魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本浄化(2)

2011年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

近年、暑さ対策にステテコが流行っている。
ついに、バカボンのパパの時代が帰ってきた。

戦後、下着メーカーが台頭するまで、夏の家着と言えば、男はチヂミシャツにステテコ。女はシミーズだった。
基本的には下着だが、盛夏になると、ご近所程度は当たり前の外着で、バカボンのパパや月亭歌長が町を歩いていた。

シミーズで電車に乗る人はいなかったが、バカボンのパパは確実に電車に乗っていた。

息を吹き返したステテコは、クレープ地の涼しさが見直され、柄物に変身して、さも新しいファッションのような顔をしているし、シミーズも、OOワンピースとかに変身して、クーラーがなかった時代のファッションが、事実上、復活している。

温暖化に節電が加わり、ついに、スーパークールビズとか言い出した。何も、変なカタカナでごまかさなくても、日本は堂々と南国ファッションにすればいい。温帯と言われるが、今や亜熱帯だ。
役所や銀行で、アロハやタンクトップで仕事をしていても、2回目からは誰も驚かない。
日本埋没1

「ニュー・ステテコ」には、女の人も注目している。ユニセックスの現代だから、当然と言えば当然だ。
全国の8割を占めるという、滋賀県高島のクレープ地生産は今年注文が5倍になったそうだ。パパの縮みのシャツ(クレープ)も流行るのだろうか。少なくとも、クレープの半袖などは良さそうだ。

クレープは涼しいが、忘れてはならないことがある。
バカボンのパパは、必ず毛糸の腹巻きをしている。
涼しい格好をすれば、腹を冷やして体調を崩すからだ。ポケットにもなる。その上、胴回りも痩せる。
夏こそ腹巻き。
「これで、いいのだ!」


日本浄化(1)

2011年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

関東だけではなく、日本全国に戦後のような節電時代がきた。
節電は、不自然な社会を自然に戻す、社会浄化の良い機会だ。

節電対策として、冷房が効くように窓を二重硝子にする方法を、TVで紹介していた。
40゜にもなれば、冷房もやむを得ないかも知れないが、そんな極端な気温は、すでに災害だから、避難所で集中避暑にした方が良い。

寒暖の避難所のことは、むかしから言ってきたのだが、最近、そういう動きが出てきて、好評のようだ。
せっぱ詰まれば、誰でも思いつくが、問題のない時にこそ考えておくべきだ。問題のない時に非常時の話をすると、誰も聞いてくれないばかりか、白い目で見られる。原発にしても、多くの人は目の前のことしか考えない。
ガソリン高騰

二重硝子は、暖房には必要だが、そこまでして冷房にこだわるのは、産業革命パラダイムに毒されているからだ。
冷房によって、若い人の汗腺は本来の半分くらいしかないそうだ。
冷房が使えなくなったら滅ぶのだろうか。

原点
家相はクーラーのような人工空調を前提にしていない。
家相の思想は自然調和だ。光・水・風、自然との付き合い方を説く。
それ故、風水や気学という。

自然の子である人間は、寒さにはどうにか耐えられるが、暑さには、裸以上は耐えられない。クーラーはこの掟を破る不自然なものだ。
だから、温帯や亜熱帯の日本家屋は、古来、開放的にできている。

洋風建築に憧れる日本では、クーラーが普及して以来、日本中が閉鎖的な建築になってしまった。これこそが不自然な社会であり、節電には、二重硝子でクーラーの効率を考えるより、昔のように解放して、自然に近づくことを考える方が早い。

最近は、ハウスメーカーも、日本建築の良さに気づき、相当開放的な家も出てきたが、大方の家は、壁を中心にした耐震設計で、今更、解放もできないし、密集した都会では風も通らず治安も悪く、その上、鍵社会で閉め切りだ。

この密閉建築と密集した都会が、関わり合いを嫌う孤独な閉塞社会の一因ともなっている。
節電を機に、互いのコミュニケーションを増やし、治安を守りあえる社会になれば良いのだが、なかなかそう簡単にはいかないだろう。
せめて、寒暖の避難所を町広場、井戸端のように利用して、共同体が再構築できないものかと思う。

忍耐より知恵
クーラーをなるべく使わないためには、いかに密閉するかではなく、いかに熱気を抜き、屋外と同じにするかが重要で、昔の生活を再考する方がいい。打ち水や屋外に出て、「夕涼み」なども、近隣のコミュニケーションや防犯にもなる。将棋の流行も役立ちそうだ。

言うまでもなく、家の熱気を抜くには、家の中で一番高い位置にある窓を開け、全室を解放して空気の流れを一体のものとして、熱気を送り出す。
金銭的ゆとりのある人は、大屋根の破風(三角面)などに換気扇を付けるか、天窓を開けるなどして、屋根裏の熱気を抜く。
クーラーを使う場合も、先ず家の熱気を抜いてからの方が効率が良い。

こんな当たり前のことに、案外気づかない人がいて、そういう人に限って、いきなり、クーラーに頼ろうとする。

竜が理由ではない」「旬の復活


正義の人

2011年06月28日 | 星の流れに

レディー・ガガが、東日本大震災で沈む日本に、情熱的に支援している。
元々、親日のようだが、日本にかかわらず被災支援には熱心らしい。
この人のことはよく知らないのだが、、ここまで日本に肩入れしてくれると、嬉しいような心配なような変な気持ちになる。

レディー・ガガは牡羊座。このところ、世界で最も影響力のあるセレブと言われている。これこそ、「牡羊座現象」だ。
天王星が来た人はその人の価値観に基づく常識破壊に走る。

牡羊座は赤ん坊だから、裸のターザンだ。したがって自分のアピールには肉体を誇示するし、ギリシャ彫刻のような美しい肉体にひかれる。
日頃は、大人しくても、ここ一番には、肉体勝負に出る。ただ、女性星座のようなイヤらしさではなく、力強い爽やかさをアピールする。

見る側も、露出度の割に、変な気持ちにはならない。むしろ、驚きなどの、何らかの感動をする。
同じく牡羊座の沢尻エリカも、このところ、色々話題だが、露出しても『だからどうなんだ』の印象が強く、エロとはほど遠い。

ガガも、エリカも「どんなもんだ」と言った感じで、
頭部を意味する牡羊座だから、下ネタ意識が無く、エロスより、独りよがりのヘラクレスだ。

ただ、これも一つの魅力で、牡羊座の徹底的な独りよがりは解りやすく、強く惹きつける要素がある。
昔、色っぽいとされた、園まりや伊東ゆかり、最近では坂本冬美など、いずれも、独特の引っ張りや発声が特徴だが、これは他人に聴かせるより、自分の世界に没入しきることで出てくる個性で、他の星座では、これだけ自分の世界に没入できいないだろう。
歌手ではないが、桃井かおりや篠原ともえなども自分の世界だ。

牡羊座は天秤座と表裏関係の対角線上にあり、美的なものにひかれ画家志望やファッションにこだわる人も多いが、天秤座のようなパステルカラー的な中庸さはない。

レディー・ガガも、どうも、この系統で、これが大いに受けているのも、天王星・牡羊座の時代ならではだ。

一方、災害支援に熱心なのは、単に同情と言うより、荒野や修羅場にひかれる牡羊座の本能で、天秤座の日本に対しては、特に本気だろう。
牡羊座にとっては、結婚相手の不幸で、我がことのように必死になっているだろう。

天秤座に土星が来たと言うことは、結婚相手の不幸や、年寄りとの結婚や、離婚や孤独を表すが、沢尻エリカや木村佳乃もそのようだ。

出る杭は打たれる
同じ牡羊座が似たような行動を取っても、日本では誹謗中傷が先行するが、アメリカでは称讃される。沢尻エリカや神田うのなど、何でそこまで中傷されるのか解らないが、日本のマスコミはエリカ様と同じように、ガガ様と呼んでいる。
OO様は、表だって非難できないものへの、揶揄的ニュアンスで、受け付けない意思表示だ。
日本の集団の中で、意味無く持ち上げる、こういう応対の仕方をされたら「いじめ」予備軍で、何かあったらふくろ叩きにあう。

ちゃん様


犬の惑星

2011年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

エンジンとボディーの相性は難しい。シャーシとハンドルも同じ関係になる。
警察や検察はハンドルで、小沢はシャーシだから宿敵となりやすいが、ボディーにとっては、シャーシは思いを代弁する、我が子のような存在だ。

では、ボディーとは何かと言えば、自動車のあらゆる部品を包み込み、美しく形を整えて、「何であるか」を意味づけするもの。
世の中で言えば、アレコレ複雑で難しいことを、一つの答えに単純化して美しく表現し、安心感を作るもの、思いをまとめて代弁するものだから、政治やマスコミの世界が、これにあたる。

政治は本来、複雑な操作が必要な、ハンドルの仕事なのだが、世の中で目立つ位置にいるため、ボディーのような目立ちたがり屋が成りたがる。その結果、業界全体がボディーの世界になってしまう。

しかし、ボディーはいい顔だけ考えているから、責任の生ずる行動は取れない。ところが、後先を考えないシャーシは、どう言われようと構わず突進するので、ボディーにとっては都合が良い。
便乗も出来れば、関係ない顔をして非難することも出来る。

思い切った行動をするのは、シャーシとエンジンだが、シャーシが単発的なのに対し、エンジンは持続力があり、ボディーの武器である言葉や雰囲気を無視するので、ボディーは腹が立っても太刀打ちできない。絵に描いた刀では、破り捨てられてしまう。

エンジンの政治家が、政界やマスコミから嫌われるのは、ボディーの世界を無視するからで、ボディーは対抗するためエンジンの苦手とする「印象」で足を引っ張る。言葉の揚げ足取りがその例だ。
亡国の宴」「猿の惑星

今回の菅下ろしは、ボディーとエンジンの対決で、不信任案採決の前の両院議員総会で、菅が「一定のめどがついたら若い人に・・・」と言った瞬間に、NHKのテロップに「菅総理辞意表明」と出た。
『おいおい、辞めると明言してないじゃないか』と思って見ていたが、
その後、このマスコミの断定を前提に「辞めると明言」したことになって事態が進行した。

ボディーの政界とマスコミは、菅エンジン憎しの一念で早トチリしたわけで、この混乱事態の一級戦犯はマスコミだ。にもかかわらず、無責任体質では鳩山以上のマスコミは、国民を無視した政局とか、菅総理の延命策とか、自分達は関係ないような顔をして正当化に努めている。そして、国民の中には、マスコミの煽るままに乗せられて、延命はけしからんと叫ぶ人もいる。

しかし、何よりも重要なことは、政界マスコミ、あるいは国民も、
「内閣は一年で交代するもの」と思ってしまっていることだ。
はっきり言って、誰に替えても、大して変わりない。
それが解ってないのは、当の政治家と、政局イベントで飯を食ってきたマスコミだけだ。国民はもう虚しい期待をしていない。
不信任否決後の、菅総理の辞任時期についてのアンケートでも、早くても8月以降が8割近かった。半数以上が年末後としている。

このまま、裸の政治屋とバカマスコミが、政権を追い詰める生産性のない空騒ぎを続ければ、孤立した政権によって、日本は犬の惑星になっても仕方がない。

CMは変容宮


違う立場

2011年06月23日 | 兄弟関係

むかしむかし、あるところに、お爺さんとお婆さんが住んでいました。
お爺さんとお婆さんはとても貧乏でしたが、隣の大きなお屋敷には、ボーッとした爺さんと婆さんが住んでいました。

貧乏なお爺さんとお婆さんは、毎日、町に物売りに、山に薪拾いにといそがしく働いていました。
町で珍しい唄や踊りを憶えたら、何も知らない隣の爺さんに教えてやりました。山で集めた山菜が余ったら別けてもやりました。
でも、少しも嬉しそうにしないばかりか、迷惑そうな顔さえします。

そのくせ、教えて上げた唄や踊りで、知らない間に先生になって、よその人に教えているのです。しかも、せっかく教えてやったのに、変な踊りに変えています。ちっとも嬉しそうにしなかったクセに、山菜は庭に植えて一杯に増やし、通る人にまで売っています。

ある日、隣のうちから、お祝いですと小判を三枚持ってきました。
聞けば、隣の家で拾ってきた犬が宝のありかを教えてくれて大もうけをしたというではありませんか。
何で、あんなボーッとしている爺さん婆さんばかりが、上手いことをするんでしょう。
お爺さんだってその犬さえあれば、同じ宝が手に入るはずです。
唄や踊りも山菜も、もって行ってやったのだから、お爺さんにも犬を貸してくれても良いはずです。

犬を借りて山に行ったのですが、きっと隣の爺さんが教えたのでしょう、宝のありかを教えようとしません。叱ると、歯をむいて噛みつかれそうになったので、棒で叩いたら死んでしまいました。

隣の爺さんに言えば、きっと怒るので、庭にそっと置いておきました。
しばらくすると、死んだ犬を置いてきた隣の爺さんの庭に、大きな松が生えました。

ある日、隣のうちから、また小判を持ってきました。
聞けば、犬を埋めた後に生えた松を切って作った臼から宝が出てきて大もうけをした祝いだと言います。

またも、あのボーッとした隣の爺さんだけが、良い思いをしているのです。神さんは何と不公平でしょう。こんなに一生懸命働いているお爺さんには、何も良いことがないのに、ボーッとしている隣の爺さんだけに幸運が舞い込むのです。

お爺さんも、隣から臼を借りてきて、杵でついてみたのですが、中からはガラクタしかでてきません。力が足りないのかも知れないと、力一杯ついたら、臼が割れてしまいました。

壊れた臼は使えないので、隣の爺さんの手間にならないように、燃やしておきました。
すると、隣の爺さんは何を思ったか、灰を持って帰りました。

しばらして、隣の屋敷が大賑わいなので、見に行くと、隣の爺さんが灰をまいて枯れ木に花を咲かせたので、お殿様からほめられ、たくさんのご褒美を運んできた家来で一杯でした。

近くには、まだお殿様が休んでおられるとのことなので、急いで隣の爺さんから、残った灰をもらって、殿様のところに駆けつけ、
もっと一杯咲かせましょう、とお殿様の近くの木に登り、ざるごとまきました。

ところが、花が咲くどころか、お殿様の頭の上に灰が降りそそいで、お殿様は眼を痛め、
お爺さんはとらえられて、打ち首になってしまいました。

お爺さんのせがれは、こんな事になったのは、みんな隣の爺さんのせいだ、きっといつか敵をうってやる、そして、うちから奪った家も財産も奪い返すのだと堅く心に誓い、毎日毎日、わら人形に五寸釘を打つのでした。


西行法師

2011年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ロボット技術者が、福島原発事故にロボットを送り込めなかったことが、悔しいと嘆いていた。
作れなかったのではない。要請が無かったから作らなかったのだ。

汚染水処理にしても、米仏に頼るしかない。

「原発の安全神話が崩れた」とか言っているが、安全を全く信用していなかった人間にとっては、
『世間には、そんな神話があったのか!!!』
と、むしろ、その方が驚いた。

だから、原発は安全ですと言っていても、まさか、当事者自身がそんなことを信じているとは思わなかったから、「安全」とは、事故対策も含めてのことだと思っていた。(それでも安全とは言えないが)

しかし、今回、トコトンの事実がわかって、仰天した。
何と! 全てを知り尽くしているはずの当事者が、神話の世界で暮らしていたのだ!!!
「神の国、ニッポン」

臨界事故もあったにもかかわらず、ロボットも無ければ、汚染処理装置も無い。事故は全て「想定外」と言うが、
事故そのものを想定していなかったのだ。

日本は作る技術はあっても、(今回はアメリカ製原発だが)運用する思想がない。

ゼロ戦は優秀でも、防弾壁で人間を守る思想がない。
一つうまくいくと、そこに甘んじて状況の変化を考慮しなくなる。
福知山線や信楽鉄道の例でもそうだったが、
さらに、そのうち、本来、想定していなかった悪乗り運用を始める。

日本陸軍は、三八式歩兵銃だけで戦ったと言われるぐらい、精神論偏重だったが、その文化は、今も脈々と生きている。

原発運用は官僚依存と同じ、丸投げ政治だ。
そのくせ、丸投げで推進した当事者が、「我々なら上手くさばけた」と言う。

『続・猿の惑星』では、核戦争で生き残った人間が、核弾頭を神として崇めている。

「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
日本の文化には、危険物の運用は適していないようだ。


君子外交(1)

2011年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

「中国は、現在、周辺国からの圧力を受けている」と、尖閣や南沙諸島について、中国国民のアンケート結果が出た。しかも、それは中国が弱いから、周辺国が隙を狙っているという認識になっている。

本当に、国民の総ての傾向か、政治的意図かはわからないが、
統制国家がそういう発表をすること自体に、国の意志が見える。
もちろん、それが政権中央の総意なのか、勢力争いの過程なのかもわからない。

自分が無理を通そうとして、周囲と軋轢を生じ、それを周囲の包囲網とみなす。
まさに、軍国日本の「ABCD包囲網」と同じとらえ方だ。
これは、意図するしないにかかわらず、戦争の前兆だ。

国際政治に明るい政治家が、こんな考え方をするわけがないので、戦前の日本と同じように、軍事勢力の意識、あるいは何らかの意図が働いていると思われる。

昨年からの、中国の怪しげな動きは、いよいよ、臨界に達しようとしている。
これが、単に、国内不満の目をそらすためだとしても、もし、経済的な崩壊が起これば、政治は力を失い、軍人が動き出す。

ただ、国民気質の観点からすれば、日本のように、損得抜きの破れかぶれの戦争は始めないだろう。
何しろ、北朝鮮の親玉の国だから、やるやる詐欺で、何かを得ようとしていると考えれば、初めの段階で、決して妥協してはいけない。

日本は既に引いてしまったが、これからでも挽回の余地はある。
信用や威信が傷つくのは一瞬だが、挽回には時間がかかる。気長に取り組まなければならない問題だ。

君子の交わり
中国との友好を計る努力は続けなければならないが、一方では、中国を太らせたり、勘違いさせてはいけない。

中国の人口を市場と期待すれば、悪魔に魂を売ることになる。
既にそうなっていることは仕方ないとしても、これからを期待して無節操に接近すれば、遠くない将来、日本は中国に飲み込まれ、事実上の日本省になりかねない。

国境のない世界に向かっていることは事実だろうが、古代帝国の原理に飲み込まれて、国境が無くなったのでは本末転倒だ。
今現在、事実上アメリカの準州のようなものだが、タテ型の中国よりは、遙かにましではなかろうか。

製造業が国外に拠点を移すなら、中国だけは避ける方が賢明だ。
中国とはつかず離れず、君子の交わりをしていきたい。

中国の自賛は当然だが、不景気な世界動向の中で、一元的な組織が良いのだという意見が世界に広がり始めている。
まさに、共産主義や、全体主義の時代がドアを叩いている。

君子外交(2)


死語復活

2011年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和20年代の、ごく一般の人が書いた文章を読んでいて、色々気づかされる。

その中の言葉づかいで・・・

「一等をかちえた」という場合。今なら、「勝ち得た」と書くし、ワープロもそのように変換する。
しかし、当時は「贏ち得た」と書いていた。ほんの半世紀前だ。
「贏」は、「亡」の下に「口」その下に「月貝凡」と並ぶ第2水準の漢字で、特別な漢字ではない。

「勝ち」と同じ意味で、「勝ち負け」の事を「贏輸」とも言う。
しかし、「贏」は見た通り「貝」の意が中心の漢字であり、「勝」とは意味合いが違う。

「勝」は「すぐれる」の意味で、「贏」は「あまる」の意味がある。
「すぐれる」は、他に比較するものがあって、それより上位の意味だが、
「あまる」は、財産の意の貝を含むように、比較とは関係なく生ずる価値だ。

よく、スポーツなどで、「遂に、優勝を勝ち得た」などと言い、競争に「競り勝った」ことを表す。受験も「合格を勝ち得た」と言う。
現代では「勝」以外使わないから、頭の中は「上下関係の上に立った」感覚でとらえる。

だが、ここで「優勝を贏ち得た」と言えば、かなり意味合いが違ってくる。
負けた人の上に立った事ではなく、純粋に、自分の努力で得た成果について、自分の問題として語る事になる。

現代人も、この違いはよく解っているが、言葉を失ったために、上手く表現できないようだ。
そのため、「スポーツ精神」として、勝ち負けを競った後は、互いに敢闘をたたえあうことに意味があるなどと言う。
また、近頃の選手は「自分のために頑張りたい」とも言う。「自分にご褒美」も、この気持の表現だろう。

ところが、以前の日本もそうであったように、新興国の選手や国民は、勝ち負けだけにこだわる。これは、自分達の地位に対するコンプレックスから、「上になりたい」渇望が強く、とにかく競り勝ちたい。

追いつき追い越せの高度成長時代、「勝ち」に追われた日本は「贏ち」という言葉を忘れたのではないだろうか。単に「贏」がややこしい漢字だからではないような気がする。
しかし、成功を収めて、競争疲れした日本では、ある意味では「ゆとり」に気づき、勝ち負けよりも、自分の努力目標として、「求道」を求めるようになった。

「贏ち」は、求道の一つの段階として手に入れたものであり、「ご褒美」とも言えるもので、決して、誰かに勝った証拠ではない。

合格も栄冠も、「贏ち得た」ものであって、「勝ち得た」ものではない。
そろそろ、「贏ち」を、復活させても良さそうだ。


スマイル

2011年06月15日 | 写真

アイスから スマイル !!

アイスクリームのパッケージを開けたら、
中から、「やあ!」と、笑顔がでてきた

携帯で撮ったらボケている。
LEDで照らして、もう一度撮ったが、ボケてる方が良くわかるので両方上げる。
空気の凹みだが、突起に見えるかも知れない。

もちろん、溶けるからすぐ食べた。
かけはし

グリコのアイスクリーム「牧場しぼり」リッチミルク ◎

LED

Photo

Photo_3

ピンボケ


占いの眼(5)

2011年06月14日 | 兄弟関係

長子中国
長子中国は弟妹の周辺国に対し、押しつけで対応している。
中国は老獪というイメージがあるが、それは国内の勢力争いであり、人間で言えば、内面の葛藤だ。

よく考えてみれば、中国の対外政策は意外に稚拙であり、遠国に遠征しては敗れ、長城を築いても侵入され、人質まで送っている。
極め付けはアヘン戦争で、阿片を流し込まれて蝕まれ、不用意な戦争に敗れて亡国に至った。(満州族清は中国化していた)

こうした歴史を概観しても、中国はやはり長子で、力のゴリ押ししかできず、とても老獪とは言えない。
中国の大風呂敷は長子の独りよがりで、確かに、力が及べば行使するが、実際には妄想に終わる。

中国が宣言しまくっている「領土」など、いかにも典型で、取り敢えず宣言して、あわよくば実効支配するつもりだが、周辺国に対して無神経だから、反発され、結局、実現できなくなるだろう。

とはいえ、状況無視の独りよがりの大遠征は常に、周辺国に迷惑をかけることになるし、その結果、痛い目に遭うのは自分自身になる。
長子の独りよがりという点では、一人っ子の日本も同じで、外交に気を配らない点は、弟妹に苦労した中国より、遙かに危なっかしい。

長子中国と一人っ子日本の違いは、中国は大声で宣言しまくるが、寸止めで、引くことができる。これに比べ、兄弟とぶつかり合った経験のない日本は、ぶつぶつ独り言を言っていたかと思うと、「わーっ」と突然、暴走する。そうなると自分では止められない。

中国や日本に比べ、揉まれることに慣れている中国大陸の周辺国は、それぞれ個性はあるものの、中国より断然したたかで、どんな境遇に置かれても、何としてでも生き残る生命力を持っている。
ベトナムや朝鮮など、繰り返し、侵略されたり支配されたりしながら、しぶとく生き残ってきた。

長子中国は横暴でいながら、保護意識も強く、覇権国家として援軍要請に応じ、自分自身が怪我をするというお人好しぶりを発揮しており、今日の、北朝鮮に対する態度にもそれが表れている。

長子同士
中国は朝鮮半島に対し、弟妹と見てきたから、横暴でもあるが、好意的であり、評価が甘くなる。朝鮮半島も付き合い方のコツを心得ていて、甘え上手であり、長子に対し勝手放題言っていても、やはり寸止めのコツを心得ている。

中国にとって、隣家の日本はよく解らない相手だ。
日本は中国の噂はかねがね良く知っているが、弟妹の監督に忙しい中国にとっては、兄弟なのか他人なのか計りかねる相手であり、それが突然、中国大陸に鬼として現れたから、「鬼子」だったと、強く決めつけることになった。

しかし、中国人は極めて現実的だ。「そうでもなかった」と知れば、たちまち評価を変える。兄弟の長子と一人っ子の違いはあるものの、長子の「認め合い」原理は通じるところがある。
下手に、上下を意識して敵対的になるより、「お互い大人同士ではありませんか」の姿勢で付き合えば、最も仲よくできる相手だ。

ただ、その際、兄弟に対する横柄な物言いのクセには目をつぶる必要があるだろうし、また、そういう態度を改めさせるのも、腹を割って「それはおかしな物言いではありませんか」と、率直に静かに言うことだろう。とにかく、相手の自省心に訴えることだ。

中国は今、日本が弟妹なのか、親戚の子なのか計りかねている。
一々噛みつけば、弟妹と見なすだろうし、泰然と構えれば、親戚の一人っ子として、敬意を払うだろう。


占いの眼(4)

2011年06月13日 | 兄弟関係

二つの動機
根本的な考え方が、「自分頼り」か「他者頼り」かは、どんな世界にあっても、様々な思想や言動の、出発からの違いになっている。
しかも、そこで争う人々は、互いに、動機が違うことに気づかない。

例えば、生命の原点について、地球で発生したと考える人と、彗星や隕石からもたらされたと考える人がいる。
どちらも、生命は環境さえ整えばどこでも発生すると解っていても、現在の我々が、独自に発生したと考えたい人と、他動的にもたらされたと考えたい人の出発の違いがある。

この違いは一見、他動的にもたらされたと考える方が「他者頼り」のように見えるが、必ずしもそうではない。
「自分頼り」の人は自分を含め「それぞれに独立した存在」であると考えるから、地球以外の星に生命があってもおかしくないわけで、それが飛んで来ることもあり得ると考えるからだ。

このように、主張のプロセスはよく吟味しなければならないが、どんな意見にも、根本に、二通りの発想の違いがあることは見逃せない。
そして、その発想の違いが、生い立ちの環境に強く影響されているとすれば、主要因として、幼児期の兄弟関係は無視できない。

しかし、何事も単純に類型化はできない。
一般に、長子は「自分頼り」で、弟妹は「他者頼り」になりやすいが、長子であっても横暴な親や、不遇の環境で育てば、「他者頼り」になり、弟妹であっても親の見識が高い場合や、乳母に育てられたような場合は「自分頼り」になる。

そのうえ、何よりも重要なことは、性格や行動様式は、何か一つだけの要因で決まるものではないということだ。
多様な要因による、多様な人格の一要因が、個人の総てではない。
「赤い物」は世の中に無数に存在する。

見極め
様々な意見、様々な言動や態度の根底に「他者頼り」と「自分頼り」があることを意識すれば、理解できない相手の言い分の性質が見えてくるし、論破するのか対処するのかなどの、対応策が考えやすい。

「自分頼り」には、認め合いや真摯な説得、あるいは論破が有効だが、「他者頼り」には、逆効果になる。むしろ、なだめやおだて、あるいは無視、逆ギレなど、感情対応が有効になる。

そしてまた、この対応策は、各々の主張や論理展開のもつパターンでもあるので、いずれのタイプか、判断目安にもなる。

「自分頼り」の根本は認め合いであり、「他者頼り」の根本は主導権争いだ。「他者頼り」なのに、なぜ主導権?と思われるかも知れないが、プロセスを他者にまかせたら、その結果が「どこに収まるか」誰のものになるかという「成果」の方が目的になる。(利権争いや、それに関わる元祖争いなど)

「自分頼り」の長子型は、プロセスにこだわり、結果重視の手柄争いに疎く、昔から、「総領の甚六」と言われる。
一人っ子は独りよがりでお人好しであり、その一人っ子に弟妹ができると、変わり身の早い弟妹に対して太刀打ちできず、体格体力まかせの強引な押しつけで対応しようとする。


占いの眼(3)

2011年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム

神仏や占いとの接し方
占いの眼は無感情だ。どんな夢や望みがあっも、どんなに祈っても、
成るものは成るし、成らないものは成らない。
ところが、占い好きの人の多くは「願望や恐れ」の感情が関心の動機である場合が多い。
中には、占いをする人自身が、カリスマになりたい願望から、始める場合も少なくない。

こういう人は、占いと呪術を勘違いする。
何かに祈ったり、霊力のある物を持ったりする。
これも、他人への期待、他者への依存心によるものだ。

占いの価値は将来のトレンドを知ることであり、それを知って、いかに対処するか考えることにある。
あくまで、「自分はどうするか」と考えるためだが、
占いと混同されやすい呪術の目的は、「何かの力で」未来を変えることにある。

同じ事は、宗教にも言える。
神仏に何とかして貰おうと考える人と、神仏から生き方を教えて貰おうとする人がいる。

宗教や占いなど、つかみ所のないものほど、人によって、受け止め方は様々になるが、出発が「自分頼り」か「他者頼り」かで、大きく様子が違ってくる。

他者頼りほど熱狂的になる。それは、お頼みする存在に、自分の願望を聞いて貰わなければならないから、自然に声が大きくなるからだ。
また、熱心に勧誘して回るのは、少しでも多数派になることで、自分の信じているものを、「正統」=必ず願いが叶うものにしたいからだ。

一方、自分頼りの人は、自分が解ればいいのだから、声を大きくする必要は無い。黙々と神仏の言葉を聞こうとする。

他者頼りの人は熱狂的に信仰していたかと思うと、突然、宗旨を変えて、時には、自分が信仰していた宗教や教祖を、悪魔のように誹謗し始める場合がある。
これは「感情論」でも言ったように、「勝手な期待」が思い通りにならない自分の過ちを、他者に転嫁する行為だ。

世間一般に、占いや宗教の評判が悪いのは、このように、熱狂的に騒がしく、他人を勧誘したり、自分と同じものを信じない人、同じ感情にならない人を、非難したりする傍迷惑な人がいるからだ。

神仏や占いの始まりは、行動のための参考、指針であり、静かに向かい合うものであるが、自分自身で切り開く気が無い人には、このことが理解できない。

熱狂する人が自分本位なら、馬鹿にする人も、他者の言葉に耳を傾ける謙虚さが無い。教訓は何からでも得られるはずだ。
印象や先入観で決めつけることも、不合理な感情論にかわりない。


占いの眼(2)

2011年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

感情論の始まり
これは、みな感情論だ。

政治家はみな悪いやつだ。
美人は性格が悪い。
金持ちは悪いことをして儲けている。
庶民は正義の味方だ。
一生懸命働いていれば必ず報われる。
気前よくお金を出す人は良い人だ。
辛い時に優しい人は良い人だ。
自殺した人は悪いことをしていない。
弔い合戦は正義の戦いだ。
失敗はすべて担当者の責任だ。
怒る人には優しさがない。
何をしてあげても喜ばないのはけしからん。

・・・きりがないが、
一言で言えば、「自分の思い通りにならないヤツは悪いヤツ」だ。

何かをする時、誰かにやって貰おうと思えば、その人の、機嫌を取ったり、便宜を計ることを努力と考える。そして、相手が自分の期待通りに応えてくれなければ、腹を立てたり恨んだりする。

逆に、自分で方法を考え、自分で実現しようと努力する場合は、うまくいかないのは、自分のせいだから、腹を立てる相手はいない。

他人に期待すれば、うまくいかないのは他人のせいになる。
人頼みの人は、自分が他人をアテにしていることすら気付かない。
なぜなら、気を遣って大変な努力をしているのは事実だから、ズレた努力でも、自分が何もしていないとは思わない。

これだけ努力しているのに、、自分の思い通りにならない人や、してくれない人間は、自分にとって不都合な人間であり、相手の立場や都合に関係なく、悪い奴、無能な奴と云うことになる。
その結果、最初に揚げたような、感情論が出て来る。

人はそれぞれ生きる都合があるものだから、互いに違うものであり、思い通りにならないのが合理的現実だ。
自分の思い通りにならないからと不満に思うことは、自分の立場だけからの願望で考える不合理であり、「思いや願望」の感情論だ。

万人のための政治は誰にとっても不満が残ることを忘れ、自分の不満からだけ考えれば、政治家というものは「悪い奴」になる。
高嶺の花の美人は酸っぱいブドウであり、自分に出来ない金儲けをしたのは悪い事をしたに決まっているし、自分のように弱い庶民は常に正しく、つらい努力をしている自分は必ず報われる・・・

こうした、合理性の無い考え方をする人は、自分に都合の良い甘いことを言われるとその気になり、自分が思い込んだ結果と違っていると不満をあげつらう。
始めは「とっても良い人」と言っていたのが、突然「ひどい奴」になる。
「素晴らしいもの」と言われるとその気になって偶像に祭り上げ、少しでも思い通りでなければ、「だまされた」となる。
新興宗教や芸能スポーツの世界は、そうした、とりとめのない感情論で成り立っている。

この感情を煽り立てて飯の種にするのがマスコミであり、全くおなじやり方で日本の政治は翻弄されてきた。


占いの眼(1)

2011年06月10日 | 兄弟関係

補足
兄弟関係について、始めから読んで頂いている方なら、解ってもらえると思い、多少、文章が甘えてしまった。

被害者は」の、兄弟関係の考察で、「長子、一人っ子の日本」とは、弟妹を持たない長子のことで、長子型の原点=一人っ子のことだ。
言葉が足りなかった。と言うより、わざわざ「長子」と加えたことで、兄弟関係について予備知識のない人に、上下問題との誤解を招いたようだ。

言うまでもなく、朝鮮半島が末っ子というのは大陸兄弟の末っ子で、日本列島とは親戚ではあるが、兄弟関係はない。
と言うのも、例えば、朝鮮+中国の連合と、日本は戦ったことはあるが、日本+中国の連合が朝鮮と戦ったことはない。
(あえて言えば、671年、新羅に攻められた朝鮮半島の唐軍から日本に、唐史=郭務悰らの援軍要請が来たが、断っている)

また、「占い人類学」で既に、国民性と兄弟関係の考察をしているので、末っ子話として、話題に出したのだが、もう一度、兄弟関係は上下ではなく、環境と性格の話だ。

兄弟関係に苦労をしてない日本は、上下関係に鈍感だが、常に上下を意識している人々には、無頓着な一人っ子=日本の言動が「上から目線」「生意気」と解釈される。それが日本から見れば逆に、不可解な反応、言い分と見える。

中立は嫌われる
嫌韓と思われては、少々つらい。嫌韓とは感情論だからだ。これも始めから読んで頂いている方なら解って頂けると思うが、むしろ、嫌韓から売国奴と言われかねない、と心配しているぐらいだ。

占いの視点に好き嫌いはない。あるがままの状態を、公平に見たいと思っている。しかし、中立であることは、かえって、さまざまな「立場の感情」との距離が生まれる。感情論には意に沿うこと以外、聞いてもらえないので、気を配っているつもりなのだが・・・
まだまだ、未熟者だ。

なぜ占いの眼に好き嫌いはないのかと言えば、好むと好まざるとに関わらず、時は過ぎ、事象は積み重ねられていくものだからだ。
未来を予測するには、出来る限り、正確に過去を見なければならない。
好みや、願望で歴史を見れば、たちまち判断を誤る。
予測の判断ミスの反省から、そう信じるようになった。

一人っ子の生い立ち
ところで、一人っ子=日本はどのように生まれたのか。日本の成り立ちについては、さまざまな見解があるが、少なくとも、7世紀~19世紀は、ほぼ、独自の道を歩んだことに、異論はないだろう。
これが、今日の一人っ子的日本文化、日本人の気質を生んだと思われる。良くも悪くも島国根性やガラパゴス文化の醸成の時間となり、特に江戸の実質200年が、今日のいわゆる日本人の原型だろう。

国民気質のような地域文化は、意外と短時間で変わるようだ。
7世紀以前や、15、6世紀の日本人は、極めて大胆で、今の日本人が出遭ったら、ショックを受け、辟易するだろう。

しかし、思い描くには素晴らしいロマンの時代で、古事記・萬葉に憬れ、戦国武将に憧れ、美化することになる。武士道と言われるものも、むしろ、平和になった後の江戸時代に定義されている。

日本人の体格にしても、戦国時代には大きく、江戸時代には小さい。
日本人の血統については、大陸からの流入が相当あったことは争えないし、今も各地に渡来文化が色濃く息づいているが、ベースには、海洋民俗があり、ここが大陸との気質の違いであり、一人っ子の原点になったと考えられる。


悲憤慷慨

2011年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム

このところの、政治やマスコミなど、世の中の動きのバカらしさに、何も言う気がしなくなった。
言いたいことが多すぎる、とても文字では言い尽くせないほどの混乱だ。

占い師ごときがブログで何をボヤこうと、言うだけ無駄だ。

占い的には、あまりにも必然的な状況が、なすすべもなく、流れすぎていく。災害はどうにもならないとしても、日本の社会は、一人一人が目覚めれば、もっとどうにかなるのではと思うのだが・・・

やはりこれも「運命」と言うものなのだろう。占いの眼は傍観者だ。
今日も世界鉄道は、ひた走りに走っているようだ。

1929年の大恐慌の位置に木星が還ってくるまでまで、後2年。
天王星は既に定位置にいる。