも理解しやすい図式だった。

時代状況が悪くなった今。
また、「格差」という言葉が、人々を思考停止させようとしている。
二極化の対立構造で、事態を打開できるかのような幻想をいだかせる声があがり始めた。
時代の風というものは恐ろしい

今は、84年前とは確実に時代環境が異なる。不景気や低賃金は同じでも、起業の条件や、政治体制は別世界だ。
死んだはずの神国ゾンビが甦っている一方で、階級闘争という鎧のドンキホーテも飛び出してきた。

やれやれ、もう少し爽やかな知恵はないものだろうか

ゆく河の流れは絶えずして・・・


タイトルは「赤色エレジー」だが、知らない人もいるだろな


パンダ

2008年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

上野動物園のパンダが死んだ。さっそく、また、パンダちょうだいとおねだりしているそうだ。

確かに、パンダは無条件にかわいい。中国は保護のどうとの言いながら、結局、最高の外交道具にしている。
それにしても、動物園に閉じこめて観ることは、本当に「かわいい」と、愛でることだろうか。
中国のパンダ幼稚園はまるで、ミサイル製造工場だ。
パンダが実弾として飼育されている。

パンダが死んだからと、今、安易に下さいと言って良いものだろうか。
パンダはまさにチベット地域のものだ。
状況を無視して中国政府に頼むのは、チベットを無視し、中国の言い分を認めることになる。

パンダという「漢委奴國王印」を貰いたがる朝貢外交を、恥ずかしいとは思わないのだろうか。

この際
日本は、超かわいい「ロボット・パンダ」を作るべきだ。
売れるぜ~っ

世界中にプレゼントしてもいいな、パンダ保護のために (^^)


3人乗り

2008年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

自転車の3人乗り禁止でもめている。
役人の考えそうなことだ。問題が起こると「禁止」しか考えつかない。

あらゆる役人は、権力行使する時、目が、いきいきと輝く。

権力行使と、創意工夫は全く相容れない。
権力行使はルールを守るのが大義名分であり、初めから保守だ。
創意工夫とは、無かったものを創り出すための、破壊を伴う。

従って役人は、役人になろうとする動機からして、創造性は全くない。
収入の安定、立場の安全、そして権力を代行する快感だ。

こんな頭で、問題を処理しろと言われれば、臭い物に蓋をすることしか考えつかない。
役人が一生懸命仕事をすれば、どんどん規制が増える。
逆に、手を抜けば不正が増える。

民間人が、「なんとかしよう」と思えば、創意と工夫をするしかない。あり合わせの材料や資金で前に進まなければ、たちまち食いっぱぐれる。手を抜けば、誰かが金を持ってきてくれたり、ご馳走に誘われたりという、うまい話は転がっていない。

役人に金を握らせて仕事をしろと言えば、社会保険庁のように壮大な無駄遣いをする。苦労してない金の有難みを解るはずがない。
今日食べる米は明日の田植えのエネルギーなのだということが、
お金はお金をつくるための元手なのだということが、解らない。

かかあ天下
役人は何事も、「無一文から始めるにはどうするか」とは考えない。
どこから金を絞り出すかしか頭にない。
これは、専業主婦の発想だ。
主婦の労働量は大変なものであることはよく解る。役人だって、優秀で大変な仕事をしている。
しかし、どこまで行っても、金を生む目的ではなく、
お金をや子供を、管理することしか思いつかない。
予想外の収入があれば、亭主に隠れてへそくりや飲食オシャレに使いたい。
官僚の横暴は、亭主たる国民や政治家が、官僚母ちゃんに甘えているからだ。

専業主婦の発想は、収入が少なくなると亭主の小遣いを減らそうとする。自分が働きに出ようとすればベビーシッターや外食に金を使う。
どうすれば、家計全体が生産的になるかを考えられない。
官僚の無駄遣いは、バブル期の贅沢が忘れられないからだ。
役人は状況が悪くなればなるほど、国民の手足を縛ろうとする。亭主の昼飯代を削る悪妻だ。

医療費がかさむからと、年寄りの命綱を削り、増税をたくらむ。
政治家は官僚母ちゃんの言うなりの亭主だ。

自転車規制は、警察も役人だから仕方がない。
自転車の事故が増えたからと、がんじがらめの規制をドッと出してきた。
3人乗りが危険なら、先ず自転車の形状規制を外したらどうだ。
裏道まで自動車道路は本当に必要なのか。
自転車に小型牽引車を許可するなど、先ず、解決策を考えてから規制すべきだろう。

それともう一つ、どうしても言いたい!
携帯をしながらの自転車の規制はよく解るが、ヘッドホンで音楽を聴いてはいけないと言うのなら、車のカーステも禁止するのか。